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徳川義恭の「宗達の水墨画」(その十一) [水墨画]

その十一 「蓮(宗達筆・個人蔵)」周辺

【 第八図左 蓮 竪一〇七㎝ 横四一・二㎝
 此の図を一見して、或る鈍さを感じ得る人は少ないであらう。私は之を俵屋宗達筆とはしないのである。其の難点は指摘する迄もないと思ふが、念の為書いてみると、先ず全体の構図に、大きなゆつたりした感じの無い事、筆触に張りの無い事が其の主なものである。特に茎の構成が拙く、その一本々々の描写も、生気に乏しい。葉にも無意味な筆使いが目立つ。更に花について言ふと、先ず開いた花は、第八図右の花を其の儘写したものである。只、蕊を少し変へてゐる。又、右上の、花の終わつたものは、第六図の蓮池水禽図に描かれてゐるのを逆に写したものである。即ち、宗達の絵の部分を二箇所から写し、あとはいゝ加減の事にして此の絵は出来上つてゐるのである。
 これと殆ど同じ図様で、中央の空間に蕾の描かれた一図も在る。之には右下に伊年印があるが、同じく宗達筆ではない。例えば最下部の構成など如何にも拙く、又全体に墨の濃淡の効果が悪く、絵に深さが無いのである。(之には高見沢版宗達に写真がある)併し、かう云ふ程度の亜流作品は、愛敬があると云ふか、拙い乍らもそんな感じがあつて、私は抱一などよりは好きである。もつとも之は花だから無難なので、この調子で動物や人物などを描かれたら閉口するに違ひない。
 一人の偉大な画家が現れると、其の画風の絵が極めて多く作られる。宗達の場合にもそれが著しいのである。寛永十六年に在世して居た事の確実である俵屋宗雪を始め、宗達と称した亜流画家さへ居るのであるから、吾々は作品に対して、十分厳格でなければならない。殊に宗雪は墨絵を描いてゐたらし、古画備考宗雪の條に、「峯寶斎宗雪法橋」として、之に伊年円印を伴つた落款が書写され、その下に、「紙墨立四幅 東坡、梶葉、芙蓉、舟鷺、別府氏蔵」とある。
 何れにしても、此の様な絵は亜流作品である。併しながら、それを承知して、其の画様式を宗達研究の為に活用することは有意義である。宗達の正筆でなくても、研究の為の価値が認められる場合は屡々ある。 】(『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第八図左 蓮」p15~p17 )

(再掲)

蓮池水禽・三幅.jpg

(左図) 京都博物館蔵 「蓮池水禽図」「伊年」印 国宝→A図 (上記解説の「第六図」)
(中央図)畠山記念館蔵 「同上」 無印      → B図
(右図) 山種美術館蔵 「同上」 「伊年」印   → C図(上記解説の「第八図」)
https://blog.goo.ne.jp/harold1234/e/0dc362de8723932a0236c639f4d34cd0
 この左図の、国宝の「A図 蓮池水禽図(京都国立博物館蔵)」については、下記のアドレス(再掲)のとおり激賞している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-08

(再掲)

【 水墨的技法を駆使したこの作品は、宗達の水墨画の最高傑作としてつとに名高いものであると同時に、日本の水墨画の歴史のなかでの偉大な成果のひとつとして広く認められている。 】

 また、右図の「C図 蓮池水禽図(山種美術館蔵)」についても、下記のアドレス(再掲)のとおり、宗達の正筆としている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-14

(再掲)

【 飛んで居る鳥の、特に足が少し気になる。全体に先の蓮池水禽図(メモ:A図・図版解説第六図)の深さは無いが、併し構図もよく、花の柔かさも、葉の趣も十分であるから、宗達筆としてよいであらう。ゆつたりとした感じのある気持のいゝ絵である。 】

 そして、この中央図の「C図 蓮池水禽図(畠山記念館蔵)」だけは、下記のアドレス(再掲)のとおり、「私は宗達筆とはしない」とし、それに続けて、「後に例として示すエピコーネ(メモ: エピゴーネン=亜流・模倣)の作よりも、もつと上手であるが、全体の構成が拙いから否定するのである」と、もっと拙い「エピコーネ(メモ: エピゴーネン=亜流・模倣)の作」が、今回の「第八図左 蓮 竪一〇七㎝ 横四一・二㎝」(D図とする=未見)のようである。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-08

(再掲)

【 同じ蓮池水禽図で鳥が一羽(それは今述べた図の中の、首を延ばしてゐるのと殆ど同形)泳いてゐるのがある(メモ:※下記の「(B図) 蓮池水禽図」)、その絵を私は宗達筆とはしないのである。之は、後に例として示すエピコーネ(メモ: エピゴーネン=亜流・模倣)の作よりも、もつと上手であるが、全体の構成が拙いから否定するのである。 】

蓮池水禽AとB.jpg

(左図) 京都博物館蔵 「蓮池水禽図」「伊年」印 国宝→A図 (上記解説の「第六図」)
(中央図)畠山記念館蔵 「同上」   無印     → B図

 この両図(A図とB図)についての「宗達の二つの『蓮池水禽図』」(『古画名作裏話(中村渓男著)』所収)の、『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第八図左 蓮」の異説などを紹介して置きたい。

【 国宝本(A図)は図の上部左より白い花をつけた蓮花と、散って僅かに花弁を残した藕花(ぐうか)が池水から出た大きな葉にささえられている。もう一つ(B図)は、右の下から数枚の荷葉にかこまれた藕花が、こちら向きに葉上から突き出ている。両図とも鳰(かいつぶり)が二羽、一羽と水面にしぶきを飛ばせながら泳いでいる。この荷葉の瑞々しい感じと、鳰の姿。その描法からほとんど同筆と見ることは出来ないであろうか。蓮の向きからいって左右から向い合う形になっており、鳰は左をさして動くが、印章が左右対照に捺されている。
 構図的にも、蓮の処理において、一方(A図)は高く他(B図)は低くすることによって均衡をとっている。対幅でなければしないことで、これを偶然といい得ようか。後代のことだが、光琳燕子花図屏風(国宝・根津美術館蔵)も単一の燕子花だけの図のために、左右片双ずつに高低をつけて構図したもので、まして同派宗達の創案によって当然、この作為的な構図としたことも考えられる。
 筆法の上からも、蓮葉のたらしこみ法はまったく同じで、柔らかみのある質感があらわされているばかりか、葉脈、葉柄に用いられたたっぷりした丸味のある線描には共通点が多い。鳰の描写、とくに頭の表現、背から尻尾にかけての淡墨と、きき羽や尾羽にやや濃い墨を用いた描法、水の中を通して見える水をかく脚の表出などは、まさに同じ時期でなければ描けないような筆法である。(以下略) 】(『古画名作裏話(中村渓男著)』所収「宗達の二つの『蓮池水禽図』」)

(追記メモ) 「俵屋宗達と醍醐寺」周辺(その三)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-11

(再掲)

後陽成天皇 → 後水尾天皇※※
      ↓ 一条兼遐
        清子内親王
        ↓(信尚と清子内親王の子=教平)
鷹司信房 → 鷹司信尚 → 鷹司教平 → 鷹司信輔
     ↓             ↓
     ※三宝院覚定         九条兼晴  → 九条輔実
                   ※三宝院高賢   ※二条綱平

後陽成天皇(一五七一~一六一七)
後水尾天皇(一五九六~一六八〇)
※醍醐寺三宝院門跡・覚定(一六〇七~六一) → 俵屋宗達のパトロン
※醍醐寺三宝院門跡・高賢(一六三九~一七〇七)→京狩野派・宗達派等のパトロン
※二条綱平(一六七二~一七三三) → 尾形光琳・乾山のパトロン

 この「後陽成天皇」(後陽成院)の系譜というのは、単に、上記の「後水尾院」そして、「醍醐寺三宝院門跡・覚定」の醍醐寺関連だけではなく、皇子だけでも、下記のとおり、第十三皇子もおり、その皇子らの門跡寺院(天台三門跡も含む)の「仁和寺・知恩院・聖護院・妙法院・一乗院・照高院」等々と、当時の「後陽成・後水尾院宮廷文化サロン」の活動分野の裾野は広大なものである。

第一皇子:覚深入道親王(良仁親王、1588-1648) - 仁和寺
第二皇子:承快法親王(1591-1609) - 仁和寺
第三皇子:政仁親王(後水尾天皇、1596-1680)
第四皇子:近衛信尋(1599-1649) - 近衛信尹養子
第五皇子:尊性法親王(毎敦親王、1602-1651)
第六皇子:尭然法親王(常嘉親王、1602-1661) - 妙法院、天台座主
第七皇子:高松宮好仁親王(1603-1638) - 初代高松宮
第八皇子:良純法親王(直輔親王、1603-1669) - 知恩院
第九皇子:一条昭良(1605-1672) - 一条内基養子
第十皇子:尊覚法親王(庶愛親王、1608-1661) - 一乗院
第十一皇子:道晃法親王(1612-1679) - 聖護院
第十二皇子:道周法親王(1613-1634) - 照高院
第十三皇子:慈胤法親王(幸勝親王、1617-1699) - 天台座主
(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

(A図) 寛永七年(一六三〇)後水尾院新仙洞御所に移られる頃の「御所」周辺図

頂妙寺・古図.jpg

「頂妙寺」付近図:「寛永後萬治前洛中絵図(部分図・京都大学附属図書館蔵)」
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/libraries/uv-wrapper/uv.php?archive=metadata_manifest&id=RB00000143#?c=0&m=0&s=0&cv=0&xywh=24161%2C14427%2C2750%2C5442&r=270
(メモ) 「寛永七年(一六三〇)十二月、上皇(後水尾院)、女御(徳川和子・東福門院)、新仙洞御所に移られる」(『烏丸光広と俵屋宗達(板橋区立美術館)』所収「関連略年譜」)は、この「院御所に移られる」と解すると、「頂妙寺」(俵屋宗達家の菩提寺?)、「烏丸殿」(烏丸光広邸?)が、その左側(西側)に、そして、当時の醍醐寺の門跡(醍醐寺三宝院門跡・覚定)の宿坊は、「院御所」の「右(西)の上(北)」に図示されている。

(B図) 延宝五年(一六七七)当時の「御所」周辺図

延宝時内裏図.jpg

「新改内裏之図(延宝5年:1677年)』京都市歴史資料館蔵
https://rekishi-memo.net/edojidai/" target="_blank">https://rekishi-memo.net/edojidai/
(メモ)【 霊元天皇在位中の寛文十三年(一六七三)五月八日、関白鷹司房輔の邸から出火があった。これにより禁裏御所、後水尾院の仙洞御所、東福門院の女院御所、後西院の新院御所が焼失した。ただ、明正院の本所御所だけは一部の焼失で済んだ。九月、寛文から延宝に改元。延宝の御所造営が行われていった。造営は仙洞御所、女院御所、禁裏御所の順番で着手された。後水尾院、東福門院が高齢だったからである。禁裏御所は延宝三年(一六七五)正月に木作始、十一月二十七日に霊元天皇が新たな御所に遷幸することが決まる。ところが、その二日前に堀川油小路間で出火、これにより先の火災で一部の焼失で済んだ本所御所などが類焼する。ただ、禁裏御所は無事だったため予定通りに霊元天皇が遷幸した。そして、延宝八年八月に後水尾院が崩御する。 】(『天皇の美術史4 雅の近世、花開く宮廷絵画  
江戸時代前期 (野口剛・五十嵐公一・門脇むつみ著)』所収「第一章 御所の障壁制作―天明の大火以前 p52~ 五度目の御所造営(五十嵐公一稿)」
※この延宝五年(一六七七)当時には、光悦(一六三七年没=八十歳)、素庵(一六三二年没=六十二歳)、光広(一六三八年没=六十歳)、松花堂照乗(一六三九年没=五十六歳)、そして、宗達(一六四二年=宗雪法橋位にあり、宗達没している?)と、時代は、次の「光琳・乾山」時代へと移行しつつある。
※※(A図)と比較すると「院御所」の左(西)側に隣接していた「二条殿・烏丸殿・九条殿・頂妙寺」が、(B図)では「新院御所(後西院?)」となり、頂妙寺は、この御所付近から現在地へと様変わりをしている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-19
 しかし、当時の醍醐寺の門跡(醍醐寺三宝院門跡・高賢)の宿坊は、「仙洞御所・女院御所」の「右(西)の上(北)」に図示されている。

(C図)令和三年(2021)の「御所」周辺図

梨木神社周辺.jpg

https://www.mapion.co.jp/m2/35.0220541,135.76259681,16/poi=L0566027 https://fng.or.jp/kyoto/
(メモ)「 醍醐寺三宝院門跡」の宿坊は、右(東)上(北)方の「梨木神社」周辺に当る(『近世京都画壇のネットワーク(五十嵐公一著)』)。

( 補記 )『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第八図右 水禽」と「図版解説第八図左 蓮」の、その図版(右図=水禽、左図=蓮)は、次のものであった。
 この「図版(右図=水禽、左図=蓮)」のものは、これまでの展覧会図録のものなどと比較すると、微妙にアレンジをしており、この種のものが他にも何点かあることが窺える。

八図右・左.jpg

『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版(右図=水禽、左図=蓮)」(国立国会図書館蔵本)

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yahantei

 「補記」を追加した。『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』の図版は未見であったが、「国立国会図書館蔵本」で見ることが出来た。終戦直後の、昭和二十三年(一九四八)当時の出版で、最近の図版などと比較すると見劣りはするが、著者が、どのような図版で、その「図版解説」をしたのかは、やはり、その著書の図版を見ないと、隔靴搔痒の感はゆがめない。
 しかし、そのスタート時点では未見であったが、そのゴール地点で見ることは大きな収穫であった。何よりも、種々の出版されている多くの図録を見る絶好な機会でもあった。
 『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』の、その献辞に「千沢梯治学兄に」し記されているが、その「千沢梯治」が、『創立百年記念特別展「琳派」(東京国立博物館)図録』所収「序(千沢梯治稿)」を草したのであった。
 下記のアドレスで、その「序」の一端を再掲して置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-06-28

【 風流人抱一は俳諧の「季」の絵画化を発想の根底とし、みがかれた鋭敏な感覚により、簡潔でまとまりのある瀟洒な装飾画を高貴なマチエールによって品格高く仕上げいるが、光琳の様式に深く傾倒しながらもその亜流化を厳然と拒否した見識は流石である。
(中略)
 宗達にとって古画は図形の宝庫であって意味内容は二次的な関心しか持っていない。光琳は古典に専ら作画のイメージを求める古典の感覚化の度合は著しい。抱一は感覚的に捉えた自然のイメージを文学的情操によってさらに美化し、琳派の色感を継ぎながら写生の妙技を示した。
 このように琳派は、その世代によって追及と発展の方向はさまざまであるが、かかる具象的な装飾様式の展開をたどることによって、おのずから芸術史上の位置を明らかにしている。 】
(『創立百年記念特別展「琳派」(東京国立博物館)図録』所収「序(千沢梯治稿)」)  】
 
by yahantei (2021-01-20 10:14) 

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