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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その二十) [岩佐又兵衛]

(その二十) 「九か所の若松:その一・六角堂」周辺など

六角堂の二人連.jpg

「六角堂(頂法寺)の二人連れ(少年三態)」」(「左隻」第三扇上部)) → D-1図

 前回(その十九)でふれた、この六角堂(頂法寺)の「D-1図」(左隻)は、どうにも、ここで描かれている「二人連れ」の「少年三態」が気にかかるのである。
 この中央上部の、年上の少年が年下の少年の頭の毛虱を取っている「二人連れ」は、「右隻」の八坂神社の「祇園門前の兄弟」(C-2-3図)と連動していることは、この仕草から見て明瞭であろう。
 として、この右端下部の「唐崎社」(唐崎明神)の「二人連れ」は、この背後に自生している「若松」が一つの目印(ヒント)とすると、次のアドレスの「豊国定舞台の作り物の若松(右隻第一扇)」と連動し、そして、そこに描かれている「寝そべっての観客二人」と、この六角堂の「唐崎社前の二人連れ」とが連動しているという雰囲気で無くもない。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-06

豊国定舞台.jpg

「豊国定舞台」(右隻第一扇中部)→ A図(その八)
「豊国定舞台」の「左折烏帽子」と「寝そべっての観客二人」(右隻第一扇中部)→B図(その八)

 そして、これは、下記のアドレスの「豊国廟(桜の下)の地べたに坐っている二人」「(その十二)のA-4図)と連動してくることになる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-21

豊国廟の二人.jpg

「豊国廟(桜の下)の地べたに坐っている二人」(右隻第一扇上部)→ A-4図(その十二)
「豊国定舞台」の「左折烏帽子」と「寝そべっての観客二人」(右隻第一扇中部)→B図(その八)=A-3図(その十二)

豊国定舞台・横になっている男.jpg

「豊国定舞台」の「左折烏帽子」と「寝そべっての観客二人」(右隻第一扇中部)→B図(その八)=A-3図(その十二)

豊国廟の二人.jpg

「豊国廟(桜の下)の地べたに坐っている二人」(右隻第一扇上部)→ A-4図(その十二)

 そして、その時(その八・その十二)には、その「二人連れ」について、次のように記した。

【《さて、A-3図の「豊国定舞台」の「左折烏帽子」と「寝そべっての観客二人」に戻って、この「寝そべって、頬杖で見物している二人の男性」の、その右側の柄物の衣服をまとった男性は、蕪村の俳画に出てくる「花見又平=浮世又平=浮世又兵衛=岩佐又兵衛」その人のようなイメージを受けるのである。
 とすると、もう一人の、白衣のような着物の、何か怒っているような顔つきの男は、「又兵衛工房の謎の一番弟子」(「小栗判官絵巻」の「細長い顔かたちの人物像などを描いた有力な画家A」=『岩佐又兵衛―血と笑いとエロスの絵師(辻惟雄・山下裕二著)・とんぼの本・新潮社』P104-105)での「辻惟雄説」)ということになる。》→ (その八) 

《この「岩佐又兵衛と謎の一番弟子A」が現れると、その周辺の人物は「要注意」ということになる。さしずめ、この「豊国廟(桜の下)の地べたに坐っている二人」(A-4図)の傍らの、この二人の貴婦人のうちの一人は、「高台院(北政所)」を暗示しているのかも知れない。》 → (その十)    】 

 今回、冒頭の「六角堂(頂法寺)の二人連れ(少年三態)」」(D-1図)の「右端下部の二人連れ」に接して、これまでの「岩佐又兵衛(年長者)と謎の一番弟子A(年少者)」を、より、ドラマチック(且つ、ファンタスティック)的に、「狩野内膳(八歳程度年上の又兵衛の師筋に目せられている人物)と岩佐又兵衛(謎の一番弟子Aと解していた人物)」と、仮説的に一歩、これまで出てきたイメージを進めたい。
 その上で、この「六角堂(頂法寺)の二人連れ(少年三態)」」(D-1図)の、この左端中部の「本堂欄干側の二人の若衆」は、これまた、下記アドレス(その八)の「豊国定舞台」(右隻第一扇中部・その八「A図」)、そして、「桟敷席」(右隻第一扇中部・その八「C図」)から、具体的に、「松平忠直・忠昌」(越前松平家「岩佐又兵衛」の二人のパトロン)と、仮説的に一歩進めて置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-06

豊国定舞台.jpg

「豊国定舞台」(右隻第一扇中部)→ A図(その八)

豊国定舞台桟敷席.jpg

「豊国定舞台」での「桟敷席」(右隻第一扇中部)→ C図(その八)

 この時(その八)の「松平忠直・忠昌」関連については、次のようなものであった。

【 ここで、これまた「ファンタジー」的な見方と受け取られることを承知の上で、上記の「兼治・兼従・兼英」を、当時の「松平忠直」(「結城秀康」の遺族)の一族に、見立て替えをすると、次のプロフィールのようになる。 

〇吉田兼治→松平忠直(まつだいらただなお)=江戸時代前期の大名。越前国北ノ庄(福井)藩主。官位は従三位・参議、左近衛権中将、越前守。徳川家康の孫、徳川家光や徳川光圀などの従兄にあたる。結城秀康の長男。生没年:1595-1650
〇萩原兼従→松平忠昌(まつだいらただまさ)=江戸時代前期の大名。越前国福井藩(北ノ庄藩)3代藩主。官位は正四位下・参議、伊予守。結城秀康の次男。生没年:1598-1645
〇萩原兼従→松平直政(まつだいらなおまさ)=江戸時代前期の大名。上総国姉ヶ崎藩主、越前国大野藩主、信濃国松本藩主を経て出雲国松江藩初代藩主。官位は従四位上・左近衛権少将、贈従三位(1907年)。直政系越前松平家宗家初代。結城秀康の三男。生没年:1601-1666  】

 ここでの記述(その八)から、冒頭の「本堂欄干側の二人の若衆」(D-1図)は、年恰好からして、「松平忠直・忠昌」の「長兄・次兄」の二人ということになろう。
 同様に、上記の、「狩野内膳(八歳程度年上の又兵衛の師筋に目せられている人物)と岩佐又兵衛(謎の一番弟子Aと解していた人物)」の二人としたのも、この「狩野内膳」と「岩佐又兵衛」とは、やはり、岩佐又兵衛の実父の「荒木村重」とに深い係わりのある人物なのである。

【狩野内膳 没年:元和2.4.3(1616.5.18)生年:元亀1(1570)
安土桃山・江戸初期の画家。名は重郷、号は一翁。荒木村重の家臣池永重元の子として生まれる。天正6(1578)年ごろ、根来密厳院に入ったが、のち還俗して狩野松栄に絵を学んだ。15年には狩野氏を称することを許され、またそのころ、天下人秀吉の支持を得て、以後、豊臣家の絵事を勤めた。秀頼の命で「家原寺縁起」の模写をしている。「豊国祭礼図屏風」(豊国神社蔵)は,慶長9(1604)年秀吉の7回忌臨時大祭の公式記録ともいうべきもので、内膳の代表作である。同11年秀頼によって奉納された。その他内膳の作としては「南蛮屏風」(神戸市立博物館蔵)が著名である。<参考文献>成沢勝嗣「狩野内膳考」(『神戸市立博物館研究紀要』2号) (榊原悟) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について  】

 ここで、あらためて、「六角堂(頂法寺)の二人連れ(少年三態)」」(D-1図)の全体図(D1-2図)を見ると次の通りとなり、「「唐崎社」(唐崎明神)の「二人連れ」の右後方に「六」の暖簾と「占い屋」の看板が掛かっている屋敷がある。

六角堂・占い屋・三人連れ.jpg

「六角堂(頂法寺)少年三態・占い屋」(「左隻」第三扇上部)) → D-1-2図

 この右上の「占い屋」の看板について、次のアドレスで紹介されている。

 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jssd/54/0/54_0_B03/_pdf

六角堂・占い看板.jpg

左上の「暖簾『六』と占い屋の看板」(「舟木本」左隻第一扇上部)
左下の「占い屋」の看板(上記の拡大図)
右上の「暖簾『六』と占い屋の看板」(「舟木本」左隻第三扇上部)→D1-2図
下中央の「占い屋」の看板(上記・D1-2図の拡大図)
右下の「占い屋」の看板(板「上杉本洛中洛外図」(米沢市上杉博物館所蔵)右隻第六扇下部)

 この(D1--2図)、六角堂(頂法寺)・唐崎社(唐崎明神)の右側の屋敷の「暖簾『六』」は、「六角堂」に隣接していた近江(滋賀)の守護・戦国大名として名高い「六角氏」の屋敷を示し、その「六角氏」に連なる一族の者が、その一角で「御判占い」(武士が使用する書判(花押)の吉凶を見ることであるが同時にその作り方や書き方も指南する)などの「占い屋」(算置・占屋算)などを業としていたのかも知れない。
これらが「六角氏」と関係があるとすると、その隣の「唐崎社」(唐崎明神)の「若松」が、近江の「唐崎の松」で知られている「唐崎神社」(唐崎明神)から勧請されたもので、一本の線上に繋がってくる。さらに、この「舟木本」の旧蔵者は、近江彦根の旧家(舟木家)から発見されたこととも地縁的には結びついてくる。
 それ以上に、この「六角氏(一族)」は、分家の「京極家」を除いて、織田信長との戦いに敗れ、大名としての「六角氏」は滅亡を余儀なくされる。その末期の頃の第十六代当主が「六角義治」(1545~1612)は、織田信長の死後、豊臣秀吉に、その御伽衆(相談役・話し相手)として仕え、秀吉の死後は、豊臣秀頼の弓矢の師範を務めるなどし、慶長十七年(1612)に没している(「ウィキペディア」)。
 この「六角義治」の子息は女子で、「六角氏」は弟の「六角義定」(1547~1620)が継受したとも伝えられているが定かではない。また、この「六角義定」は、豊臣秀頼の家臣になったとか、一族の「六角義郷」が豊臣秀頼の家臣であったとか、その真相は定かではないが、「六角義定」は、元和六年(1620)に没し、その子息が「六角氏」を継ぎ、その後、その「宗家」は断絶とか、その詳細は定かではない(「ウィキペディア」など)。
 ここで特記して置きたいことは、この「義治・義定」の父の、第十五代当主の「六角義賢」(1521~1598)が、剃髪後は承禎と号し、キリシタンの洗礼を受けていることである。
 これらに関しては、下記のアドレスが参考となる。

https://sengoku-his.com/308

 岩佐又兵衛の師と目されている「狩野内膳」(1570~1616)は、又兵衛の父の荒木村重の家臣の出とされ、幼くして仏門(根来密厳院)に入り、後に還俗して狩野松栄に絵を学んだという経歴の持ち主で(「ウィキペディア」)、岩佐又兵衛とは、その出自の頃から因縁の深い人物の一人なのである。
そして、天正十五年(1587)、十八歳の頃に狩野氏を称することを許され、以後豊臣家の御用絵師を務め、文禄元年(1592)の頃、狩野光信らと共に肥後国名護屋城の障壁画制作に参加、翌年にはそのまま長崎に赴いている。この時の視覚体験が、内膳の傑作画とされている「南蛮屏風」(神戸市立博物館蔵)が生み出される。ここに、「像に乗った豊臣秀頼」と「椅子式駕籠(パランキン)に乗った豊臣秀吉」が描かれているようなのである。

南蛮屏風の秀吉と秀頼.jpg

狩野内膳筆「南蛮屏風」(神戸市立博物館蔵・六曲一双)所収「左隻第五・六扇」の「象に乗る人(秀頼?)」と「椅子式駕籠(パランキン)に乗る人(秀吉?)」
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365028

 これらの、狩野内膳の「南蛮屏風」に関しては、下記のアドレスのものが参考となる。

http://blog.nadeg.jp/?eid=18

 それに因ると、この内膳の「南蛮屏風」には、次の事項が盛り込まれているという。

① 天正十九年(1591)の、「長崎にポルトガル船が入港」
② 文禄二年(1593)の、「フランシスコ会修道士が初めて来日」(名護屋で秀吉に謁見、後に行は畿内へ向かう。)
③ 文禄三年(1594年の、「秀吉の吉野の花見」(秀吉は、徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗などの錚々たる武将をはじめ、茶人、連歌師など総勢五千人の供を連れて吉野山で花見を催す。)
④ 慶長二年(1597)の、「象の来日」(スペインのマニラ総督から秀吉に象が献上される。)

 この慶長二年(1597)の「象の来日」が描かれているとすると、内膳の、二十七歳の頃で、この翌年(慶長三年)に、豊臣秀吉は、その波乱に満ちた生涯を閉じている。この頃、内膳は「内膳工房」(内膳と内膳の弟子筋の絵師による工房)で、豊臣家の御用絵師の一人というような位置を占めていたのであろう。
 その「内膳工房」の「内膳の弟子筋の絵師」の一人として、内膳より七歳か八歳年下の二十歳前後の「岩佐又兵衛」も働いていたと、これもまた、その真偽はともかくとして、そのように解して置きたい。
 そして、この秀吉が没する最晩年の頃に、「六角家」第十五代当主「六角義賢」(1521~1598)と、その嫡男の第十六代当主「六角義治」(1545~1612)は、秀吉の「御伽衆((相談役・話し相手))」となっている(「ウィキペディア」)。
 この「六角義賢」は、秀吉と同じ年(慶長三年)に没しており、その「秀吉七回忌」の慶長九年(一六〇四)の、「豊国大明神臨時祭礼」を公式記録の一つとして、狩野内膳による「豊国祭礼図屏風」(「豊国社蔵本」)が制作され、それは、慶長十一年(一六〇六)、秀吉の命日八月十八日に行われる例大祭に先立つ十三日に、大阪方の「豊臣秀頼・淀殿」の名代として「片桐且元」が豊国社へ奉納されたとされている(『別冊太陽 桃山絵画の美』所収「桃山風俗画の誕生と展開(奥平俊六稿)」)。
 これらのことについては、下記のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-10-07

 この慶長十一年(一六〇六)の時に、内膳、三十六歳、そして、又兵衛、二十八歳の頃で、この頃が「狩野内膳とその工房」は絶頂期の頃と解したい。
 ここに、慶長十九年(一六一四)の秀吉十七回忌にあわせて、秀吉恩顧の大名である蜂須賀家政(蓬庵)が阿波小松島の豊國社に奉納するための、岩佐又兵衛作とされている「豊国祭礼図屏風」(徳川美術館本)が加わる。
 これらのことに関しても、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-14

 岩佐又兵衛作とされている「豊国祭礼図屏風」(徳川美術館本)についても、「狩野内膳工房」のグループの一つの「岩佐又兵衛と内膳工房の絵師」による「岩佐又兵衛工房」作というのが、その実態なのかも知れない。
 そして、「狩野内膳」は、元和二年(一六一六)に、その四十六歳の生涯を閉じる。その「狩野内膳工房」は、その継嗣の「狩野一渓」(1599~1662)が引き継ぎ、岩佐又兵衛は、その「豊国祭礼図屏風」(徳川美術館本)と同一時期の頃に制作された「洛中洛外図屏風・舟木本」を一つの契機として、越前藩主・松平忠直(1595~1650)の招聘により、福井へと移住する。時に、岩佐又兵衛、三十九歳の頃である。
 このように解すると、狩野内膳と岩佐又兵衛、岩佐又兵衛の福井への移住などが、一つのストーリーとして、そのイメージ化が明瞭になってくる。
 ここで、冒頭の「D-1図」の「六角堂(頂法寺)の二人連れ(少年三態)」」と「D-1-2図 「六角堂(頂法寺)少年三態・占い屋」に戻って、この六角堂の若松が自生している「唐崎社(唐崎明神)」の前の二人連れを「狩野内膳と岩佐又兵衛」と見立てると、それに隣接した「六」の暖簾と「占い屋」の看板のある屋敷の「六角氏」(「六角義賢と義治・義定」の親子の一族)とは、例えば、「狩野内膳工房(内膳と又兵衛などの工房)」のパトロン(支援者)の一人のような関係があったのかも知れない。
 そして、この「六角氏」と「狩野内膳工房」とを結びつける接点は、やはり、豊臣秀吉の北政所(寧々=御寧)の「高台院」その人ということになろう。そして、この「狩野内膳工房」と「松平忠直・忠昌」兄弟との接点も「高台院」(「忠直・忠昌」兄弟の実父の「結城秀康=徳川家康の次男」は「秀吉・北政所」の養子)ということになる。
 ここに、「結城秀康」の未亡人の「鶴姫」(院号は蓮乗院(? - 1621年) - 江戸重通の娘、結城晴朝の養女、結城秀康・烏丸光広の正室)が再婚した「公家(正二位権大納言)・歌人(細川幽斎から古今伝授を受けて二条派歌学を究め、歌道の復興に力を注いだ歌道の第一人者)そして能書家(寛永三筆の一人・本阿弥光悦門且つ自ら「烏丸流」を築き上げた第一人者)の『烏丸光広』との接点とが加わってくる。
 さらに、この「六角堂」というのは、華道会の「池坊家」発祥の寺院でもあり、その初代の「池坊専好(初代)」(1536? ~1621)との接点も、この「六角堂」とを接点として加わり、それらの輪は、「烏丸家」・「高台院」・「越前松平家」・「京都所司代・板倉家」・「六角家」等々と連鎖反応の状況を呈して来るものと解したい。
 ここに、もう一つ、付け加えて置きたいことは、この「六角堂」(頂法寺)は、京都(下京)のど真中の、そして、そこに住む人々(町衆)の、宗派を問わない「町堂(町組・町衆の拠点)」ともいえる所で、当時(「大阪冬の陣・夏の陣)の頃とすると、その「大阪冬の陣・夏の陣」の「難民救済所」的な拠点の一つだったようにも思われる。

六角堂のスナップ一.jpg

「六角堂(頂法寺)の石灯篭の少年周辺」(「左隻」第三扇上部)) → D-1-3図

 この図(D-1-3図)の中央の、石灯篭に坐り頬杖して思案気な少年は何者なのだろうか?
この少年は、大阪冬の陣・夏の陣で、身内の者を見失ったホームレスの少年のような雰囲気である。そして、この左側の女性は、その少年の両親ではないが、やはり、その戦災で行方不明になった身内の者を探している女性で、何やら、その石灯篭に坐っている少年が、「ぼっとすると、探していた身内の者か?」というような雰囲気でなくもない。
 さらに、この少年の右側の三人の男性は、浪人の風情で、この右端の羽織を着た武士に、何か仕官の頼み事をしているような感じでなくもない。
 とすると、上記で紹介した「六」の暖簾と「占い屋」の看板のある屋敷の「六角氏」も、単なる「占い屋」ではなく、「口入れ屋・周旋屋・手配師・請負師」的な「よろず相談所」という面も有しているのかも知れない。
 これらの「六角堂(頂法寺)の町堂(町組の拠点)」関連は、次のアドレスのものなどが参考となる。

https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi16.html
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yahantei

 「六角堂」(頂法寺)は、京都(下京)のど真中である。そして、そこに住む人々(町衆)の、宗派を問わない「町堂(町組・町衆の拠点)」ともいえる所で、かっては、法華宗の決起した所でもあった。また、その法華宗が、六角氏に駆逐されて、郊外に追いやられた震源地でもある。その「六角氏」も、そして、岩佐又兵衛の家の「荒木氏」も、共に、織田信長に敗れた、戦国大名としては滅亡を余儀なくされた両家である。しかし、荒木氏は織田信長の家臣で反旗を翻したのに比して、六角氏は、織田信長の対抗とする一方の雄であった。
 そして、織田信長の最大の敵対関係にあったのは、「石山本願寺」で、結果的に、「六角氏」と「荒木氏」とは「石山本願寺」を媒体として結びついていく。本能寺の変で、織田信長が明智光秀に敗れ、次の時代の豊臣秀吉の時代になると、「六角義賢」も「荒木村重」も、共に、秀吉の「御伽衆」になるが、晩年に、六角義賢は「キリシタン」の洗礼を受けるが、荒木村重は、一家を滅亡させて一人生き抜くという「自死」を罪とする「キリシタン」的な一面も有するが、裏切られた部下のキリシタン大名の高山右近などとの遺恨に因るのか、キリシタンの洗礼は拒否している。
 この「キリシタン」と「法華宗」とは、他宗派を排斥するという共通点を有するが、この両者は、共に、両極端の関係で、そして、当時の京都の有力町衆(後藤・茶屋・本阿弥)は「法華宗」で、「南蛮貿易」の関係者も多いのに、その洗礼を受けた町衆というのは、記録などでは余り見かけない。
 それに比して、「キリシタン」の洗礼を受けた戦国大名というのは、これほど浸透していたかという、そういう一面を有している。そして、豊臣秀吉というのは、「伴天連追放令」を出しながら、この狩野内膳の「南蛮屏風」のように、「椅子式駕籠(パランキン)に乗る人(秀吉?)」など、その真相は一筋縄で行かない。
 と同様に、狩野内膳には、この「南蛮屏風」のように、「キリシタン」との関係が深いという印象を受けるが、岩佐又兵衛には、そのような印象は受けない。そして、岩佐又兵衛が、元和二年の頃、京都から越前福井へと移住するが、この年に、内膳が亡くなっており、その内膳の死も大きく関係しているように思われる。また、内膳の遺児の「狩野一渓」が後に江戸の絵師として大成して行くが、岩佐又兵衛の晩年の江戸移住なども、この狩野一渓と関係している雰囲気もあり、ここらへんの所は、全くの未開拓のままである。
 この「六角堂(頂法寺)」周辺は、深入りすると「謎」ばかりでという所で、これまた、素通りして行くほかは術がないようである。


by yahantei (2021-11-02 10:27) 

yahantei

(追記)
《この「六角堂(頂法寺)」周辺は、深入りすると「謎」ばかりでという所で、これまた、素通りして行くほかは術がないようである。
》としたのだが、この「六角家」は、江戸時代の豪商、三井財閥の「三井家」と深く関わりがあり、このことを追記しておかないと、後で思い出せなくなるので、ここに追記しておきたい。

《12代出羽守乗定が近江半国守護六角氏から養子高久を迎え、以降六角氏に仕えるようになり、「高」を通字とした(「鯰江氏」参照)。しかし高久の五代孫越後守高安の代、織田信長の上洛によって六角氏とともに三井氏は逃亡し、伊勢国津付近の一色へ移り、その後、松坂近くの松ヶ島に居住するようになったとされる。

慶長年間には高安の子高俊が武士を廃業して松坂に質屋兼酒屋を開き、商人としての三井家が創業された。屋号の「越後屋」は高安の受領名に基づく。高俊の後は嫡男俊次(高次、三郎左衛門)が継いだが、実際の商売は高俊の妻殊宝が取り仕切り、越後屋を発展させた。寛永年間始め頃江戸本町四丁目に小間物店「越後屋」を開き、後に呉服屋となった。この俊次の家は釘抜三井家と呼ばれる。高俊の次男弘重と三男重俊も江戸や松坂で自らの店を開いている。》(ウィキペディア)

七代当主・鯰江(三井)高久

「三井家」の本拠地は、ここにある?

上記の、《「占い屋」の看板》は、岩佐又兵衛の「目くらまし」(トリック)のようである。 もう一つの「六」の暖簾も、「六」の他に「八」があり、これも、「半分、ホント、半分、フィクション」という感じである。として、「八」の暖簾の方は、何やら、「銭屋」の暖簾と関係して、「両替商」の雰囲気なのである。

とすると、「鯰江(三井)高久」も「両替庶」も手掛けているとすると、当時の「角倉・後藤・茶屋」の豪商の、次の時代の「有力町衆」と深く関わってくるのかも知れない。

この「舟木本」は、「三井記念美術館」あたりが所蔵していると、これこそ、「目くらまし」の「目くらまし」ということになるのかも知れない(独白=戯言)。







  

 
by yahantei (2021-11-07 23:18) 

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