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最晩年の光悦書画巻(その八) [光悦・宗達・素庵]

(その八)草木摺絵新古集和歌巻(その八・源正清朝臣)

花卉四の二.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (4-2) (源正清朝臣)
MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝

 この図(4-2)の中央部の歌は、次の源正清の一首である。

恋しさに今日ぞ尋ぬる奧山のひかげの露に袖は濡れつつ(源正清朝臣「新古今」1154)

(釈文)恋し左尓介ふ曽た徒ぬ累お具山乃日可介濃露尓袖ぬらし徒々(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

 『新古今和歌集』では、次の詞書のある一首である。

    頭中将に侍りける時、五節所の童女にもの申し
    初めて後、尋ねて遣はしける
恋しさに今日ぞ尋ぬる奧山のひかげの露に袖は濡れつつ(源正清朝臣「新古今」1154)
(恋しさで今日という日に尋ねることです。奧山の日陰に生えるひかげのかずらの露に袖は濡れながら。)

 「頭中将」とは、「蔵人所(殿上の諸事を切り回す役所)の頭(長官)」で、「中将」(四等官制の次官)を兼ねていること。「五節」は、「嘗祭(だいじょうさい)・新嘗祭( にいなめさい)に行われた五節の舞を中心とする宮中行事」のことで、「五節の舞姫」(五節の舞をまう舞姫)の、その「童」(舞姫の付き添いの幼い女性)ということになる。
 この作者の「源正清」は、『新古今和歌集』の入集数は、この一句だけで特に名の知れた歌人ということでもない。そして、前の歌の作者・式子内親王が、後白河天皇に連なる皇族とすると、この源正清は、醍醐天皇に連なる皇族の一人で(追記メモ一)、年代的にも、式子内親王の大先達で、この『新古今和歌集』 の「式子内親王→源正清朝臣→西行」という流れは、その作者名の流れからすると、「式子内親王(皇族)→源正清朝臣(皇族から臣籍の源の姓)→西行(北面の武士から出家僧)」という流れなのかも知れない。
 しかし、この「式子内親王→源正清朝臣」の流れは、その「作者間」の事情を配慮したというものではなく、次のとおり、「前歌(前の歌)と後歌(後の歌)」との、その両歌の「外(表面的な歌形など)と内(内面的な歌心など)」とに着目してのように思われる。

前歌(前の歌)
逢ふことを今日松が枝の手向草幾よしをるる袖とかは知る(式子内親王「新古今」1153)

後歌(後の歌)
恋しさに今日ぞ尋ぬる奧山のひかげの露に袖は濡れつつ(源正清朝臣「新古今」1154)

 この両歌で、「今日松が枝の」(前歌)と「今日ぞ尋ぬる」(後歌)、そして、「袖とかは知る」(前歌)と「袖は濡れつつ」(後歌)などの、この両歌の、同種の詞(文言)による「連歌(連ね歌)」、そして、それは「連歌・連句」の「付合(付け合い)」)の基礎に通ずる要領で為されているように解せられる。

【 後鳥羽院建保の比(ころ)より、白黒又色々の賦物(ふしもの)の獨(ひとり)連歌を定家・家隆卿などに召され侍りしより、百韻なども侍るにや。又、様々の懸物(かけもの)など出(い)だされて、おびたヾしき御会ども侍りき。よき連歌をば柿本の衆となづけられ、わろきをば栗本の衆とて、別座に着きてぞし侍りし。 有心(うしん)無心(むしん)にて、うるはしき連歌と狂句とを、まぜまぜにせられし事も常に侍り。 】(『筑波問答(二条良基著)』)

 この『筑波問答』の著者、二条良基(元応二年(一三二〇)~嘉慶二年(一三八八))は、南北朝時代、北朝方として関白、太政大臣、摂政を歴任した大政治家で、『菟玖波集』(連歌作品集)、『連理秘抄』・『筑波問答』(連歌論集)、『応安新式(連歌新式)』(連歌式目集)などを著し、連歌中興の祖として仰がれている。
 その『筑波問答』の中の上記の記述の、「後鳥羽院建保の比(ころ)より、白黒又色々の賦物(ふしもの)の獨(ひとり)連歌を定家・家隆卿などに召され侍りしより、百韻なども侍るにや。」というのは、後鳥羽院は、単に、歌人であるだけでなく、連歌人でもあり、藤原定家や藤原家隆等々と、「おびたヾしき御会(連歌会)」を催し、「白黒(「白と黒を詠み込む)・賦物(賦していた物を詠み込む)の獨連歌(独吟の連歌)」で、その「百韻」(百句続ける連歌)などに興じているということである。

  後鳥羽院御時白黒賦物の連歌召されけるに
  乙女子がかつらぎ山を春かけて
11 かすめどいまだ峯の白雪           従二位家隆(『菟玖波集』)

 この「連歌(「前句=長句=五七五句」に対する「付句=短句=七七句)」」の作者は、従二位の藤原家隆の作である。家隆が、従二位になったのは、亡くなる二年前の嘉禎元年(一二三五)で、この時には、承久の乱に敗れた後鳥羽院は隠岐にあって、二度と帰京することは叶わないということを悟っていた、亡くなる四年前の最晩年の官職名である。
 そして、この「後鳥羽院御時白黒賦物の連歌召されけるに」には、承久の乱以前の、後鳥羽院の院政時代の頃で、その「白黒賦物の連歌」というのは、連歌の各句(長句と短句)に「賦物の『黒と白』とを詠み込む連歌」ということを意味する。

 乙女子がかつらぎ山を春かけて(前句=長句=五七五句)

 この句の「かつらぎ山」は、「葛城山」と「かつら(仮髪=黒髪)山」とを掛けている。

 かすめどいまだ峯の白雪(付句=短句=七七句)

 この句の「峯の白雪」の「白」が、前句の「黒」に和しての「白」ということになる。

 しかし、こういう「賦し物連歌」の「賦し物」というのは、『古今和歌集』の「巻十 物名(ぶつめい・もののな)」、そして「連歌」は、『金葉集』の「巻十 雑下 連歌」で、その萌芽が収載されており、後鳥羽院の、この種の「賦し物連歌」というのは、それらを一段と発展させたものと言えよう。
 しかし、後鳥羽院が、『金葉集』時代の連歌の「一句づつ言ひ捨てるばかり」のものではなく、「百韻なども侍るにや」と、五十韻(五十句続ける連歌)・百韻(百句続ける)の連句形式を作り上げていった、その筆頭人物ということになろう。
 さらに、後鳥羽院は、それらの連歌会で、「よき連歌をば柿本の衆となづけられ、わろきをば栗本の衆」と名づけ、「有心(うしん)無心(むしん)にて、うるはしき連歌と狂句とを、まぜまぜにせられし事も常に侍り」と、その後の「連歌=よき(優美な)連歌=柿本衆=有心連歌」と「俳諧(連句)=わろき(滑稽)連歌=栗本衆=無心連歌」との峻別を示唆した筆頭人物であるのかも知れない。
 そして、これらの背景として、「わろき(滑稽)歌」というのは、『古今和歌集』の「巻十九 雑躰・誹諧歌」と連なっており、後鳥羽院は、それまでの勅撰集(『古今和歌集』から『千載和歌集』)を総決算して『新古今和歌集』を編纂し、さらに、それらの編纂作業を基礎として、それ以降の「和歌・連歌・俳諧(連句)・短歌・狂歌・俳句・川柳(狂句)」の世界の礎を偶発的に試行していたということも意味するのかも知れない。

後鳥羽院御時、三字中略、四字上下略の連歌に
   むすぶ契のさきの世のふし
268 夕顔の花なき宿の露のまに         前中納言定家(『菟玖波集』)

 この「連歌(「短句=七七句)に対する「長句=五七五句」」」の作者は、前中納言の藤原定家の作である。この「前中納言」の「中納言」は定家の罷官時の官職名で、罷官したのは寛喜四年(一二三二)であるが、この作は「後鳥羽院御時」の、承久の乱以前の後鳥羽院の院政時代の頃の作ということになる。
「三字中略、四字上下略の連歌」の「三字中略」というのは、上記の「短句」の「むすぶ契のさきの世のふし」の「契(ちぎり)」の「三字」の「中略」で「ちり(塵)」が賦せられている。同様に、長句の「夕顔の花なき宿の露のまに」の「夕顔(ゆふかを)」の「四字」の「上下略」の「ふか(鱶=フカ)が賦せられている。
 しかし、これは『古今和歌集』の「物名」(和歌の詠法の一種)の一種で、相互に「歌の意味内容とは関わりなく事物名を詠みこむ、遊戯性の高い知的技巧を利かせた、二重の意味は利かしていない、単なる言葉の形のみを借りている」の「連歌」(「長句」と「短句」の二句)ということになる。

後鳥羽院の御時百韻連歌に召されけるに
  御祓川ふち瀬に秋や立ちぬらん
271 風も流るる麻のゆふしで          従二位家隆(『菟玖波集』)

 この「連歌(「長句=五七五句)に対する「短句=七七句」」」の作者は、従二位の藤原家隆の作である。この「後鳥羽院の御時百韻連歌に召されけるに」の「後鳥羽院の御時」で、後鳥羽院の院政時代に、そして、「百韻連歌」(百句続きの連歌)を実施されたときの作ということになる。それが、特殊且つ技巧を凝らした「『三字中略・四字上下略の連歌』や『白黒賦物の連歌』」ではなく、通常の「百韻」(百句続ける形式)の、その「長句と短句」と解したい。
 この長句の「御祓(みそぎ)」は、六月晦日に行う朝廷行事で白木綿や藁の形代の人形を流す儀式、そして、その「御祓川」は、その儀式を行う「賀茂川」や洛西の「紙屋川」を指している。
ここで、この「連歌(長句の作者=?、短句の作者=家隆)」に接すると、次の藤原家隆の「百人一首」を想起することであろう。

98 風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける(『百人一首 98』『新勅撰集・夏・192』)

 この一首は第九勅撰集『新勅撰集』に、「寛喜元年(一二二九)女御(藤原道家の娘・藤原竴子)入内(中宮=皇后に入内)屏風(その嫁入り家具の一つ)に」との詞書が付してある。
 この寛喜元年(一二二九)には、後鳥羽院は隠岐に配流されている。そして『新勅撰集』の成立は嘉禎元年(一二三五)で、その二年後に家隆が没し、家隆没後の二年後に後鳥羽院が亡くなる。定家が没するのは仁治二年(一二四一)で、後鳥羽院が崩御した二年後のことである。
 この家隆の歌と先の家隆の連歌との関係を見て行くと、連歌の方は後鳥羽院の院政時代の承久の乱(承久三年=一二二一)以前の作で、この家隆の連歌を基礎にして、家隆は『新勅撰集』『百人一首』の入集歌を作歌したと解して差し支えなかろう。
 そして、この家隆の連歌の作と『新勅撰集』『百人一首』の一首とを同時に鑑賞して行くと様々なことが明瞭になって来る。

   御祓川ふち瀬に秋や立ちぬらん
271 風も流るる麻のゆふしで  (『菟玖波集・夏』)

98 風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける(『百人一首・98』『新勅撰集・夏』)

まず、連歌の長句の「御祓川ふち瀬に秋や立ちぬらん」は、「秋立つ・立秋」で、秋(旧暦=七・八・九月、新暦=八・九・十月)の、旧暦では七月一日、新暦では八月七日の頃の句ということになる。そして、この「御祓川」は季語ではないけれども、六月三十日の「六月祓(みなづきばらえ)」の行事を行う川(賀茂川など)で、その「六月祓」は夏の季語なのである。すなわち、「連歌・俳諧」の式目(ルール)からする「秋立つ」の初秋の句のような雰囲気なのであるが、「秋になったのであろうか、いや、秋にはなっていない」という句の、「六月祓(みなづきばらえ)」の夏の句のようである。
同様に、この短句の「風も流るる麻のゆふしで(白木綿の幣)」は、明瞭な季語はないけれども、この「風」は前句の「秋立つ」を受けて「秋風」(三秋)の「立秋のころ吹く初秋の秋の訪れを知らせる風」の風情であるが、前句が「六月祓」の夏の句とすると、同季の晩夏の句として鑑賞することになろう。
 そして、家隆の代表歌の一つとされている「風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける」の一首は、「夏のしるしなりける」で、夏の歌であることを明瞭にし、そのことを受けて、当然のように『新勅撰集・夏』の部に収載されている。この歌の鑑賞も、「風そよぐならの小川の夕暮れは」の秋の夕暮れの御祓川というよりも、「みそぎぞ夏のしるしなりける」の「六月祓」の儀式にウエートを置いて鑑賞することになろう。
 これらの種明かしは、実は、これらの歌は、『古今和歌集・夏・168』の凡河内躬恒の、次の歌の「本歌取り」の一首なのである。これらを制作順に並列して列記すると次のとおりとなる。

    みな月のつごもりの日よめる
  夏と秋と行きかふ空のかよひぢはかたへすずしき風やふくらむ
                  (凡河内躬恒『古今・夏・168)』)

御祓川ふち瀬に秋や立ちぬらん
風も流るる麻のゆふしで   (藤原家隆『菟玖波集・夏・271』)

  風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける
           (藤原家隆『百人一首・98』『新勅撰集・夏・192』)

 これらの歌は並列して、一番のポイントは、凡河内躬恒の歌の詞書(「みな月のつごもりの日」=「六月祓(みなづきばらえ)」)の「六月晦日と七月立秋」の「夏と秋と行きかふ空(夏から秋への時の流れ・その接点)」ということになる。

 ここで、改めて、二条良基が編んだ『菟玖波集』の部立を見ると、「春(巻一・二)、夏(巻三)、秋(巻四・五)、冬(巻六)、神祇(巻七)、釈教(巻八)、恋(巻九・十)」の「十巻・七部立」で、これは、後鳥羽院が中心になって編んだ『新古今和歌集』のそれの「春(巻一・二)、夏(巻三)、秋(巻四・五)、冬(巻六)、神祇(巻十九)、釈教(巻二十)、恋(巻十一・十二・十三・十四・十五)」と「賀(巻七)、哀傷(巻八)、離別(巻九)、羇旅(巻十)、雑(巻十六・十七・十八)」との「二十巻・十二部立」などの簡素化されたものと解することが出来よう。
 そして、『新古今和歌集』(「和歌集」)から『菟玖波集』(「連歌集」)への変遷の流れは、
勅撰和歌集の『古今和歌集』から『新続古今和歌集』の、いわゆる「二十一代集」の変遷
の流れと軌を一にするものであって、それらは、全く、別の世界のものではなく、例えば、「百首歌」(和歌を「百首」まとめて詠むこと)から、「百韻」(和歌を「長句=五七五句」と短句(七七句)と分けて、それら「百句」続けて詠むこと)との、内容によるものではなく、単なる形式上に大きく起因しているように思われる。


(追記メモ一)(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

源正清(みなもとのまさきよ) 承平元年(931年) - 没年不詳

 平安時代中期の貴族。醍醐天皇の孫で、大宰帥・有明親王の次男。官位は正四位下・摂津守。円融朝の天禄4年(973年)左近衛中将に任ぜられる。天延2年(974年)円融天皇の中宮・藤原媓子の中宮権亮を兼ねると、貞元2年(977年)には蔵人頭に任ぜられるが、永観2年(984年)円融天皇の譲位に伴って蔵人頭を辞任する。寛和2年(986年)一条天皇の即位に伴って、居貞親王(のち三条天皇)が春宮に立てられると春宮亮を兼ねる。永祚2年(990年)17年に亘って務めた左近衛中将を解かれ、摂津守に転じた。

(追記二)『菟玖波集. 上』(二条良基, 救済 撰[他])( 国立国会図書館デジタルコレクション)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/977295/52

(追記三)「鎌倉初期の連歌」(木藤才三稿)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/haibun1951/1957/14/1957_14_1/_pdf

(追記四)有心衆・無心衆について(岩下紀之稿)

https://aska-r.repo.nii.ac.jp/?action=repository_oaipmh&...

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