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「鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その十一) [光悦・宗達・素庵]

(その十一)E図『鶴下絵和歌巻』(その二・7藤原兼輔)

鶴下絵和歌巻E図.jpg

E図『鶴下絵和歌巻』(6素性法師 7藤原兼輔)
7中納言兼輔(藤原兼輔)
みかの原分きて流るる泉川 いつ見きとてか恋しかるらむ(「俊」)
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item02.html

7みかの原分きて流るる泉川いつ見きとてか恋しかるらむ(「俊」)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kanesuke.html

みかの原わきてながるる泉河いつ見きとてか恋しかるらむ(新古996・百人一首27)

【通釈】三香の原を分けて流れる泉川――その「いつみ」ではないが、一体いつ見たというのでこれ程恋しいのだろうか。
【語釈】◇みかの原 三香原、瓶原、甕原などと書く。山城国相楽郡。聖武天皇の時代に一時都が置かれた。甕(みか)を埋めたところから水が湧き出たとの古伝があると言う。◇わきてながるる 二つに分けて流れる。「わき」は「分ける」意の四段動詞。上記「甕(みか)」にまつわる古伝に基づき「わきて」を「湧きて」の意とする説もあるが、歌枕泉川を詠んだ歌に甕の伝説を反映した作例は無い。万葉集に「泉河渡りを遠み」「泉河渡り瀬深み」と川幅の広さ・水量の豊かさを謳われた歌枕泉川には「(野を)分きて」と解する方が相応しく、また心を裂くような切ない恋の心象風景としてもこの方が相応しい。但し「湧き」は「泉」の縁語なので、その限りにおいて「湧き」の意が掛かることになる。◇泉河 今の木津川にあたる。同音反復より「いつ見き」を導く。◇いつ見きとてか いつ逢ったからというので。「見」はここでは逢瀬を遂げることを言う。
【補記】「いづみがは」までの上句により「いつ見き」を起こすという序詞を用いた古風な様式の歌。歌題は「未逢恋」(未だ逢はざる恋)とするか「逢不逢恋」(逢ひて逢はざる恋)とするか、説が分かれる。「いつみきとてか」につき、実際一度も逢ったことがないと解すれば「未逢恋」、いつ逢瀬を遂げたか分からないほど永く逢っていないと解すれば「逢不逢恋」となろう。新古今集では恋一の七首目に置かれ、「未逢恋」の歌として撰入されていることが明らか。なお出典は古今和歌六帖「川」の項であるが、兼輔作の歌のあとに作者名不明記で載せられている歌の一つであり、作者を兼輔とする根拠は乏しいようである。

「佐竹本三十六歌仙絵(模本)」(藤原兼輔=七番歌)

兼輔一.jpg

画像番号:E0071147 部分:巻上 撮影部位:本紙7(藤原兼輔) 列品番号:A-1602_1
作者:中山養福(模) 時代:江戸時代_19c 数量: 1巻 (東京国立博物館蔵)
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0071147

人のおやのこころはやみにあらねどもこをおもふみちにまどひぬるかな(後撰1102)

兼輔二.jpg

【狩野尚信画・円満院門跡大僧正常尊書「三十六歌仙・藤原兼輔」金刀比羅宮宝物館蔵 】
http://www.konpira.or.jp/museum/houmotsu/treasure_house_2015.html
人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな(後撰1102)

【通釈】子を持つ親の心は闇というわけでもないのに、親たる者、子供のこととなると、道に迷ったかのように、どうすればよいか分からず混乱してしまうことですよ。
【語釈】◇太政大臣 藤原忠平。◇相撲 相撲の節会。陰暦七月下旬におこなわれた宮中の年中行事。◇還饗(かへりあるじ) 相撲の節会で勝った方の大将が自邸で味方に対し催す饗宴。
【補記】太政大臣藤原忠平が左大将であった時、相撲の節会の還饗に中将であった兼輔が招かれ、言わば二次会の酒の席で子供の話題となった。その時の作。

(追記一)狩野尚信と円満院門跡大僧正常尊周辺(メモ)

狩野尚信 (かのうなおのぶ)
没年:慶安3.4.7(1650.5.7)
生年:慶長12.10.6(1607.11.25)
江戸前期の画家。狩野孝信の次男。山城国(京都府)に生まれる。通称は主馬。剃髪して自適斎と号した。寛永7(1630)年江戸に召され竹川町に屋敷を拝領し,幕府御用絵師木挽町狩野家の基礎を築く。兄探幽らと共に二条城(1626),内裏(1641,42),聖衆来迎寺客殿(1642)などの襖絵を制作。絵は探幽の影響を受けるが,余白と墨のにじみを生かした叙情的な墨画に独自の画境を開く。最期に関しては失踪説もある。代表作はほかに「瀟湘八景図屏風」(東京国立博物館蔵),「小督・子猷訪戴図屏風」(出光美術館蔵)。<参考文献>田島志一編『東洋美術大観』5巻 (仲町啓子) 出典:朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版

円満院門跡大僧正常尊(じょうそん)
江戸初期の天台宗の僧。円満院三十三世門跡。足利義昭の孫、足利義尋の子。兄は実相院大僧正義尊。一字名は圭。大僧正・寺長吏・法務護持僧。幼少より円満院に入り同院を再興する。明正天皇の護持僧。寛文11年(1671)寂、68才。出典:美術人名辞典

(追記二)『三十六歌仙』(本阿弥光悦書)周辺(メモ)

 下記のアドレスで『三十六歌仙』(本阿弥光悦書)を見ることができる。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288424

斎宮一.jpg

参考A図『三十六歌仙』(斎宮女御)本阿弥光悦書(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288424
左方(十) 斎宮女御 袖にさへ秋の夕は知られけり消えし浅茅が露をかけつつ

斎宮二.jpg

参考B図『三十六歌仙』(斎宮女御)本阿弥光悦書(フリーア美術館蔵)
https://asia.si.edu/object/FSC-GR-780.97/
斎宮女御 袖にさへ秋の夕は知られけり消えし浅茅が露をかけつつ

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参考C図「三十六歌仙和歌」(斎宮女御)角倉素庵筆(東京国立博物館蔵)
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0067247
斎宮女御 袖にさへ秋の夕は知られけり消えし浅茅が露をかけつつ

 嵯峨本とは、一般的に「近世初頭、角倉素庵と本阿彌光悦が印行した、木活字による書籍の総称。素庵が京都洛西嵯峨に住んだのでこの名がある。二人の名にちなんで『光悦本』とも『角倉本』とも呼ぶ」(精選版 日本国語大辞典)とされている。
 この定義によれば、上記の参考A図『三十六歌仙』(斎宮女御)も、参考B図『三十六歌仙』(斎宮女御)も、嵯峨本の一種と解せるが、厳密に見ていくと、嵯峨本は「木活字」(木製活字の『古活字』版)に因るもので、上記の参考A図も参考B図も、その「古活字」版による「嵯峨本」の「木整版」(「『版木・板木』の木版印刷」)に因る「復刻本」で、下記のアドレスの「慶安元年跋刊『本朝名公墨宝』「素庵巻」(四巻四冊のうち)について(林進論稿)」などでは、その両者は峻別されている。

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81010422.pdf

 ここでは、「木活字」と「木整版」との区別などはせずに、広く「近世初頭、角倉素庵と本阿彌光悦が印行した」版本の類いの、特装版(「美術品」に近い)ものを「角倉本(特装版)=参考B図」、普及版(「版本」に近い)ものを「光悦本(普及版=参考A図)と、ここでも大雑把な理解でいきたい。
 その上で、「角倉本(特装版)=参考B図」は、色刷りの美装本、そして、「光悦本(普及版=参考A図)」は、モノクロ(黒白)本で、その色刷りとモノクロとの違い以外に、その他の差異というのはなく、殊に、この和歌の両者の筆跡などは全く同じものという印象を深くする。
この「光悦本(普及版=参考A図)」・「角倉本(特装版)=参考B図」の和歌の筆跡(光悦)と「素庵自筆=参考C図」とを見比べて、両者は別とすると、「参考A・B図=光悦書」と「参考C図=素庵書」ということになり、同一とすると、「参考A・B・C図=素庵書」ということになる。
 これらのことに関して、次の記述は多くの示唆を含んでいる。
【 光悦の「嵯峨本」の取り組みは、光悦主宰・素庵補助説(和田維四郎『嵯峨本考』審美書院・一九六二年)、素庵・光悦協同説(川瀬一馬『増補古活字版之研究』日本古書籍商協会・一九六七年)などが提唱され、だんだんに光悦から素庵へと重心が移動するようになった。近年は、光悦流とされてきた書風を素庵流とみる立場から、角倉素庵の版下とする説(林進「素庵の軌跡―その書籍と書誌学的業績について―」『特別展 没後二七〇記念 角倉素庵』大和文庫・二〇〇二年)が主張されるいっぽうで、出版物に個性を求めること自体の是非を問う問題提起もなされている(河野元昭『日本の美術 四六〇 光悦と本阿弥流の人々』至文堂・二〇〇四年、村木敬子「光悦と出版」、『光悦と桃山の古典』図録・五島美術館・二〇一三年  】(『もっと知りたい 本阿弥光悦 玉蟲敏子他著』)

(追記三)『伊勢物語』(嵯峨本・古活字本)周辺(メモ)

伊勢物語一.jpg

『伊勢物語』(嵯峨本)「国立公文書館所蔵資料特別展・将軍のアーカイブズ」
http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/shogunnoarchives/contents/photo.html?m=6&pm=2&pt=4
【 「家康の出版事業」(伏見版と駿河版)
16世紀末から17世紀初頭にかけて、わが国は“活字印刷”の時代を迎えます。1450年頃ドイツでグーテンベルクが発明した活字印刷技術がイエズス会の宣教師によってもたらされ、長崎や天草でいわゆるキリシタン版が出版されましたのがその1つ。キリシタン版はその後キリスト教が禁止されて姿を消しますが、活字印刷の技術は、隣国の朝鮮からも渡来しました。すでに13世紀から活字を鋳造していた朝鮮の技術や出版物、活字が文禄慶長の役(1592-98)等を契機にもたらされ、キリシタン版と共にわが国の活字出版を促したのです。
後陽成天皇や豊臣秀頼などが活字を用いた出版を試み、意匠をこらした嵯峨本も生まれましたが、家康もまた大きな役割を果たしました。
慶長4年(1599)から同11年(1606)にかけて、伏見において木活字で『貞観政要』など7種を出版させた家康は、元和元年(1615)から翌年にかけて、駿府城でも銅活字を用いて『大蔵一覧集』『群書治要』を出版しました。伏見版・駿河版と呼ばれるこれらの出版物(古活字版)は、家康の好学と文教政策を物語る文化遺産と言えます。
   「伊勢物語」(嵯峨本)
慶長年間(1596-1615)の後半、角倉素庵や本阿弥光悦らによって、流麗な書体で美しい装丁を施した「嵯峨本」(さがぼん)と呼ばれる一群の書物が(主に木活字を用いて)出版されました。
展示資料は、その1つ。慶長13年(1608)に出版された嵯峨本の『伊勢物語』で、藤原定家が天福2年(1234)に孫娘のために書写した天福本『伊勢物語』を底本にしています。書物といえば漢文で書かれた本が一般的だった当時、わが国の平仮名まじりの古典文学が挿絵入りで出版されたことは画期的な出来事であり、嵯峨本は古典文学の普及に大きな役割を果たしました。全2冊。  】(「国立公文書館所蔵資料特別展・将軍のアーカイブズ」)

(関連メモ)

 『伊勢物語』(嵯峨本)の木活字版下の筆者は、角倉素庵、そして、挿絵は、キリシタン画家の「狩野一雲」との説がある(林進「嵯峨本『伊勢物語』(慶長十三年初年刊)の誕生(下))『日本古書通信』二〇一〇年十月)。

参考B図『三十六歌仙』(本阿弥光悦書・フリーア美術館蔵)は、「伝本阿弥光悦書、伝土佐光茂画」との記述も見られる「慶安元年跋刊『本朝名公墨宝』「素庵巻」(四巻四冊のうち)について(林進論稿)・註5」。

狩野一雲 → 「狩野一雲について『画工便覧』は、永徳の門人で、肥前長崎に住んでいた、という。スペインのパストラーナ文書館蔵、1603年日付の日本二十六殉教者列聖請願書にみえる「真山一雲寿安(じゅあん)」にあたるとされる。」

https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=shiryo&mode=detail&data_id=601

土佐光茂 → 「土佐 光茂(とさ みつもち、明応5年(1496年)? - 没年不詳)は、室町時代後期の土佐派絵師。刑部大輔・土佐光信の子。実子に土佐光元。土佐派の跡を継いだ土佐光吉は次子とも弟子とも言われるが、『土佐家資料』[1]には光茂の没年や享年・戒名、光元の戦死場所などが正しく伝えられていない点から、門人説が有力である。官位は正五位下・刑部大輔。」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

年代的に、土佐光茂(1496?―?)は、「光悦(1558-1637)や素庵(1571-1632)」より以前の時代の人で、「土佐光則(1583-1638)や土佐光起(1617-1691)」との接点もあるのかも知れない。


素庵・光起.jpg

土佐光起画『三十六歌仙画帖』(伝角倉素庵書)東京芸術大学大学美術館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/171984
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