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日本画と西洋画との邂逅(その十二) [日本画と西洋画]

(その十二)「司馬江漢・葛飾北斎・歌川国貞・歌川広重」そして「歌川国芳(「奇抜・奇想浮世絵」「洋風浮世絵」)」など

国芳 猫一.jpg

歌川国芳「其のまゝ地口猫飼好五十三疋(そのままぢぐち・みゃうかいこう・ごじゅうさんびき) 上中下」(渡邊木版美術画舗蔵)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-02-14

(再掲)

猫上.jpg

「其のまま地口 猫飼好五十三疋」上
1 日本橋(にほんばし)=「二本(にほん)だし(「二本の鰹節を引っ張り出す」と「出汁」との掛け)」
2 品川(しながわ)=「白顔(しらがを)の猫」
3 川崎(かわさき)=「蒲焼(かばやき)を嗅いている」
4 神奈川(かながわ)=「(猫が)嗅ぐ皮(かぐかわ)」
5 程ヶ谷(ほどがや)=「喉かい(のどかい)=喉が痒い」
6 戸塚(とつか)=「はつか(二十日鼠)を睨んでいる猫」
7 藤沢(ふじさわ)=「ぶちさば(鯖を咥えたぶち猫)」
8 平塚(ひらつか)=(子猫が)「育(そだ)つか」
9 大磯(おおいそ)=「(獲物=蛸が)重(おも)いぞ」
10 小田原(おだわら)=「むだどら(鼠に逃げられて無駄走りのどら猫)」
11 箱根(はこね)=「へこね(鼠に餌を取られてへこ寝する)」
12 三島(みしま)=「三毛(みけ)ま(三毛猫の魔物=化け猫=猫又)」
13 沼津(ぬまづ)=「鯰(なまづ)を睨んでいる猫」 
14 原(はら)=「どら(猫)」
15 吉原(よしわら)=は「ぶち腹(はら)=(腹もぶちだ)」
16 蒲原(かんばら)=「てんぷら(を食おうとしている猫)」
17 由比(ゆい)=「鯛(たい)を口にしている猫」
18 興津(おきつ)=「(猫が)起(おき)ず」
19 江尻(えじり)=「(猫が)齧(かじ)る」

猫中.jpg

「其のまま地口 猫飼好五十三疋」中
20 府中(ふちゅう)=「(猫が)夢中(むちゅう)」
21 鞠子(まりこ)=「張り子(はりこ)の猫」
22 岡部(おかべ)=「赤毛(あかげ)の猫」
23 藤枝(ふじえだ)=「ぶち下手(へた)=(ぶち猫は鼠取が下手だ)」
24 島田(しまだ)=「(魚が)生(なま)だ」
25 金谷(かなや)=「(猫の名前が)タマや」
26 日坂(にっさか)=「食(く)ったか」
27 掛川(かけがわ)=「(猫の)化(ば)け顔(がを)」
28 袋井(ふくろい)=「袋(ふくろ)い(り)=猫が頭を袋の中に入れている」
29 見付(みつけ)=「(猫の)ねつき(寝つき)」
30 浜松(はままつ)=「鼻熱(はなあつ)=猫の鼻が炭火で熱い」
31 舞坂(まいざか)=「(猫が)抱(だ)いたか」
32 新居(あらい)=「洗(あら)い=猫の顔洗い」
33 白須賀(しらすか)=「じゃらすか=子猫をじゃらすか」
34 二川(ふたがわ)=「当(あ)てがう=乳をあてがう」
35 吉田(よしだ)=「(猫が)起(お)きた」
36 御油(ごゆ)=二匹の猫の「恋(こい)」
37 赤坂(あかさか)=「(目指しの)頭(あたま)か」
38 藤川(ふじかわ)=「ぶち籠(かご)に居る猫」
39 岡崎(おかざき)=「尾(お)が裂(さ)け=尾が裂けて化け猫か」

猫下.jpg

「其のまま地口 猫飼好五十三疋」下
40 池鯉鮒(ちりゅう)=「器量(きりょう)良しの猫」
41 鳴海(なるみ)=「軽身(かるみ)を見せる猫」
42 宮(みや)=「親(おや)猫」
43 桑名(くわな)=「(猫さん、それは)食(く)うな」
44 四日市(よっかいち)=「寄(よ)ったぶち=ぶち猫が寄り合っている」
45 石薬師(いしゃくし)=「(猫が)いちゃつき」
46 庄野(しょうの)=「(猫を)飼(か)うの」
47 亀山(かめやま)=「化(ば)け尼(あま)=猫が尼に化ける」
48 関(せき)=「牡蠣(かき)=猫が牡蠣の臭いを嗅いている」
49 坂下(さかのした)=「赤(あか)の舌(した)=猫の赤い舌」
50 土山(つちやま)=「ぶち邪魔(じゃま)=猫の恋を邪魔してる」
51 水口(みなぐち)=「皆(みな)ぶち(猫)」
52 石部(いしべ)=「みじめ(な猫)」
53 草津(くさつ)=「炬燵(こたつ)の上の猫」
54 大津(おおつ)=「上手(じょうず=鼠捕りが上手)」
55 京(きよう)=「ぎやう(猫に捕まった鼠の悲鳴)」

 この「奇抜・奇想浮世絵」とでも名付けるのが相応しい「其のまゝ地口猫飼好五十三疋(そのままぢぐち・みゃうかいこう・ごじゅうさんびき) 上中下」とは、「猫飼好(みゃうかいこう)」=「東海道(とうかいどう)の地口(「言葉遊び」の「洒落(駄洒落)」=「もじり」(滑稽化・寓意化・パロディ化))」、「五十三疋(ごじゅうさんびき)」=「五十三次(ごじゅうさんつぎ)の地口(洒落・パロディ化)」、「猫好き浮世絵師・歌川国芳」の「東海道五十三次」の「其のまゝ地口(洒落・パロディ化)」ということをを意味する。
 そして、この「猫好き浮世絵師・歌川国芳(1798-1861)」は、「富士三十六景・名所江戸百景・東海道三十六景(次)」の「北斎に次ぐ巨匠・歌川広重(1797-1858)」と、全く同時代の、「同門(「歌川豊春門)」の、「初代豊国門(嫡流)・歌川国芳」と「豊広門(傍流)・歌川広重」という、相拮抗する、この二人の先輩格の「三代目豊国」と成る「歌川国貞(1786-1864)」と併せ、「歌川派第三世代の三巨匠」と称せられる、「役者絵(似顔絵)の歌川国貞」・「名所絵(風景画)の歌川広重」・「「武者絵の歌川国芳」として切磋琢磨の活動を展開することになる。
 この「歌川派第三世代の三巨匠」の、「歌川国芳」(51図)、「歌川広重」(35図)、そして「歌川国貞=(三代目)豊国」の合作の「小倉擬(なぞらえ)百人一首」がある。

小倉擬百人一首・天智天皇.png

歌川国芳画「小倉擬百人一首・天智天皇」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1313017?tocOpened=1

≪(歌)天智天皇「01 秋(あき)の田のかりほの庵(いほ)の苫(とま)を荒みわがころも手は露に濡れつつ」(後撰集 秋 302)
(見立て文=説明文)「牛若丸 一年奥羽へ下り玉ふ頃 三河国矢矧の長が家に止宿し 娘浄瑠璃姫と糸竹を合曲深く契りをかハせしことハ 世の人能知る所なり 柳下亭種員筆記」
(落款)一勇斎国芳画 上に、「改(あらため)印」が「名主の単印(?)、二つか(?)」
(見立て絵題)「御曹司牛若」
(彫工名)「彫工房次郎」
(版元)「伊場仙板」(「伊場仙=伊場仙三郎) ≫

小倉擬百人一首・式子内親王.png

歌川豊国画「小倉擬百人一首・式子内親王」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1313056?tocOpened=1

≪(歌)式子内親王(しょくしないしんのう「89 玉(たま)の緒よ絶えなば絶えね長らへば忍ぶることの弱りもぞする」(新古今集 恋 1034) 「歌題」の両脇下に「改(あらため)印が「名主印の二つ」押印(?)
(見立て文=説明文)「身に困しめを見勢蔵ハ あけていハねど主の慈悲 土扉も重き親の恩とハ知りながら 凡悩の闇路にまよふ大晦日 窓にあやなき二人が顔ハ しのびかねたる泪ぞはかなき  柳下亭種員筆記」 
(落款)「(応需)豊国画」
(見立て絵題)「久松」「おそめ」 
(版元)「伊場仙板」(「伊場仙=伊場仙三郎) ≫

小倉擬百人一首・後鳥羽院.png

歌川広重画「小倉擬百人一首・後鳥羽院」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1313010?tocOpened=1

≪(歌)後鳥羽院「人(ひと)も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑにもの思ふ身は」
(続後撰集 雑 1202)
(見立て文=説明文)「仮令こがれて死ぬれバとて 雲井に近き御方に不及恋と嘆しハ 鮨屋の娘が凡悩の攣 仏を棍徒て 輪廻を不離はなるヽハ 今此時とハ あぢきなき世を見限し惟盛卿が菩提の首途 これや錠の種と見る 若葉内侍六代君の 物思ふをもふりすてヽ 高野の山にぞ入玉ひける  柳下亭種員筆記」
(落款)「広重画」 上に、「改(あらため)印」が「名主印が二つ」押印(?)
(見立て絵題)「三位中将惟盛」「お里」
(版元)「伊場仙板」(「伊場仙=伊場仙三郎)  ≫

 上記の「見立て文=説明文」及び、下記の「別記(「歌川国芳・51図」「歌川広重・35図」「歌川(三代)豊国=国貞・14図」)」などは、下記のアドレスを参考とした。また、「浮世絵」関連(「改印」「名主印」「版元」など)は、『浮世絵の見方事典(改印解説・落款一覧付)・吉田漱(北辰堂)』などを参考とした。

http://ukiyoe.cool.coocan.jp/100/100-thumb01.htm

(別記)「別記(「歌川国芳・51図」「歌川広重・35図」「歌川(三代)豊国=国貞・14図」)」

絵師:歌川国芳 → 51図
01:天智天皇(御曹司牛若丸) 02:持統天皇(最明寺時頼・白妙) 03:柿本人麿(加賀千代)04:山辺赤人 05:猿丸太夫 07:安部仲麿(名古屋山三郎) 08:喜撰法師(入道頼政) 10:蝉丸(濡髪長五郎) 11:参議篁(源義経・志度の蜑) 13:陽成院(鬼若丸) 14:河原左大臣(文ひろげの狂女) 16:中納言行平(松王丸妻・小太郎) 17:在原業平朝臣(花和尚魯智深) 19:伊勢(政右エ門妻お谷) 20:基良親王(晋の豫譲)22:文屋康秀(安徳天皇・典侍の局) 23:大江千里(白拍子祇王)25:三条右大臣(怪童丸・卜部季武  26:貞信公(祇園女御) 28:源宗于朝臣(金輪五郎今国) 29:凡河内躬恒(白菊丸) 31:坂上是則(佐藤忠信) 32:春道列樹(絹川与右エ門) 34:藤原興風(樋口次郎兼光) 35:紀貫之(苅萱道心・石働丸) 37:文室朝康(玉藻前) 38:右近(俊寛) 41:壬生忠見(長谷部信連) 44:中納言朝忠(遠藤武者盛遠) 47:恵慶師(平相国清盛) 49:大中臣能宣朝臣(神谷仁エ門) 50:藤原義孝(関羽) 53:右大将道綱母(藤屋伊左エ門) 55:大納言公任(雪姫) 56:和泉式部(悪七兵衛景清) 59:赤染衛門(八百屋半兵衛) 61:伊勢大輔(矢田平九重太夫) 64:権中納言定頼(こし元千鳥) 65:相模(京極内匠・おきく) 68:三条院(法界坊) 73:前中納言匡房(無官太夫敦盛) 75:藤原基俊(亀屋忠兵衛・梅川・孫右エ門) 76:法性寺入道前関白太政大臣(袴垂保輔) 82:道因法師(大星由良之助・大星力弥) 85:俊恵法師(俣野五郎・おし鳥霊) 88:皇嘉門院別当(足軽市右エ門) 90:殷富門院大輔(高野師直・かをよ御前)91:後京極摂政前太政大臣(清玄尼・松若丸) 94:参議雅経(女夫狐) 97:権中納言定家(日向勾当・娘人丸) 100:順徳院(大尾)

絵師:歌川広重 → 35図  
06:中納言家持(いばらきの化身・渡辺源二綱) 09:小野の小町(園部左衛門) 12:僧正遍昭(白拍子仏御前) 15:光孝天皇(巴御前) 18:藤原敏行朝臣(阿古屋) 21:素性法師(梅若丸・信夫惣太) 24:菅家(高雄) 27:中納言兼輔(狐葛の葉・安部童子)30:壬生忠岑(覚寿・かりや姫) 33:紀友則(三井寺狂女) 36:清原深養父(兵衛左頼朝・伊東娘辰姫) 39:参議等(宗玄) 40:平兼盛(伊賀局) 42:清原元輔(わん久)43:中納言敦忠(建礼門院) 45:謙徳公(八百屋お七) 46:曾称好忠(薄雪姫・渡し守)48:源重之(こしもとお菊) 51:藤原実方朝臣(重氏御台・千鳥の前)  54:儀同三司母(稲川治郎吉・おとわ) 57:紫式部(勇侶吉郎・鹿野苑軍太夫) 60:小式部内侍(はつ女) 63:左京大夫道雅(小まん) 66:前大僧正行尊(久我之助) 69:能因法師(宿祢太郎・立田の前) 71:大納言経信(阿古義平治・平河原二郎蔵) 72:祐子内親王家紀伊(八重垣姫) 78:源兼昌(熊谷次郎直実) 79:左京大臣顕輔(梅の由兵衛・長吉・源兵衛堀源兵衛) 81:後徳大寺左大臣(高橋弥十郎・妻さつき) 84:藤原清輔朝臣(桜丸・
八重) 87:寂蓮法師(八重桐) 93:鎌倉右大臣(義峯・おふね) 96:入道前太政大臣(不破伴左エ門) 99:後鳥羽院(三位中将惟盛・お里)

絵師:歌川(三代)豊国=国貞 → 14図
52:藤原道信朝臣(大平次・およね) 58:大弐三位(横山太郎・妻浅香) 62:清少納言(菅丞・判官代輝国) 67:周防内侍(白井権八) 70:良暹法師(石富武助・妹於花)74:源俊頼朝臣(鳴神上人・雲のたへま) 77:崇徳院(宮城阿蘇次郎・みゆき) 80:侍賢門院堀川(山崎屋与五郎・藤屋あずま) 83:皇太后宮太夫俊成(赤沢十内・大藤内)86:西行法師(弁慶・静御前)89:式子内親王(おそめ・久松) 92:二条院讃岐(矢間重太郎・妻おりえ) 95:前大僧正慈円(大伴黒・小町桜霊) 98:正三位家隆(団七九郎兵衛・一寸徳兵衛)

 これらの『小倉擬百人一首』の全体像を把握するためには、下記のアドレスの、「見立て絵を読み解くために」(?)が参考となる。

https://www.nijl.ac.jp/koten/kokubun1000/1000yamashita5.html

【 34:藤原興風(樋口次郎兼光)

藤原興風.png

「見立て」とは、ある1点だけ共通する違うものを連想すること。日本の文化や芸能に深く関わる「風流・やつし」という「古典の当世化」とは異なり、主に江戸時代中期以降に遊びの一種として流行した表現様式である。
  藤原興風(おきかぜ)の和歌「誰をかも知る人にせん高砂の松も昔の友ならなくに」は、友が皆死んでしまい、1人生き残った老人の孤独を詠んだもの。『小倉擬~』は、これを木曽義仲の家来である樋口次郎兼光が松に登る姿に見立てた。
説明文には、浄瑠璃『ひらかな盛衰記』のあらすじが記される。主君義仲が源義経に攻められて戦死し、生き残った樋口は大坂の船頭・松右衛門に身をやつす。
 松右衛門は、船を逆走させる「逆櫓(さかろ)」という漕こぎ方ができたため、海戦に備える梶原景時から義経の船の船頭に雇われ、復讐(ふくしゅう)の機会をうかがう。逆櫓の練習中、松右衛門が樋口であることを知った梶原の手下の船頭仲間に襲われる。松右衛門は手下たちを打ち据えたが、周囲の物音に気づいて松によじ登って見渡すと、既に源氏の軍に囲まれていた。
 これは、樋口の舅(しゅうと)が、預かっている義仲の息子・駒若を助けるため、「松右衛門が樋口だ」と訴えたからだった。樋口は主君に忠義を立てられると喜び、自分で首を掻かき落として死ぬ。
 一方、『平家物語』によると、樋口は義仲の四天王の1人である勇猛な武将だが、敵を攻めに行っていた時、主君は義経に亡ほろぼされてしまった。樋口は1人生き残って捕虜となるが公家たちの強い希望で殺される。生き恥をさらし、結局殺された勇者の哀れさに、『平家物語』を知る人々は深く同情した。そうした同情から浄瑠璃は創られたのである。
 『小倉擬~』は和歌の「松」を大坂の逆櫓の松に見立て、全体の意味を、主君と共に死ねなかった樋口次郎兼光の哀れさとした。 】

 さらに、これらの「歌川派第三世代の三巨匠」の、「歌川国芳・広重」、そして「歌川国貞=(三代目)豊国」の合作は、この「小倉擬(なぞらえ)百人一首」の他に、下記のアドレスなどにより、歌川広重の代名詞ともなっている『東海道五十三對(次)』の、そのシリーズの作品の一つとして、「広重写: 22点(図)」、「国芳画」と書かれた作品数が30点(図)、「(三代)豊国画」と書かれた作品8点(図)も、現存している。

http://ukiyoe.cocolog-nifty.com/blog/cat22665893/index.html

「補説1」 異版・変わり図の存在
「補説2」 複数の絵師と版元による合同制作
「補説3」 『東海道名所図会』の記事の影響

 これらのことについては、ここでは言及しないで、そもそも、これらの「「歌川派第三世代の三巨匠」の、≪「歌川国芳・広重」そして「歌川国貞=(三代目)豊国」≫の、その原流の「歌川派の開祖・歌川豊春」(1735-1814)の、下記アドレスで紹介した、「浮絵付きのぞきからくり(一・二)」(「看板は歌川豊春画「阿蘭陀(おらんだ)雪見之図」)に見られる、この「洋風浮世絵」(遠近法を駆使した「浮絵」など)を継承しているのは、「歌川国芳」ということになろう。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-06-02

(再掲)

のぞきからくり(直視式のぞき眼鏡).jpg

「浮絵付きのぞきからくり(一)」(「のぞきからくり(直視式のぞき眼鏡)」)

歌川豊春画「阿蘭陀(おらんだ)雪見之図」.jpg

「浮絵付きのぞきからくり(二)」(「看板は歌川豊春画「阿蘭陀(おらんだ)雪見之図」)

忠臣蔵十一段目夜討之図.jpg

歌川国芳「忠臣蔵十一段目夜討之図」 江戸時代、天保2年頃/1831年頃 木版色摺 横大版 25.4×37.2 神戸市立博物館蔵
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365063
【 仮名手本忠臣蔵のクライマックス、雪夜に大星由良之助をはじめとする義士たちが主人の敵である高師直の館を襲撃する場面。忠臣蔵をテーマとした浮世絵の多くが歌舞伎に取材した芝居絵で、館内部での乱闘ぶりを描くものが多いのですが、本図は、雪の街路から塀を登り、館内への侵入を試みる義士たちの姿を描いてはいます。表題がなければ忠臣蔵の場面とは認識できない光景で、雪に覆われているとは言え、当時の日本の武家屋敷としては異様な雰囲気があります。
 長崎に舶来し、石川大浪→歌川国芳と伝来したと思われる、オランダの地理書・ニューホフ『東西海陸紀行』の銅版挿図のひとつ、「バタヴィアの町の役人と職人の家」を転用しています。オランダ風とも東南アジア風とも言える異国の住宅を高師直の城館に、オランダ人を大星由良之助に描き換えています、さらに椰子を松に、南国の強い日差しにみちた空を満月の冬空に置き換え、熱帯バタヴィアの風景を、雪景色のなかの緊迫感溢れる討ち入りの瞬間に変身させています。

来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館

参考文献:
・神戸市立博物館特別展『異国絵の冒険』2001
・神戸市立博物館『まじわる文化 つなぐ歴史 むすぶ美―神戸市立博物館名品撰―』図録 2019
・勝盛典子「大浪から国芳へ―美術にみる蘭書需要のかたち」(『神戸市立博物館研究紀要』第16号) 2000   】(「神戸市立博物館」)

東西海陸紀行 オランダ語版.jpg

「東西海陸紀行 オランダ語版」(部分拡大図) ニューホフ著 アムステルダム刊 
/1682年 銅版(挿絵) 39.0×25.0 神戸市立博物館蔵
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365249
【 1640年のブラジル赴任以降、バタヴィア、北京、インドと世界各地をめぐったヨハン・ニューホフ(1618-1672)のスケッチ入りの日記をまとめ、本人の没後に出版された旅行記。江戸時代の日本にも舶載されて石川大浪が入手、大槻玄沢の『蔫録』の大浪画の挿絵に用いたり、玄沢門下の地理学者で、大浪とも親しい関係にあった山村才助(1770−1807)がその内容を翻訳するなど、当時の蘭学者らにとって最も重要な世界地理情報源のひとつでした。大浪の死後、浮世絵師歌川国芳(1797−1861)の手に渡ったらしく、「忠臣蔵十一段目夜討之図」や「二十四孝童子鑑」など、国芳の洋風版画の原図としても利用されました。

来歴:2001神戸市立博物館

参考文献:
・神戸市立博物館『まじわる文化 つなぐ歴史 むすぶ美―神戸市立博物館名品撰―』図録 2019
・勝盛典子「亜欧堂田善鐫「コロンブス謁見図」をめぐって」(『神戸市立博物館研究紀要』第22号) 2006   】(「神戸市立博物館」)

近江の国の勇婦於兼.jpg

歌川国芳「近江の国の勇婦於兼」(太田記念美術館蔵) 1830年代 木版色摺 横大版 25.4×37.2 
http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/exhibition/2011_kuniyoshi
【 中世日本の説話を集めた13世紀に成立した『古今著聞集』巻十「相撲強力」に、近江の国に住んだという「金(かね)」という遊女の話がある。東国からやってきた武士、乗ってきた馬を琵琶湖に入らせて休ませていたところ、突然暴れだす。そこへ遊女の「金(かね)」が通りかかり、下駄を履いたまま馬の端綱(はづな)を踏みつけて馬を曳き止めたという。
 この説話に基づく本図で歌川国芳は、陰影表現を強調した洋風の背景と典型的な美人図として描かれた「金(この錦絵では「於兼」)の意表をつく組み合わせで、この豪快な一場面を幻想的な世界に仕立てている。
 特に、「金(於兼)」の怪力で急停止させられ、衝撃で後ろ足で宙を激しく蹴り上げようとする暴れ馬は、微妙な陰影表現で筋骨隆々とした立体感と重量感を示し、浮世絵らしく平板に描かれた怪力女と見事に対比をなしている。
 近年の研究により、この「暴れ馬」は『イソップ物語の銅版挿絵「馬とライオン」から着想していることが判明した。 】(『まじわる文化 つなぐ歴史 むすぶ美―神戸市立博物館名品撰―図録 2019』所収「作品解説126」)

イソップ物語・馬とライオン.jpg

「イソップ物語 フランス語版」(部分拡大図) フランシス・バーロウ画、パリ刊 1810年頃 銅版(挿絵) 25.5×18.5 (神戸市立博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/431682
【 動物の性格や行動にことよせた、風刺と教訓からなる説話集。紀元前6世紀頃の、ギリシア・トルコあたりの奴隷であったイソップが語った物語が口伝えでのこり、15世紀頃から様々な国の言葉に訳されて出版されるようになりました。本書は、イギリスの画家で彫刻師のフランシス・バーロウ(1626?~1702)の挿絵本の模作です。記録によると石川大浪はそのフランス語版を所持していたようで、それは、このバーロウ系統の挿絵本と考えられます。大浪本イソップやがて歌川国芳の手に渡り、「近江の国の勇婦お兼」の馬のイメージに転用されました。

来歴:1999神戸市立博物館
参考文献:
・神戸市立博物館『まじわる文化 つなぐ歴史 むすぶ美―神戸市立博物館名品撰―』図録 2019
・勝盛典子「大浪から国芳へ―美術にみる蘭書需要のかたち」(『神戸市立博物館研究紀要』第16号) 2000  】(「文化遺産オンライン」)

東都名所 浅草今戸.jpg

歌川国芳「東都名所 浅草今戸」(太田記念美術館蔵) 木版色摺 横大版
http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/exhibition/2011_kuniyoshi

東都名所・浅草今戸・東西海陸紀行.jpg

「東西海陸紀行 オランダ語版」(部分拡大図)
http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/exhibition/2011_kuniyoshi

 上記の「歌川国芳」の「東都名所」(全10図)周辺については、下記のアドレスで紹介されている。

http://www.photo-make.jp/hm_2/kuniyoshi_kisou_2_1.html

東都三ッ股之図.jpg

歌川国芳「東都三ッ股之図」(シカゴ美術館蔵)  木版色摺 横大版
https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/Kuniyoshi-TotoMitsumata//
【 手前に船腹を焼く船大工が二人。この作業は船の防腐のため。貝を獲る女性や、船で荷物を運ぶ姿なども描く。画面右に大きく永代橋を描き、その向うは佃島。左の遠景には万年橋が描かれ、その近くに不思議な形状の巨大建造物が建つ。これは、この絵から約180年後に建つ「東京スカイツリー」に似た建造物が建っていると話題になった。

東京スカイツリーに似た建造物.jpg

「東京スカイツリーに似た建造物」(歌川国芳「東都三ッ股之図」の「部分拡大図)

 井戸掘りの櫓ではないかともいわれるが、それにしても高い。左に火の見櫓が見られるが、これもかなり高く描かれているので誇張があると思われる。右奥の佃島にも大きな櫓が建つ。葛飾北斎も、「冨嶽三十六景 東都浅艸本願寺」で大きな櫓を描いている。

冨嶽三十六景 東都浅艸本願寺.jpg

葛飾北斎「冨嶽三十六景 東都浅艸本願寺」

 上記のアドレスで、「シカゴ美術館・ボストン美術館・メトロポリタン美術館」が所蔵する版を見ることができる。 】(「歌川国芳『東都三ッ股之図』-『浮世絵・錦絵』などを見る ―」)

【 「洋風画表現にみる歌川国芳の試み─透視図法と陰影表現を中心に─中山創太稿」

洋風画表現にみる歌川国芳.jpg

(はじめに)

歌川国芳(寛政9 ‒文久元年・1797-1861)の作品に洋風画表現が採られていることは、従来の研究から指摘されており、『増補浮世絵類考』(斎藤月岑編、天保15年・1844)、『浮世絵師歌川列伝』(飯島虚心著、明治26年・1893)などの浮世絵研究の基本文献からもそれらに関する記述を見出せる。1)後書には、国芳が実際に「西洋画」を所持していたことが記されているものの、具体的にどのような作品であったのか、という点は推測の域をでなかった。もちろん、国芳が洋風画表現を採り入れる以前から、他の浮世絵師による作品が確認されており、それらを参考にしていた可能性も仄めかされる。なかでも、延享期(1744-47)に創始された「浮絵」はその代表的な例として挙げられよう。
 諸氏の研究によって、国芳の作品と類似する洋書挿絵や銅版画の存在が示唆される中、近年勝盛典子氏2)が当時日本に輸入されていた洋書の挿絵から国芳が図様を転用していたことを提示した。これにより、国芳が実際にそれらを所持、少なくとも実見する機会を有していたことが明らかになったのである。
 ところで、これまでの研究において、国芳が典拠とした図様がいくつか提示されているものの、国芳が何故それらを採り入れたのか、という点はあまり追求されなかった。国芳は洋書挿絵の図様を自身の作品に採り入れる際、単に転用するのではなく典拠となる作品とは異なる場面を描いたり、図様に改変を加えたりするなどの工夫を加えている。とりわけ、嘉永・安政期(1848-59)頃になると、国芳は従来の武者絵にみられる人物描写を採りながらも、彩色による陰影表現を多用した折衷的な画面を形成していたといってよい。このような極端に採り入れられた洋風画表現には、何らかの意図がくまれていたのではないだろうか。
 そこで、本論では洋風画表現、つまり透視図法と彩色による陰影法が見受けられる国芳の作品を中心に考察し、その受容と改変の様相を明らかにしていきたい。また、同時代の絵師と比較することによって、個々の絵師の洋風画表現受容の差異を提示する。結論として、国芳は対象によってそれらを使い分けていたことを指摘し、「写実的」に描くことだけでなく、当時流入していた新しい情報を表現すべく用いていたことを提示していきたい。

一、国芳の作品にみる洋風画表現

国芳の洋風画表現への関心が仄めかされる作品は、文政末期に刊行された《絵本合邦辻》(文政9 年・1826、大判錦絵三枚続)、《忠臣蔵十一段目両国橋勢揃図》(文政10年・1827、大判錦絵三枚続)などの画業の早い段階からみられることが指摘されている。同時期の作品で、国芳の浮世絵師としての地位を確立したとされる《通俗水滸伝豪傑百八人之一個(一人)》(文政10‒天保7 年頃・1827-36、以下、《通俗水滸伝》に略称)においても洋装の人物や陰影表現を確認できる。この洋風画表現の探究は晩年の作品にまで見出すことができ、国芳のそれらに対する関心は一時的なものではなく、画業を通してみられるのである。《通俗水滸伝》刊行後の作品を中心に、天保期、弘化-嘉永期、安政-万延期の3 期に分けて洋風画表現が確認できる作品をみていくことにする。

1 )天保期(1830-43)
 天保初期は、葛飾北斎(宝暦10‒嘉永2 年・1760-1849)の《富嶽三十六景》(天保元‒ 5 年頃・c1830-34、横大判錦絵)や歌川広重(寛政9 ‒安政5 年・1797-1858)の《東都名所》(天保2 年頃・c1831)、《東海道五十三次》(天保4 - 6 年頃・1833-35)などの風景画(名所絵)が盛んに制作される時期にあたる。
 このような中で国芳は、天保2 - 3 年(1831-32)頃に《東都〇〇之図》、天保3 - 4 年
(1832-33)頃に《東都名所》の揃物を制作している(両揃物ともに横大判錦絵)。これらの作品は銅版画を意識したような細い線描が用いられ、空や雲、煙などの表現から彩色による陰影表現が看取される。一方で、国芳は先に挙げた絵師の作品と同趣向の《東海道五拾三駅〇宿名所》(天保前期、横大判錦絵)も制作しており、それらの作品からは極端な陰影表現や細い線描は見出せず、北斎、広重の人気にあやかった作品であることが示唆されている。
 では、洋風画表現がみられる作品をみていきたい。まず、《東都名所浅草今戸》(図1 )は、勝原良太氏によって『東西海陸紀行』から図様が転用されていたことが明らかにされている。勝原氏が指摘するように、国芳は鋤を使う人物のポーズや、くの字型に上昇する煙などを場面に合うように転用している。なお、鈴木重三氏によって亜欧堂田善(寛延元‒文政5 年・1748- 1822)の《今戸瓦焼之図》(紙本銅板)が下敷きになっていた可能性も示唆されており、国芳は周囲に存在する作品を参考に本作品を制作していたといってよい。6)しかし、国芳は、ただ図様を転用するだけでなく、いくつかの改変を加えている。描かれる煙の表現は、典拠のものに比べて線描が抑えられ、彩色の濃淡によって表された、上昇する雲の表現が見て取れる。また、最前景に一本の木、中景に人物や窯、その奥には焼き上がった瓦を整理する人物、隅田川を挟んだ遠景に山、空を配することで奥行きを持たせるといった画面構成に国芳の工夫が垣間見えよう。
 《東都三ッ股の図》(図2 )は、前景に岸で作業する船大工の姿が描かれ、中景に隅田川を挟み、さらに後景に街並を配することで、観者の視線を手前から画面奥へと導いていく。この透視図法は、先に述べた「浮絵」に採られた画法であるが、国芳はそれを上手く処理している。《東都名所かすみが関》(図3 )においては、画面中央の坂は仰視するように、両脇の屋敷の塀は画面に奥行がみられ、一つの画面に異なる視点が存在している。実際にこの作品を手にとった人が描かれた場面に入り込み、坂の途中から見上げた光景を、そのまま描き出しているかのようである。
 一方で、《東都首尾の松之図》(図4 )は、極端にクローズアップされた蟹や、画面上部に配された蒲公英、盛り上がった土のようなもの、その頂きにみられる船虫が中心に描かれている。浅野秀剛氏は石垣、松、屋根舟といった、同所の典型的な図様が描かれていないと指摘している。「首尾」という景色よりも、国芳の視線は蟹や船虫といった生物に向けられており、洋風画表現を用いるとともに、従来の型に囚われない名所絵を制作することに注がれているようにも思われる。
 このように、国芳は西洋画法を採り入れながら画面の奥行きや視点に工夫を凝らすことで新たな表現を模索していた可能性が示唆される。勝原氏が「国芳の変換術は巧みなもの」と指摘するように、自身の作品に違和感なく適合させている点からも、国芳の構成の上手さが窺い知れる。そして、国芳の関心は実景を描く「写実的」な風景を描くことよりも、むしろ「遠近法」という技法、すなわち画面構成に趣向を凝らすことだったのではないだろうか。
 (「図3《東都名所かすみが関》」と「図4《東都首尾の松之図》)」とは省略)

2 )弘化-嘉永期(1844-53)  (省略)
3 )安政-万延期(1854-1860) (省略) 

二、浮世絵にみる洋風画表現 (省略)
三、国芳の洋風画表現受容の意図(省略)
おわりに           (省略)     】

≪ 歌川国芳
没年:文久1.3.5(1861.4.14)
生年:寛政9.11.15(1798.1.1)
江戸末期の浮世絵師。江戸日本橋生まれ。はじめの姓は不明だが,のちに井草氏を継ぐ。幼名芳三郎,のちに孫三郎。一勇斎,朝桜楼などと号した。文化8(1811)年ごろに初代歌川豊国に入門したが,不遇の時期が長く続いた。文政(1818~30)末ごろ文芸界の『水滸伝』ブームに乗じて発表した「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」の錦絵シリーズが当たりを取り,「武者絵の国芳」としてようやく人気絵師の仲間入りを果たした。
以後,錦絵,読本・合巻・滑稽本の挿絵と幅広く活躍し,国貞,広重と共に歌川派の三巨匠のひとりに数えられた。武者絵の代表作は3枚続きの画面に対象を巨大に描いたものに多く,「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」「相馬の古内裏」などがあげられる。武者絵以外では,天保(1830~44)前期に「東都名所」「東都○○之図」などの風景版画シリーズで近代的な感覚を見せ,同後期の「金魚づくし」,弘化(1844~48)末ごろの「荷宝蔵壁のむだ書」などの遊び心に満ちた戯画も注目される。
門人の育成にも尽力し,門下から芳虎,芳幾,芳年らの俊才が輩出した。画業においては銅版画の作風を学ぶなど旺盛な吸収力を見せ,観る者を驚かせ喜ばせるサービス精神にも富んでいる。人間的には侠気のある親分肌で,ときに幕政を風刺する反骨精神もあったが,一方では猫をこよなく愛するなど,人間的な魅力に富んだ人物であった。<参考文献>鈴木重三『国芳』
(大久保純一)  ≫(出典「朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版」)


(追記) 「『歌川国芳』のあれこれ」

https://nangouan.blog.ss-blog.jp/2017-09-10


国芳人3.jpg

歌川国芳画「人をばかにした人だ」
≪人の心はさまざまなものだ 
いろいろくふうして
よふよふ一にんまへになった≫

https://nangouan.blog.ss-blog.jp/2017-09-18


国芳・人4.jpg

歌川国芳画「としよりのよふな若い人」
≪いろいろな人がよって
わたしのかほをたてゝおくれで
誠にうれしいよ
人さまのおかげで
よふよふ人らしい
かほになりました≫

https://nangouan.blog.ss-blog.jp/2017-09-22


国芳1.jpg

歌川国芳画「みかけはこはゐがとんだいゝ人だ」
≪大ぜいの人がよってたかって
とふと
いゝ人をこしらへた
とかく人のことは
人にしてもらはねば
いゝ人にはならぬ≫

https://nangouan.blog.ss-blog.jp/2017-09-27


国芳・人1.jpg

歌川国芳画「人かたまって人になる」
≪人おほき
人の
中にも
人ぞなき
人になれ人
人になせ人≫

https://nangouan.blog.ss-blog.jp/2018-03-08


朝比奈小人島遊.png

「朝比奈小人島遊(あさひなこびとじまあそび)」 大判三枚続 一勇斎国芳戯画/芳桐印
名主双印 村松・吉村 弘化末~嘉永元年(1848)

https://nangouan.blog.ss-blog.jp/2018-03-09


相馬の古内裏.jpg

「相馬の古内裏(そうまのふるだいり)」 大判錦絵3枚続 / 右37.1×25.5cm 中37.3×25.2cm 左37.2×24.1cm/天保(1830-44) 一勇斎国芳戯画/芳桐印 名主単印 渡

https://nangouan.blog.ss-blog.jp/2018-03-09-1


宮本武蔵と巨鯨.jpg

「宮本武蔵と巨鯨(みやもとむさしときょげい)」 大判三枚続 右 36.7cm×25.1cm
中 36.9cm×25.1cm 左 36.9cm×25.0cm 一勇斎国芳戯画/芳桐印 名主双印 米良・村田 弘化4年(1847)~嘉永三年(1850)

https://nangouan.blog.ss-blog.jp/2018-03-10

讃岐院.jpg

「讃岐院眷属をして為朝を救くふ図」 一勇斉国芳(歌川国芳)版元・鳳来堂 住吉屋政五
郎 嘉永四年(1851)東京国立博物館蔵 大判三枚続 芳桐印 名主双印  米良・渡辺
右  37.3×25.5 中 39.1×25.5 左 37.1×25.2

https://nangouan.blog.ss-blog.jp/2018-03-11


鬼若丸.jpg

「鬼若丸と大緋鯉」 大判三枚続  右 35.6cm×24.7cm 中 35.6cm×24.7cm 左
35.5cm×24.7cm 一勇斎国芳戯画/芳桐印 名主単印 米良 弘化元年(1844)~三年
(1846) 美濃屋忠助

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-02-13


国芳.jpg

「歌川国芳 大物浦(だいもつのうら)」 嘉永三年(1850)前後

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-02-16


たとゑ尽の内.jpg

「歌川国芳「たとゑ尽の内(たとえづくしのうち)」 大判三枚続

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-14


流光雷づくし.jpg

歌川国芳「流光雷づくし」 大判 天保13年(1842)

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