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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その二十三) [岩佐又兵衛]

(その二十三) 「九か所の若松:その五: 五条通・扇屋」周辺など

五条通・扇屋周辺.jpg

「五条通・扇屋:裏手『検校邸の三人』周辺」(左隻第二扇)→「五条通・扇屋周辺その一図」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=044&langId=ja&webView=null

 前回(その二十二:「九か所の若松:その三と四・五条寺町」)の「五条大橋西詰・扇屋周辺その一図」を二条城の方へと西進すると、この賑やかな「五条通」の「扇屋」の場面となる。
 こちらの「五条通の扇屋」が、前回の「五条寺町の扇屋」の本店ということで、仮名草子の『竹斎』に出てくる「五条は扇の俵屋」の、前回に詳説した「俵屋絵〈鹿一疋 紅葉二三枚無枝〉」を描いた絵師「俵屋宗達」の本拠地の「絵屋・扇屋」なのかも知れない。
 その右の店舗は「漆器・塗師」の「五十嵐家」の出店、そして、その左の角地の「反物屋・呉服屋」は、「本阿弥光悦・俵屋宗達」グループの、後の「琳派」の中心人物となる「尾形光琳」の生家「雁金屋(尾形道柏=祖父・宗謙=実父)」の出店なのかも知れない。
 この「五条は扇の俵屋」の前(五条通)を往来する編み笠を被った三人の女性は、「熊野比丘尼」(絵解き比丘尼)で、小脇にかかえている箱は、その絵解き箱で、中には「熊野参詣曼荼羅」や「観心十界図」などが入っている。この三人の「熊野比丘尼」の後ろに、「熊野比丘尼」姿の、袋を背負い、手に柄杓を持った少女が描かれている。この柄杓は、その祈祷の「喜捨の小銭」を受け取るものなのであろう。
 この「五条通」、「室町通」そして「五条新町通」などには、「歩き巫女、鉦叩き、鉢叩き、山伏、鐘鋳(かねい)勧進、琵琶法師、猿曳」などの多様な「遊行者・芸能者」が描かれている。この図の右端の男も、「山伏」の「遊行者」で、その左脇の三人の武家の一人が、何やら、小銭を喜捨する仕草をしているようである。

五条通・琵琶法師.jpg

「五条通・裏手『検校邸の三人』周辺」(左隻第二扇)→「五条通・扇屋周辺その二図」

 この「五条通・扇屋周辺その二図」は、先の「五条通・扇屋周辺その一図」の上部を拡大した部分図である。
「琵琶法師が一人、それを聞き入っている数寄者が二人」という図で、ここに「若松」が生えっている。「名札」(貼紙)には、「〇〇やくけんきよう」(『近世風俗譜四)洛中洛外(二)p142』とあり、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)p238-241』では、「高山検校」(高山丹一検校)とし、慶長十八年(一六一四)の「大久保長安事件」(江戸初期の金山奉行で、死後、不正があったとされ、遺子全員が粛清され一家断絶となった事件。その事件の際、出入りしていた高山丹一検校などの座頭も連行され、当時の勘定奉行の松平正綱、金座主宰者の後藤庄三郎などの尽力により赦免された事件。この事件の背後には、時の老中の大久保忠隣と本多正信の激烈な派閥争いがあったとされている)、その高山丹一検校が赦免され心置きなく琵琶を奏でている姿として説明している。
 これらのことに関しては、下記のアドレスでは、下記のとおり記述した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-16

【この扇屋は、元和七年(一六二一)頃に出版された古活字版仮名草子『竹斎』(医師富山〈磯田〉道冶作)に出てくる「五条は扇の俵屋」と一致する感じで無くもない。とすると、その裏手に描かれている、俳諧師のような数寄者風情の一人は、「俵屋宗達」、そして、もう一人の人物は、「本阿弥宗達」と解しても、「三藐院ファンタジー」的な「謎解き」としては、許容範囲の内ということになろう。】

 ここに、その『竹斎』(医師富山〈磯田〉道冶作)に出てくる「石村検校参られて、歌の調子を上げにけり」(『仮名草子集(日本古典文学大系90)』所収の「竹斎」(前田金五郎校注)P97)の、その「石村検校」を、この「五条通・扇屋周辺その二図」の三人のうちの一人に付け加えたいのである。

【石村検校(いしむらけんぎょう)
生没年不詳。室町末期(16世紀後半)に琵琶法師(びわほうし)から三味線演奏家に転じ活動したといわれる。盲人。石村検校を三絃(さんげん)の最初の取扱い者としたものに次の諸記録がある。
 文禄(ぶんろく)年間(1592~96)琉球(りゅうきゅう)(沖縄)に渡り、京都へ帰ってから三味線をつくりだしたという『糸竹初心集』の記述。琉球へ漂着した梅津少将が月琴を学び、1562年(永禄5)帰国後、その子石麻呂(のち盲官を得て石村検校)が月琴を改良して三味線をつくったとする『琉球年代記』の説。そして文禄のころ堺(さかい)中小路に住む石村検校が琉球から渡来した二絃の蛇皮線を改良して三線と名づけたとする『野河検校流三線統系序』の記述。ほかに『海録』などの諸書にもみえる。
 また、三味線組歌の本手の最初の作曲者といわれる。[林喜代弘]『藤田徳太郎著『三絃の免許状』(『東亜音楽論叢』所収・1943・山一書房)』▽『吉川英史著『三絃伝来考』(『三味線とその音楽』所収・1978・音楽之友社)』】(出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

 ずばり、「三藐院ファンタジー」的な「謎解き」は、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)p238-241』の、その「高山検校」(高山丹一検校)を、この「石村検校」に置き換えて、俳諧師のような数寄者風情の二人は、『俵屋宗達』と『本阿弥光悦』とする」は、敢えて、そのままにして置きたい。
 この「高山検校」を「石村検校」に置き換えることは、仮名草子『竹斎』に、「五条の俵屋」「本因坊(算砂)」そして「石村検校」の三点セットで登場してくることの他に、この「石村検校」が、この「舟木本」で、「座頭と瞽女(ごぜ)」あるいは「遊女かぶき」などで数多く描かれている「三味線」を作った琵琶法師として夙に知られているからにこと他ならない。
 このことに関しては、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)p61-65』でも、「三味線の流行」という一項目を起こし、詳細に記述されているのだが、「この楽器を最初に手にしたのは、それまで琵琶を弾いていた『当道(とうどう)』の盲人の音楽家たち」(『国史大辞典』と『日本史大事典』の『三味線』の記述の合成・要約)と、この「石村検校」は出て来ない。
 さらに、上記の「石村検校」に関する「琉球へ漂着した梅津少将が月琴を学び、1562年(永禄5)帰国後、その子石麻呂(のち盲官を得て石村検校)が月琴を改良して三味線をつくったとする『琉球年代記』の説」の「梅津少将」は、「大納言久我敦通の子の通世を父に持つ梅津少将(梅渓中将とも)」のことで、この説からすると、中世以後「当道座(男性盲人の自治的互助組織)の本所」としている村上源氏(中院流)の総本家「久我家」に連なる人物で、この「舟木本」と深い関わりがあると思われる「烏丸光広」とも近い関係にある人物ということになる。

祇園・竹の坊.jpg

「祇園・竹の坊」(「右隻」第四扇上部)→「祇園周辺その一図」

 この「祇園周辺その一図」は、「舟木本」の「右隻」第四扇の上部に描かれている「祇園竹の坊」(祇園三院五坊の一つ)で、「柵の中では男たちが蹴鞠(けまり)を、奥の部屋では、僧侶を相手に囲碁を楽しんでいる」図である。
 『竹斎』(医師富山〈磯田〉道冶作)の、「石村検校」関連のものは、この「蹴鞠」に関する記述の中が出だしで、そこに、狂歌師・俳諧師の藪医師「竹斎」の、次の狂歌が記されている。

 下手の蹴る 鞠はぜんしゆう(禅宗)の生悟(なまさとり)
               ありといへども 当(あた)らざりけり

 この狂歌の「ぜんしゅう」は、「禅宗」と「禅衆」とが掛けられており、この「あり」は、掛け声の「あり」と、禅宗の「有見」(あり=うけん)とを掛け、「有見」とは、「すべて存在するものには実体(我)があって、その実体は常住不変であると執着する考え」(『精選版 日本国語大辞典』)の意、「当(あた)らざりけり」(「ちんぷんかんぷん」)との、禅問答を揶揄している一首と解したい。
 この「蹴鞠」の「蹴鞠道家元」としての地位を、徳川家康から与えられているのが、藤原北家師実流(花山院家)の「飛鳥井家」で、これまた、「烏丸光広」とは極めて近い関係にある。

祇園・梅の坊.jpg

「祇園・梅の坊」(「右隻」第四扇上部)→「祇園周辺その二図」

 先の「祇園竹の坊」の前方(南側)に、この「祇園梅の坊」が描かれている。もともと「坊」とは、僧侶が生活する建物のことであるが、「祇園竹の坊」と同じく、単なる参拝の場所ではなく、「囲碁・連歌・蹴鞠」、そして、「酒食をもてなす遊興・娯楽施設」の場所として利用されているということであろう。
 『竹斎』の中で、「石村検校」が登場するのは、先の「蹴鞠」の場の後、「遊女遊君集りて、若き人々打交り、三味線胡弓に綾竹や、調べ添へたるその中に、石村検校参れて、歌の調子を上にけり」の、上記の「祇園梅の坊」では、その前座の「三味線」だけ見えるが、この後に繰り広げられる、「石村検校」の「三味線」に合わせての「地唄・端唄・小唄」の場面と続くのであろう。

「情(なさけ)は、今の思ひの種よ。辛きは後の深き情(なさけ)よ」

 これは、この「竹斎」の先行的な仮名草子の『恨の介』(『仮名草子集(日本古典文学大系90)』所収)に「当世流行(はや)る小唄共」に出てくる「福助本阿国歌舞伎草子」の一節のようである。
 これらの、三味線音楽の「地唄・長唄・浄瑠璃・端唄・小唄」などは、下記のアドレスなどが参考となる。

http://hectopascal.c.ooco.jp/note_3-5.htm

 ここで、冒頭の「五条通・扇屋周辺その一図」に戻って、この「五条は扇の俵屋」の建物は、町家の建物としは最上級の「桟瓦葺」(本瓦葺きの弱点である重量対策として、平瓦と丸瓦を一体化させた波型の桟瓦を使用した屋根の葺き方)で、トップクラスの建物である。
 これらのことに関して、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)p218-220』で、「舟木本」に描かれている建物の屋根を、次の六分類で考察している。

① 檜皮葺 → 内裏・二条城の御殿、清水寺・豊国社・祇園社などの建物
② 本瓦葺 → 二条城の天守・内裏の築地塀、方広寺大仏殿・東寺・東西本願寺など
③ 桟瓦葺 → 町家(右隻=一軒、左隻=十軒)
④ 柿葺(こけらぶき) → 町家
➄ 板葺  → 町家
⑥ 藁葺  → 例外的(祇園社の茶屋、四条河原の小屋など)

 町家は、この分類の「③~➄」で、上記の「五条通・扇屋周辺その二図」ですると、一番手前の「扇屋(俵屋)」の屋根が「③桟瓦葺」、「(石村)検校」が琵琶を弾いている家は「④ 柿葺」、そして、その右側の町家は「➄板葺」で、この図は、その三種類の「屋根」が見事に使い分けされている。
 この「③桟瓦葺」の「扇屋(俵屋)=俵屋宗達の店舗」の建物は、前回(その二十二)の(参考その二)の、《宗達の俗姓は蓮池氏、或いは喜多川氏。俵屋という屋号を持つ京都の富裕な町衆の系譜にある絵師で先祖には蓮池平右衛門尉秀明、喜多川宗利などがあった。同人は1539(天文8)年には狩野一門の総帥である狩野元信とともに当時の扇座を代表する座衆であった。また36(天文5)年に生起した天文法乱の敗北によって京都を追われた日蓮法華宗本山が京都に還住が許された際、頂妙寺旧境内地の全てを買い戻して50(天文19)年、亡妻の供養のために頂妙寺に寄進した富裕な日蓮法華衆としても知られる。つまり俵屋は代々絵屋を家職とした一門の屋号であり、宗達はその工房を継承した絵師である。》というイメージが濃厚となってくる。
 同時に、その(参考その一)の、「烏丸光広と仮名草子『竹斎』そして仮名草子作者としての『烏山光広』」(下記「再掲」)に、先の(その二十一)、「二条城前・戻り橋の橋占と家族など」で触れた「一条戻り橋」が、当時「二条戻り橋」で紹介されている仮名草子『仁勢物語』(第二十五段)の、その『仁勢物語』の作者も「烏丸光広とする説」(柳亭種彦「好色本目録」等)があり(明白な誤伝とされているが)、やはり、『竹斎』そして『仁勢物語』などの仮名草子と烏丸光広とは何らかの深い関わりがあることを特に付記して置きたい。

(再掲)

(参考その一)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-29

(関連参考メモ)

【 そして、この「俵屋」は、その文章の前の所に出てくる、「帯は天下にかくれなき二条どおり(通り)のむかで屋(百足屋)」「づきん(頭巾)は三でう(三条)から物や(唐物屋)甚吉殿」「じゆず(数珠)は四条の寺町えびや(恵比寿屋)」、そして、「五条は扇の俵屋」というのである。 
 これは、『源氏物語』(夕顔巻)の、二条に住んでいる光源氏が五条に住んでいる夕顔を訪れる、その道行きを下敷にして、当時の京都の人気のブランド品を売る店(二条は帯の百足屋、三条は頭巾の唐物屋、四条は数珠の恵比寿屋、五条は扇の俵屋)を紹介しているだけの文章の一節なのである。
 この「五条の扇の俵屋」の主宰たる棟梁格の人物が、後に「法橋宗達(または「宗達法橋)」となる、即ち、上記の醍醐寺の「紙本墨画芦鴨図」を描いた人物なのかどうかは、全くの未詳ということで確かなことは分からない。
 と同様に、この『竹斎』という仮名草子(平易なかな書きの娯楽小説)の作者は、「富山道冶」(「精選版 日本国語大辞典」「日本大百科全書(ニッポニカ)」「デジタル大辞泉」「ブリタニカ国際大百科事典」)=「磯田道冶」(『宗達(村重寧著)』『宗達絵画の解釈学(林進著)』)の「富山」と「磯田」(同一人物?)と大変に紛らわしい。
 さらに、「作者は烏丸光広(1579‐1638)ともされたが,伊勢松坂生れ,江戸住みの医者磯田道冶(どうや)(1585‐1634)説が有力」(「世界大百科事典 第2版」「百科事典マイペディア」)と、宗達と関係の深い「烏丸光広」の名も登場する。
 そもそも『竹斎・守髄憲治校訂・岩波文庫』の、その「凡例」に「辨疑書目録に『烏丸光広公書作 竹斎二巻』とあつて以来作者光広説が伝えられてゐる」とし、校訂者(守髄憲治)自身は、光広説を全面的に否定はしてない記述になっている。
 そして、この烏丸光広は、「歌集に『黄葉和歌集』、著書に『耳底記』・『あづまの道の記』・『日光山紀行』・『春のあけぼのの記』、仮名草子に『目覚草』などがある。また、俵屋宗達筆による『細道屏風』に画賛を記しているが、この他にも宗達作品への賛をしばしば書いている。公卿で宗達絵に賛をしている人は珍しい。書作品として著名なものに、『東行記』などがある」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)と、「仮名草子」の代表作家の一人として遇せられている(「百科事典マイペディア」)。
 当時(元和八年=一六二二)の光広は四十四歳で、御所に隣接した「中立売門」(御所西門)の烏丸殿を本拠地にしていたのであろう。下記の「寛永後萬治前洛中絵図」(部分図・京都大学附属図書館蔵)」の左(西)上部の「中山殿」と「日野殿」の左側に図示されている。
 「烏山殿」は、その御所(禁中御位御所)の下部(南)の右の「院御所」の左に隣接した「二条殿」と「九条殿」(その下は「頂妙寺」)の間にもあるが、「中立売門」(御所西門)の「烏丸殿」が本拠地だったように思われる。 】
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yahantei

 前回の「コメント」欄に次のように記した。

【 天がした穏やかにして山も動ぜず。峰の松平かにして風静かに治まり、国家慶び長き時とかや。」『仮名草子集(日本古典文学大系90)』所収の「竹斎」(前田金五郎校注)p91

 この「峰の松平かにして」は、「徳川氏の本姓松平家」を掛けての用例で、その「松平家」の継承が、「松平忠直」の父の「松平(結城)秀康」(徳川家康の次男)ということに他ならない。
 そして、この「国家慶び長き時とかや」は、「慶長」の年号を掛けての用例で、この「舟木本」の成立時期と深く関わってくる。】



それに、続けたい。

【 誰もさぞうれしかるらむ君が代の恵みに逢へる天が下人
(出典)黄葉集 1318 祝部
(歌意)だれもがさぞうれしいであろう。後陽成天皇の恩恵を受けて生きているこの世の中の人々は。
 光広は大納言に昇進する家柄の子息なので、五歳から侍従という職に任ぜられ、宮中に昇殿することが許された。十七歳の時から天皇のお側近く仕え、天皇に関する雑務を行う蔵人という職につく。慶長四年(一五九九)十二月には、二十一歳で蔵人頭という蔵人の長官の職についた。蔵人頭はやがて上級職の参議へのと出世が約束された職である。歌会においても、提出された歌を声高く読み上げ主導する講師(こうじ)という重要な仕事を勤める。光広は十二月二十五日の宮中での当座歌会にはじめて講師を勤めた。右(上記)の歌は翌慶長五年(一六〇〇)正月十六日に行われた宮中年始の会に出された。歌題は「幸ヒニ泰平ノ代ニ逢フ」というもので、それに沿う歌といえるが、同時にこの歌には、光広自身の昇進の慶びが素直に表わされているように思われる。細川幽斎を師として和歌を学んでいた時期であり、師の添削などを受けたかもしれない。しかし、どちらかといえばおおらかで素朴な感じのする喜びの表現は、若い光広自身の気持ちを正直に写すものではないか。
 光広にはこの年もう一つの喜びが待っていた。五月には、村上周防守頼勝の娘との間に長男光賢(みつかた)が誕生するからである。しかし、世間一般では、慶長五年という年は、徳川家と豊臣家の対立が激化した時期で、九月十五日には天下分け目の戦いと言われた関ヶ原の戦いが行われた。世の中は東軍西軍の衝突という戦乱の情勢に騒然としており、この歌はそうした世間とは離れたところで、二十二歳の光広自身の個人的な幸福感を表した歌と思われる。】
(『松永貞徳と烏丸光広(高梨素子著)』(コレクション日本歌人選032) p42-43)



その慶長五年(一六〇〇)から下って、寛永三年(一六二六)の光広の「天の下」の歌が、次のアドレスのものである。



https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-06-19



【 天(あめ)が下常盤の陰になびかせて君が千代ませ宿のくれ竹
(天下を常緑の木陰に従わせて、君のお治めになる千年の間生えていて下さい。この宿のくれ竹よ。)

寛永三年〈一六二六〉秋、前将軍徳川秀忠と三代将軍家光父子が江戸から上洛し二条城に滞在した。九月六日から十日の間二条城に、後水尾天皇と中宮和子(徳川秀忠の娘)、中和門院(天皇の母)、女一宮(天皇と和子の間の長女、後の明正天皇)を迎え寛永行幸があり、さまざまなもてなしが行われた。
 七日には舞楽が、八日には歌会が、十日には猿樂(能)が天皇への接待として行われた。八日の歌会は徳川御三家を含めた将軍家一門と、関白・太閤以下宮廷の重臣が合せて二十名、歌会の部屋の畳の上に列席し、部屋の外にも公家が詰めて行われた。この歌会に歌を出した者は総勢で七十八名にもなる。歌はすでに作られ懐紙に書かれて用意されていて、歌会では、それを披講といって皆の前で歌い上げる儀式を行うのである。読み上げ順序に懐紙をそろえる読師の役は内大臣二条康道がつとめ、講師といって始めに歌を読み上げる役は冷泉中将為頼が行った。最後に天皇の歌を披講するとき、役を交替して、読師を関白左大臣近衛信尋が、講師を大納言烏丸光広がつとめた。大変に晴れがましいことであった。
 題は「竹遐年(かねん)ヲ契ル」。常緑の竹が長寿を約束するという意味で、祝の題として鎌倉時代からよまれてきた。光広の歌の「君」は表面上は天皇を指すが、将軍の意味も含むように感じられる。双方をうまくもり立ててよみこんだ巧妙な歌であろう。
 光広は徳川家とは縁が深く、慶長十三年には徳川家康と側室お万の方の仲人により、家康次男秀康の未亡人を妻とし、翌年後陽成天皇の勅勘を受けた特には、駿府の家康のもとにすがって流刑を免れている。】(『松永貞徳と烏丸光広(高梨素子著)』(コレクション日本歌人選032) p86-87 )
by yahantei (2021-11-21 16:54) 

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