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「東洋城・寅彦、そして、豊隆」(漱石没後~寅彦没まで)俳句・連句管見(その十六) [東洋城・寅日子(寅彦)・蓬里雨(豊隆)]

その十六「昭和七年(一九三二)」

[東洋城・五十五歳。秋田、象潟、榛名、箱根に遊ぶ。松山俳諧道場、東京俳諧道場。十二月、母没す。]

草摘(ツム)や畔をたがへて俳門(うかれびと)
寿(いのちなが)母生(あ)れし日の弥生かな(前書「草屋春風」)
恰(アタカ)もの柿の頃なり法隆寺(前書「『柿食へば鐘が鳴るなり』の句を思ひ出づれど、柿は買はず」)
その後(ア)トや前立仏(マエダチブツ)に秋の暮(前書「夢殿秘仏」)
いや静(シ)づに御魂(オミタマ)まもれ落葉共(ドモ)(前書「母を失ふ」)

※ 東洋城の俳句の「読み」というのは、「俳門(うかれびと)」とか「寿(いのちなが)」とか、東洋城独特の「読み」があり、東洋城が期待しているとおりの「読み」をするというのは難しい。
 ちなみに、「恰(アタカ)もの」などの「読み・意味」するものは、その「前書」から類推する他はない。「後(ア)ト」は、「ト」のルビがあり、その「前立仏(マエダチブツ・マエダテブツ)」から、「五・七・五」音からすると、「その後(ア)トや」という読(詠)みになる。
 そして、前書に「母を失ふ」とある「いや静づに御魂まもれ落葉共」をどう読(詠)むかとなると、「五・七・五」音の読(詠)みから、「いや静(シ)づに御魂(オミタマ)まもれ落葉共(ドモ)」として置きたい。
『東洋城全句集(中巻)』の「昭和八年(五十六歳)」に、「亡母と西下 六十二句」が収載されているが、『東洋城全句集(上巻)』の、「明治三十七年(二十七歳)」に、母を句にした次の句がある。

瓶のものに水仙剪るや四方の春(前書「床に掛軸餅は据ゑたれど瓶に花忘れたり、けさとなりて母上庭に下り立ち水仙を剪り給ふ」)

 この東洋城の句は、東洋城が「病臥(腸チフス)」で癒えた時の「快癒句録 八句」の、そのうちの一句である。

瓶のものに水仙剪るや四方の春(前書「床に掛軸餅は据ゑたれど瓶に花忘れたり、けさとなりて母上庭に下り立ち水仙を剪り給ふ」)

いや静(シ)づに御魂(オミタマ)まもれ落葉共(ドモ)(前書「母を失ふ」)

 この二句の間に、東洋城の、その生涯の、その半世紀(五十年)に亘る、東洋城の「母と子」との歴史が刻まれているということになる。

(再掲) 「東洋城家族」(「俳誌『渋柿(昭和四十年(一九六五)の一月号(「松根東洋城追悼号」)」所収「青春時代を語る / 東洋城 ; 洋一/p54~73」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-08

東洋城家族.jpg

「東洋城家族」(「俳誌『渋柿(昭和四十年(一九六五)の一月号(「松根東洋城追悼号」)」所収「青春時代を語る / 東洋城 ; 洋一/p54~73」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/41
[左から「父・権六/伯母・初子(柳原前光(伯爵)夫人・白蓮の養母・東洋城の母の姉)/母・敏子/弟・卓四郎/弟・新八郎/親族/弟・宗一」(明治四十一年七月三十一日写)

(追記) ※上記のアドレスでは、「松根東洋城」家族として、「弟・卓四郎/弟・新八郎/親族/弟・宗一」としたのだが、『松根東洋城年譜』(『東洋城全句集中巻』)では、「明治二十年(一八八七)/十歳/弟貞吉郎生まる」とあり、「弟・新八郎(明治十八年生れ)」と「弟・卓四郎(明治二十五年生れ)」との間に、「弟貞吉郎(明治二十年生れ)」があり、それらを加味して、上記の写真を解読する必要があろう。

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-12

東洋城家族一.jpg

(裏面に、「明治四十二年九月四日写之、秋風やこぼつときめてきめて撮す家」と認めてある宇和島の宏壮な郷邸で、私の推定では敷地三千坪もあつたろうか。大半を町へ売られ、跡は町立病院が建った。残った二百坪程度の敷地に七間位の邸を建てられ、私どもはそこへ通つた。それも戦火に罹つて炎上、今は唯「我が祖先(おや)は奥の最上や天の川」の句碑一基を残すのみである。徳永山冬子)
「青春時代を語る / 東洋城 ; 洋一/p54~73」)」(「俳誌『渋柿(昭和四十年(一九六五)の一月号) 』 (「松根東洋城追悼号」)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/37

※ この「宇和島の松根家の邸宅と家族」(明治四十二年九月四日写)については、右から、「父・権六と母・敏子」、中央の三人「新八郎(次弟)・東洋城(継嗣・豊次郎)・房子(妹)」、
左から「宗一(末弟)・卓四郎(四弟)・貞吉郎(三弟)」という見方もあるのかも知れない。


[寅彦(寅日子)・ 55歳。
1月12日、帝国学士院で“Cracks Produced on the Surface of Dielectrics by Gliding Spark”(with M. Hirata and R. Yamamoto)および“Deformation of the Rhombic Base Lines at Mitaka and Earthquakes in Kwanto”を発表。1月19日、地震研究所談話会で「地震と漁獲」(渡部哲と共著)を発表。3月12日、帝国学士院で“Earthquakes and Fisheries”を発表。5月12日、帝国学士院で“Change of Depth in the Bay of Tosa”を発表。5月17日、地震研究所談話会で「興津より串本に至る水準点検測成果」および「土佐沿岸海底の変化」を発表。5月25日、理化学研究所学術講習会で「椿の花の落ち方に就て」(内ヶ崎と共著)および「水晶玉の打撃像」(平田・山本と共著)を発表。6月6日、航空学談話会で「中空紡錘状流水水柱の生成」(田中・伊東彊自と共著)を発表。6月21日、地震研究所談話会で「半島の傾斜と地殻の剛性」(宮部と共著)および「地震の分布と観測所の分布」を発表。7月12日、帝国学士院で“Tilting and Strength of Earth’s Crust”(with N. Miyabe)を発表。10
月18日、地震研究所談話会で「地磁気の分布と日本の構造」を発表。11月12日、帝国学士院で“On the Result of Revision of Precise Levelling along the Pacific Coast from Okitu to Kusimoto, 1932”および“The Result of the Recent Revision of Precise Levelling on the Route from Tokyo to Huzimi via Takasaki and Suwa”(with N. Miyabe)を発表。12月17日、勲二等に叙せられ瑞宝章を授けられる。12月20日、地震研究所談話会で「北上川に就て」および「地磁気の分布と日本の構造(続報)」を発表。
「音楽的映画としてのラブ・ミ・トゥナイト」、『キネマ旬報』、1月。
「読書今昔談」、『東京日日新聞』、1月。
「物理学圏外の物理的現象」、『理学界』、1月。
談話「山火事の警戒は不連続線」、『日本消防新聞』、1月。
※「俳諧 二つ折」、『渋柿』、1月。
「郷土的味覚」、『郷土読本』、2月。
「映画の世界像」、『思想』、2月。
「『手首』縦横録」、『中央公論』、3月。
「映画「三文オペラ」その他」、『帝国大学新聞』、3月。
「Propfessor Takematu Okada」、『Geophysical Magazine』、3月。
「千本針」、『セルパン』、4月。
談話「シベリアの大山火事」、『日本消防新聞』、4月。
「俳味あるフランス映画——「自由を我等に」を見て」、『帝国大学新聞』、5月。
『続冬彦集』、岩波書店、6月。
「工学博士末広恭二君」、『科学』、6月。
「生ける人形——文楽の第一印象」、『東京朝日新聞』、6月。
談話「喫茶店に書斎を求む」、『帝国大学新聞』、6月。
「チューインガム」、『文学』、8月。
「映画芸術」、岩波講座『日本文学』、8月。
「教育映画について」、『文学』、8月。
「天文と俳句」、『俳句講座』、改造社、8月。
「烏瓜の花と蛾」、『中央公論』、10月。
「札幌まで——熊に逢はなかつた話」、『鉄塔』、11月。
「俳諧の本質的概論」、『俳句講座』第三章、改造社、11月。
「音楽的映画としての「ラヴ・ミ・トゥナイト」、『キネマ旬報』、11月。
「ステッキ」、『週刊朝日』、11月27日。
「Kasu no Simatu」、『Romazi no Nippon』、11月。
「ロプ・ノール其他」、『唯物論研究』、12月。
「夏目漱石先生の追憶」、『俳句講座』第八巻、改造社、12月。
「田丸先生の追憶」、『東京帝国大学理学部会誌』、12月。
「言葉の不思議(わらふとべらぼう)」、『鉄塔』、12月。 ]

 上記の年譜の「※「俳諧 二つ折」、『渋柿』、1月。」周辺のことに関連して、「大正十五年補遺」(『寺田寅彦全集 文学篇 第十七巻』)に、次のとおりの、寅彦から東洋城への「俳諧二つ折」離脱(?)の書簡がある。

[大正十五年(一九二六)二月十三日 土 本郷駒込曙町十三より牛込区余丁町世十一松根豊次郎氏へ(「はがき」表の署名に「寅」とあり。)
 さう一々故障を入れられては興味がぬけてしまつて困ります。壁泥は泥壁とはちがひます。又小生の二枚折のプロットは歌仙とは少しちがひます。「背景」はそんなに変化しないで、其前に一二の焦点が出来る方が「絵」としては効果があるのです。それで壁泥は撤回しない事にします。(中略)
 此の二枚折は君の独吟に願ひます。附句の内容を指図するのは連句の根本義に背くと思ひます。二枚折はいやになつたからやめます。独りでやり玉へ。失敬 

大正十五年(一九二六)二月十三日 土 本郷駒込曙町十三より牛込区余丁町世十一松根豊次郎氏へ(「はがき」表の署名に「寅」とあり。)
 連句の道の要諦は、銘々が自分の個性を主張すると同時に他者の個性を尊重し受容して御互に活かし合ひ響き合ふ處にある。此れは或意味での則天去私に外ならない、處が君はどうも自分の個性だけで一色にしてしまはうとするので困る。それでは連句にならないで独吟になつてしまう。芭蕉の頭の大きかつた証拠はあらゆる個性を異にした弟子達のちがつた世界を包容してそれぞれを発達させた点にあるかと思ふ。どんなまづいと思ふ附け方で活かす事が面白くありませんか。繰返していゝますが、内容の注文は連句の根本義に背きます。
 東洋城先生もつて如何となす?! ?!  ?!

大正十五年(一九二六)二月十五日 月 本郷駒込曙町十三より牛込区余丁町世十一松根豊次郎氏へ(「封筒なし」)
 少々過激派の端書を出し、あとで内々恐縮して居た處昨夜御手紙でいよいよ以て恐縮どうか御寛容を祈ります。
 二枚折は種々な型式が可能なうちで其の一つ第一号型式として前半を大部分「自然」特に長句を「自然」にして短句の方に一つか二つ位人事を入れ、後半に入りて逆に長句の方を人事、短句にボツボツ自然を入れ最後の一二句で又自然に点じ此れが冒頭の自然に、それとなく対立(同じ景色ではなく、しかも調和するもの)して、一幅の背景を完成するといふのよいかと思そます (以下、略)  ](『寺田寅彦全集 文学篇 第十七巻』)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-11-15

(再掲)

▽「俳諧 二つ折(『渋柿』、9月)」は、「六つ物」(六句形式)を「二つ折」(「表と裏」の十二句)」を基本とするもの。「俳諧 二枚折(『渋柿』、7月)」は、「俳諧 二つ折」(十二句)を二枚続けて、「(六句・六句)+(六句・六句)=二十四句」を基本とするもの。「俳諧 二枚屏風(『渋柿』、12月」)は、「俳諧 二つ折」(十二句)を二枚続けて、「(六句・六句)+(六句・六句)=二十四句」を、「二曲一双」屏風のように、「一枚目屏風(六句+六句)=右隻」と「二枚目屏風(六句+六句)=左隻」と、「対(主題)」の仕立てにする形式のもの。これは、「六曲一隻(六句+六句+六句+六句+六句+六句)」ものなど、様々なバリエーションのものがあろう。


[豊隆(蓬里雨)・昭和七年(一九三二)、三十三歳。]

 『漱石 寅彦 三重吉(小宮豊隆著・岩波書店)』(昭和十七年初版)の中に、「破門」(昭和十一年一月二十三日「渋柿(寺田寅彦追悼号)」初出)という、豊隆が寅彦より「もう君とは俳諧をやらない」と、「東洋城・寅彦・蓬里雨」の三吟俳諧(連句)の座から「破門」されたという内容のものがある。

[(前略)

―― 或時、たしか京橋の竹葉で三人(※「東洋城・寅彦・蓬里雨」)一緒に飯を喰つてゐた時だった。寺田さんは急に眞顔になつて、私に、もう君とは一緒に俳諧をやらないと言ひ出した。―― 君のやうに不熱心ではしやうがない。僕はうちの者の機嫌をとつて、うちで会をしてゐる。それなのに君は一向真面目に句を作らない。雑談計りしてゐる。それでなければ昼寝をする。君のやうな不誠実な人間は破門する。――

(中略)

―― 是が寺田さんと私との長いつき合ひの間に、寺田さんから叱られた唯一の思ひ出である。寺田さんと話をしてゐると、時々横つ面を張り飛ばされるやうに感じる事がある。然しそれは、大抵こつちが何等の点で、馬鹿になつてゐる時、いい気にゐる時である。その際寺田さんの方では、別にこつちの横つ面を張り飛ばさうと意図してゐる訳ではなく、寺田さんから言へば、ただ当り前の事を言つてゐるのが、此方では横つ面を張り飛ばされて感じるのである。然し是はさうではない。寺田さんはほんとに叱る積りで叱つたのである。然もよくよく考へて見ると、寺田さんの叱つたのは、私の俳諧のみではなかつた。私の仕事、私の学問、私の生活。

―― いつまでたつても「後見人」を必要とするやうな私の一切を、寺田さんは是で叱つたのだといふ気が、段段して来る事を、私は禁じ得ない。これは或は私の感傷主義であつたとしても、少くとも寺田さんの俳諧に対する打ち込み方、学問に対する打ち込み方、生活に対する打ち込み方、――人生の凡てののもを受けとる受けとり方を、最も鮮やかに代表してゐるものであつたとは、言ふ事が出来るのである。 ](『漱石 寅彦 三重吉(小宮豊隆著・岩波書店)p278-285』 )

 この[「東洋城・寅彦・蓬里雨」の三吟俳諧(連句)の座から「蓬里雨破門」]関連については、『寺田君と俳諧』(『東洋城全句集(下巻)』所収)で、東洋城は、次のとおり記述している。

[ 始め連句は小宮君が仙台から上京するを機会とし三人の会で作つてゐた、それで一年に二度来るか三度来るかといふ小宮君を待つてのことだから一巻が中々進行しない。其上小宮君の遅吟乃至不勉強が愈々進行を阻害する。一年経つも一巻も上がらぬ、両人で癇癪を起し、仕舞には小宮君が上京しても三人会は唯飯を食ふ雑談の会として連句のことは一切持出さないことにしてしまつた。そこで余との両吟に自ら力が入つて来、屡(シバシバ)二人会合するやうになつた。昭和四年・五年は少なく、両吟・三吟各一連に過ぎなかったが、六年に至っては俄然増加して、両吟七、三吟一歌仙を巻きあげた。](『東洋城全句集(下巻))』所収「寺田君と俳諧」)

東洋城・寅彦・豊隆一.jpg

(左から「松根東洋城・寺田寅日子・小宮蓬里雨」=「東洋城・蓬里雨」→「みやこ町役場 歴史民俗博物館・漱石快気祝い」、「寅日子」→「ウィキペディア」)

※ 「寅日子の蓬里雨破門」の頃の「東洋城・寅日子・蓬里雨」の三吟歌仙(昭和六年十月「渋柿」)

歌仙(「短夜の」巻・「東洋城・寅日子・蓬里雨」の三吟歌仙(昭和六年十月「渋柿」)」)


短夜の旅寝なりしが別れかな   蓬里雨
 蚊帳の釣手に濱の朝風     寅日子
長文に積荷の事も書きそへて   東洋城
 将棋に声のつのる辻侍       雨
色々にものなまぐさき河岸の月    子  月
あれほどの虫鳴かずなりけり    城

汽車の中夜寒の人の寄合うて     雨
 熊にとられし女うつくし      子
輿入れのその白無垢の潔く      城  恋
 障子に映る影のさまざま      雨  恋
水の国真菰の里とうたはれて     子
 人若かりし万葉の頃        城
どこまでも一筋道の夏の月      雨  月
 名物なれば鮎の早鮓        子
なまなかに塗りたる箸の處禿げ    城
 手拭掛のたたく戸袋        雨
先生を花見にさそふはかりごと    子  花(※先生=漱石のイメージ?)
 春の朝寝を起されてゐる      城
ナオ
處狭(セ)く傘干す庭の陽炎ひて    雨
 しぶきの玉を散らすカナリヤ    子
琴の手の一手々々にもゆる胸     城  恋
 肩の細りをつゝむ縮緬       雨  恋
鳴きつれし千鳥もしばし絶えて憂き  子  恋
 雲より下の雪の荒海        城
絶頂の鬼の窟(イワヤ)の夜もすがら   雨
 鸚鵡(オウム)石とはこれをいふらん  子
聞き及ぶ十八番の七(ナナ)ツ面(メン)  城
 あいた片手に尻をからげる     雨
宿まではついに一足の月の土手    子  月
 暗いところで秋の行水       城
ナウ
コスモスの姿さまざま花つけて    雨  
 日限(ヒギリ)間近き仕事もちけり   子
べたくたと口のまめなる家の老    城
 雀くはへて帰り来る猫       雨
絲桜根岸に寮をしつらひて      子  花
 網代垣とは春深き雨        城

(補記)

俳諧の本質的概論

https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card2471.html

夏目漱石先生の追憶

https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card2472.html

田丸先生の追憶

https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card2473.html
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