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源氏物語画帖(その十五・蓬生)」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

15 蓬生(光吉筆)=(詞)近衛信尋(一五九九~一六四九) 源氏28歳-29歳

光吉・蓬生.jpg

A-1図 源氏物語絵色紙帖 蓬生 画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/509784/2

信尋・蓬生.jpg

A-2図 源氏物語絵色紙帖 蓬生 詞・近衛信尋
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/509784/2

長次郎・蓬生.jpg

A-3図 源氏物語絵色紙帖 蓬生 画・長次郎
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/575983/1

k2・蓬生.jpg

A-4図 源氏物語絵色紙帖 蓬生 詞・近衛信尹
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/575983/1

(A-2図 源氏物語絵色紙帖 蓬生 詞・近衛信尋)の「詞」

「露すこし払はせてなむ、入らせたまふべき」と聞こゆれば、
尋ねても我こそ訪はめ道もなく 深き蓬のもとの心を
(第三章 末摘花の物語久しぶりの再会の物語 第三段 源氏、邸内に入る)

3.3.10 「露すこし払はせてなむ、入らせたまふべき」
(露を少し払わせて、お入りあそばすよう」)
3.3.11  と聞こゆれば、
(と申し上げるので、《その言葉を聞いて、源氏は》)
3.3.12 尋ねても我こそ訪はめ道もなく 深き蓬のもとの心を
(訪ねて来る人もいない様子だが、わたしこそ訪問しましょう。この道もないくらい深く茂った蓬のように変わらない姫君のお心を《お聞きしたい。》)

(A-4図 源氏物語絵色紙帖 蓬生 詞・近衛信尹)の「詞」

年を経て待つしるしなきわが宿を 花のたよりに過ぎぬばかりか
 と、忍びやかに、うちみじろきたまへるけはひも、袖の香も、「昔よりはねびまさりたまへるにやと」思さる
(第三章 末摘花の物語久しぶりの再会の物語 第四段 末摘花と再会)

3.4.11 年を経て待つしるしなきわが宿を 花のたよりに過ぎぬばかりか
(長年待っていた甲斐のなかったわたしの宿を、あなたはただ藤の花を御覧になるついでにお立ち寄りになっただけなのですね。)
3.4.12 と、忍びやかに、うちみじろきたまへるけはひも、袖の香も、「昔よりはねびまさりたまへるにや」と思さる。
(と、ひっそりと、身動きなさった気配も、袖の香りも、「昔よりは成長なされたか」とお思いになる。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第十五帖 蓬生
 第一章 末摘花の物語 光る源氏の須磨明石離京時代
  第一段 末摘花の孤独
  第二段 常陸宮邸の窮乏
  第三段 常陸宮邸の荒廃
  第四段 末摘花の気紛らし
  第五段 乳母子の侍従と叔母
 第二章 末摘花の物語 光る源氏帰京後
  第一段 顧みられない末摘花
  第二段 法華御八講
  第三段 叔母、末摘花を誘う
  第四段 侍従、叔母に従って離京
  第五段 常陸宮邸の寂寥
 第三章 末摘花の物語 久しぶりの再会の物語
  第一段 花散里訪問途上
  第二段 惟光、邸内を探る
  第三段 源氏、邸内に入る
(A-2図 源氏物語絵色紙帖 蓬生 詞・近衛信尋)の「詞」→
  第四段 末摘花と再会
(A-4図 源氏物語絵色紙帖 蓬生 詞・近衛信尹)の「詞」→
 第四章 末摘花の物語 その後の物語
  第一段 末摘花への生活援助
  第二段 常陸宮邸に活気戻る
  第三段 末摘花のその後

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=2602

源氏物語と「蓬生」(川村清夫稿)

【源氏には末摘花という不美人の愛人がいた。光源氏が明石に蟄居していた間、彼女の生活は困窮して、屋敷は荒れ放題になっていた。末摘花には叔母がいたが、その叔母も宮家出身だったが、受領階級の北の方(妻)になって階級が下がったことをひがんでいた。叔母は腹いせに、後見のない末摘花を引き取って、自分の娘たちの侍女にしようとたくらんでいた。夫が太宰大弐になった叔母は末摘花に大宰府へ同行するよう誘ったが、末摘花はいつか光源氏が助けに来てくれると信じて応じないので、末摘花の乳母子の侍従を連れて行ってしまった。ある夜、花散里を訪問しようとしていた光源氏は、偶然末摘花の屋敷に気が付いた。屋敷に生い茂る蓬(よもぎ)を踏み分けて久しぶりに再会した光源氏は、末摘花が自分のことを忘れないでいてくれたことに感動するのである。この再会の場面でプレイボーイの光源氏は、末摘花に実に調子のいい台詞を語りかけている。大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
「かかる草隠れに過ぐしたまひける年月のあはれも、おろかならず、また変はらぬ心ならひに、人の御心のうちもたどり知らずながら、分け入りはべりつる露けさなどを、いかが思す。年ごろのおこたり、はた、なべての世に思しゆるすらむ。今よりのちの御心にかなはざらむなむ、言ひしに違ふ罪も負ふべき」

(渋谷現代語訳)
「このような草深い中にひっそりとお過ごしになっていらした年月のおいたわしさも一通りではございませんが、また昔と心変りしない性癖なので、あなたのお心中も知らないままに、分け入って参りました露けさなどを、どのようにお思いでしょうか。長年のご無沙汰は、それはまた、どなたからもお許しいただけることでしょう。今から後のお心に適わないようなことがあったら、言ったことに違うという罪も負いましょう」

(ウェイリー英訳)
“I am afraid you have been having a very dull time, but pray give me credit for tonight’s persistence. It showed some devotion, did it not, that I should have forced my way into the heart of this tangled, dripping maze, without a word of invitation or encouragement? I am sure you will forgive me for neglecting you for so long when I tell you that for some while past I have seen absolutely no one. Not having received a word of any kind from you, I could not suppose that you were particularly anxious to see me. But henceforward I am going to assume, whether you write to me or no, that I shall not be unwelcome. There now! After that, if I ever behave badly again you will really have some cause to complain.”

(サイデンステッカー英訳)
”I can imagine that it has been uncommonly difficult for you these last few years. I myself seem incapable of changing and forgetting, and it would interest me to know how it strikes you that I should have come swimming through these grasses, with no idea at all whether you yourself might have changed. Perhaps I may ask you to forgive the neglect. I have neglected everyone, not only you. I shall consider myself guilty of breach of promise if I ever again do anything to displease you.”

 ウェイリー訳は原文にない描写もあり冗漫であるのに対して、サイデンステッカー訳の方が原文に忠実で簡潔でわかりやすい。
末摘花の律義さに感動した光源氏は彼女の後見を約束し、2年後に彼女を引き取るのである。この帖の末尾は紫式部のある種のユーモアがうかがえるので、ここに挙げておく。

(大島本原文)
かの大弐の北の方、上りて驚き思へるさま、侍従が、うれしきものの、今しばし待ちきこえざりける心浅さを、恥づかしう思へるほどなどを、今すこし問はず語りもせまほしけれど、いと頭いたう、うるさく、もの憂ければなむ。今またもついでにあらむ折に、思ひ出でて聞こゆべき、とぞ。

(渋谷現代語訳)
あの大弐の北の方が、上京して来て驚いた様子や、侍従が、嬉しく思う一方で、もう少しお待ち申さなかった思慮の浅さを、恥ずかしく思っていたところなどを、もう少し問わず語りもしたいが、ひどく頭が痛く、厄介で、億劫に思われるので、今後また機会のある折に思い出してお話し申し上げよう、ということである。

(ウェイリー英訳)
Her aunt’s astonishment when in due time she returned to the Capital – Jiju’s delight at her mistress’s good fortune and shame at the thought that she had not held out a little longer in the princess’s service – all this remains yet to be told. I would indeed have been glad to carry my story a little further, but at this moment my head is aching and I am feeling very tired and depressed. Provided a favorable opportunity presents itself and I do not forget to, I promise I will tell you all about it on some future occasion.

(サイデンステッカー英訳)
Though no one has asked me to do so, I should like to describe the surprise of the assistant viceroy’s wife at this turn of events, and Jiju’s pleasure and guilt. But it would be a bother and my head is aching; and perhaps – these things do happen, they say – something will someday remind me to continue the story.

 ウェイリー訳もサイデンステッカー訳も原文に一応忠実である。後者にあるassistant viceroyは大宰府の次官である太宰大弐の訳語である。大宰府は「遠の朝廷」(とおのみかど)と呼ばれた重要官庁なので、この訳語は的確だ。

 この帖で紫式部は光源氏の恋愛物語と、「落窪物語」のような継子いじめ物語のプロットを巧みに組み合わせているのである。 】


(「三藐院ファンタジー」その六)

 下記のアドレスで、この『源氏物語画帖』が、「49宿木から54夢浮橋」の六画面を外し、代わりに、「4夕顔・5若紫・6末摘花・10賢木・11花散里・15蓬生」を、何故に重複させて描かせたのであろうかということについて、『源氏絵の系譜(稲本万里子著・森話社)』の、次のような記述を紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-07

【 重複六場面には、光源氏が女性のもとを訪れる場面と、光源氏が女性の姿を垣間見る場面が描かれている。このような情景選択と長次郎の甘く優しい絵の表現から、「邸(やしき)の奥にいて男の訪れを待っていれば、物語のように幸せになることができる」という注文主のメッセージを読み取ることができる(注一)。 
 最後の場面である蓬生の絵(上記の「15蓬生」=後出)を見てみよう。荒れ果てた邸内にいるものの幸福そうな男女の姿を描き、光源氏の訪れによって、ようやく幸せになった末摘花のようすをあらわしている。このような場面で終わらせたのは、鑑賞者の幸せを願う注文主の思いが込められているからであろう。蓬生の詞書筆者は近衛信尹である。信尹は、薫と匂宮というふたりの男性のあいだで揺れた浮舟が、入水を果たせず倒れていたところを横川(よかわ)の僧都に助けられ、出家するという忌むべき場面を避け、娘太郎君のために制作させたのではないだろうか。
(注一)=稲本万里子「京都国立博物館保管「源氏物語画帖」に関する一考察―長次郎による重複六場面をめぐって―」『国華』一二二三、一九九七年九月。
(注二)=武田恒夫「土佐光吉と細画―京都国立博物館源氏物語図帖をめぐって―」『国華』九九六、一九七六年十二月。=この論稿が、《「1 桐壺(光吉筆)」から「34若菜(上・下) (光吉筆)」までが「光吉筆」で、「35柏木(長次郎筆)」から「48 早蕨(長次郎筆)」までが「長次郎筆」である。》ことを明らかにしたもので、(注一)などは、ここからスタートしている。 】(『源氏絵の系譜(稲本万里子著・森話社)』p66)

 さらに、下記のアドレスで、この『源氏物語画帖』の欠落部分の六帖(「49宿木・50東屋・51浮舟・52蜻蛉・53手習・54夢浮橋」)は、謡曲「浮舟」(その原典は『源氏物語』第四十九帖の「宿木」から第五十四帖「夢浮橋」)をモチーフとした「檜原図屏風」が、それらに取って代わるものではなかろうかということに触れた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-15

【 その欠落部分『源氏物語』(第四十九帖の「宿木」から第五十四帖「夢浮橋」)と、この「近衛信尹筆 檜原図屏風 素性法師歌屏風(上)」の、この「966 初瀬山夕越え暮れてやどとへば三輪の檜原に秋かぜぞ吹く(禅性法師)」の、その原典となっている、謡曲「浮舟」(その原典は『源氏物語』第四十九帖の「宿木」から第五十四帖「夢浮橋」)と見事に一致することになる。
 すなわち、近衛信尹にとって、『源氏物語画帖』(土佐光吉・長次郎筆:京博本)の欠落部分の、その「第四十九帖の「宿木」から第五十四帖「夢浮橋」までの六帖は、この「近衛信尹筆 檜原図屏風 素性法師歌屏風(上)」が、それに代わっているということになる。
 そして、この「近衛信尹筆 檜原図屏風 素性法師歌屏風(上)」の「素性法師歌屏風」は、より正確的には「素性法師由来歌屏風」ということになる。  】

 ここで、欠落部分の六帖(「49宿木・50東屋・51浮舟・52蜻蛉・53手習・54夢浮橋」)に代わって、新たに長次郎に描かせた重複六場面(「4夕顔・5若紫・6末摘花・10賢木・11花散里・15蓬生」)が、《「邸(やしき)の奥にいて男の訪れを待っていれば、物語のように幸せになることができる」という注文主のメッセージを読み取ることができる》という、先の
『源氏絵の系譜(稲本万里子著・森話社)』の見解について考察を加えたい。

4夕顔 → (「帚木」三帖の(「2 帚木」・「3 空蝉」・「4夕顔」)からは、「女性の幸せ」というのは微塵も感じられない。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-23

http://wakogenji.o.oo7.jp/sonota/arasuji.html

【源氏の君が、六条の御息所のところにお忍びで通う頃、夕顔の花の咲く家に住む美しい姫君に心惹かれ愛しあいますが、姫は御息所の生霊につかれ急死します。夕顔の姫君を失って悲しみにくれ、源氏の君は病の床につきます。 】

5若紫 → (ここの「若紫」は、「女性の幸せ」ということは別にして、例えば、この画帖の制作企画者=注文主が「近衛信尹」として、例えば、「愛娘・太郎(君)」ためのものとすることには、違和感はない。)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-25

【 土佐光吉と長次郎の画風の違い(『源氏絵の系譜(稲本万里子著・森話社)』)
 どちらも、光源氏が北山で美しい少女(のちの紫の上)を垣間見る有名な場面である。画面右上に少女のいる建物を、左下に光源氏と従者を配する構図は、両画面とも同じである。ただし、光吉の画面は、建物が左奥に続き、奥行を感じさせる構図になっている。簀子に立つ少納言の乳母と犬君、室内の尼君に立つ少女の視線は、左手の桜の花咲く山へと飛んでいく雀の子を追っている。そのようすを光源氏は、小柴垣の外から夢中になって覗いているようである。
 これに比べて長次郎の画面は、建物の傾斜の角度が小さく、平板な印象を与える。空間が多く、やや散漫ではあるが、背丈が低く頭部が大きな人物はかわいらしく、小柴垣を金泥線であらわすところは装飾的である。ふたり少女のうち、少納言の乳母の傍らに立ち、白い衣にまとっている法が紫の上かと考えられる。丹の衣をつけた犬君は伏籠をあけて、いかにも雀の子を逃がしてしのったように描かれており、ふたりの少女の違いをポーズや衣の色で表現している。つまり、光源氏が垣間見ている紫の上を、犬君とは区別し、目立たせているのである。
 長次郎の絵は、中間色を多用し、衣や調度の文様は繊細である。すやり霞のような細長い金雲も併用している。光吉に比べて画技の劣る分、細部を整えていく傾向があったと考えられる。こうした長次郎の画風は、光吉の次世代の土佐光則に受け継がれていくのである。 】

http://wakogenji.o.oo7.jp/sonota/arasuji.html

【 熱病を病んだ源氏の君は、祈祷のため京都北山の寺にでかけます。藤壷の中宮(義母)を心から慕う源氏の君は、そこで藤壷に大層よく似た面影の少女に出逢います。藤壷恋しさに、その少女を手元に引き取り理想の女性に育てたいと思いますが、一方、妻・葵の上とは、今だに心打ち解けることがありません。藤壷の中宮は、源氏の君との初めての逢瀬に、懐妊してしまいます。不義を知らぬ桐壺帝は、藤壷の懐妊を大層喜び、二人は自らの運命に恐れおののきます。 】

6末摘花 → 長次郎筆の「末摘花」の「詞」を書いたのは「青蓮院尊純」で、「近衛信尹」ではない。信尹は、長次郎筆の「蓬生」(「蓬生」の荒れ果てた屋敷でひっそりと住んでいる「末摘花」)の「詞」を書いているが、それは「末摘花」の「醜女」の容貌などには触れていない。それに対して、「花散里」の「画」(光吉筆)に対応する「詞」(太郎書)のコメントとして、『源氏絵の系譜(稲本万里子著』では、「容姿に恵まれない末摘花に準(なぞら)えられていたのだろうか」と、「末摘花=醜女=太郎(君)」と解する見解には「否」と解したい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-27

【 源氏物語と「末摘花」(川村清夫稿)
「源氏物語にきら星のごとく登場する美女ぞろいの光源氏の恋人たちの中で、末摘花は異色の醜女である。それだけに彼女の存在感は彼女たちの中でひときわ目立っている。
(その容貌は)→(渋谷現代語訳)まず第一に座高が高くて、胴長にお見えなので、『やはりそうであったか』と失望した。引き続いて、ああみっともないと見えるのは、鼻なのであった。ふと目がとまる。普賢菩薩の乗物と思われる。あきれて高く長くて、先の方がすこし垂れ下がって色づいていること、特に異様である。顔色は、雪も恥じるほど白くまっ青で、額の具合がとても広いうえに、それでも下ぶくれの容貌は、おおよそ驚く程の面長なのであろう。痩せ細っていらっしゃること、気の毒なくらい骨ばって、肩の骨など痛々しそうに着物の上から透けて見える。 】

http://wakogenji.o.oo7.jp/sonota/arasuji.html

【 常陸の姫君は、父親王に先立たれ後見もなく惨めに暮らしておりました。それを聞いた源氏の君は、大輔命婦の手引きで忍んでお逢いになりますが、いくら話しかけても全く返事を返さぬ姫に苛立ち、せめて美しいご容貌ならばと、ある雪の日、姫君の姿をご覧になりますと、その鼻が紅く長く垂れ下がり、大層醜い様子でした。源氏の君は、姫君を末摘花(紅花)と呼び、見るのも厭な気がしましたが、契りを結んだ姫君としてずっと後見することを決めます。】

10賢木 →この「賢木」のタイトルは、「源氏物語絵色紙帖 賢木 詞・太郎(君)」の《神垣はしるしの杉もなきものを いかにまがへて折れる榊ぞ」と、聞こえたまへば、「少女子があたりと思へば 榊葉の香をなつかしみとめてこそ折れ」》などに由来してのものなのであろう。この「少女子があたりと思へば 榊葉の香をなつかしみとめてこそ折れ」という一首は、この画帖の制作企画者=注文主が「近衛信尹」とすると、「愛娘・太郎(君)」をイメージしてのものという雰囲気で無くもない。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-05

しかし、《「邸(やしき)の奥にいて男の訪れを待っていれば、物語のように幸せになることができる」》などとは、まるで、別世界のストーリーである。

http://wakogenji.o.oo7.jp/sonota/arasuji.html

【 六条御息所の姫君が斎宮として伊勢に下る日が迫り、同行する御息所を引き留めようと、源氏の君は野宮を訪れますが、御息所のご決意は固くやがて出立なさいます。神無月に入り、桐壺院のご病気が重くなり、遂にご崩御なさいます。源氏の君は、里下がりの藤壷の中宮に熱い想いを訴えますが、中宮は強く拒否なさいます。源氏の君の愛を負担に感じた中宮は出家を決意し、故桐壺院の一周忌の法事の後、春宮に心を残しながら、黒髪を切り出家してしまいます。朱雀帝の御代となり右大臣の勢力下で、源氏の君は全てが厭にお思いになります。その頃、朱雀帝の寵愛を受ける尚侍の君(朧月夜)は源氏の君と忍んで逢瀬を重ねていました。ある雨の激しい夜、二人は右大臣に見付かってしまい、弘徽殿の女御の逆鱗にふれます。弘徽殿の女御は、これを機会に憎い源氏の君を政界から葬ることを考えます。】

11花散里→「花散里」の「画」(光吉筆)に対応する「詞」(太郎書)は、この画帖の制作企画者=注文主の「近衛信尹」の「愛娘・太郎(君)」へのメッセージ(「花散里のように温和で家庭的であって欲しい)なのかも知れない。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-07

【「A-2図 源氏物語絵色紙帖 花散里 詞:近衛信尹息女太郎(君)」について、『源氏絵の系譜(稲本万里子著・森話社)』では、「力強い書風である。太郎君は、数えで九歳のときに麻疹(ましん)を患っている。容姿に恵まれない末摘花に準(なぞら)えられていたのだろうか」とコメントしている(p67)。】→ 【しかし、「花散里」の「画」(B-1図・光吉筆)に対応する「詞」(B-2図・太郎書)のコメントとして、『稲本・前掲書』の、「容姿に恵まれない末摘花に準(なぞら)えられていたのだろうか」は、やや飛躍過ぎという雰囲気で無くもない。
 そして、「花散里は紫上のような美女でもなければ、末摘花のような醜女でもない、普通の容貌の持主であった。ただし温和で、家庭的な性格だった」(「川村・前掲稿」)ということに着目しての、何らかのコメントが付加されるというように解したい。】

http://wakogenji.o.oo7.jp/sonota/arasuji.html

【ある日、麗景殿の女御の妹君(花散里)を訪ねる途中、中川の辺りで美しい琴の音に耳を留め、それが昔愛した女性の家だと思い出している折、ほととぎすが鳴いて渡ります。昔を懐かしみ、逢いたいと申し入れますが、逢えずに引き下がります。麗景殿の女御の御邸で、橘の花の薫るなか、故桐壺院のことがしみじみと偲ばれ、女御と昔話をして心慰めます。そして妹の姫君と愛を交わします。】

15蓬生 → 《「15蓬生」を見てみよう。荒れ果てた邸内にいるものの幸福そうな男女の姿を描き、光源氏の訪れによって、ようやく幸せになった末摘花のようすをあらわしている。このような場面で終わらせたのは、鑑賞者の幸せを願う注文主の思いが込められているからであろう。蓬生の詞書筆者は近衛信尹である。信尹は、薫と匂宮というふたりの男性のあいだで揺れた浮舟が、入水を果たせず倒れていたところを横川(よかわ)の僧都に助けられ、出家するという忌むべき場面を避け、娘太郎君のために制作させたのではないだろうか。(『源氏絵の系譜(稲本万里子著・森話社)』p66) 》の、この画帖は、「信尹」が娘「太郎君」のために制作させたのではないだろうか」という見解に関しては「是」としたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-05

【 ところで、この太郎が揮毫した二面(「賢木」と「花散里」)のうち「賢木」の手本が、陽明文庫に伝損している。無論、手本というのは信尹の筆。源氏が野宮、斎宮とともに伊勢に下るという六条・御息所を訪ねて、二人が和歌を贈答する場面である。後半の行取り若干の違いはあるが、漢字も仮名の字母も同一で、全く同じ字形である。つまり、原本と写しの関係。しかし、手本通りに書くのはなかなか難しい。どうしても文字が大きくなる。「をとめごは……」の和歌をお手本通りに入れるスペースがなくなってしまった。また曲線がうまく運筆できない太郎は、花押に苦労した様子である(※「そもそも女性が花押むを用いること自体が珍しいのであるが」)。とまれ、信尹の手本と太郎が書いたものの図版を並べて見ていると、太郎の真剣な表情が浮かんでくるようであり、ほほえましい限りである。やはり幼さが際立つこと歪めない。 (『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p170-p171)

太郎には無論生母もいたが、どんな事情があったのか、父親である信尹が太郎の成長に対して心を砕いているようだ。折に付け、事に付け、楊林院を頼っているふしもある。太郎は同性の先達として楊林院に近づけてやりたい、そのような三者の関わりが思われるのである。 姫であれば、信尹にとって太郎はまさに鍾愛の珠である。わずかのことでも傷がついてしまいそうな、はかなげで純真無垢の珠である。あるいは生来の病弱、蒲柳の質であったのだろうか。それゆえに、信尹は太郎に男子の鎧を着せて、守ってやりたいと思う。太郎という男児の名前も、花押を用いた男性的な書状も、いわゆる変成男子(へんじょうなんし=古来、女子(女性)は成仏することが非常に難しいとされ、いったん男子(男性)に成ることで、成仏することができるようになるとした思想)の願望の所産であったか、と想像力を働かせてしまうのであるが、いかがであろう。それゆえに、信尹は自分の死後も、太郎が近衛家という楽園で安寧に過ごすことを思案したのではなかろうか。 (『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p174)   】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-07

【 重複六場面には、光源氏が女性のもとを訪れる場面と、光源氏が女性の姿を垣間見る場面が描かれている。このような情景選択と長次郎の甘く優しい絵の表現から、「邸(やしき)の奥にいて男の訪れを待っていれば、物語のように幸せになることができる」という注文主のメッセージを読み取ることができる(注一)。 
 最後の場面である蓬生の絵(上記の「15蓬生」=後出)を見てみよう。荒れ果てた邸内にいるものの幸福そうな男女の姿を描き、光源氏の訪れによって、ようやく幸せになった末摘花のようすをあらわしている。このような場面で終わらせたのは、鑑賞者の幸せを願う注文主の思いが込められているからであろう。蓬生の詞書筆者は近衛信尹である。信尹は、薫と匂宮というふたりの男性のあいだで揺れた浮舟が、入水を果たせず倒れていたところを横川(よかわ)の僧都に助けられ、出家するという忌むべき場面を避け、娘太郎君のために制作させたのではないだろうか。
(注一)=稲本万里子「京都国立博物館保管「源氏物語画帖」に関する一考察―長次郎による重複六場面をめぐって―」『国華』一二二三、一九九七年九月。
(注二)=武田恒夫「土佐光吉と細画―京都国立博物館源氏物語図帖をめぐって―」『国華』九九六、一九七六年十二月。=この論稿が、《「1 桐壺(光吉筆)」から「34若菜(上・下) (光吉筆)」までが「光吉筆」で、「35柏木(長次郎筆)」から「48 早蕨(長次郎筆)」までが「長次郎筆」である。》ことを明らかにしたもので、(注一)などは、ここからスタートしている。(『源氏絵の系譜(稲本万里子著・森話社)』p66) 】

http://wakogenji.o.oo7.jp/sonota/arasuji.html

【 源氏の君が須磨に退いていた間、末摘花は大層貧しく惨めにお過ごしでした。叔母からの九州に下る誘いも断り、ただ源氏の君のお帰りを待ち続けておりました。ある日、源氏の君は大層荒れ果てた御邸で末摘花と再会します。信じて待ち続けた末摘花を愛しく想った源氏の君は、ずっと援助することを決めます。  】
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yahantei

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-05



【この信尹の跡を継ぐ「近衛信尋」について、
【慶長4年(1599年)5月2日生。幼称は四宮(しのみや)。母は近衞前久の娘・前子。母方の伯父・近衞信尹の養子となり、信尹の娘(母は家女房)を娶る。しかし妻は青侍と密通する等仲は悪く、死去寸前の徳川家康に仲立ち依頼等を行うも、結局は別居となる。】(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

この「信尹の娘(母は家女房)を娶る」の、「信尹の娘」が、これぞ、「太郎」とすると、これは、これこそ「三藐院ファンタジー」の形相を呈して来る。

そして、「しかし妻は青侍と密通する等仲は悪く、死去寸前の徳川家康に仲立ち依頼等を行うも、結局は別居となる」というのは、ここに、徳川家康が登場して来ると、「晩年の徳川家康を支えた側室の「阿茶局」(一五五五~一六三七)」と、どうにも謎に包まれた「楊林院」、そして、【(慶長十四年) 同月(八月)二十日には所司代の板倉(板倉勝重)、翌(九月)十一日には女院(後陽成天皇の生母の新上東門院=勧修寺晴子))の使者帥局と女御(後陽成天皇の女御=信尹の同母の妹=信尋の実母=近衛前子)の使者右衛門督および楊林院(柳原淳光後室)の三人が駿府に向けて出発した。(p37)】の、「女御(後陽成天皇の女御=信尹の同母の妹=信尋の実母=近衛前子)」は、その「三藐院ファンタジー」を解明していく、そのキィーともなるものであろう。】

(続き)

 信尹が亡くなったのは「慶長19年(1614)年12月25日」、家康が亡くなったのは「元和2年1616)4月17日」、信尋と太郎(君)が夫婦として、「しかし妻は青侍と密通する等仲は悪く、死去寸前の徳川家康に仲立ち依頼等を行うも、結局は別居となる」というのは、信尹が亡くなって、家康が亡くなる「元和2年1616)」の頃なのであろうか。
 信尹が亡くなる一年前の、「慶長18年(1613)年11月11日」の「信尹公御書置」の、その遺言は、何処となく、「信尋と太郎(君)」の二人の関係を暗示しているようで、信尹の生存中にも、その兆候があったのであろうか。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-05


【【今宵、死に候わば、
一 葬礼は黄金(きがね)二枚にて東福寺にてごたごたと焼かせ、少しなりとも坊主どもに取らせ候ようにし候べく候。引導(いんどう)は、韓長老(文英清韓)、ただし引導に及ばず。
一 三百石は、太郎殿、信尋と仲悪くなり候わば、四百石、太郎の一世の分なり。その後は家の知行。
 御霊殿の知行は五十石ばかり候。是は家へ御返し候べく候。光様(光照院)参る。
一 物の本どもは、太郎に取らせ候外、みな、信尋の本たるべし。
一 宣旨(せんじ)事、思し召し寄り候程、信尋より合力候べく候。太郎に知行分け候内にても苦しからず候へども、人を使い候程の心持ち召され候べく候。
    (中略)
 慶長十八(年)霜月十一日             信尹(花押)
宣旨
女御さまにて
  人々御中     】
(『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p150-p153)

 この慶長十八年には、信尋、十五歳、そして、太郎(君)は十六歳、そして、この遺言書の宛名の一人「女御」(「後陽成天皇の女御、信尹の同母の妹、信尹の養嗣子となっている信尋の生母」)の「前子」fは、三十九歳である。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-09

【(近衛信尋の生涯)
慶長4年(1599年)5月2日生。幼称は四宮(しのみや)。
慶長10年(1605年)、元服し正五位下に叙せられ、昇殿を許される。
慶長11年(1606年)5月28日、従三位に叙せられ公卿に列する。
慶長12年(1607年)に権中納言。
慶長16年(1611年)に権大納言。
慶長17年(1612年)には内大臣。。
慶長19年(1614年)に右大臣。
元和6年(1620年)に左大臣。
元和9年(1623年)には関白に補せられる。
正保2年(1645年)3月11日、出家し応山(おうざん)と号する。
慶安2年(1649年)10月11日薨去、享年51。

(「太郎(君)」関連)

B 辰下刻(午前九時過ぎ)、女子生。慶長三年(一五九八)五月六日条・信尹三十四歳
C 晴、愛娘ハシカ出。慶長十一年(一六〇六)正月五日条・信尹四十二歳 

この「B・C」の「子・愛娘」が、「太郎(君)」とすると、「信尋」は一歳年下になる。】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-05

【太郎には無論生母もいたが、どんな事情があったのか、父親である信尹が太郎の成長に対して心を砕いているようだ。折に付け、事に付け、楊林院を頼っているふしもある。太郎は同性の先達として楊林院に近づけてやりたい、そのような三者の関わりが思われるのである。
 姫であれば、信尹にとって太郎はまさに鍾愛の珠である。わずかのことでも傷がついてしまいそうな、はかなげで純真無垢の珠である。あるいは生来の病弱、蒲柳の質であったのだろうか。それゆえに、信尹は太郎に男子の鎧を着せて、守ってやりたいと思う。太郎という男児の名前も、花押を用いた男性的な書状も、いわゆる変成男子(へんじょうなんし=古来、女子(女性)は成仏することが非常に難しいとされ、いったん男子(男性)に成ることで、成仏することができるようになるとした思想)の願望の所産であったか、と想像力を働かせてしまうのであるが、いかがであろう。それゆえに、信尹は自分の死後も、太郎が近衛家という楽園で安寧に過ごすことを思案したのではなかろうか。 】(『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p174)



http://www.asahi-net.or.jp/~tu3s-uehr/kisoen-01.htm#:~:text=%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E7%B5%90%E5%A9%9A%E5%88%B6%E5%BA%A6,%E3%81%AF%E5%A4%AB%E3%81%8C%E6%8C%99%E3%81%92%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%82&text=%E4%BA%8C%E3%81%A4%E7%9B%AE%E3%81%AF%E3%80%81%E5%A5%B3,%E3%81%AA%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%81%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82

【  <源氏物語の結婚について>

 平安時代の結婚制度の特徴として招婿婚と一夫多妻制というのが挙げられる。招婿婚とは婿を招く結婚形態のことをいう。また、一夫多妻制は夫が挙げられる。招婿婚とは婿を招く結婚形態のことを言う。また、一夫多妻制は夫が多数の妻妾を持つことである。

その多数の妻妾の中で特に地位や権威が高く他の妻達をうまくまとめることのできる女性は正妻となり男の邸に入り、家刀自として家全体の経営を行うのである。正妻になると弘徽殿の女御と桐壷の更衣・葵の上と六条御息女のように他の妻との間で対立が起こりやすくなるのである。

 当時、結婚についての規則、婚姻令が定められていた。その内容は、まず一つ目には男は十五歳、女は十三歳以上に達しなければ婚姻は許されない、というものである。平安時代は早婚であったので一般的に男性が十七、十八歳前後で、女性は十三歳くらいで結婚していたのである。二つ目は、女の結婚にあたっては特にその祖父母・伯叔父母・兄弟・外祖父母の承諾を得なければならない、というものである。その為親兄弟の反対を押し切って自分の気持ちに任せてこっそりと恋愛沙汰に走るのはとんでもないことであった。三つ目は、結婚には媒人を必要とする、というもの。四つ目は、正妻を有する者がさらに他の女を正妻としてめとることは許されない、というものである。一夫多妻制であったため、妻と妾を区別し、妻のほかに妾は何人持とうとかまわなかったが正妻は一人のみに限られていたのである。

当時の結婚生活は男女がそれぞれ別々に生活し夫が妻の家へ通う「通い婚」が一般的であった。しかし妻が孤児同然であったような場合には夫の家に同居することもあったのである。当時は結婚するために役所へ届を出したりする現代とは大きく異なり、男性も女性も経済的に独立していたので、比較的自由に行われていた。なので、結婚において重要なのは経済力ではなく愛情だったのである。つまりすべては男性と女性の心のままにつながったり、切れたりするのであった。

 平安時代の婚姻成立までの過程は今とはまったく違い、なかなか大変なものであった。まず、当時の女性は顔を見せないようにしていた為男性は「垣間見」(のぞき見)や世間の噂から意中の女性を見つけるのである。そしてその女性に「懸想文」といわれる恋文を贈り相手の女性から承諾の手紙をもらい、女房に手引きを頼んで吉日の夜にその女性の部屋へと行くのである。一夜を共にした後「後朝の歌」を贈答し、三日間続けて女性のところに通うのである。そして三日目に「露顕の儀」「三日夜の餅の儀」などを行って初めて婚姻が成立するのである。ここで注意しなくてはならない点は男性は三日間続けて女性の所に通わなければならない、という点である。三日間ではなく一夜限りの関係では単なる浮気、とみなされてしまうからである。「三日夜の餅の儀」とは三日目の朝に「三日夜の餅」という祝餅が届けられ、催される盛大な宴のことである。

 貴族の子弟は意中の女性を見つけるため、どこぞに美しい女性がいるらしい、という噂にはたいそう敏感であった。その噂の出所はどこなのであろうか。それは姫君の周囲からそれとなく流されることが多く、身分の高い姫君の場合にはその父や兄がこれぞとおもう人に対してそれとなく言うこともあったのである。また、姫君の周囲に仕える乳母や他家へ出入りする女房たちが意識的に噂を流して関心を引く場合もあった。

 男から女への求愛の手紙懸想文は人の眼にふれる前に乳母や女房たちによって検討されるのである。母親が加わることもある。その時、手紙の文章や和歌が巧みかどうか、字は上手いか、身分や姫君たちとの関係やこれからの出世の見通し、性格なども調べられるのである。以上の結果よしとなればその手紙は女のもとへ渡されるのである。

 当時の貴族社会では、女性は、人目を避けるのがたしなみとされ、同世代の男性が直接に、適齢期の女性と知り合う事はまれであった。男性は、まず女性の風聞を耳にしたり、苦労の末の垣間見によってその容色を知り、求婚の歌や手紙を送った。女は最初女房の代筆の返事を送り、交渉の進展によって、自筆のものを送った。やがて、親達の同意を得、男が夜女のもとを訪れ、契りを結ぶ。翌朝、男が女の元にふみを送る。これを後朝のふみという。早く届けられるのが、誠意の証とされた。三晩にわたって、男が女のもとに通うのが男の結婚の意志をあらわす事であった。一晩二晩で通わなくなる男もいたわけである。

男が最初に訪れた際に従者が手にしていた松明の灯は、閨の帳前の灯台に移して、三日消さずに灯し続けた。これは結婚の成就を期す女の家の願いを表す風習であった。また男が

通ってきた夜に、女の両親が男の靴を抱いて寝る習慣も、同様である。三日目の夜は、三日夜の餅を供え、夜が明けて、露顕という、女の両親や親類知己との対面があり、祝宴が行われた。ここに結婚が成立するのである。当時、わが国でも古代中国の制度により、法令に規定された結婚年齢は男子15歳、女子13歳以上であったが、平安中期以降、貴族社会では次第に早婚となり、不自然なまでに年齢は低下した。】


比較日本学教育研究部門研究年報 第14号
『源氏物語』と平安時代の婿取婚(「胡潔」稿)

この論稿が、「信尹が信尋を養子にした」ことの、必須の文献となってくる。

by yahantei (2021-05-18 16:07) 

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