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「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その十一) [忘れがたき風貌・画像]

その十一「『越前・福井での遭遇』(藩主・松平忠直と絵師・岩佐又兵衛)」周辺

岩瀬又兵衛.jpg

「伝岩佐又兵衛(自画像)・MOA美術館蔵」(ウィキペディア)
(「又兵衛の子孫に伝わった自画像。原本ではなく写し、あるいは弟子の筆と見る意見もあ
る。岩佐家では又兵衛の命日にこれを掛けて供養したという」―『別冊太陽247 岩佐又兵
衛』 所収「岩佐又兵衛の生涯(畠山浩一)」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-11-25

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-29

「山中常盤(山中常盤物語絵巻)」(重要文化財 全十二巻 各34.1×1239.0~1263.0 MOA
美術館蔵)の「 美濃の国、山中の宿にたどり着いた常盤は、盗賊に襲われて刀で胸を突き
刺される。侍従は常盤を抱き、さめざめと泣く(第四巻)」 → B図
http://www.moaart.or.jp/?event=matabe-2019-0831-0924

山中常盤四.jpg

「山中常盤(山中常盤物語絵巻)」(重要文化財 全十二巻 各34.1×1239.0~1263.0 MOA
美術館蔵)の「常盤は宿の主人夫妻に自らの身分を明かし、牛若への形見を託す」(第五巻)
→ C図

宿の老夫婦に看取られて常盤の死.jpg

【 この場面は夙に知られている。『岩佐又兵衛(辻惟雄・山下裕二著)・とんぼの本・新潮
社』の表紙を飾り、その副題は「血と笑いとエロスの絵師」である。その内容は、次の二篇
から構成されている(一部、要点記述)。

第一篇(人生篇)― その画家卑俗にして高貴なり (辻惟雄解説)
その一    乱世に生まれて 
その二    北の新天地で花ひらく
その三    江戸に死す
第二篇(作品篇)― 対談(辻惟雄+山下裕二 )
 その一 笑う又兵衛 ― 古典を茶化せ! 合戦も笑い飛ばせ!
 その二 妖しの又兵衛 ― 淫靡にして奇っ怪、流麗にしてデロリ、底知れぬカオス
 その三 秘密の又兵衛 ―「浮世又兵衛」(吃又兵衛=『傾城反魂香』)
 その四 その後の又兵衛― 又兵衛研究の総決算ここにあり!→『岩佐又兵衛―浮世絵
をつくった男の謎』(辻惟雄著・文春新書)→ 表紙=C図)

 これらに出てくる、「血と笑いとエロス」「淫靡にして奇っ怪、流麗にしてデロリ、底知れ
ぬカオス」というネーミングを有する、これらの「岩佐又兵衛風古浄瑠璃絵巻群』(辻惟雄
の命名)は、その作風を、次のように評されることになる(『岩佐又兵衛と松平忠直―パト
ロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』P25-27「『又兵衛風絵巻群』についての辻仮
説」要点記述)。

一 「荒々しいサディズムが横溢している。」
二 田中喜作によって「気うとい物凄さ」と評された一種の「妖気」も、「又兵衛風絵巻群」の「モノマニアックな表出性」にそのままつながる。
三 「又兵衛風絵巻群」の「派手な原色の濫用、表出的要素の誇張、人物の怪異な表情、非
古典的な卑俗味といった要素」は、主として外的な諸要因によるものであり、それと又兵衛
自身の特異な内的素質の相乗作用によって出来上がったものである。
 
 また、「又兵衛風絵巻群」の共通点として、次の七点が列挙される(『黒田・前掲書』P25-
27「二冊の『岩佐又兵衛』」要点記述)

一 長大であること。
二 金銀泥や多様性の顔料を使った原色的色調による華やかな装飾性。
三 同じ場面の執拗な反復。
四 詞書の内容の細部にわたる忠実な絵画化。
五 劇的場面に見られる詞書の内容を越えたリアルでなまなましい表現性。
六 残虐場面の強調。
七 元和・寛永期の風俗画に共通する卑俗性。】

画像2.jpg

松平忠直像(浄土寺蔵)(「ウィキペディア」)

【時代 江戸時代前期
生誕  文禄4年6月10日(1595年7月16日)
死没  慶安3年9月10日(1650年10月5日)
改名  仙千代(幼名)→忠直→一伯(号)
別名  幼名:長吉丸(国若丸とも)
戒名  西巌院殿前越前太守源三位相公相誉蓮友大居士、西巌院殿相誉蓮友一泊大居士
墓所  大分県大分市の浄土寺、大分県大分市の朝日寺、和歌山県伊都郡高野町の金剛峯寺
東京都文京区の浄土寺、福井県鯖江市の長久寺、東京都品川区の海晏寺
官位  従四位下・侍従、三河守、右近衛権少将、従四位上・左近衛権少将、従三位・参議、
左近衛権中将、越前守
幕府  江戸幕府
主君  徳川秀忠
藩  越前北荘藩主
氏族  越前松平宗家
父母  父:結城秀康 母:清涼院(中川一元娘)
兄弟  忠直、忠昌、喜佐姫、直政、吉松、直基、直良、呑栄
妻 正室:勝姫(徳川秀忠三女) 側室:蕙林院ほか
子 光長、寧子、鶴子、女子、永見長頼、永見長良、勘子  】(「ウィキペディア」)
参内する松平忠直.jpg

「家康と共に参内する松平忠直」(左隻第四扇上部) → B図
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-26

【この図(B図)は、「(A図)」の上部に描かれているものである。この「(B図)」の、『洛
中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』の記述は、次のものである。

≪これで行列は終わらない(註・「(A図)」の行列)。金雲の上には、二騎の騎馬を中心にし
て、二十人近い白丁(註・下級武士)が駆け出している。かれらは、おそらく牛車の後に付
き従っている白丁なのだ。≫

ここで、「(A図)」(「徳川家康・義直・頼宣」麾下の「白丁」の「静」なるに対し、この騎
馬の若武者の「白丁」は、前回の「(A-4)図」(「三番目の母衣武者周辺」)の「取り巻き」
と同じように「動」なる姿態で、そして、その太鼓の上部の「日の丸」の扇子を持った男
性と同じように、この「(B図)」でも「扇子」を持った、「白丁」よりも身分の高いような
男性が描かれている。
 これらのことからして、その「(A-4)図」(「三番目の母衣武者周辺」)の「母衣武者」を
「松平忠直」と見立てたことと同じように、この騎馬の貴公子は、「松平忠直」その人と見
立てることは、極めて自然であろう。

日の丸胴母衣武者周囲.jpg

「三番目の母衣武者周辺」(左隻第二扇上部) → A-4図

 ここまでのことを整理すると、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』
では、慶長十六年(一六一一)八月(これは三月が正しいか?)に、徳川家康は、「五郎太
丸(七歳、後の尾張の徳川義直)と長福丸(五歳、後の紀伊の徳川義宣)」を元服させて、その
二人を伴って叙任の参内をしている。」
 この時に、「(A図)」(「牛車の参内行列(家康・義直・頼宣)」)の「牛車」に「徳川家康」、
そして、二挺の「手輿(たごし)」に、「五郎太丸(七歳、後の尾張の徳川義直)と長福丸(五歳、
後の紀伊の徳川義宣)」が乗っている。
 さらに、『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』に
おいて、この参内の時には、十七歳の「松平忠直」(越前藩主)も、「祖父家康に連れられて
参内」しており、これは、「忠直の人生にとって最初で最後の晴れやかな出来事であった。
家康の孫、秀康の子であることを強烈に意識したことであろう。清和源氏新田氏の門葉
(子孫)であることを自覚した機会でもあったに違いない」ということになる(この書で
は、上記の抜粋の通り、慶長十六年(一六一一)三月になっており、それは、『大日本史
料』第十二巻之七の記述が「三月」で、前書の「八月」は『大日本史料』第十二巻之四に
因っており、その違いのようである)。
 そして、この時には、「(B図)」(「家康と共に参内する松平忠直」))の通り、松平忠直は
「従四位上左近衛少将」の騎馬の英姿で描かれているということになる。 】

 これが、岩佐又兵衛が、越前藩主・松平忠直の招聘により、越前北ノ庄の真言寺院、興宗
寺(本願寺派)の僧「心願」を介して、それまで住み慣れた京から越前へと移住し、その松
平忠直から依頼された、所謂、「又兵衛絵巻群」の、その絵巻の中で、次のように変貌して
結実してくることになる。

山中常盤物語絵巻.jpg

「山中常盤(山中常盤物語絵巻)」(重要文化財 全十二巻 各34.1×1239.0~1263.0 MOA
美術館蔵 )の「山中常盤物語絵巻・第11巻(佐藤の館に戻った牛若は、三年三月の後、十
万余騎をひきいて都へ上がる)」→ C図
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