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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その六 [南蛮美術]

(その六)「レパント戦闘図・世界地図屏風」周辺

レパント戦闘図・世界図(全).jpg

「レパント戦闘図・世界地図屏風」(香雪美術館蔵・重要文化財・紙本着色・六曲一双・ 江戸初期) 各扇:縦153・5×横369・0
上図:「レパント戦闘図」 下図:「世界地図屏風」
(『大航海時代の日本美術 Japanese art in the age of discoveries(九州国立博物館編)』所収
作品解説113」)
https://www.kosetsu-museum.or.jp/mikage/collection/kaiga/kaiga01/index.html

【 レパントの戦いは、1571年、ギリシャ、コリント湾に於ける神聖ローマ同盟国軍とトルコ軍との海戦。キリスト教世界の勝利を記念する歴史的事件となった。本図では、右端に「つぅるこ」、左端に「ろうまの王」と見える。しかし、実際の戦いには陸戦は無く、しかも象隊の出場も無かった。本図は、西欧の版画や本の挿図などから様々な戦闘図の部分を採り入れ、再構成して一つの画面を形成したものである。
 世界地図は、1609年のカエリウス世界地図に基づいて描かれた、数ある地図屏風の中でも最も豪華華麗なもの。地図の下縁には各国男女人物の風俗が表され、また、中央下には南米での食人の凄惨な場面が描かれる。
 元来、主題の異なる戦闘図と世界地図とであるが、海波の表現を同じくして一双の屏風に統一感を与えている。江戸初期、日本人の画家が西洋画を学んで完成した作風を、保存良く伝えている。 】

【 宮内庁本「万国絵図」(下記に再掲)の流れをくむ世界図と、象に乗り弓を構えるターバン姿の戦士たちが、ヘルメットを被り、銃を手に騎兵とともに攻め込んでくる兵士たちと激突する戦闘図とを組み合わせた屏風。戦闘図は右端の城郭に「つぅるこ」(トルコ)、左端の武将の頭上に「ろうまの王」と題された題簽がある。1571年に、ギリシャ・パトラ湾沖でオスマン・トルコ艦隊とカトリック国の連合海軍が激突した「レパントの海戦」を描いたと考えられている。この海戦はイスラム勢力に対してカトリック教国が勝利を飾ったことで西欧世界では重要な意味を持った。本図のような陸戦ではなかったが、スキピオとハンニバルが戦ったザマの戦いを描いた銅版画などを手本に用いながら、戦闘シーンにおける群像表現が大画面に見事に描き上げられている。(鷲頭桂稿) 】
(『大航海時代の日本美術 Japanese art in the age of discoveries(九州国立博物館編)』所収「作品解説113」)

(再掲)

万国図屏風.jpg

「二十八都市萬国絵図屏風(「萬国絵図屏風」)」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)八曲一双 紙本着色 各隻178.6×486.3
https://www.kunaicho.go.jp/culture/sannomaru/syuzou-10b.html

 上記の宮内庁本の「二十八都市萬国絵図屏風(「萬国絵図屏風」)」は、「明治維新の時、駿府の徳川家から皇室に献上されたと伝えられる」もので、晩年の駿府の徳川家康の旧蔵品の由来があるものとすると、「レパント戦闘図・世界地図屏風」(香雪美術館蔵)も、これもまた、晩年の徳川家康周辺の「徳川家」と何らかの接点があるような、いわゆる「戦国の三英傑(信長・秀吉・家康)」の、その頂点を登りついた者と、深い関わりがあるような雰囲気を有する作品と解したい。
この「レパント戦闘図・世界地図屏風」は、当時の世界史的にも、且つ、日本史的にも様々な示唆を投げ掛けてくれる。
 まず、世界史的には、この元亀二年(一五七一)の、この「レパントの戦い」は、「カトリック同盟軍」の「十字軍(スペイン艦隊)」と「イスラム同盟軍」を代表する「オスマン・トルコ軍」との、いわゆる「東西文明の衝突」を象徴する戦いで、この戦いは、カトリック教国の圧倒的な勝利に終わった戦いであった。
 当時の西欧の超大国は、ポルトガルとスペインとの二国で、世界を二分する領土分割線を定め、アフリカ大陸の西に南北線を引き、これより東側で発見された島や大陸側は「ポルトガル領」、西側は「スペイン領」とする、いわゆる、明応三年(一四九四)の「トルデシーリャス条約」で、まさに、「大航海時代」の真っ只中での戦いで、この年(元亀二年)に、「ポルトガル船が初めて長崎に来航し」、そして、スペインが、「ルソン島にマニラ市を建設した」年に当たる。
 この「レパントの戦い」などを前後して、「ポルトガルとスペイン」との二大超大国は、「スペイン」が優位して来て、天正八年(一五八〇)には、「スペイン国王がポルトガル国王を兼ねる」年代となって来る。しかし、その翌年の天正九年(一五九一)には、「オランダ北部七州がスペインからの独立を宣言」と、「オランダ」が登場して来る。 

天正・慶長使節主要航路.jpg

「天正・慶長遣欧使節航路」
https://www.kyuhaku.jp/exhibition/img/s_49/zu01.pdf

 上記の「天正・慶長遣欧使節航路」は、てわゆる「トルデシーリャス条約」の「東回り」(ポルトガル)、そして、「西回り」(スペイン)との、その「領土拡張競争」が、やがて地球を一回りして、東アジアで激突している様子をも語っている。
 その「天正遣欧使節(1582年)と慶長遣欧使節(1613年)」は、下記の図解が分かり易い。

天正使節と慶長使節.jpg

「天正遣欧使節(1582年)と慶長遣欧使節(1613年)」
https://kagami-nihonshi.com/tensyoukenousisetutokeityoukenousisetu/

 「天正遣欧使節」を企画したのは、「ポルトガル」の「イエズス会」の宣教師「ヴァリニャーニ(ノ)」、「慶長遣欧使節」は、「スペイン」の「フランシスコ会」の宣教師「ソテロ」、その使節を送ったのは、前者は「九州のキリシタンタ大名」の「有馬晴信」ら、後者は「奥州の覇者・仙台藩主」の「伊達政宗」である。
 そして、その「天正遣欧使節」の航路は、上記の「東回り航路」(「ポルトガル」航路)で、出発した天正十年(一五八二)は「本能寺の変」で「織田信長」が没した年、帰国したのは、天正十八年(一五九〇)で、「豊臣秀吉」が「北条氏を下し、天下統一を果たした」年で、その三年前の天正十五年(一五八九)には、秀吉が「九州を平定し、バテレン追放令を発布した」年に当る。
 一方の「慶長遣欧使節」の航路は、「西回り」(「スペイン」航路)で、出発した慶長十八年(一六一三)の翌年の、慶長十九年(一六一四)」には、と「キリシタン禁教令を全国に発布、高山右近らキリスト教徒を国外(マニラ)追放、大阪冬の陣」と大きな節目の年であった。帰国したのは、元和六年(一六二〇)で、その二年後の元和八年(一六二二)は「元和の大殉教」があった年なのである。
 まさに、ポルトガルとスペインとの「大航海時代」(1454「トルデシーリャス条約」~1639「マカオのポルトガル船来航禁止=鎖国の完成」)の真っ只中の中で実施された「「天正遣欧使節(1582年)と慶長遣欧使節(1613年)」とは、日本史的には、「1582(「本能寺の変の織田信長の没」~「1622「元和の大殉教の徳川二代将軍・秀忠のキリシタン弾圧の断行
と『織田信長→豊臣秀吉→徳川家康・秀忠の三代にわたる『のキリシタン受容とその終焉』」)との、その時代の変遷を如実に物語るものである。
 そして、ポルトガルとスペインとの「大航海時代」の夜明けを象徴する、冒頭の、名も知らない、イエズス会セミナリヨで学んで制作したと思われる傑作画「レパント戦闘図(屏風)」と、その傑作図「世界地図(屏風)」には、その日本での終焉を象徴する、次の、日本の、イエズス会セミナリヨで学んだ者(修道士?)がデッサンして、それをもとに、西洋(スペイン?)の画家(マカオ在住?)が制作した、次の、「元和大殉教図」(「イタリア・ ジェズ教会」蔵)が、最も相応しい。

元和大殉教図.jpg

「《元和8年、長崎大殉教図》(1622~32年頃、作者不詳・マカオ)イタリア内務省宗教建造物基金(ローマ・ジェズ教会)」(「ウィキペディア」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%92%8C%E3%81%AE%E5%A4%A7%E6%AE%89%E6%95%99#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Martyrdom-of-Nagasaki-Painting-1622.png

元和大殉教図・火炙り景.jpg

「《元和8年、長崎大殉教図》の≪火炙りの景図(拡大図)》」(「ウィキペディア」)

元和大殉教図・斬首の景.jpg

「《元和8年、長崎大殉教図》の≪斬首の景図(拡大図)》」(「ウィキペディア」)

(「追記その一」)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%92%8C%E3%81%AE%E5%A4%A7%E6%AE%89%E6%95%99

(火刑された者)

村山徳安(村山等安の長男。モラレスを匿った罪。等安もキリシタンを擁護したことと大坂の陣で豊臣家に肩入れした嫌疑で処刑されている)
カルロ・スピノラ(イエズス会司祭)
セバスチャン木村(フランス語版)(イエズス会司祭)
フランシスコ・デ・モラレス(ドミニコ会。一旦国外追放後に再入国し、村山徳安に匿われていた。)
ハシント・オルファネル(ドミニコ会士。「日本キリシタン教会史」著。享年43歳)
リカルド・デ・サンタ・アナ(フランシスコ会)
パブロ永石(日本人男性)
アントニオ三箇(日本人男性。河内国三箇城主三箇頼照の孫。幼少期に安土のセミナリヨで学び、アレッサンドロ・ヴァリニャーノに「不器用で、大した人物でなく、頭を患っていた」と評され、退学処分となっている。享年55歳)
パウロ田中(日本人男性)
ルシア・デ・フレイタス(日本人女性。薩摩の武士の娘で、ポルトガル人フィリーペ・デ・フレイタスと結婚。長崎にて自宅を宣教師に提供していた。80歳位。火刑者の中の唯一の女性)
ほか総勢25名

(斬首された者)

マリア村山(村山徳安の妻。末次平蔵の姪で養女。)
イサベラ・ジョルジ(ポルトガル人女性)
イグナシオ・ジョルジ(ポルトガル人イサベラの息子。4歳)
アポロニア(日本人女性)
イグナチア(日本人女性)
マリア棚浦(日本人女性)
マリア秋雲(日本人女性)
マグダレナ三箇(アントニオ三箇の夫人。摂津国出身)
ペドロ(アントニオの息子。3歳)
カタリナ(日本人女性)
ドミニカ(日本人女性)
テクラ永石(パブロ永石の夫人)
クララ山田(日本人女性)
ダミアン多田(日本人男性)
ミゲル多田(ダミアン多田の息子。5歳)
クレメント(日本人男性)
アントニオ(クレメントの息子。3歳)
ほか総勢30名

(追記その二)「慶長元年(一五九七)の「日本二十六聖人の殉教」(フランシスコの宣教師「ペドロ・バプチスタ」を含む二十六人聖人の殉教)」

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-02-04

二十六聖人.jpg

「26人の処刑を描いた1862年の版画」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AD%E8%81%96%E4%BA%BA#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Calvary-of-Nagasaki-1597-by-Eustaquio-Maria-de-Nenclares-(1862).png

 この版画は、江戸時代末期の文久二年(一八六二)の版画で、日本人が中国人(当時の清人の辮髪)のように描かれているが、この「日本二十六聖人」は、右側から順に次のとおりとなる(「ウィキペディア」)。

1 フランシスコ吉(きち) → 日本人、フランシスコ会信徒、道中で捕縛。
2 コスメ竹屋 → 日本人、38歳。大坂で捕縛。
3 ペトロ助四郎(またはペドロ助四郎)→ 日本人、イエズス会信徒、道中で捕縛。
4 ミカエル小崎(またはミゲル小崎)→ 日本人、46歳、京都で捕縛、トマス小崎の父。
5 ディエゴ喜斎(時に、ヤコボ喜斎など)→ 日本人、64歳、イエズス会員。
6 パウロ三木 → 日本人、33歳、大坂で捕縛、イエズス会員。
7 パウロ茨木 → 日本人、54歳、京都で捕縛、レオ烏丸の兄。
8 五島のヨハネ草庵(またはヨハネ五島)→ 日本人、19歳、大坂で捕縛、イエズス会員。
9 ルドビコ茨木 → 日本人、12歳で最年少。京都で捕縛。パウロ茨木、レオ烏丸の甥。
10 長崎のアントニオ → 日本人、13歳、京都で捕縛、父は中国人、母は日本人。
11 ペトロ・バウチスタ(またはペドロ・バプチスタ、ペドロ・バウティスタ)→スペイン人、48歳。京都で捕縛。フランシスコ会司祭。
12 マルチノ・デ・ラ・アセンシオン → スペイン人、30歳、大坂で捕縛。フランシスコ会司祭。
13 フェリペ・デ・ヘスス(またはフィリッポ・デ・ヘスス])→メキシコ人、24歳、京都で捕縛、フランシスコ会修道士。
14 ゴンザロ・ガルシア → ポルトガル人、40歳。京都で捕縛。フランシスコ会修道士。
15 フランシスコ・ブランコ → スペイン人、28歳。京都で捕縛。フランシスコ会司祭。
16 フランシスコ・デ・サン・ミゲル→スペイン人、53歳、京都で捕縛、フランシスコ会修道士。
17 マチアス → 日本人、京都で捕縛。本来逮捕者のリストになかったが、洗礼名が同じというだけで捕縛。
18 レオ烏丸 → 日本人、48歳。京都で捕縛。パウロ茨木の弟。ルドビコ茨木のおじ。
19 ボナベントゥラ → 日本人、京都で捕縛。
20 トマス小崎 → 日本人、14歳。大坂で捕縛。ミカエル小崎の子。
21 ヨアキム榊原(またはホアキン榊原)→ 日本人、40歳、大坂で捕縛。
22 医者のフランシスコ(またはフランシスコ医師)→日本人、46歳、京都で捕縛。
23 トマス談義者 → 日本人、36歳、京都で捕縛。
24 絹屋のヨハネ → 日本人、28歳、京都で捕縛。
25 ガブリエル → 日本人、19歳、京都で捕縛。
26 パウロ鈴木 → → 日本人、49歳、京都で捕縛。

26聖人・ペドロ・パプチスタ.jpg

「26人の処刑を描いた1862年の版画」(部分拡大図)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AD%E8%81%96%E4%BA%BA#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Calvary-of-Nagasaki-1597-by-Eustaquio-Maria-de-Nenclares-(1862).png

 この「6」の殉教者が、「パウロ三木(イエズス会員)」(「聖パウロ三木と仲間たち」の異名を有する代表的殉教者)、「9」が「ルドビコ茨木」(最年少の十二歳)、「10」が 長崎のアントニオ(十三歳)、そして、この「11」の人物が、この殉教者の中心に位置する、フランシスコ会司祭の「ペトロ・バウチスタ(またはペドロ・バプチスタ、ペドロ・バウティスタ)、その脇の「12」の人物が、同じく、フランシスコ会司祭の「マルチノ・デ・ラ・アセンシオン」となる。
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