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「東洋城・寅彦、そして、豊隆」(漱石没後~寅彦没まで)俳句・連句管見(その十三)  [東洋城・寅日子(寅彦)・蓬里雨(豊隆)]

その十三「昭和四年(一九二九)」

[東洋城・五十二歳。松山及び宇和島にて俳諧道場、東京にて屋外早天道場、出羽荘内に訪ふ。改造社版『現代日本文学全集』に作品を寄す。]

[ 出羽荘内を訪ふ 十四句

葭切(ヨシキリ)や荘内小田のこゝを鳴く(鶴岡駅から俥にて三里余、車上口占)
月山の雪や車上の青嵐
田植女や真白き足を戻り来る
なつかしき出羽荘内の田植かな
葭切に備前守(ビゼンノカミ)の入部かな(「記」には、我祖先光広、松根の城へ移り、名字を改めて、松根備前守と申しけるなりと)
鮎川や鮎とらなくに里閑(シズ)か(途、一大急流を超ゆ、赤川といふ)
田植人黒川能の事聞かん(松根邑は今、黒川村の一字をなせり)
語り出す元和その頃の事や窓涼し(旧事に明るき一老を求め得て、語り伝へるところを聴く)
夏川の流(ナガレ)の急に見入りけり(備前守の城趾、今は河中となり了し、僅にその一部を残す)
角櫓(スミヤグラ)こゝにありしと若葉かな
濠 (ホリ・シロ) 跡といふでふ葭の茂りかな
青嵐三百年の無沙汰かな(中祖伊予に移りて二百五十年、この旧郷を訪ふものなし)
故郷(フルサト)の故郷淋し閑古鳥(帰路車上。郭公を聞く)
郭公(カッコウ)のあちらこちらはなかりけり   ]

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-11-10

http://sp.mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=143960

松根洋城の句碑一.jpg

[(松根備前守光広/まつねびぜんのかみあきひろ)~俳人・松根東洋城の先祖~

 義光の弟である義保の子。義保は長瀞城主。兄の片腕となって出羽南部の平定に尽力したが、天正19年(1591)に戦死。ときに光広は3歳の幼児だった。義光がこれを哀れんで、息子同然にいつくしみ育てたと、宇和島市に残る古記録は伝えている。
 光広は成人の後は山形市漆山に居住したこともあったが、西村山の名門白岩家の名跡を継いで「白岩備前守」を名乗る。
 慶長5年(1600年)の関が原合戦、長谷堂合戦のときは12、3歳だったから、まず戦陣の経験はなかっただろうと思われる。元和2年(1616)、庄内櫛引郷に居城松根城を築いて松根姓を名乗る。一1万2千石、一書に1万3千石とある。
 義光に育てられたことに対する報恩の気持ちからか、最上家を思う心が人一倍厚い人物だったようだ。
 熊野夫須美神社に、那智権現別当あて、年次無記8月20日付、光広の書状が一通ある。
 「最上出羽守義光が病につき、神馬一疋ならびに鳥目(銭)百疋を奉納いたします。御神前において御祈念くださるようお頼みします」という内容である。
 「白岩備前守光広」の署名からみて、松根移転以前であることは明らか。義光の病が重くなった慶長18年(1613)のものと推定される。出羽からははるかに遠い紀州那智に使者を遣わして、病気平癒の祈りをささげたのである。あるいは、光広はそのころ上京中だったかもしれない。
 義光が亡くなり、跡を継いだ駿河守家親も3年後の元和3年ににわかに亡くなり、その後を12歳の少年、源五郎家信が継ぐ。とかく問題行動を起こしがちな幼い主君に、家臣たちは動揺する。
 家を守りたてるべき重臣たちのなかには、義光の四男山野辺光茂こそ山形の主にふさわしいとして、鮭延越前、楯岡甲斐らの一派が公然と動きはじめる。
 かくてはならじ、お家のためになんとかせねばと、光広は「山野辺一派が策謀をめぐらし当主家親を亡きものにした」と幕府に直訴した。幕府でも一大事とばかり徹底的に究明したが、事実無根と判明。偽りの申し立てをした不届きの所業として、光広は九州柳川の立花家にあずけられてしまう。彼はここ柳川でおよそ五十年を過ごす。藩主立花宗茂との親交を保ちつつ、寛文12年(1672)84歳の生涯を終える。
 その子孫が四国宇和島の伊達家につかえ、家老職の家柄を伝えて維新を迎えた。
 高名な俳人松根東洋城(本名豊次郎1878~1964)は、この家の9代目にあたる。宮内省式部官などを勤めながら夏目漱石の門下として俳壇で活躍、のち芸術院会員となった。
 昭和4年6月、父祖の地である庄内の松根から白岩をおとずれた東洋城は、昔をしのんで次のような句を残した。
  故里の故里淋し閑古鳥
  青嵐三百年の無沙汰かな
 出羽の最上から九州柳川へ、そして更に四国の宇和島へ。先祖のたどった長い長い3百年の道程だった。宇和島市立伊達博物館の庭には、「我が祖先(おや)は奥の最上や天の川」の句碑がある。
 最上家の改易で会津・蒲生氏により接収破却された松根城の跡には、最上院がある。光広の妻が晩年に住んだという松根庵には、彼女の墓碑が寂しくたっている。(片桐繁雄稿)]
(「最上義光歴史館」)    ]

[寅日子(寅彦)・五十二歳。
3月12日、帝国学士院で“Ignition of Combustible Gases with Three-Part Spark”(with K. Yumoto and R. Yamamoto)を発表。3月19日、地震研究所で「砂層の崩壊に関する実験」(宮部と共著)を発表。
4月1日、水産講習所の嘱託を解かれ、新たに出来た水産試験場において物理学および海洋学に関する調査を嘱託される。4月16日、地震研究所談話会で「火山の形(第二報)」を発表。
5月12日、帝国学士院で“On the Effects of the Vapours of Halogen Compounds upon the Form and Structure of Long Sparks”(with U. Nakaya and R. Yamamoto)を発表。6月12日、“On the Form of Volcanos”を発表。
6月17日、航空学談話会で「金属薄膜に関する二三の実験」(田中信と共著)を発表。6月18日、地震研究所談話会で「丹後震災地付近に於ける地殻の変動」(宮部と共著)を発表。
7月3日、理化学研究所で脳貧血を起す。
10月12日、帝国学士院で“Deformation of the Earth Crust and Topographical Features”(with N. Miyabe)を発表。10月15日、地震研究所談話会で「桜島の地形変化」(宮部と共著)および「石油の生成と火山作用」を発表。
11月19日、理化学研究所学術講演会で「火山灰の接触作用」(平田森三と共著)を発表。
12月17日、地震研究所談話会で「関東地方に於ける地殻変動」(宮部と共著)を発表。この頃からしきりに映画を見るようになった。

「年賀状」、『東京朝日新聞』、1月。
「化物の進化」、『改造』、1月。
『万華鏡』、鉄塔書院、4月。
「数学と語学」、『帝国大学新聞』、4月。
「藤原博士の『雲』」、『新愛知』、6月。
「験潮旅行断片」、『大阪朝日新聞』、7月。
「デパートの夏の午後」、『東京朝日新聞』、8月。
「さまよへるユダヤ人の手記より」、『思想』、9月。
「野球時代」、『帝国大学新聞』、11月。   ]

荒海やこゝに静かな草の庵(七月二十八日)

※ この句については、『寺田寅彦全集 文学篇 第十六巻』に、その全文が収載されている。

[ 七月二十八日 千葉県安房郡千倉町より牛込区余丁町四一松根豊次郎氏へ(絵葉書)
子供を送りて昨日参り一泊致候
涼しいといふことは暑いといふことの一つの相に過ぎず
 荒海やこゝに静かな草の庵
  七月二十八日   ]

 この葉書の前に、次のような、三吟(東洋城・寅日子・蓬里雨)」の文音連句(書簡による連句の付け合い)のものがある

[ 五月二十三日 京橋区銀座不二家より牛込区余丁町四一松根豊次郎氏へ(はがき、小宮豊隆との寄せ書=小宮氏の文面省略)
今夜不二屋で左記
(ギンザフジヤ)
クリームの溶けあし見るや五月雨  豊(※蓬里雨)
苺の色を奪ふ口紅         寅(※寅日子)
あとあとよろしく
 五月二十三日   ](※仙台の豊隆が上京して、銀座の不二屋で、寅彦と、やりかけの連句の付け合いを作り、それを東洋城に回送したものであろう。)


[豊隆(蓬里雨)・昭和四年(一九二九)、四十六歳。三月合著『芭蕉俳諧研究』出版。]

みやこ町歴史民俗博物館.jpg

みやこ町歴史民俗博物館/WEB博物館「みやこ町遺産」
https://adeac.jp/miyako-hf-mus/catalog-list/200020

 上記の右端の「速達便」(大正七年十一月五日付け)は、『寺田寅彦全集 文学篇 第十六巻』に収載されている。

[十一月五日 火 午前八時~九時 本郷区駒込曙町一三より赤坂区青山南町六ノ一〇八小宮豊隆氏へ (はがき 速達便)
御端書難有う
小生も木曜の方が都合が宜しう御坐います
しかし水曜でも都合のつかぬ事はありませんが少し遅くなります、どうぞよろしく
 十一月五日    ]

※ 当時の小宮豊隆は、「漱石全集」の編纂に全力を投入していて、その資料収集に関する寅彦との書簡のやり取りが多い。そして、「木曜」は、「木曜会」(漱石生前の漱石門の面木―の集まり、漱石没後は命日の「九日会」)の、豊隆が当番の時に、寅彦は参加する場合が多かったようである。東洋城は、「渋柿」の編集に追われて「九日会」には、顔を出さなかったように、当時の書翰から窺える。

東大構内(寺田寅彦画).jpg

「東大構内(寺田寅彦画)」(『寺田寅彦画集(中央公論美術出版)』)
[制作年月=大正八・九/種別=墨に淡彩/基材=和紙/大きさ=25.0×15.0㎝]

姉妹(A) (寺田寅彦画).jpg

「姉妹(A) (寺田寅彦画)」(『寺田寅彦画集(中央公論美術出版)』)
[制作年月=大正八・九/種別=墨に淡彩/基材=和紙/大きさ=34.0×23.3㎝]

※ 「大正七年一月十四日付け小宮豊隆宛寺田寅彦書翰」に、「小生は近頃少し気が狂つて徘(原・ママ=俳)句を作つて見たり畫いて見たりして居ます しかし一向物にならないので余り永くは続くまいかと思居候 今日は青楓(※津田青楓)君と野上(※野上豊一郎)君とが来て宅の掛物を見て貰ひました」などとあり、主として、東洋城からの依頼の「渋柿」に搭載する「俳句」や、津田青楓を師として、絵画制作などに没頭するようなことが、しばしば書翰に見られてくる。しかし、この当時は、文音による「俳諧」(連句)関係の書簡は見受けられない。

(参考) 「三四郎」の遺族が漱石の書簡寄贈 福岡・みやこ町に(「日本経済新聞社」)

[夏目漱石の弟子で、小説「三四郎」のモデルとなったドイツ文学者、小宮豊隆の遺族が、漱石から受け取った手紙や写真など計477点を小宮の出身地の福岡県みやこ町に寄贈した。「吾輩は猫である」の猫の死を伝える「死亡通知」など貴重な内容。みやこ町が13日までに明らかにした。

小宮は1905年に東京帝国大に入学。身元保証人になった漱石に弟子入りして交流を深め、小説の校正も手伝った。

みやこ町によると、漱石の手紙は122点。「猫の死亡通知」は1908年9月14日付で、死んだ状況や埋葬の様子を伝え「主人(漱石)は三四郎執筆中で忙しいので、会葬には及びません」とユーモアあふれる。

幼くして父親を失った小宮は、漱石を父親のように慕っていた。1906年12月22日付の手紙で漱石は「僕をお父さんにするのはいいが、大きな息子がいると思うと落ち着いて騒げない」とつづっている。

ほかに漱石の漢文紀行「木屑録(ぼくせつろく)」や、千円札の肖像になった写真、同じく弟子だった物理学者、寺田寅彦の手紙226点もある。いずれも東京都杉並区在住で三女の里子さんが「故郷で生かしてほしい」と寄贈した。

町歴史民俗博物館の川本英紀学芸員は「小説からは見えない師弟関係が伝わってくる」と話している。同博物館で、手紙など約10点を14~26日に展示する。〔共同〕 ]
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