SSブログ

渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その五) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「英一蝶」(釣瓶と鶯図))」

英一蝶《釣瓶と鶯図》.jpg

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「英一蝶《釣瓶と鶯図》」」(「早稲田大学図書館蔵」)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175_p0007.jpg
≪「釣瓶と鶯図」 一蝶画趣/信香の画ハ安信ニ従ヒ新意ハ/菱川ヨリ脱化来ルニ似タリ
 ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

≪ 一蝶は「安信ニ従ヒ新意ハ/菱川ヨリ脱化来ルニ似タリ」とあり、一蝶が狩野派より出て、柔軟な画態にときほぐし、しかもその画趣には、なかなか洒脱な俳諧的要素が示されている。これは当代の風俗画に表現されている。市民的感情もあり、浮世絵の菱川より脱化したものであろうというのは、この間の事情を物語るものであろう。 ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

紙本著色布晒舞図〈英一蝶筆〉.jpg

「紙本著色布晒舞図〈英一蝶筆〉」(国宝・重要文化財(美術品)/ 公益財団法人遠山記念館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/210286
≪英一蝶(1652~1724)は市井のありふれた庶民の都会風俗、健全明朗な生活を、親しみやすいが洗練された絵画表現に高めて表した点で近世絵画史上に重要な画家。本作品は若衆歌舞伎の役者と思われる舞手が、布を晒す仕草や波の様を布を用いて表したさらしの舞を披露する様子を描く。小画面に一蝶の人物表現の優れた特質を凝縮した作品。画面左上に藤牛麻呂の款記がある。≫(「文化遺産オンライン」)

≪ 英一蝶(はなぶさいっちょう)(1652―1724)

江戸前期の画家。英派の祖。医師多賀伯庵(はくあん)の子として京都に生まれる。幼名猪三郎、諱(いみな)は信香(のぶか)、字(あざな)は君受(くんじゅ)、剃髪(ていはつ)して朝湖(ちょうこ)と称した。翠蓑翁(すいさおう)、隣樵庵(りんしょうあん)、北窓翁などと号し、俳号に暁雲(ぎょううん)、夕寥(せきりょう)があった。1659年(万治2)ごろ江戸へ下り、絵を狩野安信(かのうやすのぶ)に学んだが、いたずらに粉本制作を繰り返し創造性を失った当時の狩野派に飽き足らず、岩佐又兵衛(いわさまたべえ)や菱川師宣(ひしかわもろのぶ)によって開かれた新興の都市風俗画の世界に新生面を切り開いた。
機知的な主題解釈と構図、洒脱(しゃだつ)な描写を特色とする異色の風俗画家として成功。かたわら芭蕉(ばしょう)に師事して俳諧(はいかい)もよくした。1698年(元禄11)幕府の怒りに触れ三宅(みやけ)島に流されたが、1709年(宝永6)将軍代替りの大赦により江戸へ帰り、画名を多賀朝湖から英一蝶と改名した。晩年はしだいに風俗画を離れ、狩野派風の花鳥画や山水画も描いたが、終生俳諧に培われた軽妙洒脱な機知性を失うことはなかった。
代表作に、いわゆる「島(しま)一蝶」として珍重される三宅島配流時代の作品『四季日待図巻』(東京・出光(いでみつ)美術館)や『吉原風俗図巻』(東京・サントリー美術館)、『布晒舞図(ぬのざらしまいず)』(埼玉・遠山記念館)などがある。[榊原 悟] 『小林忠著『日本美術絵画全集16 守景/一蝶』(1982・集英社)』 ≫(「日本大百科全書(ニッポニカ)」)

https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-345-39.html

(再掲)

    朝妻ぶねの賛
5-34 藤なみや紫さめぬ昔筆 (抱一句集『屠龍之儀』所収「第五 千づかのいね」)

 前書の「朝妻ぶね)」とは、「浅妻船・朝妻船(あさつまぶね)」の「滋賀県琵琶湖畔 朝妻(米原市朝妻筑摩)と大津と間での航行された渡船。東山道の一部」(「ウィキペディア」)のことであろう。

≪ 朝妻は『和名抄』に「安佐都末」とある。朝妻川の入江に位置する。船舶がしきりに出入りしたが、慶長(1596年 - 1615年)ころから航路の便利から米原に繁栄をうばわれ、おとろえた。寿永の乱(1180年 - 1185年)の平家の都落ちにより女房たちが浮かれ女として身をやつしたものが、朝妻にもその名残をとどめ、客をもとめて入江に船をながした。

 その情景を英一蝶(1652年 - 1715年)がえがいた絵『朝妻舟図』[1] が有名である。烏帽子、水干をつけた白拍子ふうの遊女が鼓を前に置き、船に乗っている絵は、五代将軍徳川綱吉と柳沢吉保の妻との情事を諷したものであるという。一説に英が島流しされたのはこの作品が原因であるという。英が絵に讃した小唄は、「仇しあだ浪、よせてはかへる浪、朝妻船のあさましや、ああまたの日は誰に契りをかはして色を、枕恥かし、いつはりがちなるわがとこの山、よしそれとても世の中」。「わがとこの山」は、犬上郡鳥籠山であるのを、床の山にかけたものである。長唄などもつくられた。≫(「ウィキペディア」)≫

朝妻舟(英一蝶).jpg

「朝妻舟図 」英一蝶/江戸時代/絹本著色/37.4cm×56.9cm/板橋区立美術館蔵
https://www.city.itabashi.tokyo.jp/artmuseum/4000333/4000537/4000540.html
https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2018/12/12/174708

「英一蝶画譜」あさづまぶね(朝妻舟)

 柳の下に船を繋ぎ、烏帽子水干の白拍子が鼓を手にして座してゐる図で、元禄の頃英一蝶がこれを画いて忌諱に触れ罪を得て流罪になつたので有名であり、その由来は太田南畝の『一話一言』に精しい。

 「あさづまぶね 英一蝶作」

 隆達がやぶれ菅笠しめ緒のかつら長くつたはりぬ是から見れば近江のや。

「あだしあだ浪よせてはかへる浪、朝妻ぶねのあさましや、あゝ又の日はたれに契りをかはして色を、かはして色を。枕はづかし、偽がちなる我が床の山、よしそれとても世の中」。

 これ一蝶が小歌絵の上に書きて、あさづま舟とて世に賞翫す、一蝶其はじめ狩野古永真安信が門に入て画才絶倫一家をなす、ここにおいて師家に擯出せらる、剰事にあたりて江州に貶謫、多賀長湖といふ、元来好事のものなり、謫居のあひだくつれる小歌の中に、あだしあだ浪よせてはかへる浪、あさづま舟のあさましや云々、此絵白拍子やうの美女水干ゑぼうしを著てまへにつゞみあり、手に末広あり、江頭にうかべる船に乗りたり、浪の上に月あり、(此の月正筆にはなし、書たるもあり、数幅かきたるにや)。

 あさ妻舟といふは、近江にあさづまといふ所あるに付て、湖辺の舟を近江にはいにしへあそびものゝありしゆへ、遊女のあさあさしくあだなるを思ひよせて一蝶作れるにや、文意聞したるまゝなるを誰に契をかはして色を枕はづかしといふあり、色を枕はづかしとはつづかぬ語意なるをと、数年うたがへるに、後に正筆を見ればかはして色をかはして色をと打かへして書たり、しからばわが世わたりの浅ましきを嗟嘆するにて、句を切て枕恥かしといへるよく叶へり句を切て其次をいふ間だに、千々の思こもりておもしろきにや、又朝づま舟新造の詞にあらず、西行歌、題しらず

  おぼつかないぶきおろしの風さきに朝妻舟はあひやしぬらむ(山家集下)

 又地名を付て何舟といふ事、八雲御抄松浦船あり、もしほ草にいせ舟、つくし舟、なには舟、あはぢ舟、さほ舟あり、もろこし舟いふに不及。

(一話一言巻十四)

 一蝶の筆といふ朝妻船で有名なのは、松沢家伝来のもので、これには一蝶と親交のあつたといふ宗珉の干物の目貫、一乗作朝妻船の鍔一蝶作の如意、清乗作の小柄を添へ、更に一蝶の源氏若紫片袖切の幅と嵩谷の添状がある。浮世絵にもこれを画いたものがある。≫

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-345-39.html

「朝妻舟」(鈴木春信作)

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-345-39.html

「朝妻舟」(歌川広重作)

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-345-39.html

「近江名所図会 朝妻舟」
https://www.instagram.com/p/Bsrrf1lnxcd/

nice!(1)  コメント(0)