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日本画と西洋画との邂逅(その七) [日本画と西洋画]

(その七)「江戸のダ・ヴィンチ=司馬江漢」」)と「京都の巨匠『円山応挙・与謝蕪村』」など

中洲夕涼図」司馬江漢.jpg

「中洲夕涼図」司馬江漢(無款) (1747-1818) 江戸時代、天明年間中期/1781年~1789年
銅版筆彩 24.0×36.0 1面 反射式眼鏡絵 神戸市立博物館蔵
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/448850

【 司馬江漢が天明年間(1781-1789)に制作した風景銅版画のひとつ。中洲とは、隅田川の西岸、新大橋の南方につくられた埋立地で、寛政年間(1789-1801)に撤去されるまで納涼地・岡場所として栄えました。俗に三叉とも言われ、浮世絵版画では夕涼みの夜景として描かれた場所でした。江漢の銅版画は眼鏡絵として描かれたので、隅田川上流からの眺めということになります。遠くに見えるのは永代橋です。】(「文化遺産オンライン」)

 司馬江漢の、この種の「銅版画《三囲景(みめぐりのけい)図》」(「銅版筆採」)ものは、その落款からすると、「天明丁未(天明七年=一七八七))秋九月/日本銅盤創製/司馬江漢画并刻」(27.1×40.7)、「天明丁未(天明七年=一七八七)冬十月/日本銅板創製/司馬江漢画并刻」(28.0×39.4)の「天明七年=一七八七」のものと、「日本創製司馬江漢畫/天明甲辰(一七八四)四月」(28.2×41.4)、「甲辰(一七八四)四月彫/日本創製司馬江漢」(28.4×41.4)の「天明三・四年(一七八三・一七八四)」などと、大きく、「天明三・四年(一七八三・一七八四)」と「天明七年=一七八七」ものとに区分けすることが出来るようである。

円山応挙筆『夜景浮絵眼鏡絵京洛風景 堀川.jpg 

「円山応挙筆『夜景浮絵眼鏡絵京洛風景 堀川』」 紙本着色 各10.8×17.3㎝ 京都国立博物館蔵 (「日本 絵ものがたり 夜景の誕生(読売新聞(YOMI HOT 2021/12/26)」)
【 1760年頃、若い頃の応挙は京都・四条の玩具商に勤め、眼鏡絵と呼ばれるからくりの制作に携わっていた。それは凸レンズの眼鏡を通して見る玩具絵の一種で、オランダや中国から輸入、後に日本でも日本の風景を題材に制作された。
応挙の『夜景浮絵眼鏡絵京洛風景 堀川』は絵の裏にロウソクの灯を近付けることで提灯に灯がともり、星が輝き始める仕掛け。提灯と星のところが薄紙にしてあるので、透けて明るく見えるのだ。場所は二条前を通る堀川通。(森恭彦稿) 】

夜色楼台図・蕪村.jpg

「国宝 夜色楼台図」/与謝蕪村 江戸時代 個人所蔵」 紙本墨画淡彩 28cm×129.5cm
(「日本 絵ものがたり 夜景の誕生(読売新聞 YOMI HOT 2021/12/26)」)
【 蕪村晩年の代表作、紙本墨画淡彩「夜色楼台図」(1780年前後)はより現代の感覚に近い夜景といえそうだ。
 墨の濃淡で闇の深さを表現した夜空から、家々の屋根に降る雪、窓からこぼれる灯火をごく淡い朱で描いている。後方には雪をかぶった山。(中略)
 場所は京都で、デフォルメされている。山は稜線の傾きから東山であり、「蕪村が三本木の茶屋の二階でこたつにあたりながら見ていた冬の景色」という。
 三本木とはかつて鴨川の西にあった花街で、蕪村は足しげく通い、句会も毎月のように開いていた。二階に上がれば鴨川越しに岡崎、祇園 、清水のあたりが一望できる。(森恭彦稿) 】

中州夕涼図(本間美術館蔵).jpg

「司馬江漢《中洲夕涼図》」 天明年間(1781~89) 紙本墨彩 24×36㎝ 本間美術館蔵
(「日本 絵ものがたり 夜景の誕生(読売新聞 YOMI HOT 2021/12/26)」)
【 同じ頃、江戸では司馬江漢が銅版筆彩で眼鏡絵「中洲夕涼図」を制作している。中洲は隅田川の西岸、新大橋の南にかつて存在した埋めた立て地で、岡場所という非公認の遊郭があり、納涼地としても栄えた。
 提灯の下の道を人々が行き交い、明るい屋内に男女の姿。川に浮かぶ屋形船でも宴会が開かれている。
 この時代、都市の光が闇とのコントラストを作り始める。ただ、その光はまだはかなげだ。(森恭彦稿) 】

 応挙の「夜景浮絵眼鏡絵京洛風景 堀川」は、「1760年頃、若い頃の応挙が、京都・四条の玩具商に勤め、眼鏡絵と呼ばれるからくりの制作に携わっていた」頃のもの、そして、蕪村の「夜色楼台図」は、「1780年前後の蕪村晩年の、足しげく通った、鴨川沿いの「三本樹の茶屋」(京都市上京区の地名=三本木、その南北に走る東三本木通りは、江戸時代花街として栄えた茶屋)や、「京都祇園社境内の二軒茶屋」などで制作した、ややデフォルメされた、蕪村の心象風景ともいうべきものなのであろう。
 それに続く、司馬江漢の「中洲夕涼図」は、天明七年(一七八年)の頃よりも、天明三・四年(一七八三~四)の頃の、「西洋画」の「腐食銅版技法」の「銅版画(着彩)」を、「甲辰(一七八四)四月彫/日本創製司馬江漢」と落款した頃の作品と解したい。

(追記その一)「中洲夕涼図(ボストン美術館蔵)」周辺

https://collections.mfa.org/objects/226574

中州夕涼図(ボストン美術館蔵).jpg

「中洲夕涼図(ボストン美術館蔵)」A図

中洲夕涼図(ボストン美術館蔵)」B図.jpg

「中洲夕涼図(ボストン美術館蔵)」B図

「中洲夕涼図(ボストン美術館蔵)」C図.jpg

「中洲夕涼図(ボストン美術館蔵)」C図

「中洲夕涼図(ボストン美術館蔵)」D図.jpg

「中洲夕涼図(ボストン美術館蔵)」D図
司馬江漢(鈴木春重) (1747年 - 1818年)
日本・江戸1784年頃(天明4年)
ミディアム/テクニック 銅板エッチング;紙にインクを塗る, 手で塗ったカラー
寸法 水平オーバン;27.2 x 38.4 cm (10 11/16 x 15 1/8 インチ)

(メモ)

一 A図とC図とは、「反射式のぞき眼鏡」の一対(正・反)か?
二 B図とD図とは、「反射式のぞき眼鏡」の一対(正・反)か?
三 A図は、(A図+C図)の「A図」を着彩して、一つの「完成品」に仕上げたものか?

(追記その二) 「司馬江漢《中洲夕涼図》」(本間美術館蔵)周辺

https://www.homma-museum.or.jp/2017/08/17/?post_type=column

【 「江戸絵画史の流れ Part②」

■  文人画(南画)
 文人画は、職業として絵を描かない文人と呼ばれる人たちが描いた絵のことです。文人とは、もとは中国の士大夫と呼ばれる政治に関わった人たちのことを指します。文人たちの中には中国で山水画を描く様式の一つである南宗画の画風を用いるものが多く、その南宗画に影響を受けて日本で描かれた絵画を、日本の文人画または南画(南宗画の略称)と呼ばれています。その文人画の大成者として並び称されたのが、京都で活躍していた池大雅と与謝蕪村でした。その後、関西で広まった文人画は、中山高陽によって江戸へ伝えられることになります。

■  円山派(円山・四条派)
 18世紀後半の京都画壇を代表する画家・円山応挙。その応挙を祖とした流派は「円山派」と呼ばれています。応挙が創造した平明な写生画法は、それまでの京都に根付く伝統的な絵画観を一変させるほどの衝撃で、応挙の写生画が京都を席巻しました。応挙の弟子の中には、応挙の代理として数々の障壁画を制作し、ひときわ個性的で異彩を放った長沢芦雪(1754~99)がいます。また、門下の呉春(1752~1811)が「四条派」と呼ばれる一大流派を確立したことから、この流派は「円山・四条派」とも呼ばれています。

■  奇想の画家
 池大雅や与謝蕪村、円山応挙の出現した同時期の京都で、ひときわ異彩を放ち、個性を打ち出した作品を描いたのが、伊藤若冲と曾我蕭白でした。京都画壇に旋風を巻き起こした若冲と蕭白は、奇想の画家としても知られています。 伊藤若冲は、身近な動植物を対象とし、特に鶏を描いた画家として知られています。もとは京都の青物問屋「枡屋」の主人でしたが、四十歳で弟に家業を譲り、絵画制作に没頭します。写実と装飾性をあわせもつ独自の画風を確立し、「筋目描き」や「枡目描き」といった技法を生み出しました。《動植綵絵》(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)のような色彩豊かな着色画が知られている一方で、略筆の水墨画も数多く描き残しています。

■  洋風画
 西洋画に影響を受け、西洋風に描かれたのが洋風画です。18世紀に入ると、八代将軍・徳川吉宗の洋書の解禁によって西洋文物をはじめ、銅版画や油彩画が民間にも広まります。西洋画の技法に関心を持った秋田藩主の佐竹曙山(1748~85)と藩士の小田野直武(1749~80)の2人によって「秋田蘭画」と呼ばれる洋風画が創造されると、さらに、司馬江漢(1747~1818)が日本初の銅版画制作に成功し、独自の油彩画も完成させました。 】

(追記三) 「円山応挙」と「与謝蕪村」周辺

≪ 円山応挙(1733―1795)

 江戸中期の画家。丹波(たんば)国桑田郡穴太(あのお)村(京都府亀岡(かめおか)市)の農家に、円山藤左衛門の次男として生まれる。幼名を岩次郎、のち名をてい、字(あざな)を仲均といった。仙嶺(せんれい)・夏雲などと号したが、1766年(明和3)34歳のとき、諱(いみな)を応挙、字を仲選、号を遷斎と改め、以後一貫して応挙の諱を用いた。幼いころより絵を好み、早くから京都に出て狩野探幽(かのうたんゆう)の流れをくむ鶴沢(つるさわ)派の画家石田幽汀(いしだゆうてい)(1721―86)に入門し、本格的に絵を学んだ。幽汀は狩野派に土佐派を折衷した装飾的な画風をみせ、禁裏絵師となって法眼(ほうげん)に叙せられている。しかし応挙はその保守的な性格に飽き足らず、しだいに写生を基本とした写実的な画風に傾いていった。生活のための「眼鏡絵(めがねえ)」の制作で知った西洋画との出合いが、応挙の転換を促したと考えられる。
 眼鏡絵とは、当時舶載されていた覗機械(のぞきからくり)に使用される絵のことで、反射鏡に凸レンズを組み合わせた装置にセットして覗(のぞ)かれる。その画法は、18世紀オランダ銅版画の画法に基づき、科学的な透視遠近法と写実的な陰影法を用いたものであったため、従来の画法を学んできた応挙には、ひときわ強烈な刺激であった。さらに、中国の宋元(そうげん)院体画の精緻(せいち)な描写や、清(しん)朝画家沈南蘋(しんなんぴん)の最新の写生画法にも多くの影響を受けたが、西洋画の徹底した写実技法や南蘋様式の濃密な彩色法をそのまま日本画の画面に転用せず、それぞれの絵画のもつ現実的な空間表現への関心や、モチーフの細密画法を自らの写生の重要な基本としながらも、より平明で穏やかな感覚の画面を追求した結果、独自の「付立(つけた)て」筆法を完成させた。こうした彼の画風は、大津の円満院(えんまんいん)門主祐常(ゆうじょう)の支持を受けるところとなり、30歳代には多くの作品の注文を受け、その庇護(ひご)のもとに画家として大きな成長を遂げることができた。祐常は1773年(安永2)に没したが、応挙は40歳代に入った安永(あんえい)年間(1772~81)にもっとも充実した時代を迎え、以降独自の様式による作品を数多く制作している。代表作には『雨竹風竹図屏風(うちくふうちくずびょうぶ)』(京都・円光寺・重文)、『藤花図屏風』(東京・根津美術館・重文)、『雪松図』(国宝)、『四季草花図』(袋中庵)などがあり、これらの作品を通しても、個々のモチーフの写生的表現と、それらを包み込む背後の空間との知的な均衡関係を、応挙が長年にわたって研究し、築き上げてきたことが理解される。
 応挙のもとにはすでに息子の応瑞(おうずい)(1766―1829)や長沢蘆雪(ながさわろせつ)、松村月渓(げっけい)(呉春(ごしゅん))、吉村孝敬(こうけい)(1769―1836)、駒井源琦(こまいげんき)(1747―97)、山口素絢(そけん)(1759―1818)らの弟子が集まり一派を形成していたが、師のこうした緊密な画面はかならずしも十分な形では継承されなかった。だがその画派は円山派として、明治までの長い間、美術史上の重要な存在としてその地位を保ち、近代日本画の展開の基盤となった点で大いに注目評価されている。[玉蟲玲子]

『佐々木丞平著『応挙写生画集』(1981・講談社)』▽『佐々木丞平編『花鳥画の世界6 江戸中期の花鳥1(京派の意匠)』(1981・学習研究社)』▽『山川武著『日本美術絵画全集22 応挙/呉春』(1977・集英社)』▽『河野元昭著『名宝日本の美術24 大雅・応挙』(1981・小学館)』  ≫(出典 小学館「日本大百科全書(ニッポニカ)」)

≪ 与謝蕪村 没年:天明3.12.25(1784.1.17) 生年:享保1(1716)

 江戸中期の俳人,画家。俳号として別に夜半亭,落日庵,紫狐庵など。画号は長庚,春星,謝寅など。摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区)生まれ。本姓は谷口氏と伝えられるが,丹後(京都府)の与謝地方に客遊したのち,与謝の姓を名乗る。20歳ごろ江戸に出て夜半亭(早野)巴人の門人となるが,巴人没後,結城の砂岡雁宕ら巴人門下の縁故を頼り,約10年にわたり常総地方を歴遊する。宝暦1(1751)年,36歳のとき上京,その後丹後や讃岐に数年ずつ客遊するが,京都を定住の地と定めてこの地で没した。
 この間,明和7(1770)年,55歳のときには巴人の後継者に押されて夜半亭2世を継いだが,画業においても,53歳のときには『平安人物志』の画家の部に登録されており,画俳いずれにおいても当時一流の存在であった。池大雅と蕪村について,田能村竹田が『山中人饒舌』の中で「一代,覇を作すの好敵手」と述べている通り,早くから文人画の大家として大雅と並び称せられていた。
 俳諧はいわば余技であり,俳壇において一門の拡大を図ろうとする野心はなく,趣味や教養を同じくする者同士の高雅な遊びに終始した。 死後松尾芭蕉碑のある金福寺に葬るように遺言したほど芭蕉を慕ったが,生き方にならおうとはしなかった。芝居好きで,役者や作者とも個人的な付き合いがあり,自分の家で人に知られないようにこっそりと役者の真似をして楽しんでいたという逸話がある。小糸という芸妓とは深い関係があったらしく,門人の樋口道立 から意見をされて「よしなき風流,老の面目をうしなひ申候」とみずから記している。
 彼が故郷を出たのは何か特殊な事情があるらしく,郷愁の思いを吐露しながらも京都移住後も故郷に帰った形跡はまったくない。

<参考文献>森本哲郎『詩人与謝蕪村の世界』,尾形仂『蕪村自筆句帳』,清水孝之『与謝蕪村の鑑賞と批評』,山下一海『戯遊の詩人与謝蕪村』 (田中善信) ≫(出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版)
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