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日本画と西洋画との邂逅(その十一) [日本画と西洋画]

(その十一)「司馬江漢・葛飾北斎」そして「歌川広重(富士三十六景・名所江戸百景・東海道三十六景(次)」など

司馬江漢筆「駿河湾富士遠望図」.png

司馬江漢筆「駿河湾富士遠望図」 1799(寛政11)年 36.2×100.9cm 絹本油彩 平成12年度寄贈 (静岡県立博物館蔵)
https://spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/_archive/collection/item/J_93_497_J.html
【 江漢は江戸で活躍した洋風画家。天明3(1783)年には日本最初の銅版画制作に成功、また油絵も手がけるなど多数の洋風画を制作。特に日本風景を題材にした油絵に力量を示した。本作は駿州矢部の補陀落山(現在の清水市・鉄舟寺)より望んだ景観を絹地に描いた油絵。同地からの富士を江漢は好み、多くの類作を残したが、本作は人物などの細かな描写も見え、充実した出来ばえを示している。日本における初期油絵の作例として貴重である。洋画家・須田国太郎旧蔵作品。 】(静岡県立博物館)

司馬江漢 《駿州薩陀山富士遠望図》.jpg

「駿州薩陀山富士遠望図」 1804(文化1)年 絹本油彩 額装 78.5×146.5cm 昭和57年度購入(静岡県立博物館蔵)
https://spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/_archive/collection/item/J_93_497_J.html
【 江漢は天明8年(1788)長崎遊学のため東海道を旅し、駿河で富士山を見ている。その時のことは後の自筆本『西遊日記』や版本『西遊旅譚』に挿図入りで紹介されている。長崎の遊学から戻った江漢は、油絵の制作に精力的に取り組み、日本風景を描いた洋風の風景画を次々と発表した。富士山も格好の主題として取り上げられた。
本図は、薩 (陀)峠(清水市興津)から富士を遠望したもので、駿河湾越しの富士を描く。左手にわずかに見える浜辺の集落は、東倉沢(庵原郡由比町)と思われる。江漢はこれと類似する構図の油彩を数多く描いたが、本図はその中でも最後に描いたもので、寸法も最大である。近景から遠景への透視図法的な遠近表現や青い空の表現など、それまでにない洋画の要素を導入し、独特の雰囲気をもった日本風景画をつくりだした。なお画面右上に「駿州薩陀山 東都江漢 司馬峻描写」款記があり、さらに「Eerste Zonders in Japan Si:」とオランダ語の朱文サインがある。このサインの意味は「日本最初のユニークな人物」と解されている。】(静岡県立博物館)

神奈川沖浪裏.jpg

葛飾北斎「冨嶽三十六景「神奈川沖波裏』」天保元−天保3年(1830-32)頃 木版多色刷
24.6×36.5cm (「文化遺産オンライン」)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/246760
【 大いなる自然とそれに立ち向かう小さな人間。動と静、遠と近、そこに描かれた無限に広がる空間。「グレート・ウェーヴ」として世界的にも有名な一枚である。この版図が西洋に与えた衝撃は大きく、画家ゴッホは弟テオに与えた手紙の中で激賞し、作曲家ドビッシーは交響曲『ラ・メール(海)』を作曲したことなどでも知られている。くずれ砕け、迫る大波に、弄ばれる3隻の船。これらの船は「押送り(おしおくり)」と呼ばれ、伊豆や安房の方から江戸湾に入り、日本橋などの市場に鮮魚や野菜を運搬していた。富士を背景に左に向かうこれらの船は、おそらく荷を送り終えた帰りの船であろう。灰色に暗く沈んだ空。この版では消えてしまい、見ることができないが、保存状態の良い版には、薄い黄色の空を背景とした雲も見られる。帰りの船だとすれば、夕暮れ近い光景であろうか。あたかも同じような船に乗り、そこから波と富士を見上げるイメージを北斎は見ていたのである。この「大波」に対する着想は、これより30年ほど前に描かれた「おしおくりはとうつうせんのず」や「賀奈川沖本杢之図」にすでに見ることができる。また、ほぼ同時期に描かれた『千絵の海』「総州銚子」や『富嶽百景』「海上の不二」にも、荒れ狂う大波を描く北斎の並はずれた力量を見ることができ興味深い。 】(「文化遺産オンライン」)

(歌川広重の『冨士三十六景』 全36枚 →以下5図抜粋)
http://artmatome.com/%E6%AD%8C%E5%B7%9D%E5%BA%83%E9%87%8D%E3%81%AE%E3%80%8E%E5%86%A8%E5%A3%AB%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%85%AD%E6%99%AF%E3%80%8F%E3%80%80%E5%85%A836%E6%9E%9A/
【『冨士三十六景』(ふじさんじゅうろっけい)は、歌川広重により富士山を主題として描かれたシリーズ。本作より前に描かれた葛飾北斎の「富嶽三十六景」から着想していると考えられる。】

駿河薩タ之海上.jpg

歌川広重「冨士三十六景「25駿河薩タ之海上」」
【 薩タ山(さったやま)の絶壁は荒波が打ち寄せる難所として有名だった。江戸時代には峠の道が整備され命がけで崖を歩く必要はなくなったが強い波しぶきは絶景として残った。作中でも高波が富士山を飲みこむ勢いで描かれ荒々しさが伝わってくる。 】

東都一石ばし.jpg

歌川広重「冨士三十六景『1東都一石(いっこく)ばし』」
【 画面手前に描かれた一石橋は日本橋の隣に架かる橋で、両側に後藤家の屋敷があったため「五斗五斗」で一石と名付けられたと言われている。奥に見えるのが「銭瓶橋」、さらに奥に小さく描かれているのが「道三橋」である。平行に重なり合う橋と直行に流れる水路が人と船の行き交いで強調されている。】

東都両ごく.jpg

歌川広重「冨士三十六景『6東都両ごく』」
【画面中央に架かるのは両国橋。この周辺には見世物小屋や茶店が並び江戸随一の遊び場であった。作中の両国橋の周りでは舟遊びを楽しむ人たちが描かれている。橋の上では大名行列が行われており非常に賑やかな様子が伝わってくる。】

武蔵多満川.jpg

歌川広重「冨士三十六景『12武蔵多満川』」
【 現在の東京都日野市付近が描かれた図。同名の作品を制作した広重が改良を加えて本作を描いたと考えられている。多摩川では鮎釣りが名物で作中にも釣りを楽しむ人々と今から釣りに出かける親子が描かれている。】

房州保田ノ海岸.jpg

歌川広重「冨士三十六景『36房州保田ノ海岸』」
【 三十六景の最後に描かれたのは保田海岸から見える富士山。保田海岸は現在の千葉県鋸南町にある。現在では海水浴場などがありレジャーも楽しめるが作中では非常に荒々しい波が打ち寄せ旅人を脅かす。海の荒れと崖の荒々しさの背景に静かに佇む富士山は非常に象徴的である。】

(歌川広重の『名所江戸百景』 全118枚 →以下5図抜粋   )
http://artmatome.com/%e6%ad%8c%e5%b7%9d%e5%ba%83%e9%87%8d%e3%81%ae%e3%80%8e%e5%90%8d%e6%89%80%e6%b1%9f%e6%88%b8%e7%99%be%e6%99%af%e3%80%8f%e3%80%80%e5%85%a8118%e6%9e%9a/
【『名所江戸百景』(めいしょえどひゃっけい)は、浮世絵師の歌川広重が安政3年(1856年)2月から同5年(1858年)10月にかけて制作した連作浮世絵名所絵である。】

春の部

日本橋雪晴.jpg

『名所江戸百景 日本橋雪晴』
【初荷の魚介類を満載した舟が、魚河岸をめざして日本橋川を遡っている様子を情緒たっぷりに描き、両岸には問屋や倉庫が立ち並び、魚河岸の活気あふれる様子が描かれている。画面中央を横切る日本橋には大名行列の一行が見える。江戸の中心である日本橋と江戸城、そして富士山を一つの絵におさめた傑作と言える作品。】

夏の部

日本橋江戸ばし.jpg

『名所江戸百景 日本橋江戸ばし』
【 日本橋川の北岸には、江戸の台所魚河岸があり、仕入れたばかりの鰹を棒手振り(ぼてふり)が運ぶ様子を大胆な構図で描かれている。江戸時代の俳人、山口素堂が「目には青葉山ほととぎす初鰹」と詠んだように、江戸っ子は初物を好みんだ。江戸橋の奥にある白壁の蔵の遠景には朝日が見える。日本橋は「日の本(もと)の橋」から由来するとも言われている。】

秋の部

市中繁栄七夕祭.jpg

『名所江戸百景 市中繁栄七夕祭』
【7月7日の七夕祭の日の江戸の風景。江戸の空にたなびく七夕飾りが、江戸の町の平和を物語っている。西瓜、そろばん、大福帳、鯛など色とりどりの七夕飾りが風になびいている。前景の商家の白壁の蔵が映え、江戸城まで続く屋根のが、魚の鱗のように見える。はるか彼方には富士も見え、江戸の繁栄ぶりをうかがわせている。】

冬の部

浅草金龍山.jpg

『名所江戸百景 浅草金龍山』
【この図は雪の浅草寺雷門から、山門と五重塔を望んだもの。「大はしあたけの夕立」と共に広重の代表作。堂塔の赤と緑が雪に映えて美しく、雷門をくぐり、浅草寺境内まで続く参道には雪がこんもりと積もっている。この雪の部分は空摺(からずり)という絵の具を付けずに摺る技法が用いられていて、積雪の量感が巧みに表現されている。】

王子装束ゑの木大晦日の狐火.jpg

『名所江戸百景 王子装束ゑの木大晦日の狐火』
【毎年、大晦日の夜、社に近い榎の下に集まった狐は、ここで衣裳を整えて王子稲荷社に参上した。近在近郷の農家では、狐がともす狐火の量で、新年の豊凶を占った。寒空にきらめく星と榎の小枝は、雲母引き(きらびき)で表現されている。闇に包まれた森の木々の先には、わずかに緑が含ませてあり、間近に来ている春の息吹を感じさせる。】

(広重「東海道五十三次」(保永堂版)について(全55枚)→以下3図抜粋)
https://www.moaart.or.jp/?event=hiroshige2018-0316
【歌川広重(1797~1858)は、天保3年(1832)36歳の夏、徳川幕府の八朔御馬進献の一行に随行して東海道を江戸から京へと旅した。江戸へ帰った広重は、翌年、版元保永堂から55枚に及ぶ揃物「東海道五十三次」を刊行した。保永堂は小さな版元であったため、一部分を仙鶴堂(鶴屋喜右衛門)が、合梓ないし単独版行を受け持った。このシリーズは大人気を博したため、保永堂を一躍、一流の版元に押し上げるとともに、広重を浮世絵風景画家の第一人者に押し上げた。 「東海道五十三次」の魅力は、宿駅の様子はもとより、道中の風物や風景、旅人の様子などを細かく写し、版画を見る者に、その臨場感を与える点にある。また各図の風景は、実景のように見えて、必ずしもそうでない。有名な箱根や蒲原、庄野の図は、今日それらしい場所を見出すことはできない。吉田、鳴海の図は、広重が宿駅を通り過ぎながら受けた印象を実感にとらわれずに、心の中で組み立てた風景画であろう。】(MOA美術館)

東海道五十三次 日本橋.png

「東海道五十三次 日本橋」
【 日本橋は京都まで120余里(およそ490km)、東海道五十三次の起点である。橋の手前5~6人の魚屋が早朝の肴市から買い求めた魚をかつぎ、橋の上を大名行列の先頭が渡って来る。あわただしい朝の日本橋界隈の情景が描かれている。】

東海道五十三次 箱根.png

「東海道五十三次 箱根」
【 箱根越えは、東海道中の最難所として、行き交う旅人を悩ませた。この図は、箱根の名勝芦の湖畔の美しい風景で、険しい山間の坂道を、大名行列が越えて行く光景が細密に描かれている。】

東海道五十三次 京師.png

「東海道五十三次 京師」
【 加茂川にかかる三条大橋を渡れば京都である。当時、江戸・京都間を普通に歩けば十数日の行程であった。図は、三条大橋を八朔御馬献上の行列が渡っている様子で、遠くには東山三十六峰と比叡山が描かれている。】

≪ 歌川広重 (1797―1858)
 江戸後期の浮世絵師。江戸・八代洲河岸(やよすがし)定火消(じょうびけし)同心、安藤源右衛門(げんえもん)の長男として生まれた。幼名を徳太郎、俗称を重右衛門(または十右衛門)、のち徳兵衛といい、後年には鉄蔵と改めた。1809年(文化6)13歳のときに相次いで両親を失い、若くして火消同心の職を継ぐことになったが、元来の絵好きから家職を好まず、1823年(文政6)には祖父十右衛門の実子、仲次郎にこの職を譲り、浮世絵に専心している。浮世絵界に入ったのは、両親を失ったわずか2年後の15歳のときで、当時役者絵や美人画で一世を風靡した初世歌川豊国(とよくに)に入門を望んだが、すでに大ぜいの門人を擁していたので許されず、貸本屋某の紹介で、豊国とは同門の歌川豊広の門人となった。
その翌年の1812年(文化9)には早くも豊広から歌川広重の号を許されている。処女作といわれる作品は、画名を許された翌年の版行になるといわれる『鳥兜(とりかぶと)の図』の摺物(すりもの)とされるが確証はなく、これより5年遅れる1818年(文政1)に版行された錦絵(にしきえ)『中村芝翫(しかん)の平清盛(きよもり)と中村大吉の八条局(はちじょうのつぼね)』『中村芝翫の茶筌売(ちゃせんうり)と坂東三津五郎の夜そば売』の2図が年代の確実なものとされている。その後、文政(ぶんせい)年間(1818~1830)は美人画、武者絵、おもちゃ絵、役者絵や挿絵など幅広い作画活動を展開したが振るわなかった。
  しかし天保年間(1830~1844)にはその活躍は目覚ましく、天保元年には従来から用いていた一遊斎(いちゆうさい)の号を改めて一幽斎(いちゆうさい)とし、天保2年ごろには初期の風景画の名作として知られる『東都名所』(全10枚。俗に『一幽斎がき東都名所』とよばれる)を発表。さらに天保3年2月ごろには一立斎(いちりゅうさい)とふたたび改め、秋には幕府八朔(はっさく)の御馬(おうま)献上行列に加わって、東海道を京都に上った。年内には江戸へ帰り、天保4年から、このおりに実見した東海道の宿場風景を描いた保永堂版『東海道五拾三次』(全55枚)を版行し始めている。このシリーズは天保5年中には完結したとみられるが、これにより広重は、一躍風景画家としての地位を確立したのであった。このころから天保末年にかけてが広重の芸術的絶頂期とみられ、『近江(おうみ)八景』(全8枚)、『江戸近郊八景』(全8枚)、『木曽海道(きそかいどう)六拾九次』(全70枚。渓斎英泉とともに描き、広重は46図を描いた)などのシリーズを矢つぎばやに発表していった。
 弘化年間(1844~1848)以降は多少乱作気味であったが、この時期にも、優品とされる風景版画が何種か知られている。そのなかでも1842年(天保13)の刊行になる縦二枚続の『甲陽猿橋之図(こうようえんきょうのず)』や『富士川雪景』、また1856年(安政3)から没年(1858)まで版行され続けた広重最大数量の揃物(そろいもの)『名所江戸百景』(全118枚)、1857年に雪月花の3部に分けて描かれたという三枚続の『木曽路の山川(さんせん)』『武陽金沢八勝(ぶようかなざわはっしょう)夜景』『阿波鳴門(あわなると)之風景』などは広重晩年の代表作として名高い。風景画以外では、短冊形の花鳥画に『月に雁(かり)』『雪中のおしどり』などの優品が多く、また大錦(おおにしき)判の魚貝画にも佳作がみいだされる。肉筆画は意外に早い時期から描いており、初期には美人画が多く、嘉永(かえい)年間(1848~1854)にもっとも傾注して描いた天童藩(山形県)の依頼による天童広重とよばれる風景画には、金泥(きんでい)などを用いた豪華なものがある。安政5年9月6日没。 
[永田生慈]
『鈴木重三著『広重』(1970・日本経済新聞社)』▽『山口圭三郎編『浮世絵大系11 広重』(1974・集英社)』 ≫(「出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」)

(追記) 「歌川広重と(司馬江漢?)」との「「東海道五十三次」周辺

≪ 天保4年(1833年)、傑作といわれる『東海道五十三次絵(広重)』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
 この連作の前年の天保3年(1832年)秋、幕臣でもあった広重は伝を頼りに幕府の一行(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)し、実際の風景を目の当たりにする機会を得た、とする伝承が伝わる。一方、実際には旅行をしていないのではないかとする説もある。 また、同作は、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したとする説もある(元伊豆高原美術館長・對中如雲が提唱した)。≫(「ウィキペディア」)

https://ameblo.jp/kikugidou21/entry-12553000296.html

東海道五十三次 日本橋.png

広重  日本橋 →「広重・五十三次のスタート」、左手前は「魚」を担ぐ人々」

江漢(?)  日本橋.png

江漢(?)  日本橋 →「江漢・五十三次のラスト」、左手前は「オランダ人」、以下メモは『広重「東海道五十三次」の秘密(對中如雲著)』などを参考にしている。

東海道五十三次 箱根.png

広重  箱根 → 共に、芦の湖畔の山間の坂道を大名行列が越えて行く。

江漢(?)  箱根.png

江漢(?)  箱根 → 広重の「錦絵」に対し、江漢の「肉筆画」が際立つ。

広重  三島.png

広重  三島 → 広重の「朝」の景に対し、江漢は「夜」の景。

江漢(?)  三島.png

江漢(?)  三島 → 両者の「鳥居と石灯籠」の位置が違う。

広重  蒲原.png

広重  蒲原 → 両者共に「雪景」。広重の右手中景の「小山」が描かれていない。

江漢(?)  蒲原 .png

江漢(?)  蒲原 → 「江漢」は、右手中景の「小山」を描く。

広重  鞠子.png

広重  鞠子 → 鞠子宿は東海道五十三次の20番目の宿場、「初版」では「丸子」の表記。芭蕉の「梅若葉丸子の宿のとろろ汁」、その「梅若葉」の景。

江漢(?)  鞠子.png

江漢(?)  鞠子→ 広重の「梅若葉」)に対し、「梅の花」の「山里は万歳遅し梅の花」(芭蕉)の雰囲気。

東海道五十三次 京師.png

広重  京師(京都・三条大橋) → 広重のゴールは「都名所図会」の「三条大橋」。

江漢(?)京師(京都・御所).png

江漢(?)京師(京都・御所)→ 江漢のスタートは、「三条大橋」「二条城」ではなく「御所」。

https://soka.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=68&item_id=37944&item_no=1

【  (創価大学教育学部論集第51号)
名画の背景 ―北斎と広重― 小山満(稿)-以下、抜粋-

はじめに(略)
葛飾北斎(略)

歌川広重

広重の場合は30代以降で,ほぼ10年単位の5期に分けることができる。

1期… … 寛政9(1797)年,江戸八代洲河岸(現在の丸の内2丁目,馬場先門手前明治生命あたり)に定火消同心安藤源右衛門の長男として生まれる。13歳の時,父と母を失い家職を継ぐ。が,浮世絵師の志を捨て切れず,歌川豊広に入門してのち15歳まで。
II期… … 師匠豊広より歌川広重の画名を与えられ,役者絵,狂歌本,美人画などを手がける。
家職を子に譲り,浮世絵師の自覚を深めて後,師匠が亡くなる33歳まで。
皿期… … 二代豊広襲名を辞退し一幽斎,一立斎と名乗り「東都名所」「東海道五十三次」保永堂版,天保4~5(1833~1834)年「近江八景」「木曽街道六十九次」「京都名所」など,次々と名作を生む42歳まで。
IV期… … 妻の死去後,後妻を迎え「狂歌東海道」「行書東海道」「隷書東海道」など多種類の東海道物を手がける。この間天保の改革があり,出版統制が強化され,町年寄や名主による検閲,訂正が必要となる。遊女,役者絵の一・枚物が禁止され,彩色も7~8刷り以下に制限される。柳亭種彦が拘引され,高齢の北斎が信州へ向かうのはこの時からである。広重54歳まで。
V期… … 養女を迎え,藩の依頼で肉筆作品の制作が増える。「江戸名所」「六十余州名所図会」などを経て還暦を迎え剃髪し「名所江戸百景」を生むが,安政5年(1858)大流行したコレラに罹り62歳で死去する。墓所は曹洞宗東岳寺(現在浅草から足立区へ移転)。

  東海道五十三次

1)本歌取り
 10年ほど前,広重の東海道五十三次には元絵があったというショッキングな出来事が起きた。文政元年(1818)72歳で亡くなった司馬江漢の『東海道五十三次画帖』の出現がそれである。(この年広重22歳)全体の順路は逆であるが,たしかに2,3の図を除いて,テーマごとほとんどこの画帖の構図と人物の情景を採ったといっていいと思う。学界での取り上げ方はクールであるが,まさしくこれが種本として使われたというべきであろう。
 近代の陶芸の世界で有名な北大路魯山人に本歌取りという手法の作品がある。収集した古陶磁を学びそれを忠実に写す方法で,古代の和歌の世界でいう本歌取りと同じということで名づけられている。一般に絵画ではこれを模写といい,書道では臨書という。学習方法としてこのような方法が古来存在する。西洋でも模写はあるが,模写した本人の署名がない場合に贋作ということで物議をかもすことになる。今日作家の独自性を重視する点で最もホットなテーマであるが,広重の場合,仕上がりで全く印象が異なる点は江漢の油絵原図をはるかに凌ぎ,むしろ見事でさえある。

2)滑稽味
 この保永堂版『東海道五十三次』のもう一つの特色は,描かれた人物の滑稽味溢れる仕草や表情である。「日本橋」の大名行列を急いで避ける魚屋,「川崎」の船中で煙草をふかす乗客,「神奈川」と「御油」の客引き,など枚挙にいとまがない。
 広重の生まれた寛政9年(1797),秋里籠島の『東海道名所図会』が出版され,享和2年(1802)6歳の時,十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の刊行が開始され,この続編を出し続けている中で広重は育っていく。広重の作画の中に両者の影響を見出すことは容易である。江戸時代後半の庶民の楽しみが,お蔭参りや名所見物などによる旅に行き着いていたことがこの背景にある。日常の封建的な束縛から解き放たれて一時の自由を享受する庶民の喜びが,おかしさ(滑稽さ)に示されていると思われる。今日も一般家庭のレジャーのトップが旅行であると報道されているのは興味深いことである。

3)統制の有無
 保永堂版「東海道五十三次」の第1「日本橋」では異版(図8)があり,そこに魚屋の左に異国の人が描かれている。江漢の「東海道五十三次画帖』巻末が「日本橋」(図9)であるが,ここに描かれている西洋人と同じである。じつはこれは長崎出島のオランダ商館長一行で,かれらの宿所がこの日本橋のたもとにある長崎屋であったという。通常我々が見る「日本橋」には,この異国の人は描かれていない。なぜこちらの図に変わったのであろうか。
 江漢の『東海道五十三次画帖』巻頭では「京都御所」と記し,御所の前で公家の通過を合掌正座して拝する庶民が描かれている。広重の末尾「京都」はこれではなく「東海道名所図会』に描く加茂川の南北逆に流れる三条大橋をそのまま模写したものである。また熱田神宮の「宮」では,江漢は参拝する公家と熱田神宮を描くが,広重は神宮を鳥居でイメージさせ馬追い祭を描く。つまり,江漢には公家社会に対する想い(尊王思想〉があり・広重にはそれがないことがわかる。したがって,二人には思想上大きな差異があったことをこれらは示している。
 もう一つ,広重はその後30種以上の「東海道五十三次」を描いていくが,不思議にあの見事な保永堂版を越える作品は見当たらない。これに次ぐ作品が,9年後の天保13年(1842)の「行書東海道」と,16年後の嘉永2年(1849)の「隷書東海道」である。この三者を「吉田」の作品で比較してみよう。
吉田は今の豊橋で,もと松平氏7万石の城下町であった。保永堂版(図13)はこの城を右手に大きく描き豊 
 川橋を左手に置く。そして城を修繕する足場と職人を入れ,職人の一人が仕事を放り足場に登り橋を遠望する。これは世間を気にせず屈託なく楽しむ光景である。しかし行書版(図14)では,手前に橋と欄干を描き,前方正面川の上に城を描き,そして城の奥に山,左に人家と帆船,橋の上に武家と商人4人を添えているが,全体に面白味を感じさせない平板な風景である。隷書版(図15)では,右上方に石垣を描き城をイメージさせ,牛頭天王の武家装束の祭りを描く。庶民はゴザを敷いて行儀よく見物している。が,これは寛政版『東海道名所図会』の,全くの模写であった。したがって,この三者の比較でも後者になるほど平板で,ありきたりなものになり,次第に自由さがなくなっていくように思われる。広重が何か武家の支配に対し距離を置いていく様子に見えるが,これはおそらく江戸幕府の庶民に対する統制が,天保の改革で一層厳しくなり,彼において幕府権力に対する畏怖の念がしだいに増大していったためとみるべきであろう。

結び(略)   】
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