SSブログ

川原慶賀の世界(その十一) [川原慶賀の世界]

(その十一)「川原慶賀の長崎歳時記(その三)節分」周辺

『NIPPON』 第1冊図版(№180)「節分」(A図).gif

『NIPPON』 第1冊図版(№180)「節分」(A図) 福岡県立図書館/デジタルライブラリー
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html

節分、豆まき(B図).gif

●作品名:節分、豆まき(B図)
●Title:Bean-scattering in February (to ward off evil spring)
●分類/classification:年中行事、2月/Annual events
●形状・形態/form:紙本墨画、冊子/drawing on paper, album
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=1132&cfcid=141&search_div=kglist

節分、豆まき(C図).jpg

●作品名:節分、豆まき(C図)
●Title:Bean-scattering in February, February
●分類/classification:年中行事・2月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=1132&cfcid=141&search_div=kglist
「豆撒き(節分)」 紙本著色 27.0×36.5
Bean-scattering in February, February (to word off evil spring )
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№5」)』)

この「節分、豆まき(C図)」は、『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№5」)』では、「シーボルト・コレクション」の「川原慶賀筆」としている。
 これは、まぎれもなく、「葛飾北斎」のゴーストライターともいわれている、北斎の三女「葛飾応為」(名は「栄」)の、次の「吉原格子先之図」などを念頭に置いての作のように思われる。

葛飾応為筆「吉原格子先之図」(D図).jpg

葛飾応為筆「吉原格子先之図」(「太田記念美術館」蔵) (D図)
紙本著色一幅 26.3×39.8㎝ 文政~安政(1818~1860)頃
http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/collection/list05
〖 吉原遊廓の妓楼、和泉屋の張見世の様子を描く。時はすでに夜。提灯が無くては足元もおぼつかないほどの真っ暗闇だが、格子の中の張見世は、まるで別世界のように赤々と明るく輝き、遊女たちはきらびやかな色彩に身を包まれている。馴染みの客が来たのだろうか、一人の遊女が格子のそばまで近寄って言葉を交わしているが、その姿は黒いシルエットとなり、表情を読み取ることができない。 光と影、明と暗を強調した応為の創意工夫に満ちた作品で、代表作に数えられる逸品。なお、画中の3つの提灯に、それぞれ「応」「為」「栄」の文字が隠し落款として記されており、応為の真筆と確認できる。〗(「太田記念美術館」)

〖 吉原遊廓の妓楼・和泉屋で、往来に面して花魁たちが室内に居並ぶ「張見世」の様子を描く。店や客が持った複数の提灯から生まれる幻想的な光と影が、観者に強い印象を与える。紙の寸法や日本人の生活に取材した画題が、カピタンの依頼により北斎工房が手がけた水彩画(ライデン国立民族学博物館およびパリ国立図書館蔵)と一致することから、本作もオランダ人からの依頼によって描かれたが、何らかの理由により日本に留まった可能性が考えられる。〗(「ウィキペディア」)

 この「吉原格子先之図」(葛飾応為筆)の「画中の3つの提灯に、それぞれ『応』『為』『栄』の文字が隠し落款として記されており」の、その「部分拡大図」は、次のとおりである。

「応・為・栄」図.png

左図(D図の右側「行燈型」の提灯)→「応」
中図(D図の左寄りの中央右側「丸型」の提灯)→「為」
右図(D図の左寄りの中央左側「細長型」の提灯)→「栄」

川原慶賀筆「青楼」(E図).jpg

川原慶賀筆「青楼」紙本著色 25.3×49.2 ライデン国立民族学博物館蔵(「ブロムホフ・コレクション」) The Nagasaki gay quarter (E図)
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№87」)

『 あかあかと明かりのついた遊郭を、通りに視点を置いて描いている。格子越しに見える内部、それを表からのぞいてひやかす客たち、二階には三味を弾かせ太鼓を叩いて陽気に騒ぐ客、提燈を持って通りを行き交う人々、そば屋、これらの人々が生き生きと描写されている。そして、本図で最も注意すべきことは、夜の人工的な光の錯綜を見事に捉えていることである。室内はろうそくの明かりで照らし出され、その室内の光は外にもれて通りの人々が持つ提燈の光とともに複雑な影を地面に作り出している。
 妓楼格子先を表した図は多く見ることができるが、本図ほど光と影を意識して描かれたものはないのではなかろうか。その点だけでも、本図を描いた慶賀を日本の近代絵画の先駆者として位置づけることができるであろう。(兼重護稿)』(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)

 葛飾応為の「吉原格子先之図」(D図)が、江戸を象徴する遊郭地「吉原」の夜景とすると、川原慶賀の「青楼」(E図)は、長崎を象徴する遊郭地「丸山」の夜景ということになる。そして、この応為の「吉原格子先之図」(D図)は、ライデン国立民族学博物館蔵の「シーボルト・コレクション」ではなく、「ブロムホフ・コレクション」であることを、『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』では指摘している。
 慶賀が、「スチュルレル(商館長)・シーポルト(商館付医師)」らに同行しての「江戸参府」で「江戸」を訪れたのは、文政九年(一八二六)のことであった。その四年前の文政五年(一八二二)の「江戸参府」は、「ブロムホフ(商館長)とフイッセル(商館員・書記・『日本風俗備考』の著者)」らで、この「ブロムホフ・フイッセル」らが「北斎(北斎工房)に発注し四年後受け取る予定」の絵画作品の一つに、この応為の「吉原格子先之図」(D図)があり、それが「何らかの理由により日本に留まった可能性が考えられる」(「ウィキペディア」)ということになる。

 これらのことについては、下記のアドレス等で触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-27

(再掲)

≪ オランダ国立民族学博物館のマティ・フォラーによると、1822年のオランダ商館長ブロムホフが、江戸参府の際日本文化の収集目的で北斎に発注し4年後受け取る予定としたが、自身の法規違反で帰国。後継の商館長ステューレルと商館医師シーボルトが1826年の参府で受け取った。現在確認できるのは、オランダ国立民族学博物館でシーボルトの収集品、フランス国立図書館にステューレルの死後寄贈された図だという。西洋の絵画をまねて陰影法を使っているが絵の具は日本製である。≫

 また、上記(再掲)の「スチュルレル・シーボルトらの江戸参府」の折、スチュルレル(カピタン=使節)が持ち帰り、後に「フランス国立図書館」に寄贈したといわれている『北斎・北斎工房』らの作品(その一)・(その二)」については、下記のアドレスで紹介している。

(その一)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-27

(その二)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-28

 この「スチュルレル・シーボルトらの江戸参府」の折、シーボルトが持ち帰った作品のうちの、「北斎、検閲避け?名入れず 作者不明だった西洋風絵画の謎 シーボルト収集品目録と一致」の「北斎・北斎工房」らの作品については、下記のアドレスで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-25

 ここで、特記をして置きたいことは、これらの「ブロムホフ・コレクション」「フイッセル・コレクション」そして「スチュルレル・コレクション」「シーボルト・コレクション」の、その「ブロムホフ・コレクション」のうちに、川原慶賀筆「青楼」(E図)が収蔵されているということは、この「ブロムホフ・コレクション」のうちに収蔵されるべき作品のうち「何らかの理由により日本に留まった可能性が考えられる」、その葛飾応為筆「吉原格子先之図」(D図)は、少なくとも、慶賀にとっては、自己の「青楼」(E図)の姉妹編ともいうべき、その「姉」(目標とすべき「原画」)にも近い作品であったであろうということなのである。
 すなわち、川原慶賀にとって、この文政九年(一八二六の「スチュルレル・シーボルトらの江戸参府」に同行して、その「江戸」滞在中に、「北斎・北斎工房」の、特に、「葛飾応為」との遭遇ということは、それまでの、単なる「鎖国日本唯一の窓口・長崎出島出入りの石崎融思一門の一町絵師『登与助(慶賀の通称)」が、名実共に、「世界に『日本』を知らしめた『長崎派絵師』の一角を占めている『川原慶賀』(慶賀は号、別号に聴月楼主人。後に田口姓を名乗る)の誕生を意味する。
 ちなみに、慧眼のマルチニスト劇作家「ねじめ正一」の「『シーボルトの眼 出島絵師川原慶賀』(集英社 2004 のち文庫)」では、この「川原慶賀」と「葛飾応為」とは、夫婦関係となり、そのドラマが進行するが、そこで、シーボルトをして、「光ダケナク、影モ描クノダ。正確ニ、オ前ノ見タ通リニ」という、その絵師としての「慶賀の開眼」は、まさに、この、文政九年(一八二六の「スチュルレル・シーボルトらの江戸参府」に同行しての、慶賀の、その「北斎・北斎工房」、特に、「葛飾応為」との遭遇ということが、その根底にあることであろう。
 それらを物語る如く、この一連の、「シーボルト・コレクション」の作品群が、上記の「節分、豆まき」(B図)を下絵とする「節分、豆まき」(C図)のように思われる。
 ここに、もう一つの「節分、豆まき」(F図)も、これらの一群の作品と解したい。

「節分、豆まき」(F図).jpg

「節分、豆まき」(F図)
https://publicdomainr.net/mizue-6-0001867-llaytf/
「豆撒き(節分)」 紙本著色 30.5×39.5 ライデン国立民族学博物館蔵(「フイッセル・コレクション」)
Bean-scattering in February (to ward off evil spring)
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№3」)
『 節分の行事については現在においてほとんどかわるところはないようである。長崎歳時記に、
 家内のともし火を悉く消し、いりたる豆は二合にても三合にても一升ますに入れ、年男とて、あるじ右の豆を持て恵方棚、神棚に向ひ至極小声をして福は内と三遍となへ、夫より大声にて鬼は外と唱ふ、家の一間ごとにうち廻り庭におり外をさして打出す。』(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)

 この「節分、豆まき」(F図)は、『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』によると、「フイッセル・コレクション」所蔵のもので、「シーボルト・コレクション」所蔵の「節分、豆まき(B図)」(紙本墨画)や「節分、豆まき(C図)」(絹本着色)の先行的な作品と思われる。そして、葛飾応為の「吉原格子先之図(D図)」との関連ですると、この「フイッセル・コレクション」や「ブロムホフ・コレクション」所蔵の作品の方が、「応為と慶賀」との関係をより直接的に位置づけているもののように思われる。

(参考) 

https://note.com/mitonbi/n/n174f312ed806

「長崎歳時記」全文訳 節分 二月

節分

 節分の夜は、家々ではなますを作り、神棚、恵方棚、そのほか家財道具、浴室、トイレなどに明かりをつけておき、黄昏を過ぎるころ、「最初の暗闇」といって、灯してあった家中の明かりを全部消して、豆まきをはじめます。この豆は二合でも三合でも、量は問いません。「年男」といって、金持ちは出入りの者、普通あるいは貧乏な家は、家の主が一升枡に入れた豆を持って、まずは恵方棚、神棚に向かい、とても小さな声で「福は内」と三回唱え、それから大きな声で「鬼は外!」と唱えます。家の部屋ごとにおなじように回って、また、庭に降りて、外に向けて打ち出します。家によってやりかたは様々ですが、これが終われば、祝い酒です。俗にこの夜の大豆は、いつもより強く煎るとよいと伝えられています。このことを女たちは昔から言い伝えられているだけで、その意味を知る者はあまりいません。私見ですが、「赤くて丸いもので災厄や鬼を追う」という話が「文選六臣注(中国の詩文集とその注釈書)」に詳しく載っているのを見ると、昔から大豆を「赤くて丸いもの」に見立てて、煎り過ぎを良しとするのでは、と考えています。
 この日は紅大根という赤い大根が売られているので、家々ではこれを買ってなますに刻んだり、生のまま輪切りにして台に盛り、かたわらに塩を添えて、この夜の第一の肴とすることは、家の大小に関わらず、古来からのしきたりです。これは、退治した鬼の手に見立てた物だと伝えられています。
 年の内の立春も、そのやり方はおなじような感じです。この「年豆」を蓄えておいて、二十日正月の煮込みに入れる家もあります。
 また、初めて雷が鳴った日に食べれば、一年中、雷を避けると言い伝える人もいて、その真意はわかりません。
 この日の暮れごろには、一年使ってきた火吹き竹の口に紙を詰め、子供や使用人たちが、これを門口より外に投げ捨てるのですが、投げた先は絶対に見てはならないとされています。これがまた、昔ながらのことで、どうしてこうなのかはわかりません。ひょっとしたら、火吹き竹は一年の間、ふーふーと気を吹き入れ続けた物ですから、それを邪気にたとえて投げ捨てるという意味なのかもしれません。いずれにせよ、これを誰かが拾うということは禁じられているのですが、その多くは非人や乞食といった者どもが拾って薪にするのです。
 この夜は厄払いといって、山伏などの宗教者たちが貝を吹き、鈴を振り、あるいは錫杖を振り立てて、街中を「厄払い、厄払い」と触れ歩きます。もしおはらいを頼みたければ、小銭を包んで門先でおはらいしてもらいます。 また、三味線や太鼓、笛を囃したて、踊ったりしながら、寿ぎをする人がいたり、へぎに塩を詰み、あるいは白鼠の作り物などを持って家々を回り、お金を乞う者もいます。もっとも塩を持ってくる人たちは皆「恵方から潮が満ちて来ました~」と言いながら差し出します。このようなことは、ただ卑しい者たちの稼ぎというだけでなく、遊び人たちが戯れにその姿を真似して顔を隠し、若いお嬢さんのいる家をつぶさに回って顔かたちを確かめ、お嫁さん探しのたすけにする場合もあります。
 諏訪社では天下一統百鬼の夜行を祓って、鬼やらいをします。その百鬼が散り散りにならないように、疫神所に封じ込めておいて清祓いを行い、疫神を祭り、塚を捨てるというのです。あるいは、厄年の男女が清祓いに参拝すると、厄難を避け、疫神も除かれるといいます。拝殿では(家々の)神棚とおなじような豆まきがあるので、町の人々は上下を着たり、あるいは平服で参詣します。諏訪社の年豆は、例年、土製の八分大黒を三勺ほど入れ混ぜているので、卑しい者たちはみな争って神社に集まり、豆を拾います。この「大黒」を拾い当てた者は、その年の福を得るといわれています。

二月

一日
 諸役人は佳日を拝します。

 この月初めての午の日には、あちこちの稲荷社で祭礼があります。社殿ごとに青、黄、赤、白の旗をひるがえし、参詣者はそれぞれに赤飯を炊いて供物を献じます。たまたま家などに安置されているお稲荷さんも、おなじようにお祭りします。(とはいえ長崎では、みんながみんな稲荷を信仰しているわけでもありません。)

二日
 毎年、唐人屋敷で唐人踊りがあります。

 六日ごろより、七ヶ村の踏絵が始まります。七ヶ村は、日見村、古賀村、茂木村、河原村、椛島村、野母村、高浜村です。この中にはさらに、網場や田上、飯香浦、宮摺などの小名があります。いずれも代官所の支配地なので、代官の手代、足軽などを引き連れて回ります。

十五日
 諸役人は佳日を拝します。

 涅槃会。お寺では堂内に大きな涅槃像を掛けて香と花をお供えし、たくさんの人がお参りします。
古老が言うには、その昔、絵師が禅林禅寺(八幡町、寺町にあり)の涅槃絵を描いていたところ、毎日、猫がかたわらにやってきて立ち去りませんでした。身をひそめて、頭を下げて、なにか物を思い、感じている様子だったそうです。絵師は心動かされ、ついに涅槃絵にその猫を描き加えたところ、いつしか姿は消え、ふたたび来ることはなかったというのです。今の世になっても、みんなこの話をして、不思議だね~と言っています。というわけで、長崎にあるお寺の涅槃像の中で、この寺のものがいちばんいいということになっているのです。

 彦山祭礼。
 この山は長崎の東にあって、雅名を峨眉山といいます。中国の峨眉岳に似ているので、唐人たちが名付けたのです。以前は参詣する者が多かったのですが、いまはやや衰えているようです。

二十八日
 諸役人は佳日を拝します。

二十九日
 このころまで、酒屋町、袋町、本紺屋町、材木町の通りには雛見せが出ます。夜、見物の人が大勢です。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。