SSブログ

川原慶賀の世界(その二十八) [川原慶賀の世界]

(その二十八)「シーボルトと川原慶賀の江戸参府」周辺

「外国人の旅(シーボルト)」.jpg

「外国人の旅(シーボルト)」
https://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/trip/html/diary/diary-edo.html

「江戸参府行程図」.gif

「江戸参府行程図」(「FLOS, 花, BLUME, FLOWER, 華,FLEUR, FLOR, ЦBETOK, FIORE」d)所収)
http://hanamoriyashiki.blogspot.com/2019/05/20-2-14ch-de-villeneuve.html

 上記の「江戸参府行程図」が紹介されているアドレスで、「オランダ商館長の江戸参府と鞆の浦」(矢田純子稿・比較日本学教育研究センター研究年報第6号)が、「シーボルトと川原慶賀の江戸参府」周辺に関して、次のように記述している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-11
(再掲)

【「オランダ商館長の江戸参府と鞆の浦」(矢田純子稿・比較日本学教育研究センター研究年報第6号)

≪ 江戸参府は、オランダ商館長が江戸へ行き将軍に拝謁し、献上品を送ることで、寛永十年(1633)以来恒例となる。寛文元年(1661)以降、旧暦正月に長崎を出発し、三月朔日前後に拝謁するよう改められ、寛政二年(1790)からは4年に1回となり、嘉永三年(1850)が最後の参府となる。
 参府の経路を述べると、当初は長崎から平戸を経由し海路下関に向かっていたが、万治二年(1659)以降、長崎から小倉までは陸路となり、小倉から下関、下関から兵庫は海路で、兵庫-大坂から陸路で江戸へ向かっていた。下関から兵庫は順風であると約8日間を要した(【第1図】=上記図の原図)。
 なお経路はその年により多少の変動がある。参府旅行全体には平均90日前後を要し、江戸には2、3週間滞在していた。旅行の最長記録は以下で取り上げる文政九年(1826)の事例で、商館長スチュルレル一行が143日間をかけて参府旅行を行った。
 また、小倉では大坂屋善五郎、下関では伊藤杢之丞、佐甲三郎右衛門(隔年交代)、大坂では長崎屋五郎兵衛、京都で海老屋余右衛門、江戸においては長崎屋源右衛門というように、5つの都市には定宿が存在していた。≫

 上記の論稿の「商館長スチュルレル一行が143日間をかけて参府旅行」の、この紀行が、「シーボルド・川原慶賀」らが参加した「文政九年(1826)」の江戸参府紀行で、その「使節(公使)」の「オランダ商館長」は「スチュルレル(大佐)」(シュトューラー)、その随行員の「医師(外科)、生物学・民俗学・地理学に造詣の深い博物学者」が「シーボルト(大尉)」(ジ~ボルド)、もう一人の「書記」が「ビュルガル(薬剤師)」(ビュルガー)で、生物学・鉱物学・化学などに造詣が深く、シーボルドの片腕として同道している(もう一人、画家の「フィルヌーヴ」(フィレネーフェ)をシーボルドは同道させようとしたが、「西洋人」枠は三人で実現せず、その代役が、出島出入りを許可されている「町絵師・川原慶賀」ということになる)。 】

 そして、この「商館長スチュルレル一行(シーボルト・川原慶賀ら)が143日間をかけて参府旅行」に関連しては、下記のアドレスで、その全行程のあらましについて見てきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-10

(その一)「シーボルト江戸参府紀行日程」(「1826年(文政9年)」)周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-10

(その十三)「大阪から長崎への帰路」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-28

 ここで、これまでの、この(その一)から(その十三)までを踏まえて、下記の(別記)に、「シーボルトと川原慶賀」に焦点を当てて、その「全行程」などを、新しい、川原慶賀の絵図などを入れて、再掲(再現)をして置きたい。

(別記その一)「シーボルト江戸参府紀行日程(1826年(文政9年)」周辺(一部要約抜粋)
≪参考文献:「江戸参府紀行 ジーボルト著 斎藤信訳(平凡社)」「シーボルト 板沢武雄著(吉川弘文館)」≫
http://www5e.biglobe.ne.jp/~masaji/lolietravel/capitan/index.html

日数 西暦  和暦 天候  行程       日誌

(その一)「シーボルト江戸参府紀行日程」(「1826年(文政9年)」)周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-10

(その四)「長崎・出島」」―「小倉・下関」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-15

1  2/15   1/9  晴 出島-諫早     威福寺での別れの宴など
2  2/16  1/10 晴 諫早-大村-彼杵  大村の真珠・天然痘の隔離など

江戸参府紀行一.jpg

●作品名:大村(千綿)付近 ●Title:A view of Omura, Chiwada
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館  National Museum of Ethnology, Leiden

3  2/17  1/11    彼杵-嬉野-塚崎(武雄)嬉野と塚崎の温泉など 
4  2/18  1/12 晴  塚崎-小田-佐賀-神崎 小田の馬頭観音・佐賀など
5  2/19  1/13 晴  神崎-山家 筑後川流域の農業・筑前藩主別荘など
6   2/20  1/14 雨 山家-木屋瀬 内陸部高地の住民など
7  2/21  1/15 雨 木屋瀬-小倉   渡り鳥の捕獲

小倉引島.jpg

●作品名:小倉引島 ●Title:Hikeshima, Kokura
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館  National Museum of Ethnology, Leiden

8  2/22  1/16 晴 小倉-下関    小倉の市場・与次兵衛瀬記念碑など

(その五)「下関」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-17

9  2/23  1/17 晴 下関滞在     門人の来訪・カニの眼
10  2/24  1/18  晴 下関 早鞆岬と阿弥陀寺・安德天皇廟など
11  2/25  1/19  晴 下関 萩の富豪熊谷五右衛門義比など
12  2/26   1/20 晴 下関 門人・知友来訪・病人診療と手術など
13  2/27  1/21 晴 下関 近郊の散策・六連島・捕鯨について
14  2/28   1/22 晴 下関 薬品応手録・コーヒーの輸入など
15  3/1    1/23 晴 下関 正午過ぎ乗船 ブロムホフの詩・下関の市街など
16  3/2    1/24 晴 下関出帆  


(その六)「下関から室津上陸」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-20

下関(竹崎付近).jpg

●作品名:下関(竹崎付近) ●Title:A view of Shimonoseki, Takesaki
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

17  3/3   1/25  晴  船中 夜風強まり屋代島の近くに舟をつなぐ
18  3/4   1/26  晴  屋代島の東南牛首崎に上陸・象の臼歯化石発見・三原沖に停泊
19  3/5   1/27  晴  船中 水島灘・阿伏兎観音・琴平山・内海の景観・日比に停泊
20  3/6   1/28  晴  早朝上陸 日比の塩田と製塩法
21  3/7   1/29  晴  日比-室津上陸  室のホテル(建築様式・家具など)
22  3/8   1/30  晴  室滞在 室の付近について・娼家・室明神・室の産物

室津長風図.jpg

作品名:室津長風図 ●Title:A view of Murotu
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

23  3/9   2/1 晴  夜雪  室-姫路 肥料・穢多・非人・大名の献上品など
24  3/10   2/2 雪 姫路-加古川 高砂の角力者の招待

雪景色一.jpg

●作品名:雪景色一 ●Title:Snowscape
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

雪景色二.jpg

●作品名:雪景色二 ●Title:Snowscape
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

25  3/11   2/3 晴   加古川-兵庫 敦盛そば・兵庫の侍医某来訪
26  3/12   2/4 晴  兵庫-西宮 楠正成の墓・生田明神
27  3/13   2/5 吹雪  西宮-大坂  

(その七)「大阪・京都の滞在」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-21

28  3/14   2/6 快晴  大坂滞在 多数の医師来訪・薬品応手録印刷できる

大阪城).gif

≪フォート大阪(※Fort Osaka=大阪城)/ 製造年:1669/ 製造場所:アムステルダム/
源/388 A 6 コニンクリケ図書館/著作権:情報: Koninklijke Bibliotheek          
https://geheugen.delpher.nl/nl/geheugen/view/fort-osaka?facets%5BcollectionStringNL%5D%5B%5D=Nederland+-+Japan&page=2&maxperpage=36&coll=ngvn&identifier=KONB11%3A388A6-NA-P-272-GRAV  ≫

29  3/15   2/7 晴   大坂 二、三の手術を行なう・動脈瘤
30  3/16   2/8 晴   大坂 鹿の畸形・飛脚便について
31  3/17   2/9 晴  大坂-伏見 淀川の灌漑など
32  3/18   2/10 晴 伏見-京都 小森玄良、新宮涼庭らと会う
33  3/19   2/11 晴 京都滞在 小森玄良、小倉中納言来訪

京都の全景.gif

≪「京都の全景」(『日本 : 日本とその隣国、保護国-蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島-の記録集。日本とヨーロッパの文書および自己の観察による。』(雄松堂書店, 1977-1979)「図113」)
http://hdl.handle.net/2324/1000295399
復刻版『Nippon : Archiv zur Beschreibung von Japan』(講談社, 1975)
http://hdl.handle.net/2324/1000951631     ≫

34  3/20   2/12 晴 京都 多数の医師が病人を伴って来る
35  3/21   2/13 晴 京都 来訪者多数・名所見物を帰路に延ばす
36  3/22   2/14 晴 京都 二条城・京都は美術工芸の中心地
37  3/23   2/15 晴 京都 天文台・京都の人口
38  3/24   2/16 晴 京都 明日の出発準備

(その八)「京都より江戸への旅行」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-22

39  3/25   2/17 晴 京都-草津 日付はないが琵琶湖付近の風景の記述

琵琶湖の景.gif

『日本』に掲載されている「琵琶湖の景」(Nippon Atlas. 5-p30)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=29&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229

瀬田川と瀬田橋の景.gif

『日本』に掲載されている「瀬田川と瀬田橋の景」(Nippon Atlas. 5-p29)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=28&r=0&xywh=288%2C799%2C3251%2C3631

40  3/26   2/18 晴  草津-土山 梅木の売薬・植物採集の依頼・三宝荒神
41  3/27   2/19 晴  土山-四日市 鈴鹿山のサンショウウオ
42  3/28   2/20    四日市-佐屋(原文 Yazu)二度の収穫・桑名の鋳物

桑名城 .jpg

●作品名:桑名城  ●Title:A view of the Kuwana Castle
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

43  3/29   2/21 晴  佐屋-宮-池鯉鮒 水谷助六・伊藤圭介・大河内存真同行
44  3/30   2/22 晴  池鯉鮒-吉田 矢矧橋

矢矧橋.jpg

●作品名:矢矧橋 ●Title:Yabiki bridge
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

45  3/31  2/23 曇・雨空  吉田-浜松 雲母の採集・白魚
46  4/1   2/24 晴   浜松-掛川 秋葉山・商館長ヘンミーの墓
47  4/2   2/25 晴・寒  掛川-大井川-藤枝 大井川の渡河・川人足
48  4/3   2/26 強雨 藤枝-府中 軟骨魚類の加工・駿府の木細工と編細工
49  4/4   2/27 晴 府中-沖津 沖津川増水・上席検使に化学実験を見せる
50  4/5   2/28 快晴 沖津-蒲原 製紙・急造の橋
51  4/6   2/29 快晴 蒲原-沼津 富士川の舟・富士山高度・原の植松氏の庭園

原の植松氏庭園.jpg

●作品名:原の植松氏庭園 ●Title:A view of Uematu's garden
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

52  4/7   3/1 晴 沼津-箱根-小田原 中津侯家臣神谷源内一行の出迎え

箱根の湖水(上図)・富士山と富士川(下図).gif

『日本』に掲載されている「箱根の湖水(上図)・富士山と富士川(下図)」(Nippon Atlas. 5-p32)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=31&r=0&xywh=564%2C895%2C2709%2C3026

53  4/8   3/2 雨  小田原-藤原 旅館満員で娼家に泊まる
54  4/9   3/3 晴  藤沢-川崎 長崎屋源右衛門出迎え
55  4/10   3/4 晴  川崎-江戸 薩摩中津両侯大森で、桂川甫賢ら品川で出迎え

(その九)「江戸滞在」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-23

56  4/11 3/5 江戸滞在 面会ゆるされず、桂川甫賢・神谷源内・大槻玄沢ら来訪

江戸の全景.gif

≪「江戸の全景」(『日本 : 日本とその隣国、保護国-蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島-の記録集。日本とヨーロッパの文書および自己の観察による。』(雄松堂書店, 1977-1979)「図123」)
http://hdl.handle.net/2324/1000295399
復刻版『Nippon : Archiv zur Beschreibung von Japan』(講談社, 1975)
http://hdl.handle.net/2324/1000951631    ≫

永代橋より江戸の港と町を望む.gif

『日本』に掲載されている「永代橋より江戸の港と町を望む」(Nippon Atlas. 5-p33)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?reqCode=frombib&lang=0&amode=MD820&opkey=&bibid=1906469&start=&bbinfo_disp=0#?c=0&m=0&s=0&cv=34&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229

57  4/12 3/6 江戸 終日荷解き・薩摩侯より贈物・夜中津侯来訪
58  4/13 3/7 江戸 桂川甫賢、宇田川榕庵から乾腊植物をもらう
59  4/14 3/8 江戸 将軍、その世子への献上品を発送
60  4/15 3/9 江戸 中津島津両侯の正式訪問・日本の貴族
61  4/16 3/10 江戸 最上德内来訪、エゾ、カラフトの地図を借りる 

最上徳内肖像画(比較図).gif

「最上徳内肖像画(合成図)」
左図: 「最上徳内」(シーボルト『日本』図版第1冊46)(「福岡県立図書館」蔵)
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html
右図:「最上徳内肖像」(SAB→「フォン・ブランデンシュタイン=ツェッペリン家」蔵)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-29

62  4/17  3/11  江戸 桂川甫賢・大槻玄沢来訪
63  4/18  3/12  江戸 高橋作左衛門来訪
64  4/19  3/13  江戸 桂川甫賢来訪し、シーボルトの長期滞在の見通しを伝える
65  4/20  3/14  江戸 豚の眼の解剖など手術の講義・地震など
66  4/21  3/15  江戸 最上德内とエゾ語を研究・謁見延期となる
67  4/22  3/16  江戸 付添いの検使、研究に対して好意を示す
68  4/23  3/17  江戸 幕府の医師に種痘を説明
69  4/24  3/18  江戸 天文方の人びと来訪
70  4/25  3/19  江戸 将軍家侍医にベラドンナで瞳孔を開く実験をみせる
71  4/26  3/20  江戸 兎唇の手術・種痘の方法を教える
72  4/27  3/21  江戸 再び二人の子供に種痘
73  4/28  3/22  江戸 ラッコの毛皮を売りにくる
74  4/29  3/23  江戸 天文方来訪
75  4/30  3/24  江戸 幕府の侍医らジーボルトの長期江戸滞在の幕府申請など
76  5/1  3/25  江戸 登城し将軍に拝謁・拝礼の予行と本番など
77  5/2  3/26  江戸 町奉行・寺社奉行を訪問
78  5/3  3/27  江戸 庶民階級の日本人との交際
79  5/4  3/28  江戸 将軍および世子に暇乞いのため謁見・江戸府中の巡察など
80  5/5  3/29  江戸 使節の公式の行列
81  5/6  3/30  江戸 官医来訪
82  5/7  4/1   江戸 中津侯、グロビウス(高橋作左衛門)来訪
83  5/8  4/2   江戸 漢方医がジーボルトの江戸滞在延期に反対するという
84  5/9  4/3   江戸 知友多数来訪〔10以後記事を欠く〕

「渡辺崋山の戯画に描かれたビュルゲル」.gif

「渡辺崋山の戯画に描かれたビュルゲル」抜粋(「ウィキペディア」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%

85  5/10  4/4 江戸  
86  5/11  4/5 江戸  
87  5/12  4/6 江戸  
88  5/13  4/7 江戸  
89  5/14  4/8 江戸  
90  5/15  4/9 江戸 高橋作左衛門が日本地図を示し、後日これを贈ることを約す
91  5/16  4/10 江戸 滞在延期の望みなくなる
92  5/17  4/11 江戸 明日江戸出発と決まる

(その十)「江戸より京都への帰路」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-24

93  5/18  4/12 晴 江戸-川崎 江戸の富士
94  5/19  4/13 晴 川崎-藤沢 鶴見付近のナシの棚
95  5/20  4/14 晴 藤沢-小田原  
96  5/21  4/15 曇 小田原-三島 山崎で江戸から同行した最上德内と別れる
97  5/22  4/16 曇 三島-蒲原 再び植松氏の庭園をみる 

吉原付近.jpg

●作品名:吉原付近 ●Title:A view of Yoshiwara
●分類/classification:旅・江戸参府/Travering to Edo
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館  National Museum of Ethnology, Leiden

98   5/23 4/17 晴   蒲原-府中 牛車について
99  5/24 4/18 晴   府中-日坂 薬用植物のこと
100  5/25 4/19 曇  日坂-浜松 高良斎の兄弟来る
101  5/26 4/20 晴  浜松-赤坂 植物採集とその整理
102  5/27 4/21 豪雨 赤坂-宮 宮で水谷・伊藤らと会う
103  5/28 4/22 晴 宮-桑名-四日市 宮の渡し舟のこと
104  5/29 4/23 晴 四日市-関  
105  5/30 4/24 強雨 関-石部 夏目村の噴泉
106  5/31 4/25 晴 石部-大津 川辺の善性寺の庭・タケの杖・瓦の製法
107  6/1 4/26 曇 大津-京都  

(その十一)「京都滞在と大阪への帰路」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-25

108  6/2 4/27 晴 京都滞在 友人門人、小森、新宮ら来訪・京都特に宮廷など
109  6/3 4/28 晴 京都 宮廷に関する記事
110  6/4 4/29 晴 京都 小森玄良から宮廷の衣裳の話
111  6/5 4/30 晴 京都 小森の家族と過ごす
112  6/6 5/1 晴 京都 所司代・町奉行を訪問
113  6/7 5/2 晴 京都-伏見-大坂 知恩院・祗園社・清水寺・三十三間堂など

京都祇園社.jpg

●作品名:京都祇園社 ●Title:Gionshya shrine, Kyoto
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

北野天満宮.jpg

●作品名:北野天満宮 ●Title:A view of the Kitano Shrine
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

石清水八幡.jpg

●作品名:石清水八幡 ●Title:A view of the Iwashimizuhachiman Shrine
●分類/classification:旅・江戸参府/Traveling to Edo
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

(その十二)「大阪滞在」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-27

114  6/8 5/3 晴 大坂滞在 大坂についての記述
115  6/9 5/4 晴 大坂 研究用品の購入と注文
116  6/10 5/5 晴 大坂 心斎橋・天下茶屋・住吉明神・天王寺など
117  6/11 5/6 晴 大坂 町奉行および製銅家を訪問
118  6/12 5/7 晴 大坂 芝居見物・日本の劇場・妹背山の芝居
シイボルト觀劇圖并シイボルト自筆人參圖.jpg

シイボルト觀劇圖并シイボルト自筆人參圖」(「国立国会図書館デジタルコレクション)
[江戸後期] [写] 1軸(「左側の黒い服を着た人物がシーボルト」「中央の人物(足首を捻挫している)がスチュルレル」「右側の人物がビュルガー(ビュルゲル)」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-24

119  6/13 5/8 晴 大坂 来訪者多数・明日は出発

(その十三)「大阪から長崎への帰路」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-28

120  6/14 5/9 晴  大坂-西宮 肥料船のこと
121  6/15 5/10 晴  西宮-兵庫  
122  6/16 5/11 兵庫 向い風のため出帆延期
123  6/17 5/12 兵庫 向い風のため出帆延期
124  6/18 5/13 兵庫 向い風のため出帆延期
125  6/19 5/14 夜兵庫を出帆
126  6/20 5/15 船中 朝 室の沖合で経度観測
127  6/21 5/16 船中 朝に室の沖合-正午与島にゆく・造船所など
128  6/22 5/17 船中 夜備後の海岸に向かって進み、陸地近くに停泊
129  6/23 5/18 船中 引き船で鞆に入港・正午上陸・夜半に港外へ
130  6/24 5/19 船中 島から島へ進み、夕方御手洗沖・夜半停泊
131  6/25 5/20 船中 御手洗より患者が来て診察をもとむ・家室島の近くに停泊
132  6/26 5/21 船中 風雨強く午後出帆し、上関瀬戸を経て夜上関入港

瀬戸内海(上関・沖の家室).gif

●作品名:瀬戸内海(上関・沖の家室) ●Title:A view of Setonaikai, The Inland Sea
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

133  6/27 5/22 上陸し上関見物・室津へゆく・夜出港
134  6/28 5/23 船中 午後二時過ぎ下関入港
135  6/29 5/24 下関滞在 海峡の図を受け取る・友人来訪

下関 竹崎付近の景.gif

『日本』に掲載されている「下関 竹崎付近の景」(Nippon Atlas. 5-p15)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=14&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229

136  6/30 5/25 下関-小倉  
137  7/1 5 /26  小倉-飯塚  
138  7/2 5/27  飯塚-田代  
139  7/3 5/28  田代-牛津   
140  7/4 5/29  牛津- 嬉野  
141  7/5 6/1   嬉野-大村 出島の友人みな元気との知らせを受ける
142  7/6 6/2  大村-矢上 出迎えの人その数を増す
143  7/7 6/3   矢上-出島 正、同郷人に迎えられ出島につく

(別記その二)「出島商館長江戸参府行列図」周辺

江戸参府行列図.gif

「江戸参府行列図(医師=シーボルトが乗っている駕籠)」
http://blog.livedoor.jp/toyonut/archives/1475250.html

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-12

【 この「江戸参府行列図」(第31図)などは、「シーボルト『日本』の研究と解説(講談社)」所収の「1826年の『江戸参府紀行』(斎藤信稿)」などを参考にすると、次のようである。

 この図(第31図)の、前方の「駕籠」には、「小通詞・岩崎弥十郎」が乗っている。「駕籠かき(人)」は二人、「従僕」(「公設」「私設」かは不明?)は一人である。その後ろの「両掛」(旅行用の行李の一種。また、それを担ぐこと)は、「小通詞・岩崎弥十郎」の「荷物」と「荷物を担ぐ人」(人夫?)ということになる。
 そして、その後ろの「駕籠」には、「公式使節団の一員の『医師』のシーボルト」が乗っている。その「駕籠かき(人)」は四人、「従僕」(「公設」か「私設」かは不明?)は二人、その「「両掛」(旅行用の行李の一種。また、それを担ぐこと)」は、次の図(第32図)に描かれている。)

ここで、「出島商館長江戸参府行列図」の、その「行列」順序は、凡そ次のとおりとなる・

一 「献上品」(「献上品」を担ぐ「馬」と「人夫」)
二 「宰領」(「付添検使」下の「世話人」の一人、乗馬している。「第4図」)
三 「小通詞と医師の図」(上記の「第31図」)
四 「書記の図」(第32図)
五 「使節(商館長)の図」(第33図)
六 「付添検使=」(第37図)
(他に、「総数、四十五図」から成る。) 

(別記)「一八二六年(文政9年)の江戸参府紀行の序」(抜粋)

「シーボルト 江戸参府紀行(1)」

https://plaza.rakuten.co.jp/miharasi/diary/202203280000/

≪ 一八二六年(文政9年)の江戸参府紀行の序

概要

……旅行の準備
……江戸滞在の延長計画
……蘭印政庁の後援
……※日本人との深い理解・公使の不機嫌
……※和蘭使節の一行
……※日本の通詞およびその他の従者の描写
……使用人
……旅行具ならびに他の機具類の装備
……和蘭使節の特権
……ヨーロッパの使節に対する日本的格式の不適当な応用
……旅行進捗の方途・駕寵・挿箱・荷馬・荷牛・駕寵かき
……荷物運搬入についての記述
……郵便制度・運搬人および馬に対する価格の公定
……郵便および飛脚便
……狼煙打上げ式信号
……旅館および宿舎
……浴場
……茶屋など
……国境の警備
……橋
……航海および航海術・造船・造船所・港
……河の舟行
……運河
……堤防   

……※日本人との深い理解・公使の不機嫌(抜粋)
 私が公使ドゥ・スチュルレル大佐から期待したものは、そんなものではなかった。
私は悲しい思いでそのことを告白せざるをえないのであるが、この男はジャワにおいては私の使命に対してたいへん同情をよせ、非常な熱の入れ方で援助を借しまなかったのに、今この日本に来てしまってからは、みずから私の企てに関連していたすべてのことに対して、ただ無関心であったり冷淡であったばかりでなく、無遠慮にも妨害を続けて頓挫させ、困難におとしいれようとさえしたのである。このような不機嫌の原因は何にあったのか。
 政庁の指示によって私の活動範囲が拡大され、私の学問研究にこれまで以上の自主性が重んじられたことによって、よしんぱ彼自身の計画に齟齬(そご)を来たさなかったにせよ、おそらく彼の利害関係を損ったことに、その原因があったのか。
あるいは貿易改善のために彼が行なった提案に対して、政庁があまり都合のよくない決定を下し、それがもとで不満もつのり、それに病弱も加わって、こうした変化をひき起こしたのかどうか、私には判断を下すことができない。しかしいずれにせよ、彼が最初に日本研究のための私の使命と準備とに対して寄せていた功績は、何といっても忘れることができないのである。そして、私は感謝の念をこめてそれを認めるのにやぶさかではない。
(『江戸参府紀行(シーボルト著・斎藤信訳、東洋文庫87:平凡社)』p7)

……※和蘭使節の一行(抜粋)
 先例によると、江戸旅行のわれわれ側の人員は、公使となる商館長と書記と医師のわずか3人ということがわかっていた。私はできることならビュルガー氏とドウ・フィレネーフエ氏を同伴したかったのであるが、今度はとても無理であった。そこでいろいろ面倒な手だてを重ねて、やっとピュルガー氏を書記の肩書で連れていくことが許されるようになった。日本人随員の身分についてはなお若干の所見を加えさせていただきたい。
(『江戸参府紀行(シーボルト著・斎藤信訳、東洋文庫87:平凡社)』p8)

……※日本の通詞およびその他の従者の描写(抜粋)

 (大通詞)
 本来の日本人は外国人との交渉もなく、自国の風習に応じてしつけられ教育されているので……出島でわれわれと交際しているこのような日本人と通詞とが話題にのぼる場合には、こういう相違にいつも留意しなければならない。
 この旅行で重要な役割を演じ、現金の出納を担当し、給人と連帯して政治・外交の業務を行なう大通詞として末永甚左衛門がわれわれに同行した。60歳に近く、立派な教養といくらかの学問的知識をもっていた。彼はオランダ人との貿易には経験も多く、さらに貿易にかこつけて巧みにそれを利用した。
日本流の事務処理にすぐれた能力があり、賢明で悪知恵もあった。また同時に追従に近いほど頭も低く、洗練された外貌をもち非常に親切でもあった。そのうえ物惜しみはしないが倹約家で、不遜という程ではないが自信家であった。甚左衛門は、出島にいる大部分の同僚と同じように、少年時代に通詞の生活にはいり、オランダの習慣に馴れていて、通詞式のオランダ語を上手に話したり書いたりした。フォン・レザノフおよびフォン・クルーゼンシュテルンの率いるロシアの使節が来た時(1804~05年)に、特にペリュー卿の事件(1890年)の際に、彼は幕府のためにたいん役に立ったので、長崎奉行の信望もあつく、恵まれた家庭的な境遇のうちに暮らしていた。
彼は小柄で痩せていたし、少し曲がった鼻と異状な大きさの眼をし、顎(あご)は尖っていた。非常に真面目な話をする時に、彼の口は歪んで微笑しているような表情となり、普段はそういう微笑でわざとらしい親愛の情をあらわすので、鋭い輪郭をした彼の顔は、なおいっそう人目をひき、目立つのである。彼の顔色は黄色い上に土色をおびていた。剃った頭のてっぺんは禿げて光り、うえに上を向いた薄い髷(まげ)がかたく油でかためて乗っていた。

(小通詞)
 小通詞は岩瀬弥十郎といった。彼は60歳を少々越していて、体格やら身のこなし方など多くの点でわれわれの甚左衛門に似ていた。ひどいわし鼻で、両その方の眼瞼(まぶた)はたるみ顎は長く、口は左の笑筋が麻痺していたので、いつもゆがんで笑っているように見えた。大きな耳と喉頭の肥大は彼の顔つきを特徴づけていた。彼は自分の職務に通じていて精励し、旧いしきたりを固くまもった。彼は卑屈なくらい礼儀正しく、同時に賢明だったが、ずるささえ感じられた。しかしそれを彼は正直な外貌でつつんでいたし、また非常にていねいなお辞儀をし、親切で愛想もよく、駆け足と言ってよいぐらいに速く歩いた。
 彼の息子の岩瀬弥七郎はたいそう父親似であった。ただ父は病気と年齢のせいで弱かったのに対し、息子の方は気力に欠けた若者だった点が違っていた。そうはいうものの噂では彼は善良な人間で、お辞儀をすることにかけてはほとんど父に劣らず、何事によらず「ヘイヘイ」と答えた。彼は世情に通じていたし、女性を軽視しなかった。女性だちといっしょにいるとき、彼はいつでもおもしろい思いつきをもっていた。またわれわれに対してはたいへん親切で日常生活では重宝がられた。彼は今度は父の仕事を手伝うために、父の費用で旅行した。

 (公使=商館長の「私設通詞」)
 公使の私的な通訳として、野村八太郎とあるが、NAMURA(名村)の誤り〕とかいう人がわれわれに随行した。当時われわれと接していた日本人のうちで、もっとも才能に恵まれ練達した人のひとりであったことは確かである。彼は母国語のみならず支那語やオランダ語に造詣が深く、日本とその制度・風俗習慣にも明るく、たいへん話好きで、そのうえ朗らかだった。彼の父は大通詞だったが、退職していた。だから、父が存命していて国から給料をもらっている間は、息子の方は無給で勤めなければならなかったし、そのうえ息子八太郎は相当な道楽者だったから、少しでも多くの収入が必要だったのに、実際にはわずかしかなかった。信用は少なく、借金は多かった。二、三のオランダの役人と組んで投機をやり、いくばくかの生計の資を得ていた。彼自身はお金の値打ちを知らなかったが、お金のためにはなんでもやった。われわれの間で彼を雇ってやると、たいそう満足したし、それで利益があると思えば、いつもどんな仕事でもやってのけた。彼は痩せていて大きな体格をしていた。幅の広い円い顔にはアバタがいっぱいあったし、鼻はつぶれたような格好をしていたし、顎は病的に短く、大きな口の上唇はそり返り、そこから出歯が飛び出して、彼の顔の醜さには非の打ちどころがなかった。

 (付添検使=御番上使=給人)
 日本人の同伴者のうちで最も身分の高い人物は給人で、御番上使とも呼ばれ、出島ではオッペルバンジョーストという名で知られていた。彼の支配下に三人の下級武士がいて、そのうちのひとりはオランダ船が長崎湾に停泊している時には見張りに当たるので、船番と呼ばれていた。それからふたりの町使で、これは元来わが方の警察官の業務を行なう。船番の方は出島では、普通オンデルバンジョーストは「下級」の意〕と呼ばれ、町使の方は出島の住人にはバンジョーストという名でと名づている。長崎奉行の下には通常一〇名の給人がいる。大部分は江戸から来ている警察官〔役人のこと〕で、公務を執行している。彼らは国から給料を受けていない。彼らが役所からもらっている給金はごくわずかだが、彼らが……合法と非合法とによって受けとる副収入はなおいっそう多かった。貿易の期間中、彼らは出島で交替に役目についた。彼らは重要な業務において奉行の代理をつとめるから、貿易並びにわれわれ個人の自由に対し多大の影響を与えた。輸出入に関しては彼らはわれわれの国の税関吏と同様に全権を委ねられ、従って密貿易の鍵を手中におさめていた。そういうわけだから、彼らは奉行所の書記や町年寄の了解のもとで、密輸に少なからず手加減を加えた。
長崎奉行のこういう役人のひとりが例の給人で、今度の旅行でわれわれに随行することになっていた。役所は彼に厳命を下し、その実行に責任をもたせ、彼に日記をつけさせ、旅行が終わったとき提出させた。われわれに同行するそのほかの武士や通詞たちも、互いに監視し合う目的で日記帳を用意しておく責任があった。
それゆえ彼らは手本として、また旧習を重んずる意味で以前の参府旅行の日記を携えてゆき、疑わしい場合にはそれを参考にして解明していくのである。我々は我々と行をともにする給人一名をカワサキ・ゲンソウ(Kawasaki GenzO)といった……を賢明で勇気ある男として知り合っていた。
 彼の部下たちは彼を手本として行動した。上述の通詞や武士たちのほかに、四人の筆者と二人の宰領・荷物運搬人夫の監督一人・役所の小使7人・われわれのための料理人2人・日本の役人の仕事をする小者31人と料理人1人、従って随員は日本人合計57名であった。

 (従者)
 われわれの従者は誠実で信用のおける人々であった。彼らは若いころから出島に出仕していた。彼らのうちで年輩のものは、かつて上司の指揮のもとでこういう旅行に加わった経験があって、旅行中すばらしく気転がきき、職務上や礼儀作法にかかわるいっさいに通じていた。また彼らは、わかりやすいオランダ語を話したり書いたりした。

 (シーボルトの「私設従者」など)
 私の研究調査を援助してもらうために、私はなお2、3の人物を遮れて行った。彼らのうち一番初めには高良斎(注・阿波出身の医師、「鳴滝塾」出身)をあげるが、彼はこの2年来私のもっとも熱心な門人に数えられていたひとで、四国の阿波出身の若い医師であり、特に眼科の研究に熱心であった。けれども私か彼をえらぶ決心をしたのは、日本の植物学に対するかれの深くかつ広範な知識と、漢学に造詣が深くオランダ語が巧みであったこと、さらにまた彼が信頼に値し誠実であったからである。彼は私によく仕えた。私が多くの重要なレポートを得たのは、彼のおかげであるといわざるをえない。
画家としては登与助(注・「川原慶賀」)か私に随行した。彼は長崎出身の非常にすぐれた芸術家で、とくに植物の写生に特異な腕をもち、人物画や風景画にもすでにヨーロッパの手法をとり入れはじめていた。彼が描いたたくさんの絵は私の著作の中で彼の功績が真実であることを物っている。
 乾譜標本や獣皮の作製などの仕事は弁之助とコマキ〔これは熊吉の誤り〕にやらせた。私の召使のうちのふたりで、こういう仕事をよく教えこんでおいたのである。
これらの人々のほかにひとりの園丁と三人の私の門人が供に加わった。それは医師の敬作(注・「二宮敬作」=宇和島の医師、「鳴滝塾」出身)・ショウゲン(注・宗氏の家臣の古川将監?・「鳴滝塾」出身?)・ケイタロウ(通詞の西慶太郎?・「鳴滝塾」出身?=後に長崎医学校の教官)の三人で、彼らは助手として私に同行する許可がえられなかったので、上に述べた通訳たちの従者という名目で旅行に加わった。彼らは貧乏だったので、私は彼らの勤めぶりに応じて援助してやった。私は2、3人の猟師を長綺の近郊でひそかに使っていたので、できれば連れて行きたかったのだが、狩猟はわれわれの旅行中かたく禁じられていた。≫(『江戸参府紀行(シーボルト著・斎藤信訳、東洋文庫87:平凡社)』p12)  】
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。