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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その十) [三十六歌仙]

(その十)前中納言定家(藤原定家)と従二位家隆(藤原家隆)

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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十・前中納言定家」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009403

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(左方十・前中納言定家)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019792

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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十・従二位家隆)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009421

家隆二.jpg

(右方十・従二位家隆)=右・和歌:左・肖像
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019787


(バーチャル歌合)

左方十・前中納言定家
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010694000.html

 しら玉の緒絶のはしの名もつらし/くだけておつる袖のなみだぞ

右方十・従二位家隆
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010695000.html

 かぎりあれば明なむとするかねの音に/猶ながき夜の月ぞのこれる

(判詞=宗偽)

 『新古今和歌集』は後鳥羽院の命によって編纂された勅撰和歌集である。その撰者は「源通具・六条有家・藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経・寂蓮」の六人(寂連は撰集作業中に没しており、実質的には五人)である。この撰者のうち中心になったのが、藤原定家と藤原家隆の二人であろう。
 ここで、「新三十六人歌合」(「新三十六歌仙」とも)の撰者は「後鳥羽院(撰)」と伝えられているが(『歌仙絵(東京国立博物館)』所収「作品解説(土屋貴裕)」)、実際に撰集作業に携わったのは、後鳥羽院との関係からすると、承久三年(一二二一)の承久の変後も後鳥羽院との間で音信を絶やさず、嘉禄二年(一二二六)に、「家隆後鳥羽院撰歌合」の判者を務めている「藤原家隆」その人のように思われる。
 そして、この「新三十六人歌合」での「藤原定家と藤原家隆」との組み合わせは、これはやはり「後鳥羽院」その人という思いがどうしても捨て難い。そして、この二人の歌合の歌が、『新古今集』などの勅撰和歌集ではなく、定家の歌は私家集『拾遺愚草』所収のもので、家隆の歌は、どういう時に詠作されたのか不明なのである(藤原基家が編纂した『壬二(みに)集』、別名『玉吟集』などに収録されているのかも知れない)。
 さて、ここで、この二人の歌を並列してみたい。そして、その表記は、「和泉市久保惣記念美術館蔵」のもので、上の句(短歌の前半の五・七・五の三句)と下の句(短歌の後半の七・七の二句)の二行の表記に因っている。この二行の表記は、「連歌・連句」の「長句」(五・七・五の句)と「短句」(七・七句)に対応し、判詞の判定の分析作業などに便利という単純な理由に因る。

   左
 しら玉の緒絶のはしの名もつらし/くだけておつる袖のなみだぞ(定家)
   右
 かぎりあれば明なむとするかねの音に/猶ながき夜の月ぞのこれる(家隆)

 定家の歌の「緒絶のはし(橋)」は、下記の「歌枕:緒絶橋」(参考)のとおり、『万葉集』にも出て来る「歌枕」で、芭蕉の『おくの細道』にも「松島から平泉」へ向かう途中で「道を誤って辿り着けなかったこと」が記されている。そして、その「緒絶橋」は、「嵯峨天皇の皇子が東征のために陸奥国へ赴いた折り、その恋人であった白玉姫が命を絶った」という伝承に基づいており、「姫が命(玉の緒)を絶った川」の「橋」の由来で、「悲恋」や「叶わぬ恋」を暗示するものである。
 即ち、この定家の歌は「悲恋」の歌なのである。それにしては、この歌の下の句の「くだけておつる袖のなみだぞ」は、どうにも大げさな感じで無くもない。芭蕉が其角を評して、「しかり。かれ(其角)は定家の卿也。さしてもなき事を(蚤の喰ひつきたる事を)、ことごとしくいひつらね侍る」(『去来抄』)の評と同じく何とも空々しい感じを受けるのである。
 それに比して、家隆の「かぎりあれば明なむとするかねの音に」の「かぎりあれば」(命の限りがあれば)も「かねの音(夜明けを告げる時の鐘)」にも、後鳥羽院が言う「たけもあり(格調があり)、心もめづらしく見ゆ(新鮮な何とも言えない余情がある)」(下記の『後鳥羽院』余話)の感じが大である。さらに、家隆の「猶ながき夜の月ぞのこれる」の「ながき夜」の「後朝の別れ」の暗示と、「月ぞのこれる」の、この「余韻・余情」は見事の一言に尽きる。
 それに付加して、『後鳥羽院御口伝』の、赤裸々な後鳥羽院の「定家評」を目の当たりにすると(下記の『後鳥羽院』余話)、この二首は、右(家隆)の「勝」とせざるを得ない。

(追記)

 とした上で、もう一度、スタートの時点に戻って、この二首をじっくりと反芻しているうちに、この家隆の「かぎりあれば明なむとするかねの音に/猶ながき夜の月ぞのこれる」は、定家の「しら玉の緒絶のはしの名もつらし/くだけておつる袖のなみだぞ」に接して、それに誘発されて、丁度、その定家の歌に「唱和」(他の歌に和して生まれる歌)して生まれた一首のような印象を深くしたのである。
 それは、定家の一首が、大げさな「伊達(派手)・晴(ハレ)」風の「もみもみ(技巧を凝らした)」風の歌とするならば、家隆の一首は、抑えに抑えた「渋味(澁み)・褻(ケ)」風の「西行がふり(無技巧の技巧)」風の一首なのではないかという思いである。
 とすると、この二首は、それぞれの歌が、それぞれの歌人の、それぞれの作風を強調するが故のものと解すると、これは、等しく「持」(引き分け)なる両首と解したい。

「歌枕:緒絶橋」(参考)

https://japanmystery.com/miyagi/odae.html

緒絶橋は『万葉集』にもその名が記されている、陸奥国の歌枕である。この大崎の地は古来よりたびたび川が氾濫し、そのたびに川の流れが大きく変わった。そのために以前の川筋が切れてしまい、あたかも流れを失った川のようになることがあった。このように川としての命脈が切れたものを“緒絶川(命の絶えた川)”と呼び、その川筋に架けられた橋ということで「緒絶橋」と名付けられたとされる。
しかしそれ以外にも“緒絶”の由来とされる伝承がある。嵯峨天皇の皇子が東征のために陸奥国へ赴いたが、その恋人であった白玉姫は余りの恋しさに皇子の後を追うように陸奥へ向かった。ところがこの地に辿り着いてみたが、皇子の行方は掴めない。意気消沈した姫はそのまま川に身投げをして亡くなってしまった。土地の者は、姫の悲恋を哀れんで“姫が命(玉の緒)を絶った川”という意味で緒絶川と呼ぶようになったという。
歌枕としての緒絶橋は、白玉姫の伝承をあやかって“悲恋”や“叶わぬ恋”を暗示するものとなっている。最も有名な歌は、藤原道雅の「みちのくの をだえの橋や 是ならん ふみみふまずみ こころまどはす」という悲恋の内容である。また松尾芭蕉がこの地を訪れようとしたが、姉歯の松同様、道を誤って辿り着けなかったことが『奥の細道』に記されている。

定家の「緒絶橋」の歌(参考)

※白玉の緒絶の橋の名もつらしくだけて落つる袖の涙に (拾遺愚草)
※しるべなき緒絶の橋にゆき迷ひまたいまさらのものや思はむ(拾遺愚草)
※人心緒絶の橋にたちかへり木の葉ふりしく秋の通ひ路(拾遺愚草)
※ことの音も歎くははる契とて緒絶の橋に中もたへにき(拾遺愚草)
※かくしらば緒絶の橋のふみまよひ渡らでただにあらましものほ(拾遺愚草)

『後鳥羽院御口伝』余話(宗偽)

「家隆卿は、若かりし折はきこえざりしが、建久のころほひより、殊に名誉もいできたりき。哥になりかへりたるさまに、かひがひしく、秀哥ども詠み集めたる多さ、誰にもすぐまさりたり。たけもあり、心もめづらしく見ゆ。」(『日本文学大系65』所収「後鳥羽院御口伝」)

「定家は、※①さうなき物なり。さしも殊勝なりし父の詠をだにもあさあさと思ひたりし上は、ましてや餘人の哥、沙汰にも及ばず。やさしくもみもみとあるやうに見ゆる姿、まことにありがたく見ゆ。道にも達したるさまなど、殊勝なりき。哥見知りたるけしき、ゆゝしげなりき。たゞし、※②引汲の心になりぬれば、鹿をもて馬とせしがごとし。傍若無人、理も過ぎたりき。他人の詞を聞くに及ばず。
惣じて※③彼の卿が哥存知の趣、いさゝかも事により折によるといふ事なし。ぬしにすきたるところなきによりて、我が哥なれども、自讃哥にあらざるをよしなどいへば、腹立の氣色あり。先年に、※④大内の花の盛り、昔の春の面影思ひいでられて、忍びてかの木の下にて男共の哥つかうまつりしに、定家左近中將にて詠じていはく、

としを經てみゆきになるゝ花のかげふりぬる身をもあはれとや思ふ

左近次將として廿年に及びき。述懷の心もやさしく見えし上、ことがらも希代の勝事にてありき。尤も自讃すべき哥と見えき。先達どもゝ、必ず哥の善惡にはよらず、事がらやさしく面白くもあるやうなる哥をば、必ず自讃哥とす。定家がこの哥詠みたりし日、大内より硯の箱の蓋に庭の花をとり入れて中御門攝政のもとへつかはしたりしに「誘はれぬ人のためとや殘りけむ」と返哥せられたりしは、あながち哥いみじきにてはなかりしかども、新古今に申し入れて、「このたびの撰集の我が歌にはこれ詮なり」とたびたび自讃し申されけると聞き侍りき。
昔よりかくこそ思ひならはしたれ。哥いかにいみじけれども、異樣の振舞して詠みたる戀の哥などをば、勅撰うけ給はりたる人のもとへは送る事なし。これらの故實知らぬ物やはある。されども、左近の櫻の詠うけられぬ由、たびたび哥の評定の座にても申しき。家隆等も聞きし事也。諸事これらにあらはなり。
※⑤四天王院の名所の障子の哥に生田の森の歌いらずとて、所々にしてあざけりそしる、あまつさへ種々の過言、かへりて己が放逸を知らず。まことに清濁をわきまへざるは遺恨なれども、代々勅撰うけ給はりたる輩、必ずしも萬人の心に叶ふ事はなけれども、傍輩猶誹謗する事やはある。
惣じて彼の卿が哥の姿、殊勝の物なれども、人のまねぶべきものにはあらず。心あるやうなるをば庶幾せず。たゝ、詞姿の艷にやさしきを本躰とする間、その骨すぐれざらん初心の者まねばゝ、正躰なき事になりぬべし。定家は生得の上手にてこそ、心何となけれども、うつくしくいひつゝけたれば、殊勝の物にてあれ。

秋とだに吹きあへぬ風に色變る生田の森の露の下草

まことに、「秋とだにと」うちはじめたるより、「吹きあへぬ風に色變る」といへる詞つゞき、「露の下草」と置ける下の句、上下相兼ねて、優なる哥の本躰と見ゆ。かの障子の「生田の森」の哥にはまことにまさりて見ゆらん。しかれども、かくのごとくの失錯、自他今も今もあるべき事也。さればとて、長き咎になるべからず。
此の哥もよくよく見るべし。詞やさしく艷なる他、心もおもかげも、いたくはなきなり。森の下に少し枯れたる草のある他は、氣色も理もなけれども、いひながしたる詞つゞきのいみじきにてこそあれ。案内も知らぬ物などは、かやうの哥をば何とも心得ぬ間、彼の卿が秀哥とて人の口にある哥多くもなし。をのづからあるも、心から不受也。
釋阿、西行などは、最上の秀哥は、詞も優にやさしき上、心が殊に深く、いはれもある故に、人の口にある哥、勝計すべからず。凡そ顯宗なりとも、よきはよく愚意にはおぼゆる間、一筋に彼の卿がわが心に叶はぬをもて、※①左右なく哥見知らずと定むる事も、偏執の義也。すべて心には叶はぬなり。哥見知らぬは、事缺けぬ事なり。
撰集にも入りて後代にとゞまる事は、哥にてこそあれば、たとひ見知らずとも、さまでの恨みにあらず。
  秘蔵々々、尤不可有披露云。 」(『日本文学大系65』所収「後鳥羽院御口伝」)

(余話)

①「定家は、※①さうなき物(者)なり」→ 定家は「双なき者」で「並人ではなく」、また「左右(さう)なき者」で「唯我独尊」の傾向がある。

①「一筋に彼の卿がわが心に叶はぬをもて、※①左右(そう)なく哥見知らずと定むる事も、偏執の義也」→ わき目もふらず、定家卿は、己自身の好みに合わない歌を作る者を「唯我独尊」的に歌を知らないと極めつける。これは「偏執(片寄った)」な考えと言わざるを得ない。

②「※②引汲の心になりぬれば、鹿をもて馬とせしがごとし。傍若無人、理も過ぎたりき。他人の詞を聞くに及ばず」→ 自作を弁護しようと思ったときは(引汲の心になりぬれば)、「鹿を馬」にするが如く「傍若無人」で理屈が過ぎる。他人の意見などに聞く耳を持たない。

③「※③彼の卿が哥存知の趣、いさゝかも事により折によるといふ事なし。ぬしにすきたるところなきによりて、我が哥なれども、自讃哥にあらざるをよしなどいへば、腹立の氣色あり」→ 定家は、歌の批評に際して作歌周辺事情などは考慮しない。己自身に「すき(数寄)=風流心」の心がないので、自分の歌でも、気に入らない作品を褒められると立腹する。

④「※④大内の花の盛り----『としを經てみゆきになるゝ花のかげふりぬる身をもあはれとや思ふ』----家隆等も聞きし事也」→ 大内の花の折りの定家の作「としを經てみゆきになるゝ花のかげふりぬる身をもあはれとや思ふ」を、私(後鳥羽院)は、感情も優雅の上、詠作時の雰囲気も格別で自讃歌とすべきと思い、先達の歌人も、歌それ自体よりも詠作事情などに配慮している。『新古今集』の撰歌に、「誘われぬ人のためとや残りけむ明日よりさきの花の白雪」(摂政太政大臣藤原良経)を良経は自撰しているが、定家は詠作時の雰囲気などは考慮せず、歌の良し悪しだけで『新古今集』の撰歌を強いるなどの無理強いを、撰者の家隆などが耳にしている。

⑤「※⑤四天王院の名所の障子の哥に生田の森の歌いらずとて----※①偏執の義也」→ 最勝四天王院は名所の障子の歌に「白露のしばし袖にと思へども生田の杜に秋風ぞ吹く」(慈円作)が入れられて、定家の「秋とだに吹きあへぬ風に色かはる生田の森の露の下草」が入らなかったことを、定家が「所々にしてあざけりそしる、あまつさへ種々の過言」をなし、「かへりて己が放逸を知らず」は遺憾である。そして、その歌は、採用された「白露の」よりもまさっているかも知れないが、よくよく見れば、詞がやさしく艶なるほかには、心も余情として目に浮かぶ面影もたいしたことはない。自身の心に叶わぬから直ちに歌の本質を知らないと決めつけるのは※①「偏執の義也」。

藤原定家(ふじわらのさだいえ(-ていか)) 応保二~仁治二(1162~1241) 通称:京極中納言

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/0teika_t.html

 応保二年(1162)、藤原俊成(当時の名は顕広)四十九歳の時の子として生れる。母は藤原親忠女(美福門院加賀)。同母兄に成家、姉に八条院三条(俊成卿女の生母)・高松院新大納言(祗王御前)・八条院按察(朱雀尼上)・八条院中納言(建御前)・前斎院大納言(竜寿御前)がいる。初め藤原季能女と結婚するが、のち離婚し、建久五年(1194)頃、西園寺実宗女(西園寺公経の姉)と再婚した。子に因子(民部卿典侍)・為家ほかがいる。寂蓮は従兄。
 仁安元年(1166)、叙爵し(五位)、高倉天皇の安元元年(1175)、十四歳で侍従に任ぜられ官吏の道を歩み始めた。治承三年(1179)三月、内昇殿。養和元年(1181)、二十歳の時、「初学百首」を詠む。翌年父に命ぜられて「堀河題百首」を詠み、両親は息子の歌才を確信して感涙したという。文治二年(1186)には西行勧進の「二見浦百首」、同三年には「殷富門院大輔百首」を詠むなど、争乱の世に背を向けるごとく創作に打ち込んだ。
 文治二年(1186)、家司として九条家に仕え、やがて良経・慈円ら九条家の歌人グループと盛んに交流するようになる。良経が主催した建久元年(1190)の「花月百首」、同二年の「十題百首」、同四年の「六百番歌合」などに出詠。ところが建久七年(1196)、源通親の策謀により九条兼実が失脚すると、九条家歌壇も沈滞した。建久九年、守覚法親王主催の「仁和寺宮五十首」に出詠。同年、実宗女との間に嫡男為家が誕生した。
 正治二年(1200)、後鳥羽院の院初度百首に詠進し、以後、院の愛顧を受けるようになる。後鳥羽院は活発に歌会や歌合を主催し、定家は院歌壇の中核的な歌人として「老若五十首歌合」「千五百番歌合」「水無瀬恋十五首歌合」などに詠進する。建仁元年(1201)、新古今和歌集の撰者に任命され、翌年には念願の左近衛権中将の官職を得た。承元四年(1210)には長年の猟官運動が奏効し、内蔵頭の地位を得る。建暦元年(1211)、五十歳で従三位に叙せられ、侍従となる。建保二年(1214)には参議に就任し、翌年伊予権守を兼任した。
 この頃、順徳天皇の内裏歌壇でも重鎮として活躍し、建保三年(1215)十月には同天皇主催の「名所百首歌」に出詠した。同六年、民部卿。ところが承久二年(1220)、内裏歌会に提出した歌が後鳥羽院の怒りに触れ、勅勘を被って、公の出座・出詠を禁ぜられた。
 翌年の承久三年(1221)五月、承久の乱が勃発し、後鳥羽院は隠岐に流され、定家は西園寺家・九条家の後援のもと、社会的・経済的な安定を得、歌壇の第一人者としての地位を不動のものとした。しかし、以後、作歌意欲は急速に減退する。安貞元年(1227)、正二位に叙され、貞永元年(1232)、七十一歳で権中納言に就任。同年六月、後堀河天皇より歌集撰進の命を受け、職を辞して選歌に専念。三年後の嘉禎元年、新勅撰和歌集として完成した。天福元年(1233)十月、出家。法名明静。嘉禎元年(1235)五月、宇都宮頼綱の求めにより嵯峨中院山荘の障子色紙形を書く(いわゆる「小倉色紙」)。これが小倉百人一首の原形となったと見られる。延応元年(1239)二月、後鳥羽院が隠岐で崩御し、その二年後の仁治二年八月二十日、八十歳で薨去した。
 建保四年(1216)二月、自詠二百首から撰出した歌合形式の秀歌撰『定家卿百番自歌合』を編む(以下『百番自歌合』と略)。自撰家集『拾遺愚草』は天福元年(1233)頃最終的に完成したと見られ、その後さらに『拾遺愚草員外』が編まれた。編著に『定家八代抄(二四代集)』『近代秀歌』『詠歌大概』『八代集秀逸』『毎月抄』などがある。古典研究にも多大な足跡を残した。また五十六年に及ぶ記事が残されている日記『明月記』がある。千載集初出、勅撰入集四百六十七首。続後撰集・新後撰集では最多入集歌人。勅撰二十一代集を通じ、最も多くの歌を入集している歌人である。

藤原家隆(ふじわらのいえたか(-かりゅう)) 保元三~嘉禎三(1158-1237) 号:壬生二品(みぶのにほん)・壬生二位

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ietaka_t.html

 良門流正二位権中納言清隆(白河院の近臣)の孫。正二位権中納言光隆の息子。兼輔の末裔であり、紫式部の祖父雅正の八代孫にあたる。母は太皇太后宮亮藤原実兼女(公卿補任)。但し尊卑分脈は母を参議藤原信通女とする。兄に雅隆がいる。子の隆祐・土御門院小宰相も著名歌人。寂蓮の聟となり、共に俊成の門弟になったという(井蛙抄)。
 安元元年(1175)、叙爵。同二年、侍従。阿波介・越中守を兼任したのち、建久四年(1193)正月、侍従を辞し、正五位下に叙される。同九年正月、上総介に遷る。正治三年(1201)正月、従四位下に昇り、元久二年(1205)正月、さらに従四位上に進む。同三年正月、宮内卿に任ぜられる。建保四年(1216)正月、従三位。承久二年(1220)三月、宮内卿を止め、正三位。嘉禎元年(1235)九月、従二位。同二年十二月二十三日、病により出家。法号は仏性。出家後は摂津四天王寺に入る。翌年四月九日、四天王寺別院で薨去。八十歳。
 文治二年(1186)、西行勧進の「二見浦百首」、同三年「殷富門院大輔百首」「閑居百首」を詠む。同四年の千載集には四首の歌が入集した。建久二年(1191)頃の『玄玉和歌集』には二十一首が撰入されている。建久四年(1193)の「六百番歌合」、同六年の「経房卿家歌合」、同八年の「堀河題百首」、同九年頃の「守覚法親王家五十首」などに出詠した後、後鳥羽院歌壇に迎えられ、正治二年(1200)の「後鳥羽院初度百首」「仙洞十人歌合」、建仁元年(1201)の「老若五十首歌合」「新宮撰歌合」などに出詠した。同年七月、新古今集撰修のための和歌所が設置されると寄人となり、同年十一月には撰者に任ぜられる。同二年、「三体和歌」「水無瀬恋十五首歌合」「千五百番歌合」などに出詠。元久元年(1204)の「春日社歌合」「北野宮歌合」、同二年の「元久詩歌合」、建永二年(1207)の「卿相侍臣歌合」「最勝四天王院障子和歌」を詠む。建暦二年(1212)、順徳院主催の「内裏詩歌合」、同年の「五人百首」、建保二年(1214)の「秋十五首乱歌合」、同三年の「内大臣道家家百首」「内裏名所百首」、承久元年(1219)の「内裏百番歌合」、同二年の「道助法親王家五十首歌合」に出詠。承久三年(1221)の承久の変後も後鳥羽院との間で音信を絶やさず、嘉禄二年(1226)には「家隆後鳥羽院撰歌合」の判者を務めた。寛喜元年(1229)の「女御入内屏風和歌」「為家卿家百首」を詠む。貞永元年(1232)、「光明峯寺摂政家歌合」「洞院摂政家百首」「九条前関白内大臣家百首」を詠む。嘉禎二年(1236)、隠岐の後鳥羽院主催「遠島御歌合」に詠進した。
藤原俊成を師とし、藤原定家と並び称された。後鳥羽院は「秀哥ども詠み集めたる多さ、誰にもすぐまさりたり」と賞讃し(御口伝)、九条良経は「末代の人丸」と称揚したと伝わる(古今著聞集)。千載集初出。新勅撰集では最多入集歌人。勅撰入集計二百八十四首。自撰の『家隆卿百番自歌合』、他撰の家集『壬二集』(『玉吟集』とも)がある。新三十六歌仙。百人一首にも歌を採られている。『京極中納言相語』などに歌論が断片的に窺える。また『古今著聞集』などに多くの逸話が伝わる。
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