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漱石・東洋城・寅彦」(子規没後~漱石没まで)俳句管見(その十) [漱石・東洋城・寅彦]

その十「明治四十五年・大正元年(一九一二)」

[漱石・四十五歳。明治45・大正元(1912) 1月~4月「彼岸過迄」12月~翌11月「行人」]

夏目漱石肖像.jpg

「夏目漱石」(監修・大町芳章/参考・高橋正著「 評伝 大町桂月 」)
http://keigetsu1869.la.coocan.jp/hito/souseki/souseki.html

2300 厳かに松明振り行くや星月夜(前書「奉送(一句)」、松根東洋城宛書簡)
[東洋城宛の書簡には「奉悼や葬送の句はどうも出来ないね。天子様の悼亡の句なんか作つた事がないから仕方がない」とある。明治天皇は七月三十日に逝去。]

2302 秋風や屠られに行く牛の尻(松根東洋城書簡)
[東洋城宛書簡には「一週間にて退院の筈、十句集も気が乗らずそれなりなり。発句を書いてくれと所望されると作らねばならぬと思ふが、左もなきときは作る了見も出ず済度致しがたき俗物と相成候」とある。九月二十六日佐藤診療所に入院、痔の手術を受けた。]

[東洋城・三十五歳。明治天皇崩御、式部官として大喪の儀奉仕。]

松根東洋城肖像.jpg

「松根東洋城」(「明治四十四年・『漱石夫妻 愛のかたち』より「森成麟造医師送別会(?)」の部分拡大図像)
https://blog.rnb.co.jp/sakanoue/?p=1062

明治天皇崩御矣嗟呼(ああ)暑退き栗実る(前書「明治天皇崩御 十二句」)
この秋や供奉(くぶ)に泣かるゝ太刀冠(同上)
菊咲くや仮の名ながら菊花節(同上)
和歌の君に俳諧の臣や菊花節(同上)
大輪の菊に御偉業や菊花節(同上)
(以下、七句「略」)

[寅彦・三十五歳。四月、中央気象台の全国気象協議会において海洋学の集中講義を開く。五月、次女の弥生誕生。十一月、日本天文学例会において「地球内部の構造に就て」を講演する。]→[『寺田寅彦全集/文学篇/七巻』には収載句は無い。]→[『寺田寅彦全集/文学篇/七巻』には収載句は無い。]


(参考) 「明治天皇大喪儀」周辺

明治天皇大喪儀.jpg

「明治天皇大喪儀絵巻物1~4」(「宮内公文書館所蔵」)
https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/modean_state/contents/imperial-mourning/photo/taimo/pn04.html

http://web.sanin.jp/p/sousen/1/3/1/14/11/

[明治天皇大喪(大正1年9月)
 明治天皇の大喪は、9月13日から3日間にわたり行なわれた。大喪費用は当時の金で150万円であった。午後8時、1発の号砲を合図に明治天皇の霊柩を乗せた轜車(じしゃ)は、78対の松明(たいまつ)に導かれて宮殿を出発。轜車が青山の葬場殿に到着したのは夜の10時56分。葬場殿の儀が終わったのは午前零時45分である。夜間の葬列のため、その準備も大変だった。
 皇居の正面の二重橋から西の丸の馬場先門までの間には、約20メートル間隔で高さ6メートルの根越榊10対を立て、その土台には約45センチの白木の台に白木の枠を設けた。榊の梢からは黒白、あるいは濃い鼠色の帛(絹布)を垂らし、榊と榊の間に約18メートルの間隔で、高さ3メートルのガスのかがり火を20対設置した。このかがり火は赤松の丸太3本を組み合わせて作ったもので、これにしめ縄を張り、さらに榊のかがり火の後方には10対のアーク灯を点じ、辺り一帯を真昼のように照らした。馬場先門からは36メートルおきに9メートルの柱を立て、その上にアーク灯をつけた。その間に18メートルおきに、黒白の布を巻いた間柱を立て、頂上から幡旗をつるし、途中で緑葉の環を付けた。さらに柱と柱の間には銀色、あるいは黒白の喪飾りを施した。麹町大通りは車道と人道との間に黒の幔幕を張り、各戸に白張りの提灯を掲げた。
 青山大葬場入口左右には、擦りガラスをはめた高さ8メートルの白木作りの春日形大燈篭一対を立て、総門の左右には清涼殿形の吊り燈篭4個を立てて、夜間の葬列にふさわしい備えをした。

乃木大将夫妻の葬儀(大正1年9月)
 明治天皇大葬の当夜、霊柩発引の号砲を合図に自刃を遂げた乃木大将夫妻の葬儀が9月18日に行なわれた。午後3時赤坂の自宅を出棺、青山斎場に於て神式の葬儀を執り行なった。午後2時半にラッパの合図第1声とともに、前駆並びに花旗の行列を整え、第2声で大将の棺を載せた砲車、及び夫人の棺を載せた馬車の出発準備に取り掛かり、葬儀係はいずれも行列位置についた。次ぎに会葬者一同出発準備をして、第3声「気を付け前へ」の合図とともに行進が始まった。午後4時、祭式が始まり、4時25分、道路に整列した1個連隊の儀杖兵は、「命を棄てて」のラッパの吹奏を終えて、一斉に銃口を天に向け3発の弔銃を発射した。
 午後5時頃より一般会葬者の参拝が始まった。葬儀委員の3名は椅子に登って「礼拝が済みますれば、すぐにご退出を願います。後がたくさんでございますから、何とぞ早くご退出を願います」と声を嗄らしても、棺前で泣き伏して棺の前を去らない人もいた。5時45分には、一般の参拝を差し止めたがなかなか人は減らず、なかには白髪の老人が懐から祭文を取り出し、涙を流しながら朗読し始め、委員が「ご祭文はそこに置いていただきます」といっても聞き入れないというひと幕があった。 ](「大正葬祭史」)
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