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「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その十) [忘れがたき風貌・画像]

その十 「二人のキリシタン大名(勝者の将・黒田如水と敗者の将・木下長嘯子)」周辺

如水居士画像.jpg

如水居士画像(崇福寺蔵) (「ウィキベテア」)

【時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕  天文15年(1546)
死没  慶長9年3月20日(1604年4月19日)
改名   小寺万吉(幼名)、祐隆、孝隆、黒田孝高[注釈 1]、如水円清(法名)
別名   官兵衛(通称)、小官、黒官(略称)、如水軒(号)
神号   水鏡権現
戒名   龍光院殿如水円清大居士
霊名   シメオン
墓所  福岡市博多区千代の崇福寺、京都市北区の大徳寺塔頭龍光院、和歌山県伊都郡高野町の高野山奥の院
官位  従五位下、勘解由次官、贈従三位
主君   小寺政職→織田信長→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康
藩   豊前中津藩主
氏族   小寺氏、黒田氏(自称宇多源氏)
父母  父:黒田職隆
母:  小寺政職養女
兄弟  孝高、利高、香山妙春、妙円尼、利則、直之、心誉春勢、浦上清宗室
妻   正室:櫛橋光
子   長政、熊之助、一成、松寿丸   】(「ウィキベテア」)

木下長嘯子像.jpg

木下長嘯子像(模写)(「ウィキベテア」)

【時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕  永禄12年(1569年)
死没   慶安2年6月15日(1649年7月24日)
改名  大蔵(幼名)、勝俊、木下長嘯子
別名  龍野侍従、式部大輔、若狭少将、若狭宰相(通称)、長嘯、長嘯子、挙白、天哉、
    夢翁、西山樵夫、西山樵翁(俳号)
戒名   大成院殿前四品羽林天哉長嘯居士
霊名  ペテロ
墓所   京都府京都市東山区の高台寺
官位  従五位下侍従、従四位下式部大夫、参議、左近衛権少将
主君  豊臣秀吉
藩   備中足守藩主
氏族   木下氏(杉原氏)、羽柴氏(豊臣氏)、木下氏
父母  木下家定、某氏
兄弟   勝俊、利房、延俊、俊定、小早川秀秋、俊忠、秀規、周南紹叔
妻   正室:うめ(宝泉院)(森可成の娘、 側室:複数
子   天祥院(武田信吉室)、智光院(山崎家治室)、女[3](阿野公業室)、春光院万花紹
    三、勝信(橋本勝信) 】(「ウィキベテア」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-26

両脇を支えられた酔っ払い.jpg

「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行のしんがり・へべれけ野郎」(右隻第四・五扇中部) → A-1図

【 この「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行のしんがり・へべれけ野郎」の正体は何者なのか? この男は、次の「祇園林の乱痴気騒ぎ」(右隻第三扇)にも登場して来る。】

【 現在の八坂神社は、明治元年(一八六八)の神仏分離に際して改められた名称で、それ以前は「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていた。この「感神院」の扁額を掲げた鳥居は、「祇園感神院」(「祇園社」・「祇園神社」・「八坂神社」)の鳥居で、その松林(祇園林)のそこかしこで宴会(「乱痴気騒ぎの酒宴」)が行われている。
 その「感神院」の扁額の左上に、両脇を支えられた「へべれけ野郎」(A-2図)は、「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行のしんがり・へべれけ野郎」(A-1図)であることは間違い無かろう。】

祇園社.jpg

「祇園林の乱痴気騒ぎ・へべれけ野郎」(右隻第三扇上部) → A-2図

祇園社の北政所.jpg

「祇園感神院」の鳥居(扁額)の下を潜る一行(「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね一行?)」)(右隻第三扇中部) → A-3図

【 そして、この「感神院」の扁額の鳥居の下に、何やら、ここにも、「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね)」一行の姿らしきものが描かれている。】

【 「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね)」は、実子がいなかったせいもあり、一族の子女を可愛がり、特に兄・木下家定の子供(上記B-2図の「勝俊(長嘯子)・利房・延利・俊定・秀秋(小早川)」)らには溺愛と言っていいほどの愛情を注いでいる。
 家定没後、その所領を木下利房と木下勝俊(長嘯子)に分割相続させようとした家康の意向に反し、勝俊が単独相続できるように浅野長政を通じて徳川秀忠に願い出る画策をしたため、家康の逆鱗に触れ結局所領没収の事態を引き起こしている。
 これらは、高台院と家康とが、必ずしも一般的に伝えられているような相互に親密な関係ではなかったことを証明することの一端なのかも知れない。
 それに引き換え、高台院と徳川秀忠との関係は、「平姓杉原氏御系図附言纂」によると、秀忠が十二歳の時に家康から秀吉に人質として送られた際、身柄を預かった「高台院と孝蔵主」が秀忠を手厚くもてなし(原文では「誠にご実子の如く慈しみ給う」)など、その恩義からか、高台院を手厚く保護しており、上洛するたびに高台院を訪ねているなど、家康との関係以上に、相互に親しい間柄であったことが伺える。 】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-11-20

木下長嘯子.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「十八 木下長嘯子」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1486

【 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tyousyou.html

木下長嘯子(きのしたちょうしょうし) 永禄十二~慶安二(1569~1649) 号:挙白堂・天哉翁・夢翁

 本名、勝俊。木下家定の嫡男(養子)。豊臣秀吉夫人高台院(北政所ねね)の甥。小早川秀秋の兄。秀吉の愛妾松の丸と先夫武田元明の間の子とする伝もある。歌人木下利玄は次弟利房の末裔。幼少より秀吉に仕え、天正五年(1587)龍野城主に、文禄三年(1594)若狭小浜城主となる。秀吉没後の慶長五年(1600)、石田三成が挙兵した際には伏見城を守ったが、弟の小早川秀秋らが指揮する西軍に攻められて城を脱出。
 戦後、徳川家康に封地を没収され、剃髪して京都東山の霊山(りょうぜん)に隠居した。本居を挙白堂と名づけ、高台院の庇護のもと風雅を尽くした暮らしを送る。高台院没後は経済的な苦境に陥ったようで、寛永十六年(1639)頃には東山を去り、洛西小塩山の勝持寺の傍に移る。この寺は西行出家の寺である。慶安二年六月十五日、八十一歳で没。
 歌は細川幽斎を師としたが、冷泉流を学び、京極為兼・正徹などに私淑した。寛永以後の地下歌壇では松永貞徳と並称される。中院通勝・冷泉為景・藤原惺窩らと親交があった。門弟に山本春正・打它公軌(うつだきんのり)・岡本宗好などがいる。また下河辺長流ら長嘯子に私淑した歌人は少なくなく、芭蕉ら俳諧師に与えた影響も大きい。他撰の家集『若狭少将勝俊朝臣集』(『長嘯子集』とも)、山本春正ら編の歌文集『挙白集』(校註国歌大系十四・新編国歌大観九などに所収)がある。 】

 この木下長嘯子の「辞世の歌」は、次のものであった。

【 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tyousyou.html#LV

 辞世

王公といへども、あさましく人間の煩をばまぬがれず何の益なし。すべて身の生まれ出でざらんには如かじ。まして卑しく貧しからんは言ふに足らず。されば死はめでたきものなり。
ふたたびかの古郷にたちかへりて、はじめもなく、をはりもなき楽しびを得る。この楽しみをふかく悟らざる輩、かへりて痛み歎く。をろかならずや。

露の身の消えてもきえぬ置き所草葉のほかにまたもありけり(挙白集)

あとまくらも知らず病み臥せりて、口に出るをふと書きつくる。人わらふべきことなりかし。

《通釈》(文)王や大臣と言えども、浅ましくも人間の煩わしさを免れず、地位などは何の益もない。大体、生まれて来ないのに越したことはあるまい。まして私のように身分卑しく貧しい者は言うまでもない。だから死はめでたいものである。生まれ出た原郷に再び帰って、始まりもなく終りもない楽しみを得る。この楽しみを深く悟らないやからは、かえって嘆き悲しむ。愚かではないだろうか。

(歌)露のようにはかない身が消えても、消えずに残る置き所。草葉のほかにもまたあるのだった。我が袖に置いた涙の露よ。

(文)前後もなく病み臥せって、口をついて出たのをふと書き付けておく。お笑い種にちがいない。

《補記》『挙白集』最終巻(巻十)の巻末に収められた歌文。長嘯子はその後まもなく死去し、遺言に基づき一本の松のもとに葬られたという。

《本歌》 殷富門院大輔「時代不同歌合」「続古今集」
きえぬべき露の憂き身のおき所いづれの野辺の草葉なるらん       】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-14


黒田藤.jpg

「筑前国福岡藩祖」の「黒田孝高」の「紋所」の一つ

【 この「筑前国福岡藩祖」の「黒田孝高」の「紋所」の一つが、「ふじどもえ」(「藤・巴」)で、この「ふじどもえ」の紋所は、信長に叛旗をひるがえして毛利方についた孝高と親交のある「荒木村重」を説得しに行き、そのまま「有岡城」の奥牢に幽閉された時の裏窓の「藤の花」に由来があることが、次のアドレスの「筑前52万石始祖の黒田如水と藩祖の長政」で紹介されている。

https://www.ncbank.co.jp/corporate/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/hakata/ 】

黒餅紋.jpg

https://kisetsumimiyori.com/kurodanagamasa/

【 黒餅紋:黒田長政の家紋その1
 
 黒田家の家紋で有名なのが、この「黒餅」という家紋。白地に黒で丸を描いた、とてもシンプルな家紋です。ちなみに、黒地に白抜きで丸を描いたものを「白餅紋」と呼んでいます。
 この黒餅紋は、豊臣秀吉のもとで共に「両兵衛」と呼ばれた竹中半兵衛から譲り受けたもの。官兵衛が大層大切に使用していた家紋として知られています。

 長政は幼少期に織田家の人質だった

 実は、長政は幼いころに織田家の人質となっていた時期があります。ある時、父の官兵衛が敵軍を説得するために赴いたところ、逆に捉えられ幽閉されてしまいました。これを、信長は勘違いから「官兵衛の裏切り」と思い込んでしまい、嫡子である長政を殺そうとします。
 しかし、ここで半兵衛が素早く長政をかくまい、信長をうまくごまかしてくれたことから、長政は命をとられずに済みました。半兵衛は、官兵衛と長政を心配する手紙を遺し、若くして肺病でこの世を去ります。

 長政を信長から守り抜いた竹中半兵衛

 その後に助け出された官兵衛は、竹中半兵衛が長政を守り抜いてくれたことを知って感激し、半兵衛が使っていた家紋を使用するようになりました。その後も両家の絆は継続しており、関ヶ原の戦いでは長政と半兵衛の子・竹中重門が隣同士の陣地で闘っています。互いに偉大な父を持つ二人は、父同士が互いを思いやる姿を見て多くのことを学んだのでしょう。

藤巴紋:黒田長政の家紋その2

 そして、もう一つが「藤巴紋」です。官兵衛はこの家紋を替紋として使用しており、表門
は「黒餅」であったことが解っていますが、黒田家の家紋というとこちらの印象が強い様で
す。
 こちらの紋は、黒田家が使えていた「小寺家」から下賜されたもの。ただ、黒田家は「家
臣でありながら主君とおなじ家紋を使うのは気が引ける」という気持ちがあったようで、小
寺家よりもデザインがシンプルなものを使用しています。 】

左、黒田長政像 江月宗玩賛.jpg

左、黒田長政像 江月宗玩賛 一幅 江戸時代 寛永2年(1625) /右、黒田孝高像 黒田利則請
春屋宗園賛 一幅 江戸時代 慶長9年(1609)/ 福岡・崇福寺蔵
http://www.arthajime.com/writers/?p=12937

【京都洛北、紫野にある臨済宗の古刹、大徳寺は、茶の湯の寺としても有名です。「龍光院」は、その大徳寺の塔頭の一つです。慶長11年(1606)九州福岡藩主の黒田長政が父黒田孝高(如水・官兵衛)の菩提を弔うために春屋宗園(しゅんおくそうえん)を開祖として建てられました。(※NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」で岡田君が演じていたのが父黒田官兵衛、桃李君が演じていたのが長男黒田長政です)春屋宗園は、ほどなく江月宗玩に代を譲り、二世江月宗玩が実質的な開祖となりました。】
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