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日本画と西洋画との邂逅(その二) [日本画と西洋画]

(その二)水墨画(墨渓・祥啓・等伯)と洋風画(信方?・司馬江漢など)の達磨図

達磨図 墨渓筆.jpg

「達磨図(京都・真珠庵蔵)」墨渓筆 紙本墨画 148.5×58.0㎝ 重文 → H図
https://j-art.hix05.com/14.1.muromachi/muro13.darma.html

達磨図 祥啓筆.jpg

「達磨図(京都・南禅寺蔵)」祥啓筆 紙本墨画 93.5×46.0㎝ 重文 → I図
https://j-art.hix05.com/14.1.muromachi/muro13.darma.html

【 (達磨像:室町時代の水墨画)
 達磨は禅宗の開祖であるから、禅僧たちによってその像が描かれてきた。達磨像のポーズにはいろいろのものがあるが、もっとも多いのは、上の絵のような半身像であり、大きな目をぎょろりと向いている姿である。この絵は、こうした構図の達磨像の最も初期のもの。作者は墨渓である。
(上図:墨渓筆) → H図
 墨渓は高名な僧一休の弟子で、この絵にも一休の賛がある。それに寛正六年(1465)の年紀が記されている。墨渓はまた、周文から水墨画を学んだらしい。兵部という通称のほか、桃林安栄とも号した。→ 
 この絵は、刷毛筆を用いた減筆体で髭を描く一方、衣の輪郭は一筆でざくっと描くなど、禅の雰囲気を感じさせるものがある。
(下図:祥啓筆) → I図
 これは、祥啓作の達磨像。祥啓は十五世紀末から十六世紀初めにかけて活躍した禅僧で、鎌倉建長寺の書記役などをつとめた。絵は芸阿弥について学んだ。
 この達磨像は、墨渓の達磨像と比べると、表情に禅的な厳しさがうすれて、その分近づきやすい雰囲気を感じさせる。署名に貧楽斎とあるのは、かれの号である。 】(「日本の美 術」)

達磨図(等伯筆).jpg

「紙本墨画達磨図」長谷川信春(等伯)筆 一幅 桃山時代 龍門寺蔵 七尾市小島町リ-15 → J図
https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/kaiga/k-18.html
【 やや右斜め向きの達磨の上半身像を画面に大きく配し、法衣の輪郭は太い裂け筆で大胆に描いて、達磨の烈しい個性にふさわしい堂々とした作品である。画面右下部に、長谷川等伯の信春時代の作品にみられる、
 袋形朱文「信春」印が認められるが信春時代の仏画を描いた綿密な筆法とは全く異なった本格的な水墨画である。この作品から、信春時代にすでに、それまでの密なる作風を基本としながらも、表現を簡略した粗なる作風への進展があったことがわかる。頭部の輪郭や、眼・鼻・口は明確に描き、髪や髭などの毛描きを細筆を用いて克明に描いているところなどに、これまでの密なる作風が見られ、それが衣の裂け筆の粗なる筆法と良く調和している。
 この裂け筆による烈しい線描は、後年の等伯時代に多く用いられた描法であり、信春と等伯を結びつける様式上の根拠の1つを示している。このように満ち溢れる迫力と強烈な筆致があらわれていることから推して、信春が京都へ出た後に制作されたとみるべきであろう。】(昭和60年「石川の文化財」より)

 これらの「達磨図」(H図=墨渓筆、I図=祥啓筆、 J図=信春(等伯)筆)は、「被衣(かずき)=頭から被った布」無しの、「耳輪」(天竺=インド出身に由来する「耳輪」?)をしている「達磨図」(「「右向き」と「左向き」)である。
 J図=信春(等伯)筆は、I図=祥啓筆よりも、H図=墨渓筆を、下敷にしてのものであろう。

≪墨渓(ぼっけい) 没年:文明5(1473) 生年:生年不詳
 室町中期の禅僧,画家。曾我派の始祖とされる。横川景三の『補庵京華続集』によれば名は安栄,字は桃林という。諱は采誉,酔墨斎と号し,通称は兵部。希世霊彦の『村庵小稿』には周文に師事し,周文の肖像画を描いたとある。大徳寺と関係が深く,一休宗純のもとに参禅した。自賛「一休和尚像」(1452,少林寺蔵),「一休和尚像」(1453,梅沢記念館蔵),一休賛「達磨像」(真珠庵蔵)などの作品がある。一休の肖像画中もっとも著名な東京国立博物館本は,従来墨渓より後年の墨斎の筆といわれてきたが,近年墨渓説が唱えられている。<参考文献>『日本美術絵画全集』3巻 (山下裕二) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版    ≫

≪祥啓(しょうけい) 生没年不詳
 室町後期の画僧。鎌倉建長寺の書記を勤め,啓書記と通称される。別号貧楽斎。相模(神奈川県)出身とする説が有力だが,下野(栃木県)宇都宮の画家丸良氏の子とする後世の史料(『本朝画史』)もある。文明10(1478)年に画事の修業のため京都に上り,同朋の芸阿弥に師事。その間,室町幕府所蔵の中国絵画の名品に直接ふれて研鑽を積んだ。芸阿弥の唯一の現存作品「観瀑図」(根津美術館蔵)は,横川景三の賛文によれば文明13年祥啓の帰郷の際に,はなむけとして芸阿弥から贈られたものである。また,明応2(1493)年にも上洛したことが景徐周麟 の『翰林葫蘆集』によって確認される。作品はかなりの数が残っており,山水,人物,花鳥とそのレパートリーも幅広い。代表作「山水図」(根津美術館蔵)は,師芸阿弥の作風を忠実に反映したものだが,その後,「瀟湘八景図帖」(白鶴美術館蔵)にみられるような,より平明で淡泊な画風に移行した。また「巣雪斎図」(静嘉堂文庫美術館蔵)のような,古い形式の書斎図の作品も数点伝わる。「馬図」(根津美術館蔵),「花鳥図」(神奈川県立博物館蔵)は,おそらく第一級の中国絵画を模写した着色画であるが,その技量はきわめて高度である。東国に中央の最新の様式を伝え,室町後期の関東画壇に圧倒的な影響力を持った。弟子と推測される画家に啓孫,啓牧,啓拙斎らがいる。<参考文献>『日本美術絵画全集』6巻,東京都庭園美術館『室町美術と戦国画壇』 (山下裕二) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版   ≫

≪長谷川等伯(信春)没年:慶長15.2.24(1610.3.19) 生年:天文8(1539)
 桃山時代の画家。長谷川派の祖。能登(石川県)七尾城主畠山氏の家臣奥村文之丞宗道の子。のち染物業を営む長谷川宗清(道浄)の養子になったと伝えられる。画は,雪舟門弟の等春に師事したという宗清から学んだらしい。養家が日蓮宗の熱心な信徒であったため,又四郎信春と名乗った七尾時代は,「涅槃図」(妙成寺蔵),「十二天図」(正覚寺蔵),「日蓮上人像」(大法寺蔵)など,おもに日蓮宗関係の仏画や肖像画を制作。元亀2(1571)年養父母の他界を機に,菩提寺(本延寺)の本寺に当たる本法寺を頼って上洛。翌年には同寺8世の「日尭上人像」(本法寺蔵)を描いたが,その落款により信春を等伯の子久蔵とみなしてきた江戸時代の画伝類の誤りが正された(土居次義著『長谷川等伯・信春同人説』)。
 上洛後,等伯の号を用いる50歳ごろまでの動向には不明な点が多いが,千利休や本法寺10世日通を介して,堺の数奇者達と交わって数多くの宋元名画に触れ,また大徳寺の春屋宗園と親交を結んで同寺の牧谿筆「観音猿鶴図」や真珠庵の曾我蛇足の障壁画などを細見する機会を得た。旧大徳寺三玄院「山水図襖絵」(円徳院,楽美術館現蔵),「枯木猿猴図屏風」(竜泉院蔵),「竹林猿猴図屏風」(相国寺蔵)などは,そうした中国や日本の古画の観照体験を経て生まれた作品で,「松林図屏風」(東京国立博物館蔵)はわが国水墨画の最高傑作と評される。文禄2(1593)年ごろ,一門の弟子を率いて行った祥雲寺(豊臣秀吉建立)の障壁画(智積院現蔵)制作では,信春時代から手がけていた着色画に,当時流行の金地極彩色の手法や大画面構図方式を採り入れて,狩野派以上に生新で躍動的な金碧装飾画を作った。
 聚落第(1587)に揮毫したという記録もあり,長谷川派はこのころには狩野派に拮抗する画派に成長していた。同派の障壁画は妙蓮寺,禅林寺など法華寺院にも多く残っている。慶長4(1599)年本法寺寄進の「涅槃図」(現存)以降,「自雪舟五代」を落款に冠して雪舟正系を標榜,雲谷等顔と雪舟の正系を争ったとも伝えられる。9年法橋,翌年法眼叙任,15年徳川家康に召されて江戸に赴いたが,道中病を得,到着後まもなく没した。
 等伯の談を日通が綴った『等伯画説』は,等伯の絵画観を示す資料として貴重である。<参考文献>土居次義『長谷川等伯』,山根有三「等伯研究序説」(『美術史』1号),源豊宗考註『等伯画説』 (川本桂子) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版  ≫

達磨図」(養竹院蔵).jpg

「達磨図」(養竹院蔵・信方筆?)→ 紙本着色 60×28㎝ → D図
https://www.town.kawajima.saitama.jp/1358.htm

達磨図(南蛮文化館蔵・天理大学蔵).jpg
 
左図:「達磨図(南蛮文化館蔵)       紙本油彩 32.4×28.4㎝ → E図
右図:「達磨図(天理大学付属天理図書館蔵) 紙本油彩 89.7×29.5㎝ → F図

 これらの「洋風画」スタイルの「達磨図」(D図・E図・F図)は、「墨渓=H図、等伯(信春=J図)を基調にしたものであろう。

司馬江漢・達磨図.jpg

「達磨図」(神戸市立美術館蔵・司馬江漢筆?) 紙本油彩 42.9×48.1㎝ → G図

 この「司馬江漢筆」ともいわれている「達磨図」(G図)は、次の「達磨図」(満福寺蔵・山田右衛門作?)(H図)と「朱色の被衣の達磨図」とは雰囲気は同じなのだが、大きな福耳に「耳輪」をしているところが、大きく異なっている。

達磨図・満福寺.jpg

「達磨図」(満福寺蔵・山田右衛門作筆?) 紙本着色 57.2×66.5㎝ → H図
【 被衣(かずき)を着し、横向の偉容で、三輪英夫氏によると第三型に属する。この第三型の特徴は、達磨の横顔を、かなり誇張して表現していることである。戯画的でさえあるといえるのかもしれない。その典型的な作品が本図である。 】(『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』所収「出品目録解説77」)

 ここで、「洋画法による達磨図について(三輪英夫稿)」(「異国人としての達磨の顔貌に独特な誇張表現 - COREhttps://core.ac.uk › download › pdf」)に、※印を付して「耳輪」の「有無」を表記して置きたい。

達磨図一覧図.png

第一型(被衣を着せず、正面向。※「耳輪」あり) → 「達磨図(南蛮文化館蔵)」(E図)

第二型(被衣せず、正面向。朱衣中に両手を組む。※「耳輪」あり」→「達磨図(天理大学付属天理図書館蔵)」(F図)→「達磨図(養竹院蔵・信方筆?)」(D図)

第三型(被衣を着し、横向。※「耳輪」なし)→「達磨図(満福寺蔵・山田右衛門作筆?)」(H図)

第四型(被衣を着し、正面向。※「耳輪」あり)→「達磨図(神戸市立美術館蔵・司馬江漢筆?)」(G図)

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