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「鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その五) [光悦・宗達・素庵]

その五 「A図」(その二)

鶴下絵二.jpg

「鶴下絵三十六歌仙和歌巻、別称『鶴図下絵和歌巻』」の「A-1図」
柿本人丸(人麻呂) ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島隠れ行く舟をしぞ思ふ(「撰」)
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item02.html  ほのぼのとあかしの浦のあさぎりに島がくれゆく舟をしぞおもふ
(訳)ほのぼのと明けてゆく明石の浦の朝霧の中を、漕ぎはなれつつ島に隠れてゆく舟、その行方を見送りつつ、しみじみと身にしみる旅情である。(『秘宝 三十六歌仙の流転 絵巻切断(馬場あき子著・NHK取材班)』)

人麿像・佐竹版.jpg

http://idemitsu-museum.or.jp/collection/painting/yamatoe/03.php
【佐竹本三十六歌仙絵「柿本人麿」 重要文化財 出光美術館蔵
(さたけぼんさんじゅうろっかせんえ 「かきのもとのひとまろ」)
画/伝 藤原信実 詞書/伝 後京極良経 鎌倉時代 13世紀 紙本着色墨書
36.0×60.6cm
 もとは巻子装でしたが、現在は各歌仙ごとに分断されています。藤原公任が撰した三十六歌仙にもとづき、上下2巻に18人ずつを配置しています。位記、略伝、詠歌を記し、歌仙の影像を加えます。本作品は、柔装束で和歌を思案する人麿を描いています。柔らかい細線を引き重ねて描かれた、優れて個性的な表情は、鎌倉時代に流行した似絵の趣向を反映しています。京都・下鴨神社に伝来し、のちに佐竹家にもたらされたことから「佐竹本」の呼称があります。】

 この「藤原信実」については、下記のアドレスなどで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-02-13  

また、「後京極良経」については、下記のアドレスなどの他随所で紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-21-1

http://www.konpira.or.jp/museum/houmotsu/treasure_house_2015.html

【狩野探幽画・日光宮尊敬親王書「三十六歌仙・人丸」金刀比羅宮宝物館蔵 】

 狩野探幽についても、下記のアドレスなどで折に触れてその作品について触れてきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-04-01

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-05-06

探幽・人麿像.jpg

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-11-23

 この探幽の「三十六歌仙扁額」(金刀比羅宮宝物館蔵)が、慶安元年(一六四八)作とすると、探幽、四十六歳時の作品で、この時には、「素庵(一六三二年没)・光悦(一六三七年没)・昭乗(一六三九年没)」も亡くなっている。宗達も、その後継者の宗雪が、寛永十九年(一六四二)には法橋位にあるので、既に没しているのかも知れない。
 この「三十六歌仙扁額」は、探幽だけではなく、「探幽(1602~1674)・尚信(1607~1650)・安信(1613~1685)」の狩野家三兄弟の揃い踏みの扁額(奉納額)で、その絶頂期の頃の作品の一つと解して差し支えなかろう。
 この探幽の「人丸像」に讃する「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ」の書は、「日光宮尊敬親王」の書である。この「日光宮尊敬親王」は、守澄法親王(しゅちょうほっしんのう、寛永11年閏7月11日(1634年9月3日) - 延宝8年5月16日(1680年6月12日))であろう。

1634年(寛永11年)閏7月、後水尾天皇の第3皇子として誕生。
1638年(寛永15年) 江戸幕府が対朝廷政策・宗教政策の一環として、幕府が朝廷に対して皇子下向の要請を出し、翌年に幕府と朝廷との間に皇子下向の契約が結ばれる。
1644年(寛永21年) 青蓮院で得度(尊敬法親王)
1647年(正保4年) 関東に下向し東叡山に入る。
1648年(慶安元年) 3回の日光登山を行う。
1649年(慶安2年) 一品宣下のため上洛。

 この他に、「青蓮院宮尊純親王・梶井宮盛胤法親王・滋野井大納言季吉・妙法院宮堯然親王・円満院門跡大僧正常尊・実相院門跡大僧正義尊・竹内宮良尚親王・高倉大納言永慶・竹屋参議光長・小川坊城中納言俊完」などが書を揮毫している。
 本阿弥家と光悦に関する家伝書の『本阿弥行状記』に「予三十八の年、今の青蓮院宮にまみえし、此御無沙汰を慎みて承りぬ」(第三七九段)とあり、光悦は守澄法親王と同じ流派の「青蓮院流」(御家流)の筆道伝授を受けている。
 また、「青蓮院御門主の御弟子、近衛応山公(三藐院近衛信尹)、滝本坊(松花堂昭乗)、私(光悦)三人に筆道の御伝を請候節、門主被候趣は、今日筆上の伝残らず済候上は、三人とも自分の流儀を立られ可然候」(七二段)とあり、いわゆる「寛永三筆」の「近衛信尹・松花堂昭乗・本阿弥光悦」は、それぞれ、その源流は「青蓮院流」(御家流)ということになる。
 ここで、光悦の人丸の歌「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ」の「ほのぼの」の「ほの」は「保濃」の表記のようであるが、日光宮尊敬親王の「ほの」は「帆能」のようで、この「保濃」「帆能」の表記の違いなどに、その和歌を揮毫する、その人の感性というのが伝わって来るように思われる。
 それは、光悦(そして素庵)流の「保濃」は、その文字(変体仮名)の意味性といよりも、強弱などの造形性を重視するのに比して、日光宮尊敬親王流の「帆能」は、造形性よりも文芸性(意味・趣向性)に配慮しているというような相違である。


(追記一)宗達の「歌仙絵色紙 柿本人麻呂」関連

宗達・人麿像.jpg

俵屋宗達筆「歌仙絵色紙 柿本人麻呂」紙本墨画淡彩 一幅 一九・〇×二〇・三㎝
「宗達法橋」、「青軒」白文長方印
【 この二面(他に「藤原俊成像」)の歌仙絵は、もと三十六枚一組として、金銀泥下絵の描かれた色紙とともに屏風に貼られていた。図様は「時代不同歌仙絵」に範を取っている。おそらく、白描風に描かれた粉本に倣ったと思われるが、この作品の線描は実に柔らかい。この線の持つ味わいを活かすように淡彩が施され、情趣に富んだ歌仙絵にとなっている。顔貌も細く柔らかい筆致で丁寧に描かれ、頬の線を省略するのが描法上の特徴にあげられる。紙本墨画淡彩という画体の中で、もっとも優れた作品である。画面には「青軒」白文長方印が捺されており、俵屋の印として知られる「対青」、「対青軒」朱文円印との関係に興味がもたれる。 】(『日本美の精華 琳派・一九九四-九五・朝日新聞社』所収「作品解説:26・27」)

宗達は、「法橋宗達」と署名(落款)する場合と、「宗達法橋」と署名する場合とがある。この歌仙絵色紙では、「宗達法橋」である。この二つの落款の違いを「一人称」と「三人称」との違いだとの説明されることがある。「法橋宗達」というのは、「法橋の宗達」と自己紹介的な「一人称」の用例で、「宗達法橋」の方は、「宗達は法橋である」と「三人称」的な用例であるとの相違の説明である(『俵屋宗達 琳派の祖の真実(古田亮著)』)。
 そして、この「宗達法橋」という用例は一般的な用例ではなく、商標的なニュアンスも感じられ、ブランド名のような意識が感じられるが、「両方を何かの意味があって使い分けたのか、それともある時期から変えたのか」は「今のところは謎というしかない」と述べられている(『古田・前掲書』)。

鶴下絵S図.jpg

「鶴下絵三十六歌仙和歌巻、別称『鶴図下絵和歌巻』」の「S図」

 「序(その一)」で触れた、この「S図」に捺印されている「光琳」の印も、下記の「後印」(偽印)というよりも、上記の「宗達法橋」(三人称的用例)の「ブランド作品(光悦・宗達・素庵工房の協同制作的作品)の認定印のような理解も可能なのかも知れない。
(再掲)
【 本揮毫者は、最後の和歌を染筆し終えて、はたして古歌染筆の慣例を破ってまで自身の印を誇らしく捺印しようとするものだろうか。なんの意義があるのか。とうてい捺印できるものではない。先学はそのことをなぜ疑問に思わなかったのだろう。
 当初、そこには印章が捺されていなかったと考えるのが自然ではないか。捺印された「光悦」印が光悦の意思や光悦の存在とは関係なく、後世に捺された「後印」(偽印)ではないかと疑った根拠はそこにある。 】(『宗達絵画の解釈学(林進著・慶文舎刊・2016年)』「『三十六歌仙歌合』を探る」「歌人名の表記は『尚通増補本』」)

(追記二)「柿本人丸」の「人」の脱字など

【 宗達はここに和歌が書かれることを十分に計算して、下絵として金銀泥のみで描いている。このあまりにみごとな下絵を見て光悦は緊張したのだろうか。冒頭の和歌の作者を柿本人麿と書くべきところで「人」の字を書き忘れてしまった。また、三十六歌仙の和歌三十六首を書くべきところを何首か忘れ、あとから小さく書き込んだりしている。しかし、光悦の筆は堂々と鶴下絵の上を走り、たっぷりとした独特の書法を見せている。 】(『古田・前掲書』)

 この和歌の揮毫者(光悦又は素庵)は、当初から「柿本人丸」の「人」を書き忘れたのではなく、この和歌の作者名(柿本人麻呂・人麿・人丸)は、中国風の三字名の「柿本丸」で書き、その「丸」は「翁」とか公家風の「麿」とかの意を含んでのものという理解もあるのかも知れない。そして、後で「人」の一字を追加したのは、他の作者名との兼ね合いで追加した方が良いという判断で、例えば、素庵が「本阿弥光悦に書を学び」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)の、光悦の指示に従ってのものなどの理解もあるのかも知れない。  
 それを一歩進めると、「光悦が簡単なお手本を示し、それらを参考にして素庵が、この書を揮毫し、全体を見て、この『人』の一字と、書き漏れの『源重之と源信明』の歌などの追加書きを、光悦自身が成し、そして、この作品の出来ばえを可として『光琳』の印を押印した」という考え方も、成り立つ余地もあるのかも知れない。

(追記三)「吉祥画」としての「鶴」、そして「偽作」説など

【 全巻をとおして優に百羽を超える大量の動く鶴を描き込んだこの作品は、吉祥画として大変にめでたい作品だという見方もできる。(中略)なお、この作品は一九六四年(昭和三十九)に発見され、世に認められてからわずか四十五年ばかりしかたっていない。発見当初は光悦の書き損じを理由に偽作であるとする説もあったが、のちに重要文化財指定も受け、両者合作のなかでも最高の作品と位置づけられている。鶴の連続モチーフは光琳以降も継承されていったので、近年では琳派を代表するイメージとして定着しつつあるのだが、それは宗達の独創であった。 】(『古田・前掲書』)

 この「吉祥画として大変にめでたい作品だという見方」と「この『潮の満ち引き』のモチーフは、宗達画の重要モチーフであり、『平家納経』化城喩品(けじょうゆほん)の表紙絵・見返絵や宗達筆『松島図屏風』に見ることができる。そのモチーフは、いつまでも変わらぬ状態(常なる状態)はなにもないという無常観を表す」(『宗達絵画の解釈学(林進著・慶文舎刊・2016年)』「モチーフは『潮の満ち引き』」)とは、相対立する見方ということになろう。
 そして、この両者の見方は、一方を「是」とし、一方を「非」とするものではなく、その両者の見方を是認し、それを止揚する見方も十分に可能であろう。
その上で、「発見当初は光悦の書き損じを理由に偽作であるとする説もあったが」に関連しては、下記のアドレスなどの「佐野乾山に関する真贋論争」と一脈通ずるものであることは、やはり特記して置く必要があろう。

http://kaysan.net/sano/ronsou.htm

https://yahan.blog.ss-blog.jp/search/?keyword=%E4%BD%90%E9%87%8E%E4%B9%BE%E5%B1%B1
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