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川原慶賀の世界(その三十) [川原慶賀の世界]

(その三十)川原慶賀の「屏風画・衝立画・巻物画・掛幅画など」そして「真景図(画)・記録図(画)・映像図(画)など」周辺

(川原慶賀の「屏風画」)

「長崎湾の出島の風景」(川原慶賀).jpg
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(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-06-22

【 オランダのライデン国立民族学博物館(ウェイン・モデスト館長)は、江戸後期の長崎の絵師・川原慶賀の大作びょうぶ絵「長崎湾の出島の風景」について、2年以上に及ぶ修復作業が完了したと発表した。
 同作は八曲一隻で、縦約1.7メートル、横約4メートル。慶賀が1836年ごろ制作したとされ、長崎港を俯瞰(ふかん)して出島や新地、大浦などの風景が緻密に描かれている。現存する慶賀のびょうぶ絵としては同作が唯一という。
 オランダ国内で長年個人所有されていたものを、同館が2018年に購入。特に絵の周囲を縁取る部分などの損傷が激しく、京都の宇佐見修徳堂など日本の専門家も協力して修復を続けていた。
 修復過程では、絵の下地に貼られた古紙の調査なども実施。同館東アジアコレクションのダン・コック学芸員によると、中国船主の依頼書が目立ち、当時の船主の名前や印と共に、長崎の崇福寺へ団体で参拝に行く予定が書かれていた
 慶賀とその工房の独特な「裏彩色」の技法が同作でも確認されたという。絵の本紙の裏に色を塗る技法で、「こんなに大きな面積でも裏彩色を塗ったことは驚きだった」としている。
 修復したびょうぶ絵は9月末から同館で公開している。日本での公開の予定はまだないが、同館はウェブで同作を鑑賞できるサービス「出島エクスペリエンス」を開発。日本からもスマホやパソコンなどで無料で見られる。コック学芸員は「これからも研究を進めながら、新しい発見があれば出島エクスペリエンスに追加したりして、世界中にいる興味をお持ちの方に広くシェアしたい」と述べている。

 出島エクスペリエンスのアドレスは、https://deshima.volkenkunde.nl/     】

(川原慶賀の「衝立画」)

川原慶賀「長崎港ずブロンホフ家族図」.jpg

「長崎港図・ブロンホフ家族図」≪川原慶賀筆 (1786-?)≫ 江戸時代、文政元年以降/1818年以降 絹本著色 69.0×85.5 1基2図 神戸市立博物館蔵
題記「De Opregte Aftekening van het opper hoofd f:cock BIomhoff, Zyn vrouw en kind, die in Ao1818 al hier aan gekomen Zyn,」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/455049

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-07

【 衝立の両面に、19世紀に長崎の鳥瞰図と、オランダ商館長コック・ブロンホフとその家族の肖像が描かれています。この衝立は、作者の川原慶賀(1786-?)がシーボルトに贈呈したものの、文政11年(1828)のシーボルト事件に際して長崎奉行所によって没収されたという伝承があります。その後長崎奉行の侍医・北川家に伝来した。昭和6年(1931)に池長孟が購入しました。
現在のJR長崎駅付近の上空に視座を設定して、19世紀の長崎とその港の景観を俯瞰しています。画面左中央あたりに当時の長崎の中心部、唐人屋敷・出島・長崎奉行所が描かれ、それをとりまく市街地の様子も克明に描かれています。

 この衝立の片面に描かれているブロンホフ家族図には、慶賀の款印(欧文印「Toyoskij」と帽子形の印「慶賀」)が見られる。コック・ブロンホフは文化6年(1809)に荷倉役として来日。文化10年のイギリスによる出島奪還計画に際し、その折衝にバタビアへ赴き、捕らえられイギリスへ送られたました。英蘭講和後、ドゥーフ後任の商館長に任命され、文化14年に妻子らを伴って再来日。家族同伴の在留は長崎奉行から許可されず、前商館長のヘンドリック・ドゥーフに託して妻子らはオランダ本国に送還されることになりました。この話は長崎の人々の関心を呼び、本図をはじめとする多くの絵画や版画として描かれました。
来歴:(シーボルト→長崎奉行所?)→北川某→1931池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・神戸市立博物館『まじわる文化 つなぐ歴史 むすぶ美―神戸市立博物館名品撰―』図録 2019/・神戸市立博物館特別展『日本絵画のひみつ』図録 2011/・神戸市立博物館特別展『コレクションの精華』図録 2008/・勝盛典子「プルシアンブルーの江戸時代における需要の実態について-特別展「西洋の青-プルシアンブルーをめぐって-」関係資料調査報告」(『神戸市立博物館研究紀要』第24号) 2008/神戸市立博物館特別展『絵図と風景』図録 2000 】(「文化遺産オンライン」)

(川原慶賀の「巻物画」)

川原慶賀「阿蘭陀芝居巻」(全).png

「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆『阿蘭陀芝居巻』」(「合成図」)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-12

【 この「川原慶賀筆『阿蘭陀芝居巻』は、「巻子(巻き軸で巻いたもの)仕立ての絵(27.5㎝×36.3㎝)が七枚描かれている」。「慶賀がこの絵巻をつくった年代は定かでないが、おそらく江戸後期?芝居が上演された文政三年庚辰年(一八二○年)のことであろう。時に、慶賀は三十五歳であった。その三年後の文政六年(一八二三年)にシーボルトが来日し、かれはそのお抱え絵師となるのである」。
 「オランダ芝居を描いたこの絵巻は、アムステルダムの公文書館やネーデルラント演劇研究所にもあることから考えて、複数模写されたものであろう」。(「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」について(宮永孝稿)」(「法政大学学術機関リポジトリ」)】

(川原慶賀の「掛幅画」)

花鳥図.jpg

●作品名:花鳥図 ●Title:Flowers and Birds
●分類/classification:花鳥画/Still Lifes
●形状・形態/form:紙本彩色、軸/painting on paper,hanging scroll
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-11-12

【 これらの川原慶賀の「花鳥画」は、いわゆる、「南蘋派」そして「洋風画にも通じた唐絵目利・石崎融思と長崎派」の系統に属する世界のものであろう。
 なかでも、石崎融思と慶賀と関係というのは、そのスタートの時点(文化八年(1811年)頃)、当時の長崎で絵師の第一人者として活躍していた石崎融思に師事し、爾来、弘化三年(一八四六)、融思(七十九歳、慶賀より十八歳年長)の、融思が亡くなる年の、その遺作ともいうべき、「観音寺天井画」(野母崎町観音寺)の、石崎一族の総力を挙げてのプロジェクト(一五〇枚の花卉図、うち四枚が慶賀画)にも、慶賀の名を遺している。

「花鳥図」石崎融思.jpg

「花鳥図」石崎融思筆/ 絹本着色(「ウィキペディア」)

≪ 洋風画にも通じた唐絵目利・石崎融思と長崎の洋風画家

https://yuagariart.com/uag/nagasaki12/

 長崎に入ってきた絵画の制作年代や真贋などを判定、さらにその画法を修得することを主な職務とした唐絵目利は、渡辺家、石崎家、広渡家の3家が世襲制でその職務についていた。享保19年には荒木家が加わり4家となったが、その頃には、長崎でも洋風画に対する関心が高まっており、荒木家は唐絵のほかに洋風画にも関係したようで、荒木家から洋風画の先駆的役割を果たした荒木如元と、西洋画のほか南画や浮世絵にも通じて長崎画壇の大御所的存在となる石崎融思が出た。融思の門人は300余人といわれ、のちに幕末の長崎三筆と称された鉄翁祖門、木下逸雲、三浦梧門も融思のもとで学んでいる。ほかの洋風画家としては、原南嶺斎、西苦楽、城義隣、梅香堂可敬、玉木鶴亭、川原香山、川原慶賀らがいる。

石崎融思(1768-1846)
 明和5年生まれ。唐絵目利。幼名は慶太郎、通称は融思、字は士斉。凰嶺と号し、のちに放齢と改めた。居号に鶴鳴堂・薛蘿館・梅竹園などがある。西洋絵画輸入に関係して増員 されたと思われる唐絵目利荒木家の二代目荒木元融の子であるが、唐絵の師・石崎元徳の跡を継いで石崎を名乗った。父元融から西洋画も学んでおり、南蘋画、文人画、浮世絵にも通じ長崎画壇の大御所的存在だった。その門人300余人と伝えている。川原慶賀やその父香山とも親しかったが、荒木家を継いだ如元との関係はあまりよくなかったようである。弘化3年、79歳で死去した。≫(「UAG美術家研究所」)  】


(石崎融思門絵師・川原慶賀が到達した世界=「山水画と風景画のあいだ-真景図の近代」=「真景図(画)の世界」)

川原慶賀「長崎港図」広島県立歴史博物館蔵.jpg

川原慶賀「長崎港図」 19世紀前半/広島県立歴史博物館蔵

(抜粋)

https://www.mainichi.co.jp/event/culture/20220726.html

【 「山水画と風景画のあいだ-真景図の近代」
 誰もがきれいな風景画を見ると心が和みます。しかし、私たちが思い浮かべるような風景画が描かれるのは近代になってからであり、長らく中国からもたらされた山水画が美術の主流でした。本展では、18世紀末から20世紀初頭の日本の風景表現の移り変わりを通して、日本人の風景を見る眼がいかに確立してきたかをたどります。
  山水画、文人画、洋風画、浮世絵、日本画、洋画などジャンル・流派を越えた約100点を三部構成で展覧。高島北海ほか、下関のゆかりのある画家の作品や下関の特徴的な景観を捉えた作品なども展示します。 】(「毎日新聞社」)

https://www.city.shimonoseki.lg.jp/site/art/71899.html#:~:text=%E7%9C%9F%E6%99%AF%E5%9B%B3%E3%81%A8%E3%81%AF,%E3%81%9F%E5%B1%B1%E6%B0%B4%E7%94%BB%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82

【「第1章 真景図のはじまり」
 第1章では、江戸時代後期、下関にも来遊した頼山陽や田能村竹田、蘭学者で洋風画を描いた司馬江漢、また浮世絵師として人気を博した歌川広重など、誰もが知る大家・名匠の面々が並びます。 
 中世から江戸時代まで日本で主流であった山水画は、中国の水墨の山水画を手本としていたため、中国の風景を描いたものが主流でした。一方、江戸時代になると、経験主義的・実証主義的なものの見方が広まり、自然主義への志向が高まります。
 浦上玉堂や谷文晁といった文人画(南画)には、日本の自然を独自の様式に昇華したり、自然をそのまま描こうとしたりしたものがありました。その中から真景図が登場します。真景図とは、日本の特定の場所の写生に基づいた山水画のことです。このような実景表現が風景表現への新たな関心と展開を促すことになりました。
 長崎では、中国清朝の写実的な花鳥画を伝えた沈南蘋(しん・なんぴん)の画風が伝わり、蘭学の影響によって西洋画の技法も注目を集めました。江戸の司馬江漢や亜欧堂田善らは西洋の遠近法に基づいて奥行きのある空間を描きます。また、江戸時代に旅行がブームになると、日本の名所を表現した風景版画が流行し、歌川広重の「東海道五十三次」のような名作が生まれました。
 このように、文人画が描いた真景図を契機として江戸時代にはさまざまな風景表現が生まれ、近代以降の日本では山水画から風景画へ移行することになります。

「第3章 近代風景画の成立」
 第3章では、明治以降の風景表現をたどります。新しい日本画の創出を目指した横山大観や菱田春草は、線を用いずに面によって空間を表現する朦朧体(もうろうたい)を試み、一方、川合玉堂や竹内栖鳳は、朦朧体のように筆線を否定することなく、西洋の写実表現を取り入れます。 
 近代洋画の開拓者、高橋由一は日本人としてはじめて本格的に油彩画の風景を描きますが、その構図やモチーフは、名所絵の伝統を引き継ぐものでした。1900年頃、西洋人からあるいは西洋で学んだ画家たちにより、「あるがままの自然」を描くことが意識されるようになり、それが日本における山水画から風景画への転機となりました。大正時代になると、岸田劉生のように、高橋由一同様、土着性が感じられる風景画を描く画家も登場します。
 浮世絵の流れを引く版画は、庶民の芸術としてずっとさかんでした。明治時代に活躍した小林清親は、明暗法を導入した「光線画」を生み出します。大正時代には吉田博や川瀬巴水の新版画による風景画が描かれます。
 日本画・洋画・版画とそれぞれの風景表現の変遷をたどると、風景画はかつての文人画以上に日本社会に広く定着していることがわかります。ここにおいて、山水画に始まり、真景図を経て風景画にいたる流れが完結したといえるでしょう。

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小林清親《今戸橋月夜茶亭》明治10年(1877)頃 兵庫県立美術館

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高橋由一《琴平山遠望図》明治14年(1881)金刀比羅宮    】(「下関市立美術館)

(シーボルトの眼となった「長崎出島絵師・川原慶賀」の目指した世界=「記録図(画)・映像図(画)」の世界)

(川原慶賀の「記録図(画)」)

草木花實寫真圖譜 .jpg

●作品名:草木花實寫真圖譜 三 キリ
●Title:Empress Tree, Princess Tree
●学名/Scientific name:Paulownia tomentosa
●学名(シーボルト命名)/Scientific name(by von Siebold):Paulowia imperialis
●分類/classification:植物/Plants>ゴマノハグサ科/Scrophulariaceae
●形状・形態/form:紙本彩色、木版、冊子/painting on paper,wood engraving,book
●所蔵館:長崎歴史文化博物館 Nagasaki Museum of History and Culture
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=3784&cfcid=125&search_div=kglist

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-11-26

【 (抜粋)

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0611/index1.html

◆シーボルトが見た日本画家・慶賀

 シーボルトは渡来当初から将来『日本植物誌』の出版する際に、慶賀の植物画を中心に活用しようと膨大な量の絵を描かせていたという。文政9年(1826)の2月から7月にかけての江戸参府においても慶賀はシーボルトの従者のひとりとして参加し、旅先の各地での風景や風物を写生した。慶賀はシーボルトの目に映るものを直ちに紙に写し取り、いわばカメラの役割を果たした。当時の文化、風俗、習慣、自然。特に慶賀の描写した植物画は彩色も巧妙でシーボルトを満足させていたという。実際にシーボルトは慶賀に対する評価を『江戸参府紀行』に次のように記している。
《……彼は長崎出身の非常にすぐれた芸術家で、とくに植物の写生に特異な腕をもち、人物画や風景画にもすでにヨーロッパの手法をとり入れはじめていた。彼が描いたたくさんの絵は、私の著作の中で、彼の功績が真実であることを物語っている……》

◆シーボルトが慶賀に与えた目覚め

 慶賀が残した膨大な量の作品は、その内容、作品に熱意からして、単に雇われ絵師が義務的にこなした仕事とは思えないものだという。そこまで、自然物の写生を徹底した科学的態度によっておこなうことになったのは、やはりシーボルトという偉大な存在と出逢ったためだろう。なかでも、シーボルトに同行した江戸参府の経験は大きい。おそらく、道中においてシーボルトの精力的な研究ぶり、また江戸滞在中にシーボルトを訪れた日本人学者達のシーボルトに対する尊敬ぶりと貪欲なまでの知識欲などを目の当たりにして、慶賀の眼ももっと広い世界へと開かれたものと思われている。シーボルトへの尊敬の念が慶賀に新たな意欲をかきたたせ、自分の使命はシーボルトに与えられた自然物をいかにその通りに描くか、ということにあると自覚し、しかも単に外観をそのまま写すのではなく、そのものの学問上の価値を知って描くことが自分に課せられた任務だと気づいたのだろう。『シーボルトと日本動物誌』においてはじめて公刊された慶賀の甲殻類の図53枚は、大部分が原寸で描かれているという。そして、そのほとんどの図版に種名やその他の書き込みが慶賀によってなされているというのだ。彼が単に図を描くだけでなく、日本名の調査や記入にもあたっていたということは、慶賀自身がシーボルト同様に西洋的科学研究に参加しているという意識を持って仕事をしていたということなのだ。やはりシーボルトとの出逢いと指導が慶賀を大きく成長させたということだろう。

◆慶賀とシーボルトの信頼関係

 慶賀は江戸参府の際に長崎奉行所から命じられていた“シーボルトの監視不十分”の罪で入牢している。慶賀は、シーボルトを密かに監視するようなことをしなかったのだ。シーボルトへの尊敬の念、また、シーボルトから自分に向けられた役割と期待。シーボルトと慶賀の間には、雇い主と雇われ絵師という関係以上の感情がいつしか芽生え、心の交流がなされていたのだろう。シーボルトは帰国後も日本に残った助手ビュルゲルと連絡をとり、標本、図版類を送らせていた。ビュルゲルによって送られた図版は、慶賀によるもの。慶賀は、シーボルト帰国後から長崎払いの処罰を受けるまでの約10年間、出島出入絵師として働いていたと考えられているが、ビュルゲルはシーボルト帰国後3年間、日本にとどまっていることから、慶賀は少なくともその期間はシーボルトの仕事をしていたと思われる。その際、慶賀が描いた甲殻類の図(『シーボルトと日本動物誌』に掲載)から、実物通りの写生能力に関して、シーボルトは慶賀に絶対の信頼を置いていて、また、慶賀もその信頼を裏切るようなことをしなかったということがうかがえるのだ。】(「長崎Webマガジン」所収「長崎の町絵師・川原慶賀」)

(川原慶賀の「映像図(画)」)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-12-07


魯西亜整儀写真鑑(合成図).png

【 魯西亜整儀写真鑑 /川原慶賀=版下絵、大和屋版/安政元年頃/巻子7図、紙本木版色摺/各26.0×38.6-39.0
 七図からなる一連の錦絵、「魯西亜整儀写真鑑」と袋に題されている。磯野文斎(渓斎英泉の門弟)が入婿した後の長崎、大和屋から版行された。嘉永六年(一八五三)七月十八日、ロシア海軍の将官プチャーチンは、修交通商と北方の領海問題を解決するため国書を携え、軍艦四艘を率いて長崎港に入ってきた。この時、幕府は国書を受けず、十月、艦隊は長崎に再来、再び退去し、安政元年(一八五四)三月、三度長崎に入港してきた。本図は、国書を携えて西役所におもむくロシア使節の行進を活写したもの、プーチャチン像の右下に「GeteKent Door Tojosky」とあり、トヨスキィこれを描く、の意味。
 江戸後期の長崎における最もすぐれた絵師のひとり川原慶賀が下絵を描いている。トヨスキィという西洋人風の筆記は、慶賀の通称「登与助」のこと。慶賀は、シーボルトの専属画家のような形で写実性の高い記録絵を残したが、「シーボルト事件」の十四年後、天保三年(一八四二)に長崎払いとなり、弘化三年(一八四六)ごろに再び戻って磯野文斎の依頼でこの記録絵の制作にたずさわったのである。素朴な土産絵であった長崎版画が生み出した、歌川貞秀などの末期の江戸絵に拮抗し得る完成度の高い作品。(岡泰正稿) 】(『神戸市立博物館所蔵名品展 南蛮美術と洋風画』所収「作品解説87」)

 「映像図(画)」という言葉は、未だ一般には定着していない言葉なのかも知れないが、上記の解説中の「慶賀は、シーボルトの専属画家のような形で写実性の高い記録絵を残したが、『シーボルト事件』の十四年後、天保三年(一八四二)に長崎払いとなり、弘化三年(一八四六)ごろに再び戻って磯野文斎の依頼でこの記録絵の制作にたずさわったのである」の、「時事・世相記録図(画・絵)」のようなニュアンスのものである。

黒船来航瓦版.gif

「黒船来航瓦版」(「石川県立歴史博物館」蔵)

https://www.ishikawa-rekihaku.jp/collection/detail.php?cd=GI00379

【 (抜粋)

「黒船来航瓦版」

 ペリーの1853(嘉永6)年6月来航、翌年の再来航によって、江戸幕府は開国を余儀なくされ、その来航に際しおびただしい数の瓦版がつくられた。江戸時代に「読売」「一枚摺」「摺物」と呼ばれた「瓦版」は、明治時代以降に定着したといわれる。
 この黒船来航瓦版は画面中央に船体を大きく配し、3本の大きいマストやアメリカ国旗、推進用の外輪、煙突などを描き、船上には船員が小さく描かれ、船体の大きさが強調されている。上部の1本目と2本目マストの間に「蒸気船」と書かれ、2本目マストの上辺りに黒船の長さ、巾、帆柱数、石火矢(大砲)の数、煙出(煙突)長さ、外輪の径、乗員数(360人)が書かれ、その左右に幕府の旗本や大名などの名が記される。 】(「石川県立歴史博物館」)

【 (瓦版)

 江戸時代に、ニュース速報のため、木版一枚摺(ずり)(ときには2、3枚の冊子)にして発行された出版物。瓦版という名称は幕末に使われ始め、それ以前は、読売(よみうり)、絵草紙(えぞうし)、一枚摺などとよばれた。土版に文章と絵を彫り、焼いて原版とした例もあったという説もあるが不明確である。最古の瓦版は大坂夏の陣を報じたもの(1615)といわれるが明確ではない。天和(てんな)年間(1681~1684)に、江戸の大火、八百屋(やおや)お七事件の読売が大流行したと文献にみえ、貞享(じょうきょう)・元禄(げんろく)年間(1684~1704)には上方(かみがた)で心中事件の絵草紙が続出したと伝えられる。これが瓦版流行の始まりである。
  江戸幕府は、情報流通の活発化を警戒してこれらを禁圧し、心中や放火事件などの瓦版は出せなくなった。江戸時代中期には、1772年(明和9)の江戸大火、1783年(天明3)の浅間山大噴火など災害瓦版が多く現れ、打毀(うちこわし)を報じたものもあったが、寛政(かんせい)の改革(1787~1793)以後、取締りがいっそう厳しくなった。しかし、文政(ぶんせい)年間(1818~1830)以後になると、大火、地震、仇討(あだうち)などの瓦版が、禁令に抗して幾種類も売られ、また、米相場一覧、祭礼行列図、琉球(りゅうきゅう)使節行列図なども刊行された。安政(あんせい)の地震(1855)の瓦版は300種以上も出回り、その後、明治維新に至る政治的事件の報道、社会風刺の瓦版が続出した。瓦版の値段は、半紙一枚摺で3~6文、冊子型は16~30文ほどであった。作者、発行者は絵草紙屋、板木屋、香具師(やし)などであろう。安政の地震の際には、仮名垣魯文(かながきろぶん)、笠亭仙果(りゅうていせんか)などの作者や錦絵(にしきえ)板元が製作販売にあたってもいる。
 明治に入って瓦版は近代新聞にとってかわられるが、その先駆的役割を果たしたといえよう。[今田洋三]
『小野秀雄著『かわら版物語』(1960・雄山閣出版)』▽『今田洋三著『江戸の災害情報』(西山松之助編『江戸町人の研究 第5巻』所収・1978・吉川弘文館)』 】(「日本大百科全書(ニッポニカ)」)

 「映像図(画)」(木版色摺)の「魯西亜整儀写真鑑 /川原慶賀=版下絵、大和屋版」は、
「時事・世相記録図(画・絵)」という「報道性」を帯び、いわゆる、「鎖国から開国」の、その狭間に横行した「瓦版」(「読売(よみうり)の一枚摺り」」)の一種とも解され、これが、次の時代の「横浜絵・黒船瓦版」などに連動してくるように思われる。

亜米利加人上陸ノ図 嘉永七年二月.jpg

「亜米利加人上陸ノ図 嘉永七年二月」 (「横浜市」)

使節ペリー横浜応接の図.jpg

「使節ペリー横浜応接の図」 (「横浜市」)

(参考)『横浜の歴史』(平成15年度版・中学生用)「開国」関連部分(横浜市教育委員会、2003年4月1日発行)

【 (抜粋)

https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/kyodo-manabi/library/shiru/sakoku/kaei/yokohamabook/yokoreki.html

『横浜の歴史』

第一節 黒船の渡来
(1)ペリーの来航
 四隻の黒船
 アメリカのアジア進出
 幕府の態度
 国書の受理
(2)国内の動揺
 広がる不安
 人々の苦しみ
(3)日米和親条約
 ペリー再来
 白ペンキのいたずら書き
 応接地、横浜
 交渉の開始
 条約の内容
 アメリカからの贈呈品

(一) ペリーの来航

四隻の黒船
 1853年7月8日(嘉永六年六月三日)、浦賀沖に、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーが率いる4隻の軍艦が現れた。浦賀奉行の早馬は「黒船現わる」の知らせをもって江戸に走った。急ぎ駆けつけた武士によって、海岸線は警備され、夜にはかがり火をたいて、黒船の動きを監視した。今までにも、外国船は姿を見せたことはあったが、今回のように艦隊を組み、砲門を開き、いつでも戦える状態で現われたことはなかった。それに加え、黒々とした蒸気船の巨体は、見る人々を圧倒してしまった。


アメリカのアジア進出
 アメリカでは19世紀にはいって工業が発達し、機械による生産が増大した。アメリカにおける産業の発達は、海外市場を求めてアジア大陸への進出を促した。しかし、アジアの中心、中国へ進出するためには、大西洋を横断し、アフリカの南端を回り、インド洋を経由しなければならず、イギリスなどと対抗するには地理的にも不利な条件であった。当時、アメリカの太平洋岸は捕鯨漁場として開かれていたこともあって、太平洋を直接横断する航路が考えられるようになった。だが、当時の船では途中で、どうしても石炭や水などの補給をしなければならなかった。太平洋岸の中継地として、日本が最良の場所であった。使節ペリーの任務は鎖国政策をとっている日本の政治を変えさせ、港を開かせることにあった。

幕府の態度
 ペリーの来航について幕府は長崎のオランダ商館長から知らされていたが鎖国政策を変えることはしなかった。実際にペリーが浦賀沖に来航しても、交渉地である長崎へ回航することを求めた。しかし、ペリーは強い態度を示し、交渉中も江戸湾の測量を行い、金沢の小柴沖まで船を進め、交渉が進展しないとみればいつでも艦隊を江戸へ直航させる構えを示して幕府の決断を迫った。
 一方、幕府も戦争に備えて、急いで諸大名に対して江戸湾周辺の警備を命じた。本牧周辺を熊本藩、神奈川を平戸藩、金沢を地元の大名米倉昌寿の六浦(金沢)藩、横浜村を小倉、松代両藩がそれぞれ守りを固め、さらにその後、本牧御備場を鳥取藩、生麦・鶴見周辺を明石藩が警備することになった。このように諸大名を動員し、大規模な警備に当たったことは今までになかったことであった。

国書の受理
 大統領の国書を受理させようとするペリーの強い態度に押された幕府は、ついに浦賀の久里浜でそれを受けることを認めた。
 1853年7月14日(嘉永六年六月九日)、急いで設けられた応接所で、アメリカ大統領フィルモアの国書が、幕府の浦賀奉行に渡された。国書の内容はアメリカとの友好、貿易、石炭、食糧の補給と遭難者の保護を求めるものであった。幕府はあくまでも正式交渉地は長崎であり、浦賀は臨時の場であることを述べて、国書に関する回答はできないという態度をとった。ペリーも国書の受理が行われたことで初期の目的を達したと判断し、来年その回答を受け取りに来航することを伝えて日本を離れた。

(二)国内の動揺(略)

(三)日米和親条約

ペリー再来

 幕府が開国か鎖国かの判断が下せず苦しんでいた1854年2月13日(安政元年一月一六日)、再び七隻の艦隊を率いてペリーは来航し、江戸湾深く進み、金沢の小柴沖に停泊した。
 浦賀奉行は、前回の交渉地であった浦賀沖まで回航するよう要求したが、ペリーは波が荒く、船を停泊させるには適さないことなどを理由にこれを断わった。幕府はできるだけ江戸から離れた場所で交渉しようとして浦賀、鎌倉などを提案したが、ペリーは江戸に近い場所を要求して、話し合いはまとまらなかった。ペリーは艦隊をさらに進ませ、神奈川沖や羽田沖まで移動させた。江戸の近くから黒船が見えるほど接近させたことに幕府は驚き、急いで神奈川宿の対岸、横浜村の地を提案し、妥協を図った。  
 ペリーも、江戸に近く、陸地も広く、安全で便利な場所であることなど、満足できるところであることを認めて、この地を承認し艦隊を神奈川沖に移した。

白ペンキのいたずら書き

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「北亜墨利加人本牧鼻ニ切附タル文字ヲ写」

 交渉場所の話し合いが行われているときでも艦隊は神奈川沖を中心に測量を行い、海図の作成の仕事を進めていた。測量を行うボートの一隻が、本牧八王子海岸の崖(本牧市民プール付近)に接近し、白ペンキで文字を書きつけていった。このことがのちに江戸の「かわら版」に大事件として図解入りで報道された。そのため、横浜に多数の見物人が押しかけてきた。奉行は見物の禁止とともに、そのいたずら書きを消してしまった。外国人の一つ一つの行動がすべて興味と好奇心で見られていたのである。

応接地、横浜
 当時の横浜は戸部、野毛浦と入り海をはさんで向かい合い、外海に面した地形で景色のすぐれた所であった。
 応接地として決定された2月25日、アダムズ参謀長ほか三十名のアメリカ人がこの地を調査するために上陸した。畑地や海岸の様子を検分し、奉行の立ち合いの上で横浜村の北端、駒形という地(県庁付近)を応接地とし、確認のための杭を打ち込んだ。横浜の地に外国人が上陸した最初でもあった。
 外国人の上陸を知った人々の驚きは大きかった。外国との戦争は横浜からだ、といううわさが流れた。それに加え、応接地決定の3日前がアメリカのワシントン記念日に当たっていたため、七隻の軍艦から100発以上の祝砲が撃たれた。そのごう音は江戸湾にこだまし、遠く房総の村々にまで聞こえ、事前に奉行から触書が回されていたけれども、人々に恐怖心を与えた。
 応接地が決定されると、日本側も、アメリカ側も、その準備や調査のために横浜に上陸して活動を始めた。奉行も外国人との摩擦を避けるために外出禁止令を出したが、村人の生活は畑仕事や貝類の採取、漁業であったため、自然に外に出ることが多くなった。村人に対して奉行所からは外国人から物をもらってはならないという命令が出され、巡回する役人はアメリカ側が村人と仲良くするために菓子などを入れたかごを置いてあるのを見つけては焼き捨てたりしていた。やがて、外国人が危害を加えないことがわかると少しずつ恐ろしさが消え、珍しいもの見たさに人々が押しかけてくるようになった。増徳院という横浜村の寺で外国人の葬儀が行われたときは、見物人で道の両側に人垣ができたほどであった。

交渉の開始
 横浜応接所は久里浜に設けられた設備を解体し、横浜に運んで4日間で完成させたもので5棟からなるこの応接所をアメリカ側は条約館と呼んだ。
 1854年3月4日(安政元年二月六日)、ペリーが再来した日から21日目に第1回の会見が行われた。日本側の全権は神奈川宿から船で到着し、アメリカ使節ペリーと兵士500名は祝砲のとどろく中を音楽隊を先頭に上陸した。会談は前回の国書の回答から始められ、4回の会談で条約の交渉は妥結し、3月31日(三月三日)に調印が行われた。これが横浜で結ばれた日米和親条約であり、一般には神奈川条約ともいわれた。

条約の内容
 幕府は、国書に示されていた石炭、薪、水、食糧の補給、避難港の開港、遭難民の救助と人道的な取扱いについては認めたが通商に関しては認めなかった。それに関してはペリーも強く要求はしなかったが、代わりにアメリカの代表として総領事を置くことを認めさせた。条約交渉の最大の問題はどこを開港するかにあった。幕府は長崎一港を主張し、アメリカ側は長崎以外の港を要求した。交渉の結果、北海道の函館、伊豆半島の南端にある下田の2港を開くことで妥結した。幕府は、江戸から遠く離れ、しかも管理しやすい場所で日本人との接触が少ない所を選んだのである。
 これで日本が長い間続けてきた鎖国政策はくずれ、世界の中に組み入れられ、新しい時代を迎えるようになったのである。

アメリカからの贈呈品

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嘉永七年二月献上〔蒸気車〕

 条約交渉が行われている際、ペリーはアメリカからの贈呈品としてたくさんの品を幕府側に贈った。武器、電信機、望遠鏡、柱時計、蒸気車模型一式、書籍、地図類であった。なかでも電信機と蒸気車は応接所付近に準備され、それぞれ実験をし、動かし方の指導が行われた。特に蒸気車は模型とはいいながら精巧に作られており、6歳程度の子どもを乗せて走るほどのものであった。蒸気車、炭水車、客車の3両は円形に敷かれたレールの上を人を乗せて蒸気の力で走った。この近代科学の成果は日本人にどれほどの驚きを与えたか、想像以上のものであった。
 日本側はそれに対して力士を呼んで、外国人に負けないくらいの力の強い大男がいることを示し、幕府からはアメリカ大統領らに日本の伝統を誇る絹織物、陶器、塗り物などを贈った。
 使節としての責任を果たしたペリーは、仕事を離れて数名の部下を連れて横浜村周辺を散策した。横浜村の名主、石川徳右衛門宅を訪れて家族の暖かい接待を受けたり、村人とも親しく交わり帰船した。 
 4月15日(三月一八日)、およそ3か月の滞在を終えてペリーは神奈川沖を出帆して、開港される下田に向かった。 】(「横浜市」)

この「条約交渉が行われている際、ペリーはアメリカからの贈呈品の『蒸気車、炭水車、客車』の返礼として、「力士を呼んで、外国人に負けないくらいの力の強い大男がいることを示し」たという記事に接して、全く異次元(慶賀=長崎、シーボルトそして露西亜のプーチャチン、黒船来航=横浜、亜米利加のペリー)の世界のものが、次の「相撲取り(力士)」(川原慶賀筆)などを通してドッキングして来ることに、妙な感慨すら湧いてくる。

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「相撲取り(力士)」(川原慶賀筆)(『「江戸時代 人物画帳( 小林淳一・編著: 朝日新聞出版 )』)

 安政五年(一八五八)、日米修交通商条約が締結され、続いて、「阿蘭陀(オランダ)・露西亜(ロシア)・英吉利(イギリス)・仏蘭西(フランス)」と、いわゆる「安政の五カ国条約」が締結され、事実上、鎖国から開国へと方向転換をすることになる。
 その翌年の安政六年(一八五九)に、シーボルトは、長男アレクサンダーを連れて再来日するが、この再来日時に、シーボルトと川原慶賀とが再会したかどうかは、杳として知られていない。
 川原慶賀が亡くなったのは文久元年(一八六一)の頃で、この年には、シーボルトは幕府の招きで横浜に向かい、幕府顧問として外交の助言やら学術教授などの役目を担っている。また、息子のアレクサンダーも英国公使館の通訳となっている。そして、シーボルトが帰国したのは、その翌年の文久二年(一八六二年)のことである。(『生誕二百年記念 シーボルト父子が見た日本(ドイツ-日本研究所刊)』『よみがえれ! シーボルトの日本博物館(監修:国立歴史博物館)』『神戸市立博物館所蔵名品展 南蛮美術と洋風画(茨城県立歴史館刊)』)


(参考) 「シーボルト再来日から死亡まで」周辺

(シーボルト再来日から死亡まで) ※=川原慶賀関係(「ウィキペディア」『生誕二百年記念 シーボルト父子が見た日本(ドイツ-日本研究所刊)』など)

1858年(安政五年) - 日蘭修好通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除
1859年(安政六年) - オランダ貿易会社顧問として再来日
※1860年(万延元年)- 川原慶賀没か?(没年齢=76歳)(『神戸市立博物館所蔵名品展 南蛮美術と洋風画(茨城県立歴史館刊)』))
1861年(文久元年) - 対外交渉のための幕府顧問に
1862年5月(文久二年) - 多数の収集品とともに長崎から帰国する。
1863年(文久三年) - オランダ領インド陸軍の参謀部付名誉少将に昇進
1863年(同上) - オランダ政府に対日外交代表部への任命を要求するが拒否される
1863年(同上) - 日本で集めた約2500点のコレクションをアムステルダムの産業振興会で展示
1864年(文久四年) - オランダの官職も辞して故郷のヴュルツブルクに帰る。
1864年5月(同上) - パリに来ていた遣欧使節正使・外国奉行の池田長発の対仏交渉に協力
1864年(同上) - ヴュルツブルクの高校でコレクションを展示し「日本博物館」を開催
※川原慶賀=一説には80歳まで生きていたといわれている(そうなると慶応元年(1865年)没となる)(『シーボルトと町絵師慶賀(兼重護著)』「ウィキペディア」)
1866年(慶応二年) - ミュンヘンで「日本博物館」を開催
1866年10月18日(同上) - ミュンヘンで風邪をこじらせ敗血症を併発して死去

≪ (再来日とその後)  
 1858年には日蘭修好通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除される。1859年、オランダ貿易会社顧問として再来日し、1861年には対外交渉のための幕府顧問となる。 
 貿易会社との契約が切れたため、幕府からの手当で収入を得る一方で、プロイセン遠征隊が長崎に寄港すると、息子アレクサンダーに日本の地図を持たせて、ロシア海軍極東遠征隊司令官リハチョフを訪問させ、その後自らプロイセン使節や司令官、全権公使らと会見し、司令官リハチョフとはその後も密に連絡を取り合い、その他フランス公使やオランダ植民大臣らなどの要請に応じて頻繁に日本の情勢についての情報を提供する[8]。並行して博物収集や自然観察なども続行し、風俗習慣や政治など日本関連のあらゆる記述を残す。
江戸・横浜にも滞在したが、幕府より江戸退去を命じられ、幕府外交顧問・学術教授の職も解任される。また、イギリス公使オールコックを通じて息子アレクサンダーをイギリス公使館の職員に就職させる[8]。1862年5月、多数の収集品とともに長崎から帰国する。
 1863年、オランダ領インド陸軍の参謀部付名誉少将に昇進、オランダ政府に対日外交代表部への任命を要求するが拒否される[9]。日本で集めた約2500点のコレクションをアムステルダムの産業振興会で展示し、コレクションの購入をオランダ政府に持ちかけるが高額を理由に拒否される[9]。オランダ政府には日本追放における損失についても補償を求めたが拒否される。
 1864年にはオランダの官職も辞して故郷のヴュルツブルクに帰った。同年5月、パリに来ていた遣欧使節正使・外国奉行の池田長発の対仏交渉に協力する一方、同行の三宅秀から父・三宅艮斉が貸した「鉱物標本」20-30箱の返却を求められ、これを渋った。その渋りようは相当なもので、僅か3箱だけを数年後にようやく返したほどだった。
 バイエルン国王のルートヴィヒ2世にコレクションの売却を提案するも叶わず。ヴュルツブルクの高校でコレクションを展示し「日本博物館」を開催、1866年にはミュンヘンでも開く。再度、日本訪問を計画していたが、10月18日、ミュンヘンで風邪をこじらせ敗血症を併発して死去した。70歳没。墓は石造りの仏塔の形で、旧ミュンヘン南墓地 (Alter Munchner Sudfriedhof) にある。≫(「ウィキペディア」)

 この、シーボルトの再来日の際の、「プロイセン遠征隊が長崎に寄港すると、息子アレクサンダーに日本の地図を持たせて、ロシア海軍極東遠征隊司令官リハチョフを訪問させ、その後自らプロイセン使節や司令官、全権公使らと会見し、司令官リハチョフとはその後も密に連絡を取り合い」(「ウィキペディア」)などに接すると、これまた、この「シーボルトの再来日」の前の、川原慶賀の版下絵による大和屋版の「魯西亜整儀写真鑑」とドッキングしてくる。
 そして、この時に、晩年の「川原慶賀とシーボルトの再会」があったかどうかは定かではないが、少なくとも、シーボルト父子が、この再来日の折に、この、川原慶賀の版下絵による大和屋版の「魯西亜整儀写真鑑」を目にしていることは、この「ロシア海軍極東遠征隊司令官リハチョフ」に面会していることに関連して、事実に近いものと解したい。

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト像.gif

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト像/1861(文久元)年 スケッチ画 個人蔵/横浜開港資料館 平成27 年度第4 回企画展示「日独修好150年の歴史 幕末・明治のプロイセンと日本・横浜」/横浜開港資料館、国立歴史民俗博物館
≪「絵入りロンドン・ニュース」の特派員であったイギリス人画家チャールズ・ワーグマン(Charles Wirgman,1832-91)が描いた肖像画。当時、シーボルトは、1861(文久元)年10 月に幕府外交顧問を解任され、江戸を退去して横浜に滞在中であった。第二次日本滞在中のシーボルトを描いた唯一の肖像画である。シーボルトの子孫の家に伝わった資料。≫(「横浜開港資料館・国立歴史民俗博物館」)

伊藤圭介.gif

(右)シーボルト(Siebold, Philipp Franz von, 1796-1866)
(左)伊藤圭介(1803年2月18日 ? 1901年1月20日)
https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/shozo/index3.html
≪「伊藤圭介・シーボルト画像」 伊藤篤太郎摸 1軸 
文久2年、来日していたシーボルトの肖像を「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」の特派員でイギリス人の画家チャールズ・ワーグマンがスケッチし、その摸本をさらに後年、植物学者伊藤圭介の子息篤太郎が圭介の肖像とともに模写したもの。≫(早稲田大学図書館
WEB展覧会第33回 「館蔵『肖像画』展 忘れがたき風貌」)

http://kousin242.sakura.ne.jp/nakamata/eee/%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88/

■シーボルトの日本博物館(国立民族博物館) → (略)
■シーボボルトの博物館構想(山田仁史(東北大学大学院) → (略)
■シーボルト・コレクションのデジタルアーカイブ活用(原田泰(公立はこだて未来大学)

シーボルト・コレクションのデータベース化.jpg

[>]?シーボルト・コレクションのデータベース化(一部抜粋)

<シーボルトコレクション収蔵機関>
・ナチュラリス生物多様性センターhttps://www.naturalis.nl/nl/
・シーボルトハウスhttp://www.sieboldhuis.org/en/
・国立民俗学博物館https://volkenkunde.nl/en
・シーボルト博物館ビュルツブルクhttps://siebold-museum.byseum.de/de/home
・ミュンヘン州立植物標本館http://www.botanischestaatssammlung.de

[>]?デジタル目録としてのデータベース(略)

[>]?「シーボルト父子関係資料をはじめとする前近代(19世紀)に日本で収集された資料についての基本的調査研究」プロジェクト
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