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鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その十五) [光悦・宗達・素庵]

(その十五)G図『鶴下絵和歌巻』(その一・11藤原敏行)

鶴下絵和歌巻G図.jpg

https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item02.html
10徽子(きし)女王(斎宮女御)(G図)
 寝(ね)る夢に現(うつつ)の憂さを忘られて 思ひ慰む程ぞかなしき(「俊」)
11藤原敏行朝臣(G図)
  秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる(「撰」「俊」)
(釈文)秋来ぬと目尓ハ左や可尓見え年共風濃をと尓曽驚可連ぬる

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tosiyuki.html#AT

  秋立つ日、よめる
秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(古今169)

【通釈】秋が来たと目にははっきりと見えないけれども、風の音にはっと気づいた。
【補記】古今集秋歌劈頭。立秋の日に詠んだという歌。「立秋の日から風は吹き増さる」という当時の常識――生活実感に基づく常識と言うよりも文学的な常識――を前提とし、「目に見る」「音に聞く」という対比のもとに季節の推移への気づきを詠んだのは、古今集の典型的な理知的作風と言える。もとより「風の音にぞおどろかれぬる」という秋の発見は平生の実感に基づこうが、その《実感》を生かしたのは、視覚・聴覚の対比という知的な構想なのである。一陣の涼風のようにさわやかな調べ・姿は比類がなく、「さやかに」の句が下句にも効いて響き、秋の訪れを告げる風の音が、鮮やかに聞き取れる。

藤原敏行一.jpg

藤原敏行朝臣/高倉大納言永慶:狩野尚信/慶安元年(1648) 金刀比羅宮宝物館蔵
http://www.konpira.or.jp/museum/houmotsu/treasure_house_2015.html

秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる

藤原敏行二.jpg

『三十六歌仙』(藤原敏行)本阿弥光悦書(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288424

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tosiyuki.html

  是貞のみこの家の歌合によめる
秋萩の花咲きにけり高砂のをのへの鹿は今やなくらむ(古今218)

【通釈】秋萩の花が咲いた。山の尾根の鹿は今頃妻恋しさに啼いているだろうか。
【語釈】◇高砂のをのへ 山の高いところ。頂上近くの、傾斜のなだらかなところを言う。◇今やなくらむ (妻を慕って)もう鳴くだろうか。萩の咲く頃が鹿の求愛の季節とされ、萩の花は鹿の妻にも擬えられた。

(追記一)光悦の陶芸(周辺メモ)

https://plusminusx3.hatenadiary.org/entry/20140622/1403393632

不二山  白黒  酒井雅楽頭→サンリツ服部
雪峰  赤  酒井雅楽頭→畠山
障子 赤
鉄壁  黒
毘沙門堂 赤 河合→鴻池→?
雪片 赤
七里 黒 七里→?→鈍翁→五島
加賀光悦 赤 冬木屋→不昧→?→相国寺
雨雲   黒 三井
時雨   黒 三井→平瀬→下村実栗→森川如春
紙屋   飴 紙屋→酒屋→山田→市田
鉄壁 黒
有明 赤
喰違 黒

光悦・不二山.jpg

楽焼白片身変茶碗〈銘不二山/光悦作〉高8.5 口径11.5 (㎝)
1口 公益財団法人サンリツ服部美術館 長野県諏訪市湖岸通り2-1-1
重文指定年月日:19520329 国宝指定年月日:19521122
国宝・重要文化財(美術品)
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/125757

【不二山は、光悦作の楽茶碗の中でも最も有名で、品格特に高く、光悦五種、七種、十種にはいづれもこれを挙げている。光悦の娘が嫁ぐ際に、先方の懇望によって、本茶碗を振袖に包んで持参したと伝えられ、一名には振袖茶碗とも呼ばれている。また、光悦筆の共箱を伴うものは極めて稀である。天保九年に比喜多権兵衛から酒井雅楽頭忠学の蔵となり、同家に伝来した。光悦茶碗の代表作としてのみならず、和物茶碗中の白眉と称しても過言ではない名碗である。 】

http://kazzzzak.blog74.fc2.com/blog-entry-377.html

不二山は、茶碗か?
不二山は、作ったのか、創られたのか。
不二山を造った男「本阿弥光悦」

https://tea-ceremony-tokyo.club/【徹底解説】本阿弥光悦とは/#i-6

Contents
• 1 本阿弥光悦の出自
• 2 光悦村に隔離?
• 3 光悦なくして琳派無し!?
• 4 陶芸家としての光悦
• 5 本阿弥光悦の代表的な茶碗
o 5.1 国宝 白楽茶碗「不二山」
o 5.2 赤楽茶碗「乙御前」
o 5.3 赤楽茶碗「雪峯」
o 5.4 黒楽茶碗「雨雲」

(追記二)織部好みの代表作(古田織部周辺メモ)

織部・破袋.jpg

重要文化財・古伊賀水指・銘: 破袋 (やぶれぶくろ)
陶器/一口 桃山時代・17世紀初期 高21.4cm 口径15.2cm 胴径23.7cm 底径18.0cm 
五島美術館蔵
https://www.gotoh-museum.or.jp/collection/col_05/02094_001.html

【伊賀焼は、桃山時代を代表するやきもののひとつ。今の三重県伊賀市で焼かれた釉薬を掛けない焼き締め陶器。本品は、左右に長方形の耳がつき、正面には焼成中の灰がとけた自然の釉薬である若草色のビードロ釉が厚く掛かる。背面は赤く焼き締まり、器全体に窯の中の灰や土が付着する。焼成時に、焼台に底がめり込むようにへたったため、底部には焼台の痕が残る。歪みが強く大きく割れた姿は、桃山時代の武将茶人古田織部(ふるたおりべ 1543~1615)が添えた「今後これほどのものはないと思う」という内容の手紙(関東大震災で焼失)通りのたぐいまれな存在感で圧倒する。籠形(かごがた)水指と呼ばれた独特の姿は、桃山時代の茶人の好みを反映したものだろう。伊賀藤堂家伝来の名品。】

http://www.furutaoribe-museum.com/about.html

【 武将茶人 古田織部
 茶の湯の最盛期であった天正十九年(一五九一)、堺の一茶人から天下人豊臣秀吉の側近にまで登り詰めた千利休は、秀吉に切腹させられて世を去った。秀吉のもと、利休が天下一の茶人として活動したのは九年ほどであった。その後の豊臣家滅亡までの二十五年間、天下の茶の湯を継承発展させたのは、利休の弟子の古田織部であった。
 織部は創意に優れた尾張出身の武将茶人で、青年期より長岡藤孝(幽斎)らの文化人から薫陶を受けた弁舌巧みな人物である。利休亡き後、秀吉と織部による茶の湯は、実に八年もの間続き、現在行われている「茶の湯」は、利休と織部二人によって大成されたといっても過言ではない。
 秀吉没後、豊臣政権が大老筆頭の徳川家康によって簒奪されたように、利休の茶の湯も家康・秀忠に重く遇された織部によって発展改変され、「将軍秀忠の茶の湯の師」という権威を背景に、織部の茶の湯が一世を風靡した。それは、「へうげもの」「やきそこない」といわれた茶碗が茶席を賑わすという常軌を逸した茶の湯が、〝天下〟に認められたことを示すのである。この事象は、時代がそうさせたのではなく、織部の強烈な個性により、一時的にそうなったのである。織部の成し遂げた事績はまさに破格であった。
 織部没後、弟子の小堀遠州が、織部の武家茶の湯を受け継いだ。また、同じく弟子であった本阿弥光悦は、織部の美意識に触発されて、独自の芸術を開花させた。また、金森宗和は織部流の茶を学んで自らの茶境を開拓し、その茶風は公家の間に伝わった。】
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