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日本画と西洋画との邂逅(その十三) [日本画と西洋画]

(その十三)「司馬江漢と亜欧堂田善」そして「松平定信と谷文晁」周辺

田善・今戸瓦焼図.jpg

「今戸瓦焼図」≪亜欧堂田善筆 (1748-1822)≫ 江戸時代/18世紀末期〜19世紀初期
絹本油彩 40.8×65.6 1幅 款記「田善」白文方印「田善之印」朱文方印「善吉氏」 
神戸市立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/377137
【 今戸は隅田川の西岸で、都鳥の名所でした。『江戸名所図会』に、「今戸には、土をこね、瓦造りならべてほしければ やかぬまは露やいとはむ下瓦 杉風」とあるように、瓦焼きは今戸の名物になっていました。

来歴:東京 大場氏→池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館

参考文献:
・神戸市立博物館『まじわる文化 つなぐ歴史 むすぶ美―神戸市立博物館名品撰―』図録 2019
・江戸東京博物館『隅田川 江戸が愛した風景』展図録 2010
・勝盛典子「プルシアンブルーの江戸時代における需要の実態について-特別展「西洋の青-プルシアンブルーをめぐって-」関係資料調査報告」(『神戸市立博物館研究紀要』第24号) 2008
・神戸市立博物館特別展『西洋の青』図録 2007 】(「文化遺産オンライン」)

今戸瓦焼之図(小形江戸名勝図シリーズ).gif

「今戸瓦焼之図(小形江戸名勝図シリーズ)」≪亜欧堂田善 (1748-1822)≫ 江戸時代/19世紀初期 銅版筆彩 11.8×17.3 1枚 落款「亞歐堂」 神戸市立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/443993
【 亜欧堂田善(またはその門人)が手がけた多くの銅版画の中で、もっとも人気を博したシリーズが、これらの小形江戸名所図です。北斎などの浮世絵風景版画の構図や上方の小型銅版画の流行に影響を与えた点でも重要な作品群です。田善の基準作『青蔭集』挿図にも通じる写実性と抽象化が同居する、緩急のメリハリの利いた表現が特徴です。現在25種類の図柄が確認されていて、そのうち神戸市立博物館は19種を所蔵しています。
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館 】(「文化遺産オンライン」)

東都名所全図(小形江戸名勝図シリーズ).gif

「東都名所全図(小形江戸名勝図シリーズ)」≪亜欧堂田善 (1748-1822)≫ 江戸時代/19世紀初期 銅版筆彩 11.7×16.2 1枚 落款「亞歐堂」 神戸市立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/444003
【 この江戸鳥瞰図は、江戸の隅田川の東岸上空から俯瞰したもので、拡大するとびっしりと描きこまれた家屋の合間にカタカナの地名表記もところどころに散りばめられている。3種類ある田善の銅版画シリーズでは最小の紙形のひとつで、中型の「自隅田川望南之図」ととは視点や構図が異なる。享和年間(1801-1804)に鍬形蕙斎が木版として描いた江戸鳥瞰図を銅版画として再構成したもの。 
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館 】(「文化遺産オンライン」)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-06-04

三囲之景.jpg

司馬江漢画并刻「三囲之景 MIMEGULI(みめぐりのけい)」江戸時代、天明7年/1787年 銅版筆彩 28.0×39.4 1面 落款「天明丁未冬十月/日本銅板創製/司馬江漢画并刻」反射式眼鏡絵 (神戸市立博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/377197
【(解説)
司馬江漢が天明年間(1781-1789)に制作した風景銅版画のひとつ。司馬江漢は、天明8年(1788)からの長崎旅行で、大坂の木村蒹葭堂のもとに立ち寄っています。持参した銅版眼鏡絵を蒹葭堂に見せ「誠に日本創製なり」とその技法を感心しさせました。
 天明3年(1783)の「三囲景」の版が磨耗したのでしょうか、江漢は同7年にほぼ同じ構図でこの銅版眼鏡絵を製作しました。この作品では、天明3年版よりも視点を低くとり、土手を歩く人々の表現を強調するようになりました。反射式眼鏡絵として制作されたので左右反対の構図となっています。
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館 】(「文化遺産オンライン」)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-06-12

東都名所 浅草今戸.jpg

歌川国芳「東都名所 浅草今戸」(太田記念美術館蔵) 木版色摺 横大版
http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/exhibition/2011_kuniyoshi

洋風画表現にみる歌川国芳.jpg

 「洋風画表現にみる歌川国芳の試み─透視図法と陰影表現を中心に─中山創太稿」

≪ 亜欧堂田善(あおうどうでんぜん) (1748―1822)
江戸後期の洋風画家。本名永田善吉を略し田善と号した。亜欧堂はアジアとヨーロッパにちなむ堂号で、ほかに星山堂とも称した。陸奥(むつ)国(福島県)須賀川(すかがわ)に生まれる。染物業のかたわら僧月僊(げっせん)に絵を学ぶが、領主の白河城主松平定信(さだのぶ)に画才をみいだされ、自分より若い谷文晁(ぶんちょう)の弟子となった。ついで、定信から銅版術の研究を命ぜられ、初め司馬江漢の弟子になったようであるが破門、のち定信周辺の蘭学者(らんがくしゃ)の協力を得て銅版画(エッチング)や油絵の技術を習得。彼は西洋銅版画を写して画技を磨き、『ゼルマニア廓中之図』(1809)のような西洋銅版画の模刻作品もつくったが、文化(ぶんか)年間(1804~1818)を中心として大小多数の江戸名所風景図を世に出し、銅版画家として重きをなした。彼の銅版画は江漢よりも技術が進んでおり、人物を中心とした風俗画的傾向が強い。田善の肉筆洋風画でも『両国図』(奈良家蔵)、『今戸瓦(かわら)焼図』(神戸市立博物館)は風俗画の傾向が強いが、『浅間山図』(東京国立博物館)は風景画で、洋風画の写実と屏風(びょうぶ)形式の装飾性を合体させた野心作である。宇田川玄真著『医範提綱(いはんていこう)』(1808)の挿絵や『新訂万国全図』(1810)など実用銅版画もつくった。[成瀬不二雄]
 『菅野陽著『日本銅版画の研究 近世』(1974・美術出版社)』▽『成瀬不二雄著『江戸の洋風画』(1977・小学館)』▽『磯崎康彦著『亜欧堂田善の研究』(1980・雄松堂書店)』≫
(出典「小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」)

「浅間山図」(亜欧堂田善筆 ).jpg

「浅間山図」(亜欧堂田善筆 ) 6曲1隻 紙本着色 150.0×338.6 江戸時代・19世紀
東京国立博物館蔵
https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=&content_base_id=101299&content_part_id=000&content_pict_id=000
【 亜欧堂田善(1748~1822)は江戸時代後期洋風画を代表する画家。遠近法や陰影表現を駆使した銅版画や、肉筆画を制作したことで知られる。
青い空を背景にして噴煙を上げる淡い褐色の浅間山。裾野には白い雲海が広がっている。画面右のなだらかな山には松が一本ぽつんと描かれ、左の斜面には木材が転がる。その奥からは、噴煙と対応するように煙があがり人の気配を感じさせるが、人物は見当たらず、静寂が画面を包む。油彩による独特の色彩や筆触によって、荒涼な浅間山の光景が描かれている。
本作品の構図は谷文晁『名山図譜』中の浅間山の図をもとに制作されたことで知られるが、さらに稿本が発見されたことにより、その制作過程も明らかとなっている。油彩によって
大画面を創りあげる上での田善の創意工夫が見えるという点においても、本作品は非常に
大きな意味を持つ。田善肉筆画の代表作というのみならず、江戸時代洋風画史上においても
重要な作品である。 】

谷文晁『名山図譜』・浅間山.gif

「日本名山図会. 天,地,人 / 谷文晁 画」中の「日本名山図会・人」p10「浅間山」≪早稲田大学図書館 (Waseda University Library)≫
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko30/bunko30_e0235/bunko30_e0235_0001/bunko30_e0235_0001.html

≪ 谷文晁(1763―1840)
江戸後期の南画家。名は正安。通称は文五郎。字(あざな)、号ともに文晁といい、別に写山楼(しゃざんろう)、画学斎(ががくさい)などと号した。田安家の家臣で詩人としても著名な麓谷(ろっこく)を父として江戸に生まれた。画(え)は初め狩野(かのう)派の加藤文麗(ぶんれい)に、ついで長崎派の渡辺玄対(げんたい)に学び、鈴木芙蓉(ふよう)にも就いた。大坂で釧雲泉(くしろうんせん)より南画の法を教授され、さらに北宗画に洋風画を加味した北山寒巌(きたやまかんがん)や円山(まるやま)派の渡辺南岳(なんがく)の影響も受けるなど、卓抜した技術で諸派を融合させた画風により一家をなした。なかでも『山水図』(東京国立博物館)のように北宗画を主に南宗画を折衷した山水に特色があり、また各地を旅行した際の写生を基に『彦山(ひこさん)真景図』や『鴻台(こうのだい)真景図』などの真景図や『名山図譜』を制作、『木村蒹葭堂(けんかどう)像』のような異色の肖像画も残している。1788年(天明8)画をもって田安家に仕官し、92年(寛政4)には松平定信(さだのぶ)に認められてその近習(きんじゅ)となり、定信の伊豆・相模(さがみ)の海岸防備の視察に随行して、西洋画の陰影法、遠近法を用いた『公余探勝(こうよたんしょう)図巻』を描き、また『集古十種』の編纂(へんさん)にも従って挿図を描いている。弟の島田元旦(げんたん)も画をもって鳥取藩に仕え、妻の幹々(かんかん)や妹秋香(しゅうこう)も画家として知られている。門人も渡辺崋山(かざん)、立原杏所(たちはらきょうしょ)、高久靄崖(たかくあいがい)らの俊才に恵まれ、当時の江戸画壇の大御所として君臨した。文晁を中心とする画派は関西以西の南画とは画風を異にし、通常、関東南画として区別されている。著書に『文晁画談』『本朝画纂(ほんちょうがさん)』などがある。[星野鈴](出典「小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」)

ファン・ロイエン筆花鳥図模写.jpg

「ファン・ロイエン筆花鳥図摸写」≪谷文晁筆 (1763-1841)≫ 江戸時代/19世紀前期
紙本著色 231.8×96.5 1幅 サイン「W.Van Royen 1725」朱文方印「文晁画印」 朱文長方印「写山樓画本」 神戸市立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/410665
【 巨大な花瓶に多種多様な花が盛られ、下部には果物や、それをついばむ鳥がいます。よく見ると蟻がついている花もあり、この豪華な花束が、やがて朽ち果てる運命にあることを暗示しています。「ヴァニタス」を主題とする、西洋では典型的な花卉禽獣画の表現です。
8代将軍吉宗がオランダ商館長に紅毛絵(こうもうえ)の輸入を求め、享保7年(1722)に発注され、享保11年(1726)に長崎に5点の西洋画が舶載されました。そのうち「孔雀、インコ、駝鳥、アオサギの図」「あらゆる種類のオランダの花の図」の2点の油彩花鳥画が江戸本所の五百羅漢寺に下賜され本堂にかけられてました。寛政8年(1796)に石川大浪・孟高兄弟が後者を模写し、さらにこれを谷文晁が模写したのが本図となります。文晁は大浪と親交があり、大浪を西洋画法の師と仰いでいました。双方とも、西洋絵画の陰影や立体表現を、日本の伝統的な技法と素材で再現した画期的な模写作品です。当時、文晁は松平定信の命により社寺所蔵の古書画類の調査・模写を行っており、本図の存在はこうした調査の延長線上にあるのでしょう。
 なお、花瓶の下方には「W. Van Royen 1725」のサインがあり、原画作者としてアムステルダムの画家・ヘンドリック・ウィレム・ファン・ロイエンだった可能性が指摘されています。
来歴:舟津輪助氏→東京塩原又策→池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・神戸市立博物館特別展『日本絵画のひみつ』図録 2011
・勝盛典子「大浪から国芳へ―美術にみる蘭書需要のかたち」(『神戸市立博物館研究紀要』第16号) 2000  】(「文化遺産オンライン」)

[医範提綱内象銅版図] .gif

[医範提綱内象銅版図]  宇田川玄真 編[他]  文化5(1808) (「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2532459

https://www.minyu-net.com/serial/reimei/FM20211108-666434.php

【(黎明期の群像) 「亜欧堂田善と解剖図 国内に類なき精巧さ」

 日本医学史において、特に近世の解剖学は実証主義の台頭により一気に進展した。杉田玄白(げんぱく)らの『解体新書』(1774年)が象徴的な成果として知られるが、それに続き、近世と近代の医学をつなぐ業績として、宇田川玄真(げんしん)(1769~1834年)の『医範提綱』と日本初の腐食銅版画(エッチング)による解剖図『医範提綱内象銅版図』(1808年)、そしてその完成に貢献した須賀川の画人・亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)(1748~1822年)に注目したい。

銅版技術を習得

 亜欧堂田善(本名・永田善吉)は、江戸時代後期の洋風画家である。特に西洋画法(遠近法、陰影法)を用いて描いた江戸名所風景銅版画で知られ、葛飾北斎や歌川国芳ら同時代の絵師はもちろん、洋画家の岸田劉生など近代以降の作家たちにも強烈な印象と影響を与えた。
 「自上野望山下」(上野より山下望む)は田善の代表作となった絵葉書(はがき)大の江戸名所銅版画の中でも、その目指したところや銅版画技術の到達点がよく理解できる作品である。西洋画に倣った木の幹や葉の表現、遠景の通りを歩く一人一人も識別可能な細かい描写、正確な遠近法と陰影法による風景の奥行き。また田善はそこに必ず、寛(くつろ)ぐ人、働く人など江戸の町に暮らす人々の姿を配した。手のひら大の画面の中に広がる大きな世界は、江戸時代の人々に大きな驚きをもたらしたのである。
 同じ須賀川に生まれた特撮監督・円谷英二は、自分の母方の祖先に田善がいると聞かされており、新聞の寄稿においてその伝聞とともに「私がいま、こんな仕事ができるのも、田善という器用な先祖の余慶かな、と思うこともあります」と記している。奇(く)しき縁を感じるとともに、田善の仕事は「わかる人にはわかる」と思わされるエピソードといえよう。
 さて、宇田川玄真の訳述編集による『医範提綱』全3巻は、ブランカールツ(+)らの解剖学・生理学に関する著書をもとに編まれた『遠西医範』30巻から、人体各部の名称と解説、さらに玄真の講義と解釈を記したものである。1805(文化2)年の刊行以来、版を重ね、明治時代初期まで広く読まれた。この附編となる解剖図が1808年刊行の『医範提綱内象銅版図』である。
 これに30年ほど先立つ『解体新書』の解剖図は、小田野直武が蘭書の銅版画を写し、木版で印刷された。腐食銅版は、銅板を酸で腐食させて製版し、版の凹部に詰めたインクを高い圧力をかけて紙に写し取る凹版画技法である。一本の線を印刷するためにその通り線を引けばよい銅版に対し、線の両側を彫りくぼめる木版では、遠近法や陰影法といった西洋画法が駆使された腐食銅版画の地図や解剖図を再現できない。海外の医学を日本人が取り入れていく上で、腐食銅版技術の導入は重要な課題であった。
 田善をこの仕事に導いたのは白河藩主松平定信であった。寛政の改革を手掛けた定信は、一線を退いた後も蘭学から有用な知識を取り入れようと、学者たちに研究させる中で腐食銅版画技術の必要性を認め、何らかの機会に善吉の器用さに目を留めて、これを習得させるため、まず谷文晁(ぶんちょう)に入門させたとされる。実は、田善と定信が出会う10年前に、大槻玄沢らと交流のあった司馬江漢が日本初の腐食銅版画を成功させている。江漢はその技術を独自のものとして公にしていなかったのである。
 現在知られている約90点の田善の腐食銅版画は、定信周辺の学者の導きで技法を身に付け、習熟していく過程に制作されたものである。作品を出すたびに円熟していく技術は、科学者たちに理想実現への期待を高めさせた。

医師の悲願実現

 果たして田善の手掛けた『内象銅版図』52点の解剖図は、原典の蘭書や腑分(ふわ)け(解剖)を見たことのない者でもその正確さを直感できる仕上がりとなった。制作は蘭学者たちから示された西洋の見本によっており、田善自身が実際の腑分けを見たことがないにもかかわらず、である。跋文(ばつぶん)に「當時其人ヲ不得苦ム 天其衷ヲ誘キ 助ルニ亜欧堂ヲ以ス」、意訳すれば「当時はその人を得られず苦しんだ。天はその心を、亜欧堂をもって助けた」とある。解体新書刊行当時、日本の医師たちは海外の銅版画による解剖図の精密さに驚きながら、自分たちの手でそれを実現することができなかった。その解体新書以来の念願が、田善の手によって実現したのである。
 定信に取り立てられた時、田善は47歳。61歳で『内象銅版図』が刊行され、その2年後、銅版技術者として最大の仕事となる日本初の官製世界地図『新訂万国全図』も完成させている。
 科学者たちを大いに助け、画家としても見るべき作品を成した田善。江漢は数々の著書や逸話に旺盛な好奇心と自らの業績に対する自負をにじませるが、田善が語った言葉はほとんど知られておらず、その生涯にも不明な点が多い。その沈黙は、彼が学者たちの熱意と研究の意義、全うすべき自身の使命とを正しく理解していた証しであろう。
 『内象銅版図』凡例の「此銅版図ハ奧人亜欧堂主人ノ所鐫也 主人和蘭ノ寫眞及ヒ銅版之技ニ於ル銕筆精工於海内ニ獨歩」(この銅版図は東北の亜欧堂先生の彫ったものである。先生には、オランダの精密な描画と銅版画技術の精巧さにおいて国内に並ぶものがない)という一文は、そのような田善の人柄や技術に対する最大の賛辞であり、その偉業を私たちに伝える江戸の蘭方医たちからのメッセージなのである。(須賀川市文化交流部文化振興課主査・学芸員 管野和恵)  】(「福島民友新聞」2021年11月08日)

新訂万国全図.gif

「新訂万国全図」」≪測量所高橋景保謹識 永田善吉(亜欧堂田善)刻=亜欧堂田善 (1748-1822)≫ 江戸時代、文化7年/1810年 銅版手彩 114.8×197.7 1舗 神戸市立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/444203
【 幕府天文方高橋景保が大坂の天文学者間重富や長崎通詞馬場左十郎らと協力して3年を費やし完成させたものです。ヨーロッパ製地図に基づきながらも、間宮林蔵の樺太探査の成果を取り入れて島として描くなど、当時世界最高水準の地図となっています。また、西洋製地図そのものでは右端(東端)にくる日本を中央に位置するように工夫しています。凡例に文化7年の文字が見えますが、亜欧堂田善による銅版原版が完成したのはもう少し後といわれます。
来歴:南波松太郎→1983神戸市立博物館 】(「文化遺産オンライン」)

https://yuagariart.com/uag/fukushima04/

【 第三代白河藩主・松平定信の画事

 寛政の改革で知られる松平定信(1758-1829)は、八代将軍徳川吉宗の孫として江戸城内の田安邸に生まれ、17歳で白河藩松平家の養子となった。天明3年には白河藩の家督を継いだが、天明7年に幕府老中首座に推挙され、寛政の改革を行なったのち、寛政5年に老中及び将軍補佐役を辞任して白河藩主に復帰した。
 定信が白河に入るまでの白河藩周辺の絵画状況は、資料に乏しく明確にはわかっていないが、定信が白河藩主になって以来、にわかに白河藩を取り巻く絵師たちの活動が活発になる。それは、定信が文化的な関心が高く、日本全国の古文化財を記録した『集古十種』や、古絵巻を模写して分類・集成した『古画類聚』などの編纂事業を推し進め、それに多くの絵師を登用、活用したからである。
 定信の画事については、12、3歳の頃から狩野派の絵画を学び、のちに田安家の家臣・山本又三郎(源鸞卿)について沈南蘋の画法を学んだと伝わっている。現存する定信の絵画作品には当時流行していた南蘋画の影響がみられ、源鸞卿に学んだことがうかがえる。
 しかし、後年は絵筆を絶ち、かつて諸士に与えた絵画を和歌と交換するとともに、それを自ら火中に投じて燃やしたと伝わっている。その理由を、著書のなかで述べられている絵画観から推測すると、「対象の正確な形状を伝える写実性の重視と形骸化した趣味的鑑賞態度の否定」ではなかったかと考えられている。しかし、残っている作品からこうした絵画観を明確に感じとることはできない。

松平定信「花鳥図」.jpg

松平定信「花鳥図」江戸東京博物館蔵

松平定信(1758-1829)まつだいら・さだのぶ
宝暦8年江戸城内田安邸生まれ。御三卿・徳川(田安)宗武の二男。八代将軍徳川吉宗の孫。幼名は賢丸、字を貞郷。旭峯、風月、楽翁などの号がある。学問の師は、田安家の番頭で朱子学や書に造詣の深かった大塚孝綽、儒学者の黒田右仲、側近の水野為長らで、詩歌も11歳頃からはじめたといわれる。安永3年、17歳で白河藩松平家の養子となり、安永4年田安家を出て八丁堀の白河藩邸に移った。天明3年白河藩の家督を継ぎ、翌年には藩主として白河に入った。天明7年幕府老中首座に就任し、将軍家斉を補佐し寛政の改革を断行した。寛政5年には老中職を辞任し、翌年白河に帰藩を許されて以後白河藩政に専念するかわわら多くの学者や絵師を育成・活用しながら「集古十種」「古画類聚」などの編纂事業を進め、谷文晁や亜欧堂田善など多くの画人を白河に結びつけた。また、自ら絵筆をとり、将軍家治に「柳鷺図」「関羽図」を、光格天皇に「桃鶴図」を献上したという。文政12年、72歳で死去した。 】(「UAG美術家研究所」)

司馬江漢・地球図.jpg

「地球図」≪司馬江漢写并刻 (1747-1818)≫ 江戸時代 寛政4年以降/1792年以降
銅版筆彩 東半球図55.0×45.1 西半球図55.0×44.9 2枚 落款「寛政壬子春二月/日本銅板創製東都芝門司馬江漢峻寫并刻」(東半球図) 題 岳融(東半球図) 
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/444033
【 司馬江漢(1747〜1818)は江戸時代後期の洋風画家。当時の洋風文化のキーパーソンである平賀源内や、蘭学者の前野良沢・大槻玄沢らと交遊がありました。彼らの協力のもと、日本で初めて銅版画を作成した人物として名が知られています。
 地球図は江漢の著作である『地球全図略説』に対応する世界図として作成された、日本初の銅版による世界図です。この原図は、天明7年(1787)頃に玄沢がオランダ人医師のストッツェルから入手したフランス語版の「モルティエ世界図」といわれています。玄沢が「モルティエ世界図」を手にしたとき、すでに刊行から60年以上が過ぎており、最新の世界図ではありませんでしたが、この原図では未知の領域として示されなかったユーラシア大陸の東端および日本の北方地域を描くなど、江漢独自の工夫がみられます。
 江漢の「地球図」は、これ以降次々と登場する蘭学系世界図や銅版世界図の嚆矢といえます。
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・神戸市立博物館『まじわる文化 つなぐ歴史 むすぶ美―神戸市立博物館名品撰―』図録 2019  】(「文化遺産オンライン」)

(追記その一)「司馬江漢」周辺 (「yama's note」より抜粋)

https://squatyama.blog.ss-blog.jp/archive/c2306134239-1

司馬江漢1:かくインプットされて [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢2:慈眼寺の史跡看板から [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢3:出自と絵師修行 [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢4:源内と春信と紫石と~ [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢5:源内に親炙して [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢6:再び人体比率図を~ [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢7:油絵と銅版画 [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢8:源内と直武はゲイ? [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢9:『蘭学事始』概略Ⅰ [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢10:『蘭学事始』概要Ⅱ [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢11:西遊旅譚と西遊日記 [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢12:一九や北斎とも絡み~ [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢13:長崎日記 [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢14:捕鯨体験記 [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢15:地球・天体の著述へ [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢16:地動説を説明 [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢17:悩ましき晩年 [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢19:晩年の老荘著作群 [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢20:己の「死亡通知書」配布 [北斎・広重・江漢他]≫
https://squatyama.blog.ss-blog.jp/2018-01-17


『春波楼筆記』.jpg

【 『春波楼筆記』を記した翌文化9年、江漢は新銭座の家蔵を売り、終の棲家を吉野に定めて旅立った。だが親類に預けた金子が遣われたと知って、1年ほどで江戸へ戻った(『無言道人筆記』)。『吉野紀行』を記し、今度は己の死亡通知書『辞世ノ語』(文化10年・1813年)を配布。ここは絵とくずし字お勉強。

 江漢先生老衰して、画を需(もとむ)る者ありと雖(いえども)不描、諸侯召ども不往、蘭学天文或ハ奇器を巧む事も倦ミ、啻(ただ)老荘の如きを楽しミ、厺年(去年)ハ吉野の花を見、夫よりして京に滞る事一年、今春東都に帰り、頃日(けいじつ=近頃)上方さして出られしに、相州鎌倉円覚寺誠摂禅師の弟子となり、遂に大悟して後病(わずらい)て死にけり。

 一、万物生死を同(おなじう)して無物に復帰(またきす)る者ハ、暫く聚(あつま)るの形ちなり、万物と共に尽ずして、卓然として朽ざるものハ後世の名なり、然りと雖、名千載を不過、夫天地ハ無始に起り無終(むじゅう)に至る、人(ひと)小にして天(てん)大なり、万歳を以て一瞬のごとし、小慮なる哉 嗚呼 七十六翁 司馬無言辞世ノ語 文化癸酉(十年)八月

 前述通り「七十八翁」は虚構で、正しくは「六十七歳」。「万物生死~」からの文は老荘思想だろう。この「死亡通知書」後日談に、こんな逸話もある。西脇玉峰編著『伊能忠敬言行録』(大正2年)の<交友門弟>「司馬江漢」の記述~。

 「某江漢の後背を見、追うて其の名を呼ぶ。江漢足を逸して走る。追ふもの益々呼びて接近甚だ迫る。江漢首を廻らし、目を張り叱して曰く、死人豈(あに)言を吐かんや。再び顧みずしてまた走り去れりと」(この逸話は木田寛栗編「画家逸事談」にも紹介されていた)

 さて司馬江漢は、北斎ほどに絵を極めたわけでもなく、良沢のように蘭語を極め、玄白のように医学に情熱を注いだわけでもない。その意では、やはり師匠・平賀源内にどこか似ている。知的遊民、ディレッタント的要素を受け継いだフットワークのよい反骨精神で自由に時代を走り続けた人のようにも思われる。虚無的な人生観を語って、文政元年(1818)10月21日、72歳で没。 】

司馬江漢21:定信の子飼い亜欧堂田善 [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢22:参考書一覧 [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢23:江漢へ見せたき皆既月蝕ぞ [北斎・広重・江漢他]

(追記その二)「谷文晁そして『下谷の三幅対』(亀田鵬斎・酒井抱一谷文晁→蕪村など)」周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-28

文晁.jpg

谷文晁筆「人物花鳥押絵貼屏風」一双のうち「墨梅図」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

天保元年(1830)、文晁六十八歳の時の作品です。文晁は、五十歳代から江戸画壇の第一人者として活躍していました。最盛期の文晁には、大胆な筆使いのものがあって、時に批判されることもありますが、この墨梅図では、梅の枝振りを表現するのに効果的に使われています。このような表現は、弟子の立原杏所(きょうしょ)の葡萄図にも通うところがあり注目されます。
 「下谷の三幅対」と称された、年齢順にして「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」の、「鵬斎」は文政九年(一八二六)に没、そして、「抱一」も文政十一年(一八二九)に没と、上記の作品を仕上げた天保元年(一八三〇)、六十八歳の文晁は、その前年に御絵師の待遇を得て剃髪し、江戸画壇というよりも、全国を席捲する日本画壇の第一人者に祀り上げられていた。
 その文晁の、それまでの「交友録」というのは、まさに、「下谷の三幅対」の、「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」に、陰に陽に連なる「江戸(東京)」の、その後半期の「江戸」から「東京」への過度期の、その節目、節目に登場する、一大群像を目の当たりにするのである。

松平楽翁→木村蒹葭堂→亀田鵬斎→酒井抱一→市河寛斎→市河米庵→菅茶山→立原翠軒→古賀精里→香川景樹→加藤千蔭→梁川星巌→賀茂季鷹→一柳千古→広瀬蒙斎→太田錦城→山東京伝→曲亭馬琴→十返舎一九→狂歌堂真顔→大田南畝→林述斎→柴野栗山→尾藤二洲→頼春水→頼山陽→頼杏坪→屋代弘賢→熊阪台州→熊阪盤谷→川村寿庵→鷹見泉石→蹄斎北馬→土方稲嶺→沖一峨→池田定常→葛飾北斎→広瀬台山→浜田杏堂

 その一門も、綺羅星のごとくである。

(文晁門四哲) 渡辺崋山・立原杏所・椿椿山・高久靄厓
(文晁系一門)島田元旦・谷文一・谷文二・谷幹々・谷秋香・谷紅藍・田崎草雲・金子金陵・鈴木鵞湖・亜欧堂田善・春木南湖・林十江・大岡雲峰・星野文良・岡本茲奘・蒲生羅漢・遠坂文雍・高川文筌・大西椿年・大西圭斎・目賀田介庵・依田竹谷・岡田閑林・喜多武清・金井烏洲・鍬形蕙斎・枚田水石・雲室・白雲・菅井梅関・松本交山・佐竹永海・根本愚洲・江川坦庵・鏑木雲潭・大野文泉・浅野西湖・村松以弘・滝沢琴嶺・稲田文笠・平井顕斎・遠藤田一・安田田騏・歌川芳輝・感和亭鬼武・谷口藹山・増田九木・清水曲河・森東溟・横田汝圭・佐藤正持・金井毛山・加藤文琢・山形素真・川地柯亭・石丸石泉・野村文紹・大原文林・船津文淵・村松弘道・渡辺雲岳・後藤文林・赤萩丹崖・竹山南圭・相沢石湖・飯塚竹斎・田能村竹田・建部巣兆

 その画域は、「山水画、花鳥画、人物画、仏画」と幅も広く、「八宗兼学」とまでいわれる独自の画風(南北合体の画風)を目途としていた。
 ここで、しからば、谷文晁の傑作画となると、「公余探勝図 寛政5年(1793年)重要文化財・東京国立博物館」位しか浮かんで来ない。
 しかし、これは、いわゆる、「真景図・写生画・スケッチ画」の類いのもので、「松平定信の海岸防備の視察の、その巡視に従って写生を担当し、その八十箇所を浄写した」に過ぎない。その「公余探勝」というのは、文晁が考えたものではなく、松平定信の、「蛮図は現にくはし。天文地理又は兵器あるいは内外科の治療、ことに益少なからず」(『字下人言』)の、この貞信の「洋画実用主義理論」ともいうべきものを、方法として用いたということ以外の何物でもない。
そして、寛政八年(一七九六)に、これまた、定信に『集古十種』の編纂を命ぜられ、京都諸社寺を中心にして古美術の調査することになり、ここで、上記の「八宗兼学」という「南北合体の画風」と結びついて来ることになる(『日本の美術№257 谷文晁(河野元昭和著)。
 この寛政八年(一七九六)、文晁、三十四歳の時の、上記の門弟の一人、喜田武清を連れての関西巡遊は、大きな収穫があった。この時に、文晁は、京都で、呉春、大阪で、木村蒹葭堂などとの出会いがある(文晁筆の著名な「木村蒹葭堂肖像」は補記一のとおり)。
 この時に、谷文晁は、呉春(月渓)が描いた「蕪村肖像」を模写して、その模写絵と己の「八か条の画論」とを一緒に一幅に仕立てているのである。

蕪村肖像・月渓写.jpg

 この「於夜半亭 月渓拝写」と落款のある「蕪村肖像」が、何時描かれたのかは、「呉春略年表」(『呉春 財団逸翁美術館』)には記載されていない。
 しかし、『蕪村全集一 発句(校注者 尾形仂・森田蘭)』の、冒頭の口絵(写真)を飾ったもので、その口絵(写真)には、「蕪村像 月渓筆」の写真の上部に「蕪村自筆詠草(同右上上部貼り交ぜ)」として、次のとおりの「蕪村自筆詠草」が、紹介されている。

  兼題かへり花

 こゝろなき花屋か桶に帰花
 ひとつ枝に飛花落葉やかえり花
        右 蕪村

 この「兼題かへり花」の、蕪村の二句は、天明三年(一七八三)十月十日の「月並句会」でのものというははっきりとしている。そして、この年の、十二月二十五日に、蕪村は、その六十八年の生涯を閉じたのである。
 その蕪村が亡くなる時に、蕪村の臨終吟を書きとったのも、当時、池田に在住していた呉春(月渓)が、蕪村の枕頭に馳せ参じて看病し、そして、その臨終吟(「冬鶯むかし王維が垣根かな」「うぐひすや何ごそつかす藪の霜」「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけ」)を書きとったのである。

 呉春(月渓)は、他にも数点の蕪村像は描き、さらに、木彫りにしたものも見受けられるが、この像こそ「蕪村肖像」としては、最も、蕪村を知る最側近の、呉春(月渓)」ならではの会心の作と解して差し支えなかろう。
 そして、あろうことか、「江戸南画・関東南画の大成者」「江戸後期の日本画壇の第一人者」として、その「江戸画壇・関東画壇・日本画壇」の、その頂点に位置した「谷文晁」が、この呉春(月渓)の「蕪村肖像」を実見して、それを模写(臨写)して、それを、さらに、己の「八か条の画論」を付して、一幅に仕立てものが、今に、現存しているのである。

文晁・蕪村模写.jpg

谷文晁筆「与謝蕪村肖像」(呉春筆「蕪村を模写した作品。画面上部に文晁が門生に示した八ケ条の画論が一緒に表装されている」=『日本の美術№257 谷文晁(p23)』)

 ここまで来て分かったことは、しからば、これなる「谷文晁」が、今に残している「傑作画」というのは無数にあるし、あり続けるのであろうが、その内でも、その人物像、そして、その肖像画(その有名・無名の一人ひとり)、ここに注目をしたいのである。これは、おそらく、永遠不滅という思いがするのである。

 ということで、これまでにも、このサイトで活用したものなどを、ここに掲示をして置きたい。

補記一 蒹葭堂肖像画について(谷文晁筆) 大阪府教育委員会蔵(重要文化財)

www.mus-nh.city.osaka.jp/collection/kenkado/top_01kensho.html

補記二 近世名家肖像図巻(谷文晁筆) 東京国立博物館

円山応挙
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024597

呉春
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024598

谷文晁
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024606

大典和尚
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024595

六如(僧)と皆川淇園
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024599

田中納言
http://image.tnm.jp/image/1024/C0024600.jpg

岸駒
http://image.tnm.jp/image/1024/C0024600.jpg

木村蒹葭堂
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024604

大田南畝
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024608

頼春水(弥太郎)と村田春海
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024610
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