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源氏物語画帖「その四十四 竹河」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

44 竹河(長次郎筆)=(詞)四辻季継(一五八一~一六三九)     薫14,5歳-23歳

長次郎・竹河.jpg

源氏物語絵色紙帖  竹河  画・長次郎
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

四辻・竹河.jpg

源氏物語絵色紙帖  竹河  詞・四辻季継
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

(「四辻季継」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/17/%E7%AB%B9%E6%B2%B3_%E3%81%9F%E3%81%91%E3%81%8B%E3%82%8F%E3%83%BB%E3%81%9F%E3%81%91%E3%81%8B%E3%81%AF%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%9B%9B%E5%B8%96_

藤のおもしろく咲きかかりたるを水のほとりの石に苔を蓆にて眺めゐたまへりまほにはあらねど世の中恨めしげにかすめつつ語らふ
  手にかくるものにしあらば藤の花松よりまさる色を見ましや
(第三章 玉鬘の大君の物語 冷泉院に参院 第六段 冷泉院における大君と薫君)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第四十四帖 竹河
 第一章 鬚黒一族の物語 玉鬘と姫君たち
  第一段 鬚黒没後の玉鬘と子女たち
  第二段 玉鬘の姫君たちへの縁談
  第三段 夕霧の息子蔵人少将の求婚
  第四段 薫君、玉鬘邸に出入りす
 第二章 玉鬘邸の物語 梅と桜の季節の物語
  第一段 正月、夕霧、玉鬘邸に年賀に参上
  第二段 薫君、玉鬘邸に年賀に参上
  第三段 梅の花盛りに、薫君、玉鬘邸を訪問
  第四段 得意の薫君と嘆きの蔵人少将
  第五段 三月、花盛りの玉鬘邸の姫君たち
  第六段 玉鬘の大君、冷泉院に参院の話
  第七段 蔵人少将、姫君たちを垣間見る
  第八段 姫君たち、桜花を惜しむ和歌を詠む
 第三章 玉鬘の大君の物語 冷泉院に参院
  第一段 大君、冷泉院に参院決定
  第二段 蔵人少将、藤侍従を訪問
  第三段 四月一日、蔵人少将、玉鬘へ和歌を贈る
  第四段 四月九日、大君、冷泉院に参院
  第五段 蔵人少将、大君と和歌を贈答
  第六段 冷泉院における大君と薫君
  第七段 失意の蔵人少将と大君のその後
 第四章 玉鬘の物語 玉鬘の姫君たちの物語
  第一段 正月、男踏歌、冷泉院に回る
  第二段 翌日、冷泉院、薫を召す
  第三段 四月、大君に女宮誕生
  第四段 玉鬘、夕霧へ手紙を贈る
  第五段 玉鬘、出家を断念
  第六段 大君、男御子を出産
  第七段 求婚者たちのその後
 第五章 薫君の物語 人びとの昇進後の物語
  第一段 薫、玉鬘邸に昇進の挨拶に参上
  第二段 薫、玉鬘と対面しての感想
  第三段 右大臣家の大饗
  第四段 宰相中将、玉鬘邸を訪問

(参考)

四辻季継和歌懐紙.jpg

「四辻季継筆和歌懐紙」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/792

【四辻季継〈よつつじすえつぐ・1581-1639〉は、室町~江戸時代にかけての公卿。公遠の二男。初名は教遠。正二位・権大納言に至る。四辻家は代々、和琴や箏による雅楽をもって朝廷に仕えた。また季継は近衛流の書を能くした。これは、歌題により新年の御会始で詠まれたものと知る。季継が位署の左中将在任は、慶長11年〈1606〉から元和元年〈1615〉まで、すなわち26歳から35歳の間である。30歳前後の筆。骨力ある線を、緩急自在に歯切れよく運んだ筆致で書かれている。近衛流を掌中した見事な筆致である。また、松平不昧が、禁裡より拝領した二巻中の一葉であるという伝来をもつ一幅である。「春の日、同じく「池水、澄むこと久し」ということを詠める倭歌/参議左近衛権中将藤原季継/さゞれいしの巌とならむゆく末を契ぎりて澄める庭の池水」

(釈文)

春日同詠池水久澄倭歌参議左近衛権中将藤原季継さゞれいしのいはほとならむゆく末をちぎりてすめる庭のいけ水        】


(「三藐院ファンタジー」その三十四)

豊国祭礼図・秀頼.jpg

「かぶき者けんか図」(岩佐又兵衛筆・「豊国祭礼図屏風・徳川美術館蔵」より)
http://jarsa.jp/wp/wp-content/uploads/2017/03/e7517-flyer.pdf

http://sengokudama.jugem.jp/?eid=4895

かぶき者の鞘の銘.jpg

「かぶき者けんか図」(岩佐又兵衛筆・「豊国祭礼図屏風・徳川美術館蔵」より)の「鞘の銘記文」

《「廿三」は秀頼の死没年齢》(『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』P263-264)

「《いきすぎたるや廿三 八まん ひけはとるまい》は、 近世史家杉森哲也氏の見事な着眼による、《豊臣秀頼の死没年齢なのである。》 これまでの多くの論者は「かぶき者」大島一兵衛にだけ惹きつけられていて、豊臣秀頼と大阪夏の陣のことに思いもおよばなかったのである。すなわち、画家岩佐又兵衛は、大阪夏の陣を「かぶき者」たちの喧嘩に「見立て」て、このもろ肌脱ぎの「かぶき者」を「豊臣秀頼」に「見立て」ているのである。この「八まん ひけはとるまい」とは「戦(いくさ)」のこと、大阪夏の陣で、決死の覚悟で「徳川方」に挑んでいる、その決死の銘文なのである。」(メモ=「八まん」は、「戦の神様の『八幡太郎義家(源義家)』の「比喩」的用例と解したい。)

豊国祭礼図屏風・秀頼・淀・高台院.jpg

「かぶき者けんか図」(岩佐又兵衛筆・「豊国祭礼図屏風・徳川美術館蔵」より)
二の一 重文「豊国祭礼図屏風(右隻)」(岩佐又兵衛(伝)徳川美術館蔵)の「右隻第六扇・拡大図(その一)」

https://artsandculture.google.com/asset/festival-of-h%C5%8Dkoku-shrine-right-screen-iwasa-matabei/2AFW7iv6tr1u3g?hl=ja

 この図(「右隻第六扇・拡大図(その一)」)の左の下方が「かぶき者」に見立てた「豊臣秀頼」で、それに対する、この図の右の下方の「かぶき者」は「徳川秀忠」の「見立て」だというのである。

《卍紋・梅鉢紋・鷹羽紋は語る》(『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』P264-265)

「左側の若者が秀頼であるならば、右側の武士たちは徳川側である。相手になろうとしているのは秀忠であろう(七十歳を超えていた大御所家康の姿ではない)。この秀忠の周りにいて喧嘩を止めようとしている男の衣服は卍紋と梅鉢紋である。卍紋は蜂須賀家であり、梅鉢紋は前田家である。秀忠の後で刀を抜こうとして男の衣服の紋は鷹羽紋で浅野家の紋である(こま図の右側に鷹羽紋の男が出てくる)。」
 
 この図の中央に、この秀頼と秀忠との喧嘩を止めようとしている僧侶がいるが、これは、大阪冬の事件の切っ掛けとなった「方広寺鐘銘事件」の、問題の「国家安康」(家康の身首両断を意図している呪文の文字)と「君臣豊楽」(豊臣家の繁栄を祈願している文字」とを撰した、東福寺の長老・文英清韓(ぶんえいせいかん)などの見立てなのであろう。

《倒れ掛かる乗物のなかの淀殿》(『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』P265-266)

豊国祭礼図・秀頼周辺.jpg

『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』カバー表紙図

「このもろ肌脱ぎの若者(秀頼)の上部に倒れかかった立派な乗物(駕籠)が描かれている。この乗物には、家紋が鏤められている。この乗物の紋尽くしの中心にあるのは、豊臣家の家紋で、この倒れかかった乗物から、にゅーと女性の手が出ている。この乗物には、大阪城で秀頼と運命をともにした淀殿が乗っていることを暗示している。」

《後家尼姿の高台院》(『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』P265-266)

「この倒れかかった乗物の上部に、破れ傘を持ってあわてて飛び退いている後家尼の老女が描かれている。この老後家尼こそ、秀吉の妻おね(北政所)つまりは高台院の姿なのである。」

これらは、『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』での著者の考察なのであるが、これらの考察は、次の論稿により、さらに、深化を深めて行く。


徳川美術館蔵「豊国祭礼図」の注文主
―桟敷に坐る武士の姿と蜂須賀家政の肖像画―(黒田日出男稿)

https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/%E9%87%91%E9%AF%B1%E

「倒れ掛かった乗物(駕籠)から、女の手が突き出ている。この乗物に鏤められているさまざまな家紋の殆どは「目くらまし」であり、豊臣氏の「桐紋」がある。乗っているのは淀殿なのだ。そして、この乗物を担いでいる揃いの短衣を着た駕籠かき二人は、大野治長・治房兄弟であろう。
 乗物の向こう側、すぐ脇に後家尼の老女がいて、破れ傘をもったまま慌てて飛び退いている。後家尼の姿だから、これは高台院(秀吉の妻おね、北政所)である。背後の首に赤布を巻いている女は、高台院に仕えていた女性(孝蔵主?)などではあるまいか。
 さらに上の方には、侍女に傘をさしかけられた、被衣姿の貴女がいる。喧嘩の騒ぎを眺めているようだ。今のところ確かな論拠は示せないのだけれども、大阪城から脱出した千姫の姿が描かれているように思われる。
 こうして徳川美術館本の右隻の一角には、大阪夏の陣の豊臣秀頼と徳川秀忠の戦いが「かぶき者」たちの喧嘩に見立てて描かれていたのであった。それは、この屏風の注文主にとって必須(あるいは必要)な表現であり、しかも、徳川方の者が見ても気付かれにくい「見立て」の表現だったのである。」(「二 徳川美術館本の「かぶき者」の喧嘩と大阪夏の陣」の要点要約)

 ここまで来ると、上記の図・上部の「大阪城から脱出した千姫」と思われる貴女の、左後方の屋敷から、喧嘩の状況を見極めているような人物は、千姫を大阪城の落城の時に、家康の命により救出した「坂崎直盛(出羽守)」という「見立て」も可能であろう。
 さらに、この図の下部の「秀頼と秀忠との喧嘩を止めようとしている僧侶(三人?)
のうちの中央の身分の高い僧衣をまとった人物は、「方広寺鐘銘事件」が勃発した時の、方広寺門跡「興意法親王(誠仁親王の第五皇子・一五七六~一六二〇)」の「見立て」と解することも、これまた、許容されることであろう。
そして、この後陽成天皇の弟にあたる興意法親王(照高院)の前の、家忠に懇願しているような僧が、「方広寺鐘銘事件」の、問題の「国家安康」(家康の身首両断を意図している呪文の文字)と「君臣豊楽」(豊臣家の繁栄を祈願している文字」とを撰した、禅僧の「文英清韓」という「見立て」になってくる。
 この「方広寺鐘銘事件」と「興意法親王(照高院)」との関連などについては、下記のアドレスで取り上げている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-26

ここで、先の(参考一)に、興意法親王(照高院)も入れて置きたい。

(参考一)「源氏物語画帖」と「猪熊事件」そして「豊国祭礼図」「洛中洛外図・舟木本」との主要人物一覧

※※豊臣秀吉(1537-1598) → 「豊臣政権樹立・天下統一」「豊国祭礼図屏風」
※※土佐光吉(1539-1613) → 「源氏物語画帖」
※※徳川家康(1543-1616) →「徳川政権樹立・パクス・トクガワーナ(徳川の平和)」
花山院定煕(一五五八~一六三九)  →「夕霧」「匂宮」「紅梅」
※※高台院 (1561? - 1598) →  「豊国祭礼図屏風」
近衛信尹(一五六五~一六一四)   →「澪標」「乙女」「玉鬘」「蓬生」
久我敦通(一五六五~?)      →「椎本」
※※淀殿(1569?-1615) →  「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣 」
後陽成院周仁(一五七一~一六一七) →「桐壺」「帚木」「空蝉」
日野資勝(一五七七~一六三九)   →「真木柱」「梅枝」
※※興意法親王(照高院)(一五七六~一六二〇) → 「方広寺鐘銘事件」
※大炊御門頼国(1577-1613) →「猪熊事件」

※※岩佐又兵衛(1578-1650)→「豊国祭礼図屏風」「洛中洛外図・舟木本」

※※徳川秀忠(1579-1632) →「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
※烏丸光広(一五七九~一六三八) →「猪熊事件」→「蛍」「常夏」 
八条宮智仁(一五七九~一六二九) →「葵」「賢木」「花散里」
四辻季継(一五八一~一六三九)  →「竹河」「橋姫」

※織田左門頼長(道八)(1582-1620) →「猪熊事件」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
※猪熊教利(1583-1609)      →「猪熊事件」
※徳大寺実久(1583-1617)     →「猪熊事件」

飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一)   →「夕顔」「明石」
中村通村(一五八七~一六五三)    →「若菜下」「柏木」 
※花山院忠長(1588-1662) →「猪熊事件」
久我通前(一五九一~一六三四     →「総角」    
冷泉為頼(一五九二~一六二七)     → 「幻」「早蕨」
※※豊臣秀頼(1593-1615)  → 「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
菊亭季宣(一五九四~一六五二)    →「藤裏葉」「若菜上」
近衛信尋(一五九九~一六四九)    →「須磨」「蓬生」
烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)   →「薄雲」「槿」
西園寺実晴(一六〇〇~一六七三)   →「横笛」「鈴虫」「御法」
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源氏物語画帖「その四十三 紅梅」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

43 紅梅(長次郎筆) =(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九)   薫24歳春

長次郎・紅梅.jpg

源氏物語絵色紙帖  紅梅  画・長次郎
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

花山院・紅梅.jpg

源氏物語絵色紙帖  紅梅  詞・花山院定煕
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

(「花山院定煕」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/16/%E7%B4%85%E6%A2%85_%E3%81%93%E3%81%86%E3%81%B0%E3%81%84%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E5%8D%81%E4%B8%89%E5%B8%96_%E5%8C%82%E5%AE%AE%E4%B8%89%E5%B8%96%E3%81%AE

麗景殿に御ことづけ聞こえたまふ譲りきこえて今宵もえ参るまじく悩ましくなど聞こえよとのたまひて笛すこし仕うまつれともすれば御前の御遊びに召し出でらるるかたはらいたしやまだいと 若き笛をとうち笑みて
(第二章 匂兵部卿の物語 第一段 按察使大納言、匂宮に和歌を贈る)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第四十三帖 紅梅
 第一章 紅梅大納言家の物語 娘たちの結婚を思案
  第一段 按察使大納言家の家族
  第二段 按察使大納言家の三姫君
  第三段 宮の御方の魅力
  第四段 按察使大納言の音楽談義
 第二章 匂兵部卿の物語 宮の御方に執心
  第一段 按察使大納言、匂宮に和歌を贈る
  第二段 匂宮、若君と語る
  第三段 匂宮、宮の御方を思う
第四段 按察使大納言と匂宮、和歌を贈答
第五段 匂宮、宮の御方に執心

(「三藐院ファンタジー」その三十三)

 この「源氏物語画帖」が制作された同じ年代(「慶長期~元和初期)に、岩佐又兵衛(1578-1650)作とされている「豊国祭礼図屏風(六曲一双)」(徳川美術館蔵)と「洛中洛外図屏風・舟木本(六曲一双)」(東京国立博物館蔵)との二大大作屏風が制作されている。
 その「豊国祭礼図屏風」の右隻(第六扇)の中央部に、次の「かぶき者けんか図」として知られている場面が描かれている。

豊国祭礼図・秀頼.jpg

「かぶき者けんか図」(岩佐又兵衛筆・「豊国祭礼図屏風・徳川美術館蔵」より)
http://jarsa.jp/wp/wp-content/uploads/2017/03/e7517-flyer.pdf

http://sengokudama.jugem.jp/?eid=4895

 この図が掲載されている「かぶき者―織田頼長と猪熊教利―(古田織部美術館蔵・宮出版社 )」では、この上半身裸の「かぶき者」(徒者=いたずらもの)は、「かぶき手の第一なり」(『当代記』)と名指しされている「織田左門頼長(道八)」(1582-1620)を想定しているようである。
 というのは、この頼長は、織田信長の甥で、茶人織田有楽斎(長益)の嫡男、そして、慶長十九年(1614)の大阪冬の陣では豊臣方につくが、その総軍の指揮にあたることを望んで容れれらず、その翌年(1615)に大阪城を出て京都に退去している(『大阪御陣覚書』)。
 そして、その大阪冬の陣の時に、頼長は「朱具足と朱鞘の刀、赤母衣(ほろ)を着けた女武者を連れて夜間の見回りをした」という話(『大阪陣山口休庵咄』 )などか出回っており、それらを題材にしての、岩佐又兵衛のイメージ化での創作なのであろうというのが、この図の一般的な解なのである。

かぶき者の鞘の銘.jpg

「かぶき者けんか図」(岩佐又兵衛筆・「豊国祭礼図屏風・徳川美術館蔵」より)の「鞘の銘記文」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8778.html

【「いきすぎたりや、廿三、八まんひけはとるまい」
と当時の傾奇者たちにはやった死生観を表しているものと一般的に解釈されているようだ
(歴史番組?ヒストリアでもそのように紹介)。
 しかし、黒田日出男「豊国祭礼図を読む」でちょっと驚くような考察がされていた。
黒田氏の考察によれば、この図屏風は元和元年頃、蜂須賀家政の注文によるものだそうだが、「いきすぎたりや~」の若者の、喧嘩相手の側を見ると、卍紋や梅鉢紋をつけた男たちが必死になって仲裁し、鷹羽紋をつけた男が加勢しようとしている。
(卍紋は蜂須賀家、梅鉢紋は前田家、鷹羽紋は浅野家の家紋である。)
また、喧嘩のせいで倒れたと思われる、紋が散りばめられた上等の駕籠が描かれているが、
その紋の中心は豊臣家の桐紋であり、中から女の手が伸びている。
そして、1612年に処刑された傾奇者、大鳥一兵衛の刀には「廿五迄いき過ぎたりや一兵衛」
と「廿五まで」、となっているのに、絵の若者は「廿三」と中途半端な年齢である。
実は廿三とは豊臣秀頼の享年である。
 結論を言えば、岩佐又兵衛は大坂の陣をかぶき者同士の喧嘩にみたてたのではないか、という考察だった。
つまり、この画像のかぶき者は秀頼ということになるのだが・・・】

 上記の、上半身裸の「かぶき者」(徒者=いたずらもの)は、「かぶき手の第一なり」(『当代記』)と名指しされている「織田左門頼長(道八)」(1582-1620)ではなく、慶長二十年、改元して、元和元年(1615)の「大阪夏の陣」で大阪城が落城した時に自決した「豊臣秀頼」(享年23(満21歳没))の「見立て」(俳諧用語で「あるものを他のものになぞらえる作りかた。また、比喩仕立ての句」=それに準じた「創作」)が、この「かぶき者」の正体だというのである。
 この「豊国祭礼図屏風(岩佐又兵衛筆)」の「かぶき者けんか図」の「かぶき者=豊臣秀頼」とする見方は、『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』の「Ⅷ 徳川美術館本《豊国祭礼図屏風》と岩佐又兵衛」(P230-270)で展開されているもので、ここでの見方が、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』の「Ⅳ 二条城へ向かう武家行列と五条橋上の乱舞―中心軸の読解」(P179-213)と「舟木屏風の注文主と岩佐又兵衛」(P214-252)などにより、さらに、その細部が深化され、その全体像は、未だ、未完のまま、考察途上の現在進行形のものと解すべきものなのであろう。
 これらの、その全体像の考察は、下記の著作などで、その一端が紹介されている。

一 『江戸図屏風の謎を解く(黒田日出男著・角川選書471)』
二 『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』
三 『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』

四  徳川美術館蔵「豊国祭礼図」の注文主(黒田日出男稿)
https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/%E9%87%91%E9%AF%B1%E5%8F%A2%E6%9B%B846.pdf

五 『岩佐又兵衛風絵巻の謎を解く(黒田日出男著・角川選書637)』
六 『岩佐又兵衛と松平忠直(黒田日出男著・岩波現代全書1.03)』

(参考一)「源氏物語画帖」と「猪熊事件」そして「豊国祭礼図」「洛中洛外図・舟木本」との主要人物一覧

※※豊臣秀吉(1537-1598) → 「豊臣政権樹立・天下統一」「豊国祭礼図屏風」
※※土佐光吉(1539-1613) → 「源氏物語画帖」
※※徳川家康(1543-1616) →「徳川政権樹立・パクス・トクガワーナ(徳川の平和)」
花山院定煕(一五五八~一六三九)  →「夕霧」「匂宮」「紅梅」
※※高台院 (1561? - 1598) →  「豊国祭礼図屏風」
近衛信尹(一五六五~一六一四)   →「澪標」「乙女」「玉鬘」「蓬生」
久我敦通(一五六五~?)      →「椎本」
※※淀殿1569?-1615) →  「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣 」
後陽成院周仁(一五七一~一六一七) →「桐壺」「帚木」「空蝉」
日野資勝(一五七七~一六三九)   →「真木柱」「梅枝」
※大炊御門頼国(1577-1613) →「猪熊事件」

※※岩佐又兵衛(1578-1650)→「豊国祭礼図屏風」「洛中洛外図・舟木本」

※※徳川秀忠(1579-1632) →「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
※烏丸光広(一五七九~一六三八) →「猪熊事件」→「蛍」「常夏」 
八条宮智仁(一五七九~一六二九) →「葵」「賢木」「花散里」
四辻季継(一五八一~一六三九)  →「竹河」「橋姫」

※織田左門頼長(道八)(1582-1620) →「猪熊事件」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
※猪熊教利(1583-1609)      →「猪熊事件」
※徳大寺実久(1583-1617)     →「猪熊事件」

飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一)   →「夕顔」「明石」
中村通村(一五八七~一六五三)    →「若菜下」「柏木」 
※花山院忠長(1588-1662) →「猪熊事件」
久我通前(一五九一~一六三四     →「総角」    
冷泉為頼(一五九二~一六二七)     → 「幻」「早蕨」
※※豊臣秀頼(1593-1615)  → 「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
菊亭季宣(一五九四~一六五二)    →「藤裏葉」「若菜上」
近衛信尋(一五九九~一六四九)    →「須磨」「蓬生」
烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)   →「薄雲」「槿」
西園寺実晴(一六〇〇~一六七三)   →「横笛」「鈴虫」「御法」

(参考二)「洛中洛外図屏風(舟木本)」と「豊国祭礼図屏風」

一 重文「洛中洛外図屏風(舟木本)」(岩佐又兵衛筆・東京国立博物館蔵) 
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&webView=null

二の一 重文「豊国祭礼図屏風(右隻)」(岩佐又兵衛(伝)徳川美術館蔵)
https://artsandculture.google.com/asset/festival-of-h%C5%8Dkoku-shrine-right-screen-iwasa-matabei/2AFW7iv6tr1u3g?hl=ja

二の二 重文「豊国祭礼図屏風(左隻)」(岩佐又兵衛(伝)徳川美術館蔵)
https://artsandculture.google.com/asset/festival-of-h%C5%8Dkoku-shrine-left-screen-iwasa-matabei/DQG2KSydiLG95A?hl=ja

(参考三)「慶長・元和期における政治と民衆―『かぶき』の世相を素材として―」(鎌田道隆稿)

http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/AN10086451-19841200-1002.pdf?file_id=1682

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源氏物語画帖「その四十二 匂宮」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

42 匂宮(長次郎筆) =(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九)   薫14歳-20歳

長次郎・匂宮.jpg

源氏物語絵色紙帖  匂兵部卿宮  画・長次郎
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

花山院・匂宮.jpg

源氏物語絵色紙帖  匂兵部卿宮  詞・花山院定煕
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

(「花山院定煕」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/15/%E5%8C%82%E5%85%B5%E9%83%A8%E5%8D%BF_%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%86%E3%81%B2%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%B6%E3%81%8D%E3%82%87%E3%81%86_%E5%8C%82%E5%AE%AE_%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%86%E3%81%BF%E3%82%84

例の左あながちに勝ちぬれは例よりはとくこと果てて大将まかでたまふ兵部卿宮常陸宮后腹の五の宮と一つ車に招き乗せたてまつりてまかでたまふ宰相中将は負方にて音なくまかでたまひにける
(第二章 薫中将の物語 第七段 六条院の賭弓の還饗)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第四十二帖 匂兵部卿
 第一章 光る源氏没後の物語 光る源氏の縁者たちのその後
  第一段 匂宮と薫の評判
  第二段 今上の女一宮と夕霧の姫君たち
  第三段 光る源氏の夫人たちのその後
 第二章 薫中将の物語 薫の厭世観と恋愛に消極的な性格
  第一段 薫、冷泉院から寵遇される
  第二段 薫、出生の秘密に悩む
  第三段 薫、目覚ましい栄達
  第四段 匂兵部卿宮、薫中将に競い合う
  第五段 薫の厭世観と恋愛に消極的な性格
  六段 夕霧の六の君の評判
  第七段 六条院の賭弓の還饗

(「三藐院ファンタジー」その四十二)

かぶき公家供揃図.jpg

「かぶき公家供揃図」(古田織部美術館蔵)
https://ja.kyoto.travel/event/single.php?event_id=3461

http://jarsa.jp/wp/wp-content/uploads/2017/03/e7517-flyer.pdf

http://sengokudama.jugem.jp/?eid=4895
【 江戸初期の慶長年間(1596-1615)、京ではかぶき(傾き)者(いたずら者)の文化が一世を風靡していました。なかでも、「かぶき手の第一」(『当代記』)といわれたのが、織田信長の甥・織田左門頼長(道八)です。また、公家の世界では、「天下無双」の美男と称され、ファッションリーダーでもあった猪熊少将教利、彼と親しかった烏丸光広などの若い公家たちの行動が「猪熊事件」へと発展します。さらに、「天下一」の茶人だった古田織部が好んだ、奇抜で大胆な意匠の茶器や斬新な取り合わせも、数寄の世界でかぶきの精神を表現したものといえるでしょう。本展では、織部好みの茶器や刀、織田頼長の書状、猪熊事件に連座した公家衆の直筆短冊などの品を通して、かぶいた武士・公家衆の人物像を探ります。 

※「光源氏」になぞらえた京のファッションリーダー猪熊少将の「猪熊様」と言われた髪型をついに解明! → 「かぶき公家供揃図」には、月代(さかやき)を大きく剃った大額(おおひたい)に茶筅髷(まげ)、襟足を伸ばして立てるという異風の髪型の公家が描かれているが、これが「猪熊様(よう)」と推定されます。

※猪熊教利の父・兄弟
□ 38 和歌懐紙 「春日同詠遐齢如松」 四辻季満(1566~1608)筆 江戸時代初期
○ 39 和歌小色紙 「おくやまの」 四辻季継(1581~1639)筆 川勝宗久極札 江戸時代前期
□ 40 和歌短冊 「早梅」 高倉(薮)嗣良(1593~1653)筆 江戸時代前期
○ 41 表八句 断簡 「賦山何連歌」 曼殊院宮良恕法親王(東)・高倉(薮)嗣良・甘露寺時長・勧修寺経広・岩倉具起・覚阿上人他

※猪熊事件連座の若公家衆
□ 45 和歌懐紙 「春日詠花色映月」 烏丸光広(1579~1638)筆 江戸時代初期
○ 46 和歌懐紙 「林葉漸紅」「雲浮野水」 烏丸光広 筆 江戸時代初期
47 烏丸光広好 吉野絵 錫棗 江戸時代前期
□ 48 和歌短冊 「明暮に」 花山院忠長(1588~1662)筆 古筆了栄極札 江戸時代初期
□ 49 和歌短冊 「ぬれてほす」 花山院忠長 筆 朝倉茂入極札 江戸時代初期
○ 50 書 状 (年未詳)七月二十九日付・津軽信義宛 花山院忠長 筆 江戸時代前期
○ 51 和歌短冊 「湖上花」 飛鳥井雅賢(1585~1626)筆 江戸時代初期
□ 52 和歌短冊 「暁神祇」 難波宗勝(1587~1651)筆 江戸時代初期
□ 53 和歌短冊 「花を散さぬ風」 難波宗勝 筆 藤本了因極札 江戸時代初期
○ 54 和歌短冊 「聞恋」 飛鳥井雅胤(難波宗勝)筆 京古筆家極札 江戸時代前期
○ 55 和歌短冊 「玉嶋河」 飛鳥井雅宣(難波宗勝)筆 江戸時代前期

猪熊事件連座の女官の父
□ 56 和歌懐紙 「春日同詠鶯是万春友」 広橋兼勝(1558~1623)筆 江戸時代初期
○ 57 和歌短冊 「梅留客」 広橋兼勝 筆 京古筆家極札 江戸時代初期
□ 58 和歌短冊 「開路雪」 中院通勝(1556~1610)筆 江戸時代初期
○ 59 和歌短冊 「初冬暁」 水無瀬氏成(1571~1644)筆 江戸時代前期    】
(「かぶき者―織田頼長と猪熊教利―(古田織部美術館蔵・宮帯出版社 )」「後期展は(2017)5月14日(日)まで。春季展『古田織部と慶長年間のかぶき者』(古田織部美術館様)」 )

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-23

【猪熊事件(いのくまじけん)は、江戸時代初期の慶長14年(1609年)に起きた、複数の朝廷の高官が絡んだ醜聞事件。公家の乱脈ぶりが白日の下にさらされただけでなく、江戸幕府による宮廷制御の強化、後陽成天皇の退位のきっかけともなった。(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

公家衆への処分
慶長14年(1609年)9月23日(新暦10月20日)、駿府から戻った所司代・板倉勝重より、事件に関わった公卿8人、女官5人、地下1人に対して以下の処分案が発表された。

死罪    
左近衛少将 猪熊教利(二十六歳)
牙医 兼康備後(頼継)(二十四歳)

配流《年齢=発覚時=慶長十四年(一六〇九)時(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』》
左近衛権中将 大炊御門頼国《三十三歳》→ 硫黄島配流(→ 慶長18年(1613年)流刑地で死没)
左近衛少将 花山院忠長《二十二歳》→ 蝦夷松前配流(→ 寛永13年(1636年)勅免)
左近衛少将 飛鳥井雅賢《二十五歳》→ 隠岐配流(→ 寛永3年(1626年)流刑地で死没)
左近衛少将 難波宗勝《二十三歳》→ 伊豆配流(→ 慶長17年(1612年)勅免)
右近衛少将 中御門(松木)宗信《三十二歳》→ 硫黄島配流(→ 流刑地で死没)

配流(年齢=発覚時=慶長十四年(一六〇九)時=下記のアドレスの<女房一覧 桃山時代 106代正親町天皇―107代後陽成天皇>)
新大典侍 広橋局(広橋兼勝の娘)<二十歳?>→伊豆新島配流(→ 元和9年9月(1623年)勅免)
権典侍 中院局(中院通勝の娘)<十七歳?>→伊豆新島配流(→ 元和9年9月(1623年)勅免)
中内侍 水無瀬(水無瀬氏成の娘)<?>→ 伊豆新島配流(→元和9年9月(1623年)勅免)
菅内侍 唐橋局(唐橋在通の娘)<?>→ 伊豆新島配流(→元和9年9月(1623年)勅免)
命婦 讃岐(兼康頼継の妹)<?>→ 伊豆新島配流→ 元和9年9月(1623年)勅免)

恩免《年齢=発覚時=慶長十四年(一六〇九)時(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』》
参議 烏丸光広《三十一歳》
右近衛少将 徳大寺実久《二十七歳》       】

https://ameblo.jp/kochikameaikouka/entry-11269980485.html

【※広橋局と逢瀬を重ねていた公家は花山院忠長です。
※中院仲子については烏丸光広との密通を疑われた、と言われています。  】

https://toshihiroide.wordpress.com/2014/09/18/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E9%99%A2%E5%AE%B6%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%80%85%EF%BC%881%EF%BC%89/

【権典侍中院局の兄で正二位内大臣まで上り詰めた中院通村(なかのいん・みちむら)が、後水尾帝の武家伝奏となって朝幕間の斡旋に慌ただしく往復していたころ、小田原の海を眺めつつ妹の身を案じて詠んだ歌がある。
  ひく人のあらでや終にあら磯の波に朽ちなん海女のすて舟
 一首は「私の瞼には、捨てられた海女を載せて波間を漂う孤舟が浮かぶ。いつの日か舟をひいて救ってくれる人が現れるであろうか。それとも荒磯に打ちあげられて朽ちてしまうのか。かわいそうに可憐な妹よ、私はいつもお前のことを憂いているのだよ」と。】

https://tracethehistory.web.fc2.com/nyoubou_itiran91utf.html

<女房一覧 桃山時代 106代正親町天皇―107代後陽成天皇>)


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源氏物語画帖「その四十一 幻」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

41 幻(長次郎筆)=(詞)冷泉為頼(一五九二~一六二七)    源氏52歳の一年間

長次郎・幻.jpg

源氏物語絵色紙帖  幻  画・長次郎
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

冷泉為頼・幻.jpg

源氏物語絵色紙帖  幻 詞・冷泉為頼
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

(「冷泉為頼」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/12/%E5%A4%95%E9%9C

死出の山越えにし人を慕ふとて跡を見つつもなほ惑ふかな
さぶらふ人びともまほにはえ引き広げねどそれとほのぼの見ゆるに心惑ひどもおろかならずこの世ながら遠からぬ御別れのほどをいみじと思しけるままに書いたまへる言の葉げにその折よりもせきあへぬ悲しさやらむかたなしいとうたて今ひときはの御心惑ひも女々しく人悪るくなりぬべければよくも見たまはでこまやかに書きたまへるかたはらに
   かきつめて見るもかひなし藻塩草 同じ雲居の煙とをなれ
と書きつけて皆焼かせたまふ
(第三章 光る源氏の物語 紫の上追悼の秋冬の物語 第三段 源氏、手紙を焼く)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第四十一帖 幻
 第一章 光る源氏の物語 紫の上追悼の春の物語
  第一段 紫の上のいない春を迎える
  第二段 雪の朝帰りの思い出
  第三段 中納言の君らを相手に述懐
  第四段 源氏、面会謝絶して独居
  第五段 春深まりゆく寂しさ
  第六段 女三の宮の方に出かける
  第七段 明石の御方に立ち寄る
  第八段 明石の御方に悲しみを語る
 第二章 光る源氏の物語 紫の上追悼の夏の物語
  第一段 花散里や中将の君らと和歌を詠み交わす
  第二段 五月雨の夜、夕霧来訪
  第三段 ほととぎすの鳴き声に故人を偲ぶ
  第四段 蛍の飛ぶ姿に故人を偲ぶ
 第三章 光る源氏の物語 紫の上追悼の秋冬の物語
  第一段 紫の上の一周忌法要
  第二段 源氏、出家を決意
  第三段 源氏、手紙を焼く
  第四段 源氏、出家の準備

(「三藐院ファンタジー」その三十一)

冷泉為頼書状.jpg

「冷泉為頼筆書状」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)

https://objecthub.keio.ac.jp/object/479

【冷泉為頼〈れいぜいためより・1592-1627〉は、江戸初期の公卿・歌人。権大納言為満〈ためみつ・1559-1619〉の子。36歳で従三位・非参議に叙任したが、その年のうちに若くして没した。これは為頼自筆の書状。宛名の「御霊別法印」は、御霊社別当法印(ごりょうしゃべっとうほういん)の略である。御霊社とは御霊会(死者の怨霊を慰めるための祭)を行なう社の意。京都・八坂神社(むかしは祇園社といった)の盛大な御霊会(祇園会)は有名。御霊別法印はその祇園社供僧の筆頭の別当のことを指す。長年、子どもに恵まれなかった為頼に、待望の一子が誕生した際、この別当法印に命名方を依頼した手紙である。為頼の子、為治(ためはる)は寛永3年〈1626〉に生まれ、虎熊丸と名付けられた。この手紙は、その年の9月17日に書かれたもの。為頼36歳、亡くなる前年にあたる。典型的な定家流。家祖の書法を見事に踏襲している。「重ねての貴札、本望に存じ候。息子名の事、本卦訟の卦とやらん申し候。則ち、松寿丸と付け申し候。則ち、我等名を千寿と申し候。千年松と申す故、随分、作分出来候かと存じ候。然れ共、我等子に不縁故、今まで出来せず候間、虎熊丸と神前にて御付候て給うべく候。殊に貴公繁昌の御方に候へば、一段と目出度く候。名は二ツも三ツ、付く物と申候間、必ず必ず、明日、虎熊丸目出度く候。恐々謹言。猶々、明日は神前にて御付け頼み申し候。以上。九月十七日為頼(花押)御霊別法印冷貴報」

(釈文)

猶々明日ハ神前にて御付頼申候 以上重而貴札本望存候むすこ名之事本卦訟之卦とやらん申候則松(せう)寿(じゅ)丸と付申候則我等名ヲ千寿と申候千年松と申故随分作分出来候かと存候然共我等子ニ不縁故今まて不出来候間虎熊丸と神前にて御付(候)て可給候殊ニ貴公繁昌之御方ニ候へ者一段と目出度候名ハ二ツも三ツ付物と申候間必々明日虎熊丸目出度候恐々謹言九月十七日為頼(花押)御霊 別法印 冷 貴報       】

(参考)

家職一覧.jpg

http://kakei-joukaku.la.coocan.jp/Japan/kuge/kuge_h.htm

※ 西園寺家   → 琵琶
※ 花山院    → 笛
※ 飛鳥井    → 歌道・蹴鞠
※ 烏丸     → 歌道
※ 冷泉(上冷泉)→ 歌道・蹴鞠
※ 日野     → 儒道・歌道 

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源氏物語画帖「その四十 御法」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

40 御法(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六三四)  源氏51歳

長次郎・御法.jpg

源氏物語絵色紙帖  御法  画・長次郎
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

西園寺・御法.jpg

源氏物語絵色紙帖  御法 詞・西園寺実晴
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

(「西園寺実晴」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/12/%E5%A4%95%E9%9C%A

  薪こる思ひは今日を初めにてこの世に願ふ法ぞはるけき
夜もすがら、尊きことにうち合はせたる鼓の声、絶えずおもしろし。ほのぼのと明けゆく朝ぼらけ、霞の間より見えたる花の色々、なほ春に心とまりぬべく匂ひわたりて、百千鳥のさへづりも、笛の音に劣らぬ心地して、
(第一章 紫の上の物語 第三段 紫の上、明石御方と和歌を贈答)

1.3.4  薪こる思ひは今日を初めにて  この世に願ふ法ぞはるけき
(仏道へのお思いは今日を初めの日として、この世で願う仏法のために千年も祈り続けられることでしょう)
1.3.5 夜もすがら、尊きことにうち合はせたる鼓の声、絶えずおもしろし。 ほのぼのと明けゆく朝ぼらけ、霞の間より見えたる花の色々、なほ春に心とまりぬべく匂ひわたりて、 百千鳥のさへづりも、笛の音に劣らぬ心地して、
(一晩中、尊い読経の声に合わせた鼓の音、鳴り続けておもしろい。ほのぼのと夜が明けてゆく朝焼けに、霞の間から見えるさまざまな花の色が、なおも春に心がとまりそうに咲き匂っていて、百千鳥の囀りも、笛の音に負けない感じがして、)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第四十帖 御法
 第一章 紫の上の物語 死期間近き春から夏の物語
  第一段 紫の上、出家を願うが許されず
  第二段 二条院の法華経供養
  第三段 紫の上、明石御方と和歌を贈答
(「西園寺実晴」書の「詞」) →  1.3.4 1.3.5 
  第四段 紫の上、花散里と和歌を贈答
  第五段 紫の上、明石中宮と対面
  第六段 紫の上、匂宮に別れの言葉
 第二章 紫の上の物語 紫の上の死と葬儀
  第一段 紫の上の部屋に明石中宮の御座所を設ける
  第二段 明石中宮に看取られ紫の上、死去す
  第三段 源氏、紫の上の落飾のことを諮る
  第四段 夕霧、紫の上の死に顔を見る
  第五段 紫の上の葬儀
 第三章 光る源氏の物語 源氏の悲嘆と弔問客たち
  第一段 源氏の悲嘆と弔問客
  第二段 帝、致仕大臣の弔問
  第三段 秋好中宮の弔問

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3804

源氏物語と「御法」(川村清夫稿)

【 紫上は、「若紫」の帖で光源氏が18歳の頃から連れ添ってきた、最高の人生の伴侶だった。正妻だった葵上のように子種には恵まれなかったが、光源氏が慕っていた藤壺女御そっくりの容貌と、高い教養と温和な性格を兼ね備えた、源氏物語における最高の女性であった。しかし「若菜」の帖で女三宮が光源氏の正妻格になってからは、「厄年」である37歳を境に体調を崩していった。
 「御法」の帖では、紫上は死期を悟り、明石の君、花散里、匂宮に別れを告げた。そして秋の夕暮れに、光源氏と明石中宮と和歌を詠み交わす間に、紫上は容体を崩し、明石中宮に看取られて息を引き取ったのである。
 それでは紫上の死の場面を、大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
「今は渡らせたまひね。乱り心地いと苦しくなりはべりぬ。いふかひなくなりにけるほどと言ひながら、いとなめげにはべりや」
とて、御几帳引き寄せて臥したまへるさまの、常よりもいと頼もしげなく見えたまへば、
「いかに思さるるにか」
とて、宮は、御手をとらへたてまつりて、泣く泣く見たてまつりたまふに、まことに消えゆく露の心地して、限りに見えたまへば、御誦経の使ひども、数も知らず立ち騒ぎたり。先ざきも、かくて生き出でたまふ折にならひたまひて、御もののけと疑ひたまひて、夜一夜さまざまのことをし尽くさせたまへど、かひもなく、明け果つるほどに消え果てたまひぬ。

(渋谷現代語訳)
「もうお帰りなさいませ。気分がひどく悪くなりました。お話にもならないほどの状態になってしまったとは申しながらも、まことに失礼でございます」
と言って、御几帳引き寄せてお臥せになった様子が、いつもより頼りなさそうにお見えなので、
「どうあそばしましたか」
とおっしゃって、中宮は、お手をお取り申して泣きながら拝し上げなさると、本当に消えてゆく露のような感じがして、今が最期とお見えなので、御誦経の使者たちが、数えきれないほど騒ぎだした。以前にもこうして生き返りなさったことがあったのと同じように、御物の怪のしわざかと疑いなさって、一晩中いろいろな加持祈祷のあらん限りをし尽くしなさったが、その甲斐もなく、夜の明けきるころにお亡くなりになった。

(ウェイリー英訳)
“Now,” she said presently, “you had better go back to your rooms. I am feeling very giddy; and though I know you would forgive me if I did not entertain you properly. I do not like to feel that I have been behaving badly.” Her screens-of -state were drawn in close about the couch. The Princess stood holding Murasaki’s hand in hers. She seemed indeed to be fading like a dewdrop from the grass. So certain seemed the approach of death that messengers were sent in every direction to bid the priests read scriptures for her salvation. But she had more than once recovered from such attacks as these, and it was hoped that this was merely another onslaught of the “possession” that had attacked her years before. All night long various prayers and incantations were kept going, but in vain; for she died next morning soon after sunrise.

(サイデンステッカー英訳)
“Would you please leave me?” said Murasaki. “I am feeling rather worse. I do not like to know that I am being rude and find myself unable to apologize.” She spoke with very great difficulty.
The empress took her hand and gazed into her face. Yes, it was indeed like the dew about to vanish away. Scores of messengers were sent to commission new services. Once before it had seemed that she was dying, and Genji hoped that whatever evil spirit it was might be persuaded to loosen its grip once more. All through the night he did everything that could possibly be done, but in vain. Just as light was coming she faded away.

 ウェイリーもサイデンステッカーも明石中宮の台詞を省略したが、原文に忠実な翻訳をしている。明石中宮をウェイリーはPrincess、サイデンステッカーはempressと訳している。紫上の死「消え果てたまひぬ」を、ウェイリーはshe diedと普通に訳したが、サイデンステッカーはshe faded awayと、原文に忠実に訳している。

 夕霧が紫上のなきがらを見つめると、類もないほど美しく、「死に入る魂の、やがてこの御骸にとまらなむ」(死に入ろうとする魂がそのままこの御亡骸に止まっていてほしい)と思った。夕霧の切ない気持ちを、ウェイリーは原文を改作して、Yugiri was astounded. His spirit seemed to leave him, to float through space and hover near her, as though it were he that was the ghost, and this the lovely body he had chosen for his habitation.と訳している。サイデンステッカーは原文に忠実に、He almost wished that the spirit which seemed about to desert him might be given custody of the unique loveliness before him.と訳している。

 紫上の葬儀に関しては、「限りなくいかめしき作法なれど、いとはかなき煙にて、はかなく昇りたまひぬる」(この上もなく厳めしい葬儀であるが、まことにあっけない煙となって、はかなく上っていっておしまいになった)とあるが、ウェイリーは省略している。サイデンステッカーは原文に忠実に、The services were solemn and dignified, and she ascended to the heavens as the frailest wreath of smoke.と訳している。

 最愛の妻である紫上を失った光源氏は、出家するために身辺整理をはじめるのである。 】

(「三藐院ファンタジー」その三十)

https://www.gotoh-museum.or.jp/collection/genji/

五島美術館・御法.jpg

「国宝 源氏物語絵巻」(大東急記念文庫蔵)の「御法」(絵・詞書第三面(第五紙)・詞書第二面(第三・四紙))
【「国宝 源氏物語絵巻」(大東急記念文庫蔵)
平安時代の11世紀、関白藤原道長の娘である中宮彰子に仕えた女房紫式部(生歿年未詳)は、『源氏物語』を著し、主人公光源氏の生涯を軸に平安時代の貴族の世界を描いた。 「源氏物語絵巻」は、この『源氏物語』を絵画化した絵巻で、物語が成立してから約150年後の12世紀に誕生した、現存する日本の絵巻の中で最も古い作品である。 『源氏物語』54帖の各帖より1~3場面を選び絵画化し、その絵に対応する物語本文を書写した「詞書」を各図の前に添え、「詞書」と「絵」を交互に繰り返す形式の、 当初は10巻程度の絵巻であったと推定( 2 0 巻説もあり)。現在は5 4 帖全体の約4 分の1 、巻数にすると4巻分が現存する。江戸時代初期に、3巻が尾張徳川家に、1巻が阿波蜂須賀家に伝来していたことがわかっているが、それ以前の古い伝来は不明。 徳川家本は現在、愛知・徳川美術館が収蔵。蜂須賀家本は江戸時代末期に民間に流出、現在、五島美術館が収蔵する(「鈴虫」2場面、「夕霧」、「御法」の3帖分)。 両方とも昭和7年(1932)、保存上の配慮から詞書と絵を離し、巻物の状態から桐箱製の額装に改めた。「詞書」も「絵」も作者は不明。「詞書」の書風の違いから、五つのグループによる分担制作か。 「絵」の筆者を平安時代の優れた宮廷絵師であった藤原隆能(?~1126~74?)と伝えるところから、本絵巻を「隆能源氏」とも呼ぶ。

御法(絵・詞書第三面(第五紙)・詞書第二面(第三・四紙・詞書第一面(第一・二紙))

『源氏物語』第40帖「御法」。光源氏の最愛の妻である紫上が重病にふし、源氏と明石中宮(光源氏と明石上の娘/紫上が養育)に最後の別れを告げる場面。命のはかなさを、庭に咲く萩に付いた露にたとえて、3 人は和歌を詠み交わす。やがて、紫上の病状はにわかに悪化し、源氏に別れを告げると、横になって間もなく、明石中宮に手を取られながら静かに息を引き取った。風に吹きすさぶ萩や薄・桔梗・女郎花など秋草の繊細な描写が、3人の詠歌と悲しい心情を象徴する。 】

http://www.genji-monogatari.net/

(「紫上・明石君・花散里・光源氏」の詠唱)

惜しからぬこの身ながらもかぎりとて  薪(たきぎ)尽きなむことの悲しさ(紫上)
(惜しくもないこの身ですが、これを最後として、薪の尽きることを思うと悲しうございます)
薪こる思ひは今日を初めにて  この世に願ふ法ぞはるけき(明石君)
(仏道へのお思いは今日を初めの日として、この世で願う仏法のために千年も祈り続けられることでしょう)

絶えぬべき御法(みのり)ながらぞ頼まるる  世々にと結ぶ中の契りを(紫上)
(これが最後と思われます法会ですが、頼もしく思われます 生々世々にかけてと結んだあなたとの縁を)
結びおく契りは絶えじおほかたの  残りすくなき御法なりとも(花散里)
(あなた様と御法会で結んだ御縁は未来永劫に続くでしょう。普通の人には残り少ない命とて、多くは催せない法会でしょうとも)

おくと見るほどぞはかなきともすれば  風に乱るる萩のうは露(紫上)
(起きていると見えますのも暫くの間のこと、ややもすれば風に吹き乱れる萩の上露のようなわたしの命です)
ややもせば消えをあらそふ露の世に  後れ先だつほど経ずもがな(光源氏)
(どうかすると先を争って消えてゆく露のようにはかない人の世に、せめて後れたり先立ったりせずに一緒に消えたいものです)
秋風にしばしとまらぬ露の世を  誰れか草葉のうへとのみ見む(明石君)
(秋風に暫くの間も止まらず散ってしまう露の命を、誰が草葉の上の露だけと思うでしょうか)
「堂上公家の『家礼・門流』と「猪熊事件」関係公家(※印)

http://kakei-joukaku.la.coocan.jp/Japan/kuge/kuge_h.htm

《近衛殿家礼》50家
※広橋・柳原・西洞院・吉田・土御門・舟橋・滋野井・※難波・持明院・※山科・※高倉・※四辻・※水無瀬・竹内・竹屋・裏辻・日野西・平松・長谷・交野・石井・萩原・七条・富小路・櫛笥・高野・裏松・石野・外山・小倉・八条・芝山・北小路・北小路・慈光寺・町尻・桜井・山井・錦小路・錦織・西大路・園池・豊岡・三室戸・北小路・阿野・万里小路・正親町三条・勘解由小路・日野
《九条殿家礼》20家
鷲尾・綾小路・五辻・堀河・伏原・樋口・唐橋・油小路・澤・下冷泉・坊城・葉室・姉小路・高松・風早・山本・大宮・甘露寺・勧修寺・穂波
《二条殿家礼》4家
白川・岡崎・中御門・花園
《一条殿家礼》37家
醍醐・西園寺・※花山院・※大炊御門・今出川・※松木・清水谷・四条・※飛鳥井・野宮・藪・※烏丸・正親町・中山・今城・清閑寺・園・橋本・梅園・中園・壬生・池尻・梅小路・石山・六角・庭田・大原・岩倉・千種・植松・高辻・五条・東坊城・清岡・桑原・倉橋・藤波
《鷹司殿家礼》8家
冷泉・藤谷・入江・西四辻・梅溪・高丘・藤井・堤

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-23

【猪熊事件(いのくまじけん)は、江戸時代初期の慶長14年(1609年)に起きた、複数の朝廷の高官が絡んだ醜聞事件。公家の乱脈ぶりが白日の下にさらされただけでなく、江戸幕府による宮廷制御の強化、後陽成天皇の退位のきっかけともなった。(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

公家衆への処分

慶長14年(1609年)9月23日(新暦10月20日)、駿府から戻った所司代・板倉勝重より、事件に関わった公卿8人、女官5人、地下1人に対して以下の処分案が発表された。

死罪 
   
※左近衛少将 猪熊教利(二十六歳)
牙医 兼康備後(頼継)(二十四歳)

配流《年齢=発覚時=慶長十四年(一六〇九)時(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』》

※左近衛権中将 大炊御門頼国《三十三歳》→ 硫黄島配流(→ 慶長18年(1613年)流刑地で死没)
※左近衛少将 花山院忠長《二十二歳》→ 蝦夷松前配流(→ 寛永13年(1636年)勅免)
※左近衛少将 飛鳥井雅賢《二十五歳》→ 隠岐配流(→ 寛永3年(1626年)流刑地で死没)
※左近衛少将 難波宗勝《二十三歳》→ 伊豆配流(→ 慶長17年(1612年)勅免)
※右近衛少将 中御門(松木)宗信《三十二歳》→ 硫黄島配流(→ 流刑地で死没)

配流(年齢=発覚時=慶長十四年(一六〇九)時=下記のアドレスの<女房一覧 桃山時代 106代正親町天皇―107代後陽成天皇>)

※新大典侍 広橋局(広橋兼勝の娘)<二十歳?>→伊豆新島配流(→ 元和9年9月(1623年)勅免)
※権典侍 中院局(中院通勝の娘)<十七歳?>→伊豆新島配流(→ 元和9年9月(1623年)勅免)
※中内侍 水無瀬(水無瀬氏成の娘)<?>→ 伊豆新島配流(→元和9年9月(1623年)勅免)
菅内侍 唐橋局(唐橋在通の娘)<?>→ 伊豆新島配流(→元和9年9月(1623年)勅免)
命婦 讃岐(兼康頼継の妹)<?>→ 伊豆新島配流→ 元和9年9月(1623年)勅免)

恩免《年齢=発覚時=慶長十四年(一六〇九)時(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』》

(追記)近衛太郎君筆倶胝和尚自画賛

https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/17

太郎君・自画賛.jpg

【上方の賛の最後に見える花押は、近衛太郎君のもの。近衛太郎君は、「信尹公息女」(『古筆流儀分』)「三藐院公ノ長女」(『皇朝名画拾彙』)とあるように、近衛信尹〈このえのぶただ・1565-1614〉の娘で、筆跡は三藐院流(信尹の書風)の書き手と知られ、さらに画技では、父信尹が得意とした達磨・布袋・人麿の画賛に傑出した画才を発揮したという。実際に、歌仙色紙、書状、画賛等々、いくつもの遺例が現存する。ところが、「太郎」という名前や花押の存在に加えて、信尹そっくりのいかにも男性的な書風を勘案して、太郎君が男性であったとも説もあり、いずれを決する確固たる証明もなく、謎につつまれている。本図は、中国・唐代の人、倶胝和尚を描いたもの。この倶胝和尚、小院の住持に収まっていた若いころ、ひとりの尼(実際尼)が訪ね来て、「速やかに一句を」との問いに、倶胝は何も答えることができなかった。その悔しさで、寺を棄てて諸方遊歴を決意。そのうち馬祖道一の法孫・天竜智洪に参じ、この事を尋ねた。すると天竜は、何もいわずにただ1本の指を突き出して見せた。その瞬間、倶胝は大悟を得たという。これが、一指頭禅(倶胝指頭の禅・倶胝の一指・倶胝竪指とも)と言われる禅の公案。倶胝は以後生涯にわたって禅旨を問う者あればいつも指を1本立てて示したという。本図は、倶胝が指を1本立てた姿を略画したもの。上部の賛の書風がいかにも信尹の書そのものを彷彿とさせるほど酷似する。おそらくは、画・賛ともに、信尹の手本の存在を思わせる。「写し絵は何とてものをいはざらむささくる指のものをいふとて」

(釈文)

うつしゑハなにとてものをいはさらむさゝくるゆひのものをいふとて (花押)  】

(参考)

http://www.asahi-net.or.jp/~ZU5K-OKD/house.14/mumonkan/gate.2.htm

 倶胝竪指 (ぐていじゅし)

【彼は若い頃、山中の庵で一人座禅をしていました。そうしたある日、実際尼という

尼僧の訪問を受けました。ところがこの尼さん、あろうことか笠を付けたまま庵室に

入って来ました。しかも、無礼にも錫杖をジャランジャランと鳴らしながら、倶胝の周

りを三週したといいます。それから、彼の正面に立って、こう言いました。

「もしあなたが、私を満足させる一語を言い得るならば、笠を取りましょう...」


  尼僧は、三度問うたが、倶胝は何とも答えられなかった。彼はまだ、心眼が開け

てはいなかったのです。すると、尼僧はさっさと出て行こうとしました。そこで、ようや

く倶胝はこう言いました。

「もう、日もだいぶ傾いてきました。今夜は、ここに泊まっていってはどうですか」

                (倶胝は、見事に一語を言い得ています...しかし、自分ではそれに気がつきません)

  すると、尼僧は折りたたむように、こう言いました。

「もし、あなたが、一語を言い得たらば、泊まりましょう...」


  しかし、やはり倶胝は何も答えられなかった。ここで倶胝は大いに反省し、一念発

起しました。このまま、一人ここで座禅をしていてはダメだと思ったのです。すぐさま、

諸国に名僧を訪ね、修行の旅に出る事を決意したのです。ところが、倶胝はこの夜、

夢を見ました。そして、その夢の中で、こうお告げを受けたのです。

「近くこの草案に、そなたの師となる優れた禅匠が訪れるであろう...」


  そこで倶胝は、しばらく山に留まることにしました。すると十日ほどたった頃、一人

の老僧が庵にやってきました。大梅法常禅師の法嗣・天竜禅師でした。倶胝は、礼

を尽して迎え入れ、尼僧との事、夢のお告げの事、などを話し、

“禅の根源的な一句”


  ...とは何かと問いました。この時、天竜禅師は、黙ってただ“一指”を立てまし

た。するとこの瞬間、倶胝は忽然と心中の暗雲が晴れました。彼は心眼が開け、

大悟したのです。以来、倶胝はこの“天竜の一指頭の禅”を確立し、一生涯使い続

けました。しかし、臨終の際、これを使いきる事が出来なかったと言っています。

  そこには、何とも広大で明快な、禅的な世界が広がっていたのです。そしてこの

“無門の関”を通れば、向こうには趙州も南泉も馬祖もいます。五祖・弘忍、初祖・菩

提達磨の姿も透けて見えます。彼らはみな同じ心で、二元的対立を超えた、この世

界の真理を見つめています。

 

  倶胝禅師の“一指頭の禅”とは、まさに痛快きわまる禅の境涯です。私の説明な

どは、全て蛇足になります。が、未熟者ゆえ、あえてその蛇足を述べておきます。

  ここで重要なのは、一指を立てる事ではありません。重要なのは、まさに倶胝の

激しい草案での修行が、機を熟していたということです。しかも、ここで尼僧に何も

答えることが出来ず、倶胝は“大地黒漫々”の状況に叩き込まれていました。諸国

行脚の修行に出るなどとうろたえたのも、まさにその狼狽振りを示しています。そし

て、そこに...
 

  天竜禅師の一指!
 

  ...です。ここはもはや、理屈ではありません。この“一指”によって倶胝は、主体

とか客体とかの二元的世界を超越し、内外打成一片(ないげだじょういっぺん)<ジャンプ> の

風景を見たのです。】

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源氏物語画帖「その三十九 夕霧」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

39 夕霧(長次郎筆)=(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九)  源氏50歳秋-冬

長次郎・夕霧.jpg

源氏物語絵色紙帖  夕霧  画・長次郎
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

花山院・夕霧.jpg

源氏物語絵色紙帖  夕霧  詞・花山院定熈
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

(「花山院定熈」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/12/%E5%A4%95%E9%9C%A7_%E3%82%86%E3%81%86%E3%81%8E%E3%82%8A%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B9%9D%E5%B8%96%E3%80%91

霧のただこの軒のもとまで立ちわたれば、まかでむ方も見えずなり行くはいかがすべきとて、山里のあはれを添ふる夕霧に立ち出でむ空もなき心地して
(第一章 夕霧の物語 小野山荘訪問 第四段 夕霧、山荘に一晩逗留を決意)

1.4.4 霧のただこの軒のもとまで立ちわたれば、
(霧がすぐこの軒の所まで立ち籠めたので、)
1.4.5 「 まかでむ方も見えずなり行くは、いかがすべき」とて、
(「帰って行く方角も分からなくなって行くのは、どうしたらよいでしょうか」と言って、)
1.4.6 「 山里のあはれを添ふる夕霧に  立ち出でむ空もなき心地して」
(「山里の物寂しい気持ちを添える夕霧のために、帰って行く気持ちにもなれずおります」)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第三十九帖 夕霧
 第一章 夕霧の物語 小野山荘訪問
  第一段 一条御息所と落葉宮、小野山荘に移る
  第二段 八月二十日頃、夕霧、小野山荘を訪問
  第三段 夕霧、落葉宮に面談を申し入れる
  第四段 夕霧、山荘に一晩逗留を決意
(「花山院定熈」書の「詞」)  →  1.4.4 1.4.5 1.4.6 
  第五段 夕霧、落葉宮の部屋に忍び込む
  第六段 夕霧、落葉宮をかき口説く
  第七段 迫りながらも明け方近くなる
  第八段 夕霧、和歌を詠み交わして帰る
第二章 落葉宮の物語 律師の告げ口
 第一段 夕霧の後朝の文
  第二段 律師、御息所に告げ口
  第三段 御息所、小少将君に問い質す
  第四段 落葉宮、母御息所のもとに参る
  第五段 御息所の嘆き
 第三章 一条御息所の物語 行き違いの不幸
  第一段 御息所、夕霧に返書
  第二段 雲居雁、手紙を奪う
  第三段 手紙を見ぬまま朝になる
  第四段 夕霧、手紙を見る
  第五段 御息所の嘆き
  第六段 御息所死去す
  第七段 朱雀院の弔問の手紙
  第八段 夕霧の弔問
  第九段 御息所の葬儀
 第四章 夕霧の物語 落葉宮に心あくがれる夕霧
  第一段 夕霧、返事を得られず
  第二段 雲居雁の嘆きの歌
  第三段 九月十日過ぎ、小野山荘を訪問
  第四段 板ばさみの小少将君
  第五段 夕霧、一条宮邸の側を通って帰宅
第六段 落葉宮の返歌が届く
 第五章 落葉宮の物語 夕霧執拗に迫る
  第一段 源氏や紫の上らの心配
  第二段 夕霧、源氏に対面
  第三段 父朱雀院、出家希望を諌める
  第四段 夕霧、宮の帰邸を差配
  第五段 落葉宮、自邸へ向かう
第六段 夕霧、主人顔して待ち構える
  七段 落葉宮、塗籠に籠る
第六章 夕霧の物語 雲居雁と落葉宮の間に苦慮
  第一段 夕霧、花散里へ弁明
  第二段 雲居雁、嫉妬に荒れ狂う
  第三段 雲居雁、夕霧と和歌を詠み交す
  第五段 夕霧、塗籠に入って行く
  第六段 夕霧と落葉宮、遂に契りを結ぶ
 第七章 雲居雁の物語 夕霧の妻たちの物語
  第一段 雲居雁、実家へ帰る
  第二段 夕霧、雲居雁の実家へ行く
  第三段 蔵人少将、落葉宮邸へ使者
第四段 藤典侍、雲居雁を慰める

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3771

源氏物語と「夕霧」(川村清夫稿)

【 光源氏の子息である夕霧は、太政大臣の娘で幼なじみでもある雲井雁と6年間の交際の末に結婚した。夫婦仲は円満で、多数の子供に恵まれた。ところが夕霧は世帯じみた生活に飽きて、柏木の死後、彼の未亡人である落葉の宮に言い寄って愛人関係を結んでしまう。夕霧の不倫に怒った雲井雁は、彼と夫婦げんかを起こし、子供たちを連れて実家に帰ってしまうのである。

 ウェイリーは、夕霧と雲井雁の夫婦げんかの場面を重要でないと思ったのか、省略しているが、サイデンステッカーは翻訳している。それでは夕霧と雲井雁の夫婦げんかの場面を、大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、サイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
「いづことておはしつるぞ。まろは早う死にき。常に鬼とのたまへば、同じくはなり果てなむとて」
とのたまふ。
「御心こそ、鬼よりけにもおはすれ、さまは憎げもなければ、え疎み果つまじ」…
「何ごと言ふぞ。おいらかに死にたまひね。まろも死なむ。見れば憎し。聞けば愛敬なし。見捨てて死なむはうしろめたし」
とのたまふに、いとをかしきさまのみまされば、こまやかに笑ひて、
「近くてこそ見たまはざらめ、よそにはなにか聞きたまはざらむ。さても、契り深かなる瀬を知らせむの御心ななり。にはかにうち続くべかなる冥途のいそぎは、さこそは契りきこえしか」

(渋谷現代語訳)
「ここをどこと思っていらっしゃったのですか。わたしはとっくに死にました。いつも鬼とおっしゃるので、同じことならすっかりなってしまおうと思って」
とおっしゃる。
「お心は鬼以上でいらっしゃるが、姿形は憎らしくもないので、すっかり嫌いになることはできないな」…
「何を言うの。あっさりと死んでおしまいなさい。わたしも死にたい。見ていると憎らしい。聞くも気にくわない。後に残して死ぬのは気になるし」
とおっしゃるが、とても愛らしさが増すばかりなので、心からにっこりして、
「近くで御覧にならなくても、よそながらどうして噂をお聞きにならないわけには行きますまい。そうして、夫婦の縁の深いことを分からせようとのおつもりのようですね。急に続くような冥土への旅立ちは、そのようにお約束申したからね」

(サイデンステッカー英訳)
“Do you know where you are?” she said finally. “You are in hell. You have always known that I am a devil, and I have merely come home.”
“In spirit worse than a devil,” he replied cheerfully, “but in appearance not at all unpleasant.”…
“That will do. Just disappear, please, if you do not mind, and I will hurry and do the same. I do not like the sight of you and I do not like the sound of you. My only worry is that I may die first and leave you happily behind.”
He found her more and more amusing. “Oh, but you would still hear about me. How do you propose to avoid that unpleasantness? Is the point of your remarks that there would seem to be a strong bond between us? It will hold, I think. We are fated to move on to another world in quick succession.”

 怒った雲井雁の台詞「いづことておはしつるぞ」をサイデンステッカーはDo you know where you are?と正確に訳しているが、これに続く「まろは早う死にき」を、You are in hell.と原文と違って訳している。「常に鬼とのたまへば、同じくはなり果てなむ」は、You have always known that I am a devil, and I have merely come home.と訳しているが、これも違う。雲井雁の怒りにとりあわない夕霧の台詞「御心こそ、鬼よりけにもおはすれ、さまは憎げもなければ、え疎み果つまじ」は、In spirit worse than a devil, but in appearance not at all unpleasantと、そっけなく訳していて、物足りない。

 逆上した雲井雁の台詞「何ごと言ふぞ」を、サイデンステッカーはThat will do.と原文と違って訳している。続く「おいらかに死にたまひね。まろも死なむ」をJust disappear, please, if you do not mind, and I will hurry and do the same.と、原文と違った訳文である。disappearではなくdieとするべきだ。その後の部分は、「見れば憎し。聞けば愛敬なし。見捨てて死なむはうしろめたし」を、I do not like the sight of you and I do not like the sound of you. My only worry is that I may die first and leave you happily behind.と、正確に訳している。雲井雁をからかう夕霧の台詞「近くてこそ見たまはざらめ、よそにはなにか聞きたまはざらむ」をOh, but you would still hear about me. How do you propose to avoid that unpleasantness?と訳しているが、翻訳不足である。その後の部分は、「さても、契り深かなる瀬を知らせむの御心ななり」をIs the point of your remarks that there would seem to be a strong bond between us?と、「にはかにうち続くべかなる冥途のいそぎは、さこそは契りきこえしか」をWe are fated to move on to another world in quick succession.と、上手に訳している。

 雲井雁は子供たちを連れて実家に戻り、夕霧と別居するが、夕霧は雲井雁と落葉の宮のもとに1日おきに通うようになるのである。 】


(「三藐院ファンタジー」その二十九)

花山院忠長書状一.jpg

「花山院忠長筆消息」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/433

【花山院忠長〈かざんいんただなが・1588-1662〉は、左大臣花山院定煕〈さだひろ・1558-1634〉の二男。順調に累進して従四位・左近衛権少将に至った(17歳)。が、慶長10年〈1609〉7月、22歳の時、烏丸光広(からすまるみつひろ)・大炊御門頼国(おおいみかどよりくに)・飛鳥井雅賢(あすかいまさかた)・難波宗勝(なんばむねかつ)・徳大寺実久(とくだいじさねひさ)・松木宗信(まつきむねのぶ)らの公家たちとともに、宮廷の女官5人と遊興にふけり、密通していたことが発覚。宮廷の風紀粛正を決意した後陽成天皇は、幕府に命じてそれぞれを厳罰に処した。忠長は蝦夷(北海道)松前に流罪の身となった。のち津軽に移されたが、赦免されたのは、寛永13年〈1636〉、49歳の時。武蔵国に住み、出家して浄屋(じょうおく)を号した。慶安5年〈1652〉には念願叶って帰洛、10年後の寛文2年〈1662〉、75歳で没した。忠長は、書道史上、近衛流の名手として知られる。この書状にもその影響が顕著である。内容の詳細は不明ながら、「此地も替事無之候」「ふりふりと逗留」「馬一疋引上せ申度候人足とも大勢上り申候」「馬とゝのひ候て上り申候」などの文言などから、忠長が配流先から赦されて江戸に戻る直前の身辺の動向が察知される。宛名の「早野茂兵衛」は不明。「幸便の条一筆啓せしめ候。軽米兵介(かるまいひょうすけ・奥州九戸郡の軽米城主・軽米兵右衛門の一族か)下るの刻も書状を以って申し度く候へども、去り難き隙入り候て、恐れながら其の儀無く候。先ず以って其元無事の由珍重に候。此の地も替(変)わる事これ無く候間、心安からるべく候。将亦、我等事も未だ御目見の隔て申さず候故、ふりふりと逗留。本馬(本間)太兵衛なども懇切にて、米など心得にて遣わされ候由祝着の事に候。よくよく心得候て申され給うべく候。頼み入り候。此の度、書状を以って申し度く候へども、此の仁(使者)不慮に(思いがけず)参り候間、便俄に候て、頓而(やがて)、期不(期せず)書状を以って申すべく候。万々、頼み入り候。恐々謹言。/尚々、昭九郎にもよくよく御心得頼み入り候。仍って此の度、馬一疋引き上せ申し度く候。人足ども大勢上り申し候由申し候間、土佐殿へ申し候へば、引き上せ申し候処、其々の事に候間、馬調ひ候て、上り申し候はば、路次中以下懇ろに入り申し付けられ給うべく候。是又、頼み入り候。猶、後音の時を期し候。卯月(四月)二十三日花(山院)少将忠長(花押)早野茂兵衛殿参る」

(釈文)

[上段]尚々昭九郎ニもよく/\御心得頼入候仍此度馬一疋引上せ申度候人足幸便之条一筆令啓候とも大勢上り申候由申候間軽米兵介下之刻も土佐殿へ申候へハ引上せ申候処其々以書状申度候へ共難去之事候間馬とゝのひ候て隙入候而乍恐無其儀候上り申候ハゝ路次中以下先以其元無事之由懇に入被申付可給候是又珍重ニ候此地も替事頼入申候猶期後音之無之候間可被心安候将亦時候我等事も未御目見之隔不申候故ふり/\と逗留[下段]本馬太兵衛なとも懇切にて米なと心得にて被遣候由祝着事候よく/\心得候て被申可給候頼入候此度以書状申度候へ共此仁不慮ニ参候間便俄ニ候而頓而期不以書状可申候万々頼入候恐々謹言花少将卯月廿三日忠長(花押)早野茂兵衛殿まいる    】

https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E9%99%A2%E5%AE%B6%EF%BC%88%E6%B8%85%E8%8F%AF%E5%AE%B6%EF%BC%89

(花山院定熙)
生没年:1558-1634
父:左大臣 西園寺公朝
義父:右大臣 花山院家輔
初名:家雅
1576 侍従
1577 従五位上
1578 従四位下
1578 左近衛少将
1579 左近衛中将
1579 参議
1580 正四位下
1585 従三位
1588 正三位
1589 権中納言
1597 従二位
1599 権大納言
1602 正二位
1615-1617 右近衛大将
1615 神宮伝奏
1619 内大臣
1620 従一位
1621 右大臣
1632 左大臣
妻:(父:内大臣 徳大寺公維)
女:?
1588-1662 忠長
妻:(父:朝倉義景)
清昌院
1583-1616 徳大寺実久(徳大寺家へ)
1595-1659 寛海
了二
超勝院(権中納言 橋本実村室)
1599-1673 定好
-1667 総持院尼
1609-1646 松木宗保(松木家へ)
於万
於国(美作湯川左衛門室)
1610-1658 (養子)野宮定逸(野宮家へ)

(花山院忠長)
生没年:1588-1662
父:左大臣 花山院定熙
従四位上
左近衛少将
1609 猪熊事件
1609-1636 配流
妻:
1608-1695 公海
1610-1658 野宮定逸(野宮家へ)

 花山院定熈(1558-1634)は、「猪熊事件」(慶長14年(1609年)に起きた、複数の朝廷の高官が絡んだ醜聞事件。公家の乱脈ぶりが白日の下にさらされただけでなく、江戸幕府による宮廷制御の強化、後陽成天皇の退位のきっかけともなった)に連座した、「徳大寺実久(1583-1616)・花山院忠長(1588-1662)」の実父である。
 上記の「花山院忠長筆消息」は、その嫡男の「花山院忠長(1588-1662)」が、「配流先から赦されて江戸に戻る直前の身辺の動向」(慶安5年〈1652〉前後)が読み取れる書状である。
 この書状(慶安5年〈1652〉前後)の時には、花山院定熈(1558-1634)は既に没している。なお、徳大寺実久(1583-1616)は、忠長の兄であるが、定熈の妻(父:内大臣 徳大寺公維)の「徳大寺」家の養子となっている。
 さらに、この「猪熊事件」に連座した「松木宗信」(1578-?)の「松木家」には、定熈の「花山院家」から、「松木宗保」(1609-1646)が養子となって、その後継者となっている。
 この「定熈→徳大寺実久・花山院忠長・松木宗保」の系譜の、「花山院定熈」(花山院家19代当主)は、「西園寺家」(西園寺家18代当主)の養子で、所謂、「清華家」の「西園寺家・徳大寺家・花山院家」を結びつける中心的な人物なのである。
 その「花山院定熈」が、この「源氏物語画帖」の、「夕霧・匂兵部卿宮・紅梅」、そして、
若き「西園寺実晴」が、「横笛・鈴虫・御法」を、その「詞書」の筆者していることが、この「源氏物語画帖」が、最終的に完成した元和五年(一六一九)当時の、最長老の「定熈」(1558-1634)と最年少の「実晴」(1600-1673)の、「近衛信尹・信尋」の二代に亘って「近衛」家のブレ―ンとなっている「西園寺・花山院」家に対する配慮のように思われるのである。
 そして、「猪熊事件」(1609)に連座して配流をされていなければ、当然に、この「源氏物語画帖」の「詞書」の筆者の一人になっていると思われる、「書道史上、近衛流の名手として知られる」、定熈の嫡男の「花山院忠長」が、この「花山院定熈・西園寺実晴」の背後に潜んでいるように思えるのである。

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源氏物語画帖「その三十八 鈴虫」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

38 鈴虫(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六七三)  源氏50歳夏-秋

長次郎・鈴虫.jpg

源氏物語絵色紙帖  鈴虫  画・長次郎
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

西園寺・鈴虫.jpg

源氏物語絵色紙帖  鈴虫 詞・西園寺実晴
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

(「西園寺実晴」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/11/%E9%88%B4%E8%99%AB_%E3%81%99%E3%81%9A%E3%82%80%E3%81%97%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%85%AB%E5%B8%96%E3%80%91

御硯にさし濡らして、香染めなる御扇に書きつけたまへり。宮
   隔てなく蓮の宿を契りても君が心や住まじとすらむ
(第一章 女三の宮の物語 持仏開眼供養 第二段 源氏と女三の宮、和歌を詠み交わす)

1.2.11 御硯にさし濡らして、 香染めなる御扇に書きつけたまへり。宮、
(御硯に筆を濡らして、香染の御扇にお書き付けになった。宮は、)
1.2.12  隔てなく蓮の宿を契りても  君が心や住まじとすらむ
(蓮の花の宿を一緒に仲好くしようと約束なさっても、あなたの本心は悟り澄まして一緒にとは思っていないでしょう)


(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第三十八帖 鈴虫
 第一章 女三の宮の物語 持仏開眼供養
  第一段 持仏開眼供養の準備
  第二段 源氏と女三の宮、和歌を詠み交わす
(「西園寺実晴」書の「詞」)  →  
第三段 持仏開眼供養執り行われる
  第四段 三条宮邸を整備
 第二章 光る源氏の物語 六条院と冷泉院の中秋の宴
  第一段 女三の宮の前栽に虫を放つ
  第二段 八月十五夜、秋の虫の論
  第三段 六条院の鈴虫の宴
  第四段 冷泉院より招請の和歌
  第五段 冷泉院の月の宴
 第三章 秋好中宮の物語 出家と母の罪を思う
  第一段 秋好中宮、出家を思う
  第二段 母御息所の罪を思う
  第三段 秋好中宮の仏道生活

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3764

源氏物語と「鈴虫」(川村清夫稿)

【 柏木が世を去って2年たち、光源氏は50歳になっていた。光源氏は、出家した女三宮のために、六条院の庭に大量の鈴虫を放して、彼女と和歌のやりとりをしながら、琴を弾いた。そこへ、宮中の月の宴が中止になったので、公卿たちが六条院にやって来て、光源氏は期せずして、鈴虫の宴を催し、今は亡き柏木の美意識を顕彰するのであった。

 初めて源氏物語を英語に全訳したウェイリーは、この「鈴虫」の帖を完全に省略している。その理由はわかっていないが、国文学者の加納孝代は理由を、ウェイリーが初めて枕草子を英語に抄訳した本の、そのあとがきに求めている。ウェイリーが省略したのは、原文が退屈なところ、意味をはかりかねるところ、くりかえし、たとえが混み入っていて説明なしにはわからないところであった。たとえ退屈であっても、意味が難解であっても、翻訳家は原作を省略せずに誠実に翻訳するべきである。それをしないウェイリーは翻訳家ではなく、改作者と呼ぶべきである。サイデンステッカーは、ウェイリーのような文才がなかっただけ、理想的な翻訳ができている。

 それでは鈴虫の宴の場面を、大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、サイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
御琴どもの声々掻き合はせて、おもしろきほどに、
「月見る宵の、いつとてもものあはれならぬ折はなきなかに、今宵の新たなる月の色には、げになほ、わが世の外までこそ、よろづ思ひ流さるれ。故権大納言(柏木)、何の折々にも、亡きにつけていとど偲ばるること多く、公、私、ものの折節のにほひ失せたる心地こそすれ。花鳥の色にも音にも、思ひわきまへ、いふかひあるかたの、いとうるさかりしものを」
などのたまひ出でて、みづからも掻き合はせたまふ御琴の音にも、袖濡らしたまひつ。御簾の内にも、耳とどめて聞きたまふらむと、片つ方の御心には思しながら、かかる御遊びのほどには、まづ恋しう、内裏などにも思し出でける。
「今宵は鈴虫の宴にて明かしてむ」
と思したまふ。

(渋谷現代語訳)
お琴類を合奏なさって、興が乗ってきたころに、
「月を見る夜は、いつでももののあわれを誘わないことはない中でも、今夜の新しい月の色には、なるほどやはり、この世の後の世界までが、いろいろと想像されるよ。故大納言が、いつの折にも、亡くなったことにつけて、一層思い出されることが多く、公、私、共に何かある機会に物の栄えがなくなった感じがする。花や鳥の色にも音にも、美をわきまえ、話相手として、大変に優れていたのだったが」
などとお口に出されて、ご自身でも合奏なさる琴の音につけても、お袖を濡らしなさった。御簾の中でも耳を止めてお聴きになって入るだろうと、片一方のお心ではお思いになりながら、このような管弦の遊びの折には、まずは恋しく、帝におかせられてもお思い出しになられるのであった。
「今夜は鈴虫の宴を催して夜を明かそう」
とお考えになっておっしゃる。

(サイデンステッカー英訳)
“One is always moved by the full moon,” said Genji, as instrument after instrument joined the concert, “but somehow the moon this evening takes me to other worlds. Now that Kashiwagi is no longer with us I find that everything reminds me of him. Something of the joy, the luster, has gone out of these occasions. When we were talking of the moods of nature, the flowers and the birds, he was the one who had interesting and sensitive things to say.”
The sound of his own koto had brought him to tears. He knew that the princess, inside her blinds, would have heared his remarks about Kashiwagi.
The emperor too missed Kashiwagi on nights when there was music.
Genji suggested that the whole night be given over to admire the bell cricket.

 紫式部の美的観念「もののあはれ」を含んだ光源氏の台詞「月見る宵の、いつとてもものあはれならぬ折はなき」を、サイデンステッカーはOne is always moved by the full moon.と訳しているがそっけなく、「もののあはれ」が生かされていない。藤原道長の和歌「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることの無しと思へば」から啓発されたと思われる「今宵の新たなる月の色には、げになほ、わが世の外までこそ、よろづ思ひ流さるれ」は、but somehow the moon this evening takes me to other worldsと訳している。柏木をほめた台詞「故権大納言、何の折々にも、亡きにつけていとど偲ばるること多く、公、私、ものの折節のにほひ失せたる心地こそすれ」は、Now that Kashiwagi is no longer with us I find that everything reminds me of him. Something of the joy, the luster, has gone out of these occasions.と訳している。「にほひ」はsomething of joy, the lusterと解釈されている。「花鳥の色にも音にも、思ひわきまへ、いふかひあるかたの、いとうるさかりしものを」は、When we were talking of the moods of nature, the flower and the birds, he was the one who had interesting and sensitive things to say.と訳している。

光源氏は、女三宮と密通した柏木を非難したが、柏木の美意識を顕彰する度量も持っていたのであった。  】

(「三藐院ファンタジー」その二十八)

https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%AE%B6%EF%BC%88%E6%B8%85%E8%8F%AF%E5%AE%B6%EF%BC%89

(西園寺公益) →「後陽成・近衛信尹」時代(「西園寺実晴」の父)

生没年:1582-1640
父:右大臣 西園寺実益
号:空直院、真空院
1583 従五位下
1583 侍従
1588 従五位上
1589 左近衛中将
1592 正五位下
1597 従四位下
1611 従四位上
1612 正四位下
1613 従三位
1614 権中納言
1615 踏歌外弁
1616 正三位
1617 権大納言
1619 従二位
1620 正二位
1629 神宮伝奏
1631-1632 内大臣
1635 従一位
室:
1601-1673 実晴
室:慈教院 久野殿山内康豊
1603-1684 大宮季光(大宮家へ)
1610-1674 大僧正 性演
1627 娘

(西園寺実晴)  →「後水尾・近衛信尋」時代

生没年:1601-1673
父:内大臣 西園寺公益
号:大恵院
1611 従五位下
1613 従五位上
1613 侍従
1614 正五位下
1615 左近衛中将
1615 従四位下
1616 従四位上
1619 正四位下
1619 参議
1621 従三位
1627 権中納言
1628 正三位
1630 従二位
1632-1640 権大納言
1632 踏歌外弁
1634 正二位
1635 神宮伝奏
1637-1638 右近衛大将
1649-1650 内大臣
1654 右大臣
1660 従一位
1667-1668 左大臣
1672 出家
妻:徳姫(父:侍従 細川忠隆)
1622-1651 公満
1625-1670 公宣
妻:家女房
1663-1678 公遂
空誉

(「西園寺実晴」周辺メモ=ウィキペディア)
※元和5年(1619年)に参議となって以降、内大臣・右大臣・従一位左大臣を歴任。 慶安4年(1651年)に朝廷は徳川家光に対して正一位太政大臣の追贈と「大猷院」の諡号を決め、内大臣西園寺実晴を勅使として日光に派遣している。寛文12年(1672年)に出家して大忠院入道と号し、法名は性永。
※正室は細川忠興とガラシャの子の細川忠隆(1604年の廃嫡後は長岡休無と号す)の長女・徳姫(1605-1663)であり、京都在住の休無から助成金が毎年西園寺家へ贈られている。また休無遺産として500石が徳姫(西園寺家)に相続され、西園寺家の財政の基盤となった。子は23代目となった公満のほかに、公遂、公宣(別名公義又は随宜)。なお、末子の西園寺公宣は京都の公家生活を嫌って、長岡休無の子の長岡忠春(1622-1704年、細川内膳家祖)を頼って肥後国に移り住み菊池(現熊本県菊陽町)で死去したが、そこで生まれた娘(也須姫もしくは安姫)が京に戻って鷹司家から婿(西園寺実輔)を取り西園寺家を継いだ。
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源氏物語画帖「その三十七 横笛」(京博本)周辺 [源氏物語画帖]

37 横笛(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六七三)   源氏49歳

長次郎・横笛.jpg

源氏物語絵色紙帖  横笛  画・長次郎
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

西園寺・横笛.jpg

源氏物語絵色紙帖  横笛 詞・西園寺実晴
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

(「西園寺実晴」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/10/%E6%A8%AA%E7%AC%9B_%E3%82%88%E3%81%93%E3%81%B6%E3%81%88%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%83%E5%B8%96%E3%80%91

筍をつと握り待ちて、雫もよよと食ひ濡らしたまへば、いとねぢけたる色好みかなとて
  憂き節も忘れずながら呉竹のこは捨て難きものにぞありける
(第一章 光る源氏の物語 薫の成長 第三段 若君、竹の子を噛る)

1.3.13 筍をつと握り待ちて、雫もよよと食ひ濡らしたまへば、
(筍をしっかりと握り持って、よだれをたらたらと垂らしてお齧りになっているので、)
1.3.14 「 いとねぢけたる色好みかな」とて、
(「変わった色好みだな」とおっしゃって、)
1.3.15  憂き節も忘れずながら呉竹の  こは捨て難きものにぞありける
(いやなことは忘れられないがこの子は、かわいくて捨て難く思われることだ)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第三十七帖 横笛
 第一章 光る源氏の物語 薫の成長
  第一段 柏木一周忌の法要
  第二段 朱雀院、女三の宮へ山菜を贈る
  第三段 若君、竹の子を噛る
(「西園寺実晴」書の「詞」)  →  1.3.13 1.3.14 1.3.15 
 第二章 夕霧の物語 柏木遺愛の笛
  第一段 夕霧、一条宮邸を訪問
  第二段 柏木遺愛の琴を弾く
  第三段 夕霧、想夫恋を弾く
  第四段 御息所、夕霧に横笛を贈る
  第五段 帰宅して、故人を想う
  第六段 夢に柏木現れ出る
 第三章 夕霧の物語 匂宮と薫
  第一段 夕霧、六条院を訪問
  第二段 源氏の孫君たち、夕霧を奪い合う
  第三段 夕霧、薫をしみじみと見る
  第四段 夕霧、源氏と対話す
  第五段 笛を源氏に預ける

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3755

源氏物語と「横笛」(川村清夫稿)

【 柏木の一周忌になり、朱雀院から女三宮のもとに、筍が送られてきた。歯が生えてきた幼い薫は、櫑子(らいし、丈の高い漆塗りの皿)にあった筍をかじって、光源氏からとがめられた。光源氏は薫を抱き上げ、そのまなざしが格別に高貴であることに気付いたが、初老になった光源氏は果たして薫の成長した姿を見ることができるだろうか、行く末の不安を感じるのである。

 それでは光源氏が薫を抱き上げる場面を、大島本の原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
わづかに歩みなどしたまふほどなり。この筍の櫑子に、何とも知らず立ち寄りて、いとあわただしう取り散らして、食ひかなぐりなどしたまへば、
「あな、らうがはしや。いと不便なり。かれ取り隠せ。食ひ物に目とどめたまふと、もの言ひさがなき女房もこそ言ひなせ」
とて、笑ひたまふ。かき抱きたまひて、
「この君のまみのいとけしきあるかな。小さきほどの稚児を、あまた見ねばにやあらむ、かばかりのほどは、ただいはけきものとのみ見しを、今よりいとけはひ異なるこそ、わづらはしけれ。女宮ものしたまふめるあたりに、かかる人生ひ出でて、心苦しきこと、誰がためにもありなむかし。
あはれ、そのおのおのの生ひゆく末までは、見果てむとすらむやは、花の盛りは、ありなめど」
と、うちまもりきこえたまふ。

(渋谷現代語訳)
やっとよちよち歩きをなさる程である。この筍が櫑子に、何であるのか分からず近寄って来て、やたらにとり散らかして、食いかじったりなどなさるので、
「まあ、お行儀の悪い、いけません。あれを片づけなさい。食べ物に目がなくていらっしゃると、口の悪い女房が言うといけない」
と言って、お笑いになる。お抱き寄せになって、
「若君の目もとは普通とは違うな。小さい時の子を、多く見ていないからだろうか、これくらいの時は、ただあどけないものとばかり思っていたが、今からとても格別すぐれているのが、厄介なことだ。女宮がいらっしゃるようなところに、このような人が生まれて来て、厄介なことが、どちらにとっても起こるだろうな。
ああ、この人たちが育って行く先までは、見届けることができようか。花の盛りにめぐり逢うことは、寿命あってのことだ」
と言って、じっとお見つめ申していらっしゃる。

(ウェイリー英訳)
The child was just beginning to walk. As soon as he entered the room he caught sight of Suzaki’s strange looking roots lying in the fruit-dish, and toddled in that direction. Anxious to discover what sort of things they were, he was soon pulling at them, scattering them over the floor, breaking them in pieces, munching them, and in general making a terrible mess both of himself and the room. “Look what mischief he is up to,” said Genji. “You had better put them somewhere out of sight. I expect one of the minds thought it a good joke to tell him they were meant to eat.” So saying, he took up the child in his arms., “What an expressive face this boy has!” he continued. “I have had very little to do with children of this age, and had got it into my head that they were all much alike and all equally uninteresting. I see now how wrong I was. What havoc he will live one day to work upon the hearts of the princesses that are growing up in these neighboring apartments!” I am half sorry that I shall not be these to see. But ‘though Spring comes each year…’”

(サイデンステッカー英訳)
Able to walk a few steps, the boy totted up to a bowl of bamboo shoots. He bit at one and, having rejected it, scattered them in all directions.
“What vile manners! Do something, someone. Get them away from him. These women are not kind, sir, and they will already be calling you a little glutton. Will that please you?” he took the child in his arms. “Don’t you notice something rather different about his eyes? I have not seen great numbers of children, but I would have thought that at his age they are children and no more, one very much like another. But he is such an individual that he worries me. We have a little princess in residence, and he may be her ruination and his own. Will I wonder, to watch them grow up? ‘If we wish to see them we have but to stay alive.’” He was gazing earnestly at the little boy.

 「この君のまみのいとけしきあるかな」をウェイリーは「人相」と解釈してWhat an expressive face this boy has!と訳したが、サイデンステッカーは「まなざし」と正しく解釈してDon’t you notice something rather different about his eyes?と訳している。「女宮ものしたまふめるあたりに、かかる人生ひ出でて、心苦しきこと、誰がためにもありなむかし」の「女宮」とは、明石の女御(光源氏と明石の君の娘)の1人娘のことである。ウェイリーはWhat havoc he will live one day to work upon the hearts of the princesses that growing up in these neighboring apartments!と女宮を複数形で訳してしまったが、サイデンステッカーはWe have a little princess in residence, and he may be her ruination and his ownと正確に単数形で訳している。「あはれ、そのおのおのの生ひゆく末までは、見果てむとすらむやは」は、ウェイリーはI am half sorry that I shall not be these to see. 、サイデンステッカーはWill I wonder, to watch them grow up? とそっけなく訳している。

光源氏は、彼の亡き後に起こる、薫の恋愛遍歴を予言しているのである。  】

(「三藐院ファンタジー」その二十七)

西園寺実晴書状.jpg

「西園寺実晴筆書状」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/504

【 西園寺実晴〈さいおんじさねはる・1600-73〉、内大臣公益〈きんます・1582-1640〉の子。順調に累進を重ね、慶安2年〈1649〉には内大臣、承応3年〈1654〉には右大臣、寛文7年〈1667〉には従一位・左大臣を極めた。が、翌8年辞任、12月に出家、大忠院入道と号した(法名・性永)。礼楽を好み、画事をたしなみ、とくに仏祖像を描くのに優れていたという。その書は、当時の書流系譜によると、三条西実隆〈さんじょうにしさねたか・1455-1537〉を祖とする三条流にその名をつらね、伝存する短冊にはその面目が躍如とする。が、この手紙のように草卒に筆を執る筆跡はまた別のもの。枯淡な味わいに渋滞の筆意から、晩年の執筆を思わせる。となれば、宛名の「前(飛鳥)井大納言」は、飛鳥井雅章〈あすかいまさあき・1611-79〉が有力。実晴の出家(寛文八年・1668)、雅章の大納言辞任(承応四年・1655)を勘案すると、これは実晴60代半ばのものと推定される。雅章の江戸下向に際して、寒中の旅途を案じ、慰めとして「野山吹く……」の一首を送る。両者の親しい間柄がほのぼのとする。「寒気以っての外(意外)に候。東州(江戸)への御下向、寒さ察し入り候。/野山吹くあらしの末の激しさを伏せてたよりの頭巾ともなれ/一笑々々。近日、参会を遂げ述ぶべく候。穴賢(あなかしこ)。寒菊移ろい候へども、一枝、見参に入れ候。十一月十日実晴/飛(鳥井)前大納言殿」

(釈文)

寒菊うつ(ろ)ひ候へ共一枝見参ニ入候寒気以外ニ候東州江之御下向さむさ察入候野山吹くあらしのすゑのはけしさをふせくたよりの頭巾ともなれ一笑々々近日遂参会可申述候穴賢十一月十日 実晴飛前大納言殿            】
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源氏物語画帖「その三十六 柏木」(京博本)周辺 [源氏物語画帖]

36 柏木(長次郎筆) =(詞)中院通村(一五八七~一六五三)  源氏48歳正月-秋

長次郎・柏木.jpg

源氏物語絵色紙帖  柏木  画・長次郎
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通村・柏木.jpg

源氏物語絵色紙帖  柏木  詞・中院通村
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html


(「中院通村書の「詞」)

人の申すままに、さまざま聖だつ験者などの、をさをさ世にも聞こえず、深き山に籠もりたるなどをも、弟の君たちを遣はしつつ、尋ね召すに、けにくく心づきなき山伏どもなども、いと多く参る
(第一章 柏木の物語 女三の宮、薫を出産 第三段 柏木、侍従を招いて語る)

1.3.1 人の申すままに、さまざま聖だつ験者などの、をさをさ世にも聞こえず、深き山に籠もりたるなどをも、弟の君たちを遣はしつつ、尋ね召すに、けにくく心づきなき山伏どもなども、いと多く参る。
(誰彼のお勧め申すがままに、いろいろと聖めいた験者などで、ほとんど世間では知られず、深い山中に籠もっている者などをも、弟の公達をお遣わしお遣わしになって、探し出して召し出しになるので、無愛想で気にくわない山伏連中なども、たいそう大勢参上する。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第三十六帖 柏木
 第一章 柏木の物語 女三の宮、薫を出産
  第一段 柏木、病気のまま新年となる
  第二段 柏木、女三の宮へ手紙
  第三段 柏木、侍従を招いて語る
  第四段 女三の宮の返歌を見る
 (「中院通村書の「詞」)  →  1.3.1 
  第五段 女三の宮、男子を出産
  第六段 女三の宮、出家を決意
 第二章 女三の宮の物語 女三の宮の出家
  第一段 朱雀院、夜闇に六条院へ参上
  第二段 朱雀院、女三の宮の希望を入れる
  第三段 源氏、女三の宮の出家に狼狽
  第四段 朱雀院、夜明け方に山へ帰る
 第三章 柏木の物語 夕霧の見舞いと死去
  第一段 柏木、権大納言となる
  第二段 夕霧、柏木を見舞う
  第三段 柏木、夕霧に遺言
  第四段 柏木、泡の消えるように死去
 第四章 光る源氏の物語 若君の五十日の祝い
  第一段 三月、若君の五十日の祝い
  第二段 源氏と女三の宮の夫婦の会話
  第三段 源氏、老後の感懐
  第四段 源氏、女三の宮に嫌味を言う
  第五段 夕霧、事の真相に関心
 第五章 夕霧の物語 柏木哀惜
  第一段 夕霧、一条宮邸を訪問
  第二段 母御息所の嘆き
  第三段 夕霧、御息所と和歌を詠み交わす
  第四段 夕霧、太政大臣邸を訪問
  第五段 四月、夕霧の一条宮邸を訪問
  第六段 夕霧、御息所と対話

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3743

源氏物語と「柏木」(川村清夫稿)

【 朱雀院の50歳祝賀のための試楽の場で、光源氏から痛烈な皮肉を言われた柏木は、女三宮を妊娠させた罪悪感もあって、死の床に伏してしまった。夕霧は柏木の友人で、見舞いに行ったところ、柏木は夕霧に、不興を買った光源氏にとりなしてくれるよう頼んだ。太政大臣一家が悲しむなか、柏木は「泡の消えるように」この世を去ってしまった。女三宮は薫を出産して、生後50日のお祝いに光源氏は薫を抱き上げ、即座にその顔が柏木に似ていると感じ、我が子を見ることなく死んだ柏木を思って感涙にむせぶのだが、対面上感情を押し隠すのであった。

 ウェイリーは「柏木」の帖を、夕霧をめぐる状況にしぼって翻訳しており、光源氏が幼い薫を見つめる場面を省略している。それでは定家自筆本、渋谷栄一の現代語訳、サイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(定家自筆本原文)
この君、いとあてなるに添へて、愛敬づき、まみの薫りて、笑がちなるなどを、いとあはれと見たまふ。思ひなしにや、なほ、いとようおぼえたりかし。ただ今ながら、眼居ののどかに恥づかしきさまも、やう離れて、薫りをかしき顔ざまなり。
宮はさしも思し分かず。人はた、さらに知らぬことなれば、ただ一所の御心の内にのみぞ、「あはれ、はかなかりける人の契りかな」
と見たまふに、大方の世の定めなさも思し続けられて、涙のほろほろとこぼれぬるを、今日は言忌みすべき日をと、おし拭ひ隠したまふ。
「静かに思ひて嗟くに堪へたり」
と、うち誦うじたまふ。五十八を十取り捨てたる御齢なれど、末になりたる心地したまひて、いとものあはれに思さる。「汝が爺に」とも、諫めまほしう思しけむかし。

(渋谷現代語訳)
この若君、とても上品な上に加えて、かわいらしく、目もとがほんのりとして、笑顔がちでいるのなどを、とてもかわいらしいと御覧になる。気のせいか、やはり、とてもよく似ていた。もう今から、まなざしが穏やかで人に優れた感じも、普通の人とは違って、匂い立つような美しいお顔である。
宮はそんなにもお分かりにならず、女房たちもまた、全然知らないことなので、ただお一方のご心中だけが、
「ああ、はかない運命の人であったな」
とお思いになると、世間一般の無常の世も思い続けられなさって、涙がほろほろとこぼれたのを、今日の祝いの日には禁物だと、拭ってお隠しになる。
「静かに思って嘆くことに堪えた」
と、朗誦なさる。五十八から十とったお年齢だが、晩年になった心地がなさって、まことにしみじみとお感じになる。「おまえの父親に似るな」とでも、お諫めなさりたかったのであろうよ。

(サイデンステッカー英訳)
This boy was beautiful, there was no other word for it. He was always laughing, and a very special light would come into his eyes which fascinated Genji. Was it Genji’s imagination that he looked like his father? Already there was a sort of tranquil poise that quite put one to shame, and the glow of the skin was unique.
The princess did not seem very much alive to these remarkable good looks, and of course almost no one else knew the truth. Genji was left alone to shed a tear for Kashiwagi, who had not lived to see his own son. How very unpredictable life is! But he brushed the tear away, for he did not want it to cloud a happy occasion.
“I think upon it in quiet,” he said softly, “and there is ample cause for lamenting.”
His own years fell short by ten of the poet ‘s fifty-eight, but he feared that he did not have many ahead of him. “Do not be like your father.” This, perhaps, was the admonition in his heart.

 薫の容貌の「愛敬づき、まみの薫りて、笑がちなるなどを、いとあはれと見たまふ」を、サイデンステッカーはHe was always laughing, and a very special light would come into his eyes which fascinated Genjiと訳しているが、「愛敬づき」を訳さず「笑がちなる」をalways laughingとしたのは不正確である。「眼居ののどかに恥づかしきさまも」をthere was a sort of tranquil poise that quite put one to shame, としたのは誤訳である。「薫りをかしき顔ざまなり」をthe glow of the skin was uniqueと訳したのも、原文の情趣が伝わってこない。

 光源氏の独白「あはれ、はかなかりける人の契りかな」をHow very unpredictable life is!としたが、誤訳である。

 末尾にある「静かに思ひて嗟くに堪へたり」と「汝が爺に」は、白氏文集の第58巻2821番にある「自嘲」という漢詩に由来する。「静かに思へば喜ぶに堪へ、亦嗟くに堪へたり」と「盃を持ちて祝願するに、他の語無し。慎んで頑愚、汝が爺に似ること勿れ」とある。白楽天は58歳にして子息をもうけたのを自嘲して、この詩を作った。光源氏は48歳にして薫の名目上の父になり、白楽天の心境を思い出したのである。サイデンステッカーは前者をI think upon it in quiet, and there is ample cause for lamenting、後者をDo not be like your fatherと訳している。

 柏木と女三宮の密通で生まれた薫は、宇治十帖の優柔不断な主人公になるのである。 】

(「三藐院ファンタジー」その二十六)

中院通村・詠草.jpg

「中院通村筆詠草」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/726

【 中院通村〈なかのいんみちむら・1588-1653〉は、江戸時代前期の公卿。通勝の子。はじめ通貫と称し、慶長5年〈1600〉叙爵、このとき通村と改名した。号は後十輪院。正二位・権大納言に至る。後水尾天皇の信任厚く、たびたび江戸へ下向したが、寛永6年〈1629〉天皇が幕府の専制に反発して譲位を強行すると、この謀議に参画したという咎を受けて、江戸に幽閉された。その後、僧・天海のとりなしで赦免されて帰京し、正保4年〈1647〉内大臣に任じられたがほどなく辞し、承応2年〈1653〉66歳で没した。書は世尊寺流の名手で、中院流の祖とされる。博学で和歌にもすぐれ、家集『後十輪院集』を残している。また「関戸本古今集」の巻末識語ほか、古筆の鑑定にも才能を発揮した。これは、寛永15年〈1638〉正月14日の仙洞御会始のための詠草である。歌道の師であった父・通勝の添削をもとめたものではなかったか。「鴬声和琴」という兼題の歌会(あらかじめ歌題が示される歌会)で、御会始当日は、第1首目の「鴬のなくねも」を披講している。「通村/鴬声琴に和す/鴬の鳴く音も春に弾く琴の調べ変はらず千世鳴らさなむ/鴬のそのこととなき声も猶春の調べの折にあふらむ」

(釈文)

通村鴬声和琴鴬のなくねも春にひくことのしらべかはらず千世ならさなむうぐひすのそのことゝなき声も猶春のしらべのおりにあふらむ       】
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源氏物語画帖「その三十五 若葉(下)」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

35 若菜(下) (光吉筆)=(詞)中院通村(一五八七~一六五三)     源氏41歳春-47歳冬 

光吉・若菜下.jpg

源氏物語絵色紙帖  若菜下  画・土佐光吉
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

通村・若菜下.jpg

源氏物語絵色紙帖  若菜下 詞・中院通村
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

(「中院通村」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/05/%E8%8B%A5%E8%8F%9C%EF%BC%88%E4%B8%8B%EF%BC%89_%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%BA%94%E5%B8%96%E3%80%91

端近く寄り臥したまへるに、来て、ねうねうと、いとらうたげに鳴けば、かき撫でて、うたても、すすむかな、と、ほほ笑まる。
   恋ひわぶる人のかたみと手ならせば なれよ何とて鳴く音なるらむ
(第一章 柏木の物語 第二段 柏木、女三の宮の猫を預る)

1.2.16 端近く寄り臥したまへるに、来て、「 ねう、ねう」と、いとらうたげに鳴けば、かき撫でて、「 うたても、すすむかな」と、ほほ笑まる。
(端近くに寄り臥していらっしゃると、やって来て、「ねよう、ねよう」と、とてもかわいらしげに鳴くので、撫でて、「いやに、積極的だな」と、思わず苦笑される。)
1.2.17 恋ひわぶる人のかたみと手ならせば  なれよ何とて鳴く音なるらむ
(恋いわびている人のよすがと思ってかわいがっていると、どういうつもりでそんな鳴き声を立てるのか)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第三十五帖 若菜下
 第一章 柏木の物語 女三の宮の結婚後
  第一段 六条院の競射
  第二段 柏木、女三の宮の猫を預る
(「阿野実顕」書の「詞」)  →  1.2.16 1.2.17 
第三段 柏木、真木柱姫君には無関心
  第四段 真木柱、兵部卿宮と結婚
  第五段 兵部卿宮と真木柱の不幸な結婚生活
 第二章 光る源氏の物語 住吉参詣
  第一段 冷泉帝の退位
  第二段 六条院の女方の動静
  第三段 源氏、住吉に参詣
  第四段 住吉参詣の一行
  第五段 住吉社頭の東遊び
  第六段 源氏、往時を回想
  第七段 終夜、神楽を奏す
  第八段 明石一族の幸い
 第三章 朱雀院の物語 朱雀院の五十賀の計画
  第一段 女三の宮と紫の上
  第二段 花散里と玉鬘
  第三段 朱雀院の五十の賀の計画
  第四段 女三の宮に琴を伝授
  第五段 明石女御、懐妊して里下り
  第六段 朱雀院の御賀を二月十日過ぎと決定
 第四章 光る源氏の物語 六条院の女楽
  第一段 六条院の女楽
  第二段 孫君たちと夕霧を召す
  第三段 夕霧、箏を調絃す
  第四段 女四人による合奏
  第五段 女四人を花に喩える
  第六段 夕霧の感想
 第五章 光る源氏の物語 源氏の音楽論
  第一段 音楽の春秋論
  第二段 琴の論
  第三段 源氏、葛城を謡う
  第四段 女楽終了、禄を賜う
  第五段 夕霧、わが妻を比較して思う
 第六章 紫の上の物語 出家願望と発病
  第一段 源氏、紫の上と語る
  第二段 紫の上、三十七歳の厄年
  第三段 源氏、半生を語る
  第四段 源氏、関わった女方を語る
  第五段 紫の上、発病す
  第六段 朱雀院の五十賀、延期される
  第七段 紫の上、二条院に転地療養
  第八段 明石女御、看護のため里下り
 第七章 柏木の物語 女三の宮密通の物語
  第一段 柏木、女二の宮と結婚
  第二段 柏木、小侍従を語らう
  第三段 小侍従、手引きを承諾
  第四段 小侍従、柏木を導き入れる
  第五段 柏木、女三の宮をかき抱く
  第六段 柏木、猫の夢を見る
  第七段 きぬぎぬの別れ
  第八段 柏木と女三の宮の罪の恐れ
  第九段 柏木と女二の宮の夫婦仲
 第八章 紫の上の物語 死と蘇生
  第一段 紫の上、絶命す
  第二段 六条御息所の死霊出現
  第三段 紫の上、死去の噂流れる
  第四段 紫の上、蘇生後に五戒を受く
  第五段 紫の上、小康を得る
第九章 女三の宮の物語 懐妊と密通の露見
  第一段 女三の宮懐妊す
  第二段 源氏、紫の上と和歌を唱和す
  第三段 源氏、女三の宮を見舞う
  第四段 源氏、女三の宮と和歌を唱和す
  第五段 源氏、柏木の手紙を発見
  第六段 小侍従、女三の宮を責める
  第七段 源氏、手紙を読み返す
  第八段 源氏、妻の密通を思う
 第十章 光る源氏の物語 密通露見後
  第一段 紫の上、女三の宮を気づかう
  第二段 柏木と女三の宮、密通露見におののく
  第三段 源氏、女三の宮の幼さを非難
  第四段 源氏、玉鬘の賢さを思う
  第五段 朧月夜、出家す
  第六段 源氏、朧月夜と朝顔を語る
 第十一章 朱雀院の物語 五十賀の延引
  第一段 女二の宮、院の五十の賀を祝う
  第二段 朱雀院、女三の宮へ手紙
  第三段 源氏、女三の宮を諭す
  第四段 朱雀院の御賀、十二月に延引
  第五段 源氏、柏木を六条院に召す
  第六段 源氏、柏木と対面す
  第七段 柏木と御賀について打ち合わせる
 第十二章 柏木の物語 源氏から睨まれる
  第一段 御賀の試楽の当日
  第二段 源氏、柏木に皮肉を言う
  第三段 柏木、女二の宮邸を出る
  第四段 柏木の病、さらに重くなる

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3732

「柏木と女三宮の密通に対する光源氏(「若菜下」)」(川村清夫稿)

【 光源氏は、朱雀帝から娘の女三宮を正妻として結婚させられたが、彼女は紫上にくらべ伴侶として未熟であった。六条院の蹴鞠の会で、女三宮は屋内から蹴鞠を見ていたが、飼っていた唐猫が走り出し、つないでおいた綱が御簾に引っかかって引き開けてしまい、蹴鞠をしていた柏木衛門督(太政大臣の子息)は女三宮の姿を見てしまった。柏木は女三宮に一目ぼれして、彼女の侍女の小侍従の手引きで彼女の部屋に押し入って情交をとげてしまった。女三宮は妊娠して、光源氏は柏木から彼女への恋文を見つけて、密通に気づいた。六条院にて行われた、朱雀帝の50歳の誕生日を祝う式典の予行演習である試楽の場で、同席した光源氏は柏木に痛烈な皮肉を言って、柏木は罪悪感もあいまって病床に伏してしまうのである。

 それでは、光源氏が柏木に皮肉を言う場面を、明融臨模本の原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(明融臨模本原文)
主人の院、「過ぐる齢に添へては、酔ひ泣きこそとどめがたきわざなりけれ。衛門督、心とどめてほほ笑まるる。いと心恥づかしや。さりとも、今しばしならむ。さかさまに行かぬ年月よ。老いはえ逃れぬわざなり」
とて、うち見やりたまふに、人よりけにまめだち屈じて、まことに心地もいと悩ましければ、いみじきことも目もとまらぬ心地する人をしも、さしわきて、空酔ひをしつつかくのたまふ。戯れのやうなれど、いとど胸つぶれて、盃のめぐり来るも頭いたくおぼゆれば、けしきばかりにて紛らはすを、御覧じ咎めて、持たせながらたびたび強ひたまへば、はしたなくて、もてわづらふさま、なべての人に似ずをかし。

(渋谷現代語訳)
ご主人の院は、「寄る年波とともに、酔泣きの癖は止められないものだな。衛門督が目を止めてほほ笑んでいるのは、まことに恥ずかしくなるよ。そうは言っても、もう暫くの間だろう。さかさまには進まない年月さ。老いは逃れることのできないものだよ」
と言って、ちらっと御覧やりなさると、誰よりも一段とかしこまって塞ぎ込んで、真実に気分もたいそう悪いので、試楽の素晴らしさも目に入らない気分でいる人をつかまえて、わざと名指しで酔ったふりをしながらこのようにおっしゃる。冗談のようであるが、ますます胸が痛くなって、杯が回って来るのも頭が痛く思われるので、真似事だけでごまかすのを、お見咎めなさって、杯をお持ちになりながら何度もお勧めなさるので、いたたまれない思いで、困っている様子、普通の人と違って優雅である。

(ウェイリー英訳)
“All right, Kashiwagi, don’t look so contemptuous!” Genji shouted across to him. “Just wait a few years, and you’ll find a little wine will make your tears flow quite as fast as ours!” Kashiwagi made no reply, and and Genji, looking at him more attentively, saw that he was not only (alone among the whole company) entirely sober, but also extremely depressed. Surely, thought Kashiwagi, everyone can see that I am far too ill to take part in such a scene as this. How inconsiderate of Genji (who was certainly not nearly so drunk as he pretended) to call attention to him by shouting across the room in that way!no doubt it was meant as a joke; but Kashiwagi found it quite impossible to be amused. He had a violent headache, and each time the flagon came round he merely pretended to drink out of it. Genji presently noticed this, and sending it back, pressed him again and again to take his share.

(サイデンステッカー英訳)
“An old man does find it harder and harder to hold back drunken tears,” said Genji. He looked at Kashiwagi. “And just see our young guardman here, smiling a superior smile to make us feel uncomfortable. Well, he has only to wait a little longer. The current of the years runs only in one direction, and old age lies downstream.”
Pretending to be drunken than he was, Genji had singled out the soberer of his guests. Kashiwagi was genuinely ill and quite indifferent to the festivities. Though Genji’s manner was jocular each of his words seemed to Kashiwagi a sharper blow than the one before. His head was aching. Genji saw that he was only pretending to drink and made him empty the wine cup under his own careful supervision each time it came around Kashiwagi was the handsomest of them even in his hour of distress.

 ウェイリー訳は原文を改作しており、翻訳とは言えない。サイデンステッカー訳の方が原文に忠実である。「衛門督、心とどめてほほ笑まるる。いと心恥づかしや」をウェイリーはAll right, Kashiwagi, don’t look so contemptuous!に変えているのに対して、サイデンステッカーはAnd just see our young guardman here, smiling a superior smile to make us feel uncomfortable.と、より正確に訳している。「さかさまに行かぬ年月よ。老いはえ逃れぬわざなり」も、ウェイリーはyou’ll find a little wine will make your tears flow quite as fast as ours.と訳したのに対して、サイデンステッカーはThe current of the years runs only in one direction, and old age lies downstream.と、原文により忠実に訳している。またウェイリーは、Genji shouted across to himと書いているが、原文では源氏は柏木に対して叫んでいないし、2人の距離が遠いようにも書いていない。

 「柏木」の帖で女三宮は薫を出産して、光源氏は、かつて藤壺女御と密通して冷泉帝が生まれた過去を思い出し、因果応報の条理を思い知るのである。 】


(「三藐院ファンタジー」その二十五)

中院通村・消息.jpg

「中院通村筆消息」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/316

【中院通村〈なかのいんみちむら・1588-1653〉は、江戸初期の公卿。権中納言通勝〈みちかつ・1556-1610〉の子。母は細川幽斎〈ほそかわゆうさい・1534-1610〉の養女。初名は通貫(みちつら)、後十輪院(のちのじゅうりんいん)と号した。忠誠剛直な性格で、後水尾天皇〈ごみずのおてんのう・1596-1680〉の信頼を得たという。寛永6年〈1629〉の明正天皇〈めいしょうてんのう・1623-96〉への譲位事件の際、幕府より武家伝奏としての責任を追求され解官、江戸幽閉の身となった。が、のちに天海僧正〈てんかい・1536-1643〉の奔走によって特赦を受けて復帰、寛永8年〈1631〉正二位・内大臣となる。とくに和歌をよくし、『御十輪院集』(2巻)がある。書においては早くから世尊寺流の名手として聞こえたが、のちには通村を祖とする中院流が立てられ、多くの追随者を生んだ。また、古筆の鑑定にも優れた才能を発揮した。「関戸本古今集」の巻末識語をはじめ、『中院通村日記』『隔蓂記(かくめいき)』などにも、かれの鑑定記録が散見される。これは、数多くの歌の揮毫依頼(色紙・短冊のたぐいか)にもかかわらず、健筆(清書)をふるってもらったことへの礼手紙。中の一点につき気になるところがあるので訂正して再度の執筆を申し入れる、という。相手は、能書の家系「清水谷」。通村の活躍期から勘案すると、一時途絶えていた清水谷を相続した清水谷実任〈しみずだにさねとう・1587-1664〉と推定される。かれは、光悦流の能書阿野実顕〈あのさねあき・1581-1645〉の弟。書流系図「古筆流儀分(こひつりゅうぎわけ)」では、実任も光悦流にその名が掲げられるが、伝存の遺墨から見るかぎり、実任の書は中院流に近い書風を示している。「歌数多申し入れ候処、健筆を染められ候。過分の至りに存じ候。一首不審の事候。重ねて申し入れ候。御労煩察し存じ候。余は面談の次と存じ候。恐々謹言。二月九日(花押)/清水谷殿(花押)」

(釈文)

歌数多申入候処被 染健筆候過分之至存候一首不審之事候重而可申入候御労煩察存候餘者面談之次存候恐々謹言二月九日(花押)清水谷殿(花押)      】

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源氏物語画帖「その三十四 若葉(上)」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

34 若菜(上) (光吉筆) =(詞)菊亭季宣(一五九四~一六五二)   源氏39歳冬-41歳春 

光吉・若菜上.jpg

源氏物語絵色紙帖  若菜上  画・土佐光吉
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

菊亭・若菜上.jpg

源氏物語絵色紙帖  若菜上  詞・菊亭季宣
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

(「菊亭季宣」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/04/%E8%8B%A5%E8%8F%9C%EF%BC%88%E4%B8%8A%EF%BC%89_%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%9B%9B%E5%B8%96%E3%80%91

鞠に身を投ぐる若君達の、花の散るを惜しみもあへぬけしきどもを見るとて、人びとあらはを ふともえ見つけぬなるべし
(第十三章 女三の宮の物語 第八段 柏木、女三の宮を垣間見る)

13.8.3 鞠に身を投ぐる若君達の、 花の散るを惜しみもあへぬけしきどもを 見るとて、人びと、あらはを ふともえ見つけぬなるべし。
(蹴鞠に夢中になっている若公達の、花の散るのを惜しんでもいられないといった様子を見ようとして、女房たちは、まる見えとなっているのを直ぐには気がつかないのであろう。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第三十四帖 若菜上
第一章 朱雀院の物語 女三の宮の婿選び
 第一段 朱雀院、女三の宮の将来を案じる 
  第二段 東宮、父朱雀院を見舞う
  第三段 源氏の使者夕霧、朱雀院を見舞う
  第四段 夕霧、源氏の言葉を言上す
  第五段 朱雀院の夕霧評
  第六段 女三の宮の乳母、源氏を推薦
 第二章 朱雀院の物語 女三の宮との結婚を承諾
  第一段 乳母と兄左中弁との相談
  第二段 乳母、左中弁の意見を朱雀院に言上
  第三段 朱雀院、内親王の結婚を苦慮
  第四段 朱雀院、婿候補者を批評
  第五段 婿候補者たちの動静
  第六段 夕霧の心中
  第七段 朱雀院、使者を源氏のもとに遣わす
  第八段 源氏、承諾の意向を示す
 第三章 朱雀院の物語 女三の宮の裳着と朱雀院の出家
  第一段 歳末、女三の宮の裳着催す
  第二段 秋好中宮、櫛を贈る
  第三段 朱雀院、出家す
  第四段 源氏、朱雀院を見舞う
  第五段 朱雀院と源氏、親しく語り合う
  第六段 内親王の結婚の必要性を説く
  第七段 源氏、結婚を承諾
  第八段 朱雀院の饗宴
 第四章 光る源氏の物語 紫の上に打ち明ける
  第一段 源氏、結婚承諾を煩悶す
  第二段 源氏、紫の上に打ち明ける
  第三段 紫の上の心中
 第五章 光る源氏の物語 玉鬘、源氏の四十の賀を祝う
  第一段 玉鬘、源氏に若菜を献ず
  第二段 源氏、玉鬘と対面
  第三段 源氏、玉鬘と和歌を唱和
  第四段 管弦の遊び催す
  第五段 暁に玉鬘帰る
 第六章 光る源氏の物語 女三の宮の六条院降嫁
  第一段 女三の宮、六条院に降嫁
  第二段 結婚の儀盛大に催さる
  第三段 源氏、結婚を後悔
  第四段 紫の上、眠れぬ夜を過ごす
  第五段 六条院の女たち、紫の上に同情
  第六段 源氏、夢に紫の上を見る
  第七段 源氏、女三の宮と和歌を贈答
  第八段 源氏、昼に宮の方に出向く
  第九段 朱雀院、紫の上に手紙を贈る
 第七章 朧月夜の物語 こりずまの恋
  第一段 源氏、朧月夜に今なお執心
  第二段 和泉前司に手引きを依頼
  第三段 紫の上に虚偽を言って出かける
  第四段 源氏、朧月夜を訪問
  第五段 朧月夜と一夜を過ごす
  第六段 源氏、和歌を詠み交して出る
  第七段 源氏、自邸に帰る
 第八章 紫の上の物語 紫の上の境遇と絶望感
  第一段 明石姫君、懐妊して退出
  第二段 紫の上、女三の宮に挨拶を申し出る
  第三段 紫の上の手習い歌
  第四段 紫の上、女三の宮と対面
  第五段 世間の噂、静まる
 第九章 光る源氏の物語 紫の上と秋好中宮、源氏の四十賀を祝う
  第一段 紫の上、薬師仏供養
  第二段 精進落としの宴
  第三段 舞楽を演奏す
  第四段 宴の後の寂寥
  第五段 秋好中宮の奈良・京の御寺に祈祷
  第六段 中宮主催の饗宴
  第七段 勅命による夕霧の饗宴
  第八段 舞楽を演奏す
  第九段 饗宴の後の感懐
 第十章 明石の物語 男御子誕生
  第一段 明石女御、産期近づく
  第二段 大尼君、孫の女御に昔を語る
  第三段 明石御方、母尼君をたしなめる
  第四段 明石女三代の和歌唱和
  第五段 三月十日過ぎに男御子誕生
  第六段 帝の七夜の産養
  第七段 紫の上と明石御方の仲
 第十一章 明石の物語 入道の手紙
  第一段 明石入道、手紙を贈る
  第二段 入道の手紙
  第三段 手紙の追伸
  第四段 使者の話
  第五段 明石御方、手紙を見る
  第六段 尼君と御方の感懐
  第七段 御方、部屋に戻る
 第十二章 明石の物語 一族の宿世
  第一段 東宮からのお召しの催促
  第二段 明石女御、手紙を見る
  第三段 源氏、女御の部屋に来る
  第四段 源氏、手紙を見る
  第五段 源氏の感想
  第六段 源氏、紫の上の恩を説く
  第七段 明石御方、卑下す
  第八段 明石御方、宿世を思う
 第十三章 女三の宮の物語 柏木、女三の宮を垣間見る
  第一段 夕霧の女三の宮への思い
  第二段 夕霧、女三の宮を他の女性と比較
  第三段 柏木、女三の宮に執心
  第四段 柏木ら東町に集い遊ぶ
  第五段 南町で蹴鞠を催す
  第六段 女三の宮たちも見物す
  第七段 唐猫、御簾を引き開ける
  第八段 柏木、女三の宮を垣間見る
(「菊亭季宣」書の「詞」)  →  13.8.3
第九段 夕霧、事態を憂慮す
 第十四章 女三の宮の物語 蹴鞠の後宴
  第一段 蹴鞠の後の酒宴
  第二段 源氏の昔語り
  第三段 柏木と夕霧、同車して帰る
  第四段 柏木、小侍従に手紙を送る
  第五段 女三の宮、柏木の手紙を見る

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3723

源氏物語と「若菜」(川村清夫稿)

【 光源氏は「藤の裏葉」の帖で准太上天皇になり栄華を極めた。しかし「若菜」の帖から彼の運命は暗転する。光源氏は、出家する異母兄の朱雀上皇から娘の女三宮との結婚を受け入れて、紫上との夫婦生活が不安定になり、紫上は出家を考えるようになる。ところが女三宮は紫上とくらべ女性として未熟で、六条院の蹴鞠の会で彼女に一目ぼれした、太政大臣(頭中将)の子息である柏木と密通して、宇治十帖の主役となる薫を産んでしまう。光源氏は、かつて藤壺女御と密通して冷泉帝が生まれた過去を思い出し、因果応報の条理を思い知るのである。

 「若菜」の帖は、他の帖とくらべて異常に長大で、それ自体で中編小説になれる。源氏物語を初めて現代語訳した与謝野晶子は、「藤の裏葉」と「若菜」の間で表現に相違点があるので、紫式部が書いたのは「藤の裏葉」までで、「若菜」以降は彼女の娘の大弐三位が書いたのだろうと考えている。

 「若菜」の帖を描いた映画では、1966年に武智鉄二が日活で製作、脚本、監督した「源氏物語」が知られている。光源氏は花ノ木寿、紫上は浅丘ルリ子、女三宮は柏美紗、柏木は中村孝雄が扮していた。
 テレビドラマでは、1980年にTBSで、向田邦子が脚本を書き、久世光彦が演出した「源氏物語」がある。光源氏は沢田研二、紫上は叶和貴子、女三宮は藤真利子、柏木はジョニー大蔵が扮していた。1991年にもTBSで、橋田寿賀子が脚本を書き、鴨下信一が演出した「源氏物語・上の巻、下の巻」もある。光源氏は東山紀之(上の巻)と片岡仁左衛門(下の巻)、藤壺女御と紫上は大原麗子、女三宮は若村麻由美、柏木は坂上忍が扮していた。

 それでは、光源氏が女三宮と結婚して彼女の幼さに幻滅する場面を、藤原定家の自筆本に次いで重要な写本である明融臨模本の原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(明融臨模本原文)
姫宮は、げに、まだいと小さく、片なりにおはするうちにも、いといはけなきけしきして、ひたみちに若びたまへり。
かの紫のゆかり尋ね取りたまへりし折思し出づるに、
「かれはされていふかひありしを、これは、いといはけなくのみ見えたまへば、よかめり。憎げにおしたちたることなどはあるまじかめり」
と思すものから、「いとあまりものの栄なき御さまかな」と見たてまつりたまふ。

(渋谷現代語訳)
姫宮は、なるほど、まだとても小さく、大人になっていらっしゃらないうえ、まことにあどけない様子で、まるきり子供でいらっしゃった。
あの紫のゆかりを探し出しなさった時をお思い出しなさると、
「あちらは気が利いていて手ごたえがあったが、こちらはまことに幼くだけお見えでいらっしゃるので、まあ、よかろう。憎らしく強気に出ることなどあるまい」
とお思いになる一方で、「あまり張り合いのないご様子だ」と拝見なさる。

(ウェイリー英訳)
The little princess, though now well on in her thirteenth year, was very small for her age, and indeed still looked a mere child. Her conversation and behavior also savored solely of the nursery, and Genji could not help remembering how lively, how full of character and imagination little Murasaki had been when twenty years ago he had carried her to his home. But perhaps it was a good thing that the newcomer was, except in actual years, so very much of a child. She would certainly be less likely to get into scrapes. But unfortunately, Genji reflected, people who do not get into scrapes are a great deal less interesting than those who do.

(サイデンステッカー英訳)
The Third Princess was, as her father had said, a mere child. She was tiny and immature physically, and she gave a general impression of still greater, indeed quite extraordinary, immaturity. He thought of Murasaki when he had first taken her in. She had even then been interesting. She had had a character of her own. The Third Princess was like a baby. Well, thought Genji, the situation had something to recommend it: she was not likely to intrude and make Murasaki unhappy with fits of jealousy. Yet he did think he might have hoped for someone a little more interesting.

 ウェイリー訳は、サイデンステッカー訳とくらべて冗長でない。「紫のゆかり」とは、光源氏が紫上を見初めた「若紫」の帖のことである。光源氏の独白にある「かれはされていふかひありし」を、ウェイリーはhow full of character and imagination little Murasaki had been、サイデンステッカーはShe had had a character of her ownと、同じように訳している。「憎げにおしたちたることなどはあるまじかめり」は、ウェイリーはshe would certainly be less likely to get into scrapesと訳しているが、サイデンステッカーはshe was not likely to intrude and make Murasaki unhappy with fits of jealousyと踏み込んで訳している。「いとあまりものの栄なき御さまかな」は、ウェイリーはpeople who do not get into scrapes are a great deal less interesting than those who doとあくの強い翻訳をしたが、サイデンステッカーはhe might have hoped for someone a little more interestingと、そっけない翻訳をしている。

 六条院の蹴鞠の会で唐猫の悪戯で御簾が外れ、柏木は女三宮の姿を見てしまうのである。 】

(「三藐院ファンタジー」その二十四)

今出川晴季短冊.jpg

「今出川晴季筆短冊」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/1262

【今出川晴季〈いまでがわはるすえ・1539-1617〉は、左大臣公彦〈きんひこ・1506-78〉の長男。初名は実維(さねつぐ)。天文14年〈1545〉晴季と改名。今出川氏は、西園寺実兼〈さいおんじさねかね・1249-1322〉の四男兼季〈かねすえ・1280-1338〉を祖とする名家。晴季は右大臣まで上りつめ、豊臣秀吉〈とよとみひでよし・1536-98〉と結び、秀吉の関白宣下に尽力するなど、朝政を握るほどの権勢を振るった。が、文禄4年〈1595〉女婿にあたる豊臣秀次〈とよとみひでつぐ・1568-95〉の聚楽第の公金流用事件により、越後に配流となる。が、翌年赦免され、右大臣に還任した。元和3年、79歳で没。晴季は野心家で、政治面においてその才能を発揮したが、一方で歌や書にもすぐれ、書は尊鎮流の名手としても謳われた。これらの短冊の筆致がそれを如実に物語る。この短冊は、藍と紫の打曇に金銀泥の下絵で雲と松を描いた、美しい装飾料紙が用いられている。

(釈文)

色も香も名にめでゝみむをのづからさく桜あれば桜木の宮晴季  】
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源氏物語画帖「その三十三 藤裏葉」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

33 藤裏葉(光吉筆)=(詞)菊亭季宣(一五九四~一六五二)     源氏39歳春-冬

土佐光吉・藤裏葉.jpg

源氏物語絵色紙帖  藤裏葉  画・土佐光吉
https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=pict&mode=detail&list_id=1900649&parent_data_id=320&data_id=532

菊亭季宣・藤裏葉.jpg

源氏物語絵色紙帖  藤裏葉  詞・菊亭季宣
https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=pict&mode=detail&list_id=1900649&parent_data_id=320&data_id=533

(「菊亭季宣」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/03/%E8%97%A4%E8%A3%8F%E8%91%89_%E3%81%B5%E3%81%98%E3%81%AE%E3%81%86%E3%82%89%E3%81%B0%E3%83%BB%E3%81%B5%E3%81%A2%E3%81%AE%E3%81%86%E3%82%89%E3%81%B0%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_

紫にかことはかけむ藤の花 まつより過ぎてうれたけれども
宰相、盃を持ちながら、けしきばかり拝したてまつりたまへるさま、いとよしあり
(第一章 夕霧の物語 第五段 藤花の宴 結婚を許される)

1.5.8 紫にかことはかけむ藤の花 まつより過ぎてうれたけれども
(紫色のせいにしましょう、藤の花の待ち過ぎてしまって恨めしいことだが。)
1.5.9 宰相、盃を持ちながら、けしきばかり拝したてまつりたまへるさま、いとよしあり。
(宰相中将、杯を持ちながら、ほんの形ばかり拝舞なさる様子、実に優雅である。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第三十三帖 藤裏葉
 第一章 夕霧の物語 雲居雁との筒井筒の恋実る
  第一段 夕霧と雲居雁の相思相愛の恋
  第二段 三月二十日、極楽寺に詣でる
  第三段 内大臣、夕霧を自邸に招待
  第四段 夕霧、内大臣邸を訪問
  第五段 藤花の宴 結婚を許される
(「菊亭季宣」書の「詞」) → 1.5.8  1.5.9 
  第六段 夕霧、雲居雁の部屋を訪う
  第七段 後朝の文を贈る
  第八段 夕霧と雲居雁の固い夫婦仲
 第二章 光る源氏の物語 明石の姫君の入内
  第一段 紫の上、賀茂の御阿礼に参詣
  第二段 柏木や夕霧たちの雄姿
  第三段 四月二十日過ぎ、明石姫君、東宮に入内
  第四段 紫の上、明石御方と対面する
 第三章 光る源氏の物語 准太上天皇となる
  第一段 源氏、秋に准太上天皇の待遇を得る
  第二段 夕霧夫妻、三条殿に移る
  第三段 内大臣、三条殿を訪問
  第四段 十月二十日過ぎ、六条院行幸
  第五段 六条院行幸の饗宴
  第六段 朱雀院と冷泉帝の和歌

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3689

源氏物語と「藤裏葉」(川村清夫稿)

【 天皇家の皇位継承の歴史には、皇室を離れて臣籍に下った元皇族が皇室に復帰して天皇に即位した前例がある。9世紀末に菅原道真の後援者になって藤原氏を抑え天皇親政を実現した宇多天皇と、彼が臣籍にいた時に生まれた子息で10世紀初めに藤原氏と協調しながら天皇親政を継続した醍醐天皇である。宇多天皇は臣籍にいた間は源定省(さだみ)、醍醐天皇は源維城(これざね)と名乗っていた。

 「藤の裏葉」の帖は、皇室を離れて臣籍に下っていた光源氏が、冷泉帝のはからいで准太上天皇(准上皇)に、内大臣は太政大臣に、夕霧は中納言になって、光源氏一家も内大臣一家も栄華の絶頂を迎える、めでたしめでたし型の帖である。与謝野晶子は、紫式部が書いた源氏物語は「藤の裏葉」までで、「若菜」の帖以降は娘の大弐三位が書いたと考えている。それでは光源氏が准太上天皇になる場面を、大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
明けむ年、四十になりたまふ。御賀のことを、朝廷よりはじめてたてまつりて、大きなる世のいそぎなり。

その秋、太上天皇に准らふ御位得たまうて、御封加はり、年官年爵など、皆添ひたまふ。かからでも、世の御心に叶はぬことなけれど、なほめづらしかりける昔の例を改めで、院司どもなどなり、さまことにいつくしうなり添ひたまへば、内裏に参りたまふべきこと、難かるべきをぞ、かつ思しける。

かくても、なほ飽かず帝は思して、世の中を憚りて、位をえ譲りきこえぬことをなむ、朝夕の御嘆きぐさなりける。

(渋谷現代語訳)
明年、四十歳におなりになる。御賀のことを、朝廷をお初め申して、大変な世を挙げてのご準備である。

その年の秋、太上天皇に準じる御待遇をお受けになって、御封が増加し、年官や年爵など、全部お加わりになる。そうでなくても、世の中でご希望通りにならないことはないのが、やはりめったになかった昔の例を踏襲して、院司たちが任命され、各段に威儀厳めしくおなりになったので、宮中に参内なさることが、難しいだろうことを、一方では残念にお思いであった。

それでも、なおも物足りなく帝はお思ひあそばして、世間に遠慮して、皇位をお譲り申し上げられないことが、朝夕のお嘆きの種であった。

(ウェイリー英訳)
Next year would see his fortieth birthday, and he heard that both at Court and in the country at large great preparation were afoot for celebrating this event. Already in the autumn of the present year he was proclaimed equal in rank to an Imperial parent, and his fiefs and patronage were correspondingly increased. His actual power had for a long time past been absolute and complete, so that these changes brought him no great advantage. Indeed, in one respect they were inconvenient; for in defiance of a very well-established precedent he was burdened with the special retinue of his new rank, which, magnificent though it made his public appearances, rendered his comings and goings in the Palace very burdensome, and he was no longer able to meet the Emperor so often as he desired.

Ryozen still felt acutely the illegality of his own position and would at any moment have been prepared to resign the Throne, had not Genji refused to sanction such a step, pointing out that it would have a disastrous effect on public opinion if it became known that the true line of succession had been impaired.

(サイデンステッカー英訳)
Genji would be forty next year. Preparations were already under way at court and elsewhere to celebrate the event. In the autumn he was accorded benefices equivalent to those of a retired emperor. His life had seemed full enough already and he would have preferred to decline the honor. All the old precedents were followed, and he was so hemmed in by retainers and formalities that it became almost impossible for him to go to court. The emperor had his own secret reason for dissatisfaction: public opinion apparently would not permit him to abdicate in favor of Genji.

 この場面は源氏物語における重要な場面なのだが、ウェイリー訳はいささか冗漫で、サイデンステッカー訳は簡潔だがそっけない翻訳をしている。「太上天皇に准らふ御位」を、ウェイリーはequal in rank to an Imperial parentと訳しているが、桐壺帝と同じ「天皇」の意味になってしまい、誤訳である。サイデンステッカーはbenefices equivalent to those of a retired emperorと訳している。彼によれば「太上天皇」はretired emperorである.「なほめづらしかりける昔の例」とは、一度臣籍に下りながら皇室に復帰して即位した、宇多天皇と醍醐天皇のことである。これをウェイリーはa very well-established precendentと、サイデンステッカーはall the old precedentsと訳している。サイデンステッカーはこの箇所に註釈を設けてIt is interesting to note that there were no real precedentsと書いている。彼は元皇族が天皇に即位した、歴史的事実を知らないようである。ウェイリーは「冷泉帝」を、間違えてRyozenと表記している。日本の古典文学を正確に翻訳するためには、日本史に関する十分な知識が必要なのである。

 光源氏の栄耀栄華は「藤の裏葉」の帖までで、この後に続く「若菜」の帖から光源氏の運勢は暗転してゆくのである。      】

(「三藐院ファンタジー」その二十三)

https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E4%BB%8A%E5%87%BA%E5%B7%9D%E5%AE%B6%EF%BC%8F%E8%8F%8A%E4%BA%AD%E5%AE%B6%EF%BC%88%E6%B8%85%E8%8F%AF%E5%AE%B6%EF%BC%89

今出川経季(→ 菊亭季宣 )
生没年:1594-1652
父:権中納言 今出川季持
初名:宣季
1598 従五位下
1604 従五位上
1604 侍従
1607 正五位下
1608 従四位下
1611 従四位上
1611 左近衛少将
1612 正四位下
1612 左近衛中将
1613 従三位
1614 権中納言
1614 踏歌外弁
1616 正三位
1619-1627 権大納言
1620 従二位
1628 正二位
1638-1639 権大納言
1638-1639 右近衛大将
1644 武家伝奏
1649 院別当
1652 右大臣
妻:(父:氏家行広、義父:若狭小浜藩初代藩主 京極高次)

公嗣

(養子)春照院(父:西園寺実晴)
1638-1697 (養子)公規
今出川公規

 「源氏物語画帖」の筆者の「菊亭季宣」は、別姓が「今出川」で、「故実拾要によると、大納言の時までは、菊亭を称し、大臣以後に今出川を称するのだという。 明治以降、菊亭に改姓」と、下記のアドレスでは紹介されている。また、その名の「季宣」は、「今出川(菊亭)経季(宣季)」の「初名」のようである。

https://geocity1.com/okugesan_com/imadegawa.htm#google_vignette

 「菊亭(今出川)家」は、大臣・大将を兼ねて太政大臣になることのできる七家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・菊亭)の「精華家」の一つで、最上位の「五摂家」(近衛・鷹司・九条・二条・一条)に次いで、「大臣家」の上の序列に位置する。
 この「菊亭(今出川)家」の「今出川経季(菊亭宣季・季宣)」関連については、その祖父「今出川(菊亭)晴季」に関する、次のアドレスの「今出川晴季伝―豊臣・徳川政権交替期を生きた一人物―(松原一義稿)」が参考となる。

https://kokubunken.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=21&item_id=2073&item_no=1

 この論稿では、「慶長九(一六〇四) 宣季(季持の遺児)侍従、元服、禁色昇殿」などと紹介されているが、季宣〈宣季〉の父「季持」は早世して、「菊亭(菊亭)家」は、祖父・晴季(その前年に内大臣を辞去)から孫・季宣(宣季)へと、実質的に継受されたということを意味しよう。
 そして、この「晴季」に関しては、上記論稿で紹介されている年譜の、次の記事のように、「豊臣秀吉の関白就任・豊臣秀次追放・自殺と一族集団処刑」など、当時の大きなドラマと深く関わっている。

「天正十三(一五八六) 晴季、右大臣。内大臣、秀吉を案内して参内ついで、関白職を斡旋。
文禄四(一五九五) 秀吉、秀次を高野山に追う。秀次室(一の台)他、子女、女房を処刑。晴季も越後に左遷される。」

http://fuujinnomon.the-ninja.jp/person09.html

【今出川晴季。今出川家第10代当主。今出川家は琵琶を家職とした。居所から今出川、菊花を愛したことから菊亭と称されたという。豊臣秀吉を関白太政大臣にするために周旋した。秀吉は織田信長亡き後の政権を握るため、織田氏に負けない身分がほしかった。そのため、前将軍足利義昭の猶子(養子)となり征夷大将軍の位を請うたが、義昭に拒絶され為す術を失っていた。同じ頃朝廷では、二条昭実と近衛信尹(のぶただ)が関白太政大臣の位を争っていた。この機に乗じた晴季は、前関白の近衛前久(さきひさ)に図り、秀吉を前久の猶子とさせ関白職を譲らせた。この同じ年(天正13年/1585年)、晴季は従一位に叙せられる。ところが、文禄4年(1595年)に秀吉の甥であり関白職にあった豊臣秀次が失脚すると、娘を秀次に嫁していた晴季も連座し、越後に流罪となってしまう。しかし翌慶長元年には赦されて帰京。秀吉没後の慶長3年(1598年)に右大臣に還補された。慶長8年(1603年)右大臣を辞任。大坂の陣の2年後の元和3年(1617年)薨去する。 】

 これらの記述からして、「近衛家」(近衛信尹)と「菊亭家」(菊亭晴季)との確執は根深いものがあったであろうが、慶長十九年(一六一四)に信尹が亡くなり、そして、晴季も元和三年(一六一七)に没しており、この「源氏物語画帖」の「詞書」の制作時期の、「慶長十九年(一六一四)以前より始まり、元和三年(一六一七)の頃に一応の完成を見て、最終的に元和五年(一六一九)の頃に完成した」(『源氏物語画帖(京都国立博物館蔵))・勉誠社』所収「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」)と、菊亭季宣(宣季)が、この画帖の筆者になっていることは、「近衛家」(信尋)と「菊亭家」(季宣・宣季)との和解をも意味しているように思われる。
 なお、源氏物語画帖」筆者(詞書)関連の「堂上公家」は、下記(参考)のとおりである。

(参考) 「源氏物語画帖」筆者(詞書)関連の「堂上公家」

堂上家一覧一.jpg

堂上家一覧二.jpg


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%82%E4%B8%8A%E5%AE%B6
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