SSブログ

「鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その三) [光悦・宗達・素庵]

その三 「序」(その三)

鶴下絵和歌巻・全体.jpg

「鶴下絵三十六歌仙和歌巻、別称『鶴図下絵和歌巻』」(絵・俵屋宗達筆 書・本阿弥光悦筆 紙本著色・34.0×1356.0cm・江戸時代(17世紀)・ 重要文化財・A甲364・京都国立博物館蔵)
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item02.html

【 室町時代、摂関家の近衛尚道(関白太政大臣、歌人、能書家)は、俊成が三首ずつ選出した本(俊成本)に、さらに尚道好みの一首を加えて歌仙歌合をつくった。尚道通補『三十六人歌合』(尚道増補本と略称)と呼ばれる。
 天理図書館の尚通増補本の奥書には、「右歌仙哥尤号秀悦/之歌三首筒俊成卿被注/置了奥一首者近衛殿尚通公/被書加訖(右歌仙の哥、尤も秀逸と号するの歌、三首ずつ俊成卿注し置かれ了(おわ)んぬ。奥一首は近衛殿尚通公書き加へられ訖(おわ)んぬ。)とある。
 その天理図書館本では、一六人は各四首、二〇人は各三首が選歌されている。合計一二四首。尚道増補本の歌仙一六人の増補歌は、僧正遍照の代表歌「天津風」以外、すべて公任選『三十六人撰』のなかから選ばれている。尚通増補本は、俊成本に公任本所収の歌を追増補した秀歌撰で、後世、書写の過程で、脱落や増補が加わり、いくつかの異本が生じたものと考えられる。(中略)
 『鶴下絵和歌巻』の和歌本文は、尚通増補本の歌から各一首を選んで揮毫したものだ。揮毫者は染筆にあたって、この尚通増補本をもとに自身の好みの一首歌仙本の「手控え」をつくったと考えられる。(中略)
 『鶴下絵和歌巻』は、最初に左方の歌人一八名、ついで右方の歌人一八名の歌一首ずつを書き連ねている。その結審は公任本にならう。『鶴下絵和歌巻』の和歌本文は、大きな失敗を二つ犯している。すなわち(五番左)素性法師と(六番左)猿丸大夫の順番を間違えて揮毫したことだ。これでは、三六人の歌合は成立しない。なぜなら、歌合の番いはすでに決定しているからだ。また、(一八番右)中務の和歌を揮毫し終えて、(一一番右)源重之と(一二番右)源信明朝臣の歌を書き漏らしたことに気づき、最後に、(一〇右)大中臣頼基と(一三番)源順の歌のあいだに、その二首を本紙上部に細字で書き入れたことだ。
 和歌本文中にも、「見せ消ち(元の字を読めるままにし、且つ抹消していることを示す消し方)」による訂正箇所が数か所見られる。たとえば、徽子女王の歌は、最初「ぬる夢にうつゝのうさもわすられて おもひわするゝほどぞはかなき」と書き、誤りに気づき、「わするゝ」の左側に抹消点を打ち、「なくさむ」と右側に傍書し訂正する。写本では、目移りによる誤写・誤字・脱字はつきものだ。ゆえに、「見せ消ち」は許容されている。しかし、調度手本の当該和歌巻では、それはたいへん見苦しいものがある。和歌巻としては、失敗作となる。和歌巻の揮毫者はそのことを無念に思ったであろう。
 本揮毫者は、最後の和歌を染筆し終えて、はたして古歌染筆の慣例を破ってまで自身の印を誇らしく捺印しようとするものだろうか。なんの意義があるのか。とうてい捺印できるものではない。先学はそのことをなぜ疑問に思わなかったのだろう。
 当初、そこには印章が捺されていなかったと考えるのが自然ではないか。捺印された「光悦」印が光悦の意思や光悦の存在とは関係なく、後世に捺された「後印」(偽印)ではないかと疑った根拠はそこにある。 】(『宗達絵画の解釈学(林進著・慶文舎刊・2016年)』「『三十六歌仙歌合』を探る」「歌人名の表記は『尚通増補本』」)

(周辺メモ)

一 【『鶴下絵和歌巻』の和歌本文は、尚通増補本の歌から各一首を選んで揮毫したものだ。揮毫者は染筆にあたって、この尚通増補本をもとに自身の好みの一首歌仙本の「手控え」をつくったと考えられる。】関連について

 公任撰の『三十六人撰』、俊成の『俊成三十六人歌合』については、先の「序(その一)」で触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-02-19

 これらは、『王朝秀歌選(樋口芳麻呂校注・岩波文庫)』に収載され、『尚道増補本』についても、その『俊成三十六人歌合』の「解題」で紹介されており、【『鶴下絵和歌巻』の和歌本文(和歌と歌人名)は、この『尚通増補本』に基本的に依拠しているということについて、正面から異を唱える人は少ないのではなかろうか。
 しかし、それは『俊成三十六人歌合・尚通増補本』であって、「歌合=『歌の作者を左右に分け、その詠んだ歌を各一首ずつ組み合わせて、判者が批評、優劣を比較して勝負を判定した一種の文学的遊戯。平安初期以来宮廷や貴族の間で流行した。歌競べ。歌結び。』(精選版 日本国語大辞典)」が前提となり、例えば、「佐竹本三十六歌仙(絵巻)」でも「上巻(左方)」と「下巻(右方)」との二巻からなり立っていたというのが原則である。
 そして、それは、「序(その一)」で触れたように、次のような「上巻(左方)」(十八人)と「下巻(右方)」(十八人)との番い(組合せ)が基本となっている

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-02-19

「「三十六歌仙」とは、一般的には、藤原公任(966-1041)による歌合形式の秀歌撰『三十六人撰』(以下略称「撰」)にもとづく三十六人の歌人を指す。
 その歌人は、「柿本人麻呂(上段①)=紀貫之(下段①)、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね・上段②)=伊勢(下段②)、大伴家持(上段③)=山部赤人(下段③)、在原業平(上段④)=僧正遍昭(下段④)、素性法師(上段⑤)=紀友則(下段⑤)、猿丸大夫(上段⑥)=小野小町(下段⑥)、藤原兼輔(上段⑦)=藤原朝忠(下段⑦)、藤原敦忠(上段⑧)=藤原高光(下段⑧)、源公忠(上段⑨)=壬生忠岑(下段⑨)、斎宮女御(上段⑩)=大中臣頼基(下段⑩)、藤原敏行(上段⑪)=源重之(下段⑪)、源宗于(むねゆき・上段⑫)=源信明(下段⑫)、藤原清正(きよただ・上段⑬)=源順(下段⑬)、藤原興風(上段⑭)=清原元輔(下段⑭)、坂上是則(上段⑮)=藤原元真(もとざね・下段⑮)、小大君(上段⑯)=藤原仲文(下段⑯)、大中臣能宣(上段⑰)=壬生忠見(下段⑰)、平兼盛(上段⑱)=中務(なかつかさ・下段⑱)」である。

 これが、『鶴下絵和歌巻』では、二巻ものでなく一巻もので、当初から「34.0×1356.0cm」の長大な料紙(鶴下絵)に、公任の選んだ「三十六歌仙」を、「歌合」(左方と右方との番い)形式ではく「一首秀歌選」形式で、その三十六人の「歌人名と和歌一首」を揮毫したものという見方が、最も素直な理解のように思われる。その順序を羅列すると次のとおりとなる。

「1人麿→2躬恒→3家持→4業平→5素性→6猿丸→7兼輔→8敦忠→9公忠→10斎宮→11宗于→12敏行→13清正→14興風→15是則→16小大君→17能宣→18兼盛 :19 貫之→20伊勢→21赤人→22遍照→23友則→24小町→25朝忠→26高光→27忠岑→28頼基→29重之→30信明→31順→32元輔→33元真→34仲文→35忠見→36中務」

二 【『鶴下絵和歌巻』は、最初に左方の歌人一八名、ついで右方の歌人一八名の歌一首ずつを書き連ねている。その結審は公任本にならう。『鶴下絵和歌巻』の和歌本文は、大きな失敗を二つ犯している。すなわち(五番左)素性法師と(六番左)猿丸大夫の順番を間違えて揮毫したことだ。これでは、三六人の歌合は成立しない。なぜなら、歌合の番いはすでに決定しているからだ。また、(一八番右)中務の和歌を揮毫し終えて、(一一番右)源重之と(一二番右)源信明朝臣の歌を書き漏らしたことに気づき、最後に、(一〇右)大中臣頼基と(一三番)源順の歌のあいだに、その二首を本紙上部に細字で書き入れたことだ。】関連について

 この『鶴下絵和歌巻』を、「歌合」形式ではなく「一首秀歌選」形式と解するならば、「(五番左)素性法師と(六番左)猿丸大夫の順番を間違えて揮毫した」というミスは許容範囲
ということになる。そして、「(一八番右)中務の和歌を揮毫し終えて、(一一番右)源重之と(一二番右)源信明朝臣の歌を書き漏らしたことに気づき、最後に、(一〇右)大中臣頼基と(一三番)源順の歌のあいだに、その二首を本紙上部に細字で書き入れたことだ」ということは、下記のとおり、上部の落下する鶴の箇所に、見事に八行の散らし書きで揮毫したもので、ミスというよりもそれを逆手に取っての妙手として称賛に値するものとの解も可能であろう(これは「O図で後述)。

鶴下絵O図.jpg

「鶴下絵三十六歌仙和歌巻、別称『鶴図下絵和歌巻』」の「O図」

三 【本揮毫者は、最後の和歌を染筆し終えて、はたして古歌染筆の慣例を破ってまで自身の印を誇らしく捺印しようとするものだろうか。なんの意義があるのか。とうてい捺印できるものではない。先学はそのことをなぜ疑問に思わなかったのだろう。当初、そこには印章が捺されていなかったと考えるのが自然ではないか。捺印された「光悦」印が光悦の意思や光悦の存在とは関係なく、後世に捺された「後印」(偽印)ではないかと疑った根拠はそこにある。】関連について

鶴下絵S図.jpg

「鶴下絵三十六歌仙和歌巻、別称『鶴図下絵和歌巻』」の「S図」

 ここは大きな問題点を内包しているので、このスタート時点の「序」で触れるというよりも、全体(A図~S図)を通して、そして最終のゴール地点でどのように解すべきものなのかとステップを踏んで行きたい。
 ここでは、序(その一)で触れた、昭和四十七年(一九七二)に東京国立博物館創立100年を記念して開催された「創立百年記念特別展 琳派」展の図録『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編・1972年)』に収載されている、次の参考E図を紹介して置きたい。

猿書.jpg

参考E図 56 金銀泥薄下絵和歌巻(猿書)本阿弥光悦 一巻 畠山記念美術館
紙本墨書 32.5×465.0㎝
【 金銀泥で大胆に薄を描いた巻物に、『新古今集』の中から抄出した和歌を揮毫する。巻末には本文と同筆で「猿書」の署名を加えるが、それが何を意味するものか明らかではない。しかし、本文の筆致はまぎれもなく光悦のもの。とすれば、この”猿”と光悦とは、如何なる関係にあるのだろうか。 】(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編・1972年)』所収「作品56 解説」)

 ここに捺されている「光悦」の印と、『鶴下絵和歌巻』の巻末の「光悦」の印とは、同種のもののように解したい。そして、この「猿(申)書」とは、これも、「序」(その一)で触れている『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭編著・2004年)』で、その「字母表」(後述)の「光悦・素庵・黒雪・嵯峨本」で紹介されている、「徳川家康に厚く用いられ、駿府から京に進出して徳川家お抱えの大夫として活躍。のち慶長15(1610)年5月に駿府を出奔して高野山に籠もり、服部慰安斎暮閑を名乗ったがその2年後には帰参して観世左近大夫暮閑と称する」(出典: 朝日日本歴史人物事典)の、その「黒雪」その人の書と解することも出来よう(これらのことに関しては、最終地点のゴールの地点で明らかにされることで、ここでは問題提起にとどめて置きたい)。

(追記一)

「参考E図 56 金銀泥薄下絵和歌巻(猿書)本阿弥光悦 一巻 畠山記念美術館 紙本墨書 32.5×465.0㎝」の解説中、「『新古今集』の中から抄出した和歌を揮毫する」の『新古今集』は『古今集』のミスで、この歌は「年ふればよはひは老いぬしかはあれど花をし見れば物思ひもなし」(藤原良房)の『古今集』の一首である。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yosihusa.html

染殿の后のおまへに花瓶(はながめ)に桜の花をささせたまへるを見てよめる
年ふれば齢(よはひ)は老いぬしかはあれど花をし見れば物思ひもなし(古今52)

【通釈】年を重ねたので齢は老いた。そうではあるが、美しい花を見れば、悩みなどありはしない。
【語釈】◇染殿の后 良房の娘、明子(あきらけいこ。828-900)。文徳天皇の女御、清和天皇の母。のち皇太后、太皇太后を称される。
【補記】染殿の后、すなわち娘明子(あきらけいこ)の御前の花瓶に挿した桜を見て詠んだという歌。桜の花は、天皇の母となった娘の隠喩であり、その栄華の隠喩である。

(追記二)『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭編著・2004年)』では、「僧覚盛の歌合形式」を参考としているのだが(P57)、そこでの「三十六歌仙」は次のようなもので、それと『鶴下絵和歌巻』のものとの関連は、次のようになる。

http://www.arc.ritsumei.ac.jp/opengadaiwiki/index.php/三十六歌仙

『鶴下絵和歌巻』と『覚盛本(東洋画題綜覧)』との関連(注一※は「左方」、※※=「右方」、注二=括弧書きの「和歌」は『鶴下絵和歌巻』のもの)

※ほのぼのと明石の浦のあさ霧に島がくれゆく舟をしぞ思ふ     柿本人麿
※※桜散る木の下かぜはさむからで空にしられぬ雪ぞ降りける    紀貫之
(白露の時雨もいたくもる山の下葉残らず色づきにけり)
※いつくとも春の光はわかなくにまだみよし野の山は雪ふる     几河内躬恒
※※三輪の山いかにまち見む年ふとも尋ぬる人もあらじと思へば   伊勢
※春の野にあさる雉の妻こひにおのがありかをそこと知れつゝ    中納言家持
(かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける)
※※和歌の浦にしほみちくればかたをなみ葦べをさして田鶴なきわたる 山辺赤人
(明日からは若菜摘まむと占めし野に昨日も今日も雪は降りつつ)
※世の中にたえてさくらのなかりせば春のこころはのどけからまし   在原業平
(月やあらぬ春や昔の春ならぬ 我が身一つは元の身にして)
※※たらちねはかゝれとてしもぬばたまの我が黒髪はなですやありなむ 僧正遍昭
(末の露本の滴や世の中の遅れ先立つためしなるらむ)
※見渡せばやなぎさくらをこきまぜて都ぞ春のにしきなりける     素性法師
(今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ち出つるかな)
※※夕ざればさほの河原のかは風に友まどはして千鳥なくなり      紀友則
(東路の小夜の中山なかなかに何しか人を思ひ初めけむ)
※をちこちのたつきもしらぬ山中におぼつかなくも呼子鳥かな     猿丸太夫
※※わびぬればみをうき草のねをたえてさそふ水あらばいなむとぞ思ふ 小野小町
(色見えで移ろふものは世の中の 人の心の花にぞありける)
※みじか夜のふけゆくまゝに高砂のみねの松風ふくかとぞ聞く     中納言兼輔
(みかの原分きて流るる泉川 いつ見きとてか恋しかるらむ)
※たれをかも知る人にせむ高砂の松もむかしの友ならなくに      藤原興風
※※かくばかりへがたく見ゆる世の中にうらやましくもすめる月かな  藤原高光
※ゆきやらで山路くらしつ郭公いま一こゑのきかまほしさに      源公忠朝臣
※※子の日する野辺に小松のなかりせば千代のためしに何をひかまし  壬生忠岑
(春立つと言うばかりにやみよ吉野の山も霞みて今朝は見ゆらむ)
※琴の音にみねの松風かよふらしいづれのをよりしらべそめけむ    斎宮女御
(寝る夢に現(うつつ)の憂さを忘られて思ひ慰む程ぞかなしき)
※※ひとふしに千代をこめたる杖なればつくともつきじ君がよはひは  大中臣頼基
※秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる    藤原敏行
※※風をいたみいはうつ波のおのれのみくだけてものを思ふころかな  源重之
(筑波山端山繁(しげ)山繁けれども 思ひ入るに障らざりけり)
※ときはなる松のみどりも春くればいまひとしほの色まさりけり    源宗于朝臣
※※恋しさはおなじ心にあらずとも今よひの月を君みざらめや     源信明朝臣
(あたら夜の月と花とを同じくは あはれ知れらむ人に見せばや)
※天つ風ふけゐの浦にすむたづのなどか雲井に帰らざるべき      藤原清正
(子の日しに占めつる野辺の姫小松引かでや千代の蔭を待たまし)
※※水のおもにてる月なみを数ふれば今宵ぞ秋のもなかなりける   源順
※※あふことの絶えてしなくばなかなかに人をも身をも恨みざらまし 中納言朝忠
(万代(よろづよ)の初めと今日を祈り置きて今行末は神ぞ知るらむ)
※伊勢の海ちひろの浜にひろふともここそ何てふかひかあるべき   権中納言敦忠
(身にしみて思ふ心の年経(ふ)れば 遂に色にも出でぬべきかな)
※※秋の野ははぎのにしきをふるさとに鹿の音ながらうつしてしかな 清原元輔
(契りなき互(かたみ)に袖を絞りつつ末の松山波越さじとは)
※みよし野の山のしら雪つもるらしふる里寒くなりまさるなり    坂上是則
※※咲きにけり我が山里の卯の花は垣根にきえぬ雪と見るまで     藤原元真
(あらたまの年を送りて降る雪に 春とも見えぬ今日の空かな)
※岩はしの夜のちぎりもたえぬべし明くるわひしきかつらぎの神  三条院女蔵人左近
※※有明の月の光りをまつほどに我夜のいたく更けにけるかな    藤原仲文
※千年までかぎれる松もけふよりは君がひかれてよろづ代やへむ  大中臣能宣
(御垣守り衛士(ゑじ)のたく火の夜は燃え昼は消えつつ物をこそ思へ)
※※やかずとも草は萌えなむ春日野はたゞ春の日に任せたらなむ   壬生忠見
※くれてゆく秋のかたみにおくものはわがもとゆひの霜にぞありける 平兼盛
※※秋風の吹くにつけてもとはぬかな荻の葉ならば音はしてまし   中務

此の三十六歌仙を画いたものは数々あるが藤原信実筆の絵巻が最も聞えてゐる、もと佐竹侯爵家の秘宝であつたが、今は分割せられて諸家に蔵せらる。此の外
岩佐勝以筆扁額  川越市喜多院所蔵
狩野元信筆    西本願寺飛雲閣蔵
狩野探幽筆    京都妙心寺蔵
狩野探幽筆    下野東照宮蔵
土佐光起筆    同
松花堂筆     近衛公爵家旧蔵
尾形光琳筆    益田孝男蔵
なほ後世、三十六歌仙に擬して種々の三十六歌仙が現はれた。(『東洋画題綜覧』金井紫雲)
nice!(1)  コメント(0)