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四季花卉下絵古今集和歌巻(その六) [光悦・宗達・素庵]

その六 躑躅と糸薄

四季花卉下絵古今集和歌巻74.jpg

「尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館・読売新聞社編)」
所収「1-01 俵屋宗達下絵・本阿弥光悦筆 四季草花下絵古今和歌巻・重要文化財・畠山記念館蔵」(「四季花卉下絵古今集和歌巻」=『光悦……琳派の創始者(河野元昭編)』所収「書画の二重奏への道……光悦書・宗達画和歌巻の展開(玉蟲敏子稿)」) 三三・七×九一八・七

    寛平の御時に、うへのさぶらひに侍りけるをのこども、
    かめをもたせてきさいの宮の御方に大御酒のおろしと
    きこえにたてまつりたりけるを、蔵人ども笑ひて、
    かめをおまへにもていでてともかくもいはずなりにければ、
    つかひのかへりきて、さなむありつるといひければ、
    蔵人のなかにおくりける
874 玉だれのこがめやいづらこよろぎの磯の浪わけ沖にいでにけり(藤原敏行 )
(あの小亀はどこへいったやら、こよろぎの磯の浪を分けて沖に出ていってしまったよ。)

    女どもの見て笑ひければよめる
875 かたちこそみ山隠れの朽ち木なれ心は花になさばなりなむ(兼芸法師)
(見た目こそ山奥の朽木のようではあるが、心は花にしようと思えばいつでも花を咲かせられますよ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

874玉だ連(れ)能(の)こ可(が)めやい徒(づ)らこよろ支(ぎ)能(の)い曾(そ)濃(の)波王(わ)遺(け)於(お)き尓(に)出(いで)尓(に)介(け)利(り)

※玉だ連(れ)能(の)=玉だれの。「子」の枕詞として用いる。
※こよろ支(ぎ)能(の)=こよろぎ。いまの神奈川県大磯市あたりの海岸。
※於(お)き尓(に)出(いで)尓(に)介(け)利(り)=おきにいでけり。「沖」に「奥=皇后宮の御前」の意を掛ける。
※※寛平の御時に=宇多天皇の御時。
※※うへのさぶらひに侍りけるをのこども=清涼殿の殿上の間に侍っていた侍臣たち。
※※きさいの宮=后宮。皇后藤原温子。
※※蔵人=女蔵人(下臈の女房)。

875形(かたち)こ曾(そ)深山(みやま)隠(がくれ)濃(の)朽木(くちき)那(な)禮(れ)心盤(は)華(はな)尓(に)な左(さ)ハ(ば)成(なり)南(なむ)

※形(かたち)こ曾(そ)=かたちこそ。顔かたち。容貌。
※深山(みやま)隠(がくれ)濃(の)朽木(くちき)那(な)禮(れ)=深山隠れの朽ち木なれ。奥山に隠れている朽ち木のようなものですが。

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/sennin/tosiyuki.html

【 藤原敏行(ふじわらのとしゆき) 生年未詳~延喜元(?-901)

陸奥出羽按察使であった南家富士麿の長男。母は紀名虎の娘。紀有常の娘(在原業平室の姉妹)を妻とする。子には歌人で参議に到った伊衡などがいる。
貞観八年(866)、少内記。地方官や右近少将を経て、寛平七年(895)、蔵人頭。同九年、従四位上右兵衛督。『古今集和歌目録』に「延喜七年卒。家伝云、昌泰四年卒」とある(昌泰四年は昌泰三年=延喜元年の誤りか)。
三十六歌仙の一人。能書家としても名高い。古今集に十九首、後撰集に四首採られ、勅撰集入集は計二十九首。三十六人集の一巻として家集『敏行集』が伝存する。一世代前の六歌仙歌人たちにくらべ、技巧性を増しながら繊細流麗、かつ清新な感覚がある。和歌史的には、まさに業平から貫之への橋渡しをしたような歌人である。 】

https://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-ymst/yamatouta/sennin/kengei.html

【 兼芸法師=兼藝(けんげい(けむげい)) 生没年未詳

『古今和歌集目録』によれば伊勢少掾古之の二男で、大和国城上郡の人かという。左大臣源融の孫占の子とも。即位以前の光孝天皇と親しかったことを窺わせる歌を古今集に残している(巻八離別歌)。勅撰入集は古今集のみ四首。  】

 これらの歌(藤原敏行と兼芸法師の二首)は、『古今集(巻第十四・恋歌四)の、次の在原業平の歌と関係があるようである。

  藤原の敏行の朝臣の、業平の朝臣の家なりける女を
  あひ知りてふみつかはせりけることばに、いままうでく、
  あめの降りけるをなむ見わづらひ侍る、といへりけるを聞きて、
  かの女にかはりてよめりける
705 かずかずに思ひ思はずとひがたみ身を知る雨は降りぞまされる(在原業平)
(いろいろと、貴方と私の間は、相思相愛の間柄なのかと思い悩んだりしていますが、貴方に直接聞くわけにもいかず、この雨に聞けば、この雨の降り様は、「そうではない」と告げているようです。)

 そして、これまた、『伊勢物語(第一〇七段)』に由来があるような雰囲気である。

http://teppou13.fc2web.com/hana/narihira/ise/old/ise_o107.html

【むかし、あてなる男ありけり。その男のもとなりける人を、内記にありける藤原の敏行といふ人よばひけり。されど若ければ、文もをさをさしからず、言葉もいひ知らず、いはんや歌はよまざりければ、かのあれじなる人、案を書きてかゝせてやりけり。めでまどひにけり。さて男のよめる、
 つれづれのながめにまさる涙川
  袖のみひぢて逢ふよしもなし
  かへし、れいの男、女にかはりて、
 浅みこそ袖はひづらめ涙川
  身さへながると聞かばたのまむ
といへりければ、男いといたうめでて、いままでまきて文箱に入れてありとなむいふなる。 男文おこせたり。えてのちの事なりけり。「雨の降りぬべきになむ見わづらひ侍る。身さいはひあらば、この雨は降らじ」といへりければ、例の男、女に代りてよみてやらす。
 かずかずに思ひ思はず問ひがたみ
  身をしる雨は降りぞまされる
とよみてやれりければ、蓑も笠もとりあへで、しとゞに濡れてまどひきにけり。】(『伊勢物語(第一〇七段)』)

(参考) 「四季花卉下絵古今集和歌巻」(「その一~その三」「その四~その六」)

四季花卉下絵古今集和歌巻一.jpg

「四季草花下絵古今和歌巻」(その一・その二・その三)

四季花卉下絵古今集和歌巻二.jpg

「四季草花下絵古今和歌巻」(その四・その五・その六)

 上記の「その一」は「竹」図(冬)、「その二・その三・その三・その四」は「梅(春)」図、そして、「その四」は「土坡(梅から椿)」(春から夏)への「季移り」(「季節の替わり」・「連歌・連句で、雑(ぞう)の句をはさまず、ある季の句に直ちに他の季の句を付けること」の「雑」の場面、「その一」と「その「二」は「季移り」)の図柄の雰囲気である。
 今回の「その六」(躑躅と糸薄)は、全体に「躑躅」(夏)の景物で、中ほどに、直接の「季移り」を避ける「雑」(間を取る)のような「土坡」を上部に描いて(「その五」の土坡は下部)、その次に「躑躅」の根本に「糸薄」(秋)を添えている図柄のようである。
 この「その六」の関連については、次のアドレスで触れている。画像は省略して、その紹介記事や、そのアドレスでの「光悦と宗達」周辺のことを再掲して置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-07-11

(再掲)

(画像省略=上掲の「その六」冒頭の図と「その一」の「竹」部分図)

俵屋宗達画・本阿弥光悦書「四季草花下絵和歌巻」(部分図=躑躅) 紙本金銀泥
三三・五×九一八・七㎝ 重要文化財 畠山記念館蔵
【 太い竹の幹のクローズアップから始まり、巻物を操るに従って、梅・躑躅(つつじ)・蔦(つた)が現れる。それぞれ、正月・春・夏・秋の四季の移り変わりを表わす。竹の表面は「たらし込み」の技法で質感が表現されている。宗達は以前、版画による料紙装飾で同様の竹をモティーフとしたが、版木を離すときに生じる金泥のムラの効果を、筆で描くときにも応用した。巻末に光悦の印章と、宗達の「伊年」の印章がある。 】(『日本の美をめぐる 奇跡の出会い 宗達と光悦(小学館)』)

「本阿弥光悦」の「本阿弥」家は、刀剣の「磨ぎ・浄拭(ぬぐい)・鑑定(めきき)」を専門とする家柄である。そもそも、「本阿弥」の「阿弥」というのは、将軍家に仕えて芸能や美術などの特殊技能をつかさどった「同朋衆」が名のることが多かった。室町時代に活躍した「能阿弥・芸阿弥・相阿弥」など三阿弥と呼ばれる同朋たちは、足利将軍家で儀式の飾りつけのコーディネートや美術品の鑑定・管理などをこなし、新たな美術品を注文する際に意見を求められた家柄である。
 その「同朋衆」の出の「本阿弥光悦」は、元和元年(一六一五)に徳川家康より鷹ケ峰(洛北)に広大な土地を与えられ、ここに様々な工芸に携わる職人たちと移り住んで芸術村を形成し、日本で最初の「アートディレクター」(総合芸術の演出家)兼「書家」(「寛永三筆」の一人)兼「蒔絵師」兼「陶工師」などの、当時の超一流の文化人ということになる。
 もう一人の「俵屋宗達」は、光悦と縁戚関係にあるとも、本阿弥家と同じ小川町(上京区)の「蓮池家・喜多川家」出の「絵屋」(「俵屋」という屋号で「絵屋」=「屛風・掛幅のほか料紙装飾・扇絵・貝絵など、主に仕込み絵的な一種の既製品を制作・販売する」)を主宰していたともいわれているが、絵師としても法橋を授与されており、これまた、当時の超一流の文化人の一人であったのであろう。
 ここで、この「四季草花下絵和歌巻」の宗達の印章の「伊年」は、宗達が主宰する「俵屋工房」(宗達を中心とする絵師・工匠等のグルーブ)の「ブランド」(他と区別できる特徴を持ち価値の高い製品)に押される印章と解せられているが、それと同じように、「法橋宗達」「宗達法橋」の署名も、「ブランド」(「俵屋工房・宗達工房」の「商標」)化されており、杓子定規に、「伊年」=「俵屋(宗達)工房」、「法橋宗達・宗達法橋」=「宗達」と、それらの物差しをもって、それらの区別をすることは甚だ危険なことなのであろう。
 それよりも、当時の超一流のアートディレクター兼書家の「本阿弥宗達」の「書」と、超一流の「絵屋」主宰者兼絵師の「俵屋宗達」(下絵)との、その「コラボレーション」(合作・共同作業)の作品は、両者の、丁々発止とする個人作業の多い、いわゆる、「俵屋宗達画・本阿弥光悦書」とする方が、より分かり易い目安になるのかも知れない。(以下略)

(追記メモ)

 この「四季草花下絵古今集和歌巻(四季花卉下絵古今集和歌巻)」(光悦書・宗達画)の「躑躅」など、両者の「コラボレーション」(合作・共同作業)の作品には、例えば、宗達の傑作画の「風神雷神図」の「風神」の衣装(下紐)などに施された「朱色」系統のものは目にしない。これは、両者の「コラボレーション」の作品として、「画」は下絵に徹して、「書」がメインであることの配慮のように思われる。
 「朱夏」に相応しい鮮やかな「朱」の躑躅が、宗達・光悦に私淑した光琳が見事に実写している。こちらは、朱の椿(メイン)と白の椿(サブ)との対比で、流水を挟んで、土坡は褐色で「大きな土坡」(メイン)と「小さな土坡」(サブ)が対比している。

https://www.ebara.co.jp/csr/hatakeyama/colle008.html

躑躅図.jpg

重要文化財 躑躅図 尾形光琳筆 (畠山記念館蔵)
【年代:江戸時代
材質・技法:絹本著色
サイズ(cm):縦39.3 横60.7
「たらし込み」で描かれた土坡と流水のほとりに、鮮やかな紅色の躑躅が空に向かって枝を伸ばす。その手前に、白い躑躅がひっそりと咲く姿が、また対照的で美しい。流水を挟んで左右に大小の土坡も配しており、本図は小品ながらも、このような形や色彩の対比が見事に計算されている。まるで箱庭でもみるかのようにすべてが縮小された作品には、洗練された意匠感覚が反映されている。作者の尾形光琳(1658~1716)は江戸時代中期に絵師として活躍した。  】
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