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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その十九) [岩佐又兵衛]

(その十九) 京の遊里(「六条三筋遊郭・祇園花街・四条河原の遊里」周辺など)

祇園 旅所周辺.jpg

「祇園御旅所の芸妓・娼妓」周辺(舟木本「左隻」第一扇上部) → C-1図
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=044&langId=ja&webView=null

 この図(C-1図)は、前回に紹介した次の「六条三筋町・中の町遊郭街(A-7図)」(「舟木本」左隻第一扇下部) の上部に描かれているものである。

左隻・六条三筋中の町続き.jpg

「六条三筋町・中の町遊郭街」(「舟木本」左隻第一扇下部)→A-7図

 これは、「舟木本」の「左隻」の「六条三筋町・中の町遊郭街」の「男と女」の図である。

六条三筋・下の町.jpg

「六条三筋町・下の町遊郭街の往来」(「舟木本」右隻第六扇下部)→A-4図

 これは、「舟木本」の「右隻」の「六条三筋町・下の町遊郭街」の「男と女」の図である。

 この(A-7図・A-4図)の遊女は、「娼妓・女郎・遊君(近世)、傀儡女・白拍子・傾城・上臈(中世)」などで呼ばれる「性的サービスをする女性」と解して差し支えなかろう。
 しかし、冒頭(C-1図)の「祇園御旅所の芸妓・娼妓」は、その「娼妓」(「性的サービスをする女性」)だけでなく、その室内の「三味線をしている女性」などは、「芸妓」(舞踊や音曲・鳴物で宴席に興を添え、客をもてなす女性)と解して、そして、往来には、その「芸妓」や「娼妓」なとが入り混じっていると解して置きたい。
 そして、この「芸妓」は、祇園などでは、「芸妓・芸姑(げいこ)」、そして、その見習を「舞妓(まいこ)」と呼ばれ、そして、それらが、「六条三筋(柳町)」の「遊郭街」とは別に、「花街(かがい・はなまち))」という色分けをしているということになる。
 そして、その「芸妓・芸姑(げいこ)・舞妓(まいこ」の源流は、祇園などの「お茶や団子を提供する水茶屋で働く『茶立女(ちゃたておんな)』」で、その「茶立女」が、当時の「おんな歌舞伎(阿国歌舞伎)」などを真似て、その三味線や踊りなどの「芸(芸能)」を披露することなどに由来があるようである(「ウィキペディア」)。

祇園 門前.jpg

「祇園門前のスナップ」(門前の兄弟)・「門前の茶屋」)( 右隻第五扇上部)→C-2図)

 この図(C-2図)の短冊形の名札に「ぎおんもんぜん(祇園門前)」とあり、四条河原の「おんな歌舞伎・あやつり浄瑠璃・能舞台」、そして、鴨川右岸(西側)の「祇園御旅所」(C-1図)に至る、「祇園街」のメインストリートである。
 ここに、当時の「茶屋」が並んでいる。立派な風炉で「茶立女」が茶を点てて、門前客の休憩所として接待している。この「茶屋」が「御茶屋」(花街で芸妓を呼んで客に飲食をさせる店)の源流で、この「芸妓」などを抱えている家が「置屋」、そして、料理を用意する店が「料理屋」ということになる。
 この「御茶屋」などが集積している地域は、京都では「五花街(ごかがい)」「祇園甲部・宮川町・先斗町・上七軒・祇園東」と呼ばれ、「六条三筋(柳町)遊郭街」(この「遊郭街」は「島原遊郭街」へ移転される)と、一応の区分けをされている。
 ここで、下記のアドレスで紹介した、次の元和三年(一六一七)の「元和五ヶ条」と、それに違反する無免許の「遊女稼業」を巡る「訴訟」などによって、その実態の一部が判明してくる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-10-11

【 元和三年(1617)三月、元和五ヶ条が幕府より出されるのですが、それは

一、 傾城町は三筋に限り、その区域を越えて遊女稼業は禁止である。
一、 客は一晩しか泊まっていけない。
一、 傾城の衣類は紺屋染を用い質素に、金銀などはもっての外
一、 廓内の建築も質素に、町役は厳正に
一、 不審者は奉行所に通報せよ

(訴えられた無免許の地域の業者など)

四条河原町 又市
同ていあんのうしろ 一町(貞安前之町は今の高島屋の西部分)
同こりき町 一町(現先斗町の一画)
同中島 一町(三条河原町東)
同ますや町 一町(上京、中京、下京に十箇所ほどもあり特定できません)
とひ小路 しつか太夫(富小路がとびのかうし通と『京雀』あるも分からず)
同たかみや町 一町(富小路蛸薬師下ルに現存します。)
たこやくし通 ゑいらくや
二条たわら町 たなかつら(かつて夷川新町西入ルに俵町あり)
こうしんのうしろ (庚申?荒神?どこを指したものか・・・)
北野 六軒町(上七軒の近くと思われる)
同 れいしょう(同上)
大仏この町(五条~七条間の山和大路辺り?)     】

 ここで、冒頭の「祇園御旅所の芸妓・娼妓」(C-1図)に戻って、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』では、「出合茶屋」(「出合屋」「出合宿」「待合」『引出茶屋』=男女が密会に使う貸席屋)でなく、「傾城屋」(「遊女屋」「女郎屋」=遊女を抱えて客の相手をさせる家)としている。すなわち、上記の無免許の遊女屋ということになる。

【 祇園御旅所のすぐ右側に、「傾城屋」が描かれている。三味線の稽古をしている遊女たちや鏡台を前におき化粧に余念のない遊女がいる。屋外に目をやると、通りにいる女たちは、明らかに艶めいた姿で客を誘っている。足元まである長羽織を着た、振分け前髪の若衆は、遊女に手を取られていて、傾城屋へ入るつもりだ。この若衆は振り返って、右端の仲間を呼んでいる。その男は遊女の誘いに対して、それを拒否するような手のしぐさをしている。どうなることやら。
 同じく第二扇の中程右端の建物には、遊女が茶筅髷の男の相手をしている。その下の離れのような建物には、横になっている総髪の男がいるが、その傍らには頭髪と赤い小袖の一部が見えるから、遊女が侍っていたはずである。これも傾城屋か出合屋なのであろう。
 右隻にも、第三扇中央に描かれた茶屋では、客の手や袖を引く女たちがおり、女に背後から抱き付いている好色な目つきの男がいる。  】『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』(P61-62)

左扇・出合茶屋・遊女.jpg

「室町通東・出合茶屋の男女」(左隻第二扇中部)→C-3図

この図(C-3図)は、上記の『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』の「第二扇の中程右端の建物の遊女と男」の図で、「傾城屋か出合屋なのであろう」としているが、「出合茶屋(出合屋)の男女」として置きたい。
 さらに、それに続く、「右隻にも、第三扇中央に描かれた茶屋では、客の手や袖を引く女たちがおり、女に背後から抱き付いている好色な目つきの男がいる」は、次の図で、「五条大橋・東岸(大仏通)茶屋の遊女」として置きたい。

右扇・飯・煮売茶屋・遊女.jpg

「五条大橋・東岸(大仏通)茶屋の遊女」(右隻第三扇中部)→C-4図

 この図(C-4図)の「茶屋女」は、先の「祇園門前のスナップ」(門前の兄弟)・「門前の茶屋」C-2図)の「茶屋女」(「茶立女」)とはイメージが異なり、「飯屋の女・煮売屋の女・料亭の女」というイメージとなってくる。
茶屋.jpg

「祇園門前茶屋女(茶立女)」→ C-2-2図

 この図(C-2-2図)のイメージが、現在に至る京都の「五花街」の「御茶屋」(「一見客=初めての客」お断り)と連なり、上記の(C-4図)のイメージから、「料理茶屋・料亭など」(一見客歓迎)のイメージと繋がってくる。
 ここで、「遊郭・花街/遊女・芸妓・娼妓・女郎・遊君・傀儡女・白拍子・傾城・上臈・芸姑・舞妓/待合屋・傾城屋/水茶屋・掛茶屋・立場茶屋・葉茶屋・引手茶屋・待合茶屋・出合茶屋・料理茶屋」等々には深入りしないで、次の「祇園門前のスナップ」(門前の兄弟)・「門前の茶屋」C-2図)の、その「門前の兄弟」に移りたい。

祇園 門前の兄弟.jpg

「祇園門前の兄弟」→ C-2-3図
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&webView=null

 この祇園門前の二人の少年は兄弟であろうか? 兄貴分のような年上の少年が年下の弟分のような少年の頭の毛虱を取っているような図である。これは、「関ヶ原の戦い」以降の打ち続く動乱の慶長期にあって、ホームレスになった『戦災孤児の兄弟』という設定も可能であろう。
 と同時に、この少年のどちらかが、織田信長と石山本願寺との闘争に起因して、信長に反旗した戦国大名の荒木村重の、たった一人の遺児と伝えられている、この舟木本の筆者の「岩佐又兵衛」の、その少年時代のような雰囲気も伝わってくる。
 岩佐又兵衛(1578-1650)の前半生は、全くの未知のままだが、石山本願寺(西本願寺)に保護され、成人して母方の「岩佐」姓を名乗り、信長の子息の織田信雄小姓役として仕えたというが、確かなことは分からない。
 絵の師匠は、村重の家臣を父に持つ「狩野内膳」(1570-1616)という説があるが、これまた確かなことは分からない。又兵衛は後年「三十六歌仙扁額」(川越・仙波東照宮蔵)の額裏に「土佐光信末流」とも記し、「土佐光信」(1434-1525?)の「土佐派」の絵師にも学んだのかも知れない。
この「祇園門前の兄弟」(C-2-3図)らしき二人の少年が、「左隻」(第三扇上部)の「六角堂(頂法寺)の「親鸞堂(?)」前に、そして、やや成人した二人の若者が「唐崎社(唐崎明神」前に登場してくる。

六角堂の二人連.jpg

「六角堂(頂法寺)の二人連れ(少年三態)」」(「左隻」第三扇上部)) → D-1図

  この図(D-1図)の中央上部の二人の少年は、先の「祇園門前の兄弟」(C-2-3図)をモデルにしていると解して差し支えないであろう。ここが、「「六角堂(頂法寺)」の「親鸞堂」の前かどうかは定かではない。もし、この二人の少年のうちのどちらかが、「西本願寺」などに保護された「岩佐又兵衛」の自画像らしきものと解すると、この「親鸞堂」が意味ありげになってくるという、ただそれだけのことである。
 それよりも、この図(D-1図)の右端の下部に描かれている、後方の「祇園門前の兄弟」らしき少年が、やや成人になってきたような若者二人の方が、これまた意味ありげなのである。
これは、「唐崎社(唐崎明神」の前と解して差し支えなかろう。
 この「唐崎社(唐崎明神」の前に「若松」が自生している。この「若松」は、この舟木本の中に九か所出てくるようなのである((『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』)。

【 九か所の「若松」

一 長暖簾に「雪輪笹紋」のある店舗のウラ庭の若松(左隻第四・五扇) →「鞠挟紋の駕籠舁き」図(左扇第五扇中部)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-16

二 六角堂と唐崎神社の若松(左隻第三扇) → D-1図

三 平家琵琶の高山丹一検校の屋敷の若松(左隻第二扇) → 「扇屋(扇屋の店内風景と裏手で琵琶を聞く数寄者二人)」図(左隻第二扇中部)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-16
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-16

四 祇園御旅所の右側、当麻寺の隣にある遊女屋の若松(左隻第一扇) → C-1図

五 六条柳町(三筋町)遊里の若松(左隻第一扇~右隻第五・六扇) → A-8図(その十八)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-10-17

六 四条河原の能の小屋の若松(左隻第六扇) → A図(その六)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-30

七 本因坊算砂が囲碁の対極をしている若松(右隻第六扇)
八 五条橋東詰の暖簾に「寶」と「光」とある店舗の若松(右隻第六扇)

九 豊国定舞台の作り物の若松(右隻第一扇) → A-3図(その十二)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-21
→「その九・その八」A図=下記アドレス
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-06                】
(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)・P236-246』、アドレス、そして、図番号などを付記する)

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yahantei

『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』の「九か所の『若松』」のうち、未踏査のものは、次の二か所である。

七 本因坊算砂が囲碁の対極をしている若松(右隻第六扇)
八 五条橋東詰の暖簾に「寶」と「光」とある店舗の若松(右隻第六扇)

 この二か所も間接的に何回も「あれか・これか」しているところで、この九か所は、全て、踏査済みということなのだが、ここで、新たなる視点での再踏査を、その一つ、一つについて、じっくりと見て行きたい。
by yahantei (2021-10-24 17:45) 

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