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日本画と西洋画との邂逅(その一) [日本画と西洋画]

(その一)水墨画(雪舟・白隠)と洋風画(信方?・司馬江漢など)の達磨図

雪舟筆「慧可断臂図」.jpg

雪舟筆「慧可断臂図」。畳1畳ほどの大きさで、見る者を圧倒する。雪舟晩年の明応5年(1496)作。室町時代、愛知・齊年寺蔵 → A図
https://serai.jp/hobby/109385

白隠慧鶴筆「慧可断臂図」.jpg

白隠慧鶴筆「慧可断臂図」。今回の調査で白隠の真筆と断定された。江戸時代、大分・見星寺蔵 B図
https://serai.jp/hobby/109385

【慧可断臂図(えかだんぴず) → A図
 雪舟筆 紙本墨画淡彩 199.9×113.6 室町時代(1496) 愛知 斎年寺 国宝
禅宗の初祖・達磨が少林寺において面壁座禅中、慧可という僧が彼に参禅を請うたが許されず、自ら左腕を切り落として決意のほどを示したところ、ようやく入門を許されたという有名な禅機の一場面である。リアルにあらわされた面貌と一点を凝視する鋭いまなざし、そして動きの少ない構図が画面全体に息苦しいまでの緊張感を生み出している。77歳の老禅僧雪舟のたどりついた境地がここにあらわれているとみるべきであろうか。
 なお本図は、幅裏の墨書から、雪舟没後まもない天文元年(1532)、尾張国知多郡宮山城主・佐治為貞によって斎年寺に寄進されたことが知られる。 】(京都国立博物館)
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/suibokuga/item06.html

≪雪舟(せっしゅう、応永27年(1420年)[2] - 文亀2年(1502年)または永正3年(1506年)8月8日(諸説あり)[2])は、日本の室町時代に活躍した水墨画家・禅僧(画僧)。「雪舟」は号で、諱は「等楊(とうよう)」と称した。
 備中国に生まれ、京都相国寺で修行した後、大内氏の庇護を受け周防国に移る。その後、遣明船に同乗して中国(明)に渡り、李在より中国の画法を学んだ。
 現存する作品の大部分は中国風の水墨山水画であるが、肖像画の作例もあり、花鳥画もよくしたと伝える。宋・元の古典や明代の浙派の画風を吸収しつつ、各地を旅して写生に努め、中国画の直模から脱した日本独自の水墨画風を確立した点での功績が大きい。後の日本画壇へ与えた影響は大きい。
 作品のうち『天橋立図』『秋冬山水画』『四季山水図巻』『破墨山水図』『慧可断臂図』『山水図』の6点が国宝に指定されており、日本の絵画史において別格の高評価を受けているといえる。この他に『花鳥図屏風』など「伝雪舟筆」とされる作品は多く、真筆であるか否か、専門家の間でも意見の分かれる作品も多い。弟子に周徳、等悦、秋月、宗淵、等春らがいる。≫(「ウィキペディア」)

【慧可断臂図(えかだんぴず) → B図
 白隠慧鶴「慧可断臂図」一幅 紙本墨画 江戸時代(18世紀)112.0×49.0㎝ 大分・見星寺蔵
「慧可断臂図」は禅にとって重要な画題。少林寺で坐禅を続ける達磨大師のもとを訪ねた神光(しんこう)は、弟子入りを何度も願い出るも返答はなし。大師がその難しさを説くと、みずからの左腕を切り落として捧たげ神光の心に応えた大師は弟子入りを許し、神光は後に慧可と名をかえ達磨大師の二祖を継ぐ。白隠は達磨大師を円の中に描くことでその崇高さを象徴的に表現し、歯を食いしばって左腕を差し出す神光の姿がリアルだ。 】(和樂web編集部)
https://intojapanwaraku.com/art/1081/

≪白隠慧鶴(はくいん えかく、1686年1月19日(貞享2年12月25日) - 1769年1月18日(明和5年12月11日))は、臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧。諡は神機独妙禅師、正宗国師。≫(「ウィキペディア」)

白隠慧鶴「半身達磨図」.jpg

白隠慧鶴「半身達磨図」1幅 紙本着色 192.0×112.0㎝ 萬壽寺蔵 → C図
https://intojapanwaraku.com/art/1081/

【白隠慧鶴筆「半身達磨図」 → C図
インドから中国へ禅を伝えた達磨も繰り返し描かれてきました。江戸時代に臨済宗を復興した白隠慧鶴が描いた「達磨像」、通称「朱達磨」は縦2メートルもある大きな絵。ぎょろりと睨みを効かせる目、赤い袈裟と黒く塗り込められた背景のコントラストが目に飛び込んできます。明治学院大学教授の山下裕二さんは次のように説明します。
「 頭のてっぺんの輪郭線の下に、薄いあたりの線が何本もあります。これは、下書きの線なんですね。つまり、下書きの線から大きくずれているのです。これだけずれるのだったら下書きの意味がないじゃないかと言いたくなりますが、白隠の絵は、力がこもればこもるほど、下書きの線からずれてしまいます。そういう白隠の身振りが見えてくるところが、好きですね。
 背景には達磨図に賛をするときの定番“直指人心見性成仏(じきしにんしんけんしょうじょうぶつ)”と書かれています。これは、禅の教えの根幹をなす文言です。どういう意味かごく簡単に言えば、“まっすぐに自分の心を見つめ、自分の心の中に既にある仏の心に目覚めなさい”ということになります。」

雪舟筆「慧可断臂図」 → A図
 雪舟が77歳の時に描いた大作「慧可断臂図(えかだんぴず)」。岩に向かって坐禅をする達磨に、慧可(えか)という僧が弟子入りを懇願しましたが、なかなか許可が下りません。そこで、慧可は自らの腕を切り落として、熱意を達磨に示しました。図版ではわかりませんが、慧可の腕の付け根には、血を表すためにうっすらと朱がさしてあります。
「達磨の衣を表すマジックインキで引いたような太い輪郭線は、背中のところで息切れして、墨を注いでいます。落款(サイン)の最後も、へろへろの情けない字になっています。77歳で畳、一畳分もある巨大な絵を描いたら、こうもなりますよね。雪舟の人間ぽいところが見えてきます。そして、この絵はマンガっぽいところがあって、吹き出しを付けてみると面白いです。慧可は『腕まで切ったんですけれども、入門させてくれませんかね~』と、達磨が『そんなことされてもね~』と言っているようにも見えてきます」(山下さん)】(和樂web編集部)

達磨図」(養竹院蔵).jpg

紙本着色達磨図 信方印(養竹院蔵)→ D図
https://www.town.kawajima.saitama.jp/1358.htm

【近世初期洋風画家の信方作とみなされる達磨図です。信方については詳しい経歴等は不明ですが、キリスト教絵画の影響を受けた洋風画を残しているほか、達磨図も数点描いています。
 従来の達磨像に、瞳孔の白点や全体に施された陰影など洋画の画風を取り入れ、しかも違和感なく描かれています。左下隅やや上に、欧風紋章のような落款があります。】(「川島町生涯学習課 生涯学習グループ」)

【「達磨図」(養竹院蔵) 紙本着色 60×28㎝
 達磨が朱衣中に、信方(方は四角の朱文)という画家が用いた朱文方印の鷲と獅子を彫り出した洋風の印が捺されているが、信方(四角印内の「方」) の墨書はない。本図は、74図(「天理大学蔵・達磨図」)とほぽ共通した容貌や技法を示している。また、信方(四角印内の「方」)なる画家の制作時期は、少なくとも慶長末年までは下るらしい。とすれば、73(南蛮文化館蔵・達磨図)-74図の比較も勘案して、本図の制作時期は、早くとも慶長末年頃であろう。 】(『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』所収「出品目録解説75」)

達磨図(南蛮文化館蔵・天理大学蔵).jpg

左図:「達磨図(南蛮文化館蔵) 紙本油彩 32.4×28.4㎝ → E図
(『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』所収「出品目録解説73」) 
右図:「達磨図(天理大学付属天理図書館蔵) 紙本油彩 89.7×29.5㎝ → F図
(『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』所収「出品目録解説74」)

E図の「達磨図(南蛮文化館蔵)の、画面右上に「壱休」の朱方印と左上端に判読不詳の半円状朱印が捺されている。
 F図の「達磨図(天理大学付属天理図書館蔵)の、画面右端のなかほどに「羅と四角に叟」の朱文方印と判読不明の白文長方印が捺印されている。
 これらの「洋風画法による達磨図」関連については、下記のアドレスの「洋風画法による達磨図について(三輪英夫稿)」が基本的な論考となる・

https://tobunken.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=6469&item_no=1&page_id=13&block_id=21

司馬江漢・達磨図.jpg

「達磨図(神戸市立美術館蔵)」 司馬江漢筆? 紙本油彩 42.9×48.1㎝ → G図
(『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』所収「出品目録解説83」)

【 画面右端中間の上方よりに、S.a Kookanのサインがある。本図は司馬江漢(1747-1818)の作品とすれば、江漢が洋風画へ転向した天明中期以降の制作となる。しかし、署名や作風の点から、これは江漢の作品ではなく、それ以前の作例であるとする説もある。 】(『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』所収「出品目録解説83」)

《 信方(のぶかた、生没年未詳)は、安土桃山時代から江戸時代頃に活躍した初期洋風画の画家。
 16世紀ヨーロッパのマニエリスムの影響を受けたテンペラ画を描く。同時代の文献中に名前が見られず経歴の詳細は未詳である。慶長年間(1596年-1615年)頃を中心に活躍し、「獅子と鷲」の印章と「信方(または、信水、信芳)」の落款の作品が残る。日蓮宗の僧日教の像等仏教を主題をした絵も描いていることから、キリスト教の洗礼を受けセミナリオ等で洋画を学びながら、後に棄教した人物であると考える研究者もいる。 》(「ウィキペディア」)

《 司馬 江漢(しば こうかん、延享4年(1747年) - 文政元年10月21日(1818年11月19日)は、江戸時代の絵師、蘭学者。青年時代は浮世絵師の鈴木春信門下で鈴木春重(すずき はるしげ)を名乗り、中国(清)より伝わった南蘋派の写生画法や西洋絵画も学んで作品として発表し、日本で初めて腐蝕銅版画を制作した。さらに版画を生かした刊行物で、世界地図や地動説など西洋の自然科学を紹介した。本名は安藤吉次郎、安藤峻。俗称は勝三郎、後に孫太夫。字は君嶽、君岡、司馬氏を称した。また、春波楼(しゅんぱろう)、桃言、無言道人、西洋道人と号す。
(業績=洋画)  
日本における洋風画の開拓者としては、秋田蘭画の小田野直武とともに重要な画家。直武の作品が、遠近法、明暗法などの西洋画法をとりいれつつ、画材は伝統的な絵具と墨とを使用していたのに対し、江漢は荏胡麻の油を使用した油彩画を描いたことで特筆される。江漢は、西洋画法と油彩の技法を駆使して富士などの日本的な風景を描き、それを各地の社寺に奉納することによって、洋風画の普及に貢献した。現存の代表作の『相州鎌倉七里浜図』」は元々、江戸の芝・愛宕山に奉納したもの。社寺の壁などに掲げられる絵馬は傷みやすいものだが、この図は早い時期に社殿から取り外して保存されていたため、保存状態がよい。蝋油を使った蝋画の工夫などもしている。
 日本最初の銅版画(エッチング)家でもあり、天明3年(1783年)の『三囲景図(みめぐりけいず)』にて、その制作に成功した。桃言、無言道人、西洋道人と号す。》(「ウィキペディア」)

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