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源氏物語画帖「その二十九 行幸」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

29 行幸(光吉筆)=(詞)阿野実顕(一五八一~一六四五)   源氏36歳冬-37歳春 

光吉・御行.jpg

源氏物語絵色紙帖  行幸  画・土佐光吉
https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=shiryo&mode=detail&list_id=1900641&data_id=310

阿野実顕・御行.jpg

源氏物語絵色紙帖  行幸 詞・阿野顕 
https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=pict&mode=detail&list_id=1900641&parent_data_id=310&data_id=513

(「阿野実顕」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/30/%E8%A1%8C%E5%B9%B8%E3%83%BB%E5%BE%A1%E5%B9%B8_%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E4%B9%9D%E5%B8%96_%E7%8E%89%E9%AC%98%E5%8D%81

蔵人の左衛門尉を御使にて、雉一枝たてまつらせたまふ。仰せ言には何とかや、さやうの折のことまねぶに、わづらはしくなむ。
  雪深き小塩山にたつ雉の古き跡をも今日は尋ねよ
太政大臣のかかる野の行幸に仕うまつりたまへる例などやありけむ大臣御使をかしこまりもてなさせたまふ
  小塩山深雪積もれる松原に今日ばかりなる跡やなからむ
(第一章 玉鬘の物語 冷泉帝の大原野行幸 第三段 行幸、大原野に到着)

1.3.2 蔵人の左衛門尉を御使にて、 雉一枝たてまつらせたまふ。 仰せ言には何とかや、さやうの折のことまねぶに、わづらはしくなむ。
(蔵人で左衛門尉を御使者として、雉をつけた一枝を献上あそばしなさった。仰せ言にはどのようにあったか、そのような時のことを語るのは、わずらわしいことなので。)
1.3.3 雪深き小塩山にたつ雉の 古き跡をも今日は尋ねよ
(雪の深い小塩山に飛び立つ雉のように、古例に従って今日はいらっしゃればよかったのに。)
1.3.4 太政大臣の、かかる野の行幸に仕うまつりたまへる例などやありけむ。大臣、御使をかしこまりもてなさせたまふ。
(太政大臣が、このような野の行幸に供奉なさった先例があったのであろうか。大臣は、御使者を恐縮しておもてなしなさる。)
1.3.5 小塩山深雪積もれる松原に 今日ばかりなる跡やなからむ
(小塩山に深雪が積もった松原に、今日ほどの盛儀は先例がないでしょう。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第二十九帖 行幸
 第一章 玉鬘の物語 冷泉帝の大原野行幸
  第一段 大原野行幸
  第二段 玉鬘、行幸を見物
  第三段 行幸、大原野に到着
(「阿野実顕」書の「詞」) → 1.3.2 1.3.3 1.3.4 1.3.5
  第四段 源氏、玉鬘に宮仕えを勧める
  第五段 玉鬘、裳着の準備
 第二章 光源氏の物語 大宮に玉鬘の事を語る
  第一段 源氏、三条宮を訪問
  第二段 源氏と大宮との対話
  第三段 源氏、大宮に玉鬘を語る
  第四段 大宮、内大臣を招く
  第五段 内大臣、三条宮邸に参上
  第六段 源氏、内大臣と対面
  第七段 源氏、内大臣、三条宮邸を辞去
 第三章 玉鬘の物語 裳着の物語
  第一段 内大臣、源氏の意向に従う
  第二段 二月十六日、玉鬘の裳着の儀
  第三段 玉鬘の裳着への祝儀の品々
  第四段 内大臣、腰結に役を勤める
  第五段 祝賀者、多数参上
  第六段 近江の君、玉鬘を羨む
  第七段 内大臣、近江の君を愚弄


http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3589

源氏物語と「行幸」(川村清夫稿)

【  玉鬘は、大原野へ行幸する冷泉帝の行列に、光源氏に似た帝の美貌に見とれると同時に、父の内大臣(頭中将)の姿を初めて見た。そこで光源氏は玉鬘に、宮中へ出仕をすすめた。光源氏は内大臣に、玉鬘の裳着(成人式)に立ち会うよう依頼したが、内大臣は彼女が実の娘だと知らないので遠慮しようとした。そこで光源氏は内大臣に、玉鬘が彼の娘であることを打ち明け、内大臣は快諾、晴れて父と娘の対面がかなったのである。

 それでは、光源氏が内大臣に玉鬘が彼の娘であることを打ち明ける場面を、定家自筆本、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(定家自筆本原文)
そのついでに、ほのめかし出でたまひてけり。大臣、
「いとあはれに、めづらかなることにもはべるかな」と、まづうち泣きたまひて、「そのかみより、いかになりにけむと尋ね思うたまへしさまは、何のついでにかはべりけむ、愁へに堪へず、漏らし聞こしめさせし心地なむしはべる。今かく、すこし人数にもなりはべるにつけて、はかばかしからぬ者どもの、かたがたにつけてさまよひはべるを、かたくなしく、見苦しと見はべるにつけても、またさるさまにて、数々に連ねては、あはれに思うたまへらるる折に添へても、まづなむ思ひたまへ出でらるる」
とのたまふついでに、かのいにしへの雨夜の物語に、いろいろなりし御睦言の定めを思し出でて、泣きみ笑ひみ、皆うち乱れたまひぬ。

(渋谷現代語訳)
その機会に、ちらと姫君のことをおっしゃったのであった。内大臣、
「まことに感慨深く、またとなく珍しいことでございますね」と、何よりも先お泣きになって、「その当時からどうしてしまったのだろうと捜しておりましたことは、何の機会でございましたでしょうか、悲しさに我慢できず、お話しお耳に入れましたような気が致します。  
 今このように、少しは一人前にもなりまして、つまらない子供たちが、それぞれの縁談を頼ってうろうろ致しておりますのを、体裁が悪く、みっともないと思っておりますにつけても、またそれはそれとして、数々いる子供の中では、不憫だと思われる時々につけても、真っ先に思い出されるのです」
 とおっしゃるのをきっかけに、あの昔の雨夜の物語の時に、さまざまに語った体験談の結論をお思い出しになって、泣いたり笑ったり、すっかり打ち解けられた。

(ウェイリー英訳)
Genji said at last, and without going into the whole story, broke to To no Chujo the news that Yugao was long ago dead, and that Tamakatsura had for some while been living with him.
Tears sprang to Chujo’s eyes. “I think that at the time when I first lost sight of her,” he said at last, “I told you and some of my other friends about my endeavors to trace Yugao and her child. It would have been better to speak of the matter, but I was so wretched that I could not contain myself. However, the search brought to result, and at last I gave up all hope. It was only recently, when my accession to high office induced all kinds of odd and undesirable creatures in every quarter to claim relationship with me, that I began to think once more about this true child of mine. How much more gladly would I have acknowledged and welcomed Yugao’s daughter than the band of discreditable and unconvincing claimants who henceforward thronged my gates! But now that I know she is in good hands…” Gradually the conversation drifted back to that rainy night and to the theories which each of them had then put forward. Had life refuted or confirmed them? And so, between tears and laughter, the talk went on, with not a shade of reproach or coolness on either side, till morning was almost come.

(サイデンステッカー英訳)
Genji presently found a chance to turn to his main subject.
“How perfectly extraordinary.” To no Chujo was in tears. “I believe that my feelings once got the better of me and I told you of my search for the girl. As I have risen to my modest position in the world I have gathered my stupid daughters around me, not omitting the least-favored of them. They have found ways to make themselves known. And when I think of the lost ones, it is she who comes first to mind.”
As they remembered the confessions made and the conclusions reached that rainy night, they laughed and wept and the earlier stiffness disappeared.

 内大臣の台詞の内容が難解で、翻訳しにくいのだが、ウェイリー訳が冗長なのに対して、サイデンステッカー訳は簡潔である。「いとあはれに、めづらかなることにもはべるかな」をウェイリーは省略したが、サイデンステッカーは”How perfectly extraordinary”と訳している。ウェイリー訳にある”It would have been better to speak of the matter … at last I gave up all hope”と”How much more gladly would I have acknowledged… thronged my gates”は余計である。「はかばかしからぬ者どもの、かたがたにつけてさまよひはべるを、かたくなしく、見苦しと見はべるにつけても」を、ウェイリーは”induced all kinds of odd and undesirable creatures in every quarter to claim relationship with me”と訳しているが、誤訳である。内大臣は子供たちの縁談が見つからないのを嘆いているのである。サイデンステッカーは”I have gathered my stupid daughters around me not omitting the least-favored of them. They have found ways to make themselves known”と訳しているが、踏み込み過ぎた超訳である。

玉鬘が大切にされるのを近江の君はうらやむが、内大臣から笑われてしまうのである。】



(「三藐院ファンタジー」その十九)

実顕・詠草.jpg

「阿野実顕筆二首和歌懐紙」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/662

【阿野実顕〈あのさねあき・1581-1645〉は、江戸時代初期の公卿。初名実政、のち実治。天正20年〈1592〉に実顕と改める(12歳)。大和国内山上乗院の住持、休庵(阿野実時)の子。家職の神楽を代々伝える阿野家が中絶しないよう還俗して、祖父季時の子として家督を継いだ。正二位・権大納言に至る。細川幽斎・中院通村・烏丸光広らから和歌を学んだ。この懐紙は、位署に「左近衛権中将」とある。実顕は慶長12年〈1607〉に左近衛権中将となり、同17年2月28日に参議に進んでいることから、27~32歳の筆跡と知る。字形や字配りなどに、心なしか未熟の面影が漂うようにも思われる。が、後年、光悦流の名手として鳴った実顕が、早くもこの時期に本阿弥光悦の書風を追慕していたさまがうかがえる。「秋の日、同じく二首の和歌を詠める/左近衛権中将藤原実顕/菊薫衣/けふも猶袖こそかほれ/きくのはな一夜の程の/へだてやはある/海眺望/朝ぼらけ浪もはるかに/なごの海や日影にうかぶ/あまのつり舟」

(釈文)

秋日同詠二首和歌/左近衛権中将藤原実顕/菊薫衣/けふも猶袖こそかほれ/きくのはな一夜の程の/へだてやはある/海眺望朝ぼらけ浪もはるかに/なごの海や日影にうかぶ/あまのつり舟 】

(参考)

「近衛家―五摂家筆頭」と他の摂家関連については、下記のアドレスが参考となる。

https://uchicomi.com/uchicomi-times/category/topix/main/13793/

 さらに詳しく、下記のアドレスで、「室町後期の近衛家と他の摂家―近衛政家を中心に(石原比呂志稿)」も閲覧することができる。

https://ci.nii.ac.jp/naid/120006346723

 これらに、『流浪の戦国貴族近衛前久―天下一統に翻弄された生涯 (中公新書): 谷口研語著』により、「公家社会の家礼慣行」(p177~)並びに「近衛家に家礼する人々」(p179)などを抜粋して置きたい。

【 「家礼または家来・家頼とも書き、カレイあるいはケライと読む。家来というと武家のものとばかり思われているかもしれないが、公家社会にも家礼しいう慣行があった。公家社会の家礼慣行とは、公家がそれぞれ五摂家いずれかの家に親しく出入りして臣礼をとりそれに対して、摂家ではその公家について、さまざまな便宜をはかったり、庇護を与えたりするものである。」(p177) 

「戦国時代の近衛家の家礼については、その全貌は明らかにできないが、江戸時代のある記録では、近衛家の家礼として、日野・山科・広橋・滋野井・平松・萩原・吉田・石井・八条・長谷・交野・錦小路・滋光寺・船橋・桜井・水無瀬・山井・七条・柳原・錦織・町尻・阿野・西洞院・難波・竹屋・櫛筍・四辻・万里小路・外山・園池・高倉・日野西・豊岡・北小路・富小路・三室戸・西大路・裏松・勘解由小路・持明院・石野・土御門・高野・正親町三条・芝山・裏辻・竹内・小倉の四八家があげられており、その他、九条家では二〇家、二条家では四家、一条家では三七家、鷹司家では八家の家礼があげられている。このほか、どの家の家礼でない公家が十余家ある。」(p178)

「戦国時代に近衛家の家礼であったと推定される家には、勧修寺・広橋・下冷泉・五条・山科・吉田・飛鳥井・柳原・西洞院・四辻・万里小路・高倉・北小路・富小路・持明院・土御門・藤井・一条(河鰭)などの諸家がある。ただし、これらが前久の代にもそうであったかどうかは、一部をのぞいては、はっきりしない。」(p179)

「久我事件(永禄十年十月に後宮で起きた不祥事、近衛家と久我家とは極めて親近の関係にあり、権大納言久我通俊関連の事件)の時、前久は中山・山科・勧修寺・持明院・万里小路・四辻・甘露寺・正親町・五辻・烏丸・薄・三条・柳原らの公家衆を自邸に招集して協議しているが、これらはいずれも近衛家の家礼だったのではないかと考えられる。」(p179)

「家礼の仕方にも親疎があり、西洞院や北小路・藤井などは近衛家の家司(けいし=親王家・内親王家・摂関家および三位以上の家に置かれ、家政をつかさどった職)のごとき立場にあった。」(p179)     】

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%87%8E%E5%AE%B6

【 阿野家(あのけ)は、羽林家の家格を有する公家。藤原北家閑院流・滋野井庶流。家業は神楽・有職故実。家紋は唐花。近衛家の家礼。江戸時代の家禄は478石。(旧家、外様)。
16代実顕が阿野家を再興する。実顕は慶長17年(1612年)公卿に列して正二位権大納言に進み、江戸時代の阿野家はこれを極位極官としたが、40代で没した者が多い関係で実際に極位極官に達したのは18代公業・19代実藤・21代公緒・23代公縄の4代にとどまる。】
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