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日本画と西洋画との邂逅(その三) [日本画と西洋画]

(その三)水墨画(若冲など)と洋風画(信方?・司馬江漢など)の達磨図

若冲・達磨図.jpg

「達磨図(伊藤若冲筆・MIHO MUSEUM蔵)  絹本着色 一幅 → K図
https://www.miho.jp/booth/html/artcon/00008826.htm
【 藪にらみ風の大きな三白眼、瞼の両端から垂れ下がる眉、キノコのような鼻、M形の口ひげ、ウェーブがかった髪。とにかく一度見たら忘れられない顔である。薄墨の背景を塗り残した中に人物が描かれ、衣紋の墨線は鮮やかな朱色を塗った後に引かれる。目と耳には裏彩色が施され、青や黄色の混ざった白目が異様な雰囲気を放つ。若冲の達磨図は曽我蕭白の描いたそれを意識し、蕭白は白隠の達磨図から影響を受けたことが指摘されているが、本図は達磨の異形性を誇張し、迫力とともに滑稽味を含んでいる。詳しくは、本書・辻論文を参照されたい。
 署名はなく、「藤女鈞印」(白文方印)、「若冲居士」(朱文方印)を捺す。】

http://event.kyoto-np.co.jp/feature/1531096638.0024/1531197649.2179.html?page=7
【~赤と青のひ・み・つ 聖なる色のミステリー~特集vol.1 修復後初公開の伊藤若冲筆『達磨図』
 吸い込まれそうな赤い衣のこの方は“達磨大師”です。9年間も壁の前に座り続けて悟りを開いたお坊さまで、幸運のだるまさんのモデルです。
今回の修理によって、達磨大師の衣には、裏彩色という技法でかなりの量の赤色顔料が塗られているということが分かりました。
 誰の目にも印象的な、強烈な赤色の衣です。絹地の裏からも色を塗る「裏彩色技法」は平安時代や鎌倉時代の仏画に多用された技法ですが、若冲の最高傑作とされる「動植綵絵」でも多用されていることが知られています。
 禅宗の深い信仰者でもあった若冲が、禅宗の祖である達磨大師の像を描いた時の思いを彷彿とする、この赤い僧衣は必見です。 】

≪伊藤若冲(いとう じゃくちゅう、1716年3月1日(正徳6年2月8日) - 1800年10月27日(寛政12年9月10日))は、江戸時代の画家。名は汝鈞(じょきん)、字は景和(けいわ)。初めは春教(しゅんきょう)と号したという記事があるが、その使用例は見出されていない。斗米庵(とべいあん)、米斗翁(べいとおう)、心遠館(しんえんかん)、錦街居士とも号す。≫(「ウィキペディア」)

 ここで、初期洋風画の「信方」(慶長年間(1596年-1615年)頃に作画活動)と「山田右衛門」(天正3年(1575)? - 明暦3年(1657)寛永14年(1637)の「島原・天草の乱」の唯一の生存者、その前後の作画活動)を、「江戸時代初期」(1600年代)の画家とすると、上記の「奇想派の日本画の大家・伊藤若冲」(1716-1800)は、「江戸時代中期」(1700年代)の画家ということになる。そして、後期洋風画の「司馬江漢」(1747 - 1818年)は、その若冲に続く「江戸時代後期」(1800年代)の画家ということになる。
 そして、この「伊藤若冲」(1716-1800)と「「司馬江漢」(1747 - 1818年)とは、同時代に生きた、若冲の次の世代の絵師ということになる。
そして、その経歴を見ると、「司馬江漢」は、「宝暦11年(1761年)15歳の時父の死を切っ掛けに、表絵師の駿河台狩野派の狩野美信(洞春)に学ぶ。しかし次第に狩野派の画法に飽きたらなくなり、19歳の頃に紫石と交流のあった鈴木春信にも学んで浮世絵師となり、錦絵の版下を描いた。明和半ばの25歳頃、おそらく平賀源内の紹介で西洋画法にも通じた宋紫石の門に入る(源内が書い『「物類品隲』の中で宋紫石のヨーロッパ的リアリズムにいたく感嘆する)。ここで南蘋派の画法を吸収し漢画家となった(当時、写実的な漢画の表現は流行の先端を行くものだった)。」(「ウィキペディア」)と、「狩野派→浮世絵師→南蘋派画法を吸収した漢画家→平賀源内の紹介で西洋画法の洋風画家」と多面的な世界を垣間見せる画家で、若冲の「南蘋派画法を吸収した漢画家」としての技法(「裏彩色という技法でかなりの量の赤色顔料が塗られている」)に対する、「平賀源内の紹介で西洋画法の洋風画家」としての技法を加味しての作品として、司馬江漢の「達磨図(G図)」(神戸市立美術館蔵・司馬江漢筆?)を鑑賞したい。 

達磨図」(養竹院蔵).jpg

「達磨図」(養竹院蔵・信方筆?)→ 紙本着色 60×28㎝ → D図
https://www.town.kawajima.saitama.jp/1358.htm

達磨図・満福寺.jpg

「達磨図」(満福寺蔵・山田右衛門作筆?) 紙本着色 57.2×66.5㎝ → H図

 この「信方筆?」「山田右衛門作筆?」とも伝承されている「達磨図」(D図・H図)は、初期(第一期)洋風画に属するもので、次の後期(第二期)洋風画に位置する「司馬江漢筆?」ともいわれている「達磨図」(G図)とは、時代史的には時限を異にするが、これは、紛れもなく、「信方筆?」(D図)「山田右衛門作筆?」(H図)の「西洋画法」の手法を継承してのものということになろう。

司馬江漢・達磨図.jpg

「達磨図」(神戸市立美術館蔵・司馬江漢筆?) 紙本油彩 42.9×48.1㎝ → G図

 上記の「信方筆?」(D図)「山田右衛門作筆?」(H図)は「紙本着色」で、「司馬江漢筆?」(G図)は「紙本油彩」であるが、両者とも「日本在来の絵の具」(「岩絵の具」が主)を使って、それを「水彩」(水で絵の具を溶ぐ)で彩色するか、「油彩」(油で絵の具を溶ぐ、司馬江漢は「荏胡麻の油を使用した油彩画を描いている=「ウィキペディア」)で彩色するかの違いであろう。
 そして、共に、「西洋画法」(「遠近法=遠景と近景のコントラストを強調する」と「明暗法=明暗のコントラストを強調する」が「日本画法(その基本にある「水墨画」)」との主たる相違点)を駆使しての作品ということになる。
 それらのことを前提として、冒頭の「若冲筆」(K図)と、これらの「信方筆?」(D図)「山田右衛門作筆?」(H図)そして「司馬江漢筆?」(G図)とを、比較鑑賞して行くと、
 この「若冲筆」(K図)は、「絹本着色」で、「紙」ではなく「絹地」に、しかも、その「絹地」の裏からも色を塗る「裏彩色技法」(平安時代や鎌倉時代の仏画に多用された日本画技法)を駆使して、「誰の目にも印象的な、強烈な赤色の衣」を表現しているところが、一つのポイントということになる。
 

(追記一)「洋風画」「南蛮美術」周辺

【 「洋風画」

西洋画法により描かれた近代以前の日本絵画。洋人や洋船を主題としていても、東洋画法によるものは含まない。逆に東洋的主題や日本風景、風俗を扱い、紙、絹や日本絵の具を用いても、西洋画法の視点に基づく絵画は洋風画である。洋風画は前期(桃山~江戸前期)、後期(江戸後期)の二期に分けられる。そして、かつては第一期洋風画を南蛮絵(なんばんえ)、第二期洋風画を紅毛画(こうもうが)、オランダ絵(阿蘭陀絵、和蘭陀絵、和蘭絵)、および蘭画(らんが)などといった。
  第一期洋風画の母胎は、近世初期におけるキリスト教の伝播(でんぱ)である。当時日本布教にあたっていたイエズス会では、輸入キリスト教聖画の不足を補うために、その宗教教育施設において、信者の日本人学生に西洋銅版画などを模写させ、聖画を制作させた。このため、1590年代の初めには多くの日本製聖画が世に出るようになったが、その後のキリスト教厳禁と鎖国のため、第一期洋風画は17世紀末までに衰滅した。それは日本で生まれたが、教会の布教政策の一環として形成され、外人聖職者の指導もあったから、西欧絵画の直系に属する。近世初期に描かれた聖画は、ほとんど破壊焼却されてしまったが、わずかの現存遺品をみると、肉筆画、銅版画とも、輸入原画をかなり巧みに模写したことがわかる。一方、聖画以外に世俗画も当時の南蛮趣味にこたえるため、あるいはヨーロッパの勢威と文化を示すために制作された。これらはキリスト教絵画でないため、相当数の遺品があり、西洋王侯の像、キリスト教国軍とイスラム軍の戦闘、世界の都市と風俗、洋人郊外遊楽の情景などの主題がある。これらもやはり輸入原画を写しているが、宗教画ほど図像上の制約がないため、画家たちは作品ごとに原画をすこしずつ変えて変化をつけている。また、第一期洋風画の世俗画は、他の近世初期の鑑賞画と同様に、多く屏風(びょうぶ)絵であるため、原画を横に伸ばしたり、つないだりしている例がある。しかし、世俗画も基本的には模写画であり、西洋画特有の視点に関心が薄く、制作期間も短かったため、同時代の画壇に刺激を与えずに終わった。第一期洋風画の衰滅後の江戸中期にも、多少の洋風表現の試みはあったが、それらについては省略する。
 第二期洋風画は、江戸中期以後の蘭学の発達に基づいて生まれた。初期の蘭学者は洋書の精密な挿絵をみて、西洋自然科学研究の必要性を痛感したが、同時期の洋風画家も、洋書の挿絵の迫真的表現に魅せられ、西洋画が写実性に勝ることを知り、陰影法や遠近法のような合理的視点を体得しようとした。この期の洋風画は鎖国体制下に生まれたから、まず、外人の指導は得られなかったし、18、9世紀の西欧絵画の主流とも無関係であった。また、西洋画法を学ぶにも、輸入の銅版画や図書の挿絵を写すという前近代的手段をとった。しかし、この期の洋風画家は、なによりも西洋画の写実性に関心を寄せ、西洋画法を伝統的画法に対立するものとして摂取しようとした。そのため、西洋原画の模写は彼らにとりおもに画法習得のためであって、第一期洋風画家のように目的自体ではなかった。当時、西洋画研究に用いる図書や銅版画はもちろん長崎を通じて輸入された。しかし、長崎の洋風画は、文化の中心である江戸より遅く生まれ、しかも技術は優れていても西洋の模写画が多かった。一方、知識階級の多い江戸では洋風画は大いに発達し、1770年代に秋田蘭画、ついで司馬江漢(しばこうかん)や亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)らが出た。江戸系洋風画は西洋原画の模写ばかりでなく、在来の伝統的画題の洋風画化、日本の風景や風俗の描写に相当の業績をあげた。それが明治以後の近代洋画の直接の祖先ではなかったとしても、同時代の一部の南画や写生画、北斎(ほくさい)や広重(ひろしげ)の風景版画にかなりの影響を及ぼしたのは、なんといってもそれが西洋画法そのものの摂取に熱心であり、東洋的あるいは日本的題材を開拓したからである。[成瀬不二雄]
『坂本満他著『原色日本の美術25 南蛮美術と洋風画』(1970・小学館)』
[参照項目] | 秋田蘭画 | 南蛮美術

「南蛮美術」

 桃山時代から江戸時代初頭にかけて流行した西洋風美術の総称。当時ポルトガル人やスペイン人らの西洋人は、東南アジアにもつ植民地を経由して日本に来航したため、南方の外国人という意味で「南蛮人」とよばれた。これら南蛮人によってもたらされた西洋の文物や風俗に触発・影響されてできた異国的な絵画や工芸品を、一般に「南蛮美術」とよんでいる。その最盛期は、キリスト教の教勢が頂点に達し南蛮風俗が流行した16世紀末から17世紀初頭に求められ、寛永(かんえい)年間(1624~44)に整えられた禁教と鎖国の政策に阻まれて、急速な退潮を迎えるに至る。
 1549年(天文18)フランシスコ・ザビエルが来日のおりに聖母マリアの画像をもたらして以来、布教のために来日した宣教師たちによって多くの宗教画が将来された。やがてキリスト教の流布とともに宗教画の需要は急増していき、輸入洋画だけに頼ることが不可能になったため、83年(天正11)西洋画法の教授としてジョバンニ・ニコラオGiovanni Nicolaoが来日、教会内のセミナリオ(修学寮)において日本人画家の育成が進められた。セミナリオでは油絵、フレスコ、テンペラ、銅版画などの本格的な西洋画の諸技術が伝授されたが、現在残る作品をみると、紙に日本在来の絵の具で描かれたものが多い。日本人画家の制作になる宗教画の遺品としては、『マリア十五玄義図』(京都大学および個人蔵)、『三聖者像』(東京国立博物館)、『フランシスコ・ザビエル像』(神戸市立博物館)などが知られている。
 こうした布教の手段としての宗教画制作に始まった洋風画は、やがて鑑賞本位の非宗教画にも筆を染めるようになる。その多くは日本の伝統的な装飾画形式である障屏画(しょうへいが)に描かれ、一連の「南蛮人渡来図屏風(びょうぶ)」(通称「南蛮屏風」)をはじめ『泰西王侯騎馬図』(神戸市立博物館および東京・サントリー美術館)、『レパント沖戦闘・万国図』(兵庫・香雪美術館)、『洋人奏楽図』(東京・永青文庫および静岡・MOA美術館)などの西欧的な題材を扱った大作がある。小品としては、この時期の洋画家のうちで例外的にその名を画面に記し印を押す信方(のぶかた)(生没年不詳)の作『婦女弾琴図』(奈良・大和(やまと)文華館)、『日教聖人像』(兵庫・青蓮寺)が名高い。このように、キリスト教の伝来とともに開花した日本の初期洋画であったが、江戸初期のキリスト教禁制によって制作を停止され、中央画壇にほとんど影響を及ぼすことなく、中絶してしまう。
 工芸の分野では、南蛮趣味の流行に促されて、西洋風な意匠による漆器、陶器、金工品などがつくられた。ことに漆芸においては、「南蛮漆芸」とよばれる異国的な作風をもつ一群が現れ、キリスト教関係の器具のほか、南蛮人の風俗や葡萄唐草(ぶどうからくさ)などの洋風文様を装飾意匠として用いた新鮮な作例が遺存している。「葡萄蒔絵聖餅箱(まきえせいへいばこ)」(鎌倉・東慶寺)や「洋人蒔絵鞍(くら)」(東京国立博物館)などがその代表例である。また、西洋人の趣味と用途にあわせた輸出品も多く制作され、「秋草蒔絵宝石箱」(東京国立博物館)などの例が知られている。陶芸では、織部焼(おりべやき)が西洋の事物や文様を好んで絵付(えつけ)に用い、南蛮人燭台(しょくだい)ほか異色の作品を生んでいる。さらに、ローマ字を透かしたり象眼(ぞうがん)したりした刀の鐔(つば)(法安(ほうあん)鐔)、キリスト教の紋章と1577の西暦が陽刻された西洋風の鐘「南蛮鐘」(京都・春光院)など、金工方面にも南蛮趣味の反映が認められる。[小林 忠]

『岡本良知著『日本の美術 19 南蛮美術』(1965・平凡社)』▽『坂本満・菅瀬正・成瀬不二雄著『原色日本の美術 25 南蛮美術と洋風画』(1970・小学館)』▽『坂本満・村元雄著『日本の美術 34 南蛮美術』(1974・小学館) 】(出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))

(追記二)「西洋古典画技法と日本近代の美術教育」(和歌山大学 長谷川哲哉稿)
https://www.jstage.jst.go.jp › article › aej › _pd

【 はじめに(略)

(1) 西洋古典画技法の定義
 西洋古典画技法の概念が明確に定まっている訳ではない。「西洋吉典画」という部分からしてその定義は容易に下されえない。けれども、ここで西洋古典画技法と呼んでいるものが、通称古典技法と略されて呼ばれている点に着目するならば、この用語の意味範囲は明らかになってくる。っまり、「西洋」という限定をしなくても、それが西洋画の或る種の技法を指しているところに、定義付けの糸口がある。
一般に西洋画が油絵を意味し、逆に油絵といえば西洋画を指している事態を思い浮べれば区別されうるように、それは油絵でない絵画の技法を指している。ただし厳密には、油絵具のみを使うのでない絵画技法を、具体的には油絵具とテンペラ絵具を併用する混合技法をも含んでいる。技法史的にみれば、油彩画技法の確立する以前と以後に分けられるので、占典技法とは一応以前の技法、即ちテンペラ画やフレスコ画やデトランプ(膠画)などの技法を指している。つまり、油性絵具を主に使用する以前の、水性絵具を主に使用した使用した時代の技法を指している。
 様式史的な区切りは容易でないが、こうした技法を駆使して制作している画家たちの大多数が、後期ゴシックないし初期ルネッサンスの絵画様式に注目している点と、先の技法史上の区切りとほぱ一致しているので、ひとまずこのあたりの技法であると仮定しておくことができる。このように、古典技法の概念は、様式史と技法史の双方から厳密に規定されてから用いられるようになったのではなく、共通する問題意識をもつ或る一群の作家たちの中から自然発生的に用いられるようになり、次第にその語義の範囲が最近の美術界に定着してきた、というのが実情であろう。
 西欧では、19 世紀になってもなおテンペラ画は制作され続けていたのであるから、テンペラ画技法イコール古典技法という等式は成り立たないであろう。西欧人にとっては、我々日本人が「古典技法」と呼ぶものは、「昔の画匠の技術」であり、あるいは単に14 世紀のテンペラ画の技法なのである。それ故、前述の画家たちが、自分たちの制作の方針として、油彩画確立以前の技法へと逆行・回帰しようとするところに、古典技法を唱える重要な意味があるのであろう。なお、この逆行・回帰の過程でバロックの画家の技法に着目する場合もあるので、必ずしも上述の如くに範囲が限定される訳でない。古典技法とはかなりふくらみのある用語である。

(Ⅱ) フアン・アイクの技法(略)
(皿) フオンタネージの油彩画(略)
(Ⅳ)図画科と古典画技法(略)
(V ) 今後の美術教育と古典画技法(略)  】
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