SSブログ

源氏物語画帖「その二十八 野分」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

28 野分(光吉筆) =(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三)  源氏36歳秋 

光吉・野分.jpg

源氏物語絵色紙帖  野分  画・土佐光吉
https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=shiryo&mode=detail&list_id=1891335&data_id=309

尊純法親王・野分.jpg

源氏物語絵色紙帖  野分  詞・青蓮院尊純
https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=shiryo&mode=detail&list_id=1891335&data_id=309

(「青蓮院尊純」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/29/%E9%87%8E%E5%88%86_%E3%81%AE%E3%82%8F%E3%81%8D%E3%83%BB%E3%81%AE%E3%82%8F%E3%81%91%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AB%E5%B8%96_%E7%8E%89%E9%AC%98

東の対の南の側に立ちて、御前の方を見やりたまへば、御格子、まだ二間ばかり上げて、ほのかなる朝ぼらけのほどに、御簾巻き上げて人びとゐたり。高欄に押しかかりつつ、若やかなる限りあまた見ゆ。うちとけたるはいかがあらむ、さやかならぬ明けぼののほど、色々なる姿は、いづれともなくをかし。童女下ろさせたまひて、虫の籠どもに露飼はせたまふなりけり。紫苑、撫子、濃き薄き衵どもに、女郎花の汗衫などやうの、時にあひたるさまにて、四五人連れて、ここかしこの草むらに寄りて、色々の籠どもを持てさまよひ、撫子などのいとあはれげなる枝ども取り持て参る、霧のまよひは、いと艶にぞ見えける。
(第一章 夕霧の物語 継母垣間見の物語 第六段 夕霧、中宮を見舞う)

1.6.1 東の対の南の側に立ちて、御前の方を見やりたまへば、御格子、まだ二間ばかり上げて、ほのかなる朝ぼらけのほどに、御簾巻き上げて人びとゐたり。
(東の対の南の側に立って、寝殿の方を遥かに御覧になると、御格子は、まだ二間ほど上げたばかりで、かすかな朝日の中に、御簾を巻き上げて、女房たちが座っていた。)

1.6.2 高欄に押しかかりつつ、若やかなる限りあまた見ゆ。 うちとけたるはいかがあらむ、 さやかならぬ明けぼののほど、色々なる姿は、いづれともなくをかし。
(高欄にいく人も寄り掛かっている、若々しい女房ばかりが大勢見える。気を許している姿はどんなものであろうか、はっきり見えない早朝では、色とりどりの衣装を着た姿は、どれもこれも美しく見えるものでる。)

1.6.3 童女下ろさせたまひて、虫の籠どもに露飼はせたまふなりけり。紫苑、撫子、濃き薄き衵どもに、女郎花の汗衫などやうの、時にあひたるさまにて、四、五人連れて、ここかしこの草むらに寄りて、色々の籠どもを持てさまよひ、撫子などの、いとあはれげなる枝ども取り持て参る、霧のまよひは、いと艶にぞ見えける。
(童女を庭にお下ろしになって、いくつもの虫籠に露をおやりになっていらっしゃるのであった。紫苑、撫子、濃い薄い色の袙の上に、女郎花の汗衫などのような、季節にふさわしい衣装で、四、五人連れ立って、あちらこちらの草むらに近づいて、色とりどりの虫籠をいくつも持ち歩いて、撫子などの、たいそう可憐な枝をいく本も取って参上する、その霧の中に見え隠れする姿は、たいそう優艷に見えるのであった。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第二十八帖 野分
 第一章 夕霧の物語 継母垣間見の物語
  第一段 八月野分の襲来
  第二段 夕霧、紫の上を垣間見る
  第三段 夕霧、三条宮邸へ赴く
  第四段 夕霧、暁方に六条院へ戻る
  第五段 源氏、夕霧と語る
  第六段 夕霧、中宮を見舞う
(「青蓮院尊純」書の「詞」) → 1.6.1 1.6.2 1.6.3 
 第二章 光源氏の物語 六条院の女方を見舞う物語
  第一段 源氏、中宮を見舞う
  第二段 源氏、明石御方を見舞う
  第三段 源氏、玉鬘を見舞う
  第四段 夕霧、源氏と玉鬘を垣間見る
  第五段 源氏、花散里を見舞う
 第三章 夕霧の物語 幼恋の物語
  第一段 夕霧、雲井雁に手紙を書く
  第二段 夕霧、明石姫君を垣間見る
  第三段 内大臣、大宮を訪う

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3582

源氏物語と「野分」(川村清夫稿)

【野分は第28番目の帖で、第22帖の玉鬘から第31帖の真木柱までの玉鬘十帖の一つである。この帖では主役は光源氏の子息である夕霧であり、光源氏は脇役に回っている。

 8月に台風(野分)が京の都を襲い、その時六条院を訪れていた夕霧は、継母である紫上の姿をのぞき見して、その美貌に一目ぼれしてしまう。野分の翌日に光源氏は秋好中宮(六畳御息所の娘)、明石の方、玉鬘、花散里を見舞うが、夕霧は光源氏が玉鬘に、とても親子とは思えない、むつみ合う姿をのぞき見して、驚くのである。

 野分の帖で、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の間で明らかな相違点が出てくる。ウェイリーは野分の帖を改作して、光源氏と玉鬘の場面を省略したのに対して、サイデンステッカーは原作のままに翻訳している。この場面を大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、サイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
かく戯れたまふけしきのしるきを、
「あやしのわざや、親子と聞こえながら、かく懐離れず、もの近かべきほどかは」
と目とまりぬ。

(渋谷現代語訳)
このようにふざけていらっしゃる様子がはっきりわかったので、
「妙なことだ。親子とは申せ、このように懐に抱かれるほど、馴れ馴れしくしてよいものだろうか」
と目がとまった。

(サイデンステッカー英訳)
He was rather startled at what he saw. They were father and daughter, to be sure, but it was not as if she were an infant for Genji to take in his arms, as he seemed about to do.

 サイデンステッカーは、夕霧の独白を表面的な状況描写に薄めて、光源氏と玉鬘のむつみ合う描写を強調している。

(大島本原文)
「見やつけたまはむ」と恐ろしけれど、あやしきに、心もおどろきて、なほ見れば、柱隠れにすこしそばみたまへりつるを、引き寄せたまへるに、御髪の並み寄りて、はらはらとこぼれかかりたるほど、女も、いとむつかしく苦しと思うたまへるけしきながら、さすがにいとなごやかなるさまして、寄りかかりたまへるは、
「ことと馴れ馴れしきにこそあめれ。いで、あなうたて。いかなることにかあらむ。思ひよらぬ隈なくおはしける御心にて、もとより見慣れ生ほしたてたまはぬは、かかる御思ひ添ひたまへるなめり。むべなりけりや。あな、疎まし」
と思ふ心も恥づかし。

(渋谷現代語訳)
「見つけられはしまいか」と恐ろしいけれども、変なので、びっくりして、なおも見ていると、柱の陰に少し隠れていらっしゃったのを、引き寄せなさると、御髪が横になびいて、はらはらとこぼれかかったところ、女も、とても嫌でつらいと思っていらっしゃる様子ながら、それでも穏やかな態度で、寄り掛かっていらっしゃるのは、
「すっかり親密な仲になっているらしい。いやはや、ああひどい。どうしたことであろうか。抜け目なくいらっしゃるご性分だから、最初からお育てにならなかった娘には、このようなお思いも加わるのだろう。もっともなことだが、ああ、嫌だ」
と思う自分自身までが気恥ずかしい。

(サイデンステッカー英訳)
Though on ready alert lest he be detected, Yugiri was spellbound. The girl turned away and sought to hide behind a pillar, and as Genji pulled her towards him her hair streamed over her face, hiding it from Yugiri’s view. Though obviously very uncomfortable, she let him have his way. They seemed on very intimate terms indeed. Yugiri was a little shocked and more than a little puzzled. Genji knew all about women, there could be no question of that. Perhaps because he had not had her with him to fret and worry over since girlhood it was natural that he should feel certain amorous impulses towards her. It was natural, but also repellent. Yugiri felt somehow ashamed, as if it were in measure his responsibility.

 サイデンステッカーの翻訳は説明調で、この帖の主役である夕霧の存在を軽視している。

(大島本原文)
「女の御さま、げに、はらからといふとも、すこし立ち退きて、異腹ぞかし」など思はむは、「などか、心あやまりもせざらむ」とおぼゆ。

(渋谷現代語訳)
「女のご様子は、なるほど、姉弟といっても、少し縁遠くて、異母姉弟なのだ」などと思うと、「どうして、心得違いを起こさないだろうか」と思われる。

(サイデンステッカー英訳)
She was a half sister and not a full sister and he saw that he could himself be tempted. She was very tempting.

 サイデンステッカーの翻訳は、あまりにも無味乾燥で、夕霧の心理状態を訳し切れておらず、原文に忠実とは言えない。

 光源氏の玉鬘への不純な恋愛は、藤袴の帖まで続くのである。 】

(「三藐院ファンタジー」その十八)

尊純・月前扇.jpg

「尊純法親王筆短冊」」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/1257

【尊純法親王〈そんじゅんほうしんのう・1591-1653〉は、応胤法親王(おういんほうしんのう・伏見官貞敦親王の王子)の子。伯父の邦輔(くにすけ)親王の養子となり、さらに後陽成天皇の猶子となった。慶長三年〈1598〉に青蓮院(しょうれんいん)に入室、曼殊院(まんしゅいん)の良恕法親王〈りょうじょほうしんのう・1574-1643〉の弟子となって剃髪。法印大僧正に任じ、天台座主を2度にわたって務めた。承応2年〈1653〉、63歳で入寂。青蓮院歴代の故実に精通しており、尊円入道親王〈そんえんにゅうどうしんのう・1298-1356〉著『門葉記(もんようき)』の増補に加わった。書においては、尊朝法親王〈そんちょうほうしんのう・1552-97〉から伝授された尊円流(青蓮院流)の書法に習熟し、のちには尊純流の祖として尊重された。

(釈文)

月前扇:手に馴し扇も今は忘られてそでに待出る閨の月かげ 尊純        】

 「青蓮院尊純法親王」は、天台座主第一六五世「応胤法親王」の王子で、第一七三世・第一七七世の天台座主である。「源氏物語画帖」では、最多の「篝火・野分・夕顔・若紫・末摘花」の五帖の「詞書」の筆者で、この他に、天台座主では、第一六九世の「常胤法親王」が「初音・胡蝶」、第一七〇世「良恕法親王」が、「関屋・絵合・松風」の筆者になっている。
 そして、「青蓮院尊純法親王」は、「曼殊院良恕法親王」の直弟子で剃髪し、さらに、「尊朝法親王」(第一六七世「天台座主」) から「尊円流」(青蓮院流)の書法を伝授され、後に、
「尊純流」の祖と崇められている、キャリアからすると、「寛永三筆」の一人の「近衛信尹」(三藐院流)や、「寛永三筆」と並び名高い「烏丸光広」(光広流)以上の、正統派ということになろう。
 これらの、関係する「歴代天台座主」との関連は、下記のアドレスのものが参考となる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%BA%A7%E4%B8%BB

【※応胤法親王(第165世。伏見宮貞敦親王第5王子)
覚恕(第166世。後奈良天皇第3皇子)
※尊朝法親王(第167世。伏見宮邦輔親王第6王子。書流尊朝流を創立)
※※常胤法親王(第168世。伏見宮邦輔親王第5王子) → (初音・胡蝶)
最胤法親王(第169世。伏見宮邦輔親王第8王子)
※※良恕法親王(第170世。誠仁親王第3王子)    → (関屋・絵合・松風)
堯然法親王(第171、174、178世。後陽成天皇第6皇子)
慈胤法親王(第172、176、180世。後陽成天皇第2皇子)
※尊純法親王(第173世、177世。第165世応胤法だい親王王子)→(篝火・野分・夕顔・若紫・末摘花) 】


(参考)

https://objecthub.keio.ac.jp/object/714

「尊朝法親王筆詠草」周辺

尊朝法親王.jpg

「尊朝法親王筆詠草」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)

【尊朝法親王〈そんちょうほうしんのう・1552-97〉は、伏見宮邦輔親王〈くにすけしんのう・1513-63〉の第六王子。弘治元年〈1555〉4歳で京都粟田口の青蓮院に入室。永禄元年〈1558〉正親町天皇の猶子となる。同5年11歳で得度して、尊朝と号し、翌6年に親王宣下を賜った。元亀2年〈1571〉の織田信長の比叡山焼き打ち以来、廃墟となっていた延暦寺を再興し、みずから天台座主となる。歴代の青蓮院門跡の中でもとりわけ能書として名高く、その遺墨は尊重され、数多く伝存している。尊朝法親王の書は、青蓮院流から独立させて、尊朝流として位置づけられている。また、『墨池掌譜』『入木道口伝』などの入木道(書道)に関する貴重な著作も残している。これは「対菊待月」を歌題の歌会に詠進するにあたり2首詠じ、添削を乞うた詠草である。「尊朝上る」とあることにより、歌道の師と仰ぐ父・邦輔親王に批評を求めたものであろう。紙背に「天正十三重陽」との書入れがある。が、『続史愚抄』によれあば、天正十三年九月九日に行われた歌会の詠題は「菊送多秋」で、歌題が異なる。この詠草は、別の歌会が催されるにあたって書かれたものか。「(端裏書:天正十三重陽)尊朝上(たてまつる)/対菊待月/置く露の光待つ間も白菊の/籬に遅き山の端の月/色々の籬の菊の宵の間に待たるるものは月の影かな」

(釈文)

(端裏書=天正十三重陽)尊朝上/対菊待月/をく露のひかりまつまも白菊のまがきにをそき山の端の月/色/\の籬の菊のよひの間に/またるゝものは月のかげ哉

(メモ)

端裏書(はしうら‐がき)=端裏の部分に記事を書くこと。また、その記事。文書の受取人が、受け取ったとき、その日付と内容を略記するもの。端裏。(精選版 日本国語大辞典)   】
nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:アート