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「漱石・東洋城・寅彦」(子規没後~漱石没まで)俳句管見(その十三) [漱石・東洋城・寅彦]

その十三「大正四年(一九一五)」

[漱石・四十八歳。大正4(1915)、 1月~2月、「硝子戸の中」、3月、京都旅行、 6月~9月、「道草」、12月、芥川龍之介・久米正雄らが木曜会に参加。]

2437 柳芽を吹いて四条のはたごかな
[漱石は三月十九日から四月十六日まで京都に滞在した。この句(2437)から(2443)の句は、その滞在中の句である。この句(2437)は、この滞京中に磯田多佳(2440の前書に記載されている)に贈った画帖『観自在帖』(付記その一・再掲)に記されている。]

2438 筋違(すじかい)に四条の橋や春の川
[京都滞在中の句。蕪村の「ほとゝぎす平安城の筋違に」に由来のある句。]

2439 紅梅や舞の地を弾く金之助
[京都滞在中の句。金之助は祇園 の芸妓の名。本名=梅垣きぬ。]

2440 春の川を隔てゝ男女かな(前書「木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに、一句」)
[京都の漱石の宿は木屋町三条上ルにあった北大嘉(きたのたいが)。多嘉は祇園大友(だいとも)の女将、磯田多佳。鴨川の東に大友、西に北大嘉があった。(付記その一・再掲)]

2441 萱草の一輪咲きぬ草の中
[京都滞在中の句。漱石門の側近の画家・津田青楓の実兄・西川一草亭(次句の「一草亭」)が描いた萱草の絵に賛をした自賛句も知られている。それらと連作している自画賛句と思われる。]

2442 牡丹剪つて一草亭を待つ日哉
[京都滞在中の句。「一草亭」は、華道去風流の「西川一草亭」。実弟が津田青楓であり、漱石は京都滞在中に親しく交わった。(付記その二・再掲)]

2443 椿とも見えぬ花かな夕曇
[京都滞在中の句。この句も自画賛の句。]

(付記その一・再掲)

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[ 漱石の「観自在帖」周辺

観自在帖(全作品紹介).jpg

「観自在帖(全作品紹介)」
https://hzrhq.agaterlm.top/index.php?main_page=product_info&products_id=30145
≪右一列上段「観自在帖(1)」→「観自在(漱石題)/紙本墨書・淡彩・24.4×36.3㎝」
右一列中段「観自在帖(2)」→「藤花図」/同上」
右一列下段「観自在帖(3)」→「隔水東西住」/同上」
右二列上段「観自在帖(4)」→「竹図」/同上」
右二列中段「観自在帖(5)」→「渡尽東西水」/同上」
右二列下段「観自在帖(6)」→「鉢花図」/同上」
右三列上段「観自在帖7)」→「柳芽を」/同上」
右三列中段「観自在帖(8)」→「牡丹図」/同上」
右三列下段「観自在帖(9)」→「起臥乾抻」/同上」
右四列上段「観自在帖10)」→「松林図」/同上」
右四列中段「観自在帖(11)」→「二十年来愛碧林/同上」
右四列下段「観自在帖(12)」→「竹石図/同上」     以下「略」   ]

(付記その二・再掲)

西川一草亭.jpg

「去風流七代・西川一草亭」
http://www.kyofuryu.com/about.html

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[☆去風洞主人・西川一草亭

漱石は、大正4年3月21日、京都滞在中に西川一草亭の招きで彼の住居である茶室を訪れています。まず、漱石自身の筆記を見ることにいたします。

漱石全集 大正4年 日記14 (日記・断片 下)
「二一日(日)
八時起る。下女に一体何時に起ると聞けば大抵八時半か九時だといふ。夜はと聞けば二時頃と答ふ。驚くべし。」

漱石は旅館の女中の生活を聞き、労働時間が長いのに驚いています。それから宿の窓からのぞむ加茂川とかなたの東山が霞でよく見えないのに河原で合羽を干すさまを書きとめています。

☆漱石 去風洞・小間の茶室に入る

「東山霞んで見えず、春気曖、河原に合羽を干す。西川氏より電話可成(なるべく)早くとの注文。二人で出掛ける。去風洞といふ門をくぐる。奥まりたる小路の行き当たり、左に玄関。くつ脱ぎ。水打ちて庭樹幽すい、寒きこと夥し。」

寒がりの漱石はここでも京の底冷えの寒さに震え上がっています。数奇屋の庭はこの時期殺風景な感じもあったでしょうし、待合の座敷から暖かい陽光の遮られた暗い茶室へ入り、心寒いばかりの想いがあったのではないでしょうか。それでも漱石の観察眼はするどく克明に記憶にとどめています。

「床に方祝の六歌仙の下絵らしきもの。花屏風。壁に去風洞の記をかく。黙雷の華厳世界。一草亭中人。御公卿様の手習い机。茶席へ案内、数奇屋草履。石を踏んでし尺(しせき)のうちに路を間違へる。再び本道に就けばすぐ茶亭の前に行きつまる。どこから這入るのかと聞く。戸をあけて入る。方三尺ばかり。ニジリ上り。」

ここは、露地を歩きながら茶室への方向を間違え、やっと茶室のにじり口を見つけたところです。武士も刀を外して身分の上下なく入る狭き入り口なのです。漱石はどうやら身をかがめて茶室内に入ったようです。

「更紗の布団の上にあぐらをかき壁による。つきあげ窓。それを明けると松見える。床に守信の梅、「梅の香の匂いや水屋のうち迄も」といふ月並みな俳句の賛あり。」

暗い茶室内には天井に突き上げ窓が開けられていました。ここから自然光が入る仕組みになっているのです。しかし、同時に冷気も入ったことでしょう。次に懐石料理が書かれています。この去風洞の近くに「松清」という料理屋があり、亭主は懐石をそこから取り寄せたもようです。]


(東洋城・三十八歳。二月「渋柿」創刊。東洋城の主力は「国民俳壇」に注がれてゐるので「渋柿」は本城に対する陣屋といふ形であった。漱石が「渋柿」の題籢を書いた。)

※渋柿の如きものに候へど(大正三年作。前書「※さて仰せかしこまり奉るとて」。)

※能もなき渋柿共が誠かな(大正四年作。前書「Le petit 小さき者汝の名は「渋柿」なり、情ある者汝の名は「渋柿」なり。唯誠なる者その名も亦「渋柿」なり。(中略))如斯「渋柿」は借る腹も拠る技もなくして只自らなる生地のままに自らふとまろぶが如く生れ出でたり。人の誌名を乞ふにまかせて蘭菊を選み桜桃を品するに薫酒(くんしゅう)半日決せず、談偶「渋柿の如きものにては」に及ぶ言未だ終らざるに人は膝を叩いて「此他はあらじ」と立上がり驚喜怱々汽車に乗じて去る。去るの後※「能もなき渋柿どもや門の内」の句を思ひ出して独りほほ笑みつつ漱石先生に和して自ら安んじて曰(く)。」)

※壺菫小さきなさけを咲きにけり(同上。前書「(中略) ひたぶるに剛き人明るき者は世に少くもあらじ、剛きが中にあはれあり、透明の中に漂砂とせん事こそや、その霑(うるお)ひよ・・・弥(いよいよ)ぎごちなく弥せち辛く弥あさましくなり行くらん現世の一隅に・・・『国民俳壇』と共に『渋柿』は斯あるなり。※あゝまこと、あゝなさけ、さて、Le petit『渋柿』」)


[寅彦・三十八歳。神経痛および神経症に悩まされる。二月、三女雪子誕生。四月、東京地学協会総会において「アイソスタシーに就て」を講演する。十月、正六位に叙せられる。]→[『寺田寅彦全集/文学篇/七巻』には収載句は無い。]

(参考その一) 俳誌「渋柿」周辺(「ウィキペディア」)

≪『渋柿』(しぶがき)は、渋柿社による俳誌。夏目漱石の弟子、松根東洋城が1915年に大正天皇侍従として式部官在任中に主宰創刊。松尾芭蕉の俳諧理念(わび・さび・しをり)を探究、「芭蕉直結・芭蕉に還れ」を掲げて心境・境涯俳句の創作に努める。夏目漱石門下の小宮豊隆、寺田寅彦、安倍能成、鈴木三重吉、戸川幸夫、吉田洋一も投稿している。現在は安原谿游が主宰。
(沿革)1914年(大正3年)松根東洋城が宮内省式部官のとき、大正天皇から俳句について聞かれ「渋柿のごときものにては候へど」と答えたことが有名となった。
1915年(大正4年)松根東洋城が俳誌『渋柿』を創刊主宰。
1916年(大正5年)正岡子規没後『ホトトギス』を継承した高浜虚子が、東洋城を『国民新聞』俳壇の選者から下ろし、代わって虚子自身が選者になったことを契機に東洋城は『ホトトギス』を離脱した。
1952年(昭和27年)東洋城は隠居を表明し、主宰を創刊時から選者として参加し、「国民新聞」の俳句欄で活躍していた門下の野村喜舟に譲る。24年間主宰を務める。句集『小石川』「紫川」などを発刊し、小倉北区の篠崎八幡神社には「鶯や紫川にひびく声」の句碑がある。(後略)
(名称の由来)1914年(大正3年)、東洋城が宮内省式部官のとき、大正天皇から俳句について聞かれ「渋柿のごときものにては候へど」と答えたことが有名となったことから。なお「渋柿」平成29年3月号の谷本清流氏の文章によれば、もう一説あり、かつての漱石の〈能もなき渋柿共や門の内〉という句に和して、東洋城が、〈能もなき渋柿共が誠かな〉という句を作っていたことから「渋柿」に決まったと言われている。≫(「ウィキペディア」)

(参考その二) 「俳誌 渋柿」の題籢(夏目漱石書)周辺

俳誌・渋柿.jpg

「公益社団法人 俳人協会・俳句文学館:賛助会員:渋柿」
https://www.haijinkyokai.jp/member/ini03/1299.html

(参考その三) 漱石の「渋柿」の句など(その周辺)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-02

[  渋柿の下に稲こく夫婦かな  漱石(明28)
   渋柿や寺の後の芋畠     漱石(明治28)
   渋柿やあかの他人であるからは 漱石(明治30)
   ※能もなき渋柿共や門の内   漱石(明治31)
   渋柿や長者と見えて岡の家  漱石(明治32)
   渋柿やにくき庄屋の門構   漱石(明治34)
   渋柿も熟れて王維の詩集哉  漱石(明治43)

 「※能もなき渋柿共や門の内 漱石(明治31)」の句は、「能もなき教師とならんあら涼し 漱石(明治36)」の句と連動している。   ]
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