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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その十) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「渡辺崋山(「序」と鈴木三岳「跋」」)」周辺

俳画譜一.jpg

(左図:「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「序」=「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」の「跋」)
(右図): (『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「跋」)

 この(左図:「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「序」は、その原本の「(題籢)游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」(「俳画譜(崋山作・紙本墨画淡彩 29.0×32.3㎝)」)の「跋文」(崋山自跋)で、その「跋文」(崋山自跋)を「序」にしている。
 そして、上記の(右図): (『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「跋」)は、この編者の「鈴木三岳」の「跋文」で、その「跋文」によると、田原蟄居中の崋山に俳画の指導を受けていた三岳に、その手本として恵与したものとしるされており、それらの原本を基にして、崋山没後の、嘉永二年(一八四九)に、鈴木三岳が版行したものということになる。
 この嘉永二年(一八四九)は、崋山が自刃した、天保十二年(一八四一)の、八年後のことなのだが、崋山は罪人としての自刃であり、崋山の墓の建立は許されず、幕府が崋山の名誉回復と墓の建立とを許可したのは、幕府滅亡直前の慶応四年(一八六八)と、この「崋山俳画譜」が版行されてからも、十九年の後ということになる。

俳画譜二.jpg

(左図:「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』)=「蕪村《遊舞図》」(蕪村写意/夜半翁画ハ古澗(こかん)/ノ意ヲ取ニ似タリ)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175_p0009.jpg
(右図): 「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」の「蕪村《相聞図》」(蕪村写意/夜半翁画ハ古澗(こかん)/ノ意ヲ取ニ似タリ) (『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」など)

「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」(原本)と『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』(版本)との関係などについては、下記のアドレスで触れた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-08-02

(再掲)

≪(補記その三) 「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」(原本)と『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』(版本)との関係

「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」(原本)の内容(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」)と『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』(版本)との相互関連

「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」(原本)の内容(順序)

(題籢) 游戯三昧 小舟題
(画一) 団扇と蛍図
(画二) 田草取図
(画三) 燈下読書図 立圃画意 →『崋山画譜』(版本)の(画二)
(画四) 朝顔図 →       『崋山画譜』(版本)の(画七)
(画五) 釣瓶と鶯図 一蝶画題 →『崋山画譜』(版本)の(画四)
(画六) 狩衣人物図
(画七) 狐面図
(画八) 籠に雀図
(画九) 祈祷図
(画十) 茄子図 松花堂画法 →『崋山画譜』(版本)の(画一)
(画十一)游舞図 →『崋山画譜』(版本)の(画六)に、(画十四)の賛(蕪村写意)を用いる。
(画十二)夕立図 →『崋山画譜』(版本)の(画八)
(画十三)枯木宿鳥図 許六写意 →『崋山画譜』(版本)の(画五)
(画十四)相聞図 蕪村写意→「賛」(蕪村写意と賛文)のみ『崋山画譜』(版本)の(画六)に。
(画十五)梅樹図 光悦写生→『崋山画譜』(版本)の(画三)
(跋)  →        『崋山画譜』(版本)の(序)

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』(版本)の内容(順序)

『崋山画譜』(版本)の(序) →「游戯三昧 小舟題」(原本)の「跋」文
『同』(版本)の(画一)   →「同」(原本)の「画十」(茄子図 松花堂画法) 
『同』(版本)の(画二)   →「同」(原本)の「画三」(燈下読書図 立圃画意)
『同』(版本)の(画三)   →「同」(原本)の「画十五」(梅樹図 光悦写生)
『同』(版本)の(画四)   →「同」(原本)の「画五」(釣瓶と鶯図 一蝶画題)
『同』(版本)の(画五)   →「同」(原本)の「画十三」(枯木宿鳥図 許六写意)
『同』(版本)の(画六)→「同」(原本)の「画十一・游舞図」と「画十四・蕪村写意と賛文」
『同』(版本)の(画七)   →「同」(原本)の「画四」(朝顔図と崋山の句)
『同』(版本)の(画八)   →「同」(原本)の「画十二」(夕立図と崋山の句)
『同』(版本)の(跋=編者・鈴木三岳の「跋」文)    

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』(版本)

https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html

[出版地不明] : [出版者不明], 嘉永2[1849]跋
1帖 ; 29.0×15.5cm
書名は題簽による 扉題:崋山翁俳画/椎屋蔵板 色刷/折本   ≫

 ここで、≪「のぼり」と「のぼる」―俳句・雑俳・狂歌・軟文学の世界に遊ぶ崋山の使い分け―(「おもしろ日本美術3」No.9)≫と≪渡辺崋山の草体画(3)―背景に天下泰平、江戸後期の洒落本・軟文学流行の世情―(「おもしろ日本美術3」No.7)≫ちを、(参考)として、抜粋して置きたい。

(参考) 「のぼり」と「のぼる」―俳句・雑俳・狂歌・軟文学の世界に遊ぶ崋山の使い分け―(「おもしろ日本美術3」No.9)と「渡辺崋山の草体画(3)―背景に天下泰平、江戸後期の洒落本・軟文学流行の世情―(「おもしろ日本美術3」No.7

http://www.bios-japan.jp/omoshiro9.html

「のぼり」と「のぼる」―俳句・雑俳・狂歌・軟文学の世界に遊ぶ崋山の使い分け―(「おもしろ日本美術3」No.9)

(抜粋)

≪ 渡辺崋山は、「客坐掌記」と通称する手控冊をこまめに記しており、それが亡くなった時には背の高さまであったと言う。

用途から、自らの本画の小下絵を収録した小下絵冊、各地各所で寓目した書画を記録として写し留めた過眼録、さらに今でいう純粋な写生冊と、大きく三種類に分類できる。画家の貴重な制作記録となる小下絵冊としては、『辛己画稿』(一八二一)、『壬午図稿』(一八二二)、『辛卯稿』(一八三一)などが数点知られている。これらを除いた大半が、寓目・過眼の記録冊であり、千葉県の素封家浜口家所蔵の二十冊の『客坐縮写』もその一部である。冊中には草筆のクロッキーや俳画に通じる洒落た略筆画も数多く出てくる。浜口家の客坐掌記の内の一つに、松崎慊堂の誕生日の宴のスケッチがあるが、その経緯が『慊堂日暦』中にも記されていて、そのあまりの迫真さに驚いたとの慊堂のコメントもある。

『客参録』『全楽堂日録』は、過眼録の一種であるが、むしろ紀行画文冊(旅行記)というべきもので、片や崋山が藩主に随って国元田原まで赴いた時の、また片や日光奉行に任命された藩主に随行して日光を訪れた時の記録である。前者は、隊列の中に馬に乗った自分自身をも描き、「渡辺登」と注記している。どちらも洒脱な筆でのびのびと活写している。

さて、かつてコロタイプの複製も作られた『刀禰游記』なる紀行画巻がある。代表作『四州真景』を描かれた文政八年(一八二五)崋山三十三歳の同時期の作品で、世話になった銚子の大里桂丸に贈った一巻と自らの手元においた一巻の正副二本が知られている。前者は、崋山歿後百年祭記念の『錦心図譜』掲載の一本であり(作品番号七九)、大里家にそのまま伝えられていたが、戦災で焼失してしまったという。後者は、『藝苑叢書』中の一冊として二分の一大の複製が作られておりその詳細を窺い知ることができる。

両本とも、その書体が崋山らしくないということで、一部に否定する向きもあったが、そこで紐解くべきは、当時、文政八年の手控冊類であった。幸い浜口家の二十冊のまとまった『客坐縮写』中、その「第五」は、船の舳先の図から旅行の記録が展開され、ずばり、この『刀禰游記』はもとより、名宝『四州真景』の成立にもつながる貴重な房総旅行の紀行日誌である。

冊中、崋山が銚子の豪商豊後屋に逗留し、所蔵のコレクション等を模写する中、なんと三十九頁にも亘って情熱的に描きとめた一図に、宝井其角(一六六一~一七○七)の『一瞬行』(「舛屋源之丞持ち来たる」とある)の写しがある。これを見るかぎり、『刀禰游記』のその特徴的な書体は、「乱筆は神仏ののりうつりかきしとかヲ云」と崋山が評する其角の螺旋バネのような筆跡に似せたものと判明。しかも、後者の詞書中、「前橋風土記云刀根川出於士峯西越後界」との『翎毛虫魚冊』などの註記にも共通する崋山の見慣れた階書の註記四行が織り込まれ、正しく崋山真筆との自己アピールが添えられている。

なお、『一瞬行』そのものは、確かに其角の元禄十年秋の事蹟として『句空庵随筆』に記載があるものの、元禄十二年の江戸大火で日記・句稿が焼失し、その復元作業の中で、同十四年二月刊行された著作集『焦尾琴』(同年初版、寛保三年再版)の内に、これを再編成したものとして、「早舟の記」との名で収録されている。内容は、「一日琴風亭に遊んで二丁こぐ舟の」と、琴風亭を訪れた其角が、中国赤壁の故事にならって風雅な隅田川の舟遊びをした、その折の感興を綴った句文である。

そこで、改めて崋山の『刀禰游記』にスポットを当てると、巻末には「文政乙酉のとし仲秋、良夜たまたま雲はれて、すぎし遊びを思い出し、忘れぬうちに其あらましを記し、大里ぬしの一笑を博むといふ。わたなべのぼる」とあり、銚子逗留中の崋山は、ふとしたことから土地の富豪大里桂麿と近づきとなり、俳人蓬堂を加えた三人で利根川に舟を浮かべて十五夜の月を江上に同様な遊びを楽しんだものと判る。江戸に戻った崋山が九月十五日、仲秋の名月にこれを回想して画巻にまとめ、世話になった大里氏に旅の恩義の答礼として贈ったとの次第であろう。

カットの一は崋山が桂麿に所蔵の書画を見せてもらい美術談義に花を咲かすところ、二は崋山と桂麿が俳人蓬堂を誘い出すところ、三は利根川対岸の景色、四は小舟の中で盃片手に悦に入っているところの計四図である。 (文星芸術大学 上野 憲示)  ≫

http://www.bios-japan.jp/omoshiro7.html

渡辺崋山の草体画(3)―背景に天下泰平、江戸後期の洒落本・軟文学流行の世情―(「おもしろ日本美術3」No.7)

≪ 崋山は、残された書簡・記録類からは、生来のまじめ人間と知れるが、少々突っぱってまじめに「不まじめ」を行うという一面があった。もちろん、文人仲間のサロンや北関東、東海地方の数寄者との遊興の集いの中で、自然と身に備わったものであるが、気の置けない後輩や弟子たちに対しては、人生の先輩カゼを吹かせての偽悪的なポーズを見せることもあった。

『校書図』は、ひいきの芸妓お竹をモデルに少々スノビッシュに描いたもので、「飲啄、牝牡之欲ノ無キ者ハ人二非ラズ也・・・因リテ予ノ愛妓ヲ写シ、顕斎二寄ス。顕斎與予ハ同好也否」と気負った戯文を画中に添えて門人平井顕斎に与えている。

そもそも崋山は、師匠の桃隣が春本を書いていたこともあってか、若い頃から生活のため春画を描くことがあったようである。『寓画堂日記』に「模春画」「画春画」「描春画」の文字が散見し、後の手控えにも「合歓図」の模写などが認められる。

関東大震災で本画が焼失した「品川清遊図」(文晁、抱一、崋山の三人連れが品川の妓楼に遊んだ時の情景)なども、今となっては真贋を論じるすべもないが、文晁、抱一の逸話の数々と照らしても十分考え得る設定ではあり、残された写真カットに見る筆力も凡庸ではない。

当時、遊里は公認の歓楽街であり、宿場に飯盛女はつきものであり、そこで遊ぶことに対しては、男振りを上げはすれども決して後ろめたい行為ではなく、何人も大仰に構えずに気楽に現世を謳歌していたのである。

崋山は、売春行為に対しては、「何分御領分風俗悪敷相成、大ニ御政事御繁多ニて御行届無之・・とその弊害を認めつつ、「大国ニハナケレバナラヌ者と奉存候。又他の金銀ヲ引よせ候一術に候」と必要悪と考えていた。「織女ハ抱女故ニ夜私ニかせき候事ハ大目ニ見」、「織屋さへ多く出来候得ばウチ置ても如此相成とのよし」との便法も崋山ならではであろう(田原藩士宛書簡『崋山書簡集』36)。

なお、重要美術品の指定を受けながらも、先学菅沼貞三氏の否定論を受け所在不明となった幻の名品、『目黒詣』については再評価の時が来ていると信じたい。同作品は、文政十二年十月十四日、渡辺崋山が田原藩の同僚、鈴木修賢、鷹見定美、上田正平と、連れ添って目黒へ物見遊山に出かけた折の挿図入り戯文画巻である。落款は、漢字で“渡辺登”とある。

初冬のある日、崋山ら四人は、藩主から、たまにはゆっくり遊山でもして来いとばかり、一日の特別休暇を許された。忙しい藩務から久々に解放ざれ、「いのちありて小春に遊ぶ牡の蝶」の崋山の句のとおり、まさに命の洗濯といったものであった。酒肴を担いで目黒方面を散策し、酒亭「ひちりき」で酒宴を張り、最後は藩主へのおみやげを担いで千鳥足で家路へ向かうといった次第、挿入の狂歌は「みなひとの酔へば臥すともひちりきやねの高きにも驚かれぬる」「枝笛によい婦もあってひちりきや人目多うて笙琴もなし」と、管楽器の「ひちりき」に懸けて、料亭「ひちりき」が値の高さと、お互いの目があってはめを外せないさまを皮肉る。帰りの道すがら、貰った柿の実を、喉が乾いたから食べてしまおうかと軽口も出る。藩公へ土産として買ったものゆえまかりならぬと押し留めると、さらに一人が、しゃあ、しぶき、すなわちおしっこでも飲もうかと、おどける。こんな楽しい戯文の画巻である。が、忠孝の士と名高い崋山にあって、主君に関することで決してこんな下品な表現はあり得ないといった批判も当然出てくるが、俳聖芭蕉にも、「蚤虱 馬の尿する枕もと」の有名な句がある。

挿画は七図で、軽妙な草筆の飄々とした味わい深い戯画である。担ぎ棒の先に弁当、後ろに酒を満たしたふくべを吊して軽快に歩む上田の図。茅屋図。薄の茂る野で足を止め、遠慮無く呑めるぞとばかりふくべの酒をがぶ呑みする上田、独り呑ませてなるかとこれを制する鈴木、弁当に箸をつける崋山、酒なぞ呑み飽きたとばかり超然としている鷹見と四人四様の光景。酔いが回って小川の前で立ち往生する上田の図。迷い出たところの草庵の娘に道を尋ねる図。目黒の酒亭「ひちりき」での宴席の光景。藩主へのみやげを上田と鷹見で軽口を言い合いながら担ぎ、鈴木の持つ提燈が燃え出して崋山がこれを急ぎ消し止めようといった帰り道での酩酊状態の四人の図。

以上の展開であるが、天保三年の『客坐掌記』に見る勧進能の場の弁当売りや茶売りの速筆写生との共通点も十分に認められ、またその書も、草書はもちろん、巻末近くの七絶の漢詩の行書風の書はまさに崋山その人の執筆と頷かせるものである。

私としては、崋山真筆の可能性が高いものとみて、さらに地道な検討を続けることに努めたい。 (文星芸術大学 上野 憲示)

品川清遊図.jpg

「品川清遊図」

「目黒詣図」


目黒詣図一.jpg

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『校書図』


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http://blog2.hix05.com/2021/03/post-5723.html

≪「校書」とは芸者のこと。中国の故事に、芸妓は余暇に文書を校正するという話があることに基づく。崋山といえば、謹厳実直な印象が強く、芸者遊びをするようには、とても思えないが、この図には、崋山らしい皮肉が込められている。
 画面左上に付された賛には、概略次のような記載がある。「髪に玉櫛金笄を去り、面に粉黛を施さず、身に軽衣を纏うて、恰も雨後の蓮を見るようだ」と。これに加えて、近頃は世が豪奢を禁じたと言う指摘あがる。つまりこの絵は、世の中が窮屈になって、芸者も質素な身なりを強いられていることを、揶揄しているとも考えられるのである。
 いわゆる天保の改革が本格化するのは天保十二年のことで、日本中に倹約精神が求められた。この絵が描かれたのは天保九年のことだから、まだ改革は本格化してはいなかったが、一般庶民への強制に先だって、芸者や河原ものへの抑圧は高まっていたようだ。そうした社会的な抑圧は、社会の底辺部にいるものから始まって、次第に一般庶民を巻き込んでいくものだ。崋山は、そうしたいやな時代の流れを敏感に受け取っていたのであろう。≫(「続壺齋話」)
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