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日本画と西洋画との邂逅(その十四) [日本画と西洋画]

(その十四)「司馬江漢・亜欧堂田善」そして「石川大浪・北山寒巌・鈴木南冥・安田田騏」など

石川大浪・獅子図.jpg

「獅子図」≪石川大浪筆 (1762-1818)≫ 江戸時代、文化2年/1805年 絹本淡彩
28.4×19.7cm 1面 落款: 「Leo Getekent in boenkwa2. Tafel Berg」 神戸市立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/379254
【 大浪はアフリカ南端の喜望峰にそびえる「大浪山」のオランダ名「Tafel Berg」を、弟・孟高も「Tafel Berg」隣の「Leeuw Berg(獅子山)」をサインに用いています。本図は弟の号にちなんで選ばれた画題と思われ、「Leo Getekent boenkwa 2. door Tafel Berg (獅子、文化2年にターフェルベルフが描く)」と記されます。原図は大浪所蔵の仏語版イソップ物語の銅版挿絵と推定されます。
来歴:1999神戸市立博物館
参考文献:
・勝盛典子「大浪から国芳へ―美術にみる蘭書需要のかたち」(『神戸市立博物館研究紀要』第16号) 2000 】(「文化遺産オンライン」)

紅毛婦女図.gif

「紅毛婦女図」≪石川大浪筆 (1762-1818)≫ 江戸時代、寛政年間/1789年から1801年
絹本淡彩 96.6×32.4cm 1幅 落款:「Tafel Berg」印章:「SK」(朱文長円印) 神戸市立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/443963
【 墨の濃淡を用いてドレスの襞や女性の顔の陰影を巧みに表現し、唇などに薄い朱を効果的にさして、高い気品と妖艶さを感じさせる作品となっています。
 石川大浪は天明〜文化期の旗本で、大番の役目で6年に一度は大坂に在勤し、文人・収集家として有名な木村蒹葭堂をしばしば訪れました。享和元年(1801)の蒹葭堂宛ての大浪書翰に「先頃御頼之画染筆仕上候」とある。大ぶりの美しい蘭字サイン「Tafel Berg」は寛政末から享和年間に大浪が用いたもので、八双部に蔵書印「蒹葭堂記」が捺されることから、本図が蒹葭堂に求められて大浪が贈った作品と認められます。
 近年の研究により、本図と酷似するイギリス製銅版画が存在することがわかりました。18世紀中期に制作された「田園生活」と題するシリーズ物の版画(原作者はフィリップ・メルシエ)の中に、石川大浪による本図と同様のポーズをとる、笠形の帽子をかぶり、羊毛を巻きつけた糸巻き棒を抱え持ち、両手で糸を紡ぎ出している少女の姿を描いた作品があります。この作品は当時絵画複製技法としてイギリスを中心に流行していたメゾチントという銅版技法を駆使して、写真を思わせるような立体感と陰影が表出されています。西洋版画の最先端の階調表現に、石川大浪は東洋の伝統的な水墨技法で肉薄しようとしたのです。
来歴:木村蒹葭堂・・→1933池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
考文献:
・塚原晃「メゾチントと洋風画 ―石川大浪筆『紅毛婦女図』の原図を中心に」『國華』1498号(2020)
・塚原晃「石川大浪筆[紅毛婦女図]」(神戸新聞朝刊 2019.7.11)
・神戸市立博物館特別展『日本絵画のひみつ』図録 2011
・勝盛典子『近世異国趣味の史的研究』臨川書店 2011
・勝盛典子「大浪から国芳へ―美術にみる蘭書需要のかたち」(『神戸市立博物館研究紀要』第16号) 2000 】(「文化遺産オンライン」)

≪ 石川大浪
没年:文化14(1817)
生年:明和2(1765)
江戸後期の洋風画家。旗本で大御番組頭を勤める。名を乗加,通称甲吉,のち七左衛門。大浪は号で,別号に董松軒,董窓軒。絵は狩野派から始めたが,杉田玄白,前野良沢,大槻玄沢らと交わり,寛政年間(1789~1801)には蘭学者としても知られ,この間に舶来洋書の挿絵や銅版画を写し西洋画法を研究した。オランダ人画家ウィレム・ファン・ロイエンの油彩の静物画を弟孟高と共に模写した作品には,寛政8(1796)年の大槻玄沢の賛がある。油絵の遺作はなく,墨画か淡彩画による洋風画で,「西洋婦人図」「天地創造図」などがある。(三輪英夫)   ≫
(出典「朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版」)

 石川大浪(1765-1817)は、司馬江漢(1747-1818)や亜欧堂田善(1748-1822)よりも、一回り年少であるが、その活躍した時期は、全くの同時代の人と言って差支えないであろう。そして、大浪は、大御番組頭(江戸城警護および江戸市中の警備に当たった組頭の一人)の上級の旗本出身で、浮世絵の鈴木春信門下から出発した江漢や、陸奥(福島)須賀川の染物業出身の田善とは違って、同じ趣味をもつ白河藩主となった松平定信(1758-1829)などとの親交も厚く、その定信の部下の一人の谷文晁(1763-1840)などは、大浪を「泰西画法」の師と仰いでいるほどの、当時の「洋風画」そして「蘭学」の大立者の一人ということになる。

ハイステル像.gif

「ハイステル像」≪北山寒巌筆 (1767-1801)≫ 江戸時代/18世紀後期 絹本著色 83.6×39.9cm 1幅 落款:「door Van Dijk.」題:「LAURENS HEISTER, M.D./en Hoogleexaar In Helmstad.」 ドドネウス『本草図譜』の写し(紙本墨書)が付属 神戸市立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/445483
【 墓所法源寺の碑によると、寒巌(かんがん 1767〜1801)の父は神官の馬道良(ばどうりょう)。江戸麻布(あざぶ)に生まれ、諱を孟煕(もうき)、字を文奎(ぶんけい)といいます。
 学問に精敏で、絵事に巧妙であり、父が命を受けて天文台の両天儀の修繕をした時に補佐をしました。また、西洋人の館舎に出入りし、その国の学問と書画に優れたため、フランドルの画家ファン・ダイクにちなみ「樊泥亀(はんでいき)Door van Dijk」の名を用いたといいます。
 漢画をよくし、花鳥画や洋風画にも佳作をのこします。『紅毛雑話』にはヨンストン『動物図譜』から「鰐之図」と「獅子之図」を描きます。田能村竹田(たのむらちくでん)は著書で、35歳という若さで亡くなった寒巌の才能を惜しんでいます。
来歴:大槻磐水家→1934池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・橋本寛子「北山寒巌筆《ヘイステル像》をめぐって」(『美術史』60(2) 2011) 】(「文化遺産オンライン」)

≪ 北山寒巌 
没年:享和1.1.18(1801.3.2)
生年:明和4.10.26(1767.12.16)
江戸中期の画家。姓は馬,名は孟煕。長崎に渡来し帰化した明国人馬栄宇の子孫。江戸に生まれる。浅草の橋場明神の宮司で絵をよくした父馬道良に漢画を学ぶ一方,蘭学者と交わって洋風画も描き,森島中 良の『紅毛雑話』(1787)などに挿絵がある。フランドルの画家ヴァン・ダイクにちなむ汎泥亀の号を持っていた。(佐藤康宏)  ≫(出典「朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版」)

虫合戦図・南溟.jpg

「虫合戦図」≪(春木)南溟≫ 江戸時代、嘉永4年か/1851年か 絹本著色 53.7×85.2
1幅 款記「Namumeji/tahamule ni jegacu」 朱文鼎印「南溟」 軸書裏に「嘉永辛亥暮春、応好春木南溟図之、国府津伊達家蔵」 神戸市立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/441826
【 一連の「虫合戦図」に「 Namumei」と記し、作者とされてきた春木南溟は開明的な大名としてられる松平春嶽 や北方探検家の松浦武四郎と交流があったと言われ、日本を取り巻く国際情勢に少なからぬ関心を抱いていたことが想定されます。ペリー来航以前に日本人は、 2つの衝撃的な海外ニュースを経験していました。ひとつは 1840 年勃発のアヘン戦争。いまひと つは、19 世紀初頭にヨーロッパの大半を支配下においたナポレオンの出現です。 江戸時代の後期、ヨーロッパでの戦闘を描いた舶来版画をベースに描かれた洋風戦闘風景 図が、肉筆・版画を問わず、しばしば現れるようになります。確かにその現存例はペリー来航以 後のものが、その絵画化の動きは遅くとも天保年間(1830-1844)には 始まっていました。欧米諸国の軍事力への関心や探求も、その制作のモチベーションになっていたはずです。「虫合戦図」はそんな多くの幕末洋風戦闘図の一変形として、まず認識しなおす必要があります。
来歴:国府津伊達家→池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館  】(「文化遺産オンライン」)

≪春木南溟 1795-1878 江戸後期-明治時代の画家。
寛政7年生まれ。春木南湖の子。父の画法をついで山水・花鳥画を得意とした。明治10年第1回内国勧業博覧会に「日光霧降滝図」を出品。明治11年12月12日死去。84歳。江戸出身。名は秀煕,竜。字(あざな)は敬一,子緝。通称は卯之助。別号に耕雲漁者。≫(出典「講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

三囲雪景図・安田田騏.png

「三囲雪景図」≪安田田騏筆 (1784-1827)≫ 江戸時代/19世紀前期 絹本油彩 35.2×51.2 1面 款記「三圍雪景/冀北田騏」 朱文方印「騏」 神戸市立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/445493
【来歴:須賀川竹内憲治氏→1932池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館】(「文化遺産オンライン」)

≪安田田騏(天明4年(1784年) - 文政10年4月11日(1827年5月6日))は、江戸時代後期の絵師、銅版画家である。
 東東洋及び亜欧堂田善の門人。名は騏。字は日千といい、東嶽田、東嶽、台方菴などと号した。東嶽田というのは、二人の師に由来するものといわれている。仙台の出身。師であった田善の画法を継いだ画家の中で、最も優れた門人が安田田騏であった。仙台の浪士であり、始め仙台藩の狩野派絵師東東洋に絵を学び、寛政(1789年-1801年)年間に須賀川に移ってから丹波屋(安田家)に入り、田善に師事している。また、白河藩主御内寺の東林寺住職に請われて、松平定信編纂の『集古十種』にも関与した須賀川の十念寺の画僧白雲や谷文晁にも学んでいる。文化12年(1815年)制作の銅版画「観魚亭」などが知られている。「観魚亭」とは、白河候御用達常松家の別邸を描いたものであった。銅版画のほか、肉筆画も残しており、白雲や田善とともに松平定信の画臣でもあった田騏は、文政10年(1827年)4月11日、病のため陸奥国磐前郡佐波古村(現・福島県いわき市常磐湯本町)において44歳で没した。墓所はいわき市常磐湯本町の惣善寺。この寺には、田騏の妹の夫、柴原太真と門人達が建立した墓碑がある。法名は田英道騏信士。 ≫(「ウィキペディア」)

青蔭集・亜欧堂田善.gif

「青蔭集」≪石井雨考編 亜欧堂田善画 (1748-1822)≫ 江戸時代、文化11年/1814年
紙本木版・銅版 22.8×16.0 1冊 神戸市立博物館蔵
序 市原多代女 跋夏目成美 「陸奥國石川郡大隈瀧芭蕉翁碑之圖文化十一年甲戊五月亜歐田善製」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/455109
【 ここに描かれているのは、現在の福島県須賀川市と玉川村の境、阿武隈川が乙字型に蛇行する急流部の風景で、今日でもこの図とほぼ同じ風景を現地で見ることができます。
 本図の表題は「芭蕉翁碑」、つまり画面左方に辛うじて見出される小さな石碑です。これは、本図が掲載されている歌集『青蔭集』の編者で、須賀川の俳人・石井考雨が文化10年(1813)に建立したもの。かつてこの地を訪れた芭蕉の心境を追体験するかのような光景で、亜欧堂田善による銅版風景画の基準作です。
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館 】(「文化遺産オンライン」)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2532488

「国立国会図書館デジタルコレクション」
「青蔭集」(雨考編)

ゼルマニヤ廓中之図・亜欧堂田善.gif

「ゼルマニヤ廓中之図」≪亜欧堂田善 (1748-1822)≫ 江戸時代、文化6年/1809年
銅版筆彩 30.1×56.1 1面 落款「文化六年巳己正月 亜歐堂 田善」 神戸市立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/448840
【 1枚の銅版で摺られた江戸時代の観賞用銅版画としては最大級の作品です。田善の大型銅版作品としては、フランスのフォンテーヌブロウ宮を描く銅版画を手本とする、本図とほぼ同寸法の「西洋公園図」(東京国立博物館蔵)があります。前景部分の図様のルーツは、18世紀イタリアの銅版画家ピラネージが描いた空想的な古代ローマ風景図に求められますが、実際に田善が参考にしたのはその模造品でした。本図の後方には、新しい時代のフランス風の宮殿建築が描かれていて、なんらかのフランス製の銅版画を摸したとも考えられます。
 表題の「ゼルマニヤ」は、当時の蘭学者の間ではドイツ・オーストリア一帯を示す地名として使われていましたが、ここを西洋文明発祥の地とする説もありました。 この「ゼルマニヤ廓中図」とほぼ同じ法量の「大日本金龍山之図」が「大日本」の名を冠しているのは、あたかも本図と相対するかのようです。「西洋公園図」をふくめた3点をシリーズ物として仮定するなら、その制作の主眼は西洋と日本の都市風景、広大な公共空間の対比にあったと考えられます。
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館 】(「文化遺産オンライン」)

大日本金龍山之図・亜欧堂田善.jpg

「大日本金龍山之図」≪亜欧堂田善 (1748-1822)≫ 江戸時代/19世紀初期 銅版筆彩
26.0×53.4 1面 神戸市立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/401381
【 亜欧堂田善(1748〜1822)は、本名を永田善吉と称し、陸奥国岩瀬郡(今の福島県)須賀川で紺屋(もしくは商家)を営んでました。伝えるところによると、この善吉は寝食よりも絵を描くことが好きで、その才能を領主の松平定信に認められ、谷文晁の弟子として取り立てられ、「亜欧堂田善」という名前を定信から与えられたとのこと。松平定信はかねてより銅版画の国産化を願ってましたが、司馬江漢の銅版術については「細密ならず」と落胆し、かわりに田善の技量に期待し物心両面から支援したと思われます。
期待に違わず田善は、世界地図や医学書で堅実な描画力を発揮する一方、風景画では従来の浮世絵や江漢の銅版画とは異なり、「画家目線」を活かした現実感あふれる作品を多数描きました。精度の高い線描集積と、幾何学的に構築された空間の中に、デフォルメの効いたユーモラスな点景人物を配するなど、律義さと機知に富んだその表現は、歌川国芳などの浮世版画や上方の銅版画にも影響を与えました。
観音信仰で古くから信仰を集めていた浅草寺の伽藍主要部、左から仁王門・本堂・五重塔周辺のにぎわいを描いた本図は、江戸時代の鑑賞用銅版画として最大級の作品で、江戸風景を得意とした田善の銅版画のなかでも「特大型」に分類されるものです。
的確な描線で描きこまれた密度の高い画面が構成され、遠近法や陰影表現もうまく消化されており、職人的芸術家(アルチザン)ともいわれる田善の円熟した技量をよく示しています。ここに描かれている景観は、当時の実際の浅草寺のそれとは異なる部分があります。 
たとえば、実際に仁王門右前方に鎮座する勢至・観音二躯の座像は、本図では一躯の如来座像に描き換えられています。また、仁王門の左右から境内は煉塀で隔てられていて、伽藍をこのように一望することは不可能でした。
おそらく本図は「ゼルマにや廓中図」などと組の作品として制作されたもので、西洋の公共広場に匹敵する伽藍風景に仕立てるために、実景に改変を加えた描写をあえて行ったものと考えられます。
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・塚原晃「田善とテンセン ―亜欧堂系銅版江戸名所図における表現技法上の諸問題―」(『神戸市立博物館研究紀要』24 2008)
・塚原晃「田善とテンセン ―亜欧堂系銅版江戸名所図における景観図像的諸問題」(『日本美術史の杜 村重寧先生・星山晋也先生 古稀記念論文集』竹林舎 200 】(「文化遺産オンライン」)


(追記)亜欧堂田善の銅版画名所図「ミメクリノツ」について(「中島由美」稿)

三囲之景.jpg
図1「三囲景図」 銅版 司馬江漢 神戸市立博物館蔵

ミメクリノツ・田善.gif

図2 「ミメクリノツ」 銅版 亜欧堂田善 神戸市立博物館蔵

「トルコの馬飾・馬の諸種」・田善.gif
図3 「トルコの馬飾・馬の諸種」 銅版 ヨハン・エリアス・リーディンガー 早稲田大学図書館蔵

三囲眺望之図・田善.png
図4 「三囲眺望之図」 銅版 亜欧堂田善 須賀川市立博物館蔵

「三囲図」・田善.gif
図5 「三囲図」 銅版 亜欧堂田善 須賀川市立博物館蔵

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図6 「佃浦風景」 銅版 亜欧堂田善 須賀川市立博物館蔵

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図7 「イスパニア女帝コロンブス引見之図」 銅版 亜欧堂田善 板橋区立美術館寄託

素描ペルラカタ城.gif
図8 「素描ペルラカタ城」 銅版 亜欧堂田善 須賀川市立博物館蔵

「洋人曳馬・地球儀」・田善.gif

図9 「洋人曳馬・地球儀」 銅版 亜欧堂田善 須賀川市立博物館蔵
「亜欧堂田善の銅版画名所図『ミメクリノツ』について(中島由美)」(抜粋)

【 亜欧堂田善(1748-1822)は, 陸奥国須賀川(現福島県須賀川市)の商家出身で, 文化年間(1804-1818)を中心に活躍した洋風画家である。寛政6年(1794) 47歳のとき, 白河藩主松平定信(1758-1829)に起用され, 定信のお抱え絵師谷文晁に師事した。定信の命で銅版画技術を修得した田善は, 江戸にいた14年間に実用銅版画として完成させた『医範提綱内象銅版画』「新訂万国全図」と, 江戸の名所を描いた大形・中形・小形の40種以上の
銅版画を制作している。それらの名所図には三囲付近の風景を描いたものが3点あり, そのなかで大形の1点が「ミメクリノツ」である。三囲付近はすでに浮絵として歌川豊春が描いており, 田善が一時的に入門の経験がある司馬江漢は天明3年(1783)と7年(1787)に二つの「三囲」の銅版画を制作している。
当時, 江戸では三囲付近が庶民の人気を集めていたことが, たびたび名所図として描かれた所以である。先行研究では, 亜欧堂田善の銅版画技術修得や西洋画法, 蘭書との関係, 油彩画, 銅版画の作品の研究などが論じられてきた。銅版画江戸名所図については, 江戸の風俗を中心に描いた風景画であり, 名所景観を捉える視点が従来とは異なっていると指摘されている。各々の三囲の名所図の描き方を比較してみると, 亜欧堂田善の作品からは先行の作例にない田善独自の景観のイメージアビリティと西洋的視線を読み取ることができる。】

「亜欧堂田善の名所図−西洋的視線で見た江戸−(中島由美)」(抜粋)

【 亜欧堂田善(1748-1822)は陸奥国須賀川(現福島県須賀川市)出身の洋風画家である。洋風画とは透視図法, 陰影法といった西洋画法を取り入れ描いた絵画である。亜欧堂田善は精密な銅版画の技術に西洋画法を用いて, 日本の風景画や風俗画を独特の趣で描いている。日本の伝統的な美意識を, 西洋の技術で描くという試みは, 亜欧堂の名前が示すように, 日本的なものと西洋的なものの融合を絵画において表わそうとした。田善はどのような改革, 新しい芸術を生み出したのだろうか。
 寛政6年(1794)亜欧堂田善は白河藩主松平定信に画才を見いだされ, 谷文晁に入門する。定信に銅版画技術の習得を命ぜられる。一時期, 司馬江漢にも師事した。田善は西洋原画への憧憬だけではない研究意欲があり, 原画を参考にしたり, 原画から離れて独自の自由な構想で描いたものなどがある。田善は西洋なものを咀嚼して, 自らのものにしようという意気込みが現れており, 田善の西洋文化への関心の高さと, 芸術家としての先取性が窺える。
 田善は寛政9年(1797)から文化9年(1812)まで, 江戸で作品を制作した。リーディンガーの馬の画集や, 銅版眼鏡絵の模写で技術をみがいた。実用銅版画として, 宇田川棒斎の依頼による「衣判定綱内象銅版図』, 幕命による『新訂万国全図』を完成させたことは, 田善に西洋的な近代精神を会得させる好機であった。軍事や医学などの実用的な必要に迫られた銅版画制作は, 西洋画法を駆使して, 精密, 正確に描くという経験により, 田善の目を, 西洋を通して近代を見る視線に変えていったのである。
田善の芸術家としての資質を表わし, 個人的な心情, 関心を表現した作品に, 江戸の風景と風俗を描いた40 種以上の銅版画名所図がある。当時, 江戸の個々の名所の景観が定型化され, 描き方のパターンが形成されていくなかで, 田善は他の画家の描く名所図とは異なる独自の視線で江戸の名所を描いている。
田善は西洋画法に関する自分の考えを書き残していないが, 作品のなかで自分の描法を明確に主張し, 画法論を展開している。田善の画才を見いだした松平定信の著書『退閑雑記』,『宇下人言』にも田善の銅版画について, 多くは記されていない。
 田善の名所図は, 単なる技術的な西洋の移入ではない。西洋のルネッサンス機を経て継承され進展され続けたものを,19 世紀の日本において田善に受け継がれ, 変容させ, 新しい可能性と融合をもたらしたのである。】
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