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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その八) [岩佐又兵衛]

(その八)「豊国定舞台」で演じられているものは何か?

豊国定舞台.jpg

「豊国定舞台(とよくにじょうぶたい)」(右隻第一扇中部)→ A図

 下記のアドレスの記事は、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』の概要と、上記の図の「豊国定舞台」の一端を知るには、恰好のものである

https://bukkyo.userservices.exlibrisgroup.com/discovery/fulldisplay/alma991005210909706201/81BU_INST:Services

【 ひときわ目立つ若松図の空間はなにを表すか? 絵画史料論の極致を展開! 数多い洛中洛外図のなかでもの、国宝の上杉本、重要文化財の歴博甲本と並んで三大洛中洛外図屏風と称される東京国立博物館所蔵の舟木本。ほかの洛中洛外図と異なる大きな特徴は、岩佐又兵衛筆の躍動感溢れる人物群が織りなす絢爛豪華な画面構成である。
ところがこの屏風は長い間又兵衛の作品とはされてこなかった。この魅力ある近世初期風俗画をあくまで又兵衛の作と考える筆者は、ではこれがいつ、誰の注文により、制作されたかを、もっぱら屏風に描かれた表現や事柄を精査・検証し、歴史史料と突き合わせる絵画史料論の手法によって、さまざまな謎を解き明かすことで、核心に迫っていく。
 たとえば、その手がかりとして、描かれた六条柳町遊里の紺暖簾、方広寺豊国定舞台の能の演目、猪熊事件を思わせる若公家と上臈の姿、武家行列に視線を送る「かぶき者」の公家、二条城内での京都所司代板倉勝重の裁判、特徴的に描かれた9か所の若松図の空間、ひときわ目立つある人物表現の特異な筆致などの細部から読解を試みる。
 筆者はこの屏風が描く光景は慶長19年6月~9月、方広寺梵鐘の鋳造以降のこととする。それは豊国定舞台で演じられている能の演目は従来「松風」とされてきたが、じつは「烏帽子折」であり、『梵舜日記』の演能記録8月19日と一致することであるとか、画面中央を貫く京都の二条通の大名行列は京都所司代板倉勝重の三男重昌であり、二条城そばの所司代役所での行事記録によって7月のことと裏付けられることなどによる。
 当時有名であった官女密通事件を思わせる画像、五条大橋の上で踊る老婆は豊国社の桜を持つおね、右左隻のあちこちにみえる「宝」「光」の文字、ほかの洛中洛外図には描かれたことのない9か所にもおよぶ「若松」図に囲まれた空間、六条三筋町の遊里・享楽空間との親和性と注文主とのかかわりなど、画面に描かれた多くの謎解きから慶長19年のものとして記憶される京都の時空間を歴史事実と重ね合わせて描き出す。
 絵画の細部にまで注視し、史料による裏付けを行う著者ならではの、確信に満ちた初めての舟木本読解。 (『OpenBD』より)

目次

プロローグ 歴史のなかに舟木屏風を置く 1 舟木屏風の発見と美術史研究 2 紺暖簾と「吹上げ暖簾」―舟木屏風の表現技法 3 舟木屏風の視点・構図・描かれている事物―左隻と右隻 4 豊国定舞台の「烏帽子折」と桟敷―右隻の読解 5 猪熊事件・公家の放鷹禁止そして公家衆法度―左隻の読解 6 二条城へ向かう武家行列と五条橋上の乱舞―中心軸の読解 7 舟木屏風の注文主と岩佐又兵衛 エピローグ 京の町人と又兵衛が協作した舟木屏風 (『OpenBD』より)    】

一 「豊国定舞台」で演じられているものは何か?

 この問いには、上記の紹介記事によって、「『梵舜日記』の演能記録8月19日」に出てくる「烏帽子折」ということになる。「烏帽子折」の「あらすじ」は次のとおりである。

http://nohgaku.s27.xrea.com/tokushu/eboshiori-1.htm

【烏帽子折

◆あらすじ
◇配役 前シテ:烏帽子折
前ツレ:烏帽子折の妻
ワキ:三条吉次
ワキツレ:吉六
子方:牛若
後シテ:熊坂長範
後ツレ:立衆
アヒ:早打、宿の亭主、火振り

◇季節 秋9月
◇場所 前:近江国鏡宿
後:美濃国赤坂宿

 三条の吉次が、商売のために東方へ向かおうとしているところに、とある少年が一緒に連れて行ってくれるようにと頼む。
 この少年こそ、鞍馬寺を飛び出した(16歳になる)遮那王・牛若丸。
 本来ならば商人と主従となるなど考えられないことではあるけれども、何をおいても京都を離れなくてはならない状況の下、東へと進み、東山道は近江鏡の宿に到着した。
 ここは現在の滋賀県竜王町鏡。
 宿とした白木屋で、牛若丸は追っ手が来たことを知る。
 稚児の姿のままでは、すぐにみつかり捕らえられるであろうことを考え、追っ手の目を欺こうと元服して髪を切り烏帽子をつけることを思いつき、烏帽子屋を訪れる。
 烏帽子屋で何としても左折のものを所望する牛若丸。この平家一色のご時世に、源家の象徴の左折を望む若者を不審に思う烏帽子屋。左折の烏帽子について語り始め、そして程なく烏帽子が出来上がる。
 烏帽子を召す牛若。その姿はたいそう気高く立派である。そして烏帽子の代金に、持っていた刀を渡す。
 あまりに見事なものを賜り驚き、妻を呼び寄せる烏帽子屋。妻はそれを見て落涙する。
 この妻は実は、源義朝に仕えた鎌田正清の妹であり、その刀は自分が使者として牛若丸が生まれたときに渡したものであったのだ。
 妻はこの少年が牛若だと察し、牛若もこの女あこやの前を思い出す。
 再会を果たした二人であるが、夜明けとともに牛若は奥州へと発つ。

<前シテ・前ツレ中入り>

 牛若たち一行が赤坂宿に着いたことを聞きつけて、そのところの悪党熊坂長範たちが夜討にやってくるらしいということが知らされる。そこで吉次たちは早々に宿を発とうとするが、牛若は自分が斬り伏せると言ってとどまらせ、夜襲に備える。
 そこに熊坂の配下の小盗がやって来る。少々辺りを荒らし様子を伺っていると牛若を見つける。持って来た松明を投げ入れてみると、宙で切り落とされ、踏み消され、投げ返され・・・尻込みして帰ってしまう。
 とうとう熊坂と手下達がやって来た。松明の話を聞いて一度は引き返そうとするが、それも名折れと攻め入る。まずは手下達。牛若と戦ってはバタバタと切り倒される。そしてようやく熊坂の登場・・・しかし、やはり、切り倒されるのであった。  】

 これもまた、源義経の幼少期を題材とした「能」なのである。前回の「鞍馬天狗」と同じく、「能の牛若の物語を好み、源氏(新田氏)の後裔という強烈な自覚をもった注文主(とも思われる)、すなわち松平忠直」の好みの「語り」が、この舞台から伝わってくる。
 そして、この「烏帽子折」では、上記の「あらすじ」の、「烏帽子屋で何としても左折のものを所望する牛若丸。この平家一色のご時世に、源家の象徴の左折を望む若者を不審に思う烏帽子屋」の、その「左折の烏帽子」は金色なのである。

豊国定舞台・横になっている男.jpg

「豊国定舞台」の「左折烏帽子」と「寝そべっての観客二人」(右隻第一扇中部)→B図

 この「烏帽子折」の、牛若丸の頭上には、確かに、「金色の左折の風折烏帽子」が燦然と輝いている。この「金色の左折の風折烏帽子」は、次のアドレスの、「C図 山中常盤(山中常盤物語絵巻)」(重要文化財 全十二巻 各34.1×1239.0~1263.0 MOA美術館蔵 )の「山中常盤物語絵巻・第11巻(佐藤の館に戻った牛若は、三年三月の後、十万余騎をひきいて都へ上がる)」と、完全と繋がっているのである。 

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-26

【第一に、金色の烏帽子は能装束の冠り物であり、牛若・判官(義経)の姿に特徴的な記号表現であった。忠直と又兵衛は、この金色の烏帽子の記号表現を共有しており、クライマックスにおける主人公としたのである。(略)
第二に、主人公の金色の烏帽子姿の大半は、能の風折烏帽子ではなくて、梨子打烏帽子に鉢巻をした姿で描かれている。軍勢と戦闘の中心にいる主人公は鎧姿であるから、それにふさわして梨子打烏帽子とし、それを金色に表現したのであった。(略)
そして、第三に、金色の梨子打烏帽子という主人公の姿は、能の牛若の物語を好み、源氏(新田氏)の後裔という強烈な自覚をもった注文主、すなわち松平忠直にふさわしい記号表現だったのである。また、金色の梨子打烏帽子は、忠直が又兵衛ら画工集団とのコラボレーションによって「又兵衛風絵巻群」をつくっていたことを端的に物語っている。】(『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』P260-262)

 ここでは、この「豊国定舞台」の「金色の左折の風折烏帽子」と、「山中常盤物語絵巻・第11巻(佐藤の館に戻った牛若は、三年三月の後、十万余騎をひきいて都へ上がる)」の、その「金色の梨子打烏帽子」との関連については言及しない。
 それ以上に、この、「豊国定舞台」の「金色の左折の風折烏帽子」の「牛若丸」を、地面に「寝そべって、頬杖で見物している」、この二人に、照準を当てたいのである。

二 「豊国定舞台」で演じられて「烏帽子折」を、「寝そべって、頬杖で見物している二人の男性は誰か?」

蕪村「又兵」自画賛.jpg

「花見又平自画賛」(与謝蕪村筆・紙本墨画淡彩・一幅・103.3×26.3㎝ 逸翁美術館蔵)

【「みやこの花のちりかヽるは光信が胡粉の剥落したるさまなれ  又平に逢ふや御室の花ざかり 蕪村」
 句意は「(土佐)光信の絵のような格調正しい都の桜とちがって、ここ御室の花盛りに来てみたら、又平にそっくりの飄々たる親爺に逢った」(日本古典文学大系『蕪村集 一茶集』輝峻康隆校注)と解されている。飲みつくした瓢を前に、朱の頭巾を被り、片肌ぬいで、浮かれた足取りの男を見ていると、句の意味するところとは別に、ふりしきる落花、濃彩の光信の画、さらにまた落花のように剥落していく胡粉の白さ、御室の濃艶な八重桜という詞の放つイメージが重なりあって、酔うような暮春の空気が男のまわりに漂っているように思えてくる。賛が画を説明しているのではなく、本図のようにそれぞれ独立したものが一つになって別な世界をつくっていくところに、他の追随を許さない蕪村俳画の傑出した点があったのである。印章は「長庚・春星」の白朱文連印をおす。】(『日本美術絵画全集19 与謝蕪村』所収「作品解説44(星野鈴稿)」)

 この蕪村の俳画は、この一番下に描かれている「足元の瓢箪」に、蕪村の真意が隠されている。

「ただ浮世の波にただよふ一瓢(ひょう)の、うきにういたる心にまかせ」(「如儡子(にょらいし)」作『可笑記(序)』)、そして、それに続く、浅井了意の仮名草子『浮世物語』の
「皆面白く、一寸先は闇なり。なんの糸瓜(へちま)の皮、思ひ置きは腹の病、当座当座にやらして、月、雪、花、紅葉にうち向ひ、歌を歌ひ、酒飲み、浮きに浮いて慰み、手前の摺切(註・無一文のこと)も苦にならず、沈み入らぬ心立ての水に流るる瓢箪の如くなる。これを浮世と名づくなり(以下略)」の「浮世宣言」の、「浮世又平(又兵衛)」の「浮世=瓢箪=瓢」が、この「足元の瓢箪」なのである。

 そして、この俳画の賛の「光信が胡粉の剥落したるさまなれ」とは、蕪村は、「浮世又平(又兵衛)」が、「寛永拾七庚辰年(註・一六四〇)六月十七日 絵師土佐光信末流岩佐又兵衛尉勝以(かつもち)図」(明治十九=一八八六年に、川越仙波東照宮の宮司が、その拝殿の「三十六歌仙扁額」の裏に書かれた、この銘を発見する)の「岩佐又兵衛」ということ知っていたのかも知れない。
 おそらく、蕪村は、宝暦五年(一七〇八)に初演された近松門左衛門の「傾城反魂香」の吃りの大津絵描き「浮世又平重起(しげおき)」に実名で出てくる土佐光信をイメージしてのものと思われるが、又兵衛没後二十五年後の延宝三年(一六七五)の随筆『遠碧軒記(えんぺきけんき)』(黒川道裕著)の、次の記述を目にしていたのかも知れない。

【 狩野三甫は太閤時代の画工山楽が弟子にて、狩野をやるとなり、又浮世又兵衛と又後藤氏に佐兵衛と云うものあり。このころより少後、大阪陣の頃のもの、両派に画人あり。三甫は武者絵画かきなり。浮世又兵衛は荒木様別子(註・側室の子)にて之あり。越前一伯殿(註・松平忠直)御目にかけられ候て、江戸に住し候。 】(『遠碧軒記(えんぺきけんき)・黒川道裕著・東京国立博物館蔵四冊本による』)

 さて、B図の「豊国定舞台」の「左折烏帽子」と「寝そべっての観客二人」に戻って、この「寝そべって、頬杖で見物している二人の男性」の、その右側の柄物の衣服をまとった男性は、蕪村の俳画に出てくる「花見又平=浮世又平=浮世又兵衛=岩佐又兵衛」その人のようなイメージを受けるのである。
 とすると、もう一人の、白衣のような着物の、何か怒っているような顔つきの男は、「又兵衛工房の謎の一番弟子」(「小栗判官絵巻」の「細長い顔かたちの人物像などを描いた有力な画家A」=『岩佐又兵衛―血と笑いとエロスの絵師(辻惟雄・山下裕二著)・とんぼの本・新潮社』P104-105)での「辻惟雄説」)ということになる。
 とにもかくにも、この「寝そべって、頬杖で見物している二人の男性」が、この「洛中洛外図屏風・舟木本」を描いた「岩佐又兵衛」と、その「又兵衛工房の謎の一番弟子」と解することは、飛躍した「ファンタジー」(幻想)の世界のものと思われるかも知れない。
しかし、この「洛中洛外図屏風・舟木本」の六曲一双の世界は、上記の蕪村俳画の背景となっている『可笑記』や『浮世物語』の「浮世宣言」(「月、雪、花、紅葉にうち向ひ、歌を歌ひ、酒飲み、浮きに浮いて慰み、手前の摺切(註・無一文のこと)も苦にならず、沈み入らぬ心立ての水に流るる瓢箪の如くなる。これを浮世と名づくなり」の、この「刹那の遊び」の「現世を肯定した享楽的世間観」が横溢している世界であり、謂わば、「下京・東山『享楽・歓楽・遊楽』図屏風」というネーミングが相応しい世界であるということは、誰しもが認めるところのものであろう。
とするならば、この「洛中洛外図屏風・舟木本」の二千五百人とも二千七百人ともいわれている、この屏風に描かれた人物像の中で、この二人こそ、この「洛中洛外図屏風・舟木本」を描いた中心的な人物と見立てることも、何かしら、蕪村が描く「花見又平」に通ずるものがあり、これを容認することも、それほど抵抗感のあるものではないような思いがするのである。
 そして、この二人に、この「洛中洛外図屏風・舟木本」を描かせた注文主の「松平忠直」も、このA図の「豊国定舞台」の場面の何処かに潜んでいるような、そんな雰囲気を感ずるのである。
 そして、このA図の「豊国定舞台」の場面は、この「洛中洛外図屏風・舟木本」のスタート地点に位置する、「右隻第一扇中部」に描かれており、ここから、「洛中洛外図屏風・舟木本」の数々のドラマが展開して行くということになる。

三 「豊国定舞台」で演じられて「烏帽子折」を、「桟敷」席で見物している人物の中に、この「洛中洛外図屏風・舟木本」の注文主の「松平忠直」が描かれていないか?

豊国定舞台桟敷席.jpg

「豊国定舞台」での「桟敷席」(右隻第一扇中部) → C図

 『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)P137-138』では、この桟敷席の二列目の主要人物を、左から「神龍院梵舜・豊国社の社務萩原兼従・吉田社祠官吉田兼治」、そして、その前列の「前髪で裃姿」の少年を「吉田兼治の子息、成人前の幸鶴丸(のちの吉田兼英)」としている。
これらの「吉田家一族」の簡単なプロフィールは次のとおりである。

〇吉田兼治(よしだかねはる)=安土桃山時代から江戸時代初期にかけての貴族・神道家。左衛門督・吉田兼見の子。官位は正四位下・侍従、贈従二位。吉田家10代当主・卜部氏26代。生没年:1565-1616
〇萩原兼従(はぎわらかねより)=江戸時代前期の神道家。吉田兼治の子。母は細川藤孝(細川幽斎)の娘。室は高台院の姪。萩原家の祖。生没年:1588 -1660
 (上記「ウィキペディア」)
〇神龍院梵舜(しんりゅういんぼんしゅん)=戦国時代から江戸時代初期にかけての神道家。吉田兼右の子で吉田兼見の弟。別名を龍玄とも。豊国廟の社僧として有名。徳川家康の葬儀にも携わった。30歳から約半世紀を記した『梵舜日記』を遺したことでも知られる。生没年:1553-1632 
〇吉田兼英 → 生没年:1595-1671 父:左兵衛佐 吉田兼治 従五位下 右衛門佐
https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%AE%B6%EF%BC%88%E5%8D%8A%E5%AE%B6%EF%BC%89

 この四人は、「神道」の「吉田家」(卜部氏の流れをくむ公家。家格は半家。歴代当主は神祇管領長上を称し、正二位神祇大副を極位極官とした。江戸時代の家禄は760石)の一族である。
 
 これらの、この桟敷席での主要な見物人が「吉田家一族」の者とする見方は、『梵舜日記』の「慶長十九年八月十九日」の条に「烏帽子折」が演じられ、「神龍院梵舜は終日観能していた」という記述を重視していることによるものなのであるが、この見方に関して、幾つかの疑問点が残る。

その一つは、この「吉田家一族」の、一番最長老になる「梵舜」が、何故、その一族の若手の「兼治・兼従・兼英」に、何やら、説明役のように描かれているのかという点である。

その二つ目は、この「吉田家一族」の取り巻きは、裃姿の武家姿の人物が多く、その他には、二人の僧と立烏帽子の男が一人(『黒田・前掲書』では神官としているが、武家か公家のようにも取れる)、そして、前列の「兼英」の両脇は、禿のような小袖姿の少年、そして、その脇は、裃姿の少年(武家のように思われる)が二人で、神官職の公家一族の観能というより、武家一族の観能に、神龍院梵舜が説明役をしているようなイメージを受けるのである。

 ここで、これまた「ファンタジー」的な見方と受け取られることを承知の上で、上記の「兼治・兼従・兼英」を、当時の「松平忠直」(「結城秀康」の遺族)の一族に、見立て替えをすると、次のプロフィールのようになる。 

〇吉田兼治→松平忠直(まつだいらただなお)=江戸時代前期の大名。越前国北ノ庄(福井)藩主。官位は従三位・参議、左近衛権中将、越前守。徳川家康の孫、徳川家光や徳川光圀などの従兄にあたる。結城秀康の長男。生没年:1595-1650
〇萩原兼従→松平忠昌(まつだいらただまさ)=江戸時代前期の大名。越前国福井藩(北ノ庄藩)3代藩主。官位は正四位下・参議、伊予守。結城秀康の次男。生没年:1598-1645
〇萩原兼従→松平直政(まつだいらなおまさ)=江戸時代前期の大名。上総国姉ヶ崎藩主、越前国大野藩主、信濃国松本藩主を経て出雲国松江藩初代藩主。官位は従四位上・左近衛権少将、贈従三位(1907年)。直政系越前松平家宗家初代。結城秀康の三男。生没年:1601-1666

 実は、この三人は、三人揃って「大阪夏の陣」に参戦し、当時の小唄に謡われた「掛レカヽレノ越前衆、タンダ掛レノ越前衆、命シラズノ爪クロノ旗」の、その「爪クロノ旗」越前軍団の中に、この三人の英姿が描かれているのである。
 これらのことについては、下記のアドレスの「その三」で取り上げている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-24

 上記の図を再掲して置きたい。

(再掲)

夏の陣松平忠直・爪黒の旗.jpg

「大阪夏の陣の松平忠直」(「大坂夏の陣図屏風(大阪城天守閣蔵)」右隻・部分拡大図)→
F-2-1図

 この「大阪夏の陣」では、上図(F-2図)を「大阪夏の陣の松平忠直」としたが、「豊国定舞台」の「桟敷の主要三人衆」(C図)との関連ですると、「大阪夏の陣の松平忠直・忠昌・直政」ということになる。

越前軍団・大阪夏の陣.jpg

「大阪夏の陣の松平忠直・忠昌・直政」(「大坂夏の陣図屏風(大阪城天守閣蔵)」右隻・部分拡大図)→F-2-2図
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/18/The_Siege_of_Osaka_Castle.jpg

 この図(F-2-2図)に、一番若手の「松平直政」は、左から二番手と判別できるが、「松平忠直」が、その左側なのか、右側(三色旗寄り)なのかは判然としない。

忠直と幸村.jpg
「大阪夏の陣の松平忠直と真田信繁(幸村)」→F-2-3図
http://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/tenji/tenran/osakanojin2016.html

 この図(F-2-3図)の、左側が「松平忠直」とすると、大阪夏の陣の松平忠直・忠昌・直政」(F-2-2図)の、一番左側の武将が「松平忠直」で、ということになろう。
 そして、「その三」で取り上げた、「掛レカヽレノ越前衆、タンダ掛レノ越前衆、命シラズノ爪クロノ旗」の、その「爪クロノ旗」は、その林立する「吹流し」と共に、その源の、この「松平忠直」の「兜の二本の黒爪」に因るものと理解をしたい。そして、それは、この「真田信繁(幸村)」の「兜の二本の黒鹿の爪」を意識したものと理解をいたしたい。
 として、「松平直政」の右寄りの、「三色旗」(指揮官旗か?)脇の男は「越前松平家附家老・本多富正」、そして、その脇(この図の右端)が、「松平忠昌」のように思われる。
 この「松平忠直・忠昌・直政」三兄弟の「大阪夏の陣」の殊勲について、『美作津山松平家譜』(慶長二十年五月十日の二条城での場面)では、次のように記されている。

【 将軍(秀忠)、二条城ニ至リ、諸侯群参ス、大御所(家康)、之ヲ慰労シテ、今度天下一統ニ帰スルコト、諸将忠勤ノ戦功ニ因レリト賞賛セラル、公(忠直)ハ伏見邸ニテ士卒ヲ労シ、後レテ至ル、大御所(家康)殊ニ近ク召テ、上壇ヨリ一畳半計左ノ方ニ着座、国松丸(直正)ハ幼年故、左ノ方三尺計ニ近付ラレ、諸将ニ向テ、少将(忠直)カ七日ノ驍戦出群抜萃、実ニ吾秘蔵孫ナリ、国松(直正)モ幼弱ノ出陣ニ、生捕二人迄捕得ルハ奇功ト云ヘシト仰セケレハ、座中拝シテ万歳ヲ唱フ、時ニ忠昌末座ヨリ、伊予守(忠昌)茲ニ在リト高声に呼ハリケレハ、大御所(家康)、汝カ夫ニ候スルコト群参中ユヘ見失ヘリ、汝親シク身ヲ砕キ、人ニ勝レテ奮戦スルコト、感悦ノ至ナリト仰セラル、(以下略)   】(『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』P126)

 さて、A図の「豊国定舞台」で「烏帽子折」が演ぜられたのは、『梵舜日記』によると、「慶長十九(一六一四)年八月十九日」、そして、「大阪冬の陣」の火ぶたが切られたのは、 
十一月十九日(「木津川口の戦い」)、大阪城に籠城した豊臣方を徳川方が完全に包囲したのは、十二月二日、その翌、十二・三日の両日にまたがり、真田勢と越前松平勢とが激突し(「真田丸の戦い」)、この時は真田勢が越前松平勢を撃退させた。この時が、若干十四歳の「松平直政」の初陣である。
 この時に、「松平直政」は、敵の大将であった真田信繁(幸村)に若武者ぶりを讃えられて軍扇を投げ渡され、その軍扇は直政が初代藩主となった出雲松江藩の宝として残され、今も松江城天守閣の一角に展示されているという。
 この「大阪冬の陣」は、十二月十八日よりの「徳川方の京極忠高の陣において、家康側近の本多正純、阿茶局と、豊臣方の使者として派遣された淀殿の妹である常高院との間で行われ、十九日には講和条件が合意、二十日に誓書が交換され和平が成立し」、同日、家康・秀忠は諸将の砲撃を停止させている。
 明けて、慶長二十年(一六一五)三月十五日、大坂に浪人の乱暴・狼藉、堀や塀の復旧、京や伏見への放火の風聞といった不穏な動きがあるとする報が京都所司代・板倉勝重より駿府へ届くと、徳川方は浪人の解雇か豊臣家の移封を要求する。
この要求が入れられず、ここに「大阪夏の陣」が勃発し、「樫井の戦い」「道明寺・誉田合戦」「八尾・若江合戦」、そして、最終の「天王寺・岡山合戦」となり、ここで再び、「真田勢と越前松平勢」とが撃墜し、この戦いで、越前松平勢が真田勢を打ち破り、「大阪城へ一番乗り」を果たしたという展開になる。
 そして、上記の「F-2-1図」「F-2-2図」「F-2-3図」は、この「大阪夏の陣」のもので、その時の、「越前松平勢」の、「松平忠直・忠昌・直政」の「越前松平勢三兄弟」と、「越前松平家附家老・本多富正」との四人衆ということになろう。
 ここで、この「越前松平家附家老・本多富正」について、「大坂城一番乗りの名乗りを挙げたのち手勢を率いて志摩共々に本丸に突入し、千畳敷の屏風や懸物を分捕り、一番乗りの証拠と手柄とした。富正配下が大坂方の将・大谷吉治を討ち取るなど」(「ウィキペディア」)、
この「大阪夏の陣」の立役者の筆頭格の人物なのである。
 さらに、次のアドレスの情報は、この「本田富正」が、「烏丸光広、光広の正室鶴姫(江戸重通の娘、結城晴朝の養女、結城秀康の未亡人)、俵屋宗達」と交遊があったことを伝えている。

https://www.pref.fukui.lg.jp/doc/brandeigyou/brand/senngokuhiwa_d/fil/fukui_sengoku_45.pdf

 これらのことに関して、この「洛中洛外図屏風・舟木本」を描いた「岩佐又兵衛」が、この「大阪夏の陣」の直後(四十歳の頃)、「福井藩主・松平忠直に招かれて、あるいは後に岩佐家の菩提寺になる興宗寺第十世心願との出会いがきっかけで、北の庄(現福井市)に移住」し、その「忠直」配流後、「松平忠昌」(附家老・本多富正)の代になっても同地に留まり、二十年余もこの地ですごす」(「ウィキペディア」)のは、「松平忠直と岩佐又兵衛」との接点
は、この「本田富正」を避けては通れないような印象を深くする。
 ここで改めて、C図の「豊国定舞台」での「桟敷席」を見てみたい。

(再掲)

豊国定舞台桟敷席.jpg

「豊国定舞台」での「桟敷席」(右隻第一扇中部) → C図

 この一列目の裃姿の少年は「大阪冬の陣・夏の陣」に参陣する直前の、松平忠直の異母弟「松平直政」で、二列目の左端の僧は、時の「豊国社・豊国定舞台」の代表者格の「梵舜」、その右脇が、松平忠直の同母弟「松平忠昌」、その次が、この座の総大将「松平忠直」その人ということになる。
そして、その脇の立烏帽子の男は、「越前松平家附家老・本多富正」(「越前騒動・久世騒動」の「家老騒動(「本田富正」対「今村之信」)」の当事者でもある)ということになろう。
 そして、この「洛中洛外図屏風・舟木本」の注文主は、これまで「松平忠直」その人としてきたが、広義に、「大阪冬の陣・夏の陣」に関係する「松平忠直・忠昌・直政」と「越前松平家附家老・本多富正」周辺と解して置きたい。
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yahantei

 やや「あれもこれも」詰め込み過ぎた。それは、久しぶりに、「与謝蕪村」が登場し、その自画像の一つとも目せられている「花見又平自画賛」が出てきたことも関係しているのかも知れない。
 しかし、ここで、「岩佐又兵衛」と「与謝蕪村」とが遭遇するというのは、スタート時点では予想だにしていなかった。
 それが、ついつい、「寝そべっている観能客」の一人を「岩佐又兵衛」にしてしまった。しかし、これは、「岩佐又兵衛」と、その工房の一端を知らしめているのかも知れない。
 「岩佐又兵衛」にしろ「与謝蕪村」にしろ、この種の、道化的な「茶目っ気」というのを垣間見せる。
 どうやら、この「舟木本」には、その種の「仕掛け」が満載している雰囲気である。

by yahantei (2021-09-06 16:20) 

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