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江戸絵画(「金」と「銀」と「墨」)の空間(その十四) [金と銀と墨の空間]

(その十四)鈴木守一筆「不二山図」

守一・東下り.jpg

鈴木守一筆「不二山図」 一幅 絹本著色 一〇四・五×三九・五㎝ 個人蔵
(「『描表装(かきびょうそう)』」は省略)
出典(『琳派―版と型の展開(町田市立国際版画美術館編)』)

 これは、江戸琳派の創始者・酒井抱一(宝暦十一年・一七六一~文政十一年・一八二八)でも、その継承者・鈴木其一(寛政八年・一七九六~安政五年)の作でもない。その其一の子・鈴木守一(文政六年・一八二三~明治二十三・一八八九)の作である。
 守一は、琳派の継承者だが、江戸時代の画家というよりも、幕末・明治時代の画家ということになる。しかし、この絵もまた、次の其一の作品の「型」を踏襲し、景物(富士山など)の配置や人物(主人公と従者)の向きなどに変化をもたらしているということになろう。

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鈴木其一筆「業平東下り図」 一幅 絹本著色 一九六・二×五五・〇㎝
遠山記念美術館蔵 (「『描表装(かきびょうそう)』」は省略)
【『伊勢物語』は、色好みの美男として伝説化された平安の歌人・在原業平(825―880)を主人公にした歌物語で、成立当初から人気があったようです。そのためか物語の絵画化も早く、十世紀には絵巻などのかたちで鑑賞されたといいます。時代が下るにつれて、取り上げられる‘名場面’が固定化、第九段の「東下り」もそのひとつです。恋に破れて東国に旅立った主人公が駿河国に至って、初めて富士山を望みます。その雄大さと夏(旧暦)に雪を戴く姿に驚き、「時しらぬ山は富士の嶺いつとてか鹿子まだらに雪の降るらむ」と歌を詠む場面です。鈴木其一は江戸琳派の始祖・酒井抱一の高弟で、洗練された機知的な画風が魅力。この作品では、裂(きれ)であるはずの表具の部分を描いてしまう一種のだまし絵『描表装(かきびょうそう)』の四季の花々が雅やかです。 】

https://www.e-kinenkan.com/collection/c1t6.html

 これらの基になっているものは、次の『光琳百図』に因っているということになる。

光琳百図・東下り.jpg

『光琳百図』上の最初の頁の図「業平東下り図」(題名は表示されていない)(国立国会図書館デジタルコレクション)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850491

 この光琳の「業平東下り図」は、先に、下記のアドレスで紹介した「業平東下り図(伊勢物語富士山図)」(五島美術館蔵)も、その一つなのであろうが、それは従者が数人描かれており、上記の『光琳百図』の図柄のようなものも、別にあるものと解したい。
 そして、琳派の「型」の踏襲とは、抱一が編んだ『光琳百図』に基づく「光琳写し」が、その基本ということになろう。

(参考)
『 光琳百図 』 著者 : 尾形光琳〔画〕酒井抱一〔編〕
尾形光琳の顕彰とその画風の復興のために、酒井抱一が刊行した『光琳百図』は、化政期江戸画壇の狩野派を驚倒し、琳派の華ばなしい誕生を告げるとともに、光琳芸術を後世に伝える唯一の作品集。草花・鳥獣・人物・山水など200余図は、繊細な情感にあふれ、その斬新なかたちと装飾性は、現代の絵画と工芸に多くの示唆を与えてやまない。

尾形光琳[1658年〜1716年6月2日] 江戸中期の画家・工芸意匠家。京都の人。名は惟富、通称、市之丞。乾山の兄。初め狩野派を学び、のち光悦や宗達の作風の影響を受け、大胆で軽妙な画風により独自の造形美を展開、琳派を確立した。 代表作に「燕子花(かきつばた)図屏風」「紅白梅図屏風」など。 蒔絵(まきえ)にも優れた作品を残した。

酒井抱一[1761年〜1828年] 江戸後期の画家。江戸の人。 名は忠因(ただなお)。通称栄八。別号、鶯村(おうそん)。姫路城主酒井忠以(さかいただざね)の弟。尾形光琳(おがたこうりん)に傾倒。 琳派の画風に繊細な叙情性を加味し、同派の最後を飾った。 俳諧・和歌・書などにも長じた。

http://lib.soka.ac.jp/todayBook/20110602.html
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江戸絵画(「金」と「銀」と「墨」)の空間(その十三) [金と銀と墨の空間]

(その十三)酒井抱一筆【宇津山図・桜町中納言・東下り」(三幅対)

抱一・東下り.jpg

酒井抱一筆 三幅対「宇津山図・桜町中納言・東下り」(絹本着色 各九九・一×三五・〇㎝ 個人蔵) 出典(『琳派―版と型の展開(町田市立国際版画美術館編)』)

 上記の右図が「宇津山図」、これに関連して、抱一の「宇津山図(山路図)」については、前回で触れた。中央の図は「桜町中納言」図で、「桜町中納言」とは、「藤原成範」のことで、『伊勢物語』の主人公とする説などについても前回に簡単に触れた。そして、この左図は、「東下り」図で、下記のような三幅対のものもある。

抱一・東下り六.jpg

酒井抱一筆「伊勢物語東下り・牡丹菊図」 三幅対 絹本着色 個人蔵 
各一〇九・五×四㈣・〇㎝
【 光琳画に由来する東下りの図は、非常によく求められたようで、構成を少しずつ違えた多くの作例が伝わる。本図は中幅に富士山を描いた東下り図を完結し、脇幅として白牡丹と白菊図を囲むような構図で添えた清雅な三幅対。抱一に続き其一の作例も多く伝え関係が示唆される。蜂須賀家の伝来になる。 】(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』)

 この右の「牡丹」図には、白蝶と黒蝶(黒揚羽)とが飛んでいる。左の「菊」図には、二羽の「赤蜻蛉」が飛んでいる、「牡丹」(白牡丹)と黒揚羽蝶は、夏の季語、白蝶も「夏の蝶」なのであろう。「菊」(白菊)と赤蜻蛉は、秋の季語で、俳人でもある抱一の芸の細かさ・遊び心の表れなのであろう。
 中央の図(中幅)の、馬上の主人公(在原業平か藤原成範かの主人公)は、黒揚羽蝶と白蝶に目をやり、従者は顔を後ろ向きにして二羽の赤蜻蛉を見ている。そして、馬上の主人公の上部には、『伊勢物語』(第九段)の「東下り」の一場面の「駿河(宇津・富士)」の「富士」が聳えている。
 これは、中央(中幅)が人物(在原業平か藤原成範かの主人公と従者)、左右の脇幅が景物(牡丹と菊)なのだが、中幅が景物(冨士山とその前景)、左右の脇幅が人物(主人公と従者)という三幅ものがある。

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(上図)酒井抱一筆「不二山図」三幅対 絹本着色 一〇四・五×三九・五㎝ (個人蔵)
(下図)『光琳百図』(酒井抱一編)の「東下り図」(主人公と儒者)
出典(『琳派―版と型の展開(町田市立国際版画美術館編)』)

 上記の「下図」の『光琳百図』のものは、下記のアドレスで見ることが出来る。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850491

 ここで、冒頭の「宇津山図・桜町中納言・東下り」の「桜町中納言」(藤原成範)について触れて置きたい。
『伊勢物語』第九段「東下り」(下記「参考」)の「むかし、男ありけり」の、この「男」(主人公)は、「在原業平」というのが通説で、異説として、『伊勢物語』第十六段(「紀有常」)の「紀有常(きのありつね)」という説がある。  
 その主たる理由は、その第九段の前の第八段(「浅間の嶽」・下記「参考」)が、業平では不自然で、「下野権守・信濃権守と東国の地方官を務めた紀有常」の方が、第八段(「浅間の嶽」)と第九段(「東下り」)との続き具合からして相応しいというようなことであろう。
 それに対して、冒頭の「宇津山図・桜町中納言・東下り」の「桜町中納言(藤原成範)」こそ、「藤原通憲(信西)と後白河天皇乳母紀二位の子。久寿1(1154)年叙爵。平治の乱(1159)でいったん解官,配流されるが許され,平清盛の娘婿であったことも手伝い、のちには正二位中納言兼民部卿に至る」の、「配流の地(「下野」)などからして、「桜町中納言(藤原成範)」こそ、最も相応しいというようなことなのであろう。

 その上で、上記の主人公(「むかし男ありけり」)を、「業平・有常・成範」の、それぞれに置き換えてみると、当時の「王朝文化」「公家文化」から「武家文化」かが浮かび上がって来る。
 そして、それを描くのは、次の時代を背負う「町人(庶民)文化」の、「宗達・光琳・抱一」、そして、この「桜町中納言(藤原成範)」を主題して来るのは、酒井抱一(「江戸琳派の創始者」)の影武者のような、次の時代の、「江戸琳派の立役者・鈴木其一」なのかも知れない。

(参考)『伊勢物語』 第八段(「浅間の嶽」)・第九段(「東下り」)

第八段(「浅間の嶽」)

むかし、男ありけり。京や住み憂かりけむ、あづまのかたにゆきて住み所もとむとて、ともとする人、ひとりふたりしてゆきけり。信濃の国、浅間の嶽に、けぶりの立つを見て、
 信濃なる浅間の嶽にたつ煙
  をちこち人の見やはとがめぬ

第九段(「東下り」)

(三河の国)
 むかし、男ありけり。その男、身をえう(要)なきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき国求めにとて行きけり。もとより友とする人、ひとりふたりして、いきけり。道知れる人もなくて惑ひ行きけり。
 三河の国、八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ八橋といひける。その沢のほとりの木の蔭に下り居て、餉食ひけり。その沢に、かきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、
「かきつばたといふ五文字を、句の上に据ゑて、旅の心をよめ」
といひければよめる。
唐衣 着つつなれにし つましあれば
はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ
とよめりければ、みな人、餉の上に涙落して、ほとひにけり。

(駿河の国)
 行き行きて駿河の国にいたりぬ。宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、つたかえでは茂り、物心ぼそく、すずろなるめを見ることと思ふに、修行者あひたり。
「かかる道はいかでかいまする」
といふを見れば、見し人なりけり。京に、その人の御もとにとて、文書きてつく。
駿河なる 宇津の山辺の うつつにも
夢にも人に 逢はぬなりけり
富士の山を見れば五月のつごもりに雪いと白う降れり。
時知らぬ 山は富士の嶺 いつとてか
鹿の子まだらに 雪の降るらむ
その山は、ここにたとへば比叡の山を二十ばかり重ねあげたらむほどして、なりは塩尻のやうになむありける。

(すみだ河)
 なほゆきゆきて、武蔵の国と下つ総の国とのなかにいと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。その河のほとりにむれゐて、思ひやれば、かぎりなく遠くも来にけるかな、とわびあへるに、渡守、
「はや船に乗れ、日も暮れぬ」
といふに、乗りて渡らむとするに、みな人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さるをりしも、白き鳥の、はしとあしと赤き、鴫の大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見しらず。渡守に問ひければ、
「これなむ都鳥」
といふを聞きて、
名にしおはば いざ言問はむ 都鳥
わが思ふ人は ありやなしやと
とよめりければ、船こぞりて泣きにけり。

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