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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その九) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「渡辺崋山(「夕立図」)」

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https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175.html

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≪「鳶乃香もいふたつかたになまくさし」の意味は、天空を飛んでゆく鳶の香も、地上にある物の香りも、夕立が通っていく方向に、なま臭い感じをさせて移ってゆく、というような意味で、夏の夕立の湿気を感覚的に捉えたものであろう。 ≫(『渡辺崋山の神髄(平成30年度特別展・田原市博物館編)』所収「図版解説63」)

 この「夕立図」は、何とも、当時の、幽閉中の「渡辺崋山」その人を暗示しているような、そんな印象を深くさせる。これは、「夕立ち」の中の、馬上の武士(崋山その人)と、その従者の図と解してよかろう。そして、その「夕立図」に賛した、その自画賛の一句、「鳶乃香もいふた(だ)つかたになまく(ぐ)さし」の、「なまく(ぐ)さし」というのは、渡辺崋山が連座した、所謂、天保一〇年(一八三九)の、「蛮社の獄」(江戸幕府が洋学者のグループ尚歯会に加えた弾圧事件)などの、当時の江戸幕府の文教をつかさどる林家出身の目付・鳥居耀蔵などの暗躍を指しているようにも思われる。
 この「蛮社の獄」により、渡辺崋山は、「国許(田原藩)蟄居(ちつきよ)」を命ぜられ、その二年後の、天保十二年(一八四一)十月十一日、藩に迷惑が及ぶことを恐れた崋山は「不忠不孝渡辺登」の絶筆の書を遺して、池ノ原屋敷の納屋にて切腹し、その四十九年の生涯を閉じることとなる。

「渡辺崋山(略年譜)」(「公益財団法人崋山会」など)

https://www.kazankai.jp/kazan_history.php

寛政5年(1793)1歳 9月16日、江戸麹町田原藩上屋敷に生まれる。
寛政7年(1795)3歳 妹茂登生まれる。
寛政9年(1797)5歳 この年、軽い天然痘にかかる。
寛政12年(1800)8歳 若君亀吉のお伽役(おかやく)になる。妹まき生まれる。
享和元年(1801)9歳 最初の絵の師、平山文鏡(田原藩士)亡くなる。
享和3年(1803)11歳 弟熊次郎生まれる。
文化元年(1804)12歳 日本橋で備前侯行列に当り、乱暴を受け発奮する。
文化2年(1805)13歳 鷹見星皐に入門し、儒学を学ぶ。弟喜平次生まれる。
文化3年(1806)14歳 若君元吉(後の康和)のお伽役になる。
文化4年(1807)15歳 弟助右ヱ門生まれる。
文化5年(1808)16歳 絵師白川芝山に入門する。星皐より華山の号を受ける。藩主康友に従って田原に滞在する。
文化6年(1809)17歳 金子金陵に絵を学ぶ。金陵の紹介により谷文晁に絵を学ぶ。
文化7年(1810)18歳 田原に藩校「成章館」創立。妹つぎ生まれる。
文化8年(1811)19歳 佐藤一斎から儒学を学ぶ。
文化10年(1813)21歳 妹つぎ亡くなる。
文化11年(1814)22歳 納戸役になる。絵事甲乙会を結成し、画名が世に知られる。
文化13年(1816)24歳 弟五郎生まれる。
文化14年(1817)25歳 父定通、家老となる。
文政元年(1818)26歳 正月、藩政改革の意見を発表。長崎遊学を希望したが父の反対のため断念する。「一掃百態図」を描く。 藩主康友に従って田原に滞在する。
文政2年(1819)27歳 江戸日本橋百川楼で書画会を開く。
文政6年(1823)31歳 和田たかと結婚する。「心の掟」を定める。
文政7年(1824)32歳 7月、家督する。父定通亡くなる。
文政8年(1825)33歳 この年から松崎慊堂(まつざきこうどう)に儒学を学ぶ。
文政9年(1826)34歳 江戸宿舎にてオランダ使節ビュルゲルと対談。長女可津生まれる。この頃から画号「華山」を「崋山」と改める。
文政10年(1827)35歳 10月、三宅友信に従い田原に来る。
文政11年(1828)36歳 「日省課目」を定め修養に努める。側用人となり、友信の傅を兼ねる。
文政12年(1829)37歳 三宅家家譜編集を命ぜられる。弟喜平次亡くなる。
天保元年(1830)38歳 埼玉県尻に三宅氏遺跡を調査し、のちに「訪録」を書く。弟熊次郎亡くなる。
天保2年(1831)39歳 江戸藩邸文武稽古掛指南世話役となる。妹まき亡くなる。9月から門弟高木梧庵を伴い厚木を旅し「游相日記」を書き、10月、桐生、足利、尻地方に旅し「毛武游記」を書く。
天保3年(1832)40歳 家老となる。紀州藩破船流木掠取事件、助郷免除事件あり。長男立生まれる。
天保4年(1833)41歳 1月、家譜編集などのため田原に来て、「参海雑志」を書く。
天保5年(1834)42歳 幕命の新田干拓中止の願書を上申。農学者大蔵永常を田原藩に招く。
天保6年(1835)43歳 報民倉竣工。二男諧(後の小華)生まれる。
天保7年(1836)44歳 田原地方が大飢饉になる。
天保8年(1837)45歳 真木定前を田原に遣し、飢餓を救う。年末、無人島渡航を藩主に願うが許されず。「鷹見泉石像」を描く。弟五郎亡くなる。
天保9年(1838)46歳 年初、「退役願書稿」を書く。蔵書画幅を藩主に献上する。「鴃舌或問」、「慎機論」を著す。儒者の伊藤鳳山を田原藩に招く。
天保10年(1839)47歳 江戸湾測量で伊豆の代官江川坦庵に、人材器具を援助する。5月14日、蛮社の獄により北町奉行所揚屋入りとなる。12月18日、田原蟄居の申渡しを受ける。
天保11年(1840)48歳 1月20日、田原着。2月12日、池ノ原屋敷に蟄居。
天保12年(1841)49歳 10月11日自刃する。

 ちなみに、この「崋山俳画譜」を、嘉永二年(一八四九)に版行した、「鈴木三岳」(一七九二~一八四五)は、当時の吉田藩(現豊橋市)の御用達商人で、味噌溜の醸造業を営み、田原蟄居中の崋山に俳画の指導を受けていたという、崋山没後のものなのである。(『渡辺崋山の神髄―田原市博物館 平成30年度特別展』)

 また、こ「崋山俳画譜」中の、二枚の、崋山の自賛句入りの俳画の、「渡辺崋山(朝顔図)」(朝皃は下手のかくさへあはれなり)が、「朝顔図に朝顔の句」の、所謂、「べた付け」に対して、この「渡辺崋山(「夕立図」)」(鳶乃香もいふたつかたになまくさし)の、「夕立ち図に鳶の句」は、所謂、「匂い付け」のものということになる。

(参考)「べた付け」(「物付け」)と「匂い付け」(「心付け・余情付け」)周辺

http://www5a.biglobe.ne.jp/~RENKU/nmn17.htm

【歌仙・付けの種類】

二条良基の『僻連抄』(1345 ?)による最古文献による分類は15。平付の句(ひらつけのく)、四手(よつで)、景気(けいき)、心付(こころづけ)、詞付(ことばづけ)、埋句(うづみく)、余情(よせい)、相対(あいたい)、引違(ひきちがい)、隠題(かくしだい)、本歌(ほんか)、本説(ほんぜつ)、名所、異物、狂句(きょうく)。ただしこれは付けの態度、表現、題材による分類が混在したもの。その後宗祇(-1502)の分類を経て、宗牧(-1545)が『四道九品』(しどうくほん)で、付けの態度を中心に添(てん)、随(ずい)、放(ほう)、逆(ぎゃく)の4つに大別したのが画期的だったがあまり普及しませんでした。
 蕉風の付合(つけあい)に至った過程については、『去来抄』の説、「先師曰く、発句はむかしよりさまざま替り侍れど、付句は三変也。むかしは付物を専らとす。中頃は心付を専らとす。今は、移り、響、匂ひ、位を以て付くるをよしとす。」が革命的で、今日芭蕉を讃える源泉となっています。

 つまり貞門時代が物付(ものづけ)、談林時代が心付(こころづけ)、いまの蕉門時代が余情付(よじょうづけ)または匂い付けと奥行を広げたことになります。

<物付> 歌いづれ小町をどりや伊勢踊   貞徳  
   どこの盆にはおりやるつらゆき   同 

小町+伊勢→貫之、踊→盆、というように前句のことばや物によって付ける。

<心付> 子をいだきつつのり物のうち    宗因  
       度々の嫁入りするは恥知らず    同

前句のあらわす全体の意味や心持ちに応じて付ける、すなわち句意付けです。

<余情付> 移り(うつり)、響(ひびき)、匂ひ(におい)、位(くらい)の付けは、すべて広くいえば心付に含まれるが、談林風の心付が前句の意味内容に応じたものであったのに対して、蕉風のそれは前句の気分、余情、風韻を把握し、それに応え合い、響き合うものを付ける、これが余情付です。
 付句を付けるというのは、まず付合(付けの種類)を物付にするか、句意付にするか、余情付にするかを決め、次に付心(つけごころ、付けの手法・態度)を決め、付所(付けの狙いどころと手がかり)を探してから、瞬時考えて句を作るという感覚的で、時には禅に通ずる暝想的な作業であり、その結果が付味(付けの効果)になります。
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