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「鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その四) [光悦・宗達・素庵]

その四 「序」(その四)と「A図」(その一)

鶴下絵和歌巻・全体.jpg

「鶴下絵三十六歌仙和歌巻、別称『鶴図下絵和歌巻』」(絵・俵屋宗達筆 書・本阿弥光悦筆 紙本著色・34.0×1356.0cm・江戸時代(17世紀)・ 重要文化財・A甲364・京都国立博物館蔵)
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item02.html

【 わたしは『鶴下絵和歌巻』の和歌本文の揮毫者は、通説の「光悦」ではなく、嵯峨本の刊行者たる角倉素庵だと考える。(中略)
 わたしは、天理図書館の『ビブリア』第一二七号所収の論文において、
①東京国立博物館蔵「宝筐院宛 素庵書状」(慶長初年ごろ)一幅と、嵯峨本『三十六人歌合』
②角倉玄遠旧蔵(角倉家伝来)、現・東京国立博物館所蔵、素庵書写『百人一首・三十六歌仙』(一帖)収録の尊円本・一首歌仙本「三十六人歌合」
③素庵書『新古今集和歌短冊(二条院讃岐<世にふるは>)』一枚(本紙裏に染筆依頼または覚書「角倉与一殿」の裏書あり)
を用いて筆跡比較を行い、素庵の書体と嵯峨本『三十六人打合』(初刊本)の版下が同じ書体であることを証明した。(中略)
 わたしは、書状などの光悦書体はあるが、多くの書作品でいわゆる光悦流書体というものはないと考えている。「光悦流書体」という言葉は、「素庵流書体」と言い換えるべきものだ。(中略)
 『本朝名公墨宝』「素庵巻」について、わたしは、二〇一二年の神戸大学美術史研究会編『美術史論集』第一二号所収の論文のなかで、すべて影印で掲載し、くわしい書誌解題を行った。(中略)
 なお、『本朝名公墨宝』中巻所収の「本阿弥光悦」には、『新古今和歌集』の和歌五首が「本阿弥光悦」の筆跡として収載されている(前の『美術史論集』第一二号の論文に影印・翻刻がある)。この和歌五首の筆跡は、『本朝名公墨宝』「素庵巻」および確実な素庵筆跡と比較すると、素庵筆跡そのものだ。】(『宗達絵画の解釈学(林進著・慶文舎刊・2016年)』「『鶴下絵和歌巻』揮毫者はだれか」「素庵の筆跡は『露法』を用いた書法」)

 ここで紹介されている「二〇一二年の神戸大学美術史研究会編『美術史論集』第一二号所収の論文」は、下記のアドレスで、その全貌を知ることが出来る。

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/infolib/meta_pub/G0000003kernel_81010422
  ↓
《慶安元年跋刊『本朝名公墨宝』「素庵巻」(四巻四冊のうち)について : 影印と釈文、(附載)同『本朝名公墨宝』中巻所収の「本阿弥光悦」》

(周辺メモ)

一 「わたしは『鶴下絵和歌巻』の和歌本文の揮毫者は、通説の「光悦」ではなく、嵯峨本の刊行者たる角倉素庵だと考える」、さらに、「書状などの光悦書体はあるが、多くの書作品でいわゆる光悦流書体というものはないと考えている。『光悦流書体』という言葉は、『素庵流書体』と言い換えるべきものだ」という指摘は、大きな問題点を内包しており、正面からは触れずに、徐々にその一端に触れて行くことにしたい。ここでは、《慶安元年跋刊『本朝名公墨宝』「素庵巻」(四巻四冊のうち)について : 影印と釈文、(附載)同『本朝名公墨宝』中巻所収の「本阿弥光悦」》所収の「素庵の書体(「拾遺愚草和歌扇面」と「本朝名公墨宝」)」
のみ、抜粋して掲載をして置きたい。

素庵字母表.jpg

「素庵の書体」(「拾遺愚草和歌扇面」と「本朝名公墨宝」)

《慶安元年跋刊『本朝名公墨宝』「素庵巻」(四巻四冊のうち)について : 影印と釈文、(附載)同『本朝名公墨宝』中巻所収の「本阿弥光悦」》所収「素庵の書体」(「拾遺愚草和歌扇面」と「本朝名公墨宝」)

二 ここで、『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭編著・2004年)』収載の「字母表」(特徴が現われやすい七文字について作成)も併せ紹介して置きたい。

字母表(S).jpg

 「字母表」(「光悦・素庵・黒雪・嵯峨本」の書体)

(『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭編著・2004年)』所収「光悦と嵯峨本(P41・P42)」)

これは、「嵯峨本の活字や整版本の版下を実際に書いたのは誰だったのだろうか」を探るために作られた「字母表」で、これで以て『鶴下絵和歌巻』の揮毫者を特定するのは不可能であるが、「光悦・素庵・黒雪」の書体を知る基本的な「字母表」の一つであることは特記して置く必要があろう。この「素庵」の箇所に、上記一の「素庵の書体」(「拾遺愚草和歌扇面」と「本朝名公墨宝」)を加味すると、この三者相互間と三者と「嵯峨本」との関係がややイメージ(「光悦=自在・素庵=怜悧・黒雪=巧妙」)となって浮かんで来る。

三 さて、ここから、『鶴下絵和歌巻』のスタート部分のその「A図」を見て置きたい。

鶴下絵図和漢ーA図.jpg

「鶴下絵三十六歌仙和歌巻、別称『鶴図下絵和歌巻』」の「A図」
柿本人丸(人麻呂) ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島隠れ行く舟をしぞ思ふ(「撰」)
凡河内躬恒    いづくとも春の光は分かなくに(まだみ吉野の山は雪降る)(「俊」)

 この歌人名の、当初の「柿本丸」に「人」を、「誰が・何時」挿入したのかは分からない。
この歌は、「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ 人麻呂」の表記で、『三十六人撰(公任撰)』(略称『撰』)に入集されている。しかし、この『鶴下絵和歌巻』の歌は『俊成三十六人歌合(俊成撰)』(略称『俊』)に入集されているものが多く、その『俊』には、この歌は入集されていない。
 この『撰』と『俊』は、『王朝秀歌選(樋口芳麻呂校注・岩波文庫)』に収載されており、以下、この『撰』と『俊』とを参考にして見て行くこととする。なお、この『俊』には『尚通増補本』(近衛尚通が『俊』に増補したもの)があり、『鶴下絵和歌巻』の依拠本は、この『尚通増補本』とする説(『宗達絵画の解釈学(林進著・慶文舎刊・2016年)』)があるが、その説が歌人名の表記などから説得力があるように思われる。
 『鶴下絵和歌巻』の一番手の柿本人丸は、『万葉集』(飛鳥時代)第一の歌人で「歌聖(うたのひじり)」と讃えられ、『古今集』(平安時代)の時代には、「人麿影供(えいぐ)」と神格化して来る。この平安時代には、「人麻呂・人麿」の他に「人丸」の表記が多くなって来る。
 二番手の凡河内躬恒は『古今集』の撰者の一人で、紀貫之と並び称せられる『古今集』の双璧の歌人である。人丸と躬恒とは、「歌合」的には、「時代不同歌合」的な番いであるが、人丸の、この歌は、『古今集』(第九羇旅409)に「よみ人知らず、左注に『このうたは、ある人のいはく、柿本人麿が歌なり』」)に入集されており、『古今集』入集歌としての番いということになろう(実際の「歌合」は、左方一「人丸」対右方一「貫之」の番いで、躬恒は左方二で、右方二の「伊勢」との番いとなる)。

(追記一)『鶴下絵和歌巻』の歌人(※=『万葉集』時代の歌人、※※=『古今集』の撰者、括弧書き=『古今集』入集数、無印=『古今集』時代の歌人)

「※1人麿→※※2躬恒(60首)→※3家持→4業平(30首)→5素性(36首)→※6猿丸→7兼輔→8敦忠→9公忠→10斎宮→11宗于→12敏行→13清正→14興風(17首)→15是則→16小大君→17能宣→18兼盛 :※※19 貫之(102首)→20伊勢(22首)→※21赤人→22遍照(18首)→※※23友則(46首)→24小町(17首)→25朝忠→26高光→※※27忠岑(36首)→28頼基→29重之→30信明→31順→32元輔→33元真→34仲文→35忠見→36中務」

(追記二)「勅撰集」(『古今集』など)「秀歌集」(『俊成三十六人歌合』など)の表記と「和歌巻」(『鶴下絵和歌巻』など)の表記などについて

(例)

https://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/9911959770a5802a95c2e7367ca4cd0d

古今和歌集 歌番号一

原文 止之乃宇知尓者留者幾尓个利比止々世遠己曽止也以者武己止之止也以者武
①定家 としのうちに春はきにけりひとゝせをこそとやいはむことしとやいはむ

『古今和歌集・尾上八郎校訂・岩波文庫』
②年のうちに春はきにけり一とせをこぞとやいはむことしとやいはむ
『古今和歌集・窪田章一郎校注・角川ソフィア文庫』
③年の内に春はきにけり一年(ひととせ)をこぞとやいはむことしとやいはむ

 この『古今和歌集・尾上八郎校訂・岩波文庫』には、「仮名使も、送仮名も、大体原本(嘉禄本)通にして見た。(中略) 又変体仮名も、平仮名に変えて見た。濁点と句読点とは、読者の便も計つてつけて置いた」と記されている。『古今和歌集・窪田章一郎校注・角川ソフィア文庫』では、「仮名づかい、送り仮名も歴史的仮名づかいに統一し、漢字を仮名に、また仮名を漢字に改めたところもある。いずれも現代の読者に親しみやすくした範囲内の改訂で、底本(「藤原定家の奥書のある伊達家本」と「定家の書写した貞応二年本」)の文章と歌とは忠実に伝えている」と、その「凡例」で述べられている。
 ここで、「①定家 としのうちに春はきにけりひとゝせをこそとやいはむことしとやいはむ」を見てみると、「春」のみ漢字で、他は全て平仮名の表記で、この平仮名表記が和歌の表記の標準的なスタイルと解して置きたい。
 その観点から『鶴下絵和歌巻』の人丸の歌を見ると、変体仮名のオンパレードで、例えば、この『鶴下絵和歌巻』の依拠テキストを『俊成三十六人歌合・尚通増補本』としても、その原文とは相当に差異があり、こういう和歌の書の揮毫というのは、その揮毫する人の感性に大きく左右されるものと解し、そのことを前提として以下見ていくこととしたい。

(追記三)「松花堂昭乗」の「ほのぼのと(柿本人丸)」の色紙

松花堂色紙1.jpg

【 11 桔梗下絵和歌色紙 俵屋宗達下絵 松花堂昭乗書 紙本金銀泥墨書 一幅
二〇・四×一七・九㎝
 宗達は光悦だけでなく、同じく寛永の三筆の一人に数えられる松花堂昭乗にも、料紙下絵を提供している。松花堂はこれらの料紙に「三十六歌仙」の和歌を書写している。字の大きさを揃えて、丁寧に書き連ねる松花堂の運筆には、高揚したリズムを感じさせる光悦との資質の相違がうかがえる。下絵は「慶長十一年十一月十一日」の年紀をもつ色紙(№9・10)に比べれば、かなり画面が整理されている。いずれも画面を斜めに伸びる枝を中心に、平行に伸びる小枝を添える。花や蕾の見せる愛らしい動きに注目される。上部をはじめ、余白を比較的多く取っていることも特色にあげられる。松花堂の書が未だ流麗な独自の特色をそれほど示していないことから、自流に展開する以前の元和年間(一六一五~二四)から寛永年間(一六二四~四四)の前半の作とする意見がある。 】(『日本美の精華 琳派・一九九四-九五・朝日新聞社』所収「作品解説:11・12・13」)

(追記四)「松花堂昭乗」の「あふ事の(中納言朝忠)」の色紙

松花堂・朝忠.jpg

松花堂昭乗「水草下絵三十六歌仙和歌色紙(中納言朝忠)」(桃山時代、出光美術館蔵)

https://business.nikkei.com/atcl/report/15/061000001/012600027/?P=1

【 筆者(小川敦生稿)の目を開いてくれた数々の展示作品の中で、特に注目したのは、桃山から江戸時代を生きた僧侶で能書家の松花堂昭乗の「水草下絵三十六歌仙和歌色紙」だ。画面は約20センチ角。昭乗は、金泥で水草が描かれた料紙の上に三十六歌仙の一人、中納言朝忠の和歌をしたためている。

 あふ事のたえてし
 なくはなかなかに
 人をも身をも
 うらみさらまし

 (中略)

さてこの作品の「景観」はどうだろうか。詠み人の名を書いた漢字に始まる右側部分は文字が太く、主張が強い。一方で、真ん中より左のひらがなが連なる部分は、実に流れが軽やかだ。何とリズム感のある表現なのだろうと思う。ひらがなの中にある「人」という文字の大胆な造形は、書であることを離れ、絵になろうとしているようにも見える。全体としては優美。その中で、極めて変化に富んだ画面が創出されている。

 漢字とひらがなが混じった文章を記すようになったからこそ、独自の展開を見せたのが「和様の書」と呼ばれるスタイルだ。ひらがなはそれだけで独自の世界を作ったのではない。漢字の書き方にまで影響を与え、日本独特の柔らかな表現の世界を、早くも平安時代から創出していたのだ。昭乗のこの作品も、その系譜上にある。

 実はこの作品が展示されているのは、展覧会では6番目の章にあたる「流転する流儀」と題された一画だった。いわば平安時代以来の伝統が熟した桃山から江戸初期の文化の中で花開いたのが昭乗の表現だったわけだ。

 俵屋宗達とのコラボレーションで知られる本阿弥光悦が活躍したのもこの時期だ。同じ一画に展示されている光悦の「蓮下絵百人一首和歌巻断簡」を見ても、表現が熟していることはとてもよく分かる。墨の濃淡がもたらすアクセントと動き、続け字やくずし字がもたらす変化や流れのありようは、穏やかな天候の下でなだらかな山が連なる山脈の稜線のシルエットでも見るときに感じるような、優美な「景観」をなしている。(以下略) 】

(追記五)寛永の三筆とその書流

https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=471

【 近衛信尹(このえのぶただ)・本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)・松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)の書は、日本書道史における近世の幕あけと位置づけられ、後世「寛永の三筆」の名で呼ばれています。

型の習得と故実を重視した中世の流儀書道から生まれた彼らの書は、その源流である平安時代の古筆や古典籍に学んで根本的にその書法を革新し、同時に、桃山時代特有の活気ある空気に触れて大胆に洗練され、新しい表現を切り拓きました。

そのひとり近衛信尹は、はじめ持明院流(じみょういんりゅう)書法を学び、さらに家蔵の平安古筆や藤原定家の書に造詣を深め、屏風全体に大字で直接揮毫するという従来にない表現を開拓しました。

 ついで、本阿弥光悦は、平安時代に書写された古今集「本阿弥切(ほんあみぎれ)」の名がその所持にちなむように平安古筆を範とし、書法に活かすだけでなく、料紙技法の研究開発を手がけた。

 また、松花堂昭乗は、平安古筆に加え空海の書法(大師流(だいしりゅう))にも学び、さらに、平安後期の装飾経「竹生島経(ちくぶしまきょう)」(当館蔵、国宝)の鑑識や茶杓の共筒(ともづつ)(当館蔵、銘さかひ)に筆跡を遺し、 寛永文化人として多彩な足跡が知られています。また、門弟の育成に尽力し、その流派は永く隆盛しました。

ところで、一つの見方ではありますが、「記録」と「表現」という点から日本の書を概観するとき、中世の書には記録的性格が色濃く、近世では表現性への志向が顕著に見られます。中世から近世へ脱皮した書の姿を、「寛永の三筆とその書流」にご覧いただければ幸いです。

*所蔵の表記の無いものは、当館蔵品です。

和歌屏風 近衛信尹筆 江戸時代・17世紀
長恨歌  松花堂昭乗筆 江戸時代・17世紀
和歌巻 本阿弥光悦筆 江戸時代・17世紀    】
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