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狩野内膳筆「南蛮屏風」周辺(その十一) [狩野内膳]

(その十一)「内膳南蛮屏風(神戸市立博物館蔵)」と「内膳・道三南蛮屏風(リスボン古美術館蔵)そして「山楽南蛮屏風(サントリー美術館蔵)」周辺

南蛮屏風(神戸・リスボン).jpg

A図(上)「狩野内膳筆(落款) :南蛮屏風」(神戸市立博物館蔵)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365028
B図(中) 「狩野内膳筆(落款):南蛮屏風」(リスボン古美術館蔵)
C図(下) 「狩野道味筆(伝):南蛮屏風」(リスボン古美術館蔵)
http://museudearteantiga.pt/collections/art-of-the-portuguese-discoveries/namban-folding-screensA

 A図(上)「狩野内膳筆(落款) :南蛮屏風」(神戸市立博物館蔵)は、これまで(その一~その十)見てきた「南蛮屏風」(六曲一双)である。
 そして、その下の、B図(中)とC図(下)とは、リスボン古美術館所蔵の「南蛮屏風」(何れも「六曲一双)である。このB図(中)には、「狩野内膳」の落款入りのもので、内膳筆(作)とされている(この内膳筆には異説があり、『狩野内膳考(成澤勝嗣稿)』では、「内膳筆」ではなく「内膳工房作」としている)。
 また、このC図(下)は、無落款の作品であるが、リスボン古美術館刊行の『南蛮屏風―リスボン古美術館作品へのいざない― BIMBOS NAMBAN(リスボン古美術館編) 』では、「狩野道三筆(伝)」としている。
 このA図(上)とB図(中)とは、左隻に「異国からの出航の景」、そして、右隻には「日本への来航の景」の、いわゆる、「南蛮屏風第二類型」(「出航+来航」)のもので、そして、このC図(下)は、左隻に「日本への来航の景」、右隻に「来航時の出迎えの景」の、「南蛮屏風第二類型(来航+出迎え)」の絵図ということになる。
 その他に、左隻に「異国(出航)の景」、右隻に「日本(来航)の景」の「南蛮屏風第三類型(異国+日本)」のものがある。

山楽・左隻.jpg 
山楽・右隻.jpg

D-1図(上)「狩野山楽筆(伝):南蛮屏風(左隻)」(サントリー美術館蔵)
D-2図(下)「狩野山楽筆(伝):南蛮屏風(右隻)」(サントリー美術館蔵)
https://www.suntory.co.jp/sma/collection/gallery/detail?id=524

【 大阪府下守口に伝世。昭和十一年(一九三六)高見沢氏によって狩野山楽系とされ、同二十五年土居次義氏により山楽作とされた。第三型に属する。左隻には欄干のある色タイルの露台に南蛮人の紳士たちが向かい合って座し、左の竜宮門風の脇にカピタンが座る。門の下異装の婦人たちや孔雀。楼上からものぞく。右に二人の中国宮廷人、さらに右には三人のフラシスコ会修道士、橋のところにイエズス会員、前景には調馬の情景。中国服の人物の存在から土居氏はマカオを想定されたが、中国的要素と南蛮的要素の判別は無意味に近いのではないかと考えられる。右隻の構成要素は第一型とほぼ同じであるが、構図はほとんど別もので、第一型からの展開と考えない根拠の一つとなっている。豚足のハムなども荷揚げする。とくに岩組には山楽の特徴がみられる。 】(『近世風俗図譜13 南蛮(小学館)』P96)

 ここで、これらの作者とされている「狩野内膳・狩野山楽・狩野道味」などについて、次の「狩野派(画系図)」(「ウィキペディア」)などにより見て行きたい。

「狩野派・略系図(正信から探幽まで)」(「ウィキペディア」)

狩野派系図(全).jpg

(上記図のメモ)

狩野正信(1434-1530)→狩野派初代、室町幕府の御用絵師、長男は元信。
同元信(1477?-1559)→狩野派二代、「古法眼」と称せられ、狩野派画風の大成者。
同祐雪(?-1545)→狩野派三代、元信の長男・祐雪宗信(早世で四代は元信三男の「松栄」)。
同松栄(1519-1592)→狩野派四代、元信の三男、門人に「内膳」「宗心」など。
↓→※狩野内膳(1570-1616)→「松栄」門人、「内膳・一翁」は号、名は重郷。
同永徳(1543-1590)→狩野派五代→「狩野派」を不動にした「探幽」と並ぶ二大絵師。
↓→※※狩野山楽(1559-1635)→「永徳」養子、「京狩野派」の初代、「豊臣家絵師」の雄。
同光信(1565-1608)→狩野派六代→『永徳様式』から次の『探幽様式』へ橋渡し役に徹する。
↓→※※※狩野道味(?-?)→「天正年間(1573-92)に千利休に茶事を学び,京都で茶器を焼いたキリシタン絵師の一人か?」

同貞信(1597-1623)→狩野派七代(二十七歳で夭逝、八代は「孝信三男の「安信」)。
同孝信(1571-1618)→光信の弟、息子=「探幽・尚信・安信=狩野派宗家八代」

同探幽(1602-1674)→鍛冶橋狩野家初代=江戸狩野派奥絵師、「江戸狩野派」の総帥。
同尚信(1607-1650)→木挽町狩野家初代=江戸狩野派奥絵師。
↓→狩野岑信(1662- 1709)→浜町狩野家初代=江戸狩野派奥絵師。
同安信(1613-1685)→中橋狩野家初代(狩野派宗家八代)=江戸狩野派奥絵師。

「狩野派・略系図」(日本大百科全書(ニッポニカ)・榊原悟稿)

狩野派略系図.jpg

 この二つの「狩野派・略系図」から浮き彫りになって来ることは、豊臣家から徳川家へ移行する慶長年間期には、「狩野派」は次の三つの流派に分かれて行く分岐点となっている。

狩野派宗家(初代・正信~六代・光信)→「御所・(豊臣家・徳川家)」の三方位の御用絵師
 ↓→(七代・貞信、八代・安信=中橋狩野家初代)→「徳川家御用絵師」=奥絵師」    
 ↓→※狩野内膳)→「松栄」門人→根岸御行之松狩野家=表絵師
 ↓→※※※狩野道味→「天正年間(1573-92)に千利休に茶事を学び,京都で茶器を焼いたキリシタン絵  
           師の一人か?」
江戸狩野派(探幽=鍛冶橋狩野家初代・探幽)→「徳川家」→「徳川家御用絵師」=奥絵師」
 ↓→(尚信=木挽町狩野家初代→「本家・孝信後継→「徳川家御用絵師」=奥絵師)
京狩野派(初代・山楽→「豊臣家」御用絵師、豊臣家滅亡後隠棲、後に「京狩野派」を形成)

 これらの狩野派の三つの流派に分岐される流れの中で、「狩野内膳」(1570-1616)は、「松栄・永徳」亡き後、その後継者の「光信」(1565-1608)の下で、独自の「内膳工房」などを形成し、「光信・貞信」の「狩野派宗家」を支援するような位置にある。
 また、「狩野山楽」((1559-1635))は、浅井長政(「淀・初・江」の父)の家臣・木村家の一族で、浅井家滅亡後、豊臣秀吉の小姓となり、その推挙で「永徳」門に入り、後に、永徳の養子となっている。秀吉没後は、「秀頼・淀」に仕えるべく、その工房を大阪に移しており、名実共に、豊臣家の御用絵師の筆頭格である。その豊臣家滅亡後は、一画工として恩赦を受け、狩野本家が江戸へ去った後も、京都にとどまり、「京狩野派」として幕末まで、その系統は引き継がれて行く。
 内膳も、豊臣家の御用絵師の一人であるが、それは、永徳の嫡子・光信一門の絵師という立場で、永徳の右腕としてその代役をこなしていた山楽とは、その立つ位置も画風も異なにしている。
 そして、もう一人の「狩野道味」(?-?)は、山楽や内膳に比して、狩野派に於いても全く無名に近い謎の絵師ということになる。この「狩野道味」も、『日本フランシスコ会史年
表』などに出てくる「狩野源助平渡路(ペドロ)」と同一人物かということで、そのベールが脱がされつつある(「キリシタン時代の絵師~狩野派とキリシタン~(神山道子稿)」『全国かくれキリシタン研究会第30回記念京都大会研究資料集』所収)。

狩野派系図.jpg

「日光東照宮陽明門唐油蒔絵の制作についての考察」(中右恵理子稿)

http://archives.tuad.ac.jp/wp-content/uploads/2020/08/tuad-iccp-R1bulletin-2.pdf

【 息子の狩野彌右衛門興益もキリシタンであり、父とともに三年間小日向の山屋敷に収容されていたという。さらにその後、神山道子氏によりキリシタンであった狩野興甫を取り巻く狩野派絵師についての研究成果が報告された(註11)。
神山氏によれば狩野興甫がキリシタンとして捕らえられた件は『南紀徳川史』、『徳川実記』に記載が見られるとのことである。興甫は父興以の兄弟弟子の一人である狩野道味(生没年不詳)の娘を娶っており、道味は義理の父にあたる。リスボンの国立古美術館には道味の作とされる南蛮屏風が所蔵されている。その道味に関して『日本フランシスコ会史年表』に狩野道味ペドロがフランシスコ会の財務担当者であったとの記載があり、やはりキリシタンであったことが報告されている。
また、もう一人の興以の兄弟弟子である渡辺了慶(?-1645)についても、了慶の息子の了之は興以の娘を娶りやはり姻戚関係であった。その了慶は晩年の寛永期に平戸藩の松浦家に抱えられた。平戸藩は南蛮貿易を積極的に行い、オランダ、イギリス商館を開設するなど西洋文化との関わりが深い。また了之以降は狩野姓を名乗り、孫の了海は出府して中橋
狩野家の安信の門人となった。5代目はやはり出府して永叔の門人となった(註12) 。
このように平戸藩のお抱え絵師となった了慶の家系と江戸の中橋狩野家には関わりがあった。そして陽明門の「唐油蒔絵」の下絵を描いたとされる狩野祐清英信(1717-1763)は狩野宗家である中橋狩野家の11代目である。
(註11) 神山道子 「キリシタン時代の絵師~狩野派とキリシタン~」『全国かくれキリシタン研究会 第30回記念 京都大会 研究資料集』 全国かくれキリシタン研究会京都大会実行委員会 2019年 pp.25-5
(註12)  武田恒夫 『狩野派絵画史』 吉川弘文館 1995年 pp.268-269   】

 この「狩野道味」が「狩野源助平渡路(ペドロ)」と同一人物ということになると、次のとおりとなる。

【狩野源助ペドロ  生年:生没年不詳
江戸前期のキリシタン、京都のフランシスコ会の財産管理人、狩野派絵師。イエズス会を讒言する書翰をマニラの3修道会の管区長に送付した中心人物で、のち司教セルケイラのもとでその讒言を撤回。慶長8年12月25日(1604年1月26日)付京坂キリシタンによる26殉教者(日本二十六聖人)列聖請願者の筆頭に「狩野源助平渡路」と署名。また教皇パウロ5世宛同18年8月15日(1613年9月29日)付京坂・堺の信徒書状には「へいとろかの」と署名する。元和6年12月10日(1621年1月2日)付の京坂信徒代表による教皇奉答文にみえる堺の「木屋道味平登路」は同一人物とみなされている。<参考文献>H.チースリク「ペトロ狩野事件の資料」(『キリシタン研究』14号) 】(「出典 朝日日本歴史人物事典(五野井隆史稿)」)

 そして、さらに、この「木屋道味平登路」は、織豊時代の陶工の一人の、次の「道味」と同一人物のように思われてくる。

【道味(どうみ) ?-? 織豊時代の陶工。
天正(てんしょう)年間(1573-92)に千利休に茶事をまなび、京都で茶器をやいた。 】
(出典「講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

 そして、この「道味」は、「堺千家」の「千道安」の門人のように解したいのである。

【千道安 没年:慶長12.2.17(1607.3.14) 生年:天文15(1546)
安土桃山・江戸初期の茶湯者。千利休の嫡子。堺生まれ。母は阿波三好氏か。初名は紹安。眠翁、可休斎と号した。才能に恵まれたが,家を継がず数寄者としての生涯を送った。利休賜死ののち、飛騨高山(金森氏)、豊前小倉(細川氏)、阿波徳島(蜂須賀氏)と流寓先が伝えられ、義弟少庵に比して厳しい状況があったと考えられる。文禄年間(1592~96)に帰京し、豊臣秀吉の茶頭に復帰、堺に住んで茶湯者として活動、古田織部の最初の師であり、門下の桑山左近の弟子に片桐石州がいる。慶長6(1601)年、細川忠興から豊前に知行地を与えられたとされる。道安囲と称される小座敷の工夫が知られ、道安風炉などその好みを伝える道具も多い。<参考文献>『堺市史』 】(「出典 朝日日本歴史人物事典(戸田勝久稿)」)

フラシスコザビエル像.jpg

重要文化財 聖フランシスコ・ザビエル像 神戸市立博物館蔵(池長孟コレクション)
「S.P.FRÃCISCUS XAVERIUS SOCIETATISV」 墨筆にて「瑳聞落怒青周呼山別論廖瑳可羅綿都 漁父環人」 朱文長方関防印「IHS」 朱文壺印(印文未詳) 
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365020

【 イエズス会の創立会員であり、アジアでの宣教活動、とりわけ日本に初めてキリスト教を伝えたことで知られる聖フランシスコ・ザビエル(1506〜1552)を描いた礼拝画。ザビエルはローマ教皇の特使として1542年にインドのゴアに到着、南アジア各地で宣教活動を展開した後、天文18年(1549)に鹿児島に到達しました。日本での宣教活動のあと、いったんインドのゴアに戻り、中国での宣教を目指して広東沖の上川島に至りますが、病を得て1552年の12月に亡くなりました。
 ザビエルによるアジアでの宣教活動がヨーロッパで広く知れ渡るようになるのは、16世紀末のオラツィオ・トルセリーノによる『ザビエル伝』ラテン語版刊行と、その欧州多言語翻訳によるもので、これらに掲載された銅版画の肖像画が、最初期のザビエル像の典型として流布しました。当館の「聖フランシスコ・ザビエル像」もその系列に連なるものです。
 トルセリーノ『ザビエル伝』は、インドのゴアで目撃されたあるエピソードを紹介しています。ザビエルは早朝に教会の庭で祈っている際に、瞑想の中で神の愛に触れて意識を完全に失いました。その後、彼が我に返ると、熱く腫れ上がった胸から上着を開いて、何度も次の言葉を、かなり強い口調で繰り返したとのことです。「充分です、主よ、充分です(Satis est Domine, Satis est.)」と。
 祈りの際に神の愛に触れて叫んだ「充分です、主よ、充分です」という言葉は、『ザビエル伝』の流布によって、ザビエルを象徴するフレーズとして定着しました。当館のザビエル像でも「充分です、主よ、充分です(SATIS EST DÑE SATIS EST (DÑEはDomineの略語)の言葉が見られます。
 当館のザビエル像では、「燃える心臓」と「十字架」という、『ザビエル伝』所載の肖像画には見られないモチーフが見られます。前者については、『ザビエル伝』が伝える、祈りの後に彼の胸が腫れ上がったという話、後者についてはイエズス会などカトリック信徒が重視した、祈りにおける十字架の観想を視覚化したものと考えられます。本像を描いた日本人絵師とその周辺にいた西洋人宣教師が独自に追加した表象だった可能性もあります。
 下部には「聖フランシスコ・ザビエル イエズス会会員」のラテン文を記し、その下の黄色地には「瑳聞落怒青周呼山別論廖瑳可羅綿都 漁父環人」という万葉仮名に「IHS」の朱印と壺印が捺されています。万葉仮名文の意味は「聖フランシスコ・ザビエルのサクラメント(秘跡)」。「漁父環人」についてはローマ教皇とする説もあります。
 フランシスコ・ザビエルは1622年に、教皇グレゴリウス15世によって聖人に列せられます。このときの『列聖大勅書』によって、既述の「充分です、主よ、充分です」をめぐる逸話は権威づけられ、1620年代の禁教下の日本においても、ザビエル像制作の機運が高まりました。本像もこのような中で密かに描かれ伝えられてきたものでしょう。
 本像は、高山右近の旧領、千提寺(せんだいじ・現茨木市)の東家に「マリア十五玄義図」などととも密かに伝来し、大正9年(1920)に発見されました。禁教で破却された数多くの聖画のうち、現代まで伝世した数少ない江戸初期の洋風画としてきわめて貴重です。】(「神戸市立博物館」解説)

 上記の解説文の、《「瑳聞落怒青周呼山別論廖瑳可羅綿都(さふらぬしすこさべろりうさからめんと) 漁父環人(ぎょふかんじん)」という万葉仮名に「「IHS」の朱印と壺印が捺されています。万葉仮名文の意味は「聖フランシスコ・ザビエルのサクラメント(秘跡)」。「漁父環人」についてはローマ教皇とする説もあります。》との、「漁夫環人」については、下記のアドレスで、次のように補足されている。

https://www.facebook.com/1553282581562002/posts/2878903612333219/

【 瑳聞落怒青周呼山別論廖瑳可羅綿都 漁父環人
  (さふらぬしすこさべろりうさからめんと ぎょふかんじん)
「瑳聞落怒青周呼山別論廖」については「聖フランシスコ・ザビエル」と推測されます。これに続く「さからめんと」は「サクラメント」を指すと思われます。サクラメント(秘跡)とは、神の恵みを人間に与えるためのカトリック教会の儀式全般を指します。そして末尾にある「漁父環人」の文字。その上に壺形の印章が押されていることから、信徒の狩野派絵師の別名とする説がありましたが、最近では「漁父」すなわち漁師出身の聖ペトロの継承者であるローマ教皇とする説が有力視されています。
1622年、ローマ教皇グレゴリウス15世によってフランシスコ・ザビエルは聖人に列せられました。これを記念して様々な「サクラメント」を挙行する指示が教皇の勅書として出されています。実際、元和9年(1623)以降にザビエル列聖の知らせは禁教下の日本にも届き、密かにザビエル像が描かれ礼拝されていた様子を伝える史料もあります。当館のザビエル像に「さからめんと」「漁父環人」という言葉が記された歴史的背景として、ザビエル列聖があったと考えられます。 】

 上記の解説文(「神戸市立博物館」)の「異説」を承知の上で、やはり、この「漁夫環人」は、「漁師出身の聖ペトロ」の「ペトロ)」の洗礼名を有する狩野派の絵師「狩野源助ペトロ=狩野道味」、そして、千利休に茶事をまなび、京都で茶器をやいたとされる「木屋道味平登路(ペドロ)」その人と解して置きたい。

 これらの、「聖フランシスコ・ザビエル像」(神戸市立博物館蔵)周辺については、下記のアドレスなどが参考となる。

http://saburo-kimura.my.coocan.jp/pdf/1998_10_kimura_kobe_xavier.pdf

「神戸市立博物館所蔵《聖フランシスコ・ザビエル像》についての一考察(木村三郎稿)」

(追記)「聖フランシスコ・ザビエル像」(神戸市立博物館蔵)の「壺形の印章」と「漁夫環人」周辺

上記の解説中の「壺形の印章が押されていることから、信徒の狩野派絵師の別名とする説がありました」の、その「壺形の印章」周辺については、下記のアドレスなどが参考となる。

https://lab.inf.shizuoka.ac.jp/takamatsu/honchogain.htm

「高松良幸研究室 静岡大学情報学部 情報社会学科」→「本朝画印」

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591624/49

「古画備考」(国立国会図書館デジタルコレクション・古画備考 50巻. [38]など)

 そして、「「漁夫環人」の「漁夫=ペドロ」は動かさないものとして、この「環人」の「環」は、上記の「千道安」(堺千家の祖)周辺の、下記のアドレスの「堺環濠都市遺跡」の、その「堺=環濠自治都市」の「環」と解して置きたい。

https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/isekishokai/kangotoshi.html

【 (自治都市 堺の年表)

1392 元中 9 大内義弘、和泉国の守護になる
1399 応永 6 応永の乱により一万戸焼失
1432 永享 4 一休宗純、初めて堺に来る
1469 文明 1 遣明船が初めて堺に帰着
1476 文明 8 遣明船が初めて堺から出発
1484 文明16 会合衆が初めて文献に現れる
1494 明応 3 南荘全域?焼失
1508 永正 5 南荘千余戸焼失
1526 大永 6 二千七百戸焼失
1532 享禄 5 一向一揆が三好元長を堺に攻め、元長、顕本寺で自刃
1532 天文 1 北荘全域、南荘三分の一、四千戸焼失
1546 天文15 三好長慶が堺へ入るが、撤退
1550 天文19 宣教師ザビエル堺に来る
1553 天文22 全域の三分の二程焼失
1553 天文22 前回の残りを焼失
1561 永禄 4 宣教師ビレラ、堺に来る
1564 永禄 7 千戸焼失
1568 永禄11 織田信長が二万貫の失銭(軍用金)を要求する
1570 元亀 1 信長の直轄領になる
1575 天正 3 大火事
1586 天正14 小西隆佐・石田三成が堺の代官になる
豊臣秀吉が環濠の埋め戻しを命令する
1591 天正19 千利休、秀吉の命令で自刃
1596 文禄 5 伏見の大地震で被災
1615 慶長20 大坂夏の陣の余波で二万戸焼失
この後、幕府直轄地になる            】

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