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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その六) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「森川許六(枯木宿鳥図)」

森川許六《枯木宿鳥図》.jpg

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「森川許六《枯木宿鳥図》」」(「早稲田大学図書館蔵」)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175_p0008.jpg

≪「枯木宿鳥図》」 許六写意 五老井狩野時史/ノ風を不脱 ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

≪ 許六は「狩野時史ノ風ヲ不脱」とあり、許六は狩野派を学び、芭蕉は絵を以て許六を師としたというが、狩野派の減筆体で、結局は余技の域を脱したものではなかった、≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-07-15

(再掲)

許六肖像真蹟.jpg

「許六肖像真蹟 /渡辺崋山画, 1793-1841」( [和泉屋市兵衛, [出版年不明]/ 早稲田大学図書館)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he05/he05_05706/index.html

 この「許六」の自筆色紙の句は、「今日限(ぎり)の春の行方や帆かけ船」のようである。この崋山が描いた「許六肖像」画に、漢文で「許六伝記」を記したのは「活斎道人=活斎是網」で、その冒頭に出てくる『風俗文選(本朝文選)』編んだのが「許六」その人である。
 その『『風俗文選(本朝文選)』の「巻之一」(「辞類」)の冒頭が、「芭蕉翁」の「柴門ノ辞」(許六離別の詞/元禄6年4月末・芭蕉50歳)である。

≪ 「柴門ノ辞」(許六離別の詞/元禄6年4月末・芭蕉50歳)
 去年の秋,かりそめに面をあはせ,今年五月の初め,深切に別れを惜しむ.その別れにのぞみて,一日草扉をたたいて,終日閑談をなす.その器,画を好む.風雅を愛す.予こころみに問ふことあり.「画は何のために好むや」,「風雅のために好む」と言へり.「風雅は何のために愛すや」,「画のために愛す」と言へり.その学ぶこと二つにして,用いること一なり.まことや,「君子は多能を恥づ」といへれば,品二つにして用一なること,感ずべきにや.※画はとって予が師とし,風雅は教へて予が弟子となす.されども,師が画は精神徹に入り,筆端妙をふるふ.その幽遠なるところ,予が見るところにあらず.※予が風雅は,夏炉冬扇のごとし.衆にさかひて,用ふるところなし.ただ,釈阿・西行の言葉のみ,かりそめに言ひ散らされしあだなるたはぶれごとも,あはれなるところ多し.後鳥羽上皇の書かせたまひしものにも,※「これらは歌にまことありて,しかも悲しびを添ふる」と,のたまひはべりしとかや.されば,この御言葉を力として,その細き一筋をたどり失ふことなかれ.なほ,※「古人の跡を求めず,古人の求めしところを求めよ」と,南山大師の筆の道にも見えたり.「風雅もまたこれに同じ」と言ひて,燈火をかかげて,柴門の外に送りて別るるのみ。 ≫ (「芭蕉DB」所収「許六離別の詞」)

※画(絵画)はとって予(芭蕉)が師とし,風雅(俳諧)は教へて予(芭蕉)が弟子となす=絵画は「許六」が「予(芭蕉)」の師で、「俳諧」は「予(芭蕉)」が「許六」の師とする。

※予(芭蕉)が風雅(俳諧)は,夏炉冬扇のごとし.衆にさかひて,用ふるところなし=予(芭蕉)の俳諧は、夏の囲炉裏や冬の団扇のように役に立たないもので、一般の民衆の求めに逆らっていて、何の役にも立たないものである。

※「これらは歌にまことありて,しかも悲しびを添ふる」と,のたまひはべりしとかや.されば,この御言葉を力として,その細き一筋をたどり失ふことなかれ=後鳥羽上皇の御口伝の「西行上人と釈阿=藤原俊成の歌には、実(まこと)の心があり、且つ、もののあわれ=生あるものの哀感のようなものを感じさせ」、この『実の心ともののあわれ』とを基本に据えて、その(風雅と絵画の)細い一筋の道をたどって、決して見失う事がないようにしよう。

※「古人の跡を求めず,古人の求めしところを求めよ」=「先人たちの、遺業の形骸(ぬけがら)を追い求めるのではなく、その古人の理想としたところを求めなさい」と解釈され、もともとは空海の『性霊集』にある「書亦古意ニ擬スルヲ以テ善シト為シ、古跡ニ似ルヲ以テ巧ト為サズ」に拠った言葉であるともいわれている。

≪ 森川許六(もりかわ きょりく)/(明暦2年(1656)8月14日~正徳5年(1715)8月26日)
本名森川百仲。別号五老井・菊阿佛など。「許六」は芭蕉が命名。一説には、許六は槍術・剣術・馬術・書道・絵画・俳諧の6芸に通じていたとして、芭蕉は「六」の字を与えたのだという。彦根藩重臣。桃隣の紹介で元禄5年8月9日に芭蕉の門を叩いて入門。画事に通じ、『柴門の辞』にあるとおり、絵画に関しては芭蕉も許六を師と仰いだ。 芭蕉最晩年の弟子でありながら、その持てる才能によって後世「蕉門十哲」の筆頭に数えられるほど芭蕉の文学を理解していた。師弟関係というよりよき芸術的理解者として相互に尊敬し合っていたのである。『韻塞<いんふさぎ>』・『篇突<へんつき>』・『風俗文選』、『俳諧問答』などの編著がある。
(許六の代表作)
寒菊の隣もあれや生け大根  (『笈日記』)
涼風や青田のうへの雲の影  (『韻塞』)
新麦や笋子時の草の庵    (『篇突』)
新藁の屋根の雫や初しぐれ  (『韻塞』)
うの花に芦毛の馬の夜明哉  (『炭俵』 『去来抄』)
麥跡の田植や遲き螢とき   (『炭俵』)
やまぶきも巴も出る田うへかな(『炭俵』)
在明となれば度々しぐれかな (『炭俵』)
はつ雪や先馬やから消そむる (『炭俵』)
禅門の革足袋おろす十夜哉  (『炭俵』)
出がはりやあはれ勸る奉加帳 (『續猿蓑』)
蚊遣火の烟にそるゝほたるかな(『續猿蓑』)
娵入の門も過けり鉢たゝき  (『續猿蓑』)
腸をさぐりて見れば納豆汁  (『續猿蓑』)
十團子も小つぶになりぬ秋の風(『續猿蓑』)
大名の寐間にもねたる夜寒哉 (『續猿蓑』)
御命講やあたまの青き新比丘尼(『去来抄』)
人先に医師の袷や衣更え   (『句兄弟』)
茶の花の香りや冬枯れの興聖寺(『草刈笛』)
夕がほや一丁残る夏豆腐   (『東華集』)
木っ端なき朝の大工の寒さ哉(『浮世の北』) ≫(「芭蕉DB」所収「森川許六」)

 もとより、抱一と許六とは直接的な関係はないが、「画俳二道」の先師として、抱一が許六を、陰に陽に私淑していたことは、これまた、想像するに難くない。

(再掲)

https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-614-62.html

4-61 あとからも旅僧は来(きた)り十団子 (抱一『屠龍之技』「) 第四 椎の木かげ」

十団子も小粒になりぬ秋の風  許六(『韻塞』)
≪「宇津の山を過」と前書きがある。
句意は「宇津谷峠の名物の十団子も小粒になったなあ。秋の風が一層しみじみと感じられることだ」
 季節の移ろいゆく淋しさを小さくなった十団子で表現している。十団子は駿河の国(静岡県)宇津谷峠の名物の団子で、十個ずつが紐や竹串に通されている。魔除けに使われるものは、元々かなり小さい。
 作者の森川許六は彦根藩の武士で芭蕉晩年の弟子。この句は許六が芭蕉に初めて会った時持参した句のうちの一句である。芭蕉はこれを見て「就中うつの山の句、大きニ出来たり(俳諧問答)」「此句しほり有(去来抄)」などと絶賛したという。ほめ上手の芭蕉のことであるから見込みありそうな人物を前に、多少大げさにほめた可能性も考えられる。俳諧について一家言あり、武芸や絵画など幅広い才能を持つ許六ではあるが、正直言って句についてはそんなにいいものがないように私は思う。ただ「十団子」の句は情感が素直に伝わってきて好きな句だ。芭蕉にも教えたという絵では、滋賀県彦根市の「龍潭寺」に許六作と伝えられる襖絵が残るがこれは一見の価値がある。(文)安居正浩 ≫

句意(その周辺)=蕉門随一の「画・俳二道」を究めた、近江国彦根藩士「森川許六」に、「十団子も小粒になりぬ秋の風」と、この「宇津谷峠の魔除けの名物の十団子」の句が喧伝されているが、「秋の風」ならず、「冬の風(木枯らし)」の中で、その蕉門の「洛の細道」を辿る、一介の「旅僧・等覚院文詮暉真」が、「小さくなって、鬼退治させられた、その化身の魔除けの『宇津谷峠の名物の十団子』を、退治するように、たいらげています。」

牡丹唐獅子図.jpg

伝・ 森川許六「牡丹唐獅子図」(部分)

https://yuagariart.com/uag/shiga04/

(抜粋)

≪ 江戸時代の早い時期に活躍した彦根の画人としては、search 森川許六(1656-1715)がいる。許六は彦根藩士の子として彦根城下に生まれ、若いころから漢詩を学び、画は江戸の中橋狩野家の狩野安信に学んだとされる。江戸詰の時に晩年の松尾芭蕉に入門し、蕉門十哲に数えられるほどになり、芭蕉に画を教え、芭蕉の肖像画も描いている。
 許六は、古代中国で士以上の者が学修すべきとされた、礼(礼節)、楽(音楽)、射(弓術)、御(馬術)、書(文学)、数(算数)の六芸に通じた多芸の才人で、師の芭蕉から「許六」の号が授けられた。許六が江戸での勤務を終えて彦根に帰る際には、それを惜しんだ芭蕉から「許六離別の詞」と俳諧の奥伝書を贈られたという。
 許六の書画は、彦根市平田町にある明照寺に伝えられ、古沢町にある井伊家の菩提寺・龍潭寺には、許六作と伝わっている牡丹唐獅子図をはじめとした56面に及ぶ襖絵があり、彦根市の文化財に指定されている。
 許六と同時期に彦根藩の御用をつとめていた絵師としては、大形藤兵衛(不明-1675)がいる。藤兵衛は、判明している最も古い彦根藩御用絵師で、幕府の御用をつとめ、狩野探幽と同じ所にいて活躍していたといい、徳川将軍家の上洛の絵図と屏風、彦根城鐘丸御守殿の笹の間の障壁画を描いた。
 藤兵衛の養子で二代を継いだ幽心は、禁裏絵所の狩野流弥に学び、幽心の養子で三代となった養川は木挽町の狩野常信に学んだとされる。二代幽心と三代養川は6年間江戸に滞在して国絵図の制作をした。四代は養川の実子の藤十郎が継いだが、延享4年に絵師としての活動をやめている。≫(「UAG美術家研究所」)
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