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「漱石・寅彦・東洋城」(子規没後~漱石没まで)俳句管見(その十四) [漱石・東洋城・寅彦]

その十四「大正五(一九一六)」

[漱石・十二月九日、漱石没(五十歳)。5月~12月、「明暗」。]

2452 春風や故人に贈る九花蘭(「九花蘭」は五月頃に芳香のある黄緑色の花を開く。)
2453 白梅にしぶきかゝるや水車(2483までの三十一句は「手帳に記された句」。)
2454 孟宗の根を行く春の筧(かけひ)哉(同上)
2455 梅早く咲いて温泉(ゆ)の出る小村哉(同上)
2456 いち早き梅を見付けぬ竹の間(同上)
2457 梅咲くや日の旗立つる草の戸に(同上)
2458 裏山に蜜柑みのるや長者振(同上)
2459 温泉に信濃の客や春を待つ(同上)
2460 橙も黄色になりぬ温泉(ゆ)の流(同上)
2461 鶯に聞き入る茶屋の床几哉(同上)
2462 鶯や草鞋(わらじ)を易(か)ふる峠茶屋(同上)
2463 鶯や竹の根方に鍬の尻(同上)
2464 鶯や藪くゞり行く蓑一つ(同上)
2465 鶯を聴いてゐるなり縫箔屋(ぬいはくや)(同上。「縫箔屋」=衣服模様を業とする)
2466 鶯に餌をやる寮の妾かな(同上)
2467 温泉の里橙山の麓かな(同上)
2468 桃の花家に唐画を蔵しけり(同上)
2469 桃咲くやいまだに流行(はや)る漢方医(同上)
2470 輿(こし)に乗るは帰化の僧らし桃の花(同上)
2471 町儒者の玄関構や桃の花(同上)
2472 かりにする寺小屋なれど梅の花(同上)
2473 文も候(そろ)稚子(ちご)に持たせて桃の花(同上)
2474 琵琶法師召されて春の夜なりけり(同上)
2475 春雨や身をすり寄せて一つ傘(同上)
2476 鶯を飼ひて床屋の主人哉(同上)
2477 耳の穴掘つてもらひぬ春の風(同上)
2478 嫁の里向ふに見えて春の川(同上)
2479 岡持の傘にあまりて春の雨(同上)
2480 一燈の青幾更ぞ瓶の梅(同上)
2481 病める人枕に倚れば瓶の梅(同上)
2482 梅活けて聊(いささ)かなれど手習す(同上)
2483 桃に琴弾くは心越禅師哉(同上)
2484 秋立つや一巻の書の読み残し(「芥川龍之介宛書簡」九月二日)
2485 蝸牛や五月をわたるふきの茎(「画賛九月八日」)
2486 朝貌にまつはられてよ芒の穂(同上)
2487 萩と歯朶に賛書く月の団居哉(「夏目漱石遺墨集・第三巻」の画賛の句)
2488 棕櫚竹や月に背いて影二本(「自画賛九月八日」)
2489 秋立つ日猫の蚤取眼かな(「画賛九月」)
2490 秋となれば竹もかくなり俳諧師(同上)
2491 風呂吹きや頭の丸き影二つ(前書「禅僧二人宿して」、「十月」)
2492 煮て食ふかはた焼いてくふか春の魚(「画賛十月」)
2493 いたづらに書きたるものを梅とこそ(「自画賛十一月」)
2494 まきを割るかはた祖を割るか秋の空(「鬼村元成宛書簡」、「十一月十日」)
2495 饅頭に礼拝すれば晴れて秋(「富沢敬道宛書簡」、「十一月十五日」)
2496 饅頭は食つたと雁に言伝よ(同上)
2497 吾心点じ了りぬ正に秋(同上。前書「徳山の故事を思ひだして 一句」)
2498 僧のくれし此饅頭の丸きかな(同上。「無季」の句)
2499 瓢箪は鳴るか鳴らぬか秋の風(同上。前書「瓢箪はどうしました」)


(東洋城・三十九歳。虚子は大正二年、俳句に復活したが、四月、東洋城に無断で「国民俳壇」を手に入れた。爾後、虚子及び「ホトトギス」と絶縁し、「渋柿」によつて芭蕉を宗とし俳諧を道として立った。)

※怒る事知つてあれども水温む(前書「有感(大正五年四月十七日国民俳壇選者更迭発表の日)」)
[※「大正五年、虚子が俳句に復活し、四月十七日、東洋城はついに国民俳壇の選者を下りた。それというのも、国民新聞の社長・徳富蘇峰が、選者を下りてほしい旨、手紙を送ってきたためであった。東洋城はかねてより、社長からなにか言ってくるまで辞めないつもりだったが、読むと、かなり困って書いてきたものだとわかった。「仕方がない、社長は大将だ。ここまで書いてくるのは、よほどのことなのであろう」と、ついに下りることを承諾した。そして、
  有感(感有リ)
 いかること知つてあれども水温(ぬる)む
という句をつくり、以後虚子とは義絶した。九月には母の上京を促すため、帰郷した。末弟の宗一(そういち)が東京高商に入学するため上京し、以後、宇和島で独り住まいになっていた母の面倒を見るのは長男(※嫡男)の務めだと思い、同居の説得に行ったのだった。この年、東洋城にとって肉親の死にも等しい哀しいできごとがあった。十二月九日、漱石が死亡したのである。」(『渋柿の木の下で(中村英利子著)』)  ]

用ふべき薬も絶えし火桶かな(前書「黒き枠の中より(「漱石先生の死))六句」)
木枯に深山木折るゝ音を聞け(同上)
埋火は灰の深きに消えにけり(同上)
祖父も父も繕ひし土塀冬日さす(同上)
ともし火に枯荷の月を観じけり(同上)
元日や人の心の一大事(同上)
[「東洋城はかって、父が亡くなるときにもこうして末期の水を捧げたが、師の漱石にも同じことをしていると思いながら、あと筆を進めず漱石の顔を見た。この時の東洋城の心には、師とか文豪などというものはなく、父を失ったときと同じ悲しみがあった。「先生、先生」、呼んだ後、漱石はふ―っと息を吐いたが、その後はもう続かない。真鍋が夫人に「お目を」と言い、夫人は手で静かに漱石の目をつむらせたが、初めから開いていないのをそうしたのは、永遠に安らかに瞑目させようとしたものだった。阿部学士検脈。真鍋学士検脈。退いて「すでに」と言う。部屋の中は、しのび泣きや声を上げて泣く声で満ちた。時に午後六時五十分。曇った日はすでに暮れ、闇の中に寒風がさみしく吹いた。
( 東洋城はこのあと、一連の葬儀に関して仕切り役ともいうべき重要な働きをした。しかし、それにもかかわらず、弟子たちのあいだに軋轢が生じた。」(『渋柿の木の下で(中村英利子著)』)  ]

漱石臨終図.jpg

「夏目漱石の娘 愛子さん(「父漱石の霊に捧ぐ」より)」
http://enmi19.seesaa.net/article/463137651.html

(寅彦・三十九歳。十一月、東京帝国大学理科大学教授となる。十二月、胃潰瘍のため医者より絶対安静を命じられる。十二月九日、夏目漱石死亡。) →[『寺田寅彦全集/文学篇/七巻』には収載句は無い。]


(参考一) [葬儀記 芥川龍之介]

https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/150_15210.html

[ 離れで電話をかけて、皺(しわ)くちゃになったフロックの袖(そで)を気にしながら、玄関へ来ると、誰(だれ)もいない。客間をのぞいたら、奥さんが誰だか黒の紋付(もんつき)を着た人と話していた。が、そこと書斎との堺(さかい)には、さっきまで柩(ひつぎ)の後ろに立ててあった、白い屏風(びょうぶ)が立っている。どうしたのかと思って、書斎の方へ行くと、入口の所に和辻(わつじ)さんや何かが二、三人かたまっていた。中にももちろん大ぜいいる。ちょうど皆が、先生の死顔(しにがお)に、最後の別れを惜んでいる時だったのである。
 僕は、岡田(おかだ)君のあとについて、自分の番が来るのを待っていた。もう明るくなったガラス戸の外には、霜よけの藁(わら)を着た芭蕉(ばしょう)が、何本も軒近くならんでいる。書斎でお通夜(つや)をしていると、いつもこの芭蕉がいちばん早く、うす暗い中からうき上がってきた。――そんなことをぼんやり考えているうちに、やがて人が減って書斎の中へはいれた。
 書斎の中には、電灯がついていたのか、それともろうそくがついていたのか、それは覚えていない。が、なんでも、外光だけではなかったようである。僕は、妙に改まった心もちで、中へはいった。そうして、岡田君が礼をしたあとで、柩の前へ行った。
 柩のそばには、松根(まつねさん)が立っている。そうして右の手を平(たいら)にして、それを臼(うす)でも挽(ひく)時のように動かしている。礼をしたら、順々に柩の後ろをまわって、出て行ってくれという合図(あいず)だろう。
 柩は寝棺(ねかん)である。のせてある台は三尺ばかりしかない。そばに立つと、眼と鼻の間に、中が見下された。中には、細くきざんだ紙に南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と書いたのが、雪のようにふりまいてある。先生の顔は、半ば頬(ほお)をその紙の中にうずめながら、静かに眼をつぶっていた。ちょうど蝋(ろう)ででもつくった、面型(めんがた)のような感じである。輪廓(りんかく)は、生前と少しもちがわない。が、どこかようすがちがう。脣(くちびる)の色が黒(くろ)ずんでいたり、顔色が変わっていたりする以外に、どこかちがっているところがある。僕はその前で、ほとんど無感動に礼をした。「これは先生じゃない」そんな気が、強くした。(これは始めから、そうであった。現に今でも僕は誇張なしに先生が生きているような気がしてしかたがない)僕は、柩の前に一、二分立っていた。それから、松根さんの合図通り、あとの人に代わって、書斎の外へ出た。
 ところが、外へ出ると、急にまた先生の顔が見たくなった。なんだかよく見て来るのを忘れたような心もちがする。そうして、それが取り返しのつかない、ばかな事だったような心もちがする。僕はよっぽど、もう一度行こうかと思った。が、なんだかそれが恥しかった。それに感情を誇張しているような気も、少しはした。「もうしかたがない」――そう、思ってとうとうやめにした。そうしたら、いやに悲しくなった。
 外へ出ると、松岡が「よく見て来たか」と言う。僕は、「うん」と答えながら、うそをついたような気がして、不快だった。

 青山の斎場(さいじょう)へ行ったら、靄(もや)がまったく晴れて、葉のない桜のこずえにもう朝日がさしていた。下から見ると、その桜の枝が、ちょうど鉄網のように細(こま)かく空をかがっている。僕たちはその下に敷いた新しいむしろの上を歩きながら、みんな、体をそらせて、「やっと眼がさめたような気がする」と言った。
 斎場は、小学校の教室とお寺の本堂とを、一つにしたような建築である。丸い柱や、両方のガラス窓が、はなはだみすぼらしい。正面には一段高い所があって、その上に朱塗(しゅぬり)の曲禄(きょくろく)が三つすえてある。それが、その下に、一面に並べてある安直な椅子(いす)と、妙な対照をつくっていた。「この曲禄を、書斎の椅子(いす)にしたら、おもしろいぜ」――僕は久米(くめ)にこんなことを言った。久米は、曲禄の足をなでながら、うんとかなんとかいいかげんな返事をしていた。
 斎場を出て、入口の休所やすみどころへかえって来ると、もう森田さん、鈴木さん、安倍さん、などが、かんかん火を起した炉(ろ)のまわりに集って、新聞を読んだり、駄弁(だべん)をふるったりしていた。新聞に出ている先生の逸話(いつわ)や、内外の人の追憶が時々問題になる。僕は、和辻さんにもらった「朝日」を吸いながら、炉のふちへ足をかけて、ぬれたくつから煙が出るのをぼんやり、遠い所のものを見るようにながめていた。なんだか、みんなの心もちに、どこか穴のあいている所でもあるような気がして、しかたがない。
 そのうちに、葬儀の始まる時間が近くなってきた。「そろそろ受付へ行こうじゃないか」――気の早い赤木君が、新聞をほうり出しながら、「行(い)」の所へ独特のアクセントをつけて言う。そこでみんな、ぞろぞろ、休所を出て、入口の両側にある受付へ分れ分れに、行くことになった。松浦君、江口君、岡君が、こっちの受付をやってくれる。向こうは、和辻さん、赤木君、久米という顔ぶれである。そのほか、朝日新聞社の人が、一人ずつ両方へ手伝いに来てくれた。
 やがて、霊柩車(れいきゅうしゃ)が来る。続いて、一般の会葬者が、ぽつぽつ来はじめた。休所の方を見ると、人影がだいぶんふえて、その中に小宮(こみや)さんや野上(のがみ)さんの顔が見える。中幅(ちゅうはば)の白木綿(しろもめん)を薬屋のように、フロックの上からかけた人がいると思ったら、それは宮崎虎之助(みやざきとらのすけ)氏だった。
 始めは、時刻が時刻だから、それに前日の新聞に葬儀の時間がまちがって出たから、会葬者は存外少かろうと思ったが、実際はそれと全く反対だった。ぐずぐずしていると、会葬者の宿所を、帳面につけるのもまにあわない。僕はいろんな人の名刺をうけとるのに忙殺された。
 すると、どこかで「死は厳粛である」と言う声がした。僕は驚いた。この場合、こんな芝居じみたことを言う人が、僕たちの中にいるわけはない。そこで、休所(やすみどころ)の方をのぞくと、宮崎虎之助氏が、椅子(いす)の上へのって、伝道演説をやっていた。僕はちょいと不快になった。が、あまり宮崎虎之助らしいので、それ以上には腹もたたなかった。接待係の人が止(とめ)たが、やめないらしい。やっぱり右手で盛なジェステュアをしながら、死は厳粛であるとかなんとか言っている。
 が、それもほどなくやめになった。会葬者は皆、接待係の案内で、斎場の中へはいって行く。葬儀の始まる時刻がきたのであろう。もう受付へ来る人も、あまりない。そこで、帳面や香奠(こうでん)をしまつしていると、向こうの受付にいた連中が、そろってぞろぞろ出て来た。そうして、その先に立って、赤木君が、しきりに何か憤慨している。聞いてみると、誰かが、受付係は葬儀のすむまで、受付に残っていなければならんと言ったのだそうである。至極もっともな憤慨だから、僕もさっそくこれに雷同した。そうして皆で、受付を閉じて、斎場へはいった。
 正面の高い所にあった曲ろくは、いつの間にか一つになって、それへ向こうをむいた宗演(そうえん)老師が腰をかけている。その両側にはいろいろな楽器を持った坊さんが、一列にずっと並んでいる。奥の方には、柩があるのであろう。夏目金之助之柩(なつめきんのすけのひつぎ)と書いた幡(はた)が、下のほうだけ見えている。うす暗いのと香の煙とで、そのほかは何があるのだかはっきりしない。ただ花輪の菊が、その中でうずたかく、白いものを重ねている。――式はもう誦経(ずきょう)がはじまっていた。
 僕は、式に臨んでも、悲しくなる気づかいはないと思っていた。そういう心もちになるには、あまり形式が勝っていて、万事がおおぎょうにできすぎている。――そう思って、平気で、宗演老師の秉炬法語(へいきょほうご)を聞いていた。だから、松浦君の泣き声を聞いた時も、始めは誰かが笑っているのではないかと疑ったくらいである。
 ところが、式がだんだん進んで、小宮さんが伸六(しんろく)さんといっしょに、弔辞(ちょうじ)を持って、柩の前へ行くのを見たら、急に瞼(まぶた)の裏が熱くなってきた。僕の左には、後藤末雄(ごとうすえお)君が立っている。僕の右には、高等学校の村田先生がすわっている。僕は、なんだか泣くのが外聞の悪いような気がした。けれども、涙はだんだん流れそうになってくる。僕の後ろに久米(くめ)がいるのを、僕は前から知っていた。だからその方を見たら、どうかなるかもしれない。――こんなあいまいな、救助を請うような心もちで、僕は後ろをふりむいた。すると、久米の眼が見えた。が、その眼にも、涙がいっぱいにたまっていた。僕はとうとうやりきれなくなって、泣いてしまった。隣にいた後藤君が、けげんな顔をして、僕の方を見たのは、いまだによく覚えている。
 それから、何がどうしたか、それは少しも判然しない。ただ久米が僕の肘(ひじ)をつかまえて、「おい、あっちへ行こう」とかなんとか言ったことだけは、記憶している。そのあとで、涙をふいて、眼をあいたら、僕の前に掃きだめがあった。なんでも、斎場とどこかの家との間らしい。掃きだめには、卵のからが三つ四つすててあった。
 少したって、久米と斎場へ行ってみると、もう会葬者がおおかた出て行ったあとで、広い建物の中はどこを見ても、がらんとしている。そうして、その中で、ほこりのにおいと香のにおいとが、むせっぽくいっしょになっている。僕たちは、安倍さんのあとで、お焼香(しょうこう)をした。すると、また、涙が出た。
 外へ出ると、ふてくされた日が一面に霜(しも)どけの土を照らしている。その日の中を向こうへ突つっきって、休所へはいったら、誰かが蕎麦饅頭(そばまんじゅう)を食えと言ってくれた。僕は、腹がへっていたから、すぐに一つとって口へ入れた。そこへ大学の松浦先生が来て、骨上(こつあげ)のことか何か僕に話しかけられたように思う。僕は、天とうも蕎麦饅頭もしゃくにさわっていた時だから、はなはだ無礼な答をしたのに相違ない。先生は手がつけられないという顔をして、帰られたようだった。あの時のことを今思うと、少からず恐縮する。
 涙のかわいたのちには、なんだか張合(はりあい)ない疲労ばかりが残った。会葬者の名刺を束にする。弔電や宿所書きを一つにする。それから、葬儀式場の外の往来で、柩車の火葬場へ行くのを見送った。
 その後は、ただ、頭がぼんやりして、眠いということよりほかに、何も考えられなかった。
(大正五年十二月)  ]


(参考二) 「木曜会・漱石没後=「九日会」メンバー」(周辺)

https://soseki-museum.jp/soseki-natsume/surround-soseki/

[ (「漱石・東洋城」親近者)

1 松根東洋城(まつねとうようじょう)=明治11(1878)~昭和39(1964)年。俳人。愛媛県尋常中学校で漱石に学ぶ。上京後、漱石の紹介で正岡子規と出会い、句作を始め、雑誌「渋柿」を創刊した。(「漱石門」の年長組、「木曜会」のメンバー、「漱石十大弟子の一人」。)

2 寺田寅彦(てらだとらひこ)=明治11(1878)~昭和10(1935)年。物理学者、随筆家。第五高等学校で漱石に学んだ。物理学の研究の一方で吉村冬彦の名前で多くの随筆を書いた。(「漱石門」の年長組、「木曜会」のメンバー、「漱石十大弟子の一人」。)

3 小宮豊隆(こみやとよたか)=明治17(1884)~昭和41(1966)年。独文学者、評論家。漱石の全集編集の中心的役割を担った。また、『夏目漱石』などの評伝を書いた。阿部次郎に招かれて東北帝国大学(東北大学)で定年まで勤め、その後は学習院大学で教えた。(「漱石門」の最側近、「木曜会・九日会」のメンバー、「漱石門」の四天王の一人、「漱石十大弟子の一人」。東洋城没後の「東洋城全句集」編者の一人。)

4 安倍能成(あべよししげ)=明治16(1883)~昭和41(1966)年。哲学者、評論家、教育者。第一高等学校で漱石に学んだ。母校の校長を務め、戦後は文部大臣、学習院大学の院長を務めた。(「漱石門」の出世頭(戦後の昭和二十一年に文部大臣)、「漱石門」の四天王の一人、「漱石十大弟子の一人」。「木曜会・九日会」のメンバー、東洋城没後の「東洋城全句集」編者の一人。)

(「漱石」親近の友人・門人)

5 高浜虚子(たかはまきょし)=明治7(1874)~昭和34(1959)年。俳人、小説家。漱石の友人正岡子規に俳句を教わった。漱石に小説執筆を薦め、「吾輩は猫である」を書かせた。
(「木曜会」のメンバーであるが、常連メンバーではない。)

6 岩波茂雄(いわなみしげお)=明治14(1881)~昭和21(1946)年。岩波書店創業者。岩波書店を開業し、『こころ』を初めとする漱石の作品を多く出版した。(「木曜会」のメンバーであるが、常連メンバーではない。)

7 阿部次郎(あべじろう)=明治16(1883)~昭和34(1959)年。哲学者、評論家。自伝的小説「三太郎の日記」は大正期のベストセラーになった。その後は人格主義という思想を提唱した。大正12(1923)年からは長く東北帝国大学(東北大学)の教員を務めた。(「漱石十大弟子の一人)」。)

8 和辻哲郎(わつじてつろう)=明治22(1889)~昭和35(1960)年。哲学者、文化史家、倫理学者。漱石に教わったことはなかったが、漱石を敬愛して付きあうようになった。『古寺巡礼』など文化史方面の著作も多い。昭和9(1934)年からは東京大学教授として定年まで勤めた。(「木曜会」のメンバーというよりも「九日会」のメンバー。)

9 津田青楓(つだせいふう)=明治13(1880)~昭和53(1978)年。画家。『道草』や『明暗』など漱石の本の装丁を手がけた。また、漱石に絵画の手ほどきをした。(「漱石十大弟子の一人」、実兄は「去風流七代・西川一草亭」、漱石側近の画家、後に「左翼」に転向。)

10 野村伝四(のむらでんし)=明治13(1880)~昭和23(1948)年。教育者。漱石の教え子で学校教諭などを務めた後、奈良県立図書館の館長になった。一方で郷里鹿児島の方言研究にも努めた。(「野村伝四は漱石が最も愛した弟子だといわれている。彼は朴訥で接すると春風飴蕩のおもむきがあった。ちょうど、複雑なハムレットが、激情の奴隷でないホレイショを愛したように、複雑な漱石も朴訥な伝四を愛したのであろう。」=「ウィキペディア」)

11 林原耕三(はやしばらこうぞう)=明治20(1887)~昭和50(1975)年。英文学者、俳人。漱石の教え子で久米正雄、芥川龍之介を漱石に紹介した。東京帝国大学卒業後は法政大学や明治大学で教えつつ、句作にも熱心だった。(俳句は、「東洋城」の「渋柿」ではなく、「石楠」の「臼田亜浪」に師事。)

(「漱石」門の作家たち=「木曜会・九日会」のメンバー)

12 森田草平(もりたそうへい)=明治14(1881)~昭和24(1949)年。小説家。漱石に薦められて平塚らいてうとの恋愛を「煤煙」という作品として発表し、漱石が朝日新聞の紙面に作った「朝日文芸欄」では編集を担った。(「漱石門」の四天王の一人、「漱石十大弟子の一人」、漱石の「野分」のモデルとされている。)

13 鈴木三重吉(すずきみえきち)=明治15(1882)~昭和11(1936)年。小説家、童話作家。漱石に小説を評価されるが、漱石没後は童話作家として活躍し、雑誌「赤い鳥」を編集した。(「漱石門」の四天王の一人、「漱石十大弟子の一人」、東洋城と三重吉は当初は昵懇の関係であったが、後に、東洋城との関係は疎遠となる。)

14 野上豊一郎(のがみとよいちろう)=明治16(1883)~昭和25(1950)年。能楽研究者、英文学者。第一高等学校で漱石に学んだ。英文学では特に演劇研究をよくし、後には能楽研究で名を成し、教員を務めた法政大学にはその名を冠した能楽研究所が置かれている。妻は小説家の野上弥生子。(「漱石十大弟子の一人」。)

15 中勘助(なかかんすけ)=明治18(1885)~昭和40(1965)年。小説家、詩人、随筆家。第一高等学校からの漱石の教え子で小説「銀の匙」が漱石に高く評価された。(詩人としても、三好達治は、中勘助の詩には人間の善意識を呼び覚ます力と涯底(そこい)のしれぬ哀感があると高く評価した。65年(昭和40)1月朝日賞受賞「日本大百科全書(ニッポニカ)」)

16 赤木桁平(あかぎこうへい)=明治24(1891)~昭和24(1949)年。評論家、政治家。友人の鈴木三重吉を介して漱石と出会い、漱石にとって初の伝記『夏目漱石』を書いた。(「漱石十大弟子の一人」。日米開戦の積極論者で、漱石門の最右翼の人物。)

17 内田百閒(うちだひゃっけん)=明治22(1889)~昭和46(1971)年。小説家、随筆家。漱石全集の校正を担った。作家としての代表作に「冥途」や「贋作吾輩は猫である」など。(「夏目漱石」と「芥川龍之介」との接点の中心的人物で、「俳句」の造詣も深い。)

18 江口渙(えぐちかん)=明治20(1887)~昭和50(1975)年。小説家、評論家。芥川龍之介の作品をいち早く評価した。その後は社会主義運動に関わるようになっていった。(「夏目漱石と芥川龍之介」との接点にあって、漱石門の、戦中・戦後の最左翼の文学を担った人物。)

(「漱石」門の作家たち=主として「木曜会(ニューフェイス達=第4次『新思潮』派の作家たち」など」)のメンバー)

19 菊池寛(きくちかん)=明治21(1888)~昭和23(1948)年。文藝春秋社創設者、小説家。小説や戯曲を書くかたわら、文藝春秋社を開業し、幅広い事業を展開した。(第三・四次「新思潮」同人。「文芸春秋」を創刊、文芸春秋社を設立。芥川賞、直木賞を設定し、作家の育成、文芸の普及に努めた。作家として通俗小説に一生面を開く。著作「父帰る」「無名作家の日記」「恩讐の彼方に」「真珠夫人」。)(「精選版 日本国語大辞典」)

20 芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)=明治25(1892)~昭和2(1927)年。小説家。「鼻」が漱石小説家。東京生まれ。別号澄江堂主人、我鬼。第三次、第四次の「新思潮」同人。「鼻」が夏目漱石に認められ、文壇出世作となる。歴史に材を取った理知的・技巧的作品で、抜群の才能を開花させた。致死量の睡眠薬を飲み自殺。著作「羅生門」「地獄変」「歯車」「或阿呆の一生」「西方の人」など。明治二五~昭和二年(一八九二‐一九二七)に高く評価され、大正期を代表する作家になった。主な作品に「地獄変」や「歯車」など(「精選版 日本国語大辞典」)

21 松岡譲(まつおかゆずる)=明治24(1891)~昭和44(1969)年。小説家。漱石の長女筆子と結婚した。漱石の妻鏡子の談話を編集して『漱石の思ひ出』を刊行した。

22 久米正雄(くめまさお)=明治24(1891)~昭和27(1952)年。小説家、劇作家。芥川と共に作家として評価された。漱石没後は戯曲や大衆向けの小説を多く書いた

23 成瀬 正一(なるせ せいいち、1892年4月26日 - 1936年4月13日)は、日本のフランス文学者。ロマン・ロランの翻訳・紹介を行った。大学卒業後まもなく創作から研究の道に転じ、九州帝国大学法文学部教授として仏蘭西浪漫主義思想を専門とした。43歳で病死したが、この時代の良き知識人として、後世の文学や美術研究に大いに寄与した。パリ留学中の1921年、松方幸次郎のアドバイザーとして松方コレクション(国立西洋美術館)の絵画彫刻の蒐集購入に協力した。(「ウィキペディア」)  ]

第4次『新思潮』のメンバー.jpg

「東京帝国大学を卒業する1916年(大正5年)頃の第4次『新思潮』のメンバー。成瀬正一は一番右、その左は芥川龍之介、次いで松岡譲、一番左が久米正雄。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E7%80%AC%E6%AD%A3%E4%B8%80_%28%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E6%96%87%E5%AD%A6%E8%80%85%29

(参考三) 「文豪、夏目漱石の葬儀」と「陸軍大将大山巌の国葬」

http://web.sanin.jp/p/sousen/1/3/1/14/11/

[ 文豪、夏目漱石の葬儀(大正5年12月)
 夏目漱石の遺体は故人の希望により、12月10日午後1時40分より、医科大学病理解剖室で解剖された。作業は3時30分に終り、遺体は再び邸宅に帰った。翌11日は通夜が行なわれた。白絹の被いが掛けられた棺の上にはケーベル博士の花輪が飾られ、「文献院古道漱石居士」と書かれた位牌を棺前に安置された。葬儀の当日は、午前7時半より読経が始められた。8時半に、第1の馬車に僧侶、次に棺馬車、次に遺族、親族など6輛の馬車に分乘して出発。柩車は9時半に青山斎場に到着。芥川竜之介がフロックコートを着て受付をした。柩は直ちに祭壇に安置され、その上に「夏目金之助之柩」と大書きした銘旗を掲げられた。10時半に読経が始まり、朝日新聞社社長の弔辞朗読が行なわれた。遺体は葬儀後、落合火葬場にて荼毘に附された。

 陸軍大将大山巌の国葬(大正5年12月)
 12月10日に逝去した大山巌の国葬は、同17日日比谷公園で行なわれた。早朝より、日比谷公園正門から葬儀場の内外は、白い砂をまき掃き清められた。幔門から左右は黒白の幕を張り、正面の祭場は白木造りに白の幕を絞り、白の布で祭壇を設置。左右に立ち並ぶ幄舎は黒白段々の布で天井を覆い、同じ色で柱を包んだ。9時10分、行列が到着し、11時には国葬が終了した。再び霊柩は霊柩馬に移され、上野駅にと向かった。上野駅についた霊柩は、馬車に載せたまま、兵士20名によって担がれ、特別列車の待つ1番線へと向かう。プラットホームには鯨幕を張り、その中で鉄道職員、葬儀係員立会の下で馬車より柩を引き下ろして、特別列車内に運び入れた。列車の内部はことごとく白い幕で飾り、床だけは黒布を敷き詰めた。告別式のあと、霊柩列車は那須野へ向かった。]

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