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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その四 [南蛮美術]

「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その四
(その四)「泰西王侯騎馬図屏風」周辺

泰西王侯騎馬図屏風・神戸.jpg

「泰西王侯騎馬図(左隻)」(神戸市立博物館蔵)重要文化財・紙本金地著色・166.2×460.4・4曲1隻
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365024

泰西王侯図屏風・サントリー美術館(全).jpg

「泰西王侯騎馬図(右隻)」(サントリー美術館蔵)重要文化財・紙本金地著色・(各)縦167.9 横237.0・4曲1隻
https://www.suntory.co.jp/sma/collection/gallery/detail?id=611

【 福島・会津若松の鶴ヶ城(若松城)に伝来した屏風。池長孟が購入後、現状の4曲の屏風に仕立て、金具なども新調しています。対をなす騎馬図屏風は東京・サントリー美術館に所蔵されています。本図は、画面左から神聖ローマ皇帝ルドルフ2世、トルコ皇帝、モスクワ大公、タタール王を表しており、ヨーロッパに攻め込んだアジア諸王とこれに抗うヨーロッパの帝王が対峙(たいじ)する構図になっています。騎馬像の原図は、アムステルダム刊行の1606~07年のウィレム・J・ブラウ世界地図を、1609年にカエリウスが改訂した大型の壁掛け世界地図(現存しない)の上部装飾と推測されています。地図の長崎到着時期を考慮し、早くて1611年以降、1614年の大追放までの制作が想定されています。立体感をだす陰影や遠近表現は西洋画的ですが、朱地に押された金箔、下書きに見られる墨線、彩色の顔料などは日本画の技法を用いています。
来歴:会津藩主松平家伝来。前原一誠→1932池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館 】

【 初期洋風画の名品。会津若松城(鶴ヶ城)に伝わり、神戸市立博物館所蔵の屛風と一対であった。描かれているのは右よりペルシア王、アビシニア王(エチオピア王)、フランス王アンリ四世とされる。左端の人物については、イギリス王、あるいはギース大公フランソワ・ド・ロラン、カール五世など、諸説ある。アムステルダムで刊行された世界地図などを参考にしているが、拡大して彩色を施し、大画面へと仕上げた画力は見事である。(『サントリー美術館プレミアム・セレクション 新たなる美を求めて』サントリー美術館、2018年)】

【(躍動する異国の王、南蛮美術の白眉)
 会津若松城(鶴ヶ城)に伝来した一双の屏風が、現在は神戸市立博物館とサントリー美術館に分蔵されている。標準的な屏風よりもひとまわり大きい画面に、西洋絵画から習得した陰影法、短縮法と遠近法を駆使して、堂々たる馬上王侯を描き上げた画家の力量に驚かされる。神戸市博本は左から神聖ローマ皇帝ルドルフ2世(1576-1612)、トルコ皇帝、モスクワ大公、タタール汗が、二人ずつペアになって白刃を交えるようなダイナミックな構成で描き出される。それに対して、サントリー本は、イギリス王(?)、フランス王アンリ4世(1553-1610)、アビシニア王(エチオピア王)、ペルシア王が勇猛な馬を鎮めて悠然と構える姿で表わされる。これらの騎馬像は、当時、印刷業の中心地であったアムステルダム(オランダ)やアントウェルペン(ベルギー)で十七世紀初頭に刊行された世界地図や『古代ローマ皇帝図集』の図像を手本にする。イエズス会のセミナリヨで西洋絵画の訓練を受けた日本人画家たちが、輸入銅版画をもとに描き上げた初期洋風画の白眉である。(鷲頭桂稿)】
(『大航海時代の日本美術 Japanese art in the age of discoveries(九州国立博物館編)』)

 これらの「泰西王侯騎馬図(神戸市立博物館蔵・サントリー美術館蔵)」は、次の「二十八都市萬国絵図屏風(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)」などを手本にしている。

二十八都市屏風.jpg

「二十八都市萬国絵図屏風(「二十八都市図屏風)」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)八曲一双 紙本着色 各隻178.6×486.3

万国図屏風.jpg

「二十八都市萬国絵図屏風(「萬国絵図屏風」)」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)八曲一双 紙本着色 各隻178.6×486.3
https://www.kunaicho.go.jp/culture/sannomaru/syuzou-10b.html

【 右隻には,上部にペルシア王ら8人の王侯騎馬図,その下にポルトガル国とローマなどの28都市図を描き,左隻には中央4扇に世界地図,その左右に計42の諸国人物図が描かれている。南蛮貿易やイエズス会宣教師の渡来によってもたらされたと考えられる西洋の地図などをもとに制作された初期洋風画で,他の同種の作品に比べても,その描写は優れている。近年の修理の際,右隻から現状画面とは異なる下絵4図が確認された。この図様は「古代ローマ皇帝図集」の4皇帝図と考えられる。】(「三の丸尚蔵館・収蔵作品詳細/二十八都市萬国絵図屏風」)

【(二十八都市万国絵図)
紙本著色、八曲一双屏風。縦178.6cm、横486.3cmと通常の屏風絵に比べてやや大きい。17世紀初期、イエズス会宣教師の布教活動や南蛮貿易で渡来したP・カエリウスの世界地図(1609年版)を元に日本で制作されたと推定される。近年の修復で、通常の屏風絵では用いられないが、初期洋風画ではしばしば使われる竹紙が用いられていること、更に絵の具は日本画でも用いられる顔料であるが、膠着剤として膠と油を混ぜてエマルションとして使用していることが判明した。
 本作品は明治維新の時、駿府の徳川家から皇室に献上されたと伝えられる。また、明治天皇が好み、傍に置いたとも言われる。
(右隻)
 上部に左からローマ皇帝、オスマン帝国のスルタン、イスパニア国王、フランス国王、モスクワ大公、タタル大汗、アビシニア王、ペルシャのシャーの8種の王侯騎馬図、その下にはポルトガルの都市やローマなどの28都市を描く。近年の修復で、現状と異なる下絵4図が発見された。これは「古代ローマ皇帝図集」の四皇帝図(右からオトー帝、カリグラ帝、ウィテリウス帝、ウェスパシアヌス帝)を下図としたものと考えられる。
(左隻)
 中央六曲に世界地図、左右に42ヶ国の人物図が描かれる。】(「ウィキペディア」)

【(家康御覧の「南蛮世界図屏風」をしのばせる大作)
 都市図と世界地図を片隻ずつに描いた屏風である。その構想や図様のおおもとは、オランダ・アムステルダムで印刷業を営んだカエリウスが、地図製作者ウィレム・プラフの世界地図を改訂した1609年版の大型壁掛け世界地図(現存せず)だったと考えられている。
 ≪二十八都市図≫は、カエリウス版上部にある8人の王侯騎馬図と、ローマを除く27の都市図が写されている。一方、≪万国絵図≫には、世界地図と42地域の人物図が描かれる。地図中の日本列島周辺はカエリウス版にさらに改良が加えられ、江戸、京都、大阪、駿府に都市のマークがされている。近年の修理で、≪二十八都市図≫の下絵に『古代ローマ皇帝図集』を手本にした騎馬像4図のスケッチが発見された。(鷲頭桂稿) 】
(『大航海時代の日本美術 Japanese art in the age of discoveries(九州国立博物館編)』)

(別記)「会津・南蛮扉風」の謎(駒井義昭稿)

file:///C:/Users/User/Downloads/asiabunka39_1-06.pdf

(抜粋)

3.襖絵の発注者と画中人物

 井手洋一郎はその発注者を「会津藩主キリシタン大名蒲生氏郷の子,秀行に帰し,イエズス会が秀行に改宗を促すために,アンリ四世の意義(王はプロテスタントからカトリックに改宗し,宗教戦争を終結に導いた)としてその紋章を描き入れた」との A.H.ブラム女史の解釈を紹介している。(『南蛮風俗.195 頁』)

「会津・南蛮扉風」関係年表

1384 (元中 1)年:藍名直盛,黒川(会津若松)に築城。その後,蓮名氏全盛時代を迎える。
1576 (天正 4)年:京都に南蛮寺完成 (86年に破却)。キリシタン絵が描かれ始める。
1579 (天正 7)年:オルガンテイノ,安土に教会堂を建立。
1582 (天正 10) 年:天正遣欧使節団 (~90年)。織田信長死す。
1583 (天正11)年:イタリア人画僧ジョヴァンニ・ニコラオ (1560~ 1626) が西洋画指導の
ため来日(後にマカオで死亡)。この頃,国内のキリシタン信徒が十数万人で,「五万枚の
聖画」が必要(ルイス・フロイス)とされた。
1587 (天正15)年:豊臣秀吉,パテレン追放令を出す。
1589 (天正17)年:麗名氏を打ち破った伊達政宗が米沢より黒川に入城。
1590 (天正18)年:伊達政宗,米沢城へ移る。秀吉,黒川城に入り奥州仕置きを命ずる。蒲生氏郷,伊勢から黒川に入城 (42万石)し若松と改称。これに伴いキリシタン信徒も流入。この頃,有馬領内(肥前)八良尾の神学校で西洋画の指導が行われたとの記録あり,志岐・長崎でも絵画指導が行われる。
1593 (文禄 2)年:氏郷 (95年死亡),城を大改築し, 7層の天守閣を完成。この頃から京・
畿内で南蛮趣味が大流行し,十数年続く。
1596 (慶長 1)年:長崎で26聖人殉教。
1598 (慶長 3)年:蒲生秀行,宇都宮に移り,上杉影勝が若松に入城。 120万石となる。
1600 (慶長 5) 年:関ヶ原の戦い。
1601 (慶長 6)年:蒲生秀行,再び若松に入城。この頃,キリシタン信徒30万人以上。
1605 (慶長10) 年:ニコラオ,長崎の画学舎長となる。
1608 (慶長13) 年:洋風絵師・信方(落款画を残す),このころ活躍。その他,レオナルド木
村,ヤコブ丹羽(後にマカオに逃避=中国名・悦一誠),山田右衛門作(? ~1655) ,山田藤七,野沢久右,生島三郎左,ルイス・シズオカ,ペドロ・ジョアン,オータ・マンシオ,ジョアン・マンシオなどの絵師の名が伝えられる。
1609 (慶長14)年:ブラウ「世界地図J(改訂版)刊行される(会津南蛮扉風の人物借用園)。
1612 (慶長17) 年:直轄領(幕領)にキリシタン禁止令。
1613 (慶長 1)年:この頃,フランシスコ会のソテーロが東北地方に布教を始める。慶長遣欧
使節団 (~20年)。
1614 (慶長19) 年:高山右近,内藤如安,ニコラオらキリシタン148名をマニラ,マカオに追放。
1622 (慶長 8) 年:キリシタン55名,長崎で処刑。
1627 (寛永 4) 年:加藤嘉明,若松に入城。
1637(寛永14) 年:島原の乱 (~38年)。
1639 (寛永16) 年:ポルトガル船の来航禁止。これ以後,西洋画の技法が途絶える。 (1576年にキリシタン絵が描かれ始めてから63年目にその技法が断絶する)
1643 (寛永20)年:保科正之 (1611~72) ,出羽山形より若松に入城, 23万石を領す。以後,幕末まで保科氏の代となるが,後に松平姓を名乗る。
18臼(慶応 4)年:会津戦争で白虎隊が奮戦。 9月22日に会津藩,薩長箪に降伏。降伏式出席者は薩長軍:軍監・中村半次郎(桐野利秋),寧曹・山県小太郎,使番・唯九十九。(前原一誠は不在)。会津藩:藩主・松平容保,喜徳(養子),家老・梶原平馬,軍事奉行添役・秋月悌次郎ら12名。
1874 (明治 7) 年:若松城,解体される。

 はじめに,我が国で最初に行われた西洋画の指導について述べておきたい。イエズス会の1592年の報告書に有馬領内八良尾の神学校で行われていた西洋画の指導に関する次のような記事が見られる。

 「学生のうちには,それぞれの嗜好にしたがって(正規の修学以外の)他のことも練習しております。例えば,絵画を習い,印刷もしは画像の版画を彫ることを修める者のごときであります。彼らの技は非常に有用でございます。というのは,彼らは立派な,かつ巧妙な腕をもっていて,とても容易にそれを修得するのをみますと,ただただ驚嘆するだけでございます。もし(イエズス会総長)貌下がこれら初心の少年たちの作ったものをご覧になりますならば,お悦びなさることでありましょう「(岡本良知『南蛮美術』平凡社,128頁)。
 
 さらに1593年の報告書には次のような記述がある。「この八良尾の神学校の学生の数人が,絵を描き,金属版を彫っているのは,教会のため大いに役立ちます。彼らのうち八人が水彩の,他(の八人)は油彩の画像に,五人は銅版画に修練を積んで、いますが,そのどれにもとても進歩しまして,わたくしたちを大いに驚嘆させております。といいますのは,日本人の公子たちがローマから持って来たいくつかの最もよくできた画像を,彼らのうちに彩色でも陰影でもそれに近似することで完全にちかく,原画さながらに写す者がおるからでございます。 後になって,その関係の神父(パードレ)や修士(イルマン)たちの間にも,そのどれが彼らの作ったものか,どれがローマでできたものかを識別できない人が多く,行き過ぎだと思われるほどですが,日本人の作品をローマから来たものと主張する人さえいました。(省略)」(前掲書129頁)。 

 この画学舎には1593年の時点で水彩画学生 8人,油彩画学生 8人,銅版画学生 5人がいたことが確認される。これらの画学生たちが1609頃『会津・南蛮扉風Jを描いたとすれば,その修行期間は少なくとも 17年(あるいはそれ以上)もあり,西洋画の基本はほぼマスターしているはずであり,さらに第二世代の絵師の養成もなされていた可能性もある。『会津・南蛮扉風」には不思議なことにほとんど大和絵の匂いがないのは,この学舎で初めて絵の手ほどきを受けた者たちが描いたからであろう。西洋画の技法をマスターした彼らのうちの数人が都に上り,キリシタン関係者(大名や豪商を含む)たちの注文に応じてさまざまな絵を描いたということも充分考えられる。現存する有名なフランシスコ・サピエル像の聖画もそのような絵の一枚に過ぎなかったのではなかろうか。

 前掲の年表から推測すれば『会津・南蛮扉風絵」の製作時期は,蒲生秀行の会津若松域入城の1601年から画僧ニコラオがマカオに追放される1614年までとするのが大ざっぱな見方になるが,描かれた人物像の手本となったブラウ『世界地図Jの刊行が1609年であることを考えると,その時期はさらに短く, 1609~14年の間ということになる。

 織田信長の南蛮文化愛好と宣教師の保護により,都や畿内ではポルトガル人たちの伝えた華やかな風俗が庶民の中でも人気を博し,流行し,ある種のファッションと化し,大名や豪商たちが狩野派の絵師たち(宗秀・内膳・山楽)に競って南蛮扉風を描かせた。南蛮船や宣教師が描かれていようとも,それらは華やかな南蛮風俗にすぎず,キリシタン信仰とはほとんど縁のないものと見なされた。大名たちにとっては,南蛮文化の品々をもつことが一種のステータスとなり,豪商たちは描かれた南蛮船を富を運んでくる宝船(一般に画面の左側から入港)と見なした。おそらくキリシタン大名を父にもつ蒲生秀行もその例外ではなかったろう。父がキリシタン大名であることから,彼はイエズス会の宣教師や画工房とも親しい関係があったと推測されるし, 1601年の若松城入城を機に「南蛮扉風Jを注文したとも考えられる。

 さらに推測を重ねれば,ブラウ『世界地図』の刊行された1609年から画僧ニコラオの追放の1614年までの聞に, A.H.フラム女史の解釈どおり,有力な宣教師の指示でカトリック思想を込めたあの二種類の扉風絵,戦闘図と肖像図が描かれたものと考えられる。しかし絵の発注者としての蒲生秀行は,画中に込められたキリスト教思想に想いを馳せることなく,勇壮かつ優雅な武人像,王者としての威厳と権威を象徴する武人像として鑑賞したであろう。また,あの西洋画のほぼ完壁なまでの描写はニコラオの指導なくしては描けなかったであろう。ニコラオ自身の描いた絵は現存しないが,彼はみずから描くよりも,もっぱら絵学生たちがキリシタン信者用に描く小聖画の模写・複製・改変の技術指導に専念していたと考えられる。この作業が結果的に,後年の『会津・南蛮扉風Jをはじめとする大作の修行になったものと考えられるのである。年表の1608年の箇所に信方(落款を残した絵師)ほかイエズス会の画工房で西洋画を学んだ絵師たちの名を列挙しておいたが,おそらくこれらの絵師たちの何人かを含んだ共同作業によって、 2種類の『会津・南蛮騨風』が完成したものと考えられる。描かれた場所はニコラオのいた長崎とみるのが妥当であろう。
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