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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その四) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「蕪村《遊舞図》」周辺

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『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「蕪村《遊舞図》」」(「早稲田大学図書館蔵」)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175_p0009.jpg

≪ 「遊舞図」 蕪村写意/夜半翁画ハ古澗(こかん)/ノ意ヲ取ニ似タリ ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

(補記その一)

≪ 古澗慈稽(こかん-じけい)
 1544-1633 織豊-江戸時代前期の僧。
天文(てんぶん)13年生まれ。臨済(りんざい)宗。京都建仁寺(けんにんじ)大統院の奎文慈瑄の法をつぐ。博多の聖福寺(しょうふくじ)住持をへて,慶長10年建仁寺,13年京都南禅寺の住持。詩文,とくに聯句(れんく)にすぐれた。林羅山(らざん)も大統院で教えをうけた。寛永10年9月10日死去。90歳。信濃(しなの)(長野県)出身。俗姓は土田。≫(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

https://www.atpress.ne.jp/news/128535

大黒天図.jpg

「大黒天図」(画僧古澗研究会蔵)

(「補記その二」)

≪ 蕪村は「古澗(こかん)ノ意ヲ取ニ似タリ」とあり、蕪村の草画的技法に於ける先行的意義を画僧古澗に認めている。このような減筆的、草画的表現は、とくに人物描写に於いて見られる近世絵画史の特色的な一面ではなかろうか。足利期水墨画以降に、点景人物として一、二筆による端的な表現法を見るであろうが、これとは別に、柔らかい一種の洒脱な趣を含んだ描線による表現である。蕪村「俳諧三十六歌仙」などはこの種の典型的なタイプを示すものであろう。
 「近頃蕪村一流ヲ昉(はじ)めおもしろく覚候」とあり、崋山は、「一埽百態」の序文に於いては、風俗画家としての蕪村を非難しているが、俳画としては高く認めていたようである。≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「作品解説(鈴木進稿)」。)

※蕪村「俳諧三十六歌仙」

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-07-18

『夜半翁俳僊帖(与謝蕪村筆・秋保鐡太郎 編輯)』(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1983/bunko31_a198

「俳諧三十六歌僊 / 夜半亭蕪村 [画・編]」(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_06085/he05_06085_p0005.jp


(補記その三) 「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」(原本)と『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』(版本)との関係

「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」(原本)の内容(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」)と『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』(版本)との相互関連

「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」(原本)の内容(順序)

(題籢) 游戯三昧 小舟題
(画一) 団扇と蛍図
(画二) 田草取図
(画三) 燈下読書図 立圃画意 →『崋山画譜』(版本)の(画二)
(画四) 朝顔図 →       『崋山画譜』(版本)の(画七)
(画五) 釣瓶と鶯図 一蝶画題 →『崋山画譜』(版本)の(画四)
(画六) 狩衣人物図
(画七) 狐面図
(画八) 籠に雀図
(画九) 祈祷図
(画十) 茄子図 松花堂画法 →『崋山画譜』(版本)の(画一)
(画十一)游舞図 →『崋山画譜』(版本)の(画六)に、(画十四)の賛(蕪村写意)を用いる。
(画十二)夕立図 →『崋山画譜』(版本)の(画八)
(画十三)枯木宿鳥図 許六写意 →『崋山画譜』(版本)の(画五)
(画十四)相聞図 蕪村写意→「賛」(蕪村写意と賛文)のみ『崋山画譜』(版本)の(画六)に。
(画十五)梅樹図 光悦写生→『崋山画譜』(版本)の(画三)
(跋)  →        『崋山画譜』(版本)の(序)

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』(版本)の内容(順序)

『崋山画譜』(版本)の(序) →「游戯三昧 小舟題」(原本)の「跋」文
『同』(版本)の(画一)   →「同」(原本)の「画十」(茄子図 松花堂画法) 
『同』(版本)の(画二)   →「同」(原本)の「画三」(燈下読書図 立圃画意)
『同』(版本)の(画三)   →「同」(原本)の「画十五」(梅樹図 光悦写生)
『同』(版本)の(画四)   →「同」(原本)の「画五」(釣瓶と鶯図 一蝶画題)
『同』(版本)の(画五)   →「同」(原本)の「画十三」(枯木宿鳥図 許六写意)
『同』(版本)の(画六)→「同」(原本)の「画十一・游舞図」と「画十四・蕪村写意と賛文」
『同』(版本)の(画七)   →「同」(原本)の「画四」(朝顔図と崋山の句)
『同』(版本)の(画八)   →「同」(原本)の「画十二」(夕立図と崋山の句)
『同』(版本)の(跋=編者・鈴木三岳の「跋」文)    

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』(版本)

https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html

[出版地不明] : [出版者不明], 嘉永2[1849]跋
1帖 ; 29.0×15.5cm
書名は題簽による 扉題:崋山翁俳画/椎屋蔵板 色刷/折本


(参考その四) 「俳画の流れ」(「蕪村」から「崋山」へ)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-06-21

≪ 蕪村は、この「はいかい物之草画」に関しては、「凡(およそ)海内に並ぶ者覚(おぼえ)無之候」(天下無双の日本一である)と、画・俳両道を極めている蕪村ならではの自負に満ちた書簡を今に残している(安永五年八月十一日付け几董宛て書簡)。
 「俳画」という名称自体は、蕪村後の渡辺崋山の『俳画譜』(嘉永二年=一八一九刊)以後に用いられているようで、一般的には「俳句や俳文の賛がある絵」などを指している。≫

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-12-14

≪「浮世絵」に比して、「町物」という言葉は未だ一般には通用しない、特殊な用語の部類なのかも知れない。意味するものは、「公家文化(公家時代の書画など)」=「公家物」、「武家文化(武家時代の書画など)」=「武家物」とすると、「町人文化(浮世絵師・町絵師時代の書画など)」=「町物」というようなことである。
 そして、この「町物」の代表的なものは、江戸時代の江戸(東京)で、今に、世界に通ずる日本文化の一翼を担っている「浮世絵」の世界ということになろう。
この「浮世絵」に携わった絵師などを「浮世絵師」とすると、「浮世絵師」というジャンルではなく、「町絵師」による「公家物」「武家物」(さらに「五山文化」=「僧侶物」)などに携わった世界が、これが、いわゆる、京都の円山応挙を祖とする「円山四条派」の世界と見做して大筋差し支えなかろう。
そして、「浮世絵」が大流行した江戸(東京・関東)においても、京都の応挙に匹敵する、
「酒井抱一・谷文晁・渡辺崋山など」の、狩野派の御用絵師ではなく、当時の一般人(町人など)に支持された、その出身を問うことなく、いわゆる「町絵師」が、「浮世絵師」に匹敵する、いや、それ以上の多種多様な世界を構築していたということなのである。
 これらを、「浮世絵」に伍して、江戸(関東)と京都(関西)に二分して、それぞれ「江戸町物」「京都町物」と二分して、「浮世絵」「江戸町物」「京都町物」の三区分で、その上に、京都の、「公家文化=御所」ではなく、その「武家文化=二条城」ではなく、その「僧侶文化=相国寺」ではなく、その「町人文化=洛東遺芳館」という観点で、この「洛東遺芳館」の、これまでの展示などをフォローしていきたいのである。≫

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-25

≪上記の、『江戸流行料理通大全』の、上記の挿絵の、その中心に位置する「亀田鵬斎」とは、「鵬斎・抱一・文晃」の、いわゆる、「江戸」(東京)の「下谷」(「吉原」界隈の下谷)の、その「下谷の三幅対」と云われ、その三幅対の真ん中に位置する、その中心的な最長老の人物が、亀田鵬斎なのである。
 そして、この三人(「下谷の三幅対」)は、それぞれ、「江戸の大儒者(学者)・亀田鵬斎」、「江戸南画の大成者・谷文晁」、そして、「江戸琳派の創始者・酒井抱一」と、その頭に「江戸」の二字が冠するのに、最も相応しい人物のように思われるのである。
 これらの、江戸の文人墨客を代表する「鵬斎・抱一・文晁」が活躍した時代というのは、それ以前の、ごく限られた階層(公家・武家など)の独占物であった「芸術」(詩・書・画など)を、四民(士農工商)が共用するようになった時代ということを意味しよう。
 それはまた、「詩・書・画など」を「生業(なりわい)」とする職業的文人・墨客が出現したということを意味しよう。さらに、それらは、流れ者が吹き溜まりのように集中して来る、当時の「江戸」(東京)にあっては、能力があれば、誰でもが温かく受け入れられ、その才能を伸ばし、そして、惜しみない援助の手が差し伸べられた、そのような環境下が助成されていたと言っても過言ではなかろう。
 さらに換言するならば、「士農工商」の身分に拘泥することもなく、いわゆる「農工商」の庶民層が、その時代の、それを象徴する「芸術・文化」の担い手として、その第一線に登場して来たということを意味しよう。
 すなわち、「江戸(東京)時代」以前の、綿々と続いていた、京都を中心とする、「公家の芸術・文化」、それに拮抗しての全国各地で芽生えた「武家の芸術・文化」が、得体の知れない「江戸(東京)」の、得体の知れない「庶民(市民)の芸術・文化」に様変わりして行ったということを意味しょう。

谷文晁(たに・ぶんちょう)
(宝暦十三年(1763)九月九日-天保十一年(1841)十二月十四日、江戸下谷ニ長町の自宅で歿、享年七十八歳。) 江戸時代後期の画家。父は田安家の家臣で漢詩人でもあった谷麓谷。画ははじめ狩野派の加藤文麗、長崎派の渡辺玄対に学び、鈴木芙蓉から山水画を学ぶ。古画の模写と写生を基礎に南宗画・北宗画・洋風画などを加えた独自の画風を生み出した。また、松平定信に認められ、「集古十種」の編纂に携わり、その挿絵を描くなどして社会的な地位を得、江戸における文人画壇の重鎮となった。その門下からは渡辺崋山、立原杏所などのすぐれた画家を輩出した。包一、鵬斎、文晃の三人は「下谷の三幅対」と云われ、生涯の遊び仲間であった。≫

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-28

≪ その文晁の、それまでの「交友録」というのは、まさに、「下谷の三幅対」の、「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」に、陰に陽に連なる「江戸(東京)」の、その後半期の「江戸」から「東京」への過度期の、その節目、節目に登場する、一大群像を目の当たりにするのである。

松平楽翁→木村蒹葭堂→亀田鵬斎→酒井抱一→市河寛斎→市河米庵→菅茶山→立原翠軒→古賀精里→香川景樹→加藤千蔭→梁川星巌→賀茂季鷹→一柳千古→広瀬蒙斎→太田錦城→山東京伝→曲亭馬琴→十返舎一九→狂歌堂真顔→大田南畝→林述斎→柴野栗山→尾藤二洲→頼春水→頼山陽→頼杏坪→屋代弘賢→熊阪台州→熊阪盤谷→川村寿庵→鷹見泉石→蹄斎北馬→土方稲嶺→沖一峨→池田定常→葛飾北斎→広瀬台山→浜田杏堂

 その一門も、綺羅星のごとくである。

(文晁門四哲) 渡辺崋山・立原杏所・椿椿山・高久靄厓
(文晁系一門)島田元旦・谷文一・谷文二・谷幹々・谷秋香・谷紅藍・田崎草雲・金子金陵・鈴木鵞湖・亜欧堂田善・春木南湖・林十江・大岡雲峰・星野文良・岡本茲奘・蒲生羅漢・遠坂文雍・高川文筌・大西椿年・大西圭斎・目賀田介庵・依田竹谷・岡田閑林・喜多武清・金井烏洲・鍬形蕙斎・枚田水石・雲室・白雲・菅井梅関・松本交山・佐竹永海・根本愚洲・江川坦庵・鏑木雲潭・大野文泉・浅野西湖・村松以弘・滝沢琴嶺・稲田文笠・平井顕斎・遠藤田一・安田田騏・歌川芳輝・感和亭鬼武・谷口藹山・増田九木・清水曲河・森東溟・横田汝圭・佐藤正持・金井毛山・加藤文琢・山形素真・川地柯亭・石丸石泉・野村文紹・大原文林・船津文淵・村松弘道・渡辺雲岳・後藤文林・赤萩丹崖・竹山南圭・相沢石湖・飯塚竹斎・田能村竹田・建部巣兆  ≫

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-01

渡辺崋山・ヒポクラテス像.jpg

≪「ヒポクラテス像」≪渡辺崋山筆≫ 江戸時代 天保11年(1840) 絹本墨画淡彩 縦110.3 横41.7
1幅 重要美術品 九州国立博物館蔵
【 江戸時代の文人画家・渡辺崋山筆。崋山と交流のあった浅井家伝来のもの。西洋医学の祖と仰がれたヒポクラテスの胸像を、要を得た陰影法によって写実的に描いている。崋山の洋学者としての一面を伝えている。江戸時代の学問、特に洋学の普及を象徴する作品として貴重である。  】

渡辺崋山新論(1)―克己の人渡辺崋山―(「おもしろ日本美術3」No.1)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro1.html

衝撃的なその最期―杞憂を以て死した崋山先生―(「おもしろ日本美術3」No.2)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro2.html

今なお多くの信奉者を惹きつける克己の人渡辺崋山―崋山研究の糸口としての珠玉の史料の数々― (「おもしろ日本美術3」No.3)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro3.html

列強の脅威の中での日本の行く末を案じる開明派の苦悩―自叙伝の体をなす渡辺崋山の『退役願書稿』― (「おもしろ日本美術3」No.4)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro4.html

渡辺崋山の草体画(1)―崋山渾身の当世風俗活写『一掃百態』―(「おもしろ日本美術3」No.5)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro5.html

渡辺崋山の草体画(2)―崋山と洒脱なへたうま画の極み俳諧画―(「おもしろ日本美術3」No.6)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro6.html

渡辺崋山の草体画(3)―背景に天下泰平、江戸後期の洒落本・軟文学流行の世情―(「おもしろ日本美術3」No.7)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro7.html

渡辺崋山の草体画(4)―紀行画『刀禰游記』と手控冊『客坐縮写第五』―(「おもしろ日本美術3」No.8)

「のぼり」と「のぼる」―俳句・雑俳・狂歌・軟文学の世界に遊ぶ崋山の使い分け―(「おもしろ日本美術3」No.9)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro9.html

渡辺崋山の写生観―写生は“自然界からの図取り”―(「おもしろ日本美術3」No.10)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro10.html

≪ (抜粋)
 統的な東洋画は、画面作りにあたって頭の中で練りあげる「構成画」を基本としており、そのための手段として、先人の名蹟に倣う「図取り」を積極的に行なっている。「図取り」とは、画譜や舶載の中国画、日本の先人の名画等の構図や図柄などを、全体的に、あるいは部分的にと借用して自らの作品を作りあげる手だてとする行為であるが、渡辺崋山が道端の草花や小動物を愛情深く写した『翎毛虫魚冊』や『桐生付近見取図巻』等の、現代の感覚でいう写生(写真)も、正しくはこの姿勢の延長として考えるべきなのである。
 すなわち、言うならば“自然界からの「図取り」”なのであり、狩野派や住吉派などの作品に見られる「地取」(ぢどり)の語も、読んで字の如く眼前の自然景の一角を切り取り直模する行為を示している。
 江戸時代も後半期には、情報化社会の到来とともに、出版物の挿図や、絵地図、観光ガイドブック等に需用があったり、あるいは公命を受けて、各種の記録や、海防、城下の警備対策のための資料作り等と、専門画家たちが狩り出され、実景に即した実用の「真景図」を描く機会も多くなる。
 師の谷文晁は、松平定信公の沿岸巡視に同行して『公余探勝図』を描き、同胞立原杏所も公命を拝して『水府城真景図』『袋田瀑布図』を描いている。
 ただここで大切なのは、当時の習いとしては、あくまで、図取りや地取り、写真によってた素材を自らの回路を通過させる手順が前提であるということである。
 写真機の没個性的な映像ではなく、言うならば、画家の頭や心の中を経由する行程を重んじ、写意というか対象の視覚的イメージに留まらず、寒暖や香り、風といった大気のありようなど、目に見えないものや、存在そのものにまで肉迫することこそ、アーティストならではの本領として追い求めているのである。
 また、スケッチや画稿そのものは、いわば楽屋裏のノーカウントのもので、檜舞台で脚光を浴びる筋合のものでもなく、作家にとっては人目に触れるだけでも気恥かしいものなのである。
 崋山の「写生切近なれば俗套に陥り候… 乍去、風趣風韻を専に心得候得ば山水空疎の学に落」との主張は、西洋絵画の流入より受けたカルチャーショックを、自らの宿題である「写生」と「写意」、そして「気韻生動」の理念として、改めて問い直すものであり、アンチテーゼたる異質の美術概念を得て、伝統的な日本画をより高い極みに止場(アウフへーベン)しようといったその高邁な信念を示していると言える。(文星芸術大学 上野憲示稿)  ≫
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