SSブログ

川原慶賀の世界(その二十九) [川原慶賀の世界]

(その二十)九「川原慶賀の魯西亜整儀写真鑑」周辺

魯西亜整儀写真鑑.png

左図:魯西亜整儀写真鑑(袋) 右図: プチャーチン肖像
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/412235

軍艦2隻.jpg

左図:軍艦2隻 右図:軍艦2隻

椅子・靴持兵隊.jpg

左図:椅子・靴持兵隊 右図: 軍旗持兵隊

鉄砲持兵隊.jpg

左図:鉄砲持兵隊 右図: 軍楽隊
【魯西亜整儀写真鑑(ろしあせいぎしゃしんかん) 木版画 / 江戸/神戸市立博物館蔵
川原慶賀下絵/大和屋版/長崎版画/江戸時代、嘉永6年/1853年/木版色摺/ 39.0×25.8 他/ 1帖(7図・袋)
「Tojosky」のサインあり 軍楽隊/鉄砲持兵隊/軍旗持兵隊/椅子・靴持兵隊/軍艦2隻/軍艦2隻/プチャーチン肖像/袋
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館 】
(「文化遺産オンライン」)

【 魯西亜整儀写真鑑 /川原慶賀=版下絵、大和屋版/安政元年頃/巻子7図、紙本木版色摺/各26.0×38.6-39.0
七図からなる一連の錦絵、「魯西亜整儀写真鑑」と袋に題されている。磯野文斎(渓斎英泉の門弟)が入婿した後の長崎、大和屋から版行された。嘉永六年(一八五三)七月十八日、ロシア海軍の将官プチャーチンは、修交通商と北方の領海問題を解決するため国書を携え、軍艦四艘を率いて長崎港に入ってきた。この時、幕府は国書を受けず、十月、艦隊は長崎に再来、再び退去し、安政元年(一八五四)三月、三度長崎に入港してきた。本図は、国書を携えて西役所におもむくロシア使節の行進を活写したもの、プーチャチン像の右下に「GeteKent Door Tojosky」とあり、トヨスキィこれを描く、の意味。江戸後期の長崎における最もすぐれた絵師のひとり川原慶賀が下絵を描いている。トヨスキィという西洋人風の筆記は、慶賀の通称「登与助」のこと。慶賀は、シーボルトの専属画家のような形で写実性の高い記録絵を残したが、「シーボルト事件」の十四年後、天保三年(一八四二)に長崎払いとなり、弘化三年(一八四六)ごろに再び戻って磯野文斎の依頼でこの記録絵の制作にたずさわったのである。素朴な土産絵であった長崎版画が生み出した、歌川貞秀などの末期の江戸絵に拮抗し得る完成度の高い作品。(岡泰正稿) 】(『神戸市立博物館所蔵名品展 南蛮美術と洋風画』所収「作品解説87」)

阿蘭陀舩入津ノ図.jpg

阿蘭陀舩入津ノ図(画者不詳:大和屋版/版下絵=磯野文斎?)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/378777
【 阿蘭陀舩入津ノ図(おらんだせんにゅうしんのず)/ 木版画 / 江戸/画者不詳 大和屋版/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/36.3×25.0/1枚
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:・板橋区立美術館『長崎版画と異国の面影』図録 2017 】(「文化遺産オンライン」)

【 阿蘭陀船入津(にゅうしん)ノ図/大和屋版(版下絵:磯野文斎?)/江戸時代後期/1枚、紙本木版色摺/36.3×25.0
満艦飾に飾りたてた華麗な姿で長崎港内に停泊するオランダ帆船。号砲をはなちながら港内に「入津(入港)」してくる帆船を取材したこの図は、江戸時代後期の長崎版画を代表する版元、大和屋より版行された。版下絵は、大和屋の磯野文斎の筆になるものと推測され、オランダ船が舶載した文物が流入する長崎という海港の晴れやかでエキゾチックな空気を、磯野文斎独特の江戸仕込みの洗練された錦絵(多色摺木版画)のスタイルで封じ込めている。満艦飾にするのは入出港時と考えられるが、停泊中に行うのは、出島の祝祭日に限られるであろう。つまり、本図は、入津の情景と投錨(びょう)とを一画面に同時進行させる形で描いたものと思われる。曳船の描写などは省略されているが写実性と拭きぼかしを多用した装飾性が美しく混和している。(岡泰正稿) 】(『神戸市立博物館所蔵名品展 南蛮美術と洋風画』所収「作品解説87」)

「魯西亜整儀写真鑑」(川原慶賀=版下絵、大和屋版)は、安政元年(一八五四)の頃の作とすると、この版下絵を描いた「川原慶賀」(天明六年(一七八六)~万延元年(一八六〇?)頃)の、六十八歳前後の頃の作で、その晩年の頃の作品の一つと解して差し支えなかろう。
 そして、これは、木版画の版下絵で、これまで見てきた、肉筆画、あるいは、シーボルトの依頼に描いた、石版画(『Nippon(日本)』など)の下絵(元絵・原画)ではなく、いわゆる、江戸の「浮世絵(錦絵)」(江戸の版元による「多色摺り木版画」)と同じく、長崎の「長崎版画」(長崎の版元による「多色摺り木版画」)の世界(版下絵師の世界)のものということになろう。
 これらの「長崎版画と版下絵師」関連については、下記のアドレスで触れてきた。そこで、その「版元」の一つの「大和屋(文彩堂)」の婿養子で、江戸後期の浮世絵師。渓斎英泉の門人の一人の「版下絵師」でもある「磯野文斎」(不明-1857)についても紹介してきた。
 上記の「魯西亜整儀写真鑑」(川原慶賀=版下絵、大和屋版)と、「阿蘭陀舩入津ノ図」(画者不詳:大和屋版/版下絵=磯野文斎?)とは、共に、磯野文斎の版元の「大和屋版」のもので、晩年の川原慶賀(田口登与助=種美)は、この版元「大和屋」所属の版下絵師の一人とも解せられる。
 そして、この「大和屋」の「磯野文斎」も歴とした「版下絵師」の一人で、上記の「阿蘭陀舩入津ノ図」(画者不詳:大和屋版/版下絵=磯野文斎?)は、上記の『神戸市立博物館所蔵名品展 南蛮美術と洋風画』所収「作品解説87」では、「大和屋の磯野文斎の筆になるものと推測され」と、それを一歩進めて、「磯野文斎=版下絵」と解したい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-06-22

【  長崎版画と版下絵師
 長崎版画とは、江戸時代に長崎で制作された異国情緒あふれる版画のことで、主に旅人相手に土産物として売られた。長崎絵、長崎浮世絵などとも呼ばれている。同じころ江戸で盛んだった浮世絵が、役者、遊女、名所などを題材にしていたのに対し、当時外国への唯一の窓口だった長崎では、その特殊な土地柄を生かし、オランダ人、中国人、オランダ船、唐船など、異国情緒あふれる風物を主題とした。広義には、長崎や九州の地図も長崎版画に含まれる。
 現存する初期の長崎版画は、輪郭の部分を版木で黒摺りしてから筆で彩色したもので、その後、合羽摺といわれる型紙を用いた色彩法が用いられるようになった。長崎市内には、針屋、竹寿軒、豊嶋屋(のちに富嶋屋)、文錦堂、大和屋(文彩堂)、梅香堂など複数の版元があり、制作から販売までを一貫して手掛けていた。版画作品の多くに署名はなく、作者は定かではないものが多いが、洋風画の先駆者である荒木如元、出島を自由に出入りしていた町絵師・川原慶賀や、唐絵目利らが関わっていたと推測される。
 天保の初めころ、江戸の浮世絵師だった磯野文斎(不明-1857)が版元・大和屋に婿入りすると、長崎版画の世界は一変した。文斎は、当時の合羽摺を主とした長崎版画に、江戸錦絵風の多色摺の技術と洗練された画風をもたらし、長崎でも錦絵風の技術的にすぐれた版画が刊行されるようになった。大和屋は繁栄をみせるが、大和屋一家と文斎が連れてきた摺師の石上松五郎が幕末に相次いで死去し、大和屋は廃業に追い込まれた。
 江戸風の多色摺が流行するなか、文錦堂はそれ以降も主に合羽摺を用いて、最も多くの長崎版画を刊行した。文錦堂初代の松尾齢右衛門(不明-1809)は、ロシアのレザノフ来航の事件を題材に「ロシア船」を制作し、これは初めての報道性の高い版画と称されている。二代目の松尾俊平(1789-1859)が20歳前で文錦堂を継ぎ、父と同じ谷鵬、紫溟、紫雲、虎渓と号して自ら版下絵を手掛け、文錦堂の全盛期をつくった。三代目松尾林平(1821-1871)も早くから俊平を手伝ったが、時代の波に逆らえず、幕末に廃業したとみられる。
 幕末になって、文錦堂、大和屋が相次いで廃業に追い込まれるなか、唯一盛んに活動したのが梅香堂である。梅香堂の版元と版下絵師を兼任していた中村可敬(不明-不明)は、わずか10年ほどの活動期に約60点刊行したとされる。中村可敬は、同時代の南画家・中村陸舟(1820-1873)と同一人物ではないかという説もあるが、特定はされていない。

磯野文斎(不明-1857)〔版元・大和屋(文彩堂)〕
 江戸後期の浮世絵師。渓斎英泉の門人。江戸・長崎出身の両説がある。名は信春、通称は由平。文彩、文斎、文彩堂と号した。享和元年頃に創業した版元・大和屋の娘貞の婿養子となり、文政10年頃から安政4年まで大和屋の版下絵師兼版元としてつとめた。当時の合羽摺を主とした長崎版画の世界に、江戸錦絵風の多色摺りの技術と、洗練された画風をもたらした。また、江戸の浮世絵の画題である名所八景の長崎版である「長崎八景」を刊行した。過剰な異国情緒をおさえ、長崎の名所を情感豊かに表現し、判型も江戸の浮世絵を意識したものだった。安政4年死去した。

松尾齢右衛門(不明-1809)〔版元・文錦堂〕
 文錦堂初代版元。先祖は結城氏で、のちに松尾氏となった。寛政12年頃に文錦堂を創業し、北虎、谷鵬と号して自ら版下絵を描いた。唐蘭露船図や文化元年レザノフ使節渡来の際物絵、珍獣絵、長崎絵地図などユニークな合羽摺約130種を刊行した。文化6年、50歳くらいで死去した。

中村可敬(不明-不明)〔版元・梅香堂〕
 梅香堂の版元と版下絵師を兼務した。本名は利雄。陸舟とも号したという。梅香堂は、幕末に文錦堂、大和屋が相次いで廃業するなか、唯一盛んに活動し、わずか10年ほどの活動期に約60点刊行したとされる。中村可敬の詳細は明らかではないが、同時代の南画家・中村陸舟(1820-1873)は、諱が利雄であり、梅香の別号があることから、同一人物とする説もあるが、特定はされていない。 】(「UAG美術家研究所」)

長崎八景.png

上図(左から)「長崎八景○市瀬晴嵐」「長崎八景○神崎帰帆」「長崎八景○安禅(あんぜん)晩鐘」「長崎八景○笠頭(かざがしら)夜雨」
下図(左から)「長崎八景○大浦落雁」「長崎八景○愛宕暮雪」「長崎八景○立山(たてやま)秋月」「長崎八景○稲佐(いなせ)夕照」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/401618
【「長崎八景○市瀬晴嵐」→画者不詳(磯野文斎?)/ 文彩堂版/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/13.2×19.5/1枚/文彩堂上梓
「長崎八景○神崎帰帆」→画者不詳(磯野文斎?)/ 文彩堂/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/13.2×19.6/1枚
「長崎八景○安禅(あんぜん)晩鐘」→画者不詳(磯野文斎?)/文斎版/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/13.3×19.5/1枚/長崎文斎発販
「長崎八景○笠頭(かざがしら)夜雨」→画者不詳(磯野文斎?)/大和屋由平版/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/13.3×19.4/1枚/長崎今鍛治ヤ町(○に大)大和屋由平板
「長崎八景○大浦落雁」→画者不詳 大和屋由平版/長崎版画(磯野文斎?)/大和屋由平版長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/13.2×19.6/1枚/長サキ今カジヤ町(○に大)大和屋由平板
「長崎八景○愛宕暮雪」→画者不詳(磯野文斎?)/大和屋由平版/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/13.2×19.6/1枚/長サキ今カチヤ丁(○に大)大和屋由平板
「長崎八景○立山(たてやま)秋月」→画者不詳(磯野文斎?)/大和屋由平版/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/13.3×19.5/1枚/長サキ今カジヤ町(○に大)大和屋由平板/「長崎八景○稲佐(いなせ)夕照」→画者不詳(磯野文斎?)/ 文彩堂/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/13.1×19.4/1枚
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・板橋区立美術館『長崎版画と異国の面影』図録 2017
所蔵館: 神戸市立博物館 】(「文化遺産オンライン」)

 上記図は、文彩堂(磯野文斎?)版の「長崎八景」で、磯野文斎は、上記の「長崎版画と版下絵師」で紹介されているとおり、「文政十年(一八二七)頃から安政四年(一八五七)まで大和屋の版下絵師兼版元としてつとめ」、「当時の合羽摺を主とした長崎版画の世界に、江戸錦絵風の多色摺りの技術と、洗練された画風をもたらした」。そして、「江戸の浮世絵の画題である名所八景の長崎版である『長崎八景』を刊行し」、そこでは、「過剰な異国情緒をおさえ、長崎の名所を情感豊かに表現し、判型も江戸の浮世絵」を踏襲している。
 川原慶賀(天明六年=一七八六-万延元年=一八六〇?)と磯野文斎(?―安政四年=一八五七)とは、全く同時代の人で、磯野文斎が江戸から長崎に来た文政十年(一八二七)の翌年の文政十一年(一八二八)に「シーボルト事件」が勃発して、川原慶賀は連座しお咎めを受けている。
 さらに、天保十三年(一八四二)に、オランダ商館員の依頼で描いた長崎港図の船に当時長崎警備に当たっていた鍋島氏(佐賀藩)と細川氏(熊本藩)の家紋を描き入れたということで、これが国家機密漏洩と見做されて再び捕えられ、江戸及び長崎所払いの処分を受け、その後の動静というのは、ほとんど不明というのが、その真相である。
 こういう、その真相は藪の中という川原慶賀の、その後半生の生涯において、冒頭の、安政元年(一八五四)の頃の「魯西亜整儀写真鑑」(「Tojosky」のサインあり)は、万延元年(一八六〇)記の「賛」(中島広足の賛)がある「永島キク刀自絵図」(「長崎歴史文化博物館蔵」)と共に、貴重な絵図となってくる。

(参考その一) (その二十一)「川原慶賀の肖像画」周辺

「永島キク刀自絵像」(川原慶賀筆)長崎歴史文化博物館蔵

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-10-31

(参考その二) (その五)「ドゥーフ像」と「プロムホフ家族図」周辺

「長崎港図・ブロンホフ家族図」(川原慶賀筆)
「阿蘭陀加比丹並妻子之図・ブロンホフ家族図」(川原慶賀筆)
「ブロンホフ家族図」石崎融思筆
「ブロンホフ家族図」(川原慶賀筆?)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-09-07

蘭陀婦人の図.jpg

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/403021
【「蘭陀婦人の図」→画者不詳(川原慶賀?)/大和屋版/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/36.3×24.8/1枚/文化14年(1817)に来日したコック・ブロンホフの妻子と乳母を描く。
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・板橋区立美術館『長崎版画と異国の面影』図録 2017
所蔵館: 神戸市立博物館             】(「文化遺産オンライン」)

(参考その三)『長崎土産』(磯野信春(文斎)著・画/長崎(今鍛冶屋町) : 大和屋由平/弘化4 刊[1847])周辺

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00011733#?c=0&m=0&s=0&cv=1&r=0&xywh=-3786%2C77%2C13187%2C3744

「長崎土産― 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」(京都大学附属図書館 Main Library, Kyoto University)

https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru04/ru04_01476/index.html

「長崎土産 / 礒野信春 著併画」(「早稲田大学図書館 (Waseda University Library)」)

長崎土産.gif

「長崎土産 / 礒野信春 著併画」(「早稲田大学図書館 (Waseda University Library)」)
(11/43)

若き日のシーボルト先生とその従僕図.jpg

●作品名:若き日のシーボルト先生とその従僕図(川原慶賀筆)
●所蔵館:長崎歴史文化博物館 Nagasaki Museum of History and Culture
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=3731&cfcid=164&search_div=kglist

阿蘭陀人黒坊戯弄犬図.jpg

阿蘭陀人黒坊戯弄犬図(おらんだじんくろぼうぎろうけんず)(磯野文斎画?)
画者不詳/大和屋版/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/35.6×24.2/1枚/神戸市立博物館蔵(「文化遺産オンライン」)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/378807

(参考その四)「長崎の合羽摺」周辺

【 合羽摺(かっぱずり)とは、浮世絵版画での彩色法である。
≪合羽摺前史≫
 木版画は単色摺が基本である。だが、上客からの要望もあり、彩色化が図られるようになる。最初は、摺った後に筆で着彩する方法が取られた。
 安房国の縫箔屋出身で、17世紀後半の江戸で活動した、菱川師宣の場合、版本や、「揃い物」に、着彩されている墨摺絵が現存する。その後、1741-42年(寛保元-2年)に、色版を用いた紅摺絵が、そして、1765年(明和2年)には、鈴木春信による多色摺、錦絵が登場する。
 一方、師宣以前の上方、つまり大坂と京は、「洛中洛外図屏風」や「寛文美人図」等、「近世風俗画」が盛んに描かれたが、これらが「上がりもの」として江戸に持ち込まれることによって、師宣の歌舞伎絵・美人画・春画を生むきっかけとなった。上方でも、版本から一枚摺が生まれ、墨摺絵に筆彩色する過程は同じだが、その次に登場したのが「合羽摺」であったのが、江戸との違いである。
≪合羽摺の手法と長短所≫
 「主版」(おもはん)、つまり最初に摺る輪郭線は版木を用いるが、色版は、防水加工した紙を刳り抜いて型紙とし、墨摺りした紙の上に置き、顔料をつけた刷毛を擦って彩色した。
 色数と同じだけの型紙を必要とする。防水紙を使用することから、「合羽」と呼ばれる。合羽摺の利点は、加工が容易であり、コストが安く、納期が早い、馬連を用いないので、錦絵より薄く安価な紙が使用できる点である。
 逆に欠点は、版木摺ほど細密な表現が出来ない、色むらが出やすい、重ね摺りすると、下の色は埋もれてしまう(版木の場合は、下の色を透かすことが可能。)、切り抜き箇所の縁に顔料が溜まりやすい、型紙が浮き上がり、顔料が外にはみ出すことがある、型紙を刳り抜くため、その内部に色を入れたくない部分がある場合は、「吊り」と呼ばれる、色を入れる箇所の一部を切り残す必要がある、安価な紙を用いた為、大切にされず、現存数が少なくなっただろう点である。
≪上方の合羽摺≫ (略)
≪長崎の合羽摺≫
 長崎絵でも、合羽摺が用いられた。唐人は新年を祝う為、唐寺で摺られた「年画」を家屋に貼る風習があり、それが周辺に住む日本人にも受け入れられ、江戸や上方とは異なり、版本から一枚絵に展開する過程を必要としなかった。
 現存する「長崎絵」最古のものは、寛保から寛延年間(1741-1751年)とされ、そのころから墨摺絵に手彩色することが始まり、天明年間(1781-1801年)頃に合羽摺が行われるようになる。天保年間(1830-44年)初頭、渓斎英泉の門人である、磯野文斎が版元「大和屋」に婿入りし、後に彫師・摺師を江戸から招くことにより、錦絵が齎された。但し他の版元では、合羽摺版行が続いた。
 画題は、江戸や上方と異なり、オランダ人や唐人の風貌や装束、彼らの風習、帆船や蒸気船、珍しい動物、出島図や唐人屋敷、唐寺など、長崎特有の異国情緒を催すものが描かれた。
 1858年(安政5年)の日米修好通商条約締結後、外国人居留地の中心が横浜に移ることにより、1860年(安政7・万延元年)には横浜絵が隆盛、文久年間(1861-64年)頃に、長崎絵の版行は終わったとされる。 】(「ウィキペディア」)

魯西亜船之図.jpg

「魯西亜船之図」(ろしあせんのず)/木版画 / 江戸/画者不詳 文錦堂版/長崎版画/江戸時代、文化2年/1805年/紙本木版に合羽摺/30.2×42.0/1枚/「文化元甲子年九月七日ヲロシヤ船長崎ニ初テ入津同二年三月十九日出船 其間ヲロシヤ人梅が崎ニ仮居ス」と上部にあり/
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館/参考文献:板橋区立美術館『長崎版画と異国の面影』図録 2017(「文化遺産オンライン」)

 これは、「文錦堂版」の「紙本木版に合羽摺」の作品で、「文化元甲子年九月七日ヲロシヤ船長崎ニ初テ入津同二年三月十九日出船 其間ヲロシヤ人梅が崎ニ仮居ス」との、文化元年(一八〇四)、ロシアのレザノフ使節渡来の際物絵(一時の流行・人気をあてこんで作った作品)の一つである。
 この作品の「版下絵師」は、文錦堂初代版元の「松尾齢右衛門(不明-1809/号=北虎・谷鵬)なのかも知れない。この「魯西亜船之図」が制作された頃は、川原慶賀がまだ二十歳前の、石崎融思門の絵師見習いの頃で、おそらく、磯野文斎も、江戸の渓斎英泉の門にあって、川原慶賀と同じような環境下にあったもののように思われる・
 この文錦堂の松尾齢右衛門が亡くなったのは文化六年(一八〇九)、その二代目が「松尾俊平」(1789-1859/号=谷鵬・紫溟・紫雲・虎渓)で、文錦堂の全盛期をつくった「版元兼版下絵師」である。

唐蘭風俗図屏風.jpg

「唐蘭風俗図屏風」谷鵬紫溟画/19世紀(江戸時代)/各 w270.1 x h121 cm/福岡市博物館蔵
https://artsandculture.google.com/asset/genre-screen-of-china-and-dutch-kokuho-shimei/FwGm1aFL3T4n9Q?hl=ja
≪ 赤、青、黄色の派手な色使いや、描かれた人物の素朴でキッチュな表現が強烈な輝きを放つ作品。向かって右隻は、成人の男女が見守るなか、獅子舞や凧あげなど正月の風俗を思わせる唐子遊びを中心にした中国風景が描かれる。対して左隻は、オランダの風俗を洋風表現を交えて描き出す。館の内部ではグラスを持つ女性を男性が抱き寄せているが、食卓に出されたヤギの頭まるごとの料理が見るものの度肝を抜く。屋外では音楽にあわせて子供たちが腕を広げて踊り、大人たちも気ままにたたずんでいる。両隻とも、男女のぺアと子供たちが主人公のようで、何かの祝祭を意味しているのかもしれない。
右端に描かれた虎図の衝立(ついたて)にこの屏風の作者である谷鵬紫溟(こくほうしめい)の落款がある。谷鵬紫溟の詳しい伝記は不明で、文化年間に版画を制作し、肖像画を得意とした長崎の洋風画家だったらしい。ところで、この屏風は、大縁(おおべり)、小縁(こべり)から各扇(せん)のつなぎ目まで全てが画家によって筆で描かれたいわゆる描き表装(かきひょうそう)で、そんな点にも江戸や秋田の洋風画とは異なった、谷鵬紫溟の強烈な個性が発揮されている。
【ID Number1989B00908】参考文献:『福岡市博物館名品図録』 ≫(「福岡市博物館」)

http://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/295/index02.html

≪唐蘭風俗図屏風(とうらんふうぞくずびょうぶ) 六曲一双 /谷鵬紫溟(こくほうしめい)筆/ 江戸時代/紙本着色/各132.6×271.0㎝
 人を驚かせる奇妙さと、どことなくまがいものめいたキッチュさでは当館随一の作品です。どこの国かというと、作品名にあるとおり、向かって右隻は中国、左はオランダです。  
 特に奇妙なのはオランダの風景。遠景はそれなりに西洋風ですが、手前の建物は瓦葺(かわらぶき)で日本的ですし、屋内の男女はヤギの頭まるごとの料理を前にしてグラス片手によりそい、なんだか訳がわかりません。作品全体は、お正月のお祝いのような祝祭をテーマに描かれているのかもしれません。作者の谷鵬紫溟は江戸後期に活躍した長崎派の画家です。想像力豊かに見たことのない異国の風俗を描いたのでしょう。描き方も陰影をつけた洋風表現です。普通は布地が貼られる屏風の縁や、なにも描かない蝶番の内側まで筆で文様を描いているところにも注目してください。≫(「福岡市博物館」)


(参考その五)「魯西亜人初テ来朝登城之図」周辺

第一 魯西亜人道中.jpg

第一 魯西亜人道中備大波戸より西御役所江罷出候図

第二 於書院魯西亜人.jpg

第二 於書院魯西亜人初度対話之図 

第三 於書院御料理.jpg

第三 於書院御料理被下之図

第四 於書院御料理被下候後応接之図.jpg

第四 於書院御料理被下候後応接之図

第五 於書院拝領物被下候図.jpg

第五 於書院拝領物被下候図

第七 内題.jpg

第七 内題(安政二乙卯年四月江戸御城江登城之節御老中若年寄御目付役立合応接之図)
(「神戸市立博物館蔵」)
≪「魯西亜人初テ来朝登城之図」(ろしあじんはじめてらいちょうとじょうのず)/文書・書籍 / 江戸/ 未詳/ 江戸時代後期/1855年/ 紙本著色/ 30.0×423.8/ 1巻/内題に「安政二乙卯年四月江戸御城江登城之節御老中若年寄御目付役立合応接之図」とあるが、この記載は誤り。
参考文献:・神戸市立博物館『神戸開港150年記念特別展 開国への潮流―開港前夜の兵庫と神戸―』図録、2017 ≫
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/379297
【(解説)
 本図巻は、嘉永6年(1853)に長崎に来航したロシア海軍中将プチャーチン一行の応接と交渉の様子を描いたものです。同年8月19日の国書手交から、12月14日以降の日本側全権筒井政憲・川路聖謨らとの会食や会談の様子を描きます。描かれる内容が、プチャーチンの長崎来航時の応接の様子を描いた早稲田大学図書館所蔵「魯西亜使節応接之図」にほぼ一致します。またプチャーチンは安政2年3月に日本を離れていることから、内題にある「安政二乙卯年四月江戸御城江登城之節御老中若年寄御目付役立合応接之図」との記載は誤りです。

第一 魯西亜人道中備大波戸より西御役所江罷出候図
 嘉永6年(1953)8月19日に、大波戸から長崎奉行所西御役所に向かうロシア隊の行列の様子。鼓笛隊、銃隊、海軍旗に続いてプチャーチン一行が現れます。海軍旗や兵士らが被る帽子には双頭の鷲のエンブレムがあしらわれています。この日、長崎奉行大澤定宅はプチャーチンと会見し、国書を受け取っています。

第二 於書院魯西亜人初度対話之図 
 同年12月14日、長崎奉行所西御役所書院において、日本側全権として派遣された大目付筒井政憲・勘定奉行川路聖謨らと、プチャーチン一行が初めて対面した様子。同様の図が描かれる早稲田大学図書館所蔵「魯西亜使節応接之図」と比較すると、画面中央奥に立つ2 人は恐らく長崎奉行の水野忠徳と大澤定宅で、その前に座る人物は恐らくオランダ語通詞の森山栄之助、ロシア側と対面する4人が奥から筒井・川路・目付荒尾成允・儒者古賀謹一郎、手前の後ろ向きの人物が左から御勘定組頭中村為弥、勘定評定所留役菊池大助、徒目付衆となります。

第三 於書院御料理被下之図
 同日、ロシア使節との会食の様子。筒井・川路のみが会食をともにしています。

第四 於書院御料理被下候後応接之図 
 同日、会食後に行われた応接の様子。奥に長崎奉行水野・大澤が座し、ロシア使節に対面する形で筒井・川路・荒尾・古賀の順に着座します。

第五 於書院拝領物被下候図
 同月18日、ロシア側へ贈呈品として、真綿と紅白の綸子(りんず)と呼ばれる滑らかで光沢のある絹織物が贈られました。  】(「文化遺産オンライン」)

nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。