SSブログ

徳川義恭の「宗達の水墨画」(その五) [水墨画]

その五 「鴛鴦図二(宗達筆・個人蔵)」周辺

宗達・鴛鴦二.jpg

俵屋宗達筆 鴛鴦図 一幅 紙本墨画 九八・一×四七・二
落款「宗達法橋」 印章「対青軒」朱文円印 (『琳派三 風月・鳥獣(紫紅社刊)』)

【 この鴛鴦は右(前図=その一)のものより大分後の作品である。一々説明するよりも図版によつて比較された方が早いであらう。
 大体、宗達の水墨の縦長の絵は、元来、屏風の各面に貼られてゐたと思はれるものである。総てがさうであつたとは勿論考へられないが、亜流作品の中には、さう云ふ仕立てをしたものが残つて居るし、又、宗達画の特に下半分がひどく傷んだものをよく見掛けるから、そんな事も考へられるのである。
 此の絵も下部が随分ひどく傷んでゐて、それを可也古い時代に補修してゐる。併し、此の後補は大変うまく出来てゐるから、一寸見た所では分らない。幸ひ頭部は完全であり、筆の入つてゐるのは羽の極く一部である。……宗達の水墨画は享保頃に再認識されたかと思はれる形跡がある。先づ、山科道安が記した槐記に次の記事が見える。
 享保十一年五月一日  近藤一葉邸御成
  掛物 宗達墨絵の寒山
 享保十四年四月十三日 佐馬頭宅へ御成
  掛物 宗達墨絵ナデシコニ杜鵑
即ち右の二人がそれぞれ近衛豫楽院を招待した時の掛物が、真偽は別として兎に角、宗達の墨絵であつた。渡辺始興は豫楽院の家士であつたから、其所に何か関係があつたのかも知れない。(宗達寒山図一幅が第九十二回日本美術協会展に展観された事が記録に見えるが、私はそれが何ういう図かを知らない。)
 次に「宗達の俗姓をとへば京の遊人にりと、山楽の粉本に倣ふ云々」と記したのが享保五年開板の絵本手鑑であり、「俵屋宗達 喜多川氏敍法橋」と記したのが、享保、或はそれ以前かと思はれる扶桑名公画譜である。又、頂妙寺蔵の宗達筆牛図の表具を寄進した日等と云ふ人が、若し同寺第二十世日等上人その人であるならば、この人は享保十五年に没してゐる。併し、宗達筆狗子(その七)、鴛鴦(その四)などの表具が大体その頃の好みかと思はれるふしもある。 】(『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第三図」p6~p8)(メモ:図版は未見であり、『琳派三 風月・鳥獣(紫紅社刊)』所収の「鴛鴦」図は、前図(鴛鴦一)と此の図の二図だけであり、ここには、上記の「鴛鴦二」図を掲げている。)

 ここで、宗達の落款の「署名」と「印章」について触れたい。宗達の落款における署名は、次の二種類のみである(『日本美術絵画全集第一四巻 俵屋宗達(源豊宗・橋本綾子著)』所収「俵屋宗達(源豊宗稿))。

A 法橋宗達
B 宗達法橋

 宗達の法橋叙位は、元和七年(一六二一)、京都養源院再建に伴う、その障壁画(松図襖十二面、杉戸絵四面・八図)を制作した頃とされており(『源・橋本前掲書』所収「俵屋宗達年表」)、上記の二種類の署名は、それ以降のものということになる。
 その款印は、次の三種類のものである。

a 対青  (朱文円印 直径六・四㎝)
b 対青軒 (朱文円印 直径七・六㎝)
c 伊年  (朱文円印 直径四・九㎝)

 このcの「伊年」印は、宗達の法橋叙位以前の慶長時代にも使われており、これは、「俵屋工房(画房)」を表象する「工房(画房)」印と理解されており、その「工房(画房)」主(リーダー)たる宗達が、集団で制作した作品と、さらには、宗達個人が制作した作品とを峻別せずに、押印したものと一般的に理解されている(『源・橋本前掲書』)。
 そして、宗達が没して、その後継者の、法橋位を受け継いだ「宗雪」は、このcの「伊年」印を承継し、寛永十四年(一六三七)前後に製作した堺の養寿寺の杉戸絵の「楓に鹿」「竹に虎」図に、このcの「伊年」印が使われているという。また、宗達没後、宗雪以外の「宗達工房(画房)」の画人の何人かは、cの「伊年」印以外の「伊年」印を使用することが許容され、その種の使用例も見られるという(『源・橋本前掲書』)。
 ここで、その「伊年」印は除外しての、落款形式別の作例は、次のとおりとなる(『源・橋本前掲書』に※『宗達の水墨画(徳川義恭著)』口絵図を加える)。

一 A・a形式(法橋宗達・「対青」印)
作例「松島図屏風」(フーリア美術館蔵)
  「舞樂図屏風」(醍醐寺三宝院蔵)
  「槇図屏風」(山川美術財団旧蔵・現石川県立美術館蔵)
http://www.ishibi.pref.ishikawa.jp/collection/index.php?app=shiryo&mode=detail&data_id=1278
  「雙竜図屏風(雲龍図屏風)」(フーリア美術館蔵)  

二 A・b形式(法橋宗達・「対青軒」印)
作例「源氏物語澪標関屋図屏風」(静嘉堂文庫美術館蔵) 
http://www.seikado.or.jp/collection/painting/002.html
※「鴛鴦図一」(その四・個人蔵)

三 B・b形式(宗達法橋・「対青軒」印)
作例「関屋図屏風」(烏丸光広賛 現東京国立博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/459227
  「牛図」(頂妙寺蔵・烏丸光広賛)
  「鳥窠和尚像」()クリーヴランド美術館蔵 
※「牡丹図」(その三・東京国立博物館蔵)
※「鴛鴦図二」(その五・個人蔵)
※「兎」図(その六・現東京国立博物館蔵)
※「狗子」図(その七)
※「鴨」図(その九)

 ここで落款の署名の「法橋宗達」(「鴛鴦図一=その四・個人蔵」)と「宗達法橋」(「鴛鴦図二=その五・個人蔵」)との、この「法橋宗達」(肩書の一人「法橋」の用例)と「宗達法橋」(三人称的「法橋」の用例)との、その用例の使い分けなどについて触れたい。
 嘗て、下記のアドレスなどで、次のように記した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-19

【 この宗達の落款は「宗達法橋」(三人称の「法橋」)で、この「宗達法橋」の「牛図」に、権大納言の公家中の公家の「光広」が、花押入りの「和歌」(狂歌)と漢詩(「謎句」仕立ての「狂詩」)の賛をしていることに鑑み、「法橋宗達」(一人称)と「宗達法橋」(三人称)との区別に何らかの示唆があるようにも思えてくる。例えば、この「宗達法橋」(三人称)の落款は「宮廷画家・宗達法橋」、「法橋宗達」(一人称)は「町絵師・法橋宗達」との使い分けなどである。 】

 この「法橋宗達」(一人称的「法橋」の用例)と「宗達法橋」(三人称的「法橋」の用例)関連については、宗達の「西行法師行状絵詞」の、次の烏丸光広の「奥書」に記されている「宗達法橋」を基準にして考察したい。

【 右西行法師行状之絵
  詞四巻本多氏伊豆守
  富正朝臣依所望申出
  禁裏御本命于宗達法橋
  令模写焉於詞書予染
  禿筆了 招胡盧者乎
  寛永第七季秋上澣
   特進光広 (花押)

 右西行法師行状の絵詞四巻、本多氏伊豆守富正朝臣の所望に依り、禁裏御本を申し出だし、宗達法橋に命じて、焉(こ)れを模写せしむ。詞書に於ては予禿筆を染め了んぬ。胡盧(コロ、瓢箪の別称で「人に笑われること。物笑い」の意)を招くものか。
  寛永第七季秋上澣(上旬) 特進光広 (花押)   】(漢文=『烏丸光広と俵屋宗達(板橋区立美術館編)』、読み下し文=『源・橋本前掲書』)

 この奥書を書いた「特進(正二位)光広」は、烏丸光広で、寛永七年(一六三〇)九月上旬には、光広、五十二歳の時である。
 この寛永七年(一六三〇)の「烏丸光広と俵屋宗達・関係略年譜」(『烏丸光広と俵屋宗達(板橋区立美術館編)』所収)に、「十二月、上皇、女院、新仙洞御所に移られる」とあり、この「上皇」は「後水尾上皇」で、「女院」は「中宮の『徳川和子=女院号・東福門院』か?」と思われる。
 この徳川和子(徳川家康の内孫、秀忠の五女)が入内したのは、元和六年(一六二〇)六月のことで、その翌年の元和七年(一六二一)に、東福門院(徳川和子)の実母の徳川秀忠夫人(お江・崇源院)が、焼失していた「養源院」(創建=文禄三年、焼失=元和五年、再興=元和七年)を再興した年で、「俵屋宗達年表」(『源・橋本前掲書』所収)には、「京都養源院再建、宗達障壁に画く、この頃、法橋を得る」とある。
 この養源院再建時に関連するものが、先に触れた「松図襖(松岩図襖)十二面」と「杉戸絵(霊獣図杉戸)四面八図」で、この養源院関連については、下記のアドレスで詳細に触れているので、この稿の最後に再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-07

 ここで、先の宗達の「西行法師行状絵詞」に関する光広の「奥書」に戻って、その「奥書」で、光広は宗達のことについて、「宗達法橋に命じて、焉(こ)れを模写せしむ」と、「宗達法橋」と、謂わば、「西行」を「西行法師」と記す用例と同じように、「敬称的用例」の「宗達法橋」と記している。
 これらのことに関して、「(宗達の水墨画の)、多くは宗達法橋としるしている。いわば、自称の敬称である。しかしそれは長幼の差のある親しい者同士の間によくある事例である。宗達がすでに老境に及んで、人からは宗達法橋と呼びならされている自分を、自らもまた人の言うにまかせて、必ずしも自負的意識をおびないで、宗達法橋と称したのは非常に自然なことといってよい。それはまたある意味では、老境に入った者の自意識超越の姿といってもよい。彼の水墨画にこの形式の落款が多いということは、逆にいえば、それらの水墨画が多くは老境の作であり、自己を芸術的緊張から解放した、自由安楽の、いわゆる自娯の芸術であったからであるといえるのではないか」(『源・橋本前掲書』) という指摘は、肯定的に解したい。
 これを一歩進めて、「法橋宗達」の署名は、「晴(ハレ)=晴れ着=贈答的作品に冠する」用例、そして、「宗達法橋」は、「褻(ケ)=普段着=相互交流の私的作品に冠する」用例と、使い分けをしているような感じに取れ無くもない。
 例えば、前回(その四)の「法橋宗達」署名の「鴛鴦一」は、黒白の水墨画に淡彩を施しての、贈答的な「誂え品」的な作品と理解すると、今回(その五)の「宗達法橋」署名の「鴛鴦二」は、知己の者に描いた「絵手本」(画譜などの見本を示した作品)的作品との、その使い分けである。
 次に、印章の「対青」と「対青軒」については、その署名の「法橋宗達」と「宗達法橋」との使い分け以上に、難問題であろう。
これらについては、『源・橋本前掲書(p109)』では、「aの『対青』印は『対青軒』印の以前に用いたものと思われる。『対青軒』印はほとんど常に宗達法橋の署名の下に捺されている。『対青』とは、恐らく『青山に相対する』の意と思われるが、或いは彼の住居の風情を意味するのかも知れない」としている。
 また、「宗達は別号を対青(たいせい)といい、その典拠は中国元時代の李衎(りかん)著『竹譜詳録』巻第六『竹品譜四』に収載されている『対青竹』だ。『対青竹出西蜀、今處處之、其竹節間青紫各半二色相映甚可愛(略)』とあり、その図様も載せる(知不足叢書本『竹譜詳録』)。宗達は中国の書籍を読んでいた読書人であった」(『日本文化私の最新講義 宗達絵画の解釈学(林進著)』p282~p283)という見方もある。
 ここで、「対青軒」(「対青」はその略字)というのは、宗達の「庵号(「工房・画房」号)」と解したい。そして、この「青軒ニ対スル」の「青軒」とは、「青楼」(貴人の住む家。また、美人の住む高楼)の意に解したい。
即ち、宗達の「法橋の叙位を得て、朝廷の御用を勤める宮廷画人」の意を込めての、「青軒」とは、「寛永七年(一六三〇) 十二月、上皇、女院、新仙洞御所に移られる」(『烏丸光広と俵屋宗達(板橋区立美術館編)』所収「烏丸光広と俵屋宗達・関係略年譜」)の、その「上皇(後水尾院)と女院(東福門院)」の、その「青軒」(青楼)の意に解したい。

頂妙寺・古図.jpg

「頂妙寺」付近図:「寛永後萬治前洛中絵図(部分図・京都大学附属図書館蔵)」
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/libraries/uv-wrapper/uv.php?archive=metadata_manifest&id=RB00000143#?c=0&m=0&s=0&cv=0&xywh=24161%2C14427%2C2750%2C5442&r=270

(再掲)  宗達の「養源院障壁画」関連周辺(メモ)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-07

松図戸襖一.jpg

俵屋宗達筆「松図戸襖」十二面のうち四面(東側) 京都・養源院 重要文化財
(『日本の美術№31 宗達(千沢楨治著・至文堂)』)

 現存する宗達画で、最も大きな画面の大作は、松と岩を題材とした養源院の襖絵である。
本堂の南側の廊下に面する中央の間には、正面の仏壇側に八枚(この部分は失われて現在は伝わらない)、その左右、東西に相対して各四枚の襖絵(計八面)があり、さらに南側の入口の左右に二面ずつの戸襖(計四面)がある。
 上図は、その十二面のうちの四面(東側)で、その入口の二面(南側)は、下記の上段の、右の二面の図である。
 この六面に相対して、四面(西側)とそれに隣接しての二面(南側)の図が、下記の下段の図となる。

松図戸襖二.jpg

上段は、東側の四面とそれに隣接した入口の二面(南側)の、計六面の図
下段は、西側の四面とそれに隣接した入口の二面(南側)の、計六面の図
(『宗達(村重寧著・三彩社)』)

養源院襖配置図.jpg

養源院襖絵配置平面図(『日本の美術№31 宗達(千沢楨治著・至文堂)』)
上段の東側の四面と入口の二面(南側)の計六面→右から「1・2・3・4・5・6」
下段の西側の四面と入口の二面(南側)の計六面→右から「7・8・9・10・11・12」
☆現在消失の「正面の仏壇側の八面」(北側)は「6と7との間の襖八面(敷居の溝)」
下記の「白象図」→上記平面図の5・6
下記の「唐獅子図」(東側)→上記平面図の7・8
下記の「麒麟図又は水犀図」→上記平面図の3・4
下記の「唐獅子図」(西側)→上記の平面図1・2

白象図.jpg

伝宗達筆「白象図」 杉戸二面 板地着色 各182×125cm(上記平面図5・6)重要文化財

唐獅子一.jpg

伝宗達筆「唐獅子図」(東側) 杉戸二面 板地着色 各182×125cm(上記平面図7・8)
重要文化財

麒麟図.jpg

伝宗達筆「麒麟図」又は「水犀図」 杉戸二面 板地着色 各182×125cm(上記平面図3・4)
重要文化財
唐獅子二.jpg

伝宗達筆「唐獅子図」(西側) 杉戸二面 板地着色 各182×125cm(上記平面図1・2)
重要文化財

(周辺メモ)

一 養源院と浅井三姉妹(淀・お初・お江) (省略)

https://www.travel.co.jp/guide/article/6764/

二 養源院の再興とその血天井  (省略)

https://www.travel.co.jp/guide/article/6764/

三 養源院の「菊の御紋・三つ葉葵・桐」 (省略)

https://www.travel.co.jp/guide/article/6764/

四 「烏丸光広筆二条城行幸和歌懐紙」

光広和歌懐紙.jpg

http://ccf.or.jp/jp/04collection/item_view.cfm?P_no=1814

烏丸光広筆二条城行幸和歌懐紙

(釈文) 

詠竹契遐年和歌
      左大臣源秀忠
呉竹のよろづ代までとちぎるかな
 あふぐにあかぬ君がみゆきを
      右大臣源家光
御幸するわが大きみは千代ふべき
 ちひろの竹をためしとぞおもふ
      御製
もろこしの鳥もすむべき呉竹の
 すぐなる代こそかぎり知られね

(解説文)

 後水尾天皇〈ごみずのおてんのう・1596-1680〉の二条城行幸は、寛永3年〈1626〉9月6日より5日間、執り行なわれた。その華麗な行粧と、舞楽・和歌・管弦・能楽などの盛大な催しの様子は、『寛永行幸記』『徳川実紀』などに詳述されている。この懐紙は、二条城行幸の時の徳川秀忠〈とくがわひでただ・1579-1632〉・家光〈いえみつ・1604-51〉・後水尾天皇の詠歌を、烏丸光広〈からすまるみつひろ・1579-1638〉が書き留めたもの。光広はこのとき48歳、和歌会の講師を務めた。   「「竹、遐年を契る」ということを詠める和歌/左大臣源秀忠/呉竹のよろづ代までとちぎるかなあふぐにあかぬ君がみゆきを/右大臣源家光/御幸するわが大きみは千代ふべき ちひろの竹をためしとぞおもふ/御製/もろこしの鳥もすむべき呉竹のすぐなる代こそかぎり知られね」

(再掲) 烏丸光広の歌と書(周辺メモ)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-02

天(あめ)が下常盤の陰になびかせて君が千代(ちよ)ませ宿のくれ竹(黄葉集一四八〇)

歌意は、「天下を常緑の木陰に従わせて、君のお治めになる千年の間生えていてください。この宿のくれ竹よ。」

【 寛永三年(一六二六)秋、前将軍徳川秀忠と三代将軍家光父子が江戸から上洛し二条城に滞在した。九月六日から十日の間二条城に、後水尾天皇と中宮和子(徳川秀忠の娘)、中和門院(天皇の母)、女一宮(天皇と和子の間の長女。後の明正天皇)を迎えて寛永行幸があり、さまざまなもてなしが行われた。
 七日には舞楽が、八日には歌会が、十日には猿楽(能)が天皇への接待として行われた。八日の歌会は、徳川御三家を含めた将軍家一門と、関白・太閤以下宮廷の重臣が合せて二十名、歌会の部屋の畳の上に列席し、部屋の外にも公家が詰めて行われた。この歌会に歌を出した者は総勢で七十八名にもなる。歌はすでに作られた懐紙に書かれて用意されていて、歌会では、それを披講といって皆の前で歌い上げる儀式を行うのである。読み上げ順序に懐紙をそろえる読師の役は内大臣二条康道がつとめ、講師といって始めに歌を読み上げる役は冷泉中将為頼が行った。最後に天皇の歌を披講するとき、役を交替して、読師を関白左大臣近衛信尋が、講師を大納言烏丸光広がつとめた。大変に晴れがましいことであった。
 題は「竹遐年ヲ契ル」。常緑の竹が長寿を約束するという意味で、祝の題として鎌倉時代からよまれてきた。光広の「歌」の「君」は表面上は天皇を指すが、将軍の意味も含むように感じられる。双方をうまくもり立ててよみこんだ巧妙な歌であろう。
 光広は徳川家とは縁が深く、慶長十三年には徳川家康と側室お万の方の仲人により、家康次男の未亡人を妻とし、翌年後陽成天皇の勅勘を受けた時には、駿府の家康のもとにすがって流刑を免れている。 】(『松永貞徳と烏山光広・高梨素子著』)
nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:アート

徳川義恭の「宗達の水墨画」(その四) [水墨画]

その四 「鴛鴦図一(宗達筆・個人蔵)」周辺

鴛鴦その一.jpg

俵屋宗達筆 鴛鴦 一幅 紙本墨画淡彩 九三・八×四七・六 落款「法橋宗達」 
印章「対青軒」朱文円印 (『琳派三 風月・鳥獣(紫紅社刊)』)

【 鴛鴦が一羽爽かに飛んでゐる。画面には其の他に何の添景も無い。鳥の配置も効果的であるし、色の濃淡や筆触も洗練されてゐて、よく飛ぶ鳥の軽さと、それに伴ふあの一種の緊張感を現はしてゐる。頬と喙(くちばし)には薄く赤味がつけてあり、頭上の羽毛の中には、柔かく藍が入つてゐる。目つきも旨いし、羽の表現も感覚的である。何処にも鈍い所が無い。松村呉春の絵に、鷺の飛立つのを描いたのが在る。あれは呉春としては上出来のものだらうが、此の鴛鴦に比べると随分落ちる。只、伯林(ベルリン)に牧谿の雁の図がある。これは気持のいゝ程鋭い絵であつて、此の種の絵の傑作であらう。……所りで、宗達の此の絵は、宗達として稍初期のものと言へる。それは「破調」が無く、筆数が多い事で分る。用紙も他の作品とは違つて居り、唐紙が用ひられてゐる。他の作品が殆ど白唐紙かと思はれる。
宗達の絵で、水墨淡彩といふのは少い。さう云ふ意味でも此の絵は珍しい。宗達は、淡い色を使ふ時は思ひ切つて濃く、又、薄い色の時は、在るか無いかの淡いのを使゛ふ。それで゛何れの場合でも、非常に高い境地を表現してゐる。濃彩の絵は今更述べる迄もないが、極く薄い色を着けたものは、此の鴛鴦の他に、金沢から発見された歌仙の図数枚がある。……これは宗達法橋の長方形の白丈方印が添へてある。その印の字は今の所、まだ読めてゐない。又、最近、色紙形の伊勢物語図の中に、やはり方印を捺したものが発見されたと矢代幸雄先生から御教示を受けたが、それは前者とは又別のものらしいと云ふ事であつた。尚、水墨淡彩の狗子図(稍初期)を最近見た。 】(『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第二図」p4~p6)

https://www.nanao-cci.or.jp/tohaku/big/19.html

等伯・花鳥図屏風.jpg

【長谷川等伯筆「花鳥図屏風」6曲1隻 紙本著色 縦149.5・横360.0 室町時代末期~桃山時代初期(16世紀)制作 岡山県・妙覚寺所蔵 横 一四九・〇㎝ 縦 三六〇㎝ 重要文化財
(解説)
本図は水墨を基調に要所に色彩を施した作品で、モチーフを画面の端に集めた構図で安定感を感じさせる作風である。等伯40歳代頃の筆といわれ、画面中の鳥などの描写は生き生きとして表現されている。 】

【 岸辺の梅と鴛鴦の番を中心に雪景でまとめたこの屏風は、数点の作品が知られる伝雪舟筆の花鳥図屏風の形式を受けつぐ典型的な作例である。とはいえ、雪舟系花鳥図屏風では画中の生き物が冬の大自然のなかに閉じこめられ、ひっそりと呼吸しているのに対し、生き物たちとそれをとりまく自然との関係がこの作品では逆転している。小鳥たちは気ぜわしく小枝を飛びまわり、梅の根もとの紅白の薔薇や竹の青さが冬のきびしさを少しも感じさせない。雪舟系花鳥図屏風の重苦しい迫る雪の遠山もこの作品ではすっかり後退し、光の空間が画面を満たしているのだ。等伯は『等伯画説』の中で、雪舟につらなる画系にみずからを位置づけているから、この作品は信春から等伯への変貌を画風のうえから考えるためにも注目すべき作品である。なお、本作品は、京都の金工家後藤家から妙覚寺へ寄進された、と従来考えられていたが、明治年間に京都の相馬家から寄進されたものであることが同寺の史料から判明した。 】(『名宝日本の美術 永徳・等伯』所収「作品解説27(鈴木広之稿)」)

 この等伯の「花鳥図屏風」(六曲一隻)の第五扇に、等伯の二羽の鴛鴦が描かれている。それは、下記のアドレスのとおり、昭和五十二年(一九七七)に、「大和絵 花鳥図(鳥)切手」として、国際文通週間記念に、その図柄の切手が発行されている。



https://kaitori-navisan.com/kitte/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E7%B5%B5-%E8%8A%B1%E9%B3%A5%E5%9B%B3%E9%B3%A5%E5%88%87%E6%89%8B/

等伯・鴛鴦.jpg

「大和絵 花鳥図(鳥)切手」(長谷川信春=等伯筆「花鳥図屏風」の部分図)

https://intojapanwaraku.com/art/972/

永徳・梅に小禽.jpg

狩野永徳筆「四季花鳥襖」(「松に鶴」「梅に小禽」「芦雁図」)の「梅に小禽」の部分図)
国宝 十六面 紙本墨画 各 横一七五・五㎝ 縦一四二・五㎝ 永禄九年(一五六六) 聚光院所蔵 (『名宝日本の美術 永徳・等伯』所収「作品解説1・2・3・4・5・6(鈴木広之稿)」)

 等伯が、同時代(桃山時代)の画家として、生涯に亘ってライバル意識を持ち続けた、その人は、狩野永徳ということになろう。その永徳の「四季花鳥襖」にも、上記の「梅に小禽」のほんの片隅(上記の左の襖の水面)に、永徳の「鴛鴦」らしきものが描かれている。この「四季花鳥襖」は、大徳寺の塔頭の一つの「聚光院」所蔵の国宝となっている。
 そして、等伯の「枯木猿猴図」(その三で紹介した作品)は、その「聚光院」の近くの、同じ大徳寺の塔頭の一つの「龍泉庵」所蔵の重要文化財となっている。さらに、この「聚光院」と「龍泉庵」に連なる、臨済宗大徳寺派の大本山「大徳寺」には、日本水墨画の源流とも目せられる、中国の宋末元初(13世紀後半)の画僧・牧谿の代表作「観音猿鶴図 」が、その国宝に指定されている。
 その「牧谿→永徳・等伯」の、日本水墨画の流れは、その間に、日本水墨画の大成者として目せられている室町後期の画僧「雪舟」が介在していることになる。その雪舟の「鴛鴦」が、次のアドレスで、下記のとおり見ることが出来る。

https://artsandculture.google.com/exhibit/DAIS7zfQjogqIA?hl=ja

雪舟・鴛鴦.jpg

【四季花鳥図屏風(15世紀)雪舟筆 (補綴: 「四季花鳥図屏風」六曲一双 紙本着色 各 縦一八一・六㎝ 横三七五・二㎝ 京都国立博物館蔵 重要文化財 → 左隻「第二・三扇」=『没後五〇〇年 特別展 雪舟(東京国立博物館・京都国立博物館編))

水墨画の巨人、画聖などと仰がれて人口に膾炙(かいしゃ)する雪舟(1420~1506?)。備中国(今の岡山県)に生まれた彼は、上京して相国寺に入り、禅と画業に励んだのち周防国山口に居を移した。その後、遣明使節団に加わって入明し、本場の水墨画に親しんだことが知られる。帰国後、その作画意欲はますます高まり、絵筆を携えて諸国を遊歴するなど旺盛な活動を展開した。
本図はかなりの数が遺る伝雪舟筆花鳥図屏風絵群の中にあって、唯一、彼の真筆と目される作品である。両隻とも松や梅の巨木によって画面が支えられ、その周囲に四季の草花や鳥たちが配されているが、まるで爬虫類のような松梅の不気味な姿とアクの強い花鳥の描写によって、画面には独特の重苦しい雰囲気がもたらされている。おそらく呂紀(りょき)の作品に代表される明代の花鳥図が参考にされたのであろう。】

nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:アート

徳川義恭の「宗達の水墨画」(その三) [水墨画]

その三 「牡丹図(宗達筆・東京国立博物館蔵)」周辺

牡丹図.jpg

牡丹図 俵屋宗達筆 紙本墨画 1幅 97.2×45.2 東京国立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/233924
【 私が始めて此の絵を観たのは、冬の或る晴れた日であつた。静かな光線の中で、此の墨一色の華やかな境地に浸つてゐると、あの煙る様な白牡丹の感じが私の心を充した。殊に右下の一輪には、開き切つて崩れようとする此の上ない綺麗な花の趣があふれてゐた。
真に偉大な作家は、他人の様式に影響されただけでは済まされない。必ず固有の美的価値の高い様式を鮮やかに展開する。吾々は其の様な重要な作家の遺品を、平凡な作品と同列に置いてはいけない。「鈍い眼」に依つて、美しくないものが餘りに高く評価されてゐたならば、それを訂正しなければならない。吾々の祖先の残して呉れた作品は、如何なる一物と云へども其の時代の文化を語つてゐる。その意味では総てが貴重である。唯、それらが正当に評価され始めて、単なる過去のものが現在に生きるのである。東洋水墨画に於て、宗達のもつ意義は大きい。殊に我国の水墨画中、これほど新鮮な様式は稀である。(此の牡丹図に就いては、雑誌座右寶二號に記した) 】(『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第一図」p3~p4)

P23~p24 宗達は水墨画を描くに際して、当時彼の眼に触れる事の出来た前代の多くの水墨画を十分に鑑賞してゐたであらう。而して其の中で最も彼の関心の対象となつたのは、恐らく牧谿及び其の系統の画家の作品と思はれる。と云うのは、宗達の水墨画の様式には牧谿の様式と共通するものが見られるからである。
 今、大徳寺、牧谿筆観音図に就て見ると、其の線に於て、例えば観音の顔や衣服に見られる淡墨の柔かい線は、宗達の線と性質が似て居ることが分る。又、中心となる対象……例えば観音(牧谿)と蓮の花や白兎(宗達)……を線の濃度、又は線の太さに依つて強調せず、背景に淡墨を塗つて之を浮上らせる表現法も共通して居る。
 更に、構図の集中的ではなく展開性を有する点も同様である。併し、最も基本的な共通点は、統一された全体の様式が、没骨法を主として、奥深さを感じさせる事である。(「三 宗達の水墨画の様式 (一)牧谿と宗達」)

https://kazuow.exblog.jp/27769380/

牧谿・観音猿候図.jpg

【 牧谿「観音猿鶴図 」 中国・南宋時代(13世紀) 国宝 (大徳寺蔵)
 中国の宋末元初(13世紀後半)の画僧・牧谿の代表作。中幅に観音菩薩坐像、左右に
鶴図と親子の猿図を配する三幅対の掛軸。絹本墨画淡彩。室町幕府3代将軍足利義満が収
集した中国絵画で、長谷川等伯など後世の日本の絵師や水墨画に多大な影響を与えた。
湿潤な大気の動きや光の明暗を、墨の濃淡やぼかしで巧みに表現し、ここでは木の幹や枝
、 岩山や背後にかかる靄(もや), そして竹の葉や地上の線などによって、全体が大きな
一つの画面となるように構成されています。(小学館 「ニッポンの国宝」による) 】

https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item13.html

枯木猿候図.jpg

【「枯木猿猴図」長谷川等伯筆 紙本墨画 各155.0×115.0 cm 龍泉庵蔵 重要文化財
桃山時代に狩野派と拮抗する制作活動をした長谷川等伯(1539-1610)の代表的作品。
現在は2幅の掛軸装に仕立て直されているが、本来は屏風であって、その4扇分が現存しているわけである。裱(ひょう)背墨書によれば、もと、加賀・小松城主の前田利長侯の蔵するところという。
等伯は能登半島の根元にある七尾の出身で京に上ってから本法寺の庇護を受け、さらに千利休にも可愛がられたので大徳寺に出入りするようになった。明らかに本図は、大徳寺が蔵する中国鑑賞画中の至宝である牧谿筆「猿猴図」(国宝)の直接的な影響のもとに成った作品である。  】

P24~p25 牧谿の様式を、我国に於て、多少の新味を加へて展開した画家に、長谷川等伯がある。併し等伯の水墨画には、牧谿の直模に依る感覚の粗雑さが窺はれる。例へば、枯木猿候図の葉や幹は、単なる筆技に陥つてゐて、表現になつゐない傾向がある。松林図に於ても、結局対象の採上げ方に新しさを認め得る程度であつて、特に宗達水墨画の様式の源とする訳には行かない。併し、宋元水墨画に現れた「厳格」、「尖鋭」なる調子が、我国に於て「明朗」「緩慢」なる調子に変化した、或は進展した、と云ふ事実には注意しなければならない。(「三 宗達の水墨画の様式 (一)牧谿と宗達」)

「枯木猿猴図」長谷川等伯筆(右幅拡大図)

https://nanao-art-museum.jp/?p=5344

猿候図・石川県立美術館.jpg

【作品名:猿猴図屏風 員数:2曲1隻 技法1:日本画 技法2:紙本墨画 作者:長谷川等伯(1539〜1610) 制作年代:桃山時代 法量(cm):縦160.0 横240.0 指定:石川県指定有形文化財
本図は平成27年4月に新発見作品として全国ニュースとなった作品で、発見当初は損傷が激しかったが、修復されてよみがえった。旧所蔵者である京都造形芸術大学のご厚意で、同年七尾市が購入し、同年秋に特別公開した。
 本図は「松竹図屏風」と共に伝わっているが、現段階では別の作品として紹介している。右扇の右端下部から大きな樹木の幹が二手に分かれ、その内1本は画面中央を横切って左扇へ伸び、そこに猿が1匹座っている。樹木の根元周辺には岩と笹が配されている。その猿は、「枯木猿猴図」(京都市・龍泉庵)右幅の母猿と、全く同じポーズである。「枯木猿猴図」では母猿の肩の上に子猿が描かれており、本図をよく見ると母猿の右側に子猿の小さな手が確認され、よく似た子猿が描かれていたことが想像される。次に左扇に移ると、「枯木猿猴図」の左幅に描かれる枯木にぶら下がる父猿らしき猿と、そっくりな猿が描かれている。  
 また、右扇の母子猿は足の向きは逆であるが、「竹林猿猴図屏風」(京都市・相国寺)の母子猿とも近似し、父猿は「猿猴捉月図襖」(京都市・金地院)の猿ともほぼ同じポーズである。興味深いのは猿の毛の筆法である。本図では縮れたような描き方が特徴的で、相国寺本や龍泉庵本の筆法とは明らかに異なる。しかし、相国寺本と龍泉庵本でもかなり描き方に違いがあり、意図的に描き分けたものと解釈される。調査にあたった黒田泰三氏も述べられているように、足の立体感は的確に描写され、顔の濃墨の入れ方、淡墨の上から鋭くかつ丁寧に描き込んだ毛、笹の勢いあるタッチや右端中頃の濃墨の樹葉なども、等伯の表現といってよい。
 制作年代については、研究者の中でも若干見解が分かれる。50歳代初めとなると、相国寺本と近いが、筆法からして相国寺本より前ではないであろう。一方龍泉庵本は、線自体に重きを置いている感があり、「濃墨を多用した豪快な筆さばき」という60歳代の特徴であり、本図より後の制作と考えられる。また、本図の細く鋭い毛描きは金地院本に最も近く、両者は近い時期に描かれた可能性がある。現在のところは、50歳代後半頃の筆としておきたい。
 なお、画面の構図や、右扇と左扇の各中心には縦の褪色が見られることから、本図は6曲屏風の4扇分で、本来は左右にもう1扇分ずつあったと解される。左側には捉月図が交わって、金地院本のように水面に映る月が描かれていた可能性もある。 】

(周辺メモ) 牧谿の「「観音猿鶴図 」と等伯の「枯木猿候図」周辺

 牧谿の「観音猿鶴図」は、天文年間(一五三二~五五)に太原崇孚(戦国時代の禅僧・今川義元の軍師)が大徳寺に寄進したことが知られている(『正法山誌』巻六)。五十歳代の等伯は春屋宗園(千利休,古田織部らと親交があった大徳寺百十一世)を通じて、大徳寺とのつながりがあり、その「枯木猿候図」は、その頃の制作とされている(『名宝日本の美術 永徳・等伯』所収「枯木猿候図―等伯と牧谿(鈴木広之)」「作品解説(鈴木広之)」)。
 等伯は、この大徳寺の「観音猿鶴図(牧谿筆)」の鑑賞体験を通して、さまざまな「猿候図」と「竹鶴図」などの名品を今に遺している。
 平成二十七年(二〇一五)に新発見された「猿候図屏風」(石川県立美術館蔵)の「作品解説」記事中の、「竹林猿猴図屏風」(京都市・相国寺)、「猿猴捉月図襖」(京都市・金地院)のほか、下記のアドレスの「竹鶴図屏風」(出光美術館蔵)なども夙に知られている。

https://media.thisisgallery.com/works/hasegawatohaku_08

等伯・竹鶴図屏風.jpg

長谷川等伯筆「竹鶴図屏風」(出光美術館蔵) 六曲一双 紙本墨画 
【等伯が私淑していた中国の画僧、牧谿による竹鶴図の構図を模した作品といわれる。初冬の竹林とそこに佇む2羽の鶴が描かれており、鶴の精緻かつ表情豊かな描写と、霧がかった竹林の表現が印象的な作品。】

 ここで、「等伯の水墨画には、牧谿の直模に依る感覚の粗雑さが窺はれる。例へば、枯木猿候図の葉や幹は、単なる筆技に陥つてゐて、表現になつゐない傾向がある」(徳川義恭)の批判的な見解については、『名宝日本の美術 永徳・等伯』所収「枯木猿候図―等伯と牧谿(鈴木広之稿)」の、次の記述が参考になる。

【 等伯は「枯木猿候図」を最後に、おそらく牧谿画と訣別をはかり、新たな展開へと向かう道を歩もうとしていたのではなかったか。牧谿画に啓示を受けて制作された「枯木猿候図」のなかにあらわれている強烈な自己表現の片鱗は、牧谿画が本来めざしたものとはおよそ対極的な表現へと等伯が向かおうとしていることを示しているのだ。「松林図屏風」という傑作を五十歳代に残して、この画家は急速に牧谿から歩み去ろうとしているのである。そして彼が接近していったのは、もっと硬質で自己主張の強いヴィジョンをもつ絵画だったのではないか。これこそ彼の六十歳代、晩年の画風の基調となっていくもののように思えるのである。 】(『名宝日本の美術 永徳・等伯』所収「枯木猿候図―等伯と牧谿(鈴木広之稿)」)
nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:アート

徳川義恭の「宗達の水墨画」(その二) [水墨画]

その二 「頂妙寺と頂妙寺所蔵の『牛図』」周辺

https://www.jisyameguri.com/event/cyomyoji/

頂妙寺map.jpg

A図(現在の「頂妙寺」マップ図=赤の位置表示の所が「頂妙寺」)

 徳川義恭は、終戦後間もない、「昭和廿一年六月」と「同年十二月」に亘って、この頂妙寺などを実地調査し、「従来不明であつた宗達の家柄は恐らく西陣の機屋俵屋一族として認めてはどうか、と云ふ仮説を提示するのである」と、その「第四 機屋俵屋と宗達派」(『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶版』所収)の、その「六 結論」で記述している。
この「第四 機屋俵屋と宗達派」の構成は次のとおりである

一 緒論
二 宗達の名のある俵屋喜多川家の墓
三 頂妙寺に就て
四 宗達派に於ける俵屋の家号及び野々村・喜多川姓に就て
五 機屋俵屋に就て
六 結論

 その結論の、「宗達を祖とする畫派が、現存する機屋俵屋の祖と恐らく関係があつたに違ひないとする」、その「論拠」を次のように要約している(p89~p90)。

(一) 俵屋なる特殊の家号の一致。
(二) 喜多川姓の一致。
(三) 俵屋宗□の一致。(メモ:□=不明文字。二回目の調査で「俵屋宗達」の一致? しかし、この「俵屋宗達」が法橋となった俵屋宗達その人なのかどうかは不明とする。)
(四) 機屋俵屋と頂妙寺、及び頂妙寺の宗達水墨画。(傍系の資料として、頂妙寺と光悦、及び俵屋宗由の貞享四年に献じた一幅の存在)
(五) 蓮池平右衛門尉秀明が加賀の人と伝へられてゐる事と、宗達系の畫家と加賀の関係の密接なる事。(光悦と加賀の関係)、更に広く当時の織物業に於ける京都と加賀の関係。
(六) 時代及び土地の一致(機屋俵屋の成立と宗達の在世時代に矛盾のない事。活動の中心地の京都である事)
(七) 堺の地と機屋俵屋(堺を通しての外国技術の輸入及び商業上の関係と、宗達と堺(俵屋宗雪の書蹟、宗達筆松島図屏風、宗達系の一優品罌粟図屏風)及び(傍系として頂妙寺と堺の関係) 
(八) 宗達畫の内容と富裕なる機屋俵屋との関係、及び、宗達畫の様式と織物模様の様式との合致。

頂妙寺・古図.jpg

B図の「頂妙寺」付近図:「寛永後萬治前洛中絵図(部分図・京都大学附属図書館蔵)」
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/libraries/uv-wrapper/uv.php?archive=metadata_manifest&id=RB00000143#?c=0&m=0&s=0&cv=0&xywh=24161%2C14427%2C2750%2C5442&r=270

 この「B図」は、「寛永後萬治前洛中絵図(部分図・京都大学附属図書館蔵)」の「本阿弥辻子・本法寺・妙蓮寺・妙顕寺」の絵図の、「東・北」側の「院御所」(現在の「厳島神社」付近?)に移動した図で、その「院御所」(後水尾院などの仙洞御所?)の左下側に隣接して「頂妙寺」がある(この「院御所」の右側に「知恩寺」がある。これは浄土宗総本山の「知恩院」ではない)。
 ここで、下記のアドレスによる「頂妙寺寺地の変遷」を掲載して置きたい。

http://youryuboku.blog39.fc2.com/?mode=m&no=200&photo=true

【 頂妙寺寺地の変遷
日蓮宗京都二十一箇本山の一つ頂妙寺は、現在では、鴨川の東、仁王門通に面してある。通り名は当寺の仁王門に由来するという。ここに落ち着くまで、洛中洛外を転々としてきた。
 1473(文明5)年、日祝(日常8世)が上洛し、檀越の武将・細川勝益(?~1502)の篤い帰依によって寺地の寄進を受け、頂妙寺を開山した。当時の寺地は南は四条通、北は錦小路通、西は万里小路(現在の柳馬場通)、東は富小路通に至る地であった。
 その後、1509(永正6)年、10代将軍・足利義稙の命により新町通長者町に移る。ついで、1523年(大永4)年には、12代将軍・足利義晴の命により、高倉中御門に移転し、法華宗洛内法華二十一箇本山の一つになる。中御門通は現在の椹木町筋に当たる。
 1536年(天文5年)の天文法華の乱で、他の法華宗寺院とともに焼失し、堺に避難した。その後1542年(天文11年)、後奈良天皇が法華宗帰洛の綸旨を下し、頂妙寺は1546年、高倉中御門の旧地に伽藍を再建した。
 1573(天正元)年、信長の上京焼打ちにあった。フロイスの1573年5月27日付の書簡のなかに掲げた20ヶ寺の焼失寺院名リストの19番目の「ch?mennji」が頂妙寺のことだと思われる(松田,川崎訳「フロイス 日本史4」p.302、中央公論社、1978)。寺地は鷹司新町に移されたという。
 織田信長の命により、浄土宗と法華宗の間で行われた1579年(天正7年)の安土宗論には頂妙寺から三世日珖が臨んだが破れ、日蓮宗は詫状二通を書かされ、以後の布教を禁じられる。寺地はそのままであったとみられている。
 1584年(天正12年)には豊臣秀吉の命により、布教を許され、愛宕郡田中村に於いて、寺禄21石7斗を附される。1587(天正15)年、秀吉の寺移転計画で、また高倉中御門に移った。
 そして最終的には、江戸時代の1673年(寛文13年)に、禁裏に隣接しているという理由で、現在の地に移転させられ、今の所は落ち着いている。 】

 上記の末尾の方の「1587(天正15)年、秀吉の寺移転計画で、また高倉中御門に移った」というのは、いわゆる、秀吉の「聚楽第(京都新城)」の整備に伴う都市改造で、触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-14

 また、「最終的には、江戸時代の1673年(寛文13年)に、禁裏に隣接しているという理由で、現在の地に移転させられ、今の所は落ち着いている」というのは、徳川第五代将軍綱吉の時代で、徳川家康の時代に、光悦らが「洛中から洛外(鷹峯)へ」の移住を強いられたと同じような、「禁裏・院御所」付近の新たなる都市整備に伴うもののようにも解せられる。

厳島神社と頂妙寺.jpg

C図(現在の「厳島神社」=B図の「院御所?」と現在の頂妙寺)

この図(C図)の上部左側に、「厳島神社」=B図の「院御所?」がある。その左側に「頂妙寺(B図)」があった。この「頂妙寺(B図)」の土地は、上記の「結論」の「論拠」(五)に出てくる「蓮池平右衛門尉秀明」(「俵屋喜多川氏の元祖)が、天文十九年(一五五〇)に寄進したことが明らかにされている(「宗達の水墨画(徳川義恭)」p100~p101)。
 この「頂妙寺」(現在の厳島神社の左に隣接していた)が、1673年(寛文13年)に、禁裏に隣接しているという理由で、この(C図)の右端の下(北側)に移転させられたということになる。
 さて、この「頂妙寺(B図)」に、「俵屋宗達筆・烏丸光広賛『牛図』(双福)」が所蔵されている。その頂妙寺の「霊寶目録」が次のように紹介されている。

【 牛図二幅対 賛、正二位大納言烏丸光広公、畫、宗達。竪三尺一寸四分。幅一尺四寸五分、表具、上下天竺織物、一文字黒地金。  】(「宗達の水墨画(徳川義恭)」p102)。

そして、この「水墨牛図は既に私は正筆と認め、先に雑誌座右寶(創刊号)に述べておいた」(『同書p102』)とし、その解説文などは省略されている。
 ここで、この賛をした「正二位大納言烏丸光広公」の、当時の住居の「烏丸殿」が、このB図の「頂妙寺」の上部(北側)の二軒目と隣近所の位置なのである。

烏丸殿.jpg

B図の拡大図(「頂妙寺(左下)と烏丸殿(左上)」)

【 烏丸光広  没年:寛永15.7.13(1638.8.22)  生年:天正7(1579)
安土桃山・江戸時代の公卿,歌人。烏丸光宣の子。蔵人頭を経て慶長11(1606)年参議,同14年に左大弁となる。同年,宮廷女房5人と公卿7人の姦淫事件(猪熊事件)に連座して後陽成天皇の勅勘を蒙るが、運よく無罪となり、同16年に後水尾天皇に勅免されて還任。同17年権中納言、元和2(1616)年権大納言となる。細川幽斎に和歌を学び古今を伝授されて二条家流歌学を究め,歌集に『黄葉和歌集』があるほか、俵屋宗達、本阿弥光悦などの文化人や徳川家康、家光と交流があり、江戸往復時の紀行文に『あづまの道の記』『日光山紀行』などがある。西賀茂霊源寺に葬られ、のちに洛西法雲寺に移された。<参考文献>小松茂美『烏丸光広』(伊東正子)  】(出典 朝日日本歴史人物事典)

 この「牛図」(頂妙寺蔵)については、下記のアドレスなどで、次のように触れている。その関係する部分を再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-09
(再掲)

牛図.jpg

【『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編・1972年)』所収「22牛図(俵屋宗達画・烏丸光広賛)二幅・頂妙寺蔵・重要文化財」
【 宗達の水墨画中、屈指の傑作として知られるこの対幅には、烏丸光広(1579~1638)の賛がある。向かって右側の和歌は「身のほどにおもへ世中うしとてもつながぬうしのやすきすがたに(花押)」。また、左幅の漢詩は「僉曰是仁獣、印沙一角牛、縦横心自足、匈菽復何求(花押)」。力量感にあふれる牛の体躯を手慣れたたらし込みの技法によって、じつに躍動的に描いている。】「22牛図(俵屋宗達画・烏丸光広賛)二幅・頂妙寺蔵・重要文化財」の解説

(周辺メモ)
一 この光広の賛の「花押」は二羽の「蝶」のようである。宗達の描く「牛」は、その「蝶」に戯れている。(『俵屋宗達(古田亮著)』など)
二 この光広の賛(和歌)の「身のほどにおもへ世中うしとてもつながぬうしのやすきすがたに(花押)」は、「つながぬうしのやすきすがたに」の「自由」こそ「平安・安らぎ」の象徴か(?)この漢詩の「僉(ミナ)曰是仁獣、印沙一角牛、縦横心自足、匈菽(シュク)復何求(花押)」は、「仁牛→一角牛」→「『仁』カラ『縦横心自足』」スルト『牛』トナル」→「匈菽(シュク)復何求」……という「謎句」仕立てらしい(?)
三 この宗達の落款は「宗達法橋」(三人称の「法橋」)で、この「宗達法橋」の「牛図」に、権大納言の公家中の公家の「光広」が、花押入りの「和歌」(狂歌)と漢詩(「謎句」仕立ての「狂詩」)の賛をしていることに鑑み、「法橋宗達」(一人称)と「宗達法橋」(三人称)との区別に何らかの示唆があるようにも思えてくる。例えば、この「宗達法橋」(三人称)の落款は「宮廷画家・宗達法橋」、「法橋宗達」(一人称)は「町絵師・法橋宗達」との使い分けなどである。  】
nice!(1)  コメント(2) 
共通テーマ:アート

徳川義恭の「宗達の水墨画」(その一) [水墨画]

その一 「宗達の名のある俵屋喜多川家の墓」周辺

https://www.jisyameguri.com/event/cyomyoji/

宗達の墓.jpg
「伝・俵屋宗達の墓」(頂妙寺)

【第四―二・宗達の名のある俵屋喜多川家の墓―(目次「第四 機屋俵屋と宗達派―二・宗達の名のある俵屋喜多川家の墓―」=『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶版』所収)

p91  頂妙寺といふ寺は現在、京都市左京区二条東に在る。表門を入つて直ぐ右側が墓地になつてゐる。土塀を廻らした少し明る過ぎる墓地で、落着いたいゝ感じは無い。入つて正面に向つて稍幅広い真直の道があり、その両側に沢山の墓石が立つてゐる。喜多川家の其の墓は、右側の中程にあつて、一際高く見えるのがそれである。
 其所には、宗達の名を側面に刻んだ一番大きい立派な墓を中央に、左右に二基の俵屋の墓がある。それから同じ列の右に一つ置いて更に一基、喜多川と記した小さない墓石がある。
 (略)

p92 正面及び右側面は次の通りである。

(右側面)
          宗見 月窓常哲 井狩氏 宗運
          妙法 実月至心     妙種
          妙信 ※※宗達     妙泉
          日道 利慶       慶春
          休興 常林       円清日持  
(正面)
   元祖 宗利  円珠院日登大徳     信受院誠持日妙
      妙慶  大慈院常室日家     ※観心院宗悦日解
          常運院妙法日重 蓮池氏 直性院妙悦日修
南無妙法蓮華経   真性院常由日徳     即順院日利法師
   常興日利   本具院妙常日理 
          信行院常與日勤     常清日空
   妙顕 蓮池氏 修善院妙重日玄     厚智日禪

(略)

P94 この正面の碑文に於て注意すべき事項は、次の如くである。
(一)この一群の人々が喜多川氏の直系であるらしく、而して元祖として蓮池宗利(平右衛門尉秀明)及び妙慶を掲げて居る。又、二祖の妻が蓮池氏としてあり、更に三祖の妻も蓮池氏としてある。即ち、俵屋に蓮池氏と喜多川氏との二家が在つて、蓮池俵屋が恐らく本家で、喜多川俵屋がその分家で、この墓碑にあるのは喜多川俵屋一家であると想像される。
(メモ:墓碑の碑文の読み方は、「上段・中段・下段」の三段に分かれていて、その上段の最初の「元祖 宗利=蓮池宗利(平右衛門尉秀明)」、「妙慶=宗利の妻」、「二祖 常興日利、二祖の妻 妙顕 蓮池氏)」、中段の 「三祖 大慈院常室日家、三祖の妻 常運院妙法日重 蓮池氏」との読みである。)
(二)下段の右から二人目(※)の、観心院宗悦日解は、古画備考に記された喜多川宗悦なる画家であるかも知れない。(略)
(メモ:『古画備考(朝岡興禎著)』中の「俵屋宗達(野々村氏―宗説(喜多川氏北川氏トモ)・・・宗説(二代目宗達ノ事ニテ)」の、この二代目宗達の「宗説」が、この墓碑の「観心院宗悦日解」なのではないかという推論を記述している。)  

P95~p96 次に右側面であるが、遺憾ながら此所に刻まれた人々に就ては、頂妙寺にも喜多川家にも今の所では何等書き記したものは発見できないのである。正面に於ては過去帳に大部分が記されて居り、即面では一人もないと云ふ事は、この側面の一群の人々が、正面の人々とは一応別な立場にあることを物語つてゐる。即ち恐らく同じ喜多川俵屋であり乍ら、正面の一系統の縁者であると見るのが妥当ではなからうか。而して此所にしるされている宗達(※※)といふ人も、墓石に俵屋とあるから、恐らく俵屋宗達であらう。が、果して寛永の俵屋宗達その人であるかどうかは決定は出来ない。(略)

第四―三・頂妙寺に就て― (略)

第四―四・宗達派に於ける俵屋の家号及び野々村・喜多川姓に就て― (略)

第四―五・機屋俵屋に就て― (略)

(メモ: 「蓮池平右衛門尉秀明に始まる俵屋喜多川宗家の系譜」関連のことで、その概略に基づいての、下記のアドレスの記事を、参考までに再掲して置きたい。)

https://www.chugainippoh.co.jp/article/ron-kikou/ron/20200612-001.html

【 再掲

宗達の俗姓は蓮池氏、或いは喜多川氏。俵屋という屋号を持つ京都の富裕な町衆の系譜にある絵師で先祖には蓮池平右衛門尉秀明、喜多川宗利などがあった。同人は1539(天文8)年には狩野一門の総帥である狩野元信とともに当時の扇座を代表する座衆であった。また36(天文5)年に生起した天文法乱の敗北によって京都を追われた日蓮法華宗本山が京都に還住が許された際、頂妙寺旧境内地の全てを買い戻して50(天文19)年、亡妻の供養のために頂妙寺に寄進した富裕な日蓮法華衆としても知られる。つまり俵屋は代々絵屋を家職とした一門の屋号であり、宗達はその工房を継承した絵師である。

そして俵屋の商品は宗達の時代、元和年間(1615~24)には俵屋絵、俵屋扇として評判を得ていた。また俵屋一門には絵屋に加えて織屋としての家職もあったようで、西陣の織師たちによって結ばれていた「大舎人座」の座衆として蓮池平右衛門、北川八左衛門などの名が見えるに加えて、彼らの系譜に連なると思われる蓮池平右衛門宗和なる織師の存在も明らかにされている。また01(慶長6)年に立本寺に大灯籠を寄進するとともに鷹ヶ峯光悦町に屋敷を所有した蓮池常有という人物などの記録がみられるも、彼ら相互の関係は不明である。

1946(昭和21)年、美術研究者の徳川義恭氏は当時、俵屋蓮池・喜多川第17代当主である喜多川平朗氏の協力を得て喜多川家伝来の歴代譜、頂妙寺墓所にある俵屋喜多川一門の供養塔の碑銘を調査し、蓮池平右衛門尉秀明に始まる俵屋喜多川宗家の系譜を明らかにされた。自著『宗達の水墨画』においてその調査結果を公表された中で「蓮池俵屋についてはそれを系統的に知り得ず、之が引いては宗達との関係を不明瞭にしているものと思われる」と述べられている。ちなみに現当主、第18代喜多川俵二氏は師父と同様に人間国宝として俵屋の家職を継承し頂妙寺大乗院と結縁されている。

俵屋宗達と本阿弥光悦は義理の兄弟の関係にあり多くの作品を共作していた。加えて宗達が紋屋井関妙持や千家第2代小庵とも茶の湯を介して交流があり、このことからも俵屋一門と本阿弥一門、紋屋一門相互の深い関わりが見てとれる。彼らはいずれも西陣、小川今出川上ル界隈に居住して其々に家職を営んでいた。(「日蓮宗大法寺住職 栗原啓允氏」の見解  】   )

(関連参考メモ)

【 広範で強固な日蓮法華衆のネットワーク

絵画制作の狩野(妙覚寺信徒)、※俵屋(頂妙寺信徒)、※長谷川(本法寺信徒)、
彫金の名門※後藤(妙覚寺信徒)、
蒔絵師の※五十嵐(本法寺信徒)、
西陣織の紋屋井関(妙蓮寺信徒)、
銀座支配の大黒屋湯浅(頂妙寺信徒)、
茶碗屋の※楽(妙覚寺信徒)、
呉服商の雁金屋※尾形(妙顕寺信徒)、
海外交易の※茶屋(本能寺信徒)

能楽の謡曲本を広く刊行した本阿弥光悦(本法寺信徒)、
連歌界を主導した里村紹巴(頂妙寺信徒)、
俳諧の祖ともされる松永貞徳(本圀寺信徒)、
囲碁の家元である本因坊日海(寂光寺第2世)、
将棋の家元としての大橋宗桂(頂妙寺信徒)

「一家一門皆法華」という信仰規範が要請され、信仰、血縁のみならず自身の家職もまた相互に重ね合わせていた。

例えば彫金の後藤一門が制作する三所物などの刀装具の下絵は狩野一門が手掛けていました。京都国立博物館所蔵、重要文化財「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」に至っては、和紙を京唐紙の祖とされる紙屋宗二が漉上げ、その上に俵屋宗達が絵を描き、寛永の三筆を謳われた本阿弥光悦が三十六歌仙の和歌を書き流して制作された作品です。ちなみに紙屋宗二は蓮池常有らとともに鷹ヶ峯、光悦町に移住した熱心な日蓮法華衆であったことが分かっている。

1615(元和元)年に本阿弥光悦が徳川家康から拝領した洛北鷹ヶ峯の地に4カ寺の寺院を中心として、本阿弥始め蓮池、紙屋、尾形、茶屋などの著名な日蓮法華衆の一門が集い、共に信仰生活を送った光悦町は「広範で強固な日蓮法華衆のネットワーク」の具現した姿といえる。 

※ 俵屋(頂妙寺信徒)=俵屋宗達(生没年不詳)
※ 長谷川(本法寺信徒)=長谷川等伯(一五三九~一六一〇)
※ 後藤(妙覚寺信徒)=後藤徳乗(一五五〇~一六三一=京都三長者の一人)
※ 五十嵐(本法寺信徒)=五十嵐久栄(一五九二~一六六〇=光悦の孫妙久の夫)
※ 茶屋(本能寺信徒)=茶屋四郎次郎(?~一六二二)=二代目=京都三長者の一人)
※ 尾形(妙顕寺信徒=尾形宗伯(一五七一~一六三一=「光琳・乾山」の祖父、宗伯の父・道伯の妻は光悦の姉)
※ 楽(妙覚寺信徒)=楽常慶(一五六一~一六三五)=二代目、三代目は道入(のんこう))

  】 (同上のアドレスの記事の「要点メモ」など)
nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:アート

四季花卉下絵古今集和歌巻(その十二) [光悦・宗達・素庵]

その十二 妙顕寺の「尾形光琳の墓」など

洛中絵図・本法寺.jpg

B図:寛永後萬治前洛中絵図(部分図・京都大学附属図書館蔵)
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/libraries/uv-wrapper/uv.php?archive=metadata_manifest&id=RB00000143#?c=0&m=0&s=0&cv=0&xywh=30213%2C8303%2C3087%2C6111&r=270

 上図(B図)の中央上部が、本阿弥家(そして光悦)の菩提寺の「本法寺」、その左側(西側)には、光悦筆の「立正安国論」を所蔵している「妙蓮寺」、そして、右側(東側)は、「妙顕寺」である。
 この「妙顕寺」は、「本能寺」が織田信長の京都の宿泊寺とすると、「妙顕寺」は豊臣秀吉の京都の宿泊寺と、秀吉と関係の深い「日蓮宗大本山」の、京都法華宗の根本をなす寺である。そして、この「妙顕寺」の塔頭(本寺=妙顕寺の境内にある小寺)の「泉妙院」(妙顕寺の興善院の旧跡)が、尾形光琳・乾山の「尾形家」の菩提所なのである。
 この「泉妙院」については、下記のアドレスで紹介されている。

https://kyotofukoh.jp/report350.html

 そのアドレスの「泉妙院」のマップ図は、次のとおりである。

妙顕寺.jpg
C図「妙顕寺と泉妙院」マップ図(中央上部の赤の位置マークの地点=泉妙院)

 ここには(C図)、光悦と等伯と関係の深い「本法寺」(日蓮宗本山)も、「妙蓮寺」(本門法華宗大本山)も図示されていないが、「本法寺」は、この地図の「茶道総合資料館」の右(東)寄り、そして、「妙蓮寺」は左(西)寄りに位置する。

https://blog.goo.ne.jp/korede193/e/788d6d021e1305253c20b39434684815

尾形光琳とその一族の墓は、日蓮宗大本山妙顕寺の表門の東に接する塔頭・泉妙院にあって境内の北隅に南面する4つの墓石がそれである。この内中央の大小2基の墓石が古く、光琳の没後につくられたもので、大碑の方には尾形家の初代伊春以下、2代道柏(光琳の曾祖父)、3代宗伯(光琳の祖父)、4代宗甫(光琳の叔父)、5代宗謙(光琳の父)及び光琳の「長江軒寂明青々光琳」の法名がきざまれ、小碑の方には、光琳の弟乾山の法名「雲海深省居士」をはじめ10数名の名がみえ、尾形家の有為転変さを如実に示しているようである。

尾形(緒方)家はもと武家であったが、のちに町人になり、雁金屋と号し、京呉服商を営み、巨万の財を成した江戸初期の豪商である。2代目道柏までは貧乏であったが、本阿弥光悦の姉(日秀)を妻に迎えてから家運は次第に栄え、後には上層町人の筆頭の一人となった。

このような家柄であったから、当然墓も立派なものを建てるべきであるが、5代目宗謙の子 藤三郎、子 市之丞(光琳)兄弟の徹底的な遊蕩によって、家庭を蕩尽し、のちには個々の墓をたてることができず、このような合葬墓としたものだろう。墓石の側面に「小形」とあるのは、晩年の光琳が家運の挽回を図って「尾形」と姓を改めたのだが、ついに復興することができず、光琳の没後しばらくして同家は断絶した。元来、尾形家の宿坊は興善院といい、今の泉妙院のあたりにあったと伝える。しかし尾形家断絶後は墓のみ残して取り払い、本行院(妙顕寺塔頭)の管理下に入った。その本行院も天明の大火によって焼亡したので、墓は妙顕寺の総墓地に移すことに至った。

光琳が没して100年後に画家酒井抱一は光琳を追慕するあまり上洛し(メモ:抱一の名代・佐原鞠塢を派遣し、調査させる)、尾形家の墓に詣で、本行院跡に光琳だけの墓を建てたのが、現在善行院(妙顕寺塔頭)の南にあるのがそれである。これには表面に「長江軒青々光琳墓」、側面に「文政2年(1819)画家酒井抱一再建」の旨をしるしている。一方、泉妙院は天保2年(1831)尾形家の宿坊興善院跡に建立され、旧本行院が預かっていた尾形家先祖の墓を管理し、またその菩提寺となったが、一般には酒井抱一の建てた墓が光琳の本墓とみられ、妙顕寺総墓地のある肝心の古い墓は忘れられたかたちになっていた。近年、光琳・乾山兄弟の名が有名になるにつれ、寺もほっておけなくなり、昭和37年、総墓地から古い墓を移し、さらに昭和57年有志の人によって、光琳・乾山両人の供養塔(宝塔)が建立され、併せて光琳の位牌が保管されるに至った。

光琳邸宅跡.jpg
D図「尾形光琳邸宅跡」(上御霊前通東入る北側=上記赤の位置マーク)

https://blog.goo.ne.jp/korede193/e/788d6d021e1305253c20b39434684815

上御霊神社より西、烏丸通に及ぶ上御霊中町の西北部は、尾形光琳が生涯の半ばをすごし、ここで没したところである。光琳は呉服商 雁金屋宗謙の次男として、万治元年(1658)に生まれた金持ちのぼんぼんで、若い頃から兄藤三郎とともにぜいたく三昧な生活を送ったため、兄は廃嫡となり、父が亡くなって家督をついだ頃家業は左前になっていた。そこで上京区智恵光院中立売下ル西側、山里町にあった広大な屋敷を売り払い、上京薮内町とよばれていたこの地に転居するに至った。

https://ja.kyoto.travel/journey/winter2018/special/public01.php?special_exhibition_id=8

等伯・波龍図屏風.jpg
E図 長谷川等伯筆「波龍図屏風」(六曲一隻のうち「第二扇から第四扇) 本法寺蔵

 上記は、等伯の本法寺所蔵の「波龍図屏風」(六曲一隻)の部分図である。等伯には、この種の「龍虎図」を何点か手掛けているが、その代表的なものが、下記のアドレスで紹介されているボストン美術館所蔵の「龍虎図屏風」(六曲一双)である。この作品には、「自雪舟五代長谷川法眼等伯」の署名があり、等伯、六十八歳の時のものである。

https://j-art.hix05.com/16.2.hasegawa-tohaku/tohaku16.ryuko.html

等伯・虎図.jpg
F図 長谷川等伯筆「龍虎図屏風」(六曲一双のうち「左隻の第四扇から第六扇) ボストン美術館蔵(綴プロジェクト画像)

https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item09.html

光琳竹虎図.jpg
J図 尾形光琳筆「竹虎図」(紙本墨画 28.3×39.0cm) 京都国立博物館蔵
【著色の花鳥図や草花図などを描く時の光琳には、どこかしら肩肘張ったように見受けられる場合があるが、墨画に関してはまことに軽妙で、親しみ易い作品が多い。その代表作品が「維摩図」と本図である。竹林を背景にちんまりと腰をおろした虎は、いたずらっ子のようなやんちゃな眼をして横を睨む。中国画の影響を受けた狩野山楽などの「龍虎図」が、強烈な力と力の対決の場面に仕上げているのに比すれば、これはもはや戯画とでも称すべき画風であって、本図が対幅であったとすれば、龍もまた愛くるしい龍であるに違いない。それにしても戯画を描くということは、画家の自由性を物語って余りある。】

 この光琳の「虎」(J図)は、等伯の「虎」(F図)に通じていて、それを一層戯画化し、「まことに軽妙で、親しみ易い作品」に仕上がっている。

https://global.canon/ja/tsuzuri/works/17.html

宗達・龍図.jpg
H図 俵屋宗達筆「雲龍図屏風」(六曲一双のうち「右隻の第一扇から第三扇) フリーア美術館蔵(綴プロジェクト画像)

https://j-art.hix05.com/17sotatsu/sotatsu13.unryu.html
【「雲龍図屏風」は、「松島図屏風」とともに海外に流出した宗達の傑作。ワシントンのフリーア美術館が所蔵している。水墨画の名品だ。六曲一双の屏風絵で、左右の龍が互いに睨みあっている図柄だ。どちらも背景を黒く塗りつぶすことで、龍の輪郭を浮かび上がらせる工夫をしている。また、波の描き方に、宗達らしい特徴がある。(中略)
こちらは右隻の図柄(メモ:上図H図)。左の龍とは対照的な姿勢で、左隻の龍を睨んでいる。その表情にはどこかしらユーモアが感じられる。波の描き方は、細い線を組み合わせる手法をとっているが、この手法は光琳や抱一にそのまま受け継がれていった。全体として、墨の濃淡を生かした、ダイナミックさを感じさせる絵である。(紙本墨画 各150.6×353.6㎝ フリーア美術館) 】


 この宗達の「龍」(H図)も、等伯の「龍」(E図)の「厳しい目つき」ではなく、同じ等伯の「虎」(F図)の「優しげな眼つき」をも加味している雰囲気を有している。
 これらは、等伯が、織田信長、そして、豊臣秀吉の激動の時代を潜り抜けてきた冷厳な絵師の眼とすると、宗達は、慶長五年(一六〇〇)の「関ヶ原の戦い」以後の「パクス・トクガワーナ」(戦乱なき徳川時代)の夜明け前後の、闊達自在な絵師の眼ということになろう。
 そして、光琳は、その「パクス・トクガワーナ」(戦乱なき徳川時代)の頂点の「元禄文化」(「憂き世から浮世へ」の時代)の、華麗優美な絵師の眼ということになろう。
 ここに一つ付け加えることは、これらの「等伯から宗達・光琳」への橋渡しをした中心人物こそ、等伯より、二十歳前後若い、そして、宗達・光琳と続く「琳派の創始者」(書家・陶芸家・蒔絵師・芸術家・茶人)たる本阿弥光悦その人ということになろう。
nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:アート

四季花卉下絵古今集和歌巻(その十一) [光悦・宗達・素庵]

その十一 妙蓮寺の「立正安国論」(光悦筆)

洛中絵図・本法寺.jpg

B図:寛永後萬治前洛中絵図(部分図・京都大学附属図書館蔵)
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/libraries/uv-wrapper/uv.php?archive=metadata_manifest&id=RB00000143#?c=0&m=0&s=0&cv=0&xywh=30213%2C8303%2C3087%2C6111&r=270

上図(B図)の中央上部に「本法寺」、その左側(西)に「妙蓮寺」がある。ここに、光悦筆の「立正安国論 と「始聞仏乗義」とが所蔵されている。「本阿弥光悦略年表」(『光悦―琳派の創始者―(河野元昭編)所収)の元和五年(一六一九)の項に、次のような記述がある

【元和五年(一六一九) 六十二歳 本阿弥宗家九代光徳没する(一五五六~)。母の忌日にあたって『立正安国論』を、父の忌日にあたって『始聞仏乗義(儀)』を、それぞれ京都妙蓮寺の日源上人のために書く。加賀藩の長九郎左衛門連龍没する(一五四六~)。角倉素庵嵯峨に退隠して学究生活に入る。 】 

 本阿弥宗家(本阿弥一類=一族)の菩提寺は「本法寺」で、本阿弥家と本法寺との関係については、下記のアドレスが参考となる。

https://eishouzan.honpouji.nichiren-shu.jp/info/info.htm

 「本法寺」は日蓮宗の本山(由緒寺院、開祖=日親、開基=本阿弥清信)、この「妙蓮寺」は本門法華宗の大本山(開祖=日像、開基=柳屋仲興)で、共に、天正十五年(一五八七)の、豊臣秀吉の命(聚楽第の整備に伴う都市改造)により、現在地に移転したことに伴う、強制的な隣接関係ということになる。
 この「聚楽第の整備に伴う都市改造」については、次のアドレスが参考となる。

https://www.city.kyoto.lg.jp/kamigyo/page/0000012443.html

 この「妙蓮寺」には、「立正安国論(三九・一㎝×三五一・四㎝)」と「始聞仏乗義(三九・一㎝×八七六㎝)」とが、当時の、「妙蓮寺法印権大僧都日源上人依御所望書之」とし、前者には「元和五年七月五日」(光悦の父の忌日)、後者には「元和五年十二月二十七日」(母の忌日)とを記し、「大虚庵光悦(花押)」の署名したものを、今に遺している。

立正安国論一.jpg

※立正安国論 本阿弥光悦筆→『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』作品解説136
(巻頭の部分)

【立正安国論
「旅客来たりて嘆いて曰く、
近年より近日に至るまで、
天変地夭飢饉疫癘遍く天下に満ち、
広く地上にはびこる。
牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり。
死を招くの輩既に大半に超え、
之を悲しまざるの族敢えて一人も無し。
然る間或いは利剣即是の文を専らとして、
西土教主の名を唱え、
或いは衆病悉除の願を恃んで、
東方如来の経を誦し、」       】

立正安国論二.jpg

※立正安国論 本阿弥光悦筆→『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』作品解説136
(巻末の部分)

【いささか経文を披きたるに、世皆正に背き、
人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てて相去り、
聖人所を辞して還らず、
是を以て魔来たり鬼来たり、
災起こり難起こる、言わずんばあるべからず、
恐れずんばあるべからずと。

妙蓮寺
法印権大僧都日源上人
依御所望書之(御所望に依って之を書す。)
元和五年七五日
大虚庵 光悦(花押)             】

(「巻頭」と巻末との間に次の文章が続く=この図録は省略されている)

http://www.daianzi.com/ronbun/ronb0138.htm

【然りと雖も、唯肝胆をくだくのみにしていよいよ
飢疫にせまる。
乞客目に溢れ、死人眼に満てり。
屍を臥せて観となし、尸を並べて橋と作す。
観ればそれ二離璧を合わせ、
五緯珠を連ね、三宝世に在し、
百王未だ窮らざるに、この世早く衰え、
その法何ぞ廃れたる。
是何なる禍に依り、是何なる誤りに由るや。
主人の曰く、独り此の事を愁えて胸臆に憤す。
客来たりて共に嘆く、しばしば談話を致さん。
それ出家して道に入る者は、
法に依って仏を期する也。
しかるに今神術もかなわず、仏威も験無し。
つぶさに当世の体をみて、
愚にして後生の疑いを発す。
然れば則ち円覆を仰いで恨みを呑み。
方載に俯して慮りを深くす。つらつら微管を傾け、
いささか経文を披きたるに、世皆正に背き、
人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てて相去り、  】

https://ci.nii.ac.jp/naid/110008915196

本阿弥光悦筆《立正安国論》《始聞仏乗義》について
Rissho Ankoku-ron and Shimonbutsujo-gi by Hon'ami Koetsu
高橋 伸城(TAKAHASHI Nobushiro 立命館大学文学研究科)

【 (要点抜粋)
この寺院の再興が前政権者であった豊臣秀吉の都市計画によるものであることを考えると、日源の任期は政治的過渡期である慶長から元和に重なっていたと思われる。では日源と光悦の接点はどこにあったのか。この問題についても、寺院などに残る文書は多くを語らない。唯一手がかりとなるのが、光悦から妙蓮寺宛てに送られた手紙である。これは妙蓮寺の本光院に宛てられたものであり、光悦が昵懇にしていた神尾之直への伝言を託している。文中に膳所藩主の菅沼定芳に頼まれたという揮毫の話が出てくるが、定芳と光悦との交流を考えるとこの手紙が書かれたのは元和中期以降と推測できる。つまり、《立正安国論》等が書かれた時期にはすでに、妙蓮寺を通じて光悦と彼の友人間でメッセージの受け渡しを行うような関係が築かれていたのである。
 また、妙蓮寺と光悦とのつながりを考える上で、地理的な要素も考慮しなければなるまい。秀吉の聚楽第建設によって、天正十五年(一五八七)頃から洛中の多くの寺院が移転を余儀なくされた。京都の法華宗において中心的役割を果たしてきた本法寺も例外ではなく、秀吉の命が下ってから間もなく、一条堀川から現在の堀川寺之内へと移動している。同じように妙蓮寺も都市の再編成から逃れることはできず、天文年間以降そこにあった大宮西北小路を去ることになるのだが、その移転地は本法寺のちょうど真向いであった。堀川通りを挟んで、本法寺と妙蓮寺は対峙する形になったのである
(中略)
日源もしくは光悦がなぜ「立正安国論」と「始聞仏乗義」をテキストに選んだかについては、やはり法華宗内での両書の扱われ方と無関係ではない。「立正安国論」はもともと、日蓮が文応元年(一二六〇)に国家諫暁を目的として北条時頼に提出したものである。当時、鎌倉を中心に多発していた天変地異を法華経への違背によるものとし、日蓮は時頼に改宗を迫ったのだ。臨済宗に帰依していた時頼は当然のことながらこれを退け、日蓮の迫害に満ちた人生が始まるのである。時頼に提出された「立正安国論」の原本は行方が知れないが、日蓮当人による写しが中山法華経寺に残っている。法華宗の間では重書中の重書とされ、繰り返しその教義について講義されたのみならず、後に述べるように写本も数多くつくられた。光悦の書の題材に選ばれたのも不思議ではない。
 「始聞仏乗義」についても中山法華経寺に真蹟が残っており、元和頃に 最初に出版されたと考えられている『録内御書』にも、「立正安国(論」ともども収録されている((())。これは建治四年(一二七八)、日蓮から弟子の一人である富木常忍に宛てられた消息であり、内容は日蓮仏法の教義を巡る問答となっている。そして最後に、末法の凡夫がこの法華経の法門を聞けば、自身のみならず父母までをも成仏させることができると結んで終わっている。日蓮の直弟子の一人であった日興が「始聞仏乗義」を写していることなどからも、日蓮の生前からいかにこの書が大切に受け止められてきたかがわかるであろう。
(中略)
 日蓮提唱の文字曼荼羅を本尊としてきた法華宗においては、書の内容だけではなく、日蓮が残した文字の形そのものも写し取るべき神聖なものであった。現在、鎌倉の妙本寺に保管されている「立正安国論」の写本は寂静房日進の筆になるものと言われているが、日蓮の原典と比べてみると、祖師の筆跡まで忠実になぞられた臨書であることがわかる(図7・図8)。
 これら前例と照らし合わせると、光悦筆《立正安国論》《始聞仏乗義》の特異性がよりはっきりと浮かび上がってくる。それはつまり、光悦にそもそも日蓮の書を「写し取る」という意識はあったのかどうかという問題に言い換えられよう。
(中略)
 光悦の書と日蓮のそれとを比較してみると、形と内容その両面において光悦は原典から逸脱していると言えよう。多数に上る脱字や教義に関わる誤字などは、本来の写経では許されることではない。これは、光悦の書写態度の不遜や教義の無理解からくるというよりも、そもそも彼の目指すべきものが写経者のそれとは違ったと考える方が自然であろう。《立正安国論》や《始聞仏乗義》に見られる光悦の筆は、それが写経の枠にはまるものではなく、書の「作品」として鑑賞されるべきものであることをより強調してはいないだろうか。
(後略)    】

(本法寺の重要文化財) 『ウィキペディア(Wikipedia)』
重要文化財(国指定)
松尾社一切経3545巻(附 経箱38合)
奥書院及び玄関の間障壁画 38面 長谷川派
紙本金地著色松桜図 一之間 襖貼付8、天袋貼付4
紙本金地著色松桜図 二之間 襖貼付8
紙本金地著色松杉桜図 脇一之間 襖貼付6
紙本金地著色松桜図 玄関之間 襖貼付12
附指定:紙本著色柳図 脇二之間 襖貼付4
伏見天皇宸翰法華経(沈金箱入り)8巻
※立正安国論 本阿弥光悦筆
※始聞仏乗義 本阿弥光悦筆

(メモ)
※立正安国論 本阿弥光悦筆→『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』作品解説136
 紙本 一巻 三九・一㎝×三五一・四㎝ 元和五年(一六一九)

※始聞仏乗義 本阿弥光悦筆→『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』作品解説137
紙本 一巻 三九・一㎝×八七六㎝ 元和五年(一六一九)
nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:アート

四季花卉下絵古今集和歌巻(その十) [光悦・宗達・素庵]

その十 「本阿弥辻子」から「本法寺」へ ―光悦(書・作庭)そして等伯(像・画)―

本法寺マップ.jpg

(A図:「本阿弥辻子」(白峯神社)から「本法寺」(本阿弥家菩提寺)へ
https://www.meguru-kyoto.com/event/detail.html?id=32

 この図面(A図)の「中小川町」近辺が「本阿弥家」が居住していた「本阿弥辻子(横丁)」で、その小川通りを行くと、「妙顕寺」そして、本阿弥家の菩提寺の「本法寺」に至る。

洛中絵図・本法寺.jpg

B図:寛永後萬治前洛中絵図(部分図・京都大学附属図書館蔵)
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/libraries/uv-wrapper/uv.php?archive=metadata_manifest&id=RB00000143#?c=0&m=0&s=0&cv=0&xywh=30213%2C8303%2C3087%2C6111&r=270

 これ(B図)は、寛永(一六二四~一六四五)後、萬治(一六五八~一六六一)前の、京都(上京区)の部分図である。この下辺の「本阿弥」と表示されている(何軒か表示されている)ところが、「本阿弥辻子」で、その上方に、「本法寺」(右に「妙顕寺」、左に「妙蓮寺」)がある。
 この「本法寺」の、本堂の扁額は「本阿弥光悦筆」である。

https://kyotofukoh.jp/report287.html

本法寺・額字.jpg

【本堂扁額「本法寺」は、本阿弥光悦筆による。】

 ここには、光悦の「作庭」の「三巴の庭」も下記のアドレスで紹介されている。

https://otogoze.exblog.jp/6550753/

三巴の庭.jpg

【三巴の庭】手前の半円形の石を二つ合わせた円石は「妙」を表わし蓮池と合わせて「妙法蓮華経」となる(メモ:手前の二つ合わせた円石は「日」、そして、「蓮池」は「蓮」の、「日蓮」とも読める。また、この「蓮池」を「八つ橋の池」で紹介しているものもある=(『光悦―琳派の創始者―(河野元昭編)所収))。

この庭は全体が法華経の宇宙観を表わし、その中ほどには十本の切石を円形に組んで縁石にした池が造られ、その池の中には白蓮が植えられています。

蓮池を縁取る十本の切石で、法華経(妙法蓮華経)を最上の経典とする天台宗の宗祖である天台智顗(ちぎ)大師の著書「法華玄義十巻」を表現して組み「法華経」を意味し、
 また「十界勧請(仏界・菩薩界・縁覚界・声聞界・天人界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界)」「三世十方(過去・現在・未来の三世と東・西・南・北・北東・北西・南東・南西・上・下の十方)」という法華経の宇宙観が表わされています。

つまり法華経においては「十」という数が重要な意味を持つのです。

 そして経題(妙法蓮華経)に含まれている蓮華(白蓮)は法華経の核となる存在であり、釈迦さらには日輪をも象徴しています。
 法華経のサンスクリット(梵語)の原典名「サッダルマ・ブンダリカ・スートラ」を直訳すると「何よりも正しい白蓮のような教え」という意味になります。

白蓮は池底の泥濘から花茎を伸ばし、やがて水面に清浄無垢な白い花を咲かせる。妙法蓮華経(法華経)の教えは最上のすぐれたものであり、美の極致ともいうべき蓮華、中でも最も秀でた白蓮に託してその至上性を標榜しているのです。



蓮下絵断簡.jpg

【蓮下絵百人一首和歌巻断簡】 個人蔵 俵屋宗達の蓮の下絵に光悦が和歌を書き散らした。

https://blog.goo.ne.jp/38_gosiki/e/e898fa686f05612b4dc583c5a6d3eb65

等伯像.jpg

境内に建つ等伯の銅像(メモ:後方の松は「本阿弥光悦手植えの松」か?)

長谷川等伯は1571(元亀2)年頃、故郷の七尾の菩提寺の本山だった本法寺を頼り、京都に出てきました。七尾ですでに画業で名を挙げていましたが、京都で絵の腕にさらに磨きをかけようとしたのでしょうか。現在も本法寺に隣接する塔頭の教行院(きょうぎょういん)に生活の拠点を得て、当時の最先端都市だった京や堺で絵を学びます。並行して千利休ら有力者とのパイプを築いていったと考えられています。

https://media.thisisgallery.com/works/hasegawatohaku_06

仏涅槃図.jpg

仏涅槃図(長谷川等伯筆)・本法寺蔵(メモ:光悦の寄進した「法華題目抄: 三九・七㎝×一四八八㎝」と「如説修行抄: 三九・七㎝×一四七二㎝」とも、長大な一巻である。)
【作品解説 
東福寺、大徳寺所蔵のものと並び、京都の三大涅槃図に数えられる作品です。縦約10メートル、横約6メートルという巨大な作品で、首を上下左右に動かさなければ全体を見ることができません。この作品は完成後に宮中に披露された後、等伯が深く信頼を寄せていた本法寺に寄進されました。釈迦の入滅と、その死を嘆く弟子や動物たちが集まっている様子が、鮮やかな色合いで表情豊かに描かれています。裏面には、等伯が信仰していた日蓮宗の祖師たちの名、本法寺の歴代住職、等伯の親族、そして長谷川一門を担う存在として期待を寄せていた長男・久蔵たちの供養名が記されています。等伯の信仰の深さと、一族への祈りが込められた作品といえるでしょう。】

(本法寺の重要文化財) 『ウィキペディア(Wikipedia)』

重要文化財(国指定)
長谷川等伯関係資料
絹本著色日堯像(長谷川信春(等伯)筆)
絹本著色日通像(長谷川等伯筆)
紙本墨画妙法尼像(長谷川等伯筆)
紙本著色仏涅槃図(長谷川等伯筆)
等伯画説(日通筆)
附:日通書状
附:法華論要文(日蓮筆)
附:本尊曼荼羅(日親筆)
絹本著色日親像 伝狩野正信筆 - 2017年度指定[4][5]。
紙本金地著色唐獅子図 四曲屏風一隻[6][7]
金銅宝塔 応安三年(1370年)銘
紙本墨画文殊寒山拾得像[8] 3幅(文殊:啓牧筆、寒山拾得:啓孫筆)
絹本著色蓮花図(伝・銭舜挙筆)
絹本著色群介図
紫紙金字法華経(開結共)10巻
附:花唐草文螺鈿経箱
附:正月十三日本阿弥光悦寄進状
※法華題目抄(本阿弥光悦筆)
※如説修行抄(本阿弥光悦筆)

(周辺メモ)

※法華題目抄(本阿弥光悦筆)→『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』作品解説138
 紙本 一巻 三九・七㎝×一四八八㎝ 

※如説修行抄(本阿弥光悦筆)→『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』作品解説139
紙本 一巻 三九・七㎝×一四七二㎝ 
nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:アート

四季花卉下絵古今集和歌巻(その九) [光悦・宗達・素庵]

その九 蔦

四季花卉下絵古今集和歌巻77-1.jpg

「尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館・読売新聞社編)」
所収「1-01 俵屋宗達下絵・本阿弥光悦筆 四季草花下絵古今和歌巻・重要文化財・畠山記念館蔵」(「四季花卉下絵古今集和歌巻」=『光悦……琳派の創始者(河野元昭編)』所収「書画の二重奏への道……光悦書・宗達画和歌巻の展開(玉蟲敏子稿)」) 三三・七×九一八・七

    題しらず
882 天の河雲のみをにてはやければ光とどめず月ぞ流るる(読人知らず)
(天の川は雲の「水脈(みを)=水路」で流れが早いので、月も光を留めず流れて行く。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

882 天河(あまのかは)雲濃(の)三於(みを)尓(に)天(て)ハ(は)や介(け)連(れ)者(ば)光と々(ど)め須(ず)月曾(ぞ)な可(が)る々

※雲濃(の)三於(みを=雲の水脈。雲の水路。天の川を雲の川と見立てる。
※月曾(ぞ)な可(が)る々=月ぞ流るる。天の川の流れの早い水脈の中を月が流されてゆくという見立ての一首。この月にも、月日の「月」を掛けているの意に解したい。

 この「和歌巻」の最終章の、この「月」の歌の一首は、それまでの、「877(読人知らずの「月」の歌)、 878(読人知らずの「月」の歌)、 879(在原業平の「月」の歌)、 880(紀貫之の「月」の歌)、 881(紀貫之の「月」の歌)」を締め括るとともに、巻頭の次の「天の川」の歌に対応している。ここで、その巻頭の一首と、この巻末の一首を並列して掲げて置きたい。

(巻頭の一首)
863  わが上に露ぞ置くなる天の川とわたる舟のかいのしずくか(読人知らず)
(私の体が濡れているのは露が降りているのだそうだ。それならその露は天の川の渡し場を彦星が渡る舟の櫂から落ちた雫なのであろうか。)

(巻末の一首)
882  天の河雲のみをにてはやければ光とどめず月ぞ流るる(読人知らず)
(天の川は雲の「水脈(みを)=水路」で流れが早いので、月もまさに「※『光陰矢の如し』さながらに」光を留めず流れて行く。)

 この「和歌巻」の末尾を飾る一首の「歌意」に、「※『光陰矢の如し』さながらに」の、この修飾語を加えて置きたい。


(参考) 「四季花卉下絵古今集和歌巻」(「その一~その三」「その四~その六」「その七~その九)

四季花卉下絵古今集和歌巻一.jpg
「四季草花下絵古今和歌巻」(その一・その二・その三)

四季花卉下絵古今集和歌巻二.jpg
「四季草花下絵古今和歌巻」(その四・その五・その六)

四季花卉下絵古今和歌巻.jpg
「四季草花下絵古今和歌巻」(その七・その八・その九)

 この「四季草花下絵古今和歌巻」については、下記アドレスの、「宗達の金銀泥絵と明代の花卉図について―畠山記念館蔵《重文 金銀泥四季草花下絵古今集和歌巻》の分析を中心として―(仲町啓子稿)」の全文に接することが出来る。

https://ci.nii.ac.jp/naid/120006250417

「宗達の金銀泥絵と明代の花卉図について―畠山記念館蔵《重文 金銀泥四季草花下絵古今集和歌巻》の分析を中心として―(仲町啓子稿)」

 この論稿の、巻末(蔦)と巻頭(竹)との部分を抜粋して置きたい。

巻末(蔦)―抜粋―

【『蔦』
 最後の大団円に位置するのが蔦(挿図29)である。竹(新春)、梅(早春)、躑躅(夏)に続いて秋の季節を表すものと思われる。ただ秋を示すだけなら、ことさら蔦を選択する必要もなかったように思われる。むしろ薄や萩などの秋草あるいはそれに月などを取り合わせるほうが、よほどふさわしいように思われる。蔦は『伊勢物語』第九段宇津山の場面に因んだモチーフとして、少なくとも室町時代より表されているが、そこでは「紅葉の蔦」ではない。それなのに何故ここで「秋」のモチーフとして蔦が選択されたのであろうか。ちなみに《ベルリン本》では、蔦は夏に割り当てられている。実はこの蔦の構図こそ、宗達が最も挑戦したかった部分であった。そこには全体の構図的バランスを考えた、宗達ならではの意図があったのではないかと推測する。
(略)
《畠山本》は画面が広いせいか、最も複雑に多くの要素が盛り込まれる。躑躅の上方に垂れ下がる小さめの葉に始まり、続いて急にクローズアップされた葉が濃淡をつけられつつ描かれる。そこでは蔓や葉柄がまるでスウィングしているかのような独特なリズムを奏でている。こうした濃淡をつけられた「面的な葉が画巻の上端から下がる構図」の採用を宗達に促したものこそ、徐渭に代表される何らかの中国の花卉雑画巻(挿図14、挿図36)を実見した体験であったと思われる。横長の画面に蔓植物を描くということでは、滋賀・都久夫須麻神社の長押上の小壁に描かれた狩野派の《藤図》などの例は見られるが、巻物という画面形式、没骨法、画面上端から下へ向けての動感を強調した構図、濃淡を付けられた面を交錯させる構成、などいくつかの重要な造形的な要素が、右記の《藤図》には欠落している。しかもそれらの諸要素こそ、宗達が最も見せたかったものであり、巻物の最後のクライマックスで蔦が選ばれた理由でもあった。  】(「宗達の金銀泥絵と明代の花卉図について―畠山記念館蔵《重文 金銀泥四季草花下絵古今集和歌巻》の分析を中心として―(仲町啓子稿)」)

巻頭(竹)―抜粋―

四季花卉下絵古今集和歌巻70.jpg

【『竹』
《畠山本》の巻頭に描かれるのは竹(挿図1)である。大小十一本の竹幹のみを金泥に濃淡をつけながら描き出している。竹のモチーフは、《小謡本》(挿図2)、《百番本》には二図(挿図3、挿図4)、《花卉風景図扇面》(挿図5)、《秋草本》(挿図6)、《ベルリン本》(挿図7)、《隆達節巻》(挿図8)に登場する。《桜山吹本》以外はすべてに取り上げられていることになる。
(略)
宗達はすでに自然物の一部をトリミングした構図を採用しているが、それを巻物形式に応用するにはかなりの飛躍が必要であるように思われる。徐渭ないしはそれに類した作品を見知っていて、それをヒントにして奇抜な構図を生み出したと考えたい。ただ、宗達はそれを文様風な構成へと変えて、巧妙にも原画とは異なった印象の画面にしているため、原図様がわかりにくくなっていることも事実である。】(「宗達の金銀泥絵と明代の花卉図について―畠山記念館蔵《重文 金銀泥四季草花下絵古今集和歌巻》の分析を中心として―(仲町啓子稿)」)
nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:アート

四季花卉下絵古今集和歌巻(その八) [光悦・宗達・素庵]

その八「蔦と躑躅・糸薄」

四季花卉下絵古今集和歌巻76-1.jpg

四季花卉下絵古今集和歌巻9-a.jpg

「尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館・読売新聞社編)」
所収「1-01 俵屋宗達下絵・本阿弥光悦筆 四季草花下絵古今和歌巻・重要文化財・畠山記念館蔵」(「四季花卉下絵古今集和歌巻」=『光悦……琳派の創始者(河野元昭編)』所収「書画の二重奏への道……光悦書・宗達画和歌巻の展開(玉蟲敏子稿)」) 三三・七×九一八・七

    題しらず
879 おほかたは月をもめでじこれぞこのつもれば人の老いとなるもの(在原業平)
(今の気持ちをおおまかに言えば、月をも愛でる気がしない。この月こそが、月日を重ねると、積もり積もって、老いたということを感じさせるが故に。)

   月おもしろしとて凡河内の躬恒がまうできたりけるによめる
880 かつ見れどうとくもあるかな月影のいたらぬ里もあらじと思へば(紀貫之)
(月を見て「素晴らしい」と思う一方で、「そうでもない」という感じがするのは、この月の光がささない里がないように、私にだけ特別でないと思うが故に。)

   池に月の見えけるをよめる
881 ふたつなきものと思ひしを水底に山の端ならでいづる月影(紀貫之)
(またとない美しい月だから二つはないものと思っていたのに、山上ではなく、水底にも、美しい月の姿が映し出されたよ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

879 大方盤(は)月をもめ天(で)じ是曾(ぞ)此(この)徒(つ)も禮(れ)盤(ば)人濃(の)老(おい)登(と)なるも乃(の)

※大方盤(は)=大方は。普通のことならば。たいていは。
※月をも=人が賞美する月をも。この月は、空の月と年月の月を掛けている。

880 可(か)徒(つ)見連(れ)どう登(と)久(く)も安(あ)類(る)可(か)那(な)月影能(の)以(い)多(た)らぬ里も安(あ)らじ登(と)於(お)も遍(へ)半(ば)

※可(か)徒(つ)見連(れ)ど=かつ見れど。すばらしいと見る一方で
う登(と)久(く)も安(あ)類(る)=うとくもある。疎くもある。そうでもない。
※※月おもしろしとて凡河内の躬恒がまうできたりける=この月が自分(たち)だけのためにこうして美しく輝いているならいいのに、という気分を詠ったものだろうが、躬恒が女の所に行くついでに、ちょっと貫之の所に顔を出したという状況も考えられなくもなく、それをからかっているようにも見える。

881 婦(ふ)多(た)徒(つ)那(な)幾(き)物(もの)とおも日(ひ)しを水底尓(に)山乃(の)ハ(は)なら天(で)い徒(づ)る月可(か)遣(げ)

※婦(ふ)多(た)徒(つ)那(な)幾(き=二つ無き。月が一つしかない意と、またとなく美しいの意とを掛けている。
※山乃(の)ハ(は)なら天(で)=山の端(は)ならで。山の端でない所に。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/turayuki.html

【紀貫之(きのつらゆき) 貞観十四?~天慶八?(872-945)
生年については貞観十年・同十三年・同十六年など諸説ある。下野守本道の孫。望行(もちゆき)の子。母は内教坊の伎女か(目崎徳衛説)。童名は阿古久曽(あこくそ)と伝わる(紀氏系図)。子に後撰集の撰者時文がいる。紀有朋はおじ。友則は従兄。
幼くして父を失う。若くして歌才をあらわし、寛平四年(892)以前の「寛平后宮歌合」、「是貞親王家歌合」に歌を採られる(いずれも机上の撰歌合であろうとするのが有力説)。昌泰元年(898)、「亭子院女郎花合」に出詠。ほかにも「宇多院歌合」(延喜五年以前か)など、宮廷歌壇で活躍し、また請われて多くの屏風歌を作った。延喜五年(905)、古今和歌集撰進の勅を奉ず。友則の没後は編者の中心として歌集編纂を主導したと思われる。延喜十三年(913)、宇多法皇の「亭子院歌合」、醍醐天皇の「内裏菊合」に出詠。
官職は御書所預を経たのち、延喜六年(906)、越前権少掾。内膳典膳・少内記・大内記を経て、延喜十七年(917)、従五位下。同年、加賀介となり、翌年美濃介に移る。延長元年(923)、大監物となり、右京亮を経て、同八年(930)には土佐守に任ぜられる。この年、醍醐天皇の勅命により『新撰和歌』を編むが、同年九月、醍醐天皇は譲位直後に崩御。承平五年(935)、土佐より帰京。その後も藤原実頼・忠平など貴顕から機会ある毎に歌を請われるが、官職には恵まれず、不遇をかこった。やがて周防の国司に任ぜられたものか、天慶元年(938)には周防国にあり、自邸で歌合を催す。天慶三年(940)、玄蕃頭に任ぜられる。同六年、従五位上。同八年三月、木工権頭。同年十月以前に死去。七十四歳か。
原本は自撰と推測される家集『貫之集』がある。三代集(古今・後撰・拾遺)すべて最多入集歌人。勅撰入集計四百七十五首。古今仮名序の作者。またその著『土佐日記』は、わが国最初の仮名文日記作品とされる。三十六歌仙の一人。 】

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/mitune.html

【凡河内躬恒(おうしこうちのみつね) 生没年未詳
父祖等は不詳。凡河内(大河内)氏は河内地方の国造。
寛平六年(894)二月、甲斐少目(または権少目)。その後、御厨子所に仕える。延喜七年(907)正月、丹波権大目。延喜十一年正月、和泉権掾。延喜二十一年正月、淡路掾(または権掾)。延長三年(925)、任国の和泉より帰京し、まもなく没したと推定される。
歌人としては、昌泰元年(898)秋の亭子院女郎花合に出詠したのを始め、宇多法皇主催の歌合に多く詠進するなど活躍し、古今集の撰者にも任ぜられた。延喜七年九月、大井川行幸に参加。延喜十三年三月、亭子院歌合に参加。以後も多くの歌合に出詠し、また屏風歌などを請われて詠んでいる。古今集には紀貫之(九十九首)に次ぐ六十首を入集し、後世、貫之と併称された。貫之とは深い友情で結ばれていたことが知られる。三十六歌仙の一人。家集『躬恒集』がある。勅撰入集二百十四首。 】

上記三首の、一番目の「879 おほかたは月をもめでじこれぞこのつもれば人の老いとなるもの(在原業平)」は、そのものずばりで、『伊勢物語第八十八段・月をもめでじ』に出て来る。

【むかし、いと若きにはあらぬ、これかれ友だちども集りて、月を見て、それがなかにひとり、
   おほかたは月をもめでじこれぞこの
     つもれば人の老いとなるもの     】(『伊勢物語第八十八段・月をもめでじ』)

 そして、どことなく、この『伊勢物語第八十八段・月をもめでじ』の詞書の、「いと若きにはあらぬ、これかれ友だちども集りて」のような場面が連想され、それは、「在原業平(八二五年生れ)・紀貫之(八七二年の生れか?)・凡河内躬恒(紀貫之と同時代の歌人)」らの、架空の「歌会」の一場面のような、そんな雰囲気が、この『古今和歌集』の三首から感じ取れるのである。

 『古今和歌集』の撰者は、「紀友則・紀貫之・凡河内躬恒・壬生忠岑」の四人であるが、その編纂の中心的な歌人は、紀貫之(紀友則は、その編纂過程で没しているか?)ということになろう(在原業平は、その前の時期の「六歌仙(僧正遍昭・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・、大友黒主の六人)」の一人)。
 そして、『伊勢物語』も、在原業平の作ではなく、この紀貫之ではないかという説(「折口信夫説」など)も、『古今和歌集』と『伊勢物語』との一体性という雰囲気から肯定的に解することは、否定的に解するよりも、より受け入れ易い感じなのである。

大内裏周辺.jpg

A図 平安京条坊図(大内裏周辺)

http://gekkoushinjyu.kt.fc2.com/heian/kyou.html

 この「平安京条坊図(大内裏周辺)」関連については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-11-06

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-10-23

御所周辺.jpg

B図 平安京内裏跡と現在の京都御所周辺

https://mapandnews-japan.com/26kyotogosho_autumn/demo.html?csv=poi.csv

 A図の「紀貫之邸」(「四坊・一条と二条間」)は、B図の「仙洞御所」の敷地内にある。

https://hellokcb.or.jp/bunka/pdf/geihinkan-map_20170301_no4_1_a.pdf

https://kyotofukoh.jp/report20-1.html

 同様に、A図の「在原業平邸」(「四坊・三条と四条間」)、「藤原公任邸(「三坊・四条と五条の間)そして「藤原俊成邸」(四坊・五条と六条の間)を、上記のアドレスのマップを頼りして探索していくと、「光悦書・宗達画和歌巻」(『古今和歌集』から『新古今和歌集』までの八代勅撰和歌集)の、その全貌の一端が見えてくる。
 そして、「業平・貫之・公任・俊成・定家」の「平安時代」を下って、「光悦・宗達」の「関ヶ原合戦」後の、「江戸初期・慶長時代」の、その「光悦書・宗達画和歌巻」の陣頭指揮をとった「本阿弥光悦」の仕事場(「大虚庵)」)は、このB図の、中央に位置する「楽美術館」の上方の「小川通り」上方の「白峯神社」の、その東側の横丁の「本阿弥辻子(ずし・つし)」にある。

http://youryuboku.blog39.fc2.com/blog-entry-211.html?sp

参考) 「四季花卉下絵古今集和歌巻」(「その一~その三」「その四~その六」「その七~その九)

四季花卉下絵古今集和歌巻一.jpg
「四季草花下絵古今和歌巻」(その一・その二・その三)

四季花卉下絵古今集和歌巻二.jpg
「四季草花下絵古今和歌巻」(その四・その五・その六)

四季花卉下絵古今和歌巻.jpg
「四季草花下絵古今和歌巻」(その七・その八・その九)

本阿弥家旧跡.jpg

C図「楽美術館」(アクセス)
https://www.raku-yaki.or.jp/museum/access.html

 上記アドレスの「楽美術館」の「アクセス」マップに、「本阿弥家旧跡」が図示されている。この「本阿弥家旧跡」関連については、下記のアドレスの「コミュニケーション行為論(六)─文化社会学へのいざない─(田中義久稿)」が参考となる。

https://hosei.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=21250&item_no=1&page_id=13&block_id=83

「コミュニケーション行為論(六)─文化社会学へのいざない─(田中義久稿)」(抜粋)

【 京都市上京区油小路通り五辻下る東側―1558年(永禄元年),本阿弥光悦(六郎左衛門,六左衛門,法名日豫,太虚庵,徳友斎)は,この地に生まれた。その地は,また,上京区小川今出川上る西側とも呼ばれ,上京の地域を東西に走る今出川通りを,それぞれ南北に横切る小川通りから油小路通りまでをつなぐ「本阿弥辻子」という地域であった。
 「辻子」は,「ずし」もしくは「つし」と訓(よまれ),「細道」・「小路」・「横町」を意味し,十世紀の平安京に既に存在していたが,それは,平安京の本来の「条坊制」に基づく道路ではなくて,とくに,平安京の北郊の発達にともない,新たに開発された東西の道路なのであった。ちなみに,『広辞苑』(第六版)の下巻(「た―ん」)に,「辻子」という項目は見当らず,「辻」の関連においても説明されていない。かえって,上巻(「あ―そ」)の方に,「ずし」(辻)⇨つじ(字類抄)という簡略な説明があり,その5項目後ろのところに,「ずし」(途子・図子)の項が存在し,「よこちょう。路地。伊京集『図子,小路也,或いは通次に作る』」という説明が付されている。
 実際には,前述の油小路通りを,今出川通りとの交差点から北に100m余り歩いた場所に,「上京区文化振興会」の手に成る「本阿弥光悦屋敷跡」の立札がたてられており,そこには「この地は,足利時代初期より,刀剣の研(とぎ)・拭(ぬぐひ)・目利(き)のいわゆる三事を以て,世に重きをなした本阿弥家代々の屋敷跡として,『本阿弥辻子』の名を今に遺している」と,説明されているのであった。
私が2016年秋に実踏した限りでは,この立札―その脚下には,白い玉砂利が敷きつめられ,石碑と井戸がしつらえられていた―の南側に,たしかに東の小川通りに向かって道幅一間ばかりの細い道が存在していたけれども,小川通りにまで突き抜けているようには思われず,今日では,京都の市街地によく見られる「路地」(ろうじ)になっているようであった。
 「本阿弥辻子」は,今日の町名で言えば,上京区実相院町に所在する。そこは,室町幕府の将軍御所である「室町第」(別名,花の御所)の真西400mばかりの近さ,である。この町名は,天台宗寺門派(比叡山延暦寺を本山とする山門派に対立する,円珍を派祖として園城寺を総本山とする一派)の門跡寺院,実相院(1229年,近衛基通の孫,静基僧正の開山)に由来するけれども,1411年に,足利三代将軍義満の弟,義運僧正が住持の際に,この寺は現在地の左京区岩倉に移っている。「室町第」は,今日の上京区役所の東側,築山北半町から南半町にかけての地域に所在したが,その周囲には,近衛殿表町,同北口町,一条殿町,徳大寺殿町などが存在し,また,これらの周辺に,中御霊図子町,今図子町,常盤井図子町や一条横町など,「辻子」に類縁する町名・地名が残っている。
(中略)
私は,本阿弥光悦の「京屋敷」の旧跡から本阿弥家の菩提寺である本法寺まで歩きながら,多くの「金襴」,「金糸・銀糸」,「金箔」の工房の家々を,見出した。それらの家々の戸口の軒先きには,一様に,祇園祭の山鉾巡行の先頭に立つ「長刀鉾」の御札が,貼られているのであった。 さて,とりあえず,光悦をめぐる本阿弥家の系譜―「家系図」―を辿るならば,第1図のようになる。周知のように,資・史料としての「家系図」は,時系列のそれぞれの段階で「混同」や「粉飾」がまぎれ込む場合があり,この系譜4 4も,当然のこととして,今後の研究の深化に応じて,さらに正確なものとされるべき性格のものである。

光悦系譜図.jpg

(以下略) 】「コミュニケーション行為論(六)─文化社会学へのいざない─(田中義久稿)」

nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:アート

四季花卉下絵古今集和歌巻(その七) [光悦・宗達・素庵]

その七「躑躅・糸薄(その七のAとB))」

四季花卉下絵古今集和歌巻7-a.jpg
(その七のA「躑躅と糸薄」)

四季花卉下絵古今集和歌巻7-ba.jpg
(その七のB「躑躅・糸薄(続き)」)
「尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館・読売新聞社編)」
所収「1-01 俵屋宗達下絵・本阿弥光悦筆 四季草花下絵古今和歌巻・重要文化財・畠山記念館蔵」(「四季花卉下絵古今集和歌巻」=『光悦……琳派の創始者(河野元昭編)』所収「書画の二重奏への道……光悦書・宗達画和歌巻の展開(玉蟲敏子稿)」) 三三・七×九一八・七

   方たがへに人の家にまかれりける時に、
   あるじのきぬをきせたりけるを、
   あしたに返すとてよみける
876 蝉の羽の夜の衣は薄けれど移り香濃くも匂ひぬるかな(紀友則)
(蝉の羽のような夜着は薄いけれど、移り香は濃く匂っていました。)

   題しらず
877 遅くいづる月にもあるかなあしひきの山のあなたも惜しむべらなり(読人知らず)
(遅く出てくる月であることだ。きっと山の向こう側も月を惜しんでいるに違いない。)

   題しらず
878 我が心なぐさめかねつ更級やをばすて山に 照る月を見て(読人知らず)
(この心を静めることができない。姥捨山に照る月を見ていると。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

876 世三(せみ)乃(の)羽(は)濃(の)よる能(の)衣(ころも)ハ(は)う須(す)介(け)連(れ)ど移(うつり)香(か)こ久(く)も尓(に)保(ほ)日(ひ)ぬる哉

※※方たがへ(「詞書」の意など)=外出の際、「方違へ」と言って、方角の吉凶を占い、悪い方角を避けて一晩別の方向の家に泊めてもらう風習があった。その家の主人に借りた夜着を翌朝返す時、心遣いに感謝をこめた歌。

877 遅(おそく)出類(いづる)月尓(に)も有(ある)可(か)那(な)安(あ)し日(び)支(き)能(の)山濃(の)安(あ)な多(た)も於(お)し無(む)べら也

※月尓(に)も有(ある)可(か)那(な)=月にもあるかな。月であるなあ。
※安(あ)し日(び)支(き)能(の)=あしびきの。山の枕詞。
※於(お)し無(む)べら也=惜しむべらなり。惜しんでいるようだ。

878 我(わが)心な久(ぐ)左(さ)め可(か)年(ね)徒(つ)更級や祖母(をぼ)捨(すて)山に照(てる)月を見天(て)

※更級(さらしな)=更科とも。長野県千曲市 (ちくまし) 南部の地名。姨捨山 (おばすてやま) 伝説や田毎 (たごと) の月などで有名。
※祖母(をぼ)捨(すて)山=姨捨山(をぼすてやま・うばすてやま)。「姥捨山」とも書く。長野県千曲 (ちくま) 市にある冠着 (かむりき) 山の別名。標高1252メートル。古くから「田毎 (たごと) の月」とよばれる月見の名所。更級 (さらしな) に住む男が、山に捨てた親代わりの伯母を、明月の輝きに恥じて翌朝には連れ戻しに行ったという、姨捨山伝説で知られる。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tomonori.html

【  紀友則(きのとものり) 生没年未詳 
 宮内少輔紀有朋の子。貫之の従兄。子に淡路守清正・房則がいる(尊卑分脈)。
四十代半ばまで無官のまま過ごし(後撰集)、寛平九年(897)、ようやく土佐掾の官職を得る。翌年、少内記となり、延喜四年(904)には大内記に任官した。歌人としては、宇多天皇が親王であった頃、すなわち元慶八年(884)以前に近侍して歌を奉っている(『亭子院御集』)ので、この頃すでに歌才を認められていたらしい。寛平三年(891)秋以前の内裏菊合、同四年頃の是貞親王家歌合・寛平御時后宮歌合などに出詠。壬生忠岑と並ぶ寛平期の代表的歌人であった。延喜五年(905)二月二十一日、藤原定国の四十賀の屏風歌を詠んだのが、年月日の明らかな最終事蹟。おそらくこの年、古今集撰者に任命されたが、まもなく病を得て死去したらしい。享年は五十余歳か。紀貫之・壬生忠岑がその死を悼んだ哀傷歌が古今集に見える。
 古今集に四十七首収録(作者名不明記の一首を含む)。その数は貫之・躬恒に次ぐ第三位にあたる。勅撰入集は総計七十首。家集『友則集』がある。三十六歌仙の一人。小倉百人一首に歌を採られている。 】

 ここは『伊勢物語』の「東下り」(第7段から第9段)、殊に、その第8段(信濃)などを背景にあるもののように解したい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-11-27

第7段 東下り(伊勢・尾張)(いとゞしく過ぎ行く方の恋しきにらやましくもかへる浪かな)
第8段 東下り(信濃)(信濃なる浅間の嶽にたつ煙をちこち人の見やはとがめぬ)
第9段 東下り(八橋)(唐衣きつゝ馴にしつましあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ)
     同(宇津)(駿河なる宇津の山辺のうゝにも夢にも人に逢はぬなりけり) 
     同(富士)(時しらぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらむ)
     同(隅田川)(名にしおはゞいざこと問は都鳥むわが思ふ人はありやなしやと)

https://ise-monogatari.hix05.com/1/ise008.asama.html

伊勢・浅間山.jpg
『伊勢物語(第8段 東下り・信濃)』(住吉如慶筆)

【むかし、をとこありけり。京や住みうかりけむ、あづまのかたにゆきて、住み所もとむとて、友とする人ひとりふたりして行きけり。信濃の国浅間の嶽にけぶりの立つを見て、        
   信濃なる浅間の嶽にたつ煙をちこち人の見やはとがめぬ     】(『伊勢物語(第8段 東下り・信濃)』)

『新古今和歌集(巻第十・羇旅歌)』に、この在原業平の「浅間山」の歌が収載されている。

   東(あづま)の方(かた)にまかりけるに、浅間の嶽(たけ)
    に煙(けぶり)の立つを見てよめる
903 信濃なる淺間の嶽に立つけぶりをちこち人(びと)の見やはとがめぬ(在原業平朝臣『新古今集』)
(信濃の国にある浅間山に立ちのぼる噴煙は、遠くの人も近くの人も、どうして目を見張ら
ないことであろうか、誰しも目を見張ることであろう。)


(参考) 「四季花卉下絵古今集和歌巻」(「その一~その三」「その四~その六」「その七A・B)

四季花卉下絵古今集和歌巻一.jpg
「四季草花下絵古今和歌巻」(その一・その二・その三)

四季花卉下絵古今集和歌巻二.jpg
「四季草花下絵古今和歌巻」(その四・その五・その六)

四季花卉下絵古今和歌巻.jpg
「四季草花下絵古今和歌巻」(その七・その八・その九)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-11-27


上記のアドレスの「コメント」の欄で、次のように記した。

【 https://www.jisyameguri.com/event/cyomyoj

このサイトで「牛図」(宗達筆、・光広賛)が見られる。ここに、何と「伝俵屋宗達墓」の写真もアップされていた。この種のものは、数ある「活字情報・ネット情報」でも、管見の限り、このサイトで初めての感じ。
関連して、『ウィキペディア(Wikipedia)』を見ると、そもそもは、禁裏(御所)の近くにあったのを、「1673年(寛文13年)禁裏に隣接しているという理由で、現在の地に移転した」とある。】

 この頂妙寺(現: 京都府京都市左京区大菊町)の「伝俵屋宗達墓」について、終戦直後の、昭和二十三年(一九四八)に刊行された『宗達の水墨画(徳川義恭著・座右宝刊行会刊)で紹介されているようである。

https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=114985763

徳川義恭・文庫版.jpg
文庫版『宗達の水墨画(徳川義恭著・座右宝刊行会刊)

【徳川 義恭(とくがわ よしやす、1921年(大正10年)1月18日 - 1949年(昭和24年)12月12日)は、日本の美術研究者、装幀家。尾張徳川家の分家の当主である男爵・徳川義恕の四男。母方の祖父・津軽承昭は弘前藩主。長兄・徳川義寛は昭和天皇の侍従・侍従長。姉・祥子の夫は北白川宮永久王。次兄・義孝(津軽英麿の養子となる)の娘は、常陸宮正仁親王妃華子で、義恭の姪にあたる。夫人・雅子(のりこ)は田安徳川家の徳川達成の長女。
1942年(昭和17年)、学習院高等科を卒業し、東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学。同年7月1日、三島由紀夫や東文彦と共に同人誌『赤絵』を創刊した。同誌および、1944年(昭和19年)10月発行の三島の処女作品集『花ざかりの森』(七丈書院)の装幀を担当した。
 著書は1941年(昭和16年)に私家版の編著『暢美』を、1948年(昭和23年)に『宗達の水墨画』(座右宝刊行会(座右寳叢書))がある。
 亜急性細菌性心内膜炎で夭折した。享年28。三島は人となりを偲んで、短篇小説『貴顕』]を書いている。
 三島との往復書簡が、数通だが『三島由紀夫十代書簡集』(新潮社、のち新潮文庫)に収められている。2010年(平成22年)に遺族宅で、新たに三島からの手紙9通(1942年 - 1944年)が発見された。 】(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

https://www.chugainippoh.co.jp/article/ron-kikou/ron/20200612-001.html

【1946(昭和21)年、美術研究者の徳川義恭氏は当時、俵屋蓮池・喜多川第17代当主である喜多川平朗氏の協力を得て喜多川家伝来の歴代譜、頂妙寺墓所にある俵屋喜多川一門の供養塔の碑銘を調査し、蓮池平右衛門尉秀明に始まる俵屋喜多川宗家の系譜を明らかにされた。自著『宗達の水墨画』においてその調査結果を公表された中で「蓮池俵屋についてはそれを系統的に知り得ず、之が引いては宗達との関係を不明瞭にしているものと思われる」と述べられている。ちなみに現当主、第18代喜多川俵二氏は師父と同様に人間国宝として俵屋の家職を継承し頂妙寺大乗院と結縁されている。】(「謎多い絵師・俵屋宗達の実像」日蓮宗大法寺住職 栗原啓允稿)


https://userweb.pep.ne.jp/c6v00030/r122.html

【宗達・光悦 試論 ― 宗達研究の一節 ―  徳川 義恭     

 宗達と光悦との関係は 歌巻、色紙、短冊、謡曲本の合作が現存する事により 証明されるが、更に 片岡家本、菅原氏松田本阿弥家系が信じられるとすれば、宗達の妻は光悦の妻の姉と云ふ事になり、極めて近い間柄となる。 又、光悦の書簡の一に 「俵屋方、光悦」と記したものがある。 少庵書状 (1) に依つて 宗達が俵屋を号した事が確認されて居る現在、之も亦 宗達の家に光悦が居たと云ふ事実を知る 興味ある資料である。
 処で 私が此の小論で述べようとする所は、此の二人の芸術的立場に於ける先後問題なのである。 つまり 光悦の芸術から宗達の芸術が生れたものであるか、或は宗達から光悦か、の問題である。 之は 近世美術史上、極めて重大な問題であるにも拘らず、批判的立場から余り論じられて居ない。 そして先づ一般には 光悦から宗達が出たのであるとする説が大部分の様である。 中には 光悦派と云ふ名称を掲げ その中に宗達光琳を含ませる考へもある。 尤も 私が之から述べようとする処は 光悦―宗達説を全然否定し去らうと云ふのではない。 此の問題は 現在の資料を以てしては 確言することは勿論出来ないのである。 それ故、試論として 私が宗達―光悦説を述べてみるのである。
 注 (1) 少庵書状 ― 美術研究第百十一号

 私は先づ、光悦の芸術が 世に余りに高く評価され過ぎてゐはしないか、と思ふ。 彼をレオナルド・ダヴインチと並べて評した一説の如きは 問題外としても、万能の天才 光悦と云ふ文字は 余りにも多く見かける。 勿論私は 彼の茶碗のよさは認めて居る。 陶器に於て あれだけの大きさと深み、渋さを表現した事は 確かに一つの大きな仕事である。 処が 之を賞讃するの余り、彼の他の作品分野に迄 無批判的にそのよさを及ぼし評価することが 行はれて居はしないだらうか。 書道に於て光悦は 松花堂(松花堂 昭堂、1582~1639。真言宗の僧侶にして書家。松花堂流を創始した。)、三藐院(近衛 信尹、1565~1614。五摂家の筆頭たる近衛家の嫡流にして、書家。三藐院と号した。)と共に三筆とうたはれた。 確かに彼の書は暢達であり、独創的で自由な処がある。 殊に 金銀泥の飾絵の上に 太く細く配置して行く技巧と感覚には 勝れたものがある。 当時、賞讃された事もよく肯ける。 併し 一たび視界を広く書の美と云ふ点に置いた場合に、彼の書は 達者ではあるが 真の深みあるよさを感じられない様な気がする。 因みに 宗達の下絵ある歌巻なり、短冊なりの、其の下絵無しで見た場合に さう云ふ事は感じられると思ふ。 処で 今私が問題とするのは 茶碗や書ではなく(勿論 之等も宗達を考へる上に必要なのであるが)彼の蒔絵と絵画なのである。

 元来、光悦が如何なる程度に絵画をよくしたかは 明瞭でない。 屢々記録に現はれるものに 自讃三十六歌仙絵があるが、之に就て古画備考は 「画は皺法正敷歌仙絵也」と記して居る。 尾形流百図を見ると、抱一文庫の光悦自画讃三十六歌仙の絵が載せられて居る。 此の様式が所謂 光悦画の本体であるとすれば、それは又 著しく宗達様式とは離れたものと言はねばならぬ。 又 同書に本田家蔵として、萩之坊乗円讃光悦画定家卿なる図が掲げられて居るが、様式は先の三十六歌仙図と全く同じであり、之には光悦の方印が捺してある。 之等の図に見られる描線は 宗達風のものではない。 而して 従来の説の如く 光悦の蒔絵等に於ける図様を光悦画の本体とするならば、此の三十六歌仙絵の系統(前述の如く その同類のものに光悦の印さへある)は 光悦の画様式の如何なる位置に置かれるものであらうか。 ―― 私は案外、光悦画の様式の本体は所謂宗達風のものではなく、右(上)の例の様な描線を有する 比較的常識的な画様であつたのではないかと思ふ。 そして 若し光悦が、一般に宗達光琳の祖と言はれて居る作風のものを描いたとすれば、それは実は 光悦が宗達の作風に影響されて以後のものではないかと思ふ。 而も 光悦筆と確証し得る絵画作品のないと云ふ事実は、半面に 下絵を宗達に仰いでゐる作品が確実に存する(宗達の伊年円印あるもの三点、その他色紙、短冊等確実に様式上宗達と見做されるもの数十点)と云ふ事実と相俟つて、彼の絵画に対する疑問を一層増大せしめるのである。

 光悦伝に依ると、光悦は書に於ては相当自信を持つて居たかの如く思はれる。 有名な話ではあるが、続近世畸人伝(江戸中期の文人・伴蒿蹊が著した人物伝。1898年刊。)に 「或時 近衛三藐院 光悦にたづねたまふ 今天下に能書といふは誰とかするぞと 光悦 先づ さて次は君 次は八幡の坊也 その先づとは誰ぞと仰たまふに 恐ながら私なりと申す 此時此三筆 天下に名あり」 とある。 即ち 自分が最上で 次が三藐院 次が松花堂 と云ふのである。 此の話は勿論 一概に信じ難いとは言ひ條、光悦が書に於て相当自信があつたと云ふ事実を 察する事が出来る様に思はれる。 又、社会的にも彼の色紙が高く評価されて居た事は 次の話でも分る。 即ち、光悦の甥 光室が江戸城中に於て急病に斃れた際、彼は急ぎ東下した。 こゝで 思ひ掛けなくも 将軍家光に拝謁する事になつたが、献上物を持参してゐないので それを土井大炊頭に告げると、色紙を差し上げるがよからうと言ふ。 光悦は「差上候程の色紙有合不レ申」と述べると、大炊頭は「先年御貰ひ候色紙有レ之候間、先是御貸可レ申候間、献上致可レ然」と言ひ、之を以て事が運んだと云ふ。 現存の光悦色紙が皆彼の書のあるもので 絵画のみのものを右の場合に想像する事は当らない様に思はれるから、此の話を以て 書に於ては文字通り自他共に許したと云ふ事が分るのである。

 所が 今問題とする絵画に就ては 寧ろ自信に乏しかつたかの如き記録がある。 本阿弥行状記の一節で、同じく無条件に信ずべき性質のものではないが、次の様な話がある。 「或時 猩々翁(松花堂ノコト)、予(光悦)が新に建てたる小室を見て、さても あら壁に山水鳥獣あらゆるものあり、絵心なき処にては、かやうのことも時々写し度思ふ時も遠慮せり、幸と別懇のその宅中 ねがふてもなきことゝ、一宿をして終日色々の絵をしたゝめ 予にも恵まれし、我も絵は少しはかく事を得たりといへども中々其妙に至らざれば、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、あら壁の模様をよき絵の手本とも知らず、勿論古来よりあら壁に絵の姿あると申すことは聞伝ふるといへども、まのあたり猩々翁のかきとられしにて疑もはれ何事も上達せざれば其奥義をとられぬものと今更の様に思ひぬ」 ―― 而して光悦は 一方同じ書に於て、「陶器を作ることは 予は猩々翁にまされり」と述べたと記してある。 即ち 絵画に対する彼の態度が、陶器、書に対するものと異つてゐた事が窺ひ得るのである。 自信あるものは飽く迄も明瞭にしてゐたのであるから、画事に就て松花堂に示した態度は 単なる表面の謙譲ではなかつたと見るべきである。 又、特に文中 猩々翁○とある点に留意すれば、松花堂は光悦より略々廿五年程若いのであるから、此の話は光悦の若い時の事とは思はれない、(ここは 読点(。)の誤りであろう。) (例へ翁と云ふ言葉が敬称として用ひられ、松花堂の所謂 晩年に用ひられたのではないとしても、余り若くしては此の称は用ひられぬであらう(。)) 要するに光悦は 晩年に至つて画事に自信ある境地に達し得たのではなからうか、と云ふ推論の余地は無い訳である。 而も宗達は 慶長十一年には光悦の和歌下絵を既に描いて居るのであるから、此の点に於ても 宗達画の先駆を光悦とすることは困難なのである。 (慶長十一年に 光悦は四十九歳、松花堂は略々廿三歳)
 慶長十一年十一月十一日銘ある 宗達下絵光悦和歌色紙に就ては、嘗て矢代幸雄先生が 美術研究第九十三号に発表されたが、此の特殊なる年紀に関しては疑問のまゝ 問題を残された。 私は 黒板博士の国史研究年表に依り、此の日に近衛三藐院が関白を辞して居る事実を知つた。 三藐院と光悦との交際は既に証せられて居る。 而して 矢代先生も指摘されて居る様に、此等十一枚の色紙には 新古今集秋上の部に互に相近く載せられた月に関する歌が書かれて居る。 而して それらは淋しい歌が多いのである。 例へば 「ことはりの秋にはあへぬ涙哉つきのかつらもかはるひかりに」 「ふかからぬ外山の庵のねさめたにさそなこの間の月はさひしき」 「詠れは千々にものおもふ月にまた我身ひとつのみねのまつかせ」 等。 故に私は 親友信尹の辞職を淋しく思ひ、光悦が宗達の下絵の色紙に筆をふるひ、さびしくも又華やかな作をなして、心をなぐさめたのではないか、と想像して居る。 又、宗達と三藐院の合作らしきものゝあるを 私は聞いて居るが、それが事実とすれば 此の問題は一層趣を増すことゝならう、―― 聊か 本論には蛇足の感もあるが、この紙面を一応の報告として置く。
 処で、所謂宗達派の祖が光悦であるとすれば、光悦は新様式の創始者である。 而して 絵画に於ける優れた新様式は、絵画的天分の豊かなる者に依つてのみ 始めて創造し得るものである。 光悦に それ程の絵画的天分が認められるであらうか。 光悦がさう云ふ天分を十分に備へた作家であつたならば、私は恐らく彼の独立した絵画作品がもう少し現存して居てもいゝのではないかと思ふ。 色紙、歌巻等の筆蹟にも 大虚庵光悦などと筆太に思ひ切つた署名をして居る位の人であるから、独立した絵を描けば 必ず明瞭に落款、捺印をなしたであらう。 つまり さう云ふ彼の独立作品が少いと云ふ事は、彼の絵画的方面への消極性を物語り、彼の絵画的天分の乏しさをも肯定する事になる。 そして同時に考へられるのは、同じ時代の絵画の天才 宗達が、斯くの如き作家の様式に影響されたと見るよりも、寧ろ其の逆を考へる方がより自然であり、素直なのではなからうかと云ふ事である。 而も、前掲の菅原氏松田本阿弥家系の書入れを容認した場合は 宗達は光悦より年長とさへ考へられるし、又 俵屋方に光悦が居た事など思ふと、一層 此の説が有利になるのである。 併し、必ずしも宗達が光悦より年長でなければならぬ事はない。 現に光悦は 年下の松花堂の絵に感心した態度を示して居る。 しかも此の松花堂の絵なるものは 私の見た所、殆ど感朊出来ぬものばかりである。 それに感朊した光悦の美的感覚を 私は余り認めたくない。

 斯くして私は 光悦の絵画が宗達様式の淵源であるとの説に 同意し兼ねるのである。 世に言ふ程 彼は万能の一大天才ではないと思ふ。 而して又、さう云ふ見方の方が寧ろ 光悦の芸術に対して親切であらう。 彼の陶器や蒔絵など いゝ仕事である。 鷹峯(たかがみね。京都の北部の丘陵地帯で、丹波・若狭への街道入口。光悦は、徳川家康よりこの原野を拝領、一族と共に移住し、ここで制作活動に当ったという。)に於ける活動も 当時の美術界に清新な気風を与えたに違ひない。 光琳の蒔絵や乾山の仕事にも 彼の影響はある。 併し、要するに彼の仕事は趣味人的な性格に止つてゐて、大作家宗達には及ぶべくもなかつたのである。 光悦の芸術の特質は 素人的気分である。 いゝ点も悪い点も皆 此の中にある。 具体的に云へば、素直に他人の長所を取り入れて合作などをし、又 自分の感情をも自由に表現する事も行つて居る点、それから其の反面に 彼の芸術の表面華やかに見えながらも、弘く東洋西洋の芸術を含めての観点に立つ時、覆ひ難い事実として消極性を認めねばならぬ点である。

A 舟橋蒔絵硯筥
B 伊勢物語図帖 「むかしをとこふして思ひ…」図部分、土坡
C 源氏物語関屋図屏風部分、土坡
D 御物 扇面屏風保元物語巻二左府負傷図部分、土坡
E 醍醐三宝院扇面屏風牛車図部分、土坡

 蒔絵に就て 私は今迄故意に語らなかつた。 それは 光悦の絵画に対して 如上の見解を先づ示して置く必要があつたからである。 さて、光悦の傑作とされて居る舟橋硯筥(帝室博物館蔵)は 宗達派の感覚と同種のものであり、広くは我工芸史上の一異彩でもある。 「あづまじの佐野の舟橋かけてのみ思ひわたるをしる人ぞなき」(後撰集)の歌意に因み、作られて居る。 高さ 三寸九分、竪 八寸、横 七寸五分。 波と舟 ━━ 金溜地、金蒔絵。 橋 ━━ 鉛。 文字 ━━ 銀金具、金蒔絵。 (歌中の舟橋の二字は 鉛に依る図様を以て暗示され、文字としては記してない。)
 処で 此の硯筥(すずりばこ)に就て私考を述べるに先だち、私は先づ 広く光悦、光琳の漆工芸に就て 次のことを述べて置く。 「漆工芸に於て 銀、鉛、青貝等を嵌入せる意匠が、宗達派の技法的特色たるたらし込み、、、、、の感覚と殆ど同じ感覚を有すること」 である。 具体的に言ふと、鉛の地は墨の肌と同種の重厚な渋味を示し、貝の肌にある一種の濃淡を想はせる自然の調子は 胡粉その他の顔料を以てするたらし込みの濃淡の調子と合し、又更に 其の貝が素地との境目に接する所に出来る輪廓の味は、やはり たらし込みの絵具によつて出来た一種の輪廓の味と共通する。 而して 蒔絵に於ける金銀の感じは、そのまゝ絵画の金銀泥に通ずるのである。 即ち 材料こそ異れ、全く同じ感じを 私は受けるのである。 絵画と工芸が之程迄、密接に関係して居る例は 他に殆ど見られない様に思ふ。 併し、宗達派絵画と光悦光琳派蒔絵との此の不思議な迄の様式の合致は 決して偶然ではない。 要するに 装飾的絵画への十分な理解と感覚が 之を為さしめたのである。

 所で 此の舟橋硯筥に就て 私は次の三点に留意する。 (一) 形態に関する解釈、(二) 宗達下絵光悦色紙との様式類似、(三) 光悦の書体。
 (一) 此の形態に関する解釈は色々あり、或人は田家の形と云ひ、又 或人は鷹峯の山の形に暗示を得たのであらうと言ふ。 確かに鷹峯の形は之に似て居る。 併し 私は之を 宗達の暗示に依つて作られたものであらうと解釈する。 つまり 此の奇抜な形は 何を意味すると云ふのでなく、宗達がヒントを直接与へたか、或ひは光悦が宗達様式から学んだかして出来たのではなからうかと思ふ。 更に具体的に言へば、宗達様式の例へば源氏関屋図屏風に於ける築山風の山塊、三宝院蔵扇面画中に見られる雲形の土坡(つつみ、土手)、慶長十一年十一月十一日銘ある色紙の中「ことはりの……」の和歌ある図の土坡、平家紊経化城喩品見返し画中の土坡、帝室御物扇面屏風画中、梅の図 及び保元物語巻二左府負傷図中に見られる土坡、更に 伊勢物語図帖の中「むかしおとこ、うゐかうぶりして……」の図、「われならて、したひほとくな…」の図、「むかしをとこ、ふして思ひ……」の各図に見られる土坡。 或は源氏澪標関屋図屏風、フリーア画廊蔵松島図屏風を始めとして宗達画の多くに見られる単純化された松葉の表現。 何れも皆、此の硯筥の盛上げの形とよく似て居る。 要するに私は 此の硯筥の形も或特定の意味あるものではなく、宗達的な一種の感覚から生じた装飾形態と解したいのである。 只、之が真に美的効果の上から言つて成功してゐるか何うかと云ふ問題になると、私は 此の形はやゝ奇に走り過ぎて、静けさを欠いて居る点がないでもない様な気がする。
 (二) (一)の場合が側面観を基調としたのに対し、之は真上から見た場合である。  今、中央の盛上げを無くして考へると、其の図は宗達画に近い様式を示し、その上に和歌の散らしてある点、宗達光悦合作の色紙と極めて類似して居る事が分る。 要するに私は 此の図様も宗達画に暗示を得て光悦が描いたか、或は宗達が直接下絵として描いたかの何れではないかとするのである。 尚、忍草蒔絵硯箱は 三藐院風の字が嵌入されて居る所から 光悦三藐院合作と伝へられ、(此の忍草の中に兎のゐる図柄は光悦以前の時代に存するから 光悦の独創ではない) 又、竹の図柄ある硯箱があるが、此の図は松花堂の絵に似て居るから 松花堂との合作ではないかと思つて居るが、要するに かう云ふ事から考へても 宗達光悦の合作も十分あり得ると思ふのである。
 (三) 此の硯筥に嵌入せる光悦の文字に依り、彼の書体の様式を検討すれば 此の蒔絵の製作年代が分る筈である。 大体、慶長末か元和始め頃ではないかと推定されるが、私は未だ光悦の書体に関し 自信ある発言をなし得ない。 只 工芸として金属を以て示された書なるが故に 年代推定が全く不可能と思はれないので 大方の御教示を得たい。
 斯くして私は 此の硯箱が形態及び装飾図様に於て、宗達の様式に近似せる点、更に光悦画に対する先の見解との立場から、之を光悦の独創の作品として提唱する事の危険なるを思ふに至つたのである。

 次に 伝光悦作なる蒔絵作品に就て調べる必要がある。 (光悦以前から 漆工作品には作者の名を記す事は殆ど行はれなかつた。 光悦も 其の例に習つたものと思はれる。)
 (一) 宗達の絵画様式に極めて近い様式を示すもの。 例へば 山月蒔絵経筥、蓮蒔絵経筥、等。 之等は 一見宗達様式に似て居りながら、よく見ると宗達画に比して著しく生気に乏しく、間の抜けた感じを持つて居る。 (経筥蓋裏の鹿と宗達筆謡本飾絵の鹿を比べれば明瞭。 又、蓮を示した蒔絵にも宗達の如き写実性は全くない。) 此の事実からも 光悦様式から宗達様式が生ずると云ふ事は 私には考へ難くなる。 之等の蒔絵の下図は 光悦か或は彼の弟子が 宗達画を基にして作つたのであらう。
 (二) 宗達様式と傾向を異にする作品。 岩崎家の秋草蒔絵謡本箱がそれである。 此の園(ママ)は 光悦以前の蒔絵の延長と見られる点が多い。
 要するに私は 光悦蒔絵に於ける新機軸と云はれて居るたつぷりした図様は宗達から出たものであつて、従つて 其の材料に於ける新しい試みも宗達画に接近せんとして用ひられたとさへも考へ得ると思ふ。 光悦の弟子の作も 結局此の作風のものは宗達の流れを汲むものであらう。
 光悦以前に 蒔絵師が一流の画人に其の下絵を描いてもらつて居る例はある。 幸阿弥道長(文明十年、七十一歳にて歿)は 将軍義政の近くにあつて蒔絵を作り、形状その他の好みは相阿弥に習ひ、下絵は光信に受けたと言はれて居る。 又、帝室博物館蔵、葦穂高蒔絵鞍及び鐙は 秀吉が狩野永徳に命じて下絵を描かせ、古作の鞍と鐙に高蒔絵させたものである。 蒔絵の図様とて、絵画の天分無き者に依つて出来るものではない。

 斯くして私は 従来一方的に光悦 ― 宗達説が称へられて来た事に対して 其の逆説を提唱する十分なる可能性ありとするのである。 それに就て付け加へて置くが、私は 蒔絵の図様から絵画の様式が生ずると云ふ事実を否定して居るのではない。 (宗達の様式は 光悦以前の蒔絵の様式に暗示を得て居ることは種々の点に於て指摘し得る。) 私は 飽く迄も光悦と宗達の関係に於て 之を論じて居るのである。 最後に、何故光悦が今迄高く評価され過ぎてゐたのかと云ふに、その一は 鷹峯光悦村の経営や彼の広い交際 (青蓮院宮尊朝法親王、三藐院、応山信尋、烏丸光広、徳川家康、家光、老中松平信綱、土井利勝、所司代板倉勝重、同重宗、前田利家、同利常、小堀政一、林羅山、等)に依つて知られる政治家的性格の為であり、その二は 彼が茶道の関係者から持て囃された為と思はれる。 茶道に於ける美術品の価値評価には 時々不健全なものがあるからである。】(「『座右宝』創刊号(第一巻第一号)所収 )
nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:アート

四季花卉下絵古今集和歌巻(その六) [光悦・宗達・素庵]

その六 躑躅と糸薄

四季花卉下絵古今集和歌巻74.jpg

「尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館・読売新聞社編)」
所収「1-01 俵屋宗達下絵・本阿弥光悦筆 四季草花下絵古今和歌巻・重要文化財・畠山記念館蔵」(「四季花卉下絵古今集和歌巻」=『光悦……琳派の創始者(河野元昭編)』所収「書画の二重奏への道……光悦書・宗達画和歌巻の展開(玉蟲敏子稿)」) 三三・七×九一八・七

    寛平の御時に、うへのさぶらひに侍りけるをのこども、
    かめをもたせてきさいの宮の御方に大御酒のおろしと
    きこえにたてまつりたりけるを、蔵人ども笑ひて、
    かめをおまへにもていでてともかくもいはずなりにければ、
    つかひのかへりきて、さなむありつるといひければ、
    蔵人のなかにおくりける
874 玉だれのこがめやいづらこよろぎの磯の浪わけ沖にいでにけり(藤原敏行 )
(あの小亀はどこへいったやら、こよろぎの磯の浪を分けて沖に出ていってしまったよ。)

    女どもの見て笑ひければよめる
875 かたちこそみ山隠れの朽ち木なれ心は花になさばなりなむ(兼芸法師)
(見た目こそ山奥の朽木のようではあるが、心は花にしようと思えばいつでも花を咲かせられますよ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

874玉だ連(れ)能(の)こ可(が)めやい徒(づ)らこよろ支(ぎ)能(の)い曾(そ)濃(の)波王(わ)遺(け)於(お)き尓(に)出(いで)尓(に)介(け)利(り)

※玉だ連(れ)能(の)=玉だれの。「子」の枕詞として用いる。
※こよろ支(ぎ)能(の)=こよろぎ。いまの神奈川県大磯市あたりの海岸。
※於(お)き尓(に)出(いで)尓(に)介(け)利(り)=おきにいでけり。「沖」に「奥=皇后宮の御前」の意を掛ける。
※※寛平の御時に=宇多天皇の御時。
※※うへのさぶらひに侍りけるをのこども=清涼殿の殿上の間に侍っていた侍臣たち。
※※きさいの宮=后宮。皇后藤原温子。
※※蔵人=女蔵人(下臈の女房)。

875形(かたち)こ曾(そ)深山(みやま)隠(がくれ)濃(の)朽木(くちき)那(な)禮(れ)心盤(は)華(はな)尓(に)な左(さ)ハ(ば)成(なり)南(なむ)

※形(かたち)こ曾(そ)=かたちこそ。顔かたち。容貌。
※深山(みやま)隠(がくれ)濃(の)朽木(くちき)那(な)禮(れ)=深山隠れの朽ち木なれ。奥山に隠れている朽ち木のようなものですが。

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/sennin/tosiyuki.html

【 藤原敏行(ふじわらのとしゆき) 生年未詳~延喜元(?-901)

陸奥出羽按察使であった南家富士麿の長男。母は紀名虎の娘。紀有常の娘(在原業平室の姉妹)を妻とする。子には歌人で参議に到った伊衡などがいる。
貞観八年(866)、少内記。地方官や右近少将を経て、寛平七年(895)、蔵人頭。同九年、従四位上右兵衛督。『古今集和歌目録』に「延喜七年卒。家伝云、昌泰四年卒」とある(昌泰四年は昌泰三年=延喜元年の誤りか)。
三十六歌仙の一人。能書家としても名高い。古今集に十九首、後撰集に四首採られ、勅撰集入集は計二十九首。三十六人集の一巻として家集『敏行集』が伝存する。一世代前の六歌仙歌人たちにくらべ、技巧性を増しながら繊細流麗、かつ清新な感覚がある。和歌史的には、まさに業平から貫之への橋渡しをしたような歌人である。 】

https://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-ymst/yamatouta/sennin/kengei.html

【 兼芸法師=兼藝(けんげい(けむげい)) 生没年未詳

『古今和歌集目録』によれば伊勢少掾古之の二男で、大和国城上郡の人かという。左大臣源融の孫占の子とも。即位以前の光孝天皇と親しかったことを窺わせる歌を古今集に残している(巻八離別歌)。勅撰入集は古今集のみ四首。  】

 これらの歌(藤原敏行と兼芸法師の二首)は、『古今集(巻第十四・恋歌四)の、次の在原業平の歌と関係があるようである。

  藤原の敏行の朝臣の、業平の朝臣の家なりける女を
  あひ知りてふみつかはせりけることばに、いままうでく、
  あめの降りけるをなむ見わづらひ侍る、といへりけるを聞きて、
  かの女にかはりてよめりける
705 かずかずに思ひ思はずとひがたみ身を知る雨は降りぞまされる(在原業平)
(いろいろと、貴方と私の間は、相思相愛の間柄なのかと思い悩んだりしていますが、貴方に直接聞くわけにもいかず、この雨に聞けば、この雨の降り様は、「そうではない」と告げているようです。)

 そして、これまた、『伊勢物語(第一〇七段)』に由来があるような雰囲気である。

http://teppou13.fc2web.com/hana/narihira/ise/old/ise_o107.html

【むかし、あてなる男ありけり。その男のもとなりける人を、内記にありける藤原の敏行といふ人よばひけり。されど若ければ、文もをさをさしからず、言葉もいひ知らず、いはんや歌はよまざりければ、かのあれじなる人、案を書きてかゝせてやりけり。めでまどひにけり。さて男のよめる、
 つれづれのながめにまさる涙川
  袖のみひぢて逢ふよしもなし
  かへし、れいの男、女にかはりて、
 浅みこそ袖はひづらめ涙川
  身さへながると聞かばたのまむ
といへりければ、男いといたうめでて、いままでまきて文箱に入れてありとなむいふなる。 男文おこせたり。えてのちの事なりけり。「雨の降りぬべきになむ見わづらひ侍る。身さいはひあらば、この雨は降らじ」といへりければ、例の男、女に代りてよみてやらす。
 かずかずに思ひ思はず問ひがたみ
  身をしる雨は降りぞまされる
とよみてやれりければ、蓑も笠もとりあへで、しとゞに濡れてまどひきにけり。】(『伊勢物語(第一〇七段)』)

(参考) 「四季花卉下絵古今集和歌巻」(「その一~その三」「その四~その六」)

四季花卉下絵古今集和歌巻一.jpg

「四季草花下絵古今和歌巻」(その一・その二・その三)

四季花卉下絵古今集和歌巻二.jpg

「四季草花下絵古今和歌巻」(その四・その五・その六)

 上記の「その一」は「竹」図(冬)、「その二・その三・その三・その四」は「梅(春)」図、そして、「その四」は「土坡(梅から椿)」(春から夏)への「季移り」(「季節の替わり」・「連歌・連句で、雑(ぞう)の句をはさまず、ある季の句に直ちに他の季の句を付けること」の「雑」の場面、「その一」と「その「二」は「季移り」)の図柄の雰囲気である。
 今回の「その六」(躑躅と糸薄)は、全体に「躑躅」(夏)の景物で、中ほどに、直接の「季移り」を避ける「雑」(間を取る)のような「土坡」を上部に描いて(「その五」の土坡は下部)、その次に「躑躅」の根本に「糸薄」(秋)を添えている図柄のようである。
 この「その六」の関連については、次のアドレスで触れている。画像は省略して、その紹介記事や、そのアドレスでの「光悦と宗達」周辺のことを再掲して置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-07-11

(再掲)

(画像省略=上掲の「その六」冒頭の図と「その一」の「竹」部分図)

俵屋宗達画・本阿弥光悦書「四季草花下絵和歌巻」(部分図=躑躅) 紙本金銀泥
三三・五×九一八・七㎝ 重要文化財 畠山記念館蔵
【 太い竹の幹のクローズアップから始まり、巻物を操るに従って、梅・躑躅(つつじ)・蔦(つた)が現れる。それぞれ、正月・春・夏・秋の四季の移り変わりを表わす。竹の表面は「たらし込み」の技法で質感が表現されている。宗達は以前、版画による料紙装飾で同様の竹をモティーフとしたが、版木を離すときに生じる金泥のムラの効果を、筆で描くときにも応用した。巻末に光悦の印章と、宗達の「伊年」の印章がある。 】(『日本の美をめぐる 奇跡の出会い 宗達と光悦(小学館)』)

「本阿弥光悦」の「本阿弥」家は、刀剣の「磨ぎ・浄拭(ぬぐい)・鑑定(めきき)」を専門とする家柄である。そもそも、「本阿弥」の「阿弥」というのは、将軍家に仕えて芸能や美術などの特殊技能をつかさどった「同朋衆」が名のることが多かった。室町時代に活躍した「能阿弥・芸阿弥・相阿弥」など三阿弥と呼ばれる同朋たちは、足利将軍家で儀式の飾りつけのコーディネートや美術品の鑑定・管理などをこなし、新たな美術品を注文する際に意見を求められた家柄である。
 その「同朋衆」の出の「本阿弥光悦」は、元和元年(一六一五)に徳川家康より鷹ケ峰(洛北)に広大な土地を与えられ、ここに様々な工芸に携わる職人たちと移り住んで芸術村を形成し、日本で最初の「アートディレクター」(総合芸術の演出家)兼「書家」(「寛永三筆」の一人)兼「蒔絵師」兼「陶工師」などの、当時の超一流の文化人ということになる。
 もう一人の「俵屋宗達」は、光悦と縁戚関係にあるとも、本阿弥家と同じ小川町(上京区)の「蓮池家・喜多川家」出の「絵屋」(「俵屋」という屋号で「絵屋」=「屛風・掛幅のほか料紙装飾・扇絵・貝絵など、主に仕込み絵的な一種の既製品を制作・販売する」)を主宰していたともいわれているが、絵師としても法橋を授与されており、これまた、当時の超一流の文化人の一人であったのであろう。
 ここで、この「四季草花下絵和歌巻」の宗達の印章の「伊年」は、宗達が主宰する「俵屋工房」(宗達を中心とする絵師・工匠等のグルーブ)の「ブランド」(他と区別できる特徴を持ち価値の高い製品)に押される印章と解せられているが、それと同じように、「法橋宗達」「宗達法橋」の署名も、「ブランド」(「俵屋工房・宗達工房」の「商標」)化されており、杓子定規に、「伊年」=「俵屋(宗達)工房」、「法橋宗達・宗達法橋」=「宗達」と、それらの物差しをもって、それらの区別をすることは甚だ危険なことなのであろう。
 それよりも、当時の超一流のアートディレクター兼書家の「本阿弥宗達」の「書」と、超一流の「絵屋」主宰者兼絵師の「俵屋宗達」(下絵)との、その「コラボレーション」(合作・共同作業)の作品は、両者の、丁々発止とする個人作業の多い、いわゆる、「俵屋宗達画・本阿弥光悦書」とする方が、より分かり易い目安になるのかも知れない。(以下略)

(追記メモ)

 この「四季草花下絵古今集和歌巻(四季花卉下絵古今集和歌巻)」(光悦書・宗達画)の「躑躅」など、両者の「コラボレーション」(合作・共同作業)の作品には、例えば、宗達の傑作画の「風神雷神図」の「風神」の衣装(下紐)などに施された「朱色」系統のものは目にしない。これは、両者の「コラボレーション」の作品として、「画」は下絵に徹して、「書」がメインであることの配慮のように思われる。
 「朱夏」に相応しい鮮やかな「朱」の躑躅が、宗達・光悦に私淑した光琳が見事に実写している。こちらは、朱の椿(メイン)と白の椿(サブ)との対比で、流水を挟んで、土坡は褐色で「大きな土坡」(メイン)と「小さな土坡」(サブ)が対比している。

https://www.ebara.co.jp/csr/hatakeyama/colle008.html

躑躅図.jpg

重要文化財 躑躅図 尾形光琳筆 (畠山記念館蔵)
【年代:江戸時代
材質・技法:絹本著色
サイズ(cm):縦39.3 横60.7
「たらし込み」で描かれた土坡と流水のほとりに、鮮やかな紅色の躑躅が空に向かって枝を伸ばす。その手前に、白い躑躅がひっそりと咲く姿が、また対照的で美しい。流水を挟んで左右に大小の土坡も配しており、本図は小品ながらも、このような形や色彩の対比が見事に計算されている。まるで箱庭でもみるかのようにすべてが縮小された作品には、洗練された意匠感覚が反映されている。作者の尾形光琳(1658~1716)は江戸時代中期に絵師として活躍した。  】
nice!(1)  コメント(2) 
共通テーマ:アート