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日本画と西洋画との邂逅(その十六) [日本画と西洋画]

(その十六)「長崎派≪漢画派(北宗画派)・黄檗派・南蘋派・南宗画派(文人画派)・洋風画派・長崎版画≫」そして「酒井抱一の洋風画」周辺など 

鹿鶴図屏風・南蘋.jpg

「鹿鶴図屏風(ろくかくずびょうぶ)」≪沈銓(しんせん)・南蘋(なんぴん) (1682―?)≫
制作地:中国 清時代・乾隆4年(1739) 絹本着色 各144.2×280.4 6曲1双
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/523960
【沈銓(しんせん)・南蘋(なんぴん)は、浙江省呉興の人。享保16年(1731)に来日し数年滞在し、擬古的(ぎこてき)で華やかな画風は江戸時代の画家に大きな影響を与えました。本図はその代表作の一つで、珍しい屏風の形式であることからも、帰国後の沈銓が幕府の注文を受けて描いたものと考えられます。】(「文化遺産オンライン」)

https://yuagariart.com/uag/nagasaki10/
【 南蘋派の開祖・熊斐と南蘋派の画人
 南蘋派は、清から渡来した沈南蘋によって伝えられた画風で、緻密な写生と鮮やかな彩色が特徴である。沈南蘋は、享保16年に渡来して18年まで長崎に滞在しており、この間に、中国語の通訳である唐通事をしていた熊代熊斐(1712-1772)に画法が伝授された。南蘋に直接師事した日本人は熊斐ただひとりであり、熊斐の元には多くの門人が集まり、その中からは鶴亭、森蘭斎、宋紫石らが出て、南蘋の画法は全国に広まっていった。熊斐の作画活動については、唐絵目利などの本業ではなかったこともあり不明な点が多い。

熊代熊斐(1712-1772)(くましろ・ゆうひ)
 正徳2年生まれ。神代甚左衛門。長崎の人。唐通事。はじめ神代で、のちに熊代に改姓した。名は斐、字は淇瞻、通称は彦之進、のちに甚左衛門。号は繍江。はじめ唐絵目利の渡辺家に画を学び、享保17年に官許を得て清の画家・沈南蘋に師事した。享保18年の南蘋帰国後は、享保20年に来日した高乾に3年間師事したという。南蘋に師事したのは9ケ月のみだったが、南蘋に直接師事したのは熊斐だけであり、熊斐を通じて南蘋の画風は全国にひろまっていった。官職としては、元文4年に養父の神代久右衛門(白石窓雲)の跡を継ぎ内通事小頭となり、明和3年に稽古通事となった。安永元年、61歳で死去した。

沈南蘋(1682-不明)(しん・なんぴん)
 清の浙江省呉興の人。名は銓、字は衡斎。師の胡湄は明の呂紀風の花鳥画をよくしたという。享保16年に高乾、高鈞らの門弟とともに長崎に渡来した。将軍徳川吉宗が唐絵の持込みを命じたことによるという。長崎に享保18年まで留まり、熊斐に画法を授けた。熊斐を通じて伝わった南蘋の画風はその後の日本絵画に大きな影響を与えた。帰国後は浙江・江蘇省地方を中心に活動したが、求めに応じて日本へ作品を送っていたという。

宋紫石(1715-1786)(そう・しせき)
 正徳5年生まれ。江戸の人。本名は楠本幸八郎。字は君赫、霞亭。別号に雪溪、雪湖、霞亭、宋岳などがある。長崎に遊学して熊斐に学び、また清の宋紫岩にも師事した。宋紫岩に学んだことから宋紫石と名乗った。江戸で南蘋風をひろめた。平賀源内とも交友があり、司馬江漢にも画法を伝えた。南蘋派で最も洋風画に接近した画風で、余白を多くとり軽く明るい画面を生み出した。天明6年、75歳で死去した。

鶴亭(1722-1785)(かくてい)
 享保2年生まれ。長崎の人。黄檗僧海眼浄光。名ははじめ浄博、のちに浄光、字ははじめ恵達、のちに海眼。別号に如是、五字庵、南窓翁、墨翁、壽米翁、白羊山人などがある。長崎の聖福寺で嗣法するが、延享3、4年頃還俗して上方に移住した。長崎で熊斐に学び、上方に南蘋風を伝えた。木村蒹葭堂、柳沢淇園らと交友した。明和3年頃に再び僧に戻り、黄檗僧になってからは主に水墨画を描いた。天明5年、江戸において64歳で死去した。

黒川亀玉(初代)(1732-1756)(くろかわ・きぎょく)
 元禄15年生まれ。江戸の人。名は安定、字は子保。号は松蘿館・商山処士。はじめ狩野派を学び、のちに沈南蘋の筆意を慕った。宝暦6年、55歳で死去した。

真村蘆江(1755-1795)(まむら・ろこう)
 宝暦5年生まれ。長崎の人。名は斐瞻、通称は長之助。別号に耕雲山人がある。熊斐に画を学んだ。寛政7年、41歳で死去した。

大友月湖(不明-不明)(おおとも・げっこ)
 長崎の人。名は清、通称は内記。別号に沈静がある。熊斐に画を学び、山水を得意とした。

熊斐文(1747-1813)(ゆうひぶん)
 延享4年生まれ。熊斐の長男。通称は銭屋利左衛門、名は章。繍山と号した。文化10年、67歳で死去した。

熊斐明(1752-1815)(ゆうひめい)
 宝暦2年生まれ。熊斐の二男。名は斐明、通称は神代陽八。繍滸、竹菴と号した。父に画を学んだ。文化12年、64歳で死去した。

諸葛監(1717-1790)(しょかつ・かん)
 享保2年生まれ。江戸両国の人。通称は清水又四郎、字は子文、静齋または古画堂と号した。名は来舶清人の諸葛晋にちなんだもの。長崎に行くことなく、独学で南蘋風を学んだと思われる。寛政2年、74歳で死去した。

松林山人(不明-1792)(まつばやし・さんじん)
 長崎の人。姓ははじめ松林、のちに林、名は儼、字は雅膽。熊斐に師事した。着色に秀で花鳥を得意とした。安永年間に江戸に出て浅草に住んでいた。寛政4年、江戸で死去した。

宋紫山(1733-1805)(そう・しざん)
 享保18年生まれ。宋紫石の子。尾張藩御用絵師。名は白奎、字は君錫、苔溪とも称した。父の画法に忠実に従った。文化2年、73歳で死去した。

藤田錦江(不明-1773)(ふじた・きんこう)
 江戸の人。出羽国庄内藩酒井家藩士。名は景龍、包擧ともいった。字は瑞雲、錦江は号。通称は宇内。画を宋紫石に学んだと伝わっている。安永3年死去した。

森蘭斎(1740-1801)(もり・らんさい)
 元文5年生まれ。越後の人。名は文祥、字は九江・子禎。別号に鳴鶴がある。本姓は森田氏。長崎に出て熊斐に学んだ。熊斐没後の安永2年に大坂に移り、『蘭斎画譜』8冊を刊行、江戸に移り没後の享和2年に『蘭斎画譜続編』が刊行された。熊斐の画風を遵守し、南蘋派が受け入れられるところに移動していったと思われる。享和元年、62歳で死去した。

董九如(1745-1802)(とう・きゅうじょ)
 延享元年生まれ。名は弘梁、字は仲漁。別号に廣川居士、黄蘆園などがある。宋紫石に画を学んだ。享和2年、59歳で死去した。

勝野范古(不明-1758)(かつの・はんこ)
 長崎の人。柳溪と号し、二蔵と称した。師系は不明だが、南蘋の画法を学んだと思われる。宝暦8年死去した。

宋紫崗(1781-1850)(そう・しこう)
 天明元年生まれ。宋紫山の子。名は琳、字は玉林。別号に雪溪、聴松堂がある。嘉永3年、70歳で死去した。

洞楊谷(1760-1801)(とう・ようこく)
 宝暦10年生まれ。長崎の人。片山楊谷。名は貞雄、通称は宗馬。沈南蘋の画法を学んだ。寛政5年因州の茶道家・片山宗杷の家を継いだ。享和元年、42歳で死去した。

福田錦江(1794-1874)(ふくだ・きんこう)
 寛政6年生まれ。長崎の人。名は範、字は君常、通称は範二郎。別号に竹園がある。はじめ画を熊斐に学び、のちに南蘋の画法に倣った。明治7年、81歳で死去した。

鏑木梅溪(1750-1803)(かぶらぎ・ばいけい)
 寛延2年生まれ。長崎の人。名は世胤・世融、字は君冑・子和、通称は弥十郎。はじめ田中氏、また平氏を名乗った。江戸に出て鏑木氏の養子となった。荒木元融の門人で、沈南蘋に私淑したと思われる。享和3年、59歳で死去した。   】(「UAG美術家研究所」)

白衣観音観瀑図.jpg

「白衣観音観瀑図」(長崎歴史文化博物館) 逸然性融筆  寛文5年(1665)1幅 絹本著色 縦109.2 横43.8 〔落款〕寛文乙巳季正陽月八日 烟霞比丘逸然融焚盥敬写「釈性融印」(白文方印)「逸然氏」(朱文方印)
https://www.tobunken.go.jp/materials/nenki/815606.html

https://yuagariart.com/uag/nagasaki03/
【  長崎漢画の祖・逸然性融  
 隠元隆琦によって長崎に伝えられた黄檗宗には、黄檗肖像法によって肖像画を描いた喜多氏ら肖像画工のほか、興福寺の僧・逸然性融(1601-1668)を開祖とする漢画(唐絵)のグループがあった。漢画とは、江戸時代に中国から伝わった明清画風の影響を受けて成立した絵画様式を指すもので、そのひとつの中心として黄檗宗が機能していた。逸然は中国の浙江省抗州府の人で、貿易商として長崎に渡来し、黙子如定のもとで出家、興福寺の3代住持をつとめるかたわら、画家としても活躍した。画技は独学で習得したものと思われ、そのほとんどが仏画や高徳画だったが、背景には好んで山水などを描いている。逸然の門人には、のちに長崎を代表する画人となる渡辺秀石と河村若芝がおり、漢画は、渡辺家や石崎家といった唐絵目利の画家たちに受け継がれ、長崎画壇の主流となっていった。

逸然性融(1601-1668)(いつねん・しょうゆう)
 万暦29年明国浙江省生まれ。李氏出身。名は性融、字は逸然。号に浪雲庵主、烟霞比丘、煙霞道人がある。正保元年明末の反乱期に長崎に渡来し、翌2年から明暦元年まで興福寺3代住持をつとめた。承応3年には中国から隠元禅師を招き、日本黄檗宗発展に貢献した。また、画僧として北宗画系統の新画風を伝え、長崎漢画の祖となった。門人に、渡辺秀石、河村若芝がいる。代表作に、巌上観音菩薩像、並賢・文珠菩薩像双幅、芦葉達磨図、布袋図などがある。寛文8年、68歳で死去した。

隠元隆琦(1592-1673)(いんげん・りゅうき)
 万暦20年中国福建省生まれ。俗姓は林。29歳の時に中国の黄檗山萬福寺で出家し、その後各地を遍歴、臨済宗の高僧・密雲円悟のもとで禅の修業をかさねたのち、密雲に随従して黄檗山に帰り、住持費隠通容から法を継ぎ、黄檗山の復興発展に尽くした。隠元の名声は日本にも及び、長崎興福寺の住持・逸然性融が再三にわたって来日を招聘していたため、承応3年多数の弟子や諸種の職人を伴い来日した。はじめ3年で帰国する予定だったが、臨済宗妙心寺派の龍溪性潜、竺印祖門らの働きかけなどで帰国を断念、寛文元年山城国宇治郡に中国と同じ名前の黄檗山萬福寺を開創し、日本黄檗宗の開祖となった。寛文4年には住持を木庵に譲り、山内の松隠堂に退隠、寛文13年、82歳で死去した。 】「UAG美術家研究所」)

https://yuagariart.com/uag/nagasaki14/
【  来舶四大家、伊孚九・張秋谷・費漢源・江稼圃 
 18世紀の後半から19世紀の中頃になると、渡来の途絶えた黄檗僧に代わって清人が盛んに渡来するようになった。彼ら来舶清人によって南画の画風が伝えられると、長崎の画家のみならず、各地の文人たちに注目され、空前の中国ブームが出現した。江戸時代に長崎にやってきた清の画家のうち、伊孚九、張秋谷、費漢源、江稼圃は、来舶四大家と称され、なかでも何度も来日した伊孚九は、日本の文人たちと交流し、その詩書や南画の教養は、池大雅や田能村竹田らの南画家に大きな影響を与えた。

伊孚九(1698-1747?)い・ふきゅう
 中国呉興の人。名は海、字は孚九、莘野、莘野耕夫と号した。別号に匯川、也堂、雲水伊人、養竹軒などがある。本業は船主。享保5年から延享末頃にかけて来航した。延享4年8月付の『伊孚九書上船員名簿』には「船主伊孚九年五十歳」とあり、生年は康熙37年だと推測され、最初の来舶時は23歳だったと思われる。

張秋谷(不明-不明)(ちょう・しゅうこく)
 中国仁和の人。名は崑、字は秋谷。幼いころから画を好み、天明年間に来日。帰国後は名を莘、字を秋穀と改め、倪雲林の山水、呉鎮の蘭竹を手本とした。来舶四大家の中では、中国で最も名の通った画人であり、椿椿山や渡辺崋山らに大きな影響を与えた。天明8年に長崎遊学した春木南湖は、唐大通事清河栄左衛門の紹介で弟子となった。南湖の手記『西遊日簿』によると、秋谷は背が高く痩せ型で、静かな人物だったという。

費漢源(不明-不明)(ひ・かんげん)
 中国茗渓の人。名は瀾、字は漢源、浩然と号した。宝暦6年頃までの間に数回来舶したとみられる。南京船主としての最初の来舶は、元文2年とされるが、嘉永4年刊行の『続長崎画人伝』や寛政2年刊行の『玉洲画趣』などでは、享保19年に初めて来舶したとされている。初来日は、信牌目録に名をとどめないような立場で来航したのかもしれない。長崎では建部凌岱、楊利藤太などに画法を授けた。

江稼圃(不明-不明)(こう・かほ)
 中国臨安の人。名は泰交、字は大来、連山。張栄蒼らに書や画法を学んだ。文化元年から6年まで財副として来舶し、以後数回来舶が記録されている。長崎三画人と称される鉄翁祖門、木下逸雲、三浦梧門らが画法を学んでおり、長崎南画の発展に貢献した。長崎遊学した菅井梅関に南画を教えた。梅関の号は江稼圃より梅の図を贈られたことに由来する。 】
(「UAG美術家研究所」)

https://yuagariart.com/uag/nagasaki15/
【  幕末の長崎三画人、鉄翁祖門・木下逸雲・三浦梧門
 来舶四大家のひとり江稼圃は、文化元年から6年頃まで来日し、弟の江芸閣とともに長崎の南画興隆の基礎をつくった。さらに続いて来日した徐雨亭、王克三らによって長崎の南画は一段と本格的なものになっていった。幕末の長崎三画人と称された、鉄翁祖門、木下逸雲、三浦梧門も江稼圃に学んでいる。江稼圃の来日前は、鉄翁祖門と木下逸雲は石崎融思に、三浦梧門は渡辺鶴洲にそれぞれ漢画の画法を学んだが、江稼圃の渡来後は彼について南画を学び、これを大成した。南画は全国に広まり、池大雅、与謝蕪村、田能村竹田、谷文晁らが活躍、江戸後期の日本画壇に主要な地位を占めた。

鉄翁祖門(1791-1872)(てつおう・そもん)
 寛政3年長崎市銀屋町生まれ。俗姓は日高。鉄翁の号は30歳代半ばから用いた。文政3年から春徳寺の第14代住持をつとめ、嘉永3年に退隠した。はじめは石崎融思に師事したが飽きたらず、28歳の頃に来日した江稼圃について南画の画法を習得、特に退隠後は画禅三昧にひたり、蘭図を得意とし、蘭の鉄翁と称された。田能村竹田らとも交友し、多くの門人を育てた。明治4年、81歳で死去した。

木下逸雲(1799-1866)(きのした・いつうん)
 寛政11年長崎市八幡町生まれ。通称は志賀之助、名は相宰、諱は隆賢。別号に養竹山人、如螺山人、物々子などがある。18歳で八幡町乙名をつとめ、文政12年退役。本業は内科外科を兼ねる医者だった。亀山焼の発展に寄与し、日中文化交流の長崎丸山花月楼清譚会の世話人もつとめた。画法は、鉄翁と同じく最初は石崎融思に学び、のちに最も影響を受けた江稼圃について南画を学び、鉄翁とともに幕末長崎南画界の大御所的存在となった。天保3年に建てられた諏訪神社の能舞台には、大和絵風に松の絵を描くなど、広く画法を学び、西洋画にも関心を寄せた。篆刻も巧みで、鉄翁にも印を贈っている。慶応2年、江戸に遊び、横浜から長崎への帰路、海上で遭難し、68歳で死去した。

三浦梧門(1808-1860)(みうら・ごもん)
 文化5年生まれ。本興善町乙名三浦惣之丞の長男。通称は惣助、諱は惟純。別号に秋声、荷梁、香雨などがある。邸内に植えていた梧桐のなめらかな美しさを愛し、梧門と号したという。長崎本興善町乙名や長崎会所目付役などをつとめた。渡辺鶴洲や石崎融思に画法を学び、さらに中国の名画を独学で研究し、南画の大家と称された。土佐派の画や肖像画も得意とした。万延元年、53歳で死去した。 】(「UAG美術家研究所」)

https://yuagariart.com/uag/nagasaki16/
【  長崎三画人後の三筆、守山湘帆・中村陸舟・伊東深江
 長崎三画人らによって大成された南画は、その後も門人たちによって引き継がれ、鉄翁祖門に学んだ守山湘帆と中村陸舟、三浦梧門に学んだ伊東深江の三人は、長崎後の三秀とも崎陽後の三筆とも称された。ほかにも、鉄翁の門からは松尾琴江、立花鉄嵒、木下逸雲の門からは、池辺蓮谿、小曽根乾堂、池島邨泉、成瀬石痴らが出て、長崎南画の画系は引き継がれた。大正、昭和に入ってからも鉄翁直系の正統を継いだ帯屋青霞が長崎南画の第一人者として活躍、伝統継承と後進の育成につとめた。

守山湘帆(1818-1901)「帆」は正式には「馬+風」(もりやま・しょうはん)
 文政元年長崎生まれ。通称は愛之助、諱は吉成、字は士順。伊東甚八義重の三男、のちに桜町の守山家の養子となった。出島組頭をつとめた。幼いころから鉄翁祖門について南画を学んだ。明清画家の作品も独習し、文久年間に徐雨亭が来舶すると、画法、書法を学んだ。明治34年、83歳で死去した。

中村陸舟(1820-1873)なかむら・りくしゅう
 文政3年生まれ。本名は利雄、通称は六之助、字は浄器。別号に梅香がある。家は代々遠見番で、家業を継ぎ長崎奉行組下遠見番役人をつとめた。高島晴城について西洋の砲術を学び、ほかにも、造船学、航海学、機関学、算術などを修めた。その一方で、鉄翁祖門について南画を学んだ。明治6年、54歳で死去した。

伊東深江(1835-不明)いとう・しんこう
 天保6年生まれ。通称は福太郎、諱は孝正、字は中甫。別号に春農がある。伊東家は代々町乙名の家系であり、深江も恵比寿町乙名の役をつとめ、幕末には居留地係となり、明治元年には長崎取締助役となった。養豚業に従事するも失敗、以後、長崎を去り神戸に移住した。三浦梧門に南画を学び、山水図と芦雁図を得意とした。

  (以下略)      】(「UAG美術家研究所」)

https://yuagariart.com/uag/nagasaki12/
【  洋風画にも通じた唐絵目利・石崎融思と長崎の洋風画家
 長崎に入ってきた絵画の制作年代や真贋などを判定、さらにその画法を修得することを主な職務とした唐絵目利は、渡辺家、石崎家、広渡家の3家が世襲制でその職務についていた。享保19年には荒木家が加わり4家となったが、その頃には、長崎でも洋風画に対する関心が高まっており、荒木家は唐絵のほかに洋風画にも関係したようで、荒木家から洋風画の先駆的役割を果たした荒木如元と、西洋画のほか南画や浮世絵にも通じて長崎画壇の大御所的存在となる石崎融思が出た。融思の門人は300余人といわれ、のちに幕末の長崎三筆と称された鉄翁祖門、木下逸雲、三浦梧門も融思のもとで学んでいる。ほかの洋風画家としては、原南嶺斎、西苦楽、城義隣、梅香堂可敬、玉木鶴亭、川原香山、川原慶賀らがいる。

石崎融思(1768-1846)
 明和5年生まれ。唐絵目利。幼名は慶太郎、通称は融思、字は士斉。凰嶺と号し、のちに放齢と改めた。居号に鶴鳴堂・薛蘿館・梅竹園などがある。西洋絵画輸入に関係して増員されたと思われる唐絵目利荒木家の二代目荒木元融の子であるが、唐絵の師・石崎元徳の跡を継いで石崎を名乗った。父元融から西洋画も学んでおり、南蘋画、文人画、浮世絵にも通じ長崎画壇の大御所的存在だった。その門人300余人と伝えている。川原慶賀やその父香山とも親しかったが、荒木家を継いだ如元との関係はあまりよくなかったようである。弘化3年、79歳で死去した。

原南嶺斎(1771-1836)
 明和8年生まれ。諱は治堅。別号に南嶺、南嶺堂などがある。河村若芝系の画人で河村姓を名乗ったこともある。唐絵の師は山本若麟あたりだと思われる。自ら蛮画師と称していたほど油彩画も得意とした。天保7年、66歳で死去した。

西苦楽(不明-不明) (略)
城義隣(1784-不明)   (略)
梅香堂可敬(不明-不明) (略)
玉木鶴亭(1807-1879)  (略)    】(「UAG美術家研究所」)

ヒポクラテス像・酒井抱一.jpg

「ヒポクラテス像」≪酒井抱一筆、ドゥーフ賛 (1761- 1829)≫ 江戸時代、文化7年/1810年 絹本著色 112.0×33.7cm 1幅 落款:「抱一暉真写」 印章:「文銓」(朱文瓢印)
賛:Hendrik Doeff,Jr.「Hippocrates Zegt, dat Ziecktens/niet geneezen worden door Welspreekenheid/maar door Geneesmiddelen/Jedo/Ao.1810/Hendrik Doeff」 神戸市立博物館蔵 来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/430902

≪ ヒポクラテスは西洋医学の祖として蘭学者が崇め、その肖像は大槻玄沢の紹介を契機として、石川大浪が蘭書コルネイキ所収の肖像を寛政十一(一七九九)年模写したものが最古とされている。以降七〇点に及ぶヒポクラス像の存在が確認されている。
 本図はオランダ商館長のドゥーフ(一七七七~一八三五)が文化七(一八一〇)年に江戸参府の折に賛を寄せたもの。本図は緒方富雄氏によっても触れられているが(『蘭学と日本文化』一九七一年 東京大学出版会)、ズーフの賛も抱一の絵も信憑性に欠けるとされてきた。しかしここではあらためて抱一画を検証したい。
 このヒポクラテス像は金輪をめぐらす楕円状の縁取りを以て表わされる。円内は薄い藍が一面に塗ってあり、ヒポクラテスの白髪を際立たせる外隈のような役割を果たしている。肖像、特に顔や手では陰影表現に苦慮した形跡が明らかである。微妙な陰影を表わすため、細かい筆致を重ねており唇の一部を濃くするなど写実的な表現に腐心している。顔と手のバランスは不釣り合いで、とりわけ目だけが極端に大きく見える。これほど戸惑ったような筆致は抱一には他になく、文化七年の抱一画として認めがたい向きもあるだろう。
 しかしそうした迷いのある筆致こそが、抱一が真摯に西洋画に向き合っている証とも言える.衣紋線には抱一の線描の特徴、しなやかな曲線が多く見出される。二重の金の輪を成す額は、輪郭を細い墨線で描いており、全体に丁寧な仕上げとなっている。また「抱一暉真写」の謹直な署名は文化中期頃とみて差し支えなく、「文銓」(朱文瓢印)は通常の「文銓」(朱文瓢印)より太めで使用例が限られるものだが、その事が真筆を否定するものではない。
 宗雅のサロンには蘭方医桂川甫周がよく名を連ねており、抱一がこうした蘭画に関心を抱くことはむしろ自然に思われる。年代は下がる、甫周の孫、甫賢は文化十三(一八一六)年以降、自ら「ヒポクラテス像」をいくつも描いている。抱一周辺で「ヒポクラテス」像に接する機会は整っていたとみて良いだろう。洋風画への抱一の関心は彼の画業全体の中で決して大きいものではないが、琳派以外にも幅広い作風を修めた抱一であれば、洋風画を試みたことも考えられよう。
(賛)→上記の「神戸市立博物館」の「賛」と同じ(「スペル」に若干の相違あり)≫
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収「作品解説(岡野智子稿)」)

 この「文化七(一八一〇)年」は、酒井抱一、五十歳の時で、この年の新春に、「小鶯女史」(抱一が「吉原大文字楼」から身請けする「子鶯」女史)の「賛」がある「紅梅図」を制作した頃で、それを、ここで再掲して置こう。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-09-01

(再掲)

紅梅図.jpg

【酒井抱一筆「紅梅図」(小鸞女史賛) 一幅 文化七年(一八一〇)作 細見美術館蔵
絹本墨画淡彩 九五・九×三五・九㎝
≪ 抱一と小鸞女史は、抱一の絵や版本に小鸞が題字を寄せるなど(『花濺涙帖』「妙音天像」)、いくつかの競演の場を楽しんでいた。小鸞は漢詩や俳句、書を得意としたらしく、その教養の高さが抱一の厚い信頼を得ていたのである。
小鸞女史は吉原大文字楼の香川と伝え、身請けの時期は明らかでないが、遅くとも文化前期には抱一と暮らしをともにしていた。酒井家では表向き御付女中の春條(はるえ)として処遇した。文化十四年(一八一七)には出家して、妙華(みょうげ)と称した。妙華とは「天雨妙華」に由来し、『大無量寿経』に基づく抱一の「雨華」と同じ出典である。翌年には彼女の願いで養子鶯蒲を迎える。小鸞は知性で抱一の期待によく応えるとともに、天保八年(一八三七)に没するまで、抱一亡きあとの雨華庵を鶯蒲を見守りながら保持し、雨華庵の存続にも尽力した。
本図は文化六年(一八〇九)末に下谷金杉大塚村に庵(後に雨華庵と称す)を構えてから初の、記念すべき新年に描かれた二人の書き初め。抱一が紅梅を、小鸞が漢詩を記している。抱一の「庚午新春写 黄鶯邨中 暉真」の署名と印章「軽擧道人」(朱文重郭方印)は文化中期に特徴的な踊るような書体である。
「黄鶯」は高麗鶯の異名。また、「黄鶯睨睆(おうこうけいかん)」では二十四節気の立春の次候で、早い春の訪れを鶯が告げる意を示す。抱一は大塚に転居し辺りに鶯が多いことから「鶯邨(村)」と号し、文化十四年(一八一七)末に「雨華庵」の扁額を甥の忠実に掲げてもらう頃までこの号を愛用した。
 梅の古木は途中で折れているが、その根元近くからは新たな若い枝が晴れ晴れと伸びている。紅梅はほんのりと赤く、蕊は金で先端には緑を点じる。老いた木の洞は墨を滲ませてまた擦筆を用いて表わし、その洞越しに見える若い枝は、小さな枝先のひとつひとつまで新たな生命力に溢れている。抱一五十歳の新春にして味わう穏やかな喜びに満ちており、老いゆく姿と新たな芽吹きの組み合わせは晩年の「白蓮図」に繋がるだろう。
 「御寶器明細簿」の「村雨松風」に続く「抱一君 梅花画賛 小堅」が本図にあたると思われ、酒井家でプライベートな作として秘蔵されてきたと思われる。
(賛)
「竹斎」(朱文楕円印)
行過野逕渡渓橋
踏雪相求不憚労
何處蔵春々不見惟 
聞風裡暗香瓢
 小鸞女史謹題「粟氏小鸞」(白文方印) ≫   】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「作品解説96(岡野智子稿)」)

石川大浪「ヒポクラテス像」.gif

「ヒポクラテス像」≪石川大浪筆、シーボルト題 (1762-1818)≫ 江戸時代/19世紀初期
絹本墨画 79.9×31.4cm 1幅  落款:「因泰西畫法/大浪写」印章:「SK」(朱文円印)題:シーボルト「Afbeeldmg/van den/vermaarden Geneesheer/Hippokrates./Dezima den15=Sioguats/Anno1825/Dr. von Shiebold.」(於長崎出島、1825年)裏面に谷文晁(文政元)、石田潜(明治12)の題記貼付
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/429362
【 石川大浪は、大槻玄沢の依頼を受けて『史的年代記』から初めてヒポクラテス像を模写しました。正しい図像を描くために選ばれた大浪は、蘭学者にとって特別の画家でした。本図は、フランソワ・ブーシェの原画をジル・ドゥマルトーが銅版画にした「男の頭像」を原本とする作品。当初よりヒポクラテス像として描かれたかどうかは不明ですが、オランダ語の題記から「ヒポクラテス像」とされています。裏には谷文晁による識語「大御番石川七左衛門号大浪善画墨然又工/写泰西画法友弟谷文晁記時文政戊寅/七月廿日」が貼られ、大浪が文晁に西洋画法を教授した際の記念の作品と思われます。
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・勝盛典子「大浪から国芳へ―美術にみる蘭書需要のかたち」(『神戸市立博物館研究紀要』第16号) 2000
・陰里鉄郎「石川大浪筆ヒポクラテス像をめぐって 江戸洋風画とヨーロッパ版画」(『ミュージアム』268 1973) 】(「文化遺産オンライン」)

ドゥーフ像・川原慶賀.jpg

「ドゥーフ像」≪川原慶賀か≫ 江戸時代、享和3年〜文化14年/1803年〜1817年 紙本著色 35.0×23.0(額の外寸)1面 款記「Hendrik Doeff Junior Opperhofd van ao1803 Tot Ao」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/456559
【 ヘンドリック・ドゥーフ(1777~1835)は、享和3年(1803)に荷倉役から商館長となり、文化14年(1817)の離日まで14年間商館長を勤めました。当時の西洋人の肖像画にありがちな日本人臭を感じさせない本図は、ドゥーフの容貌をかなり正確に伝えていると思われます。諸色売込人(しょしきうりこみにん)川島家の旧蔵品です。繊細な青貝細工を施した漆器製の額には「Hendrik Doeff Junior Opperhofd van ao1803 Tot Ao」と、商館長就任期間の最後をあけて銘が記されています。制作動機は、商館長就任の記念、あるいは、文化6年に商館長居宅で催された日蘭友好200年記念パーティーと推察されますが、確定にはいたりません。池長蒐集当時より作者は川原慶賀に帰属されますが、落款がなく、制作時期と連動する問題でもあり、検討の余地があります。
来歴:長崎川島友一→池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・神戸市立博物館特別展『コレクションの精華』図録 2008 】(「文化遺産オンライン」)

桂川甫賢 ・ヒポクラテス像.jpg

「桂川甫賢 ヒポクラテス像」(桂川甫賢画並賛) 早稲田大学図書館
https://www.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/b08_b0158/
【 製作・刊行年等:文化13年 ; 材質:インク鵞ペン書 絹本淡彩 ; 数量:一軸 ; 大きさ:82.5×33CM ; 解説文:ヒポクラテス(Hippokrates,BC.460-375?)はギリシャのコス島出身の医師。医学を宗教や迷信から分離して「医学の父」と称された。日本の蘭方医も彼の肖像を医学の祖として掲げ芝蘭堂新元会図にもその像がみえる。法眼桂川国寧(甫賢。1797-1844)自筆の画および賛は文化13年、20才の作。蘭文の賛は、ドイツ出身の医者ヨ八ン・クルムス(Kulmus,Johann Adam. 1687-1745)の原文とその漢訳。絹本淡彩。 】

 この「ヒポクラテス像」を描いて、そして「賛」をした「桂川甫賢(桂川家七代)」(1797-1845)は、「酒井抱一」((1761-1828))、そして、その長兄の「姫路城城主・酒井忠以」(1756-1790)と親交のあった「桂川甫周(桂川家四代)」((1751-1809))の、次の世代で、それは、
「シーボルド事件」(文政一一年(一八二八)に起きた蘭学者処罰事件)や「蛮社の獄」((蛮社は「蛮学社中(洋学仲間の意)」の略) 天保一〇年(一八三九)、江戸幕府が洋学者のグループ尚歯会に加えた弾圧事件。モリソン号事件・異国船打払い令などを批判して渡辺崋山は「慎機論」、高野長英は「夢物語」を著わしたがこれに対し幕府は、政治批判の罪で崋山に国許蟄居、長英に永牢の判決を行なった)の時代、これは、その「シーボルド事件」が勃発する十年位前の、文化一三(一八一六)、甫賢の二十歳の頃の作品ということになる。

花鳥図并賛・桂川甫賢.jpg

「6.花鳥図并賛(文庫8 B160)桂川甫賢(国寧)画賛」 文政4年(1821)6月 絹本彩色 1軸 )
https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/ikimono1/ikimono1.html
【桂川甫賢(国寧,1797-1844)は幕府奥医師の家、桂川家の六代として生まれ、大槻玄沢らについて蘭学を学んだ。鷹見泉石(1785-1858)、渡辺崋山(1793-1841)らとも交流があり、絵画もよくした。】

≪ 桂川甫賢(かつらがわ-ほけん) 1797-1845 江戸時代後期の医師。
寛政9年生まれ。桂川家5代桂川甫筑の長男。桂川家6代。大槻玄沢(げんたく),坪井信道(しんどう)らに蘭学をまなぶ。文政10年父の跡をついで幕府の奥医師となる。のち法眼(ほうげん)。漢方と蘭方の両方の長所活用につとめた。シーボルトとまじわり,バタビア芸術科学協会会員。弘化(こうか)元年12月6日死去。48歳。名は国寧(くにやす)。字(あざな)は清遠。号は桂嶼,翠藍。 ≫ (出典:「講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plu」)


(参考その一)

「(早稲田図書館蔵)ヒポクラテス関係資料(緒方富雄稿)」(抜粋)

【或云一百九歳。真医家之宗師也。
文化十三丙子仲秋奉朝請医官桂川甫賢国寧写井題
釈文
コルムスいわく
ヒボクラテス数部を著撰す。その解剖書のごときは、我輩みな先生をもって始祖となす。先生は紀元前四百三十二年をもってギリシア中マセドニエンの地に生る。すなわち第二世ペルデカス王の時にあたる。寿一百四歳。あるいはいう一百九歳。真に医家の宗師なり。】

(参考その二)

「桂川甫賢筆長崎屋宴会図について(著者・松田清) 雑誌名・神田外語大学日本研究所紀要12 p 234-170 発行年2020-03-30」
URL http://id.nii.ac.jp/1092/00001662/

【はじめに (略)
第1 章 文政5 年以前の長崎屋図 (略)
第2 章 桂川甫賢筆長崎屋宴会図 (抜粋)

桂川甫賢筆 長崎屋宴会図.gif

図14 桂川甫賢筆 長崎屋宴会図 神田外語大学附属図書館蔵
第3 章 仮装宴会の企画と演出  (略)  
おわりに ―長崎屋宴会図の由来― (略)     】

(参考その三)

「桂川甫賢筆ヒポクラテス像の賛、新出二種の典拠について」(松田清稿)
http://id.nii.ac.jp/1092/00001728/

医聖依卜加得(イボカテ=ヒポクラテス)像.gif

図1 医聖依卜加得(イボカテ=ヒポクラテス)像 衆星堂蔵

桂国寧恭写并書(白文方印)(朱文方印
文政甲申春晩
道長生短時乎易(道は長く、生は短し。時たるや失い易し。)
失診察雖多證因(診察は證因多しと雖も、)
難皙蘊奥深徴無(蘊奥の深徴を皙(アキラ)め難く、)
窮已日夜研精無軽(窮まり無くして已む。)
忽西洋医聖依卜(西洋の医聖依卜)
加得語(加得の語なり。)

依卜加得(イボカテ=ヒポクラテス)文章一.gif

図2  依卜加得(イボカテ=ヒポクラテス)文章一 口絵と本文冒頭 神田外語大学日本研究所蔵

図3  依卜加得文章一 末尾(依卜加得肖像由来書) 神田外語大学日本研究所蔵(略)
図4 医聖依卜加得蔵 蘭文賛 衆星堂蔵 (略)
図5  ヒポクラテス箴言集 第二版 口絵 個人蔵 (略)
図6  ヒポクラテス箴言集 第二版 標題紙 個人蔵 (略)
図7  ヒポクラテス箴言集 第一箴言 個人蔵 (略)
図8  医聖依卜加得像 落款印 衆星堂蔵 (略)
図9 A. G. ルイシウス編『総合歴史地理系譜学辞典』第5 巻 標題紙 個人蔵(略)
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