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狩野内膳筆「南蛮屏風」周辺(その十二) [狩野内膳]

(その十二)「狩野派南蛮屏風」と「内膳・道味南蛮屏風(リスボン古美術館蔵)」周辺

南蛮屏風(神戸・リスボン).jpg

A図(上)「狩野内膳筆(落款) :南蛮屏風」(神戸市立博物館蔵)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365028
B図(中) 「狩野内膳筆(落款):南蛮屏風」(リスボン古美術館蔵)
C図(下) 「狩野道味筆(伝):南蛮屏風」(リスボン古美術館蔵)
http://museudearteantiga.pt/collections/art-of-the-portuguese-discoveries/namban-folding-screensA

山楽・左隻.jpg

山楽・右隻.jpg

D-1図(上)「狩野山楽筆(伝):南蛮屏風(左隻)」(サントリー美術館蔵)
D-2図(下)「狩野山楽筆(伝):南蛮屏風(右隻)」(サントリー美術館蔵)
https://www.suntory.co.jp/sma/collection/gallery/detail?id=524

 これらの(A図~D図)については、前回(下記アドレス)で紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-22

孝信・左隻.jpg

孝信・右隻.jpg
E-1図(上)「狩野孝信筆:南蛮屏風(左隻)」(九州国立博物館蔵)
E-2図(下)「狩野孝信筆:南蛮屏風(右隻)」(九州国立博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/538661

【 新発見の南蛮屏風の優品。日本に到着した黒い南蛮船と、南蛮寺に向かうカピタン・モールの一行を描く右隻は、いわゆる南蛮屏風の定型的な表現をとっているが、左隻に白い唐船が入港する中国の港町を描くことはとても珍しく、本図の特徴の一つとなる。
その画面は、モチーフを細部まで丁寧に描き込みながら、かつ全体を調和させる描写力が見所。描いたのは狩野派正系の画家、おそらくは狩野孝信(1571〜1618)の手により慶長年間(1596〜1614)に制作されたと考えられる。 】(「文化遺産オンライン」)

この「孝信」(1571 -1618))は、通称右近、狩野永徳の次男で狩野光信の弟。息子は狩野探幽、狩野尚信、狩野安信。時代の転換期(慶長から元和の転換期)にあって狩野派を支えた第一の功労者ということになろう。

【 この時期は政権が豊臣家から徳川家に移ろうとする過渡期に当たっていた。孝信あるいはその周辺の人物は、狩野派の本拠地で朝廷のある京都は孝信自身があたり、大阪の豊臣氏には豊臣と縁故の深い門人の狩野山楽や狩野内膳を配置、更に宗家の貞信と自身の長男探幽を江戸幕府へ売り込むという三方面作戦をとり、権力がどこに移っても狩野派が生き残れるよう万全を期した。】(「ウィキペディア」)

 下記のアドレスの「綴(TSUZURI)文化財未来継承プロジェクト(Canon Gloval)」で、この作品の細部を見ることが出来る。

https://global.canon/ja/tsuzuri/works/55.html

孝信・左隻.jpg

F-1図(上)「狩野孝信?光信?筆(伝):南蛮屏風(左隻)」(大阪城天守閣美術館蔵)

孝信・右隻.jpg

F-2図(下)「狩野孝信?光信?筆(伝):南蛮屏風(右隻)」(大阪城天守閣美術館蔵)
重要文化財
https://www.osakacastle.net/wordpress/wp-content/uploads/2019/05/70c578779e153e82a6311eef5d4d3c55.pdf

【 日本では、外国との交流が活発化した 16 世紀から 17 世紀にかけ、高まる西洋への関心を背景に「南蛮屏風」とよばれる絵画作品が、主に狩野派の絵師たちによって各種製作された。これらのほとんどは、交易のためアジア各国にやってきたヨーロッパ人、主にポルトガル人の上陸をテーマにしている。本作品はいくつかの系統のうちの一つを代表するもので、狩野孝信が描いたとする説が有力である。
右側の屏風すなわち右隻は日本の港を想定したもので、カピタンとよばれた船長一行が
様々な品物を携えて上陸し、イエズス会宣教師の出迎えを受けている。また民家から日本人
の親子が珍しげにそれを眺めている様子も描かれている。左隻も同じく南蛮人の上陸を描
いているが、こちらは人々の身なりなどから、中国の港を想定したものと考えられる。】
(「大阪城天守閣美術館」)

【 右隻に日本の港町を、左隻には中国の港町を配し、それぞれに入港した黒い南蛮船を描く。南蛮屏風というジャンルは中世の唐船図を参照して成立したと指摘されているが、日中の情景を表す本図の構成は、九州国立博物館本(註・上記の「E-1・E-2図」)とともに、この主題の成立と展開を考えるうえで大きな意義をもつ。本図には、交易品の運搬や商店の店先などで貿易に関する情景に加えて、黒と灰色の衣服をまとう聖職者やロザリオをもつ日本人、屋根に十字架をかかげる南蛮寺など、キリスト教の要素も見出せる。作者は不明だが、端正な人物表現やしなやかな樹木と金雲の描写は、狩野光信(1565?-1608)の様式に近い。本図は、狩野派の名手による南蛮屏風の最も古い現存作品のひとつとして重要である。なお左隻第五扇の二人の西洋人の衣装にはグラデーションをつけた表現があり珍しい。これは狩野派の絵師が、セミナリヨの画家が学んだ陰影法を試みた名残なのかもしれない。(鷲頭桂「作品解説62」)  】(『大航海時代の日本美術(九州国立博物館2017)』)

 この「F-1・F-2図」に関して、「大阪城天守閣美術館」の作品解説では「狩野孝信」(有力説?)、そして、「九州国立博物館」のそれは「狩野光信」(「作者不明」+「狩野光信」説?)と、その見方は異なっているようでもあるが、前者の「狩野派の絵師たちによって各種製作され、(中略)本作品はいくつかの系統のうちの一つを代表するもの=孝信説?」、そして、後者の「キリスト教の要素も見出せる、(中略)端正な人物表現やしなやかな樹木と金雲の描写は、狩野光信様式、(中略)左隻第五扇の二人の西洋人の衣装にはグラデーションをつけた表現、(中略)これは狩野派の絵師が、セミナリヨの画家が学んだ陰影法を試みた名残=光信?→内膳・道味(セミナリヨ?)?」の指摘は、一つの「南蛮屏風」の新たなる鑑賞視点を指標しているようにも思われる。

宮内庁・左隻.jpg

G-1図(上)「狩野派(筆者不明=内膳工房):南蛮屏風(左隻)」→「南蛮人渡来図屏風(左隻)」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)

宮内庁・右隻(部分).jpg
G-2図(下-1)「狩野派(筆者不明=内膳工房?):南蛮屏風(右隻第四・五・六扇)」→「南蛮人渡来図屏風(右隻第四・五・六扇)」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)

宮内庁・右隻(一・二).jpg
G-3図(下-2)「狩野派(筆者不明=内膳工房?):南蛮屏風(右隻第一・二扇)」→「南蛮人渡来図屏風(右隻第一・二扇)」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)

(『大航海時代の日本美術(九州国立博物館2017)』所収「106南蛮人渡来図屏風」 )

【 右隻には鮮やかな朱色の門に向かって行列する商人たちと、敷地内の南蛮寺(教会堂)で長衣をまとった男性たちが礼拝する様子が見える。左隻には、投錨した南蛮船から大小さまざまなかたちの陶磁器や漆器をおろす人々が描かれる。人物は比較的大ぶりで、とくに南蛮人の容貌が、狩野派による韃靼人や仙人、中国古代の説話の人物の姿形が類似する点が注目される。従来、異界の人間を表わすために用いられた表現が、新しく登場した南蛮人を描くのに転用されたと推測される。また左隻の船上では、中国から輸入されたと思しき生絲を秤にかけて商談する南蛮人と日本人とがおり、数ある南蛮風景のなかでも珍しいモチーフとなっている。(鷲頭桂「作品解説106」) 】(『大航海時代の日本美術(九州国立博物館2017)』)

 上記の、この「南蛮屏風」(「南蛮人渡来図屏風」)の「作品解説106(鷲頭桂稿)」には、
「徳川家康が寄進したいわれをもつ南蛮屏風」との見出しがついている。この「南蛮屏風」について、『近世風俗図譜13 南蛮(小学館)』P26-p35)の細部の解説について特記事項(※)を付しながら抜書きをしていくと、次のとおりとなる。

【 (全体=右隻+左隻→P26)

「もと徳川家康の開基になる静岡県浄土宗来迎院に伝えられ、明治になって御物になる。」

※来迎院=知恩院末(寺)。慶長一四年(一六〇九)徳川家康を開基、廓山(かくざん)を開
山として創建。廓山はたびたび駿府城へ行き信任厚い家康に仏教や世間のことなどを伝えた。

http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%9D%A5%E8%BF%8E%E9%99%A2

「南蛮屏風のなかではもっとも図柄を大きめに描いて、人物群の動きを重んじて構図に厚みをつくる。人物は頭が小さめで、柔らかく粘りのあるデッサンによって描かれた南蛮人は、時に戯画的でグロテスクな身振りと表情を示し、高根沢氏の説の通りに、心理的な屈折を感じさせるところも魅力となっている。

(左隻=G-1図(上)→P30)

「南蛮船の甲板上に秤台が置かれ、生絲を皿秤に載せて早くも取引きが始められた。ポルトガル人がもたらす商貨の大半は生絲と絹織物であったが、金もそれに次いで重要な輸入品であった。彼らはこれを日本銀に替え、マカオに持ち帰って、二重の巨利を博した。」

(右隻=G-2図(下-1)→P32)

「カピタン・モールの地位は、国家功労者に対する恩賞として賦与されたから、たった一度の日本渡航によって五万クルザートを得るという人物さえ現れた。これは天正黄金に換算して約一一六〇枚分、この地位に、余生の安逸を願う人々の羨望が集中した所以である。」

(右隻=G-3図(下-2)→P32)

「万人に祝福を垂れる救世主イエズス・キリストの画像。その周りに集うやや戯画的な風貌の宣教師。祭壇には仏教的色彩の強い香炉や水差しが置いてあるが、聖体の礼拝に用いられる顕示台は正しく描いてある。ただこれには右三つ巴紋を加えているのは珍妙だ。

※礼拝堂の祭壇に飾られている「救世主イエズス・キリスト」の画像は、下記のアドレスの《「内膳屏風(左隻)」の「南蛮寺(デウス教会)の祭壇の天主画像(十字架と球体を持ったキリスト像)」と「内膳屏風(右隻)」の「南蛮寺(被昇天聖母の教会)の祭壇の天主画像(水色のベールを被っているキリスト像)」》に比して、これまた、「やや戯画的な風貌」で描かれているのは、この南蛮屏風の作者、そして、その制作時期・注文主などに関連して、大事な鑑賞視点となってくる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-07

※さらに、その祭壇の「救世主イエズス・キリストの像」を取り巻いている「宣教師(司祭・修道士など)」の風貌(風采=身なり・容貌=顔かたち)の多様な表現もまた、これまた、この「南蛮屏風の作者、そして、その制作時期・注文主など」に関連して、やはり、大事な鑑賞視点となってくるであろう。その一例を挙げれば、この「黒い衣服」をまとった司祭などは「イエズス会」、そして、「鼠色の衣服」をまとった司祭などは「フランシスコ会」、そして、さらに、「ドミニコ会」とかと、そんな鑑賞視点の拡がりが湧いてくる。

※それよりも、この「聖体の礼拝に用いられる顕示台は正しく描いてある。ただこれには右三つ巴紋を加えているのは珍妙だ」の、この「顕示台に加えられている三つ巴紋」は何を意味するのかは不明だが、この「三つ巴紋」周辺は、下記のアドレスなどでしばしば触れてきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-12-08

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-12-30

《 (再掲)

結城巴.jpg

「結城巴(「松平忠直」家紋)
https://kisetsumimiyori.com/hideyasu/

 このアドレスの「結城秀康の家紋と生涯―徳川家康の息子は父と不仲だった!?―」は、下記の項目にわたり「結城秀康・松平忠直」そして「戦国大名の家紋」を知る上で参考となる。

1 「秀康」の文字は秀吉と家康からもらった名前
1.1 秀吉に人質として送られた秀康
1.2 秀吉に実子が生まれて急変する立場
2 関ケ原では父・家康側に就く秀康
2.1 父・家康には嫌われていた?
3 結城秀康の家紋は「右三つ巴」
4 戦国武将117名の家紋一覧をまとめてチェックしよう

 「越前(北庄・福井)松平家」の「結城秀康(初代)・松平忠直(二代)」の家紋は、この「右三つ巴」が「定紋」(正式の紋。表紋)で、「松平忠直(二代)」は、この他に、徳川家の一族のみが使用できる「丸に三つ葉葵」を使用していた可能性についても、下記のアドレスで紹介されている(「松平忠昌(三代)以降は「「丸に三つ葉葵」、この「右三つ巴」は、結城秀康の五男、忠直の弟の「松平直基」が継承することになる)。

https://kisetsumimiyori.com/tadanao/        》

 もとより、この「南蛮屏風」の、この「顕示台」の、この「三つ巴紋」が、「徳川家康→結城秀康(家康二男)→松平忠直(秀康嫡男)」に直接関わりがあるというのは、やや飛躍し過ぎのきらいもあるが、これが、徳川家康の所持品の一つであったということは特記して置く必要があろう。
 と同時に、この作品が、「豊国祭礼図」や「南蛮屏風」の筆者の「狩野内膳」(元亀元年(1570)- 元和2年(1616))、そして、その工房(「内膳工房」)に関係するという見方も、これまた独断的なきらいはあるが、そういうことを踏まえて、この「三つ巴紋」などに接すると、その「内膳工房」に、後に、福井藩主・松平忠直に招聘されて福井藩に移住することになる「岩佐又兵衛」 (天正6年(1578)- 慶安3年(1650))が、その工房の一員という仮説のもとに、下記のアドレスなどで、縷々見てきたことと、オーバーラップしてくるのは、これまた、どうにも避け難い。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-19

《 (再掲)

荒木村重略年譜    https://www.touken-world.jp/tips/65407/
※高山右近略年譜   https://www.touken-world.jp/tips/65545/
※※黒田如水略年譜  https://www.touken-world.jp/tips/63241/
※※※結城秀康略年譜 https://www.touken-world.jp/tips/65778/
〇松平忠直略年譜   
https://meitou.info/index.php/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E7%9B%B4
〇〇岩佐又兵衛略年譜
https://plaza.rakuten.co.jp/rvt55/diary/200906150000/
△千利休略年譜
https://www.youce.co.jp/personal/Japan/arts/rikyu-sen.html     》

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-10-31              】

南蛮屏風・左隻・神奈川.jpg

H-1図(上)「筆者不明=狩野派?」:南蛮屏風(左隻)」(神奈川県立歴史博物館蔵)
https://ch.kanagawa-museum.jp/exhibition/3692

南蛮屏風・右隻・神奈川.jpg

H-2図(下)「筆者不明=狩野派?」:南蛮屏風(右隻)」(神奈川県立歴史博物館蔵)
『VA ORIENTARIS 「ポルトガルと南蛮文化展」図録』(編集:セゾン美術館・静岡県立美術館、発行:日本放送協会・NHKプロモーション))

【 滋賀の大津、東本願寺別院に伝わったという伝承(寺伝によれば徳川家康より東本願寺第十二代教如上人が拝領)を持つ本図は、MOA美術館、不リア美術館(ワシントン)、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館(ロンドン)蔵本と同系の作品である。すなわち南蛮船の日本入津図と南蛮寺(教会)へ向かうカピタンの行列図を六曲一双に描いたものであるが、同系の他の屏風と違い、本図は右隻、左隻が丁度逆になる構図となっている。また同系の作品には外国人のポンバーシャ(足首で括る広いズボン)が大きく膨らみ、彼らの顔では大きな目や鼻が誇張されるなど独特の特色がある。また同系の屏風には荷揚げの場所に立ち会っている神父のが描かれ、そのことは日本とポルトガルの南蛮貿易に深く関わっていたイェズス会を想起させて、興味深い。
 南蛮屏風は同工異曲といわれるコピーも多いが、各屏風でそれぞれ違った箇所も工夫され、本図では南蛮寺(教会)の中で西洋人と日本人が囲碁、南蛮船では双六に興じている姿が描かれるなど、当時の交流の模様のほほえましい一コマが描かれている。また教会には祭壇画として聖画が描かれており、光輪があるその像の前で手を合わせる僧の姿も見える。同系の作品の中では後期に属すると考えられる。 】(『VA ORIENTARIS 「ポルトガルと南蛮文化展」図録』所収「作品解説158(Y.O)」)

 この「南蛮屏風」も、伝承ではあるが、徳川家康が所持していて、それを、東本願寺第十二代教如(東本願寺創立の上人、千利休七哲・古田織部に門下の茶人)が拝領したものということは、後に、豊臣秀吉の「禁教令」(1587・天正15 秀吉、伴天連追放令発布)以上の、徳川家康の「禁教令」(1614・慶長19 家康、全国に禁教令)を徹底した、晩年の、徳川家康の、その徹底した「禁教令」(キリシタン弾圧)前の、「慶長期(1596・慶長1~1614・慶長19)から元和期(1615・元和1~)」までの、その十年間に燦然と輝いた、謂わば、華麗な「徒花(あだはな=咲いても実を結ばずに散る花)」のような存在だったという思いを深くする。
 ここで、下記に、《「キリシタン略年表(抜粋)・周辺年譜(※)」と「狩野内膳・岩佐又兵衛(周辺=※※)」》を掲載して置きたい。
 また、この「南蛮屏風の変遷」(「豊臣秀吉の禁教令~徳川家康の禁教令」下の「南蛮屏風の変遷」)については、下記のアドレスの論稿などが参考となる。

https://www.waseda.jp/flas/rilas/assets/uploads/2020/10/350-352-NARUSAWA.pdf

「南蛮屏風の変遷:成澤勝嗣稿」


(別記)「キリシタン略年表(抜粋)・周辺年譜(※)」と「狩野内膳・岩佐又兵衛(周辺=※※)」=未定稿
http://www.kyoto.catholic.jp/christan/data/nenpyob.html

(~織田信長時代)

1549・天文18 フランシスコ・ザビエルら鹿児島に到着。
1559・永禄2  ヴィレラ京都に定住し、宣教を開始。
1563・永禄6 宣教師ルイス・フロイス来日。
1565・永禄8 フロイス入洛、天皇より宣教師追放令が出され、フロイスら堺に避難。
1569・永禄12 フロイス、信長から保護状を得る。
1576・天正4 京都で被昇天の聖母教会(南蛮寺)の献堂式。
1579・天正7 巡察師ヴァリニァーノ来日。
1580・天正8 有馬・安土にセミナリオ創立。
1582・天正10 天正少年遣欧使節、出発。本能寺の変、織田信長没。
※天正11年(1583)にはイタリア人宣教師で画家であったジョバンニ・ニコラオ(1560-1626)が来日し、天正18年(1590)頃から長崎のセミナリオで西洋絵画の技法を教えた。日本人が描いたと考えられるマリア像やキリスト像などの聖画は、このような施設で制作されたものと考えられる。当時絵画は布教のための重要な手段であった。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-22

(豊臣秀吉時代)

1587・天正15 秀吉、伴天連追放令発布。高山右近明石藩改易(追放)。
1588・天正16 京都・大坂の南蛮寺破却。
1590・天正18 天正の少年遣欧使節帰国。豊臣秀吉天下統一。
1591・天正19 ヴァリニァーノ、少年遣欧使節とともに秀吉に謁見。
1593・文禄2 ペドロ・バウティスタ、名護屋で秀吉に謁見。
※文禄元年(1592) 狩野内膳、狩野光信らと共に肥後国名護屋城の障壁画制作に参加、
翌年にはそのまま長崎に赴いている。この時の視覚体験が、「南蛮屏風」の細やかな風俗描
写に生かされているか?(この時に、狩野道味も参加か? 道味は長崎のセミナリオ
で西洋絵画の技法を学んだか?)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E5%86%85%E8%86%B3
1594・文禄3 フランシスコ会士、京都四条堀川旧妙満寺跡地に南蛮寺(教会)、また翌年に
は聖アンナ病院、聖ヨゼフ病院を建設。
1596・慶長1 サン・フェリッペ号事件。秀吉、フランシスコ会宣教師ら捕縛。
1597・慶長2 長崎西坂で26名が殉教(日本26聖人)
1598・慶長3 豊臣秀吉没

(徳川家康時代~)

1600・慶長5 油小路通元誓願寺の地にイエズス会上京教会建立、関ヶ原の戦い。
1601・慶長6 邦人初の司祭、セバスチャン木村とルイス・ニアバラ叙階。
※※1602・慶長7 教如、東本願寺を別立。南蛮屏風(神奈川博物館本)家康→教如?
1603・慶長8 徳川家康征夷大将軍。
※※1604・慶長9 秀吉七回忌。狩野内膳→豊国祭礼図屏風? 岩佐又兵衛→豊国祭礼図屏
風?
1605・慶長10 徳川秀忠征夷大将軍。
※※1606・慶長11 狩野内膳→豊国祭礼図屏風を豊国社へ奉納((梵舜日記)。「内膳・南蛮
屏風」も、この頃の作か?
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-13
※※1608・慶長13 狩野光信没(享年44または48)。
※※1609・慶長14 南蛮屏風(宮内庁本)家康→駿府来迎院に寄進?
1612・慶長17 岡本大八事件、家康、キリシタン禁教令を天領に発布、各地の教会を破壊。
1613・慶長18 伊達政宗の遣欧使節、支倉常長ら出発。
1614・慶長19 全国に禁教令、宣教師および高山右近らマカオに追放。
※※慶長19年(1614)、狩野光信嫡男・貞信、名古屋城障壁画制作に参加。若年ながら狩野家嫡流という血統の高さゆえ、本丸御殿表書院上段之間という最も格式の高い部屋を担当したとする説が有力。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E8%B2%9E%E4%BF%A1
1615・元和1 大阪夏の陣、豊臣氏滅亡。※岩佐又兵衛→洛中洛外図屏風?
1616・元和2 秀忠、禁教を強化、徳川家康没。※※狩野内膳没。
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