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源氏物語画帖「その二十・槿・朝顔」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

20 槿(朝顔)(光吉筆) =(詞)烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)  源氏32歳秋-冬

光吉・朝顔.jpg

土佐光吉画「源氏物語絵色紙帖 槿(朝顔)」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/534208/2

光賢・朝顔.jpg

烏丸光賢詞「源氏物語絵色紙帖 槿(朝顔)」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/534208/1


(「烏丸光賢」書の「詞」)

遣水もいといたうむせびて、池の氷もえもいはずすごきに、童女下ろして雪まろばしせさせたまふ

http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined20.3.html#paragraph3.2

3.2.4
(月は隈なくさし出でて、ひとつ色に見え渡されたるに、しをれたる前栽の蔭心苦しう、)遣水もいといたうむせびて、池の氷もえもいはずすごきに、童女下ろして、雪まろばしせさせたまふ。
《(月は隈なく照らして、一色に見渡される中に、萎れた前栽の影も痛々しく、)遣水もひどく咽び泣くように流れて、池の氷もぞっとするほど身に染みる感じで、童女を下ろして、雪まろばしをおさせになる。》
(第三章 紫の君の物語 冬の雪の夜の孤影 第二段 夜の庭の雪まろばし)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第二十帖 朝顔
 第一章 朝顔姫君の物語 昔の恋の再燃
第一段 九月、故桃園式部卿宮邸を訪問
  第二段 朝顔姫君と対話
  第三段 帰邸後に和歌を贈答しあう
  第四段 源氏、執拗に朝顔姫君を恋う
 第二章 朝顔姫君の物語 老いてなお旧りせぬ好色心
  第一段 朝顔姫君訪問の道中
  第二段 宮邸に到着して門を入る
  第三段 宮邸で源典侍と出会う
  第四段 朝顔姫君と和歌を詠み交わす
  第五段 朝顔姫君、源氏の求愛を拒む
 第三章 紫の君の物語 冬の雪の夜の孤影
  第一段 紫の君、嫉妬す
  第二段 夜の庭の雪まろばし
(「烏丸光賢」書の「詞」) →  3.2.4
  第三段 源氏、往古の女性を語る
  第四段 藤壺、源氏の夢枕に立つ
  第五段 源氏、藤壺を供養す
  
http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=2901

源氏物語と「朝顔」(川村清夫稿)

【光源氏の叔父である桃園式部卿宮には朝顔という娘がいて、光源氏とは幼なじみだった。年老いて尼となった源典侍と再会しながら、光源氏は朝顔と和歌のやりとりをして旧交をあたためる。それでも朝顔は光源氏の求愛を拒んだ。帰宅後の光源氏が寝ていると、夢の中に藤壺女御が出てきて、不倫の罪が知られてしまったと恨み言を言う。紫上は、尋常ではない夢を見ている光源氏を起こす。光源氏は翌日、ひそかに藤壺女御の供養をするのであった。光源氏が藤壺女御の夢を見る場面を、大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
入りたまひても、宮の御ことを思ひつつ大殿籠もれるに、夢ともなくほのかに見たてまつる。いみじく恨みたまへる御けしきにて、
「漏らさじとのたまひしかど、憂き名の隠れなかりければ、恥づかしう、苦しき目を見るにつけても、つらくなむ」
とのたまふ。御応へ聞こゆと思すに、襲はるる心地して、女君の、
「こは、など、かくは」
とのたまふに、おどろきて、いみじく口惜しく、胸のおきどころなく騒げば、抑へて、涙も流れ出でにけり。今も、いみじく濡らし添へたまふ。
女君、いかなることにかと思すに、うちもみじろかで臥したまへり。
「とけて寝ぬ寝覚さびしき冬の夜に
むすぼほれつる夢の短さ」

(渋谷現代語訳)
お入りになっても、宮のことを思いながらお寝みになっていると、夢ともなくかすかにお姿を拝するが、たいそうお怨みになっていらっしゃるご様子で、
「漏らさないとおっしゃったが、つらい噂は隠れなかったので、恥ずかしく、苦しい目に遭うにつけ、つらい」
とおっしゃる。お返事を申し上げるとお思いになった時、ものに襲われるような気がして、女君が、
「これは、どうなさいました、このように」
とおっしゃったのに、目が覚めて、ひどく残念で、胸の置きどころもなく騒ぐので、じっと抑えて、涙までも流していたのであった。今もなお、ひどくお濡らし加えになっていらっしゃる。
女君が、どうしたことかとお思いになるので、身じろぎもしないで横になっていらっしゃった。
「安らかに眠られずふと寝覚めた寂しい冬の夜に
見た夢の短かったことよ」

(ウェイリー英訳)
Long after he and Murasaki had retired to rest, recollections of Lady Fujitsubo continued to crowd into his mind, and when at last he fell asleep, a vision of her at once appeared to him, saying in tones of deep reproach:
“It may be that you on earth have kept our secret; but in the land of the dead shame cannot be hid, and I am paying dearly for what you made me do …”
He tried to answer, but fear choked his voice, and Murasaki, hearing him suddenly give a strange muffled cry, said rather peevrishly:
“What are you doing that for? You frightened me!”
The sound of her voice roused him. He woke in a terrible state of grief and agitation, his eyes full of tears which he at once made violent efforts to control. But soon he was weeping bitterly, to the bewilderment of Murasaki, who nevertheless lay all the time stock-still at his side.

(サイデンステッカー英訳)
He lay down, still thinking of Fujitsubo. He had a fleeting dream of her. She seemed angry.
“You said that you would keep our secret, and it is out. I am unable to face the world for the pain and the shame.”
He was about to answer, as if defending himself against a sudden, fierce attack.
“What is the matter?”
It was Murasaki’s voice. His longing for the dead lady was indescribable. His heart was racing and in spite of himself he was weeping. Murasaki gazed at him, fear in her eyes. She lay quite still.
“A winter’s night, I awaken from troubled sleep.
And what a brief and fleeting dream it was!”

 光源氏の夢に出てきた藤壺女御の「いみじく恨みたまへる御けしき」を、ウェイリーはsaying in tones of deep reproachと、サイデンステッカーはShe seemed angryと訳したが、前者の方に趣がある。光源氏を起こす紫上の短めの台詞「こは、など、かくは」を、ウェイリーはWhat are you doing that for? You frightened me!と、サイデンステッカーはWhat’s the matter?と表現したが、前者はくどすぎて、後者の方がさっぱりしている。

 夢が覚めた光源氏の様子「おどろきて、いみじく口惜しく、胸のおきどころなく騒げば、抑へて、涙も流れ出でにけり」を、ウェイリーはHe woke in a terrible state of grief and agitation, his eyes full of tears which he at once made violent effort to control. But soon he was weeping bitterlyと原文に忠実であるが冗長に、サイデンステッカーはHis longing for the dead was indescribable. His heart was racing and in spite of himself he was weeping.と簡潔に訳している。また末尾の光源氏の和歌をウェイリーが省略したのは、歌物語でもある源氏物語の精神に反する。

 朝顔の帖は、源氏物語の本筋に入らない、小さなエピソードの一つである。    】


(「三藐院ファンタジー」その十一)

烏丸光賢短冊.jpg

(烏丸光賢筆短冊)

https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/1030

【 烏丸光賢〈からすまるみつかた・1600-38〉は、寛永の三筆の一人・烏丸光広〈みつひろ・1579-1638〉の子。父同様、順調な官途をあゆみ、寛永8年〈1631〉32歳で正三位・権中納言に至る。しかしその後は健康がすぐれず、同15年〈1638〉9月9日、39歳の若さで没した。この短冊は、藍と紫の雲紙に、金泥で草木に鷺をあしらった下絵の装飾料紙を用いる。父光広の影響のままに、字形にとらわれない闊達な筆致で書写している。
関郭公:相坂の関路の声に詠(ながむれ)ば雲井にまよふ山郭公光賢   】

 「烏丸光賢筆短冊」の、上記の「相坂(おうさか)の関路の声に詠(ながむれ)ば雲井にまよふ山郭公(ほととぎす)」、これは、「関郭公」という「詠題」での「烏丸光賢」の一首のように思われる。
これに、関連があるのかどうかは不明だが、「関郭公」の詠歌にふれた「智仁親王筆書状」(「智仁親王(八条宮))書状」も、下記アドレスで紹介されている。

https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/599

智仁親王書状.jpg

【 智仁親王〈としひとしんのう・1579-1629〉は陽光太上天皇〈ようこうだじょうてんのう=誠仁親王・1552-86〉の第6皇子。後陽成天皇〈ごようぜいてんのう・1571-1617〉の同母弟にあたる。はじめ豊臣秀吉〈とよとみひでよし・1536-98〉の猶子となるが、のち一家を創立、八条宮(はちじょうのみや)と称した。ついで正親町天皇〈おおぎまちてんのう・1517-93〉の養子となり、親王宣下、名を智仁と賜る。式部卿に任じられ、一品に叙された。  
 また桂離宮の創始者となって桂宮の初代を称する。和歌の奥義を細川幽斎〈ほそかわゆうさい・1534-1610〉に学び、美術・茶道・華道と、当時の天下第一の文化人であった。ことに和歌と書には非凡の才能を発揮した。智仁親王の母が、勧修寺晴右〈かじゅうじはるすけ・1523-77〉のむすめ新上東門院(しんじょうとうもんいん)勧修寺晴子(はるこ)であることによって、この手紙の宛名「勧修寺中納言」は、晴右の孫・光豊〈みつとよ・1575-1612〉ということになる。かれが権中納言に在任したのは、慶長9年〈1604・智仁親王26歳〉から同17年〈1612・同34歳〉の間となる。智仁親王30歳前後の筆跡である。光豊から送ってきた詠草は、だいたい出来の良いものばかり。「朝霞」の題の一首には、自らの意見を加筆しておいたが、中でも、「関郭公(せきのほととぎす)」の詠歌は格別の上出来だと、感心の旨を書き送っている。
「御詠草見せ給い候。存ぜずながら取り取り殊勝に見え申し候。「朝霞」愚意などには、 猶以って御付け候分、延び候て閣候て申し候か。「関郭公」別して御秀逸と奇特千万、御羨ましく存ずるりに候。かしく。今日はちと先約候て、不参に候。二十五日智仁/勧(修寺)中納言」 

(釈文)
今日はちと先約候て不参ニ候御詠草みせ給候乍不存取々殊勝ニみえ申候朝霞愚意なとにハ猶以御付候分のひ候て閣候て申候歟關郭公別而御秀逸と奇特千万御浦山敷存計ニ候かしく廿五日勧中納言智仁      】

 上記の解説文を見ると、この書状は勧修寺晴右(1523-77)の孫「勧修寺光豊」(1575-1612)宛てのもので、光賢の父「烏丸光広」(1579-1638)や「八条宮智仁親王」(1579-1629)と同時代の人である。
従って、「後水尾天皇(1596- 1680)」時代の「近衛信尋(1599-1649)・烏丸光賢(1600-1639)・西園寺実晴(1600-1673)」の先の時代(「後陽成天皇(1571-1617)」時代)で、この書状に出てくる「関郭公」と、烏丸光賢筆短冊の「関郭公」とは直接には無関係と解すべきなのであろう。
しかし、光賢が、、「後水尾天皇(1596- 1680)」時代の歌会などの詠題で、この「関郭公」での、八条宮智仁親王や、父の烏丸光広の指導などを受けての一首と解することは許容されることであろう。
それよりも、光賢は、父の光広が亡くなった寛永十五年(一六三八)七月十三日の、その二か月後の、九月九日に、三十九歳の若さで夭逝しているのは、何とも痛ましい限りである。

(参考一) 「烏丸光賢・烏丸資慶」周辺 

https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E7%83%8F%E4%B8%B8%E5%AE%B6%EF%BC%88%E5%90%8D%E5%AE%B6%EF%BC%89

烏丸光賢
生没年:1600-1638
父:権大納言 烏丸光広
1602 従五位下
1608 従五位上
1608 侍従
1612 正五位下
1612 右少弁
1613 正五位上
1614 左少弁
1615 右少弁
1619 従四位下
1619 従四位上
1619 左中弁
1620 正四位下
1620 正四位上
1620-1626 蔵人頭
1626 参議
1627 従三位
1628 造東大寺長官
1630 権中納言
1631 正三位
1633 踏歌外弁
1634 従二位
1635 正三位
妻:細川万(父:豊前小倉藩主 細川忠興)
1622-1670 資慶
娘(権大納言 飛鳥井雅章室)
娘(神祇少副 吉田兼起室、義父:権大納言 飛鳥井雅章)
1626-1667 裏松資清(裏松家へ)
-1636 やや(肥後熊本藩二代藩主 細川光尚室)

烏丸資慶
生没年:1622-1670
父:権中納言 烏丸光賢
1624 従五位下
1626 侍従
1628 従五位上
1632 正五位下
1639 左衛門佐
1640 蔵人
1640 正五位上
1641 権右少弁
1642 右少弁
1643 左少弁
1644 従四位下
1644 従四位上
1644 右中弁
1645 正四位下
1645 正四位上
1645 蔵人頭
1645 左中弁
1647 右大弁
1647 参議
1648 踏歌外弁
1649 従三位
1649 左大弁
1652 正三位
1654 権中納言
1656 従二位
1658-1662 権大納言
1662 正二位
妻:(父:内大臣 清閑寺共房)
1647-1690 光雄
1652-1674 桜野順光
(養子)深達院(三河刈谷藩初代藩主 阿部正春室、父:権大納言 園基音)
娘(参議 七条隆豊室)
娘(長岡佐渡守康之室)

(参考二) 「元和三年=一六一七・禁中歌会」周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-11

【 https://researchmap.jp/read0099340/published_papers/15977062

《(元和三年=一六一七)五月十一日、今日御学問所にて和歌御当座あり。御製二首、智仁親王二、貞清親王二、三宮(聖護院御児宮)、良恕法親王二、一条兼遐、三条公広二、中御門資胤二、烏丸光広二、広橋総光一、三条実有一、通村二、白川雅朝、水無瀬氏成二、西洞院時直、滋野井季吉、白川顕成、飛鳥井雅胤、冷泉為頼、阿野公福、五辻奉仲各一。出題雅胤。申下刻了。番衆所にて小膳あり。宮々は御学問所にて、季吉、公福など陪膳。短冊を硯蓋に置き入御。読み上げなし。内々番衆所にて雅胤取り重ねしむ。入御の後、各退散(『通村日記』)。

※御製=後水尾天皇(二十二歳)=智仁親王より「古今伝授」相伝
※智仁親王=八条宮智仁親王(三十九歳)=後陽成院の弟=細川幽斎より「古今伝授」継受
※貞清親王=伏見宮貞清親王(二十二歳)
※三宮(聖護院御児宮)=聖護院門跡?=後陽成院の弟?
※良恕法親王=曼珠院門跡=後陽成院の弟
※※一条兼遐=一条昭良=後陽成院の第九皇子=明正天皇・後光明天皇の摂政
※三条公広=三条家十九代当主=権大納言
※中御門資胤=中御門家十三代当主=権大納言
※※烏丸光広(三十九歳)=権大納言=細川幽斎より「古今伝授」継受
※広橋総光=広橋家十九代当主=母は烏丸光広の娘
※三条実有=正親町三条実有=権大納言
※※通村(三十歳)=中院通村=権中・大納言から内大臣=細川幽斎より「古今伝授」継受
※白川雅朝=白川家十九代当主=神祇伯在任中は雅英王
※水無瀬氏成=水無瀬家十四代当主
※西洞院時直=西洞院家二十七代当主
※滋野井季吉=滋野井家再興=後に権大納言
※白川顕成=白川家二十代当主=神祇伯在任中は雅成王
※飛鳥井雅胤=飛鳥井家十四代当主
※冷泉為頼=上冷泉家十代当主=俊成・定家に連なる冷泉流歌道を伝承
※阿野公福=阿野家十七代当主
※五辻奉仲=滋野井季吉(滋野井家)の弟 》   】


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