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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その五)「藤原定家」(「戸奈瀬」周辺)

住吉の名月.jpg

『住吉の名月』(月岡芳年『月百姿』)住吉明神の神託を受ける藤原定家(「ウィキペディア」)

となせ河玉ちる瀬々の月をみて心ぞ秋にうつりはてぬる(藤原定家「続千載集」)
鵜飼舟下す戸無瀬の水馴棹さしも程なく明るよは哉(藤原良経「秋篠月清集」)
あらし山花よりおくに月は入りて戸無瀬の水に春のみのこれり(橘千蔭「)
築山の戸奈瀬にをつる柳哉 (抱一「屠龍之技・第一こがねのこま」)
 戸奈瀬の雪を
山の名はあらしに六の花見哉(抱一「屠龍之技・第四椎の木かげ」)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-10-18

夕顔に扇図.jpg

酒井抱一挿絵『俳諧拾二歌僊行』所収「夕顔に扇図」 → A図

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 この抱一の挿絵(「夕顔に扇図」)は、『酒井抱一---俳諧と絵画の織りなす抒情(井田太郎著・岩波新書一七九八)』(以下、『井田・岩波新書』)所収「酒井抱一略年譜」で、抱一が亡くなる「文政十一年(一八二八)六十八歳」に「三月、『俳諧拾二歌僊行』に挿絵提供(抱一)、十一月、抱一没、築地本願寺に葬られる(等覚院文詮)」に出てくる、抱一の「最後の作品」(「第四章太平の『もののあわれ』「絶筆四句」)で紹介されているものである。
 この挿絵が収載されている『俳諧拾二歌僊行(はいかいじゅうにかせんこう)』については、上記のアドレスで、その全容を閲覧することが出来る。これは、大名茶人として名高い出雲国松江藩第七代藩主松平不昧(ふまい)の世嗣(第八代藩主)松平斉恒(なりつね・俳号=月潭)の七回忌追善の俳書である。
 大名俳人月潭(げったん)が亡くなったのは、文政五年(一八二二)、三十二歳の若さであった。この年、抱一、六十二歳で、抱一と月潭との年齢の開きは、三十歳も抱一が年長なのである。
 抱一の兄・忠以(ただざね、茶号=宗雅、俳号=銀鵞)は、抱一(忠因=ただなお)より六歳年長で、この忠以(宗雅)が、四歳年長の月潭の父・治郷(はるさと、茶号=不昧)と昵懇の間柄で、宗雅の茶道の師に当たり、この「不昧・宗雅」が、当時の代表的な茶人大名ということになる。
 この不昧の弟・桁親(のぶちか、俳号=雪川)は、宗雅より一歳年長だが、抱一は、この雪川と昵懇の間柄で、雪川と杜陵(抱一)は、米翁(べいおう、大和郡山藩隠居、柳沢信鴻=のぶとき)の俳諧ネットワークの有力メンバーなのである。
 さらに、抱一の兄・忠以(宗雅)亡き後を継いだ忠道(ただひろ・播磨姫路藩第三代藩主)の息女が、月潭(出雲国松江藩第八代藩主)の継室となっており、酒井家(宗雅・抱一・忠道)と松平家(不昧・雪川・月潭)とは二重にも三重にも深い関係にある間柄である。
 そして、実に、その月潭が亡くなった文政五年(一八二二)は、抱一の兄・忠以(宗雅)の、三十三回忌に当たるのである。さらに、この月潭の七回忌の追善俳書(上記の『俳諧拾二歌僊行』)に、抱一が、上記の「夕顔と扇面図」の挿絵を載せた(三月)、その文政十一年(一八二八)の十一月に、抱一は、その六十八年の生涯を閉じるのである(『井田・岩波新書』)所収「酒井抱一略年譜」)。
 その意味でも、上記の「夕顔と扇面図」(『俳諧拾二歌僊行』の抱一挿絵)は、「画・俳二道を究めた『酒井抱一』の生涯」の、その最期を燈明する極めて貴重なキィーポイントともいえるものであろう。
 さらに、ここに付記して置きたいことは、「画(絵画)と俳(俳諧)」の両道の世界だけではなく、それを「不昧・宗雅」の「茶道」の世界まで視点を広げると、「利休(侘び茶)→織部(武家茶)→遠州(「綺麗さび茶」)」に連なる「酒井家(宗雅・抱一・忠道・忠実)・松平家(不昧・雪川・月潭)・柳澤家(米翁・保光)の、その徳川譜代大名家の、それぞれの「徳川の平和(パクス・トクガワーナ)=平和=太平」の一端を形成している、その「綺麗さび」の世界の一端が垣間見えてくる。
 それは、戦乱もなく一見すると「太平」の世であるが、その太平下にあって、それぞれの格式に応じ「家」を安穏を守旧するための壮絶なドラマが展開されており、その陰に陽にの人間模様の「もののあはれ」(『石上私淑言(本居宣長)』の、「見る物聞く事なすわざにふれて情(ココロ)の深く感ずる事」)こそ、抱一の「綺麗さび」の世界の究極に在るもののように思われる。
 抱一の若き日の、太平の世の一つの象徴的な江戸の遊郭街・吉原で「粋人・道楽子弟の三公子」として名を馳せていた頃のことなどについては、下記のアドレスで紹介している。 

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-25

  御供してあらぶる神も御国入(いり)  抱一(『句藻』「春鶯囀」)

 この句には、「九月三日、雲州候月潭君へまかり、「翌(あす)は国に帰(かへる)首途(かどで)なり」として、そぞめきあへりける時」との前書きがある(『井田・岩波新書』「第四章太平の『もののあはれ』」)。
 この句が収載されているのは、文化十四年(一八一七)、抱一、五十七歳の時で、この年は、抱一にとって大きな節目の年であった。その年の二月、『鶯邨画譜』を刊行、五月、巣兆の『曽波可理』に「序」を寄せ、その六月に鈴木蠣潭が亡くなる(二十六歳の夭逝である)。その鈴木家を、其一が継ぎ、また、小鶯女史が剃髪し、妙華尼を称したのも、この頃である。
 そして、その十月に「雨華庵」の額(第四姫路酒井家藩主)を掲げ、これより、抱一の「雨華庵」時代がスタートする。掲出の句は、その一カ月前の作ということになる。
 句意は、「出雲では陰暦十月を神無月(かんなづき)と呼ばず、八百万(やおよろず)の神が蝟集することから神有月(かみありづき)と唱える。神有月近いころ、『あらぶる神』が出雲の藩主月潭の国入りの『御供』をするという一句である」(『井田・岩波新書』「第四章太平の『もののあはれ』」)。
 この年、出雲の藩主月潭は、二十七歳の颯爽としたる姿であったことであろう。そして、それから十一年後の、冒頭の抱一の「夕顔に扇面図」の挿絵が掲載された『俳諧拾二歌僊行』は、その月潭の七回忌の追善俳書の中に於いてなのである。
 とすれば、抱一の、この「夕顔に扇面図」の、この「夕顔」は、『源氏物語』第四条の佳人薄命の代名詞にもなっている「夕顔」に由来し、そこに三十ニ歳の若さで夭逝した出雲の藩主月潭を重ね合わせ、その「太平の『もののあはれ』」の、 そのファクターの一つの「はかなさ」を背景に託したものと解すべきなのであろう。

  見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮  藤原定家 

  I looked beyond; / Fiowers are not, / Nor tinted leaves./
On the sea beach / A solitary cottage stands /
In the waving light / Of an autumn eve. (岡倉天心・英訳)

 見渡したが / 花はない、/ 紅葉もない。/
   渚には / 淋しい小舎が一つ立っている、/ 
 秋の夕べの / あせゆく光の中に。        (浅野晃・和訳)

 『茶の本 Ter Book of Tea (岡倉天心著 浅野晃訳 千宗室<序と跋>)』 で紹介されている藤原定家の一首(『新古今』)で、千利休の「侘び茶」の基本的な精神(和敬静寂)が込められているとされている。
 それに続いて、小堀遠州の「綺麗さび」の茶の精神を伝えているものとされている、次の一句が紹介されている。

   夕月夜海すこしある木の間かな (宗長作とも宗碩作とも伝えられている)

A cluster of summer trees,/
A bit of the sea,/
A pale evening moon. (岡倉天心・英訳)

  ひとむらの夏木立、
  いささかの海、
  蒼い夕月。 (浅野晃・和訳)

 抱一にも、次の一句がある。

 としせわし鶯動く木の間かな   抱一(『句藻』「春鶯囀」)


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-09

(再掲)

定家.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十・前中納言定家」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009403

左方十・前中納言定家
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010694000.html

 しら玉の緒絶のはしの名もつらし/くだけておつる袖のなみだぞ

右方十・従二位家隆
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010695000.html

 かぎりあれば明なむとするかねの音に/猶ながき夜の月ぞのこれる

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-31

(再掲)

藤原定家.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(前中納言定家)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056409

周辺メモ)

 『小説 後鳥羽院―― 新島守よ、隠岐の海の(綱田紀美子著)』の中での、「定家家隆両卿歌合」(定家・家隆詠、後鳥羽院撰)などに関する叙述は、次のようなものである。

(第五 「無始の悪行のぞきがたく候」)

 家隆と定家はほぼ同じ年齢で、ともに俊成(定家の父)にそだてられた歌人であり、また、ともに後鳥羽の寵を得て新古今集の撰にあたった者である。家隆は、後鳥羽が隠岐に流されてからもずっと、この二十二歳年下のもと帝王を忘れることができなかった。そうすることが自分の身にとってひどく不利になるということをいささかもかえりみず、後鳥羽との手紙のやりとりを欠かさなかった。歌を通じて、いちずに後鳥羽をささえたのが家隆である。
  (中略)
 定家は後鳥羽より十八歳年長であった。ともに俊成に学んだのであるから、相弟子または兄弟子であり、かつ主君と臣下という複雑な間がらだった。
  
(第六 来ぬ人を待つほの浦の)

寛喜三年(一二三一)土佐から阿波に遷っていた第一皇子土御門院は、病いが重くなり十月六日に出家、同十二日に没した。三十七歳であった。(中略)
貞永一年(一二三二)藤原定家は七十一歳で権中納言にすすみ、また新勅撰集撰進の命を受けた。
文歴一年(一二三四)順徳院の皇子懐成親王は十七歳で亡くなった。承久三年四月から七十日間だけの皇位であり、乱の終わりとともに廃帝にされていたのである。
  (中略)
(「定家家隆両卿歌合」一番)
左 里のあまの汐焼き衣たち別れ なれしも知らぬ春の雁がね(定家)
(里の海人の塩焼きが衣になじむように馴れ親しんだのも知らずに、立ち別れていく春の帰る雁よ)
右 春もいまだ色にはいでず武蔵野や若紫の雪の下草(家隆)
(春とはいえまだそれらしき様子があらわれていない武蔵野では雪の下で紫草の芽が眠っている)
(「同」十五番)
左 ながめつつ思いし事のかずかずは空しきそらの秋の夜の月(定家)
(月をながめながら思った多くのことが、一つ一つみなむだなこととなった。空にはむなしく秋の夜の月が照らしている)
右 暮れぬまに山のは遠くなりにけり 空より出づる秋の夜の月(家隆)
(まだ日の暮れないうちに山の端が遠くなってしまったよ。空には秋の夜を遠くまで照らす月が出たので)
(「同」四十番)
左 心をばつらきものとて別れにし世々のおもかげなに慕ふらむ(定家)
(心とは無情なものだと言って別れたのであったが、幾年経ても消えることのないおもかげを、私の心はなぜ慕うのだろう)
右 せめて思ふ いまひとたびの逢ふことは渡らん川や契りなるべき(家隆)
(せめてもう一度逢う瀬を切に思うのは、三途の川の渡しを渡ることが二人の深い定めだからなのでしょうか)
(「同」四十八番)
左 明くる夜のゆふつけ鳥に立ち別れ浦波遠く出づる舟人(定家)
(夜明けを告げる鶏の声にたち別れて、岸辺の波を遠くはなれはるか沖へと出て行く舟人よ) 
右 沖つ波よする磯辺のうき枕 遠ざかるなり潮や満つらん(家隆)
(沖の波が寄せてくる磯辺に停泊していた旅の舟が遠ざかっていくようだ。潮が満ちてきたのだろう)

「定家家隆両卿歌合」については、下記のアドレスなど。

https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko30/bunko30_d0089/index.html


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-05-06

(再掲)

鹿下絵和歌巻・藤原定家.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(藤原定家)」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦(個人蔵)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-13



(追記)「光悦書宗達下絵和歌巻」周辺(「メモ」その五)(再掲)

(「藤原定家」周辺メモ)

   西行法師すすめて、百首歌よませ侍りけるに
2 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮(新古363)
(釈文)西行法師須々めて百首哥よま世侍介る尓
見王多世盤華も紅葉もな可利け里浦濃とまや乃阿支乃遊ふ久連

【通釈】あたりを見渡してみると、花も紅葉もないのだった。海辺の苫屋があるばかりの秋の夕暮よ。
【語釈】◇花も紅葉も 美しい色彩の代表として列挙する。◇苫屋(とまや) 菅や萱などの草で編んだ薦で葺いた小屋。ここは漁師小屋。
【補記】文治二年(1186)、西行勧進の「二見浦百首」。今ここには現前しないもの(花と紅葉)を言うことで、今ここにあるもの(浦の苫屋の秋の夕暮)の趣意を深めるといった作歌法はしばしば定家の試みたところで、同じ頃の作では「み吉野も花見し春のけしきかは時雨るる秋の夕暮の空」(閑居百首)などがある。新古今集秋に「秋の夕暮」の結句が共通する寂蓮の「さびしさはその色としも…」、西行の「心なき身にもあはれは…」と並べられ、合せて「三夕の歌」と称する。

(「鹿下絵新古今集和歌巻」周辺メモ )

【「闇を暗示する銀泥」 「鶴下絵和歌巻」において雲や霞はもっぱら金泥で表されていたが、この和歌巻では銀泥が主要な役割を果たすようになっている。これは夕闇を暗示するものなるべく、中間の明るく金泥のみの部分を月光と解えるならば、夕暮から夜の景と見なすとも充分可能であろう。なぜなら、有名な崗本天皇の一首「夕されば小倉の山に鳴く鹿は今宵は鳴かずいねにけらしも」(『万葉集』巻八)に象徴されるように、鹿は夕暮から夜に妻を求めて鳴くものとされていたからである。朝から夕暮までの一日の情景とみることも可能だが、私は鹿の伝統的なシンボリズムを尊重したいのだ。 】(『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭著)』)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/jomei.html

   崗本天皇の御製歌一首
夕されば小倉の山に鳴く鹿はこよひは鳴かず寝(い)ねにけらしも(万8-1511)

【通釈】夕方になると、いつも小倉山で鳴く鹿が、今夜は鳴かないぞ。もう寝てしまったらしいなあ。
【語釈】◇小倉の山 不詳。奈良県桜井市あたりの山かと言う。平安期以後の歌枕小倉山(京都市右京区)とは別。雄略御製とする巻九巻頭歌では原文「小椋山」。◇寝(い)ねにけらしも 原文は「寐宿家良思母」。「寐(い)」は睡眠を意味する名詞。これに下二段動詞「寝」をつけたのが「いね」である。
【補記】「崗本天皇」は飛鳥の崗本宮に即位した天皇を意味し、舒明天皇(高市崗本天皇)・斉明天皇(後崗本天皇)いずれかを指す。万葉集巻九に小異歌が載り、題詞は「泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇御製歌一首」すなわち雄略天皇の作とし、第三句「臥鹿之(ふすしかは)」とある。
【他出】古今和歌六帖、五代集歌枕、古来風躰抄、雲葉集、続古今集、夫木和歌抄
【参考歌】雄略天皇「万葉集」巻九
夕されば小椋の山に臥す鹿は今夜は鳴かず寝ねにけらしも
【主な派生歌】
夕づく夜をぐらの山に鳴く鹿のこゑの内にや秋は暮るらむ(*紀貫之[古今])
鹿のねは近くすれども山田守おどろかさぬはいねにけらしも(藤原行家)

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥メモ(その二)

https://japanese.hix05.com/Saigyo/saigyo3/saigyo306.miyakawa.html

「宮河歌合」(九番)

左:勝(玉津嶋海人)
 世中を思へばなべて散る花の我身をさてもいづちかもせん
右:(三輪山老翁)
 花さへに世をうき草に成りにけり散るを惜しめばさそふ山水
判詞(定家)
 右歌、心詞にあらはれて、姿もをかしう見え侍れば、山水の花の色、心もさそはれ侍れど、左歌、世中を思へばなべてといへるより終りの区の末まで、句ごとに思ひ入て、作者の心深く悩ませる所侍れば、いかにも勝侍らん。
参考:「この御判の中にとりて、九番の左の、わが身をさてもといふ歌の判の御詞に、作者の心深くなやませる所侍ればと書かれ候。かへすがへすもおもしろく候かな。なやませるといふ御詞に、よろづ皆こもりめでたく覚え候。これ新しく出でき候ぬる判の御詞にてこそ候らめ。古はいと覚え候はねば、歌の姿に似て云ひくだされたるやうに覚え候。一々に申しあげて見参に承らまほしく候ものかな」。こう書いた上で西行は、「若し命生きて候はば、必ずわざと急ぎ参り候べし」と付け加えている。西行の感激がいかに大きかったか、よく伺われるところである。


「定家の歌一首 ―「踏迷ふ山なしの花」の歌の解釈をめぐって(赤羽淑「清心語文」)」
周辺

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/utaawase/minase15_7.html

水無瀬恋十五首歌合 ―羇中の恋―

踏迷ふ山なしの花道たえて行さきふかきやへのしら雲 藤原定家『定家卿百番自歌合』
あしびきの山なしの花ちりしきて身をかくすべき道やたえぬる 藤原定家(拾遺愚草員外・一句百首・春三十首・一二七)
よの中をうしといひてもいづくにかみをばかくさむ山なしの花 (近江御息所歌合・一五、古今和歌六帖・山なし・四二六八)

うつのやまうつつかなしきみちたえてゆめにみやこの人はわすれず 九条良経『秋篠月集・一四一一』『水無瀬殿恋十五首歌合・轟中恋・四八七』

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